穆皇后 劉備の皇后
穆皇后(ぼくこうごう)名は不明
兗州陳留郡の人(??~245)
劉備の皇后。
呉懿(ごい)の妹で、本姓は呉氏。
幼くして父を失い、父の旧友の劉焉(りゅうえん)が益州牧になると、呉一族はそれに従い益州へ移住した。
人相見が彼女を見て「高貴な身分に上る」と言ったため、野心ある劉焉は子の劉瑁(りゅうぼう)の嫁に迎えた。(『穆皇后伝』)
だが劉瑁は208年頃に亡くなり未亡人になった。(『劉璋伝』)
214年、劉備が益州を制圧した。正室の孫夫人(孫尚香)が帰国したため、群臣は穆皇后をめとるよう勧めた。劉備は前夫の劉瑁が同族なのを渋ったが、法正(ほうせい)の説得もあり正室に迎えた。
219年、劉備が漢中王に即位すると漢中王后に、221年に帝位につくと皇后に立てられた。
223年、劉備が没したため皇太后となり、長楽宮と称した。(『穆皇后伝』)
234年、重臣の劉琰(りゅうえん)の妻の胡氏(こし)が年賀の挨拶に出向くと、穆太后は彼女を宮中に1ヶ月留め置いた。
胡氏は美人だったため、劉琰は彼女が劉禅と密通したとあらぬ疑いを掛け、吏卒に命じて鞭打たせた。さらに自ら草履で顔を殴って離縁を言い渡した。
胡氏が事細かに告訴したため、劉琰は投獄された。司直は「吏卒は主君の妻を鞭打つべきではないし、顔は草履を受ける場所ではない」ともっともな意見を具申し、劉琰は公開処刑された。
その後、(誤解を避けるため)大官の妻や母が参内する風習は絶えた。(『劉琰伝』)
245年に没し(※穆と諡され)、劉備とともに合葬された。(『穆皇后伝』)
「演義」では呉氏(ごし)の名で登場。劉永(りゅうえい)・劉理(りゅうり)の実母に設定された。(※正史では母は不明)
また魏延が反乱し、楊儀(ようぎ)と互いを謀叛人と言い合った際には「諸葛亮は魏延に反骨の相があると話していた」と劉禅にアドバイスした。
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