邴原 曹操にも思い通りにならない男
邴原(へいげん)字は根矩(こんく)
青州北海郡朱虚県の人(??~??)
魏の臣。
若い頃、管寧(かんねい)とともに品行高潔で名高く、州から招聘されたが応じなかった。(『邴原伝』)
管寧・王烈(おうれつ)と並び称され、当時は王烈の名声が勝った。
管寧とは親友で、ともに留学し陳寔(ちんしょく)に学んだ。(『管寧伝』)
華歆(かきん)・邴原・管寧は親密で、人々に「一龍」と呼ばれ、華歆が龍の頭、邴原が腹、管寧が尾とされた。
(※裴松之はそれぞれの優秀さを挙げ、この譬えで優劣を決めるべきではないと言う)(『華歆伝』)
黄巾の乱が起こると疎開し山中に住んだ。北海太守の孔融(こうゆう)に推挙されたが、遼東へ管寧・王烈・国淵(こくえん)らとともに移り、太守の公孫度(こうそんど)に歓迎された。(『邴原伝』・『管寧伝』・『国淵伝』)
後漢に仕える鄭泰(ていたい)は、内から董卓の力を削ごうとし、軍備増強に反対した。董卓が不機嫌になると長広舌で弁解し、その中で「東では鄭玄(じょうげん)が学識を慕われ、邴原は高潔誠実で人々の模範です」と評した。(『鄭渾伝』)
孔融は王脩(おうしゅう)を孝廉に推挙したが、王脩は辞退し邴原に譲ろうとした。孔融は「邴原の立派さは承知している。だが彼は位階を気にしない。今すぐ取り立てず、後任の太守のために残しておこう」と言い、重ねて王脩を推挙した。(『王脩伝』)
邴原は同郷の劉政(りゅうせい)とともに武略勇気を称えられた。
公孫度は劉政を殺そうとして家族を逮捕し、劉政だけが逃げ延びた。公孫度は匿う者も同罪だと布告したが、邴原は彼を庇護した。同郡にいた太史慈が帰郷するので、劉政を預けて逃がすと、邴原は公孫度へ「あなたは劉政を恐れていたから殺そうとしました。そんな恐ろしい彼に報復を考えさせるべきではない」と説いて家族を釈放させ、故郷までの旅費を渡した。
遼東で一年余り過ぎると、彼を慕い数百件が近くに居を構え、学問を学びたいと訪ねる者が絶えなかった。
後に曹操に招聘され司空掾となった。
208年、曹操は溺愛していた息子の曹沖(そうちゅう)が没すると、同時期に没した邴原の娘と合葬したいと申し入れたが、礼に外れているとして断った。
210年、丞相懲事が初めて設置され、邴原と王烈が任命された。(※『管寧伝』によると王烈は断った)
東曹掾の崔琰(さいえん)は官を辞すにあたり邴原と張範(ちょうはん)を後任に推薦した。
涼茂(りょうぼう)の後任として五官中郎将の長史になると、他者と交友せず公務以外で外出しなかった。(『邴原伝』)
曹操は遠征に出る時、邴原と張範を留守に残し、曹丕には必ず二人に相談するよう言い置き、曹丕は子や孫として礼を尽くした。(『張範伝』)
呉の征伐に随行し、中途で亡くなった。(『邴原伝』)
子孫の邴春(へいしゅん)も節倹を重んじ、邴原を継ぐ者と評価された。だが王脩の孫の王襃(おうほう)は「妥協しない性格で名声を求めすぎるから大成しない」と評し、的中させた。(『王脩伝』)
陳寿は同伝に記した袁渙(えんかん)・邴原・張範を「清潔な生き方を実践し、出処進退は道義に基づいていた。貢禹・龔勝・龔舎(※春秋・前漢の高潔な名士)の仲間である」と称え、涼茂・国淵は彼らに次ぐと評した。
正史の記述は以上だが「邴原別伝」に裏話や詳細が書かれている。家伝のため誇張も多いが、以下に記す。
11歳の時に父を亡くし困窮した。隣家の寺子屋の主は泣いている邴原を見つけ理由を問うと「孤児は傷つきやすく貧乏は感じやすい。勉学のできる者には父がおり、私には勉学も父も無いのが悲しい」と答え、哀れに思った主は月謝無しで彼を寺子屋に迎えた。
邴原はたちまち頭角を現し、一冬の間に「孝経」と「論語」を暗誦できるようになった。
成長した邴原は孫崧(そんしょう)に師事しようとした。孫崧は「君は鄭玄を知っているか」と問い、邴原がうなずくと「隣家に孔子がいるのになぜ私に師事するのだ」と重ねて問うた。
