三国志 は 1


巴祇  趙昱を激賞するも固辞される


巴祇(はぎ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

莒県長に赴任した趙昱(ちょういく)の政治は琅邪国の模範となり、黄巾の乱に際しての徴兵の処置も第一等と評価された。
徐州刺史の巴祇は最高の功績があると上奏し昇進を約束されたが、趙昱はそれを恥じ官を辞して郷里へ帰った。

後任の徐州刺史の陶謙(とうけん)は黄巾討伐で名を上げた。(『陶謙伝』)

巴祇は黄巾賊に殺されたか、大敗し罷免されたのだろうか。



波才  親分


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波調  大月氏の王


波調(はちょう)
大月氏の人(??~??)

大月氏(イランのクシャーナ朝)の王。

229年、魏へ朝貢し親魏大月氏王に任じられた。(『明帝紀』)



馬宇  种劭・劉範とともに董卓残党と戦う


馬宇(ばう)字は不明
出身地不明(??~194)

後漢の臣。

侍中を務めた。
192年、馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)が降伏し、韓遂は涼州へ帰らされた。
後に馬宇・种劭(ちゅうしょう)・劉範(りゅうはん)は共謀し、馬騰の兵を招き入れ内から呼応しようとしたが、露見して馬騰は敗走し、馬宇らは樊稠(はんちゅう)に殺された。(『董卓伝』)

「董卓伝」では馬宇が反乱の首謀者に読めるが、「後漢書」に異聞がある。

192年、种劭は重職に任じられたが、父が李傕(りかく)・郭汜(かくし)に殺されていたため「父は国に殉じたが、私は子であり臣下でありながらその復讐も果たせていない。どの面下げて帝に拝謁できようか」と辞退し、馬騰・韓遂・劉範・馬宇らとともに挙兵し、李傕・郭汜と戦った。

194年、郭汜に敗れ种劭らは戦死し、馬騰・韓遂は撤退した。(『後漢書 种劭伝』)

また「劉焉伝」では劉範が首謀者に読め、はっきりしない。(『劉焉伝』)



馬延  袁紹(地味)四天王A


馬延(ばえん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁尚(えんしょう)の臣。

204年、曹操に本拠地の鄴を包囲された袁尚は、自陣も包囲されかかると降伏を申し入れたが拒否された。
袁尚は夜間に逃走したが追撃を受け、配下の馬延・張顗(ちょうぎ)が戦わずして降伏したため総崩れとなった。(『武帝紀』)

「演義」では大幅に出番が増え、同じ降将の張顗・焦触(しょうしょく)・張南(ちょうなん)と四天王のようにセットで行動する。
長坂の戦いでは4人がかりで趙雲を襲うが敗北し、赤壁の戦いで張顗とともに甘寧に討たれた。

「柴錬三国志」では4人まとめて趙雲に殺されたように書かれるが、その後も平然と登場する。



馬和


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馬艾  急逝した敦煌太守


馬艾(ばがい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。(『倉慈伝』)

太守の馬艾が在官のまま没すると、丞(副官)すらいなくなり、功曹の張恭(ちょうきょう)が長史代行として統治していた。
張恭は付近の豪族に息子を人質に捕らえられたが、ひるまず攻撃し、後任の太守を迎え入れた。(『閻温伝』)

その後、倉慈(そうじ)が太守に赴任すると、道理に沿って強きをくじき弱きを助け復興を遂げた。(『倉慈伝』)



