裴潜 国の柱石
裴潜(はいせん)字は文行(ぶんこう)
司隷河東郡聞喜県の人(??~244)
魏の臣。
裴茂(はいぼう)の子。
父は李傕(りかく)を討ち取り列侯された人物だが、裴潜は母の身分が低く、自身も礼を重んじなかったため父にはぞんざいに扱われた。
そのため後漢に仕えていた父とは行動をともにせず、見返そうと発奮して官途に付いた。
戦乱を避けて荊州へ移住し、州牧の劉表(りゅうひょう)に賓客として迎えられた。だが親しくしていた王粲(おうさん)・司馬芝(しばし)へ「劉表は覇者の器ではないのに覇者になろうとしており、失敗は遠くない」と言い、南の長沙郡へ移った。(『裴潜伝』)
傅巽(ふそん)は荊州にいた頃、「龐統は不完全な英雄で、裴潜は清潔な品行により名を上げるだろう」と評した。(『劉表伝』)
208年、曹操が荊州を制圧すると参丞相軍事に招かれた。三県の県令を務め、都に上り倉曹属となった。曹操に劉備の人物を聞かれ「中央では世を乱すだけですが、要害を守れば地方の主にはなれるでしょう」と答えており、後の蜀建国を予見したとも言える。
当時、代郡が三人の烏丸の単于(王)によりひどく荒らされていたため、曹操は裴潜を太守に任じ、精鋭を与え統治させようとした。だが裴潜は「代郡の人口は多く兵は1万を超えます。烏丸は長期に渡り勝手放題しており、内心では討伐を恐れています。もし大軍を引き連れていけば必ずや抵抗されるでしょう。計画によって彼らを始末するべきで、武威をもって圧力を掛けるべきではありません」と言い、一台の車だけで赴任した。
これを聞いた単于は感嘆し、地面に額を付けて謝罪し、略奪した人や品々を全て返還した。潜はさらに郡内で烏丸と結託していた郝温(かくおん)、郭端(かくたん)ら汚職役人を一掃し民衆からも支持された。
3年後、丞相理曹属として都に召還されたが「私が烏丸に峻厳に対した分、後任者は寛大に接するでしょう。寛大にした後に締め付ければ必ず謀叛します」と後任の失敗を予測した。曹操は呼び戻すのが早すぎたと後悔したが、数十日もせずに三人の単于が反乱したという急報が届き、曹彰(そうしょう)を征伐に向かわせた。
沛国相、兗州刺史を歴任した。曹操は裴潜の陣営がきっちりしているのに感心し、賞賜を与えた。
清潔・質素を心がけ任地には妻子を伴わなかったため、残された妻子は貧窮し野草を採って暮らしていた。
兗州刺史の時でさえ裴潜は自ら椅子を作り、任地を離れるときにはそれを置いて行った。
朝廷に仕える父の顔を立て、都では幌馬車を使ったが、地方には徒歩で移動した。家人にも倹約させ、食事は2~3日に1度のことさえあった。慎ましさでは魏国で彼に並ぶ者は少なかった。
だが広い才能と気品ある容貌を持ちながら、人材を推挙することは無かったため、人々は清廉潔白さを尊重したが、他の面はあまり評価しなかった。(『裴潜伝』)
219年、孫権が合肥を攻めると、揚州刺史の温恢(おんかい)は兗州刺史の裴潜に「合肥よりも荊州が心配だ。川の水かさが増えているのに曹仁は孤立し、危機に気づいていない。関羽に攻められれば一大事だ」と話した。果たして曹仁は関羽に樊城を包囲され窮地に陥った。
曹操は詔勅を下し、裴潜と豫州刺史の呂貢(りょこう)を呼び寄せたが、ゆっくり来るよう言いつけた。温恢はこれを陽動と見抜き「民衆を動揺させないための手立てで、すぐ荊州へ転進するよう命令が来るはずだ。張遼らにも同じ命令が下るだろうが、彼らもきっと気づいている。彼らに後れを取れば、君は咎められるぞ」と裴潜に忠告した。
果たしてすぐに転進の命令が届いたが、裴潜は忠告を聞き入れ輜重隊を減らし軽装兵を中心に編成していたためすぐに駆けつけられ、面目を保った。(『温恢伝』)
220年、曹丕が帝位につくと都に戻され散騎常侍となり、後に魏郡・潁川の典農中郎将を務めた。太守と同等の人材推挙の権利を求め、これを認めさせ農政官の昇進ルートを広げた。
荊州刺史に転任し、関内侯に封じられた。(『裴潜伝』)
荊州刺史の裴潜は州泰(しゅうたい)を従事に取り立て、宛城に駐屯する司馬懿のもとへ、たびたび使いに出した。そのため司馬懿は州泰を気に入り、後に重用するようになった。(『鄧艾伝』)
226年、曹叡が帝位につくと尚書となったが、その後も河南尹、太尉軍師、大司農と転任し内外で重用された。
清陽亭侯に進み領邑200戸を賜り、尚書令になると150ヶ条を超える上奏文を出し政治を正した。
父の喪に服すため官を離れ、光禄大夫に任じられた。
次の三公になると誰もが考えたが、244年に病没した。
太常を追贈され、貞侯と諡された。葬儀は簡素にするよう遺言し、墓の中には台座と器が1つあるだけだった。
子の裴秀(はいしゅう)が後を継ぎ、彼も「晋書」に列伝される名臣となった。
魚豢(ぎょかん)は「魏略」に列伝し「梁習(りょうしゅう)・趙儼(ちょうげん)・裴潜は張既(ちょうき)・楊俊(ようしゅん)には及ばないが、自己を抑制し、老いていよいよ明知を発揮したのは簡単にできることではない」と称えた。(『裴潜伝』)
陳寿は「常に平常心で、国の柱石であった」と評した。
「演義」には登場しない。
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