邴原は「人の希望はそれぞれ違うものです。山の者に海の深さはわからず、海の者に山の高さはわからないわけではありません。あなたこそ私を隣家の愚者と思っているのではありませんか」と言った。
孫崧はそれでも師事を断ったが、代わりに書物を分け与えた。
邴原は「師弟は気高い思想で通じ合うもので、分け与えることで成立するただの交際とは違う」と考え、受け取った書物をしまい込み、旅に出た。
8~9年に渡り一人で行脚し、各地で韓卓(かんたく)、陳寔、范滂(はんぼう)、盧植(ろしょく)らと交友した。彼らは別れに臨み、酒を飲まない邴原のために米や肉を贈ったが「学業に差し障るので酒は断っていましたが、私のために酒宴を催してくださるならいただきます」と酒盃を交わし、一日中飲んでも全く酔わなかった。
旅を終えた邴原は孫崧に書物を返却し、心中を明かした。
孔融は公卿に任命されるほどの逸材を登用するよう呼びかけ、鄭玄・彭璆(ほうきゅう)・邴原が取り立てられた。
ある時、孔融が目を掛けていた人物を突如として殺そうとした。皆が命乞いする中、邴原だけはなぜ殺そうとするのか意味がわからないと頭を下げず、孔融の説明にも納得しなかった。
やがて冗談だと明かされると「君子の言葉は人民に影響を与えます。言葉と行動は君子の要です。人を殺すという冗談を言っていい世界がどこにあるでしょう」と言い、孔融は言葉もなかった。
邴原は賄賂の横行に嫌気が差し、家族を連れて山に移り住んだ。
孔融に推挙されたが断り、遼東へ移住した。
当地では虎の被害が多かったが邴原の(徳が高く)村落だけは虎が出なかった。
ある時、邴原は道に落ちた銭を拾い、木の枝に乗せた。人々もそれに倣い、やがて神木だという噂が立った。邴原は淫祠を作ってしまったことを嫌い、辞めさせた。人々は集まった銭を供物に使った。
帰郷しようとし途中まで進んだが再び孔融に招かれ、遼東へ引き返した。
十余年が経ち、ついに帰郷した。公孫度は追おうとしたが間に合わないと悟ると「邴原は雲中を飛ぶ白鶴だ」と嘆息した。
邴原は郷里で教鞭をとり、門生は数百人、彼の道義に帰伏する者は数十人に上った。当時、学問を求める者は鄭玄のもとへ、道徳を求める者は邴原のもとへ集い、青州に鄭・邴の学問ありとうたわれた。
曹操は邴原を招き東閤祭酒に任命した。
北方へ遠征した帰り、曹操は酒宴を開き「留守を任せた人々は全員が出迎えに来るだろう。来ないとしたら邴原だけだ」と言うやいなや、真っ先に邴原が現れた。曹操は大喜びして逆に自分が出迎えた。
面会を終えると、同席していた士大夫が数百人も邴原へ挨拶に出向いた。
曹操は不思議がり理由を荀彧に尋ねた。「邴原に会えればそれで充分だからです。彼は一代の人物で士人の精華です。礼を尽くして待遇してください」と言われ、曹操も同意した。
邴原は重職を歴任したが、病気がちで実務はできなかった。
曹操は邴原と敬愛しあっている張範へ「邴原は名も徳も高く、清らかな規範は社会をも超越し、私の思い通りにもならない。あなたも邴原に学ぼうとし、彼の域にまで到達すれば富むが、追随する者は貧しくなるだろう」と行く末を懸念した。
曹丕が五官中郎将となり後継者に目されると、人々はこぞって交友を求めたが、邴原だけは与しなかった。
曹操は彼を曹丕の長史に任じ「曹丕が欲望に屈服しないよう遠慮せず正してくれ」と命じた。
ある時、曹丕は酒宴を開き「主君と父親が重病にかかった。薬が一人分だけある時どちらを助けるか」と問題を出した。人々が激論を交わす中、邴原は参加しなかった。だが曹丕に回答を求められると「父です」と即答した。(『邴原伝』)
「演義」には管寧・華歆とともに龍にたとえられたことだけ記される。
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