馬恢


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馬玩  八旗ヤクザ担当


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馬義


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馬休  馬超の弟A


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馬顒  游楚の指揮下で隴西郡を守る


馬顒(ばぎょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
227年、諸葛亮が北伐の兵を挙げると天水・南安郡の太守は郡を捨てて逃亡した。隴西太守の游楚(ゆうそ)は官民を集めると「諸君に恩恵を施すことができなかった。諸郡の官民は蜀に呼応し、諸君も富貴を得る好機だ。私は太守として死ぬべき道義がある。君達は私の首を獲って蜀軍に降るといい」と言った。
官民はみな涙を流し「死ぬも生きるもあなたとともにします。二心は抱きません」と誓い、游楚は「ならば計略がある。太守を失った天水・南安の官民は蜀軍を連れてくるから、我々は固守するしかない。魏の援軍が来れば助かり、隴西郡を守った功績で富貴を得られる。来なければ私を捕まえて降伏しても遅くない」と言った。
はたして南安郡は蜀軍を迎え隴西郡を攻めた。游楚は蜀軍の指揮官に「隴山を抑え魏の援軍を妨げれば、我々はなすすべなく1月後に降伏する。それができなければ疲弊するだけだ」と告げ、長史の馬顒に攻撃させると、蜀軍は撤退した。
10余日後、魏の援軍は隴山を抑え、諸葛亮は敗走した。
天水・南安郡の太守は重い刑に処されたが、游楚は列侯され、長史ら配下も取り立てられた。(『張既伝』)

この長史は馬顒のことだろう。



馬玉


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馬鈞  三国時代のエジソン


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馬訓  曹爽の滅亡を予知する


馬訓(ばくん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
曹爽(そうそう)は2匹の虎が大椀のような姿の雷神をくわえ、中庭に叩きつける夢を見た。
夢占いに長けた霊台丞の馬訓に尋ねると「兵難に気をつけなさい」と言われた。
馬訓は家に帰ると妻に「曹爽は10日と経たずに兵難で滅びるだろう」と言った。

249年正月、専権を振るう曹爽一派は司馬懿に粛清された。(『曹真伝』)



馬勲  馬斉と並び称される


馬勲(ばくん)字は盛衡(せいこう)
益州巴西郡閬中県の人(??~??)

蜀の臣。

はじめ劉璋(りゅうしょう)に仕え州の書佐を務めた。

214年、劉備に益州が制圧されると左将軍属に任命された。

後に州の別駕従事に転任し、死去した。

同郷の馬斉(ばせい)とともに自らの能力で出世したが、郷里の人からの信頼では姚伷(ようちゅう)に及ばなかった。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で馬斉とともに「胸中を披瀝し、時勢について語った」と評した。(『楊戯伝』)



馬元義  三国志の幕を開いた男


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馬合郷侯  弾棊の名手A


馬合郷侯(ばごうきょうこう)本名は不明
出身地不明(??~??)

弾棊(おはじき)の名手。

「典論」に曰く。
曹丕は「私は弓・馬・剣以外の趣味は少ないが、弾棊は技術を極め、若い頃には賦も作った。
都で昔、馬合郷侯・東方安世(とうほうあんせい)・張公子(ちょうこうし)らが名手として知られたが、対戦できず残念だ」と語った。(『文帝紀』)



馬秋


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馬脩


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馬遵  姜維の元上司


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馬承


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馬相  郤倹を殺害した黄巾賊


馬相(ばしょう)字は不明
益州の人(??~188?)

黄巾賊。

益州刺史を務める郤倹(げきけん)は、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれていた。
188年、賊徒の馬相と趙祇(ちょうし)は黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。1~2日のうちに数千人が集まり、手始めに綿竹県令の李升(りしょう)を殺し、官民を糾合し1万人に膨れ上がった。
さらに雒県を落とし、郤倹を殺害し、1ヶ月のうちに蜀郡・広漢郡・犍為郡を制圧した。馬相は天子を僭称し、勢力は十万を超えた。(※「蜀書」には5桁、「後漢書」には十余万とある)(『劉焉伝』)
さらに巴郡を攻め、太守の趙部(ちょうぶ)を殺した。(『後漢書 劉焉伝』)

だが犍為郡の東にいた賈龍(かりゅう)は1千余りの兵を集めると、数日のうちに馬相・趙祇を撃破し、平定した。
賈龍は赴任できずにいた益州牧の劉焉(りゅうえん)を迎え入れた。(『劉焉伝』)



馬照  曹髦の質問に答えた博士


馬照(ばしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

256年、曹髦は太学へ行幸し「礼記」について質問し、博士の馬照が回答した。(『高貴郷公紀』)



馬謖  泣いて孔明に斬られる


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馬秦


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馬斉  馬勲と並び称される


馬斉(ばせい)字は承伯(しょうはく)
益州巴西郡閬中県の人(??~??)

