三国志 ほ 2


龐曾  龐淯の子


龐曾(ほうそう)字は不明
涼州酒泉郡表氏県の人(??~??)

魏の臣。
龐淯(ほういく)の子。

父が没すると後を継いだ。(『龐淯伝』)



龐迪  邴原以後で清潔賢明さで評判を上げる


龐迪(ほうてき)字は不明
雍州扶風郡の人(??~??)

魏の臣。

邴原(へいげん)以後では張泰(ちょうたい)・龐迪が清潔賢明さで評判を上げ、張閣(ちょうかく)が簡素質朴さで有名だった。
龐迪は河南尹に上った。(『邴原伝』)



龐統  墜ちた鳳雛


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龐徳  豪傑生きるべきか死すべきか


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龐徳公


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龐林  妻子と運命の別れ、そして再会


龐林(ほうりん)字は不明
荊州襄陽郡の人(??~??)

蜀、後に魏の臣。
龐統の弟。

兄に次ぐ名声があった習禎(しゅうてい)の妹をめとった。
だが208年、荊州が曹操に制圧されると、龐林は(※劉備に仕えていたため?)妻子と離れ離れになった。
妻は幼い娘を一人で育てた。

222年、夷陵の戦いに荊州治中従事として黄権(こうけん)のもとで従軍した。
しかし蜀軍は大敗し、孤立した黄権は龐林とともに魏へ投降した。
龐林は14年ぶりに妻子と再会し、話を聞いた曹丕は賢婦だと讃え、家具や衣服を下賜した。

龐林は列侯され、鉅鹿太守まで上った。(『龐統伝』)



卜己  皇甫嵩に討伐された東郡の黄巾賊


卜己(ぼくき)字は不明
兗州東郡の人?(??~184)

黄巾賊。
名は卜巳(ぼくし)とも。

184年、皇甫嵩(こうほすう)は東郡の黄巾賊の卜己を生け捕りにし、7千人を斬首した。(『後漢書 皇甫嵩伝』)

「続漢書」に曰く、傅燮(ふしょう)・皇甫嵩は卜巳・張伯(ちょうはく)・梁仲寧(りょうちゅうねい)ら3人の頭目を討ち取った。(『後漢書 傅燮伝』)



卜清  陸遜と一時並んでいた


卜清(ぼくせい)字は玄風(げんふう)
揚州呉郡の人(??~??)

呉の臣。
名は卜静とも書かれる。(『吾粲伝』)

顧邵(こしょう)は若くして陸績(りくせき)と並び称され、名声では陸遜や張敦(ちょうとん)、卜清に勝った。

卜清は会稽郡の県令で終わった。(『顧邵伝』)

しかし徐陵(じょりょう)が没した時、駱統(らくとう)は「丁覧(ていらん)や卜清のように遺族を厚遇して欲しい」と訴えており(『虞翻伝』)、将来を嘱望されながら早逝し、遺族を保護された徐陵・丁覧らと同様に期待されていたことがうかがえる。



卜賁邑


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攴胡赤児  牛輔を裏切った寵臣


攴胡赤児(ほくこせきじ)字は不明
出身地不明(??~??)

董卓の娘婿の牛輔(ぎゅうほ)の臣。

原文には「友胡赤児」と記されるが誤りと見られる。
攴胡という胡族がおり、攴胡族の赤児という名の人物か。

192年、董卓が呂布に暗殺されると、牛輔の陣営で反乱が起きた。牛輔は全軍が裏切ったと思い込み、財産を持って攴胡赤児ら信頼する者5~6人とともに逃げたが、財産に目がくらんだ攴胡赤児らは牛輔を殺し、その首を長安の都へ送った。(『董卓伝』)

「献帝紀」に曰く。
攴胡赤児らは過分な厚遇を受け財宝を身に着けていた。牛輔に「城外に騎馬を用意したので逃げて下さい」と言い、縄で吊るして下ろそうとしたが、途中で手を離して落下させ、身動きできない牛輔を殺し、首を都へ送った。(『後漢書 董卓伝』)

「演義」では胡赤児に略される。牛輔の首を差し出したが、裏切りを知った呂布に殺された。

典韋を死に追いやった胡車児(こしゃじ)とそっくりな名だが関係は不明である。



北宮伯玉


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穆皇后  劉備の皇后


穆皇后(ぼくこうごう)名は不明
兗州陳留郡の人(??~245)

劉備の皇后。
呉懿(ごい)の妹で、本姓は呉氏。

幼くして父を失い、父の旧友の劉焉(りゅうえん)が益州牧になると、呉一族はそれに従い益州へ移住した。
人相見が彼女を見て「高貴な身分に上る」と言ったため、野心ある劉焉は子の劉瑁(りゅうぼう)の嫁に迎えた。(『穆皇后伝』)
だが劉瑁は208年頃に亡くなり未亡人になった。(『劉璋伝』)

214年、劉備が益州を制圧した。正室の孫夫人(孫尚香)が帰国したため、群臣は穆皇后をめとるよう勧めた。劉備は前夫の劉瑁が同族なのを渋ったが、法正(ほうせい)の説得もあり正室に迎えた。

219年、劉備が漢中王に即位すると漢中王后に、221年に帝位につくと皇后に立てられた。
223年、劉備が没したため皇太后となり、長楽宮と称した。(『穆皇后伝』)

234年、重臣の劉琰(りゅうえん)の妻の胡氏(こし)が年賀の挨拶に出向くと、穆太后は彼女を宮中に1ヶ月留め置いた。
胡氏は美人だったため、劉琰は彼女が劉禅と密通したとあらぬ疑いを掛け、吏卒に命じて鞭打たせた。さらに自ら草履で顔を殴って離縁を言い渡した。
胡氏が事細かに告訴したため、劉琰は投獄された。司直は「吏卒は主君の妻を鞭打つべきではないし、顔は草履を受ける場所ではない」ともっともな意見を具申し、劉琰は公開処刑された。
その後、(誤解を避けるため)大官の妻や母が参内する風習は絶えた。(『劉琰伝』)

245年に没し(※穆と諡され)、劉備とともに合葬された。(『穆皇后伝』)

「演義」では呉氏(ごし)の名で登場。劉永(りゅうえい)・劉理(りゅうり)の実母に設定された。(※正史では母は不明)
また魏延が反乱し、楊儀(ようぎ)と互いを謀叛人と言い合った際には「諸葛亮は魏延に反骨の相があると話していた」と劉禅にアドバイスした。



濮陽逸  濮陽興の父


濮陽逸(ぼくよういつ)字は不明
兗州陳留郡の人(??~??)

呉の臣。

220年、戦乱を避けて江東へ移住した。(『濮陽興伝』)

陸瑁(りくぼう)は若い頃から義に厚く、家の後ろ盾を捨て、陳融(ちんゆう)、濮陽逸、蒋纂(しょうさん)、袁迪(えんてき)ら清貧の士を招き彼らと苦楽をともにした。(『陸瑁伝』)

濮陽逸は長沙太守に上り、子の濮陽興(ぼくようこう)は孫休(そんきゅう)の寵愛を得て丞相にまで上った。(『濮陽興伝』)



濮陽王  阮柯が仕えた王


濮陽王(ぼくようおう)名は不明
司隷河内郡温県の人(??~??)

司馬炎の一族。

「兗州記」に曰く。
阮柯(げんか)は広い学識を持ち、濮陽王(ぼくようおう)の文学に選ばれた。(『杜畿伝』)

濮陽王の素性は不明である。



濮陽闓


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濮陽興  無能丞相


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