蜀の臣。

張飛の功曹を務めた。
張飛により劉備に推挙され、尚書郎となった。

建興年間(223~237)、従事丞相掾となり、広漢太守に昇進し、再び参軍を務めた。

234年、諸葛亮の没後に尚書に任じられた。

同郷の馬勲(ばくん)とともに自らの能力で出世したが、郷里の人からの信頼では姚伷(ようちゅう)に及ばなかった。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で馬勲とともに「胸中を披瀝し、時勢について語った」と評した。(『楊戯伝』)



馬台  孫礼の母を助ける


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馬岱  馬超の穴は俺が埋める


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馬忠  関羽を捕らえた男


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馬忠  南方を治めた大人物


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馬超  正義の槍が熱く燃えている


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馬適


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馬鉄  馬超の弟B


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馬騰  孟起よあれが義の星だ


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馬邈  あっさり開城あっさり降伏


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馬普


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馬平


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馬秉


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馬茂


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馬融  爨谷の後任の交阯太守


馬融(ばゆう)字は不明
益州巴西郡の人(??~??)

晋の臣。

263年、交阯郡役人の呂興(りょこう)は反乱し魏に寝返った。(『孫休伝』)

司馬炎は呂興を安南将軍・交阯太守に任命したが、間もなく功曹の李統(りとう)に殺された。
次いで爨谷(さんこく)、馬融を交阯太守に任じたがいずれも早死にし、交阯の混乱は続いた。(『晋書 陶璜伝』)



馬隆  異民族討伐のエキスパート


馬隆(ばりゅう)字は孝興(こうこう)
兗州東平郡平陸県の人(??~??)

魏・晋の将。

若い頃から知勇兼備で、名誉と節義を重んじた。
251年、令狐愚(れいこぐ)が生前に王淩(おうりょう)と企てた謀叛を暴かれ、遺体をさらされると、兗州の官吏の馬隆は不憫に思い、令狐愚の食客を名乗って遺体を引き取り、丁重に弔い、3年の喪に服し、美談と讃えられた。

269年、司馬炎はきたる呉征伐に向け、各地に才能ある将を募り、兗州からは馬隆が推挙された。
278年、鮮卑の禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)が涼州で反乱した。
馬隆は涼州刺史の楊欣(ようきん)は羌族ら異民族の信望を失っているため敗北するだろうと上奏し、的中させた。
翌年、司馬炎は禿髪樹機能を討伐できる者を募った。誰もが尻込みする中、そこに馬隆が名乗りを上げ「身分を問わず3千の兵を選ばせてくれれば、速やかに討伐できる」と豪語した。居並ぶ朝臣は「新たに徴兵する必要はない」と反対したが、司馬炎は許可し武威太守に任じた。
馬隆は36鈞(周代で1鈞は7.6kg。およそ270kgか)の弩、4鈞の弓を引ける者を募り、テストに受かった3500人を選んだ。
そして武器庫に向かったが、ボロボロの中古品しか支給されず担当官と口論になり、弾劾されたものの、司馬炎が仲裁し、3年分の軍需物資を与えた。

禿髪樹機能は、馬隆を待ち伏せし山道で挟み撃ちした。
馬隆は諸葛亮の「八陣図」を参考に、偏箱車(箱のように盾で守られた馬車?)で守備を固め、弓矢で反撃させ、射程範囲の敵は全滅した。
さらに鮮卑の兵が重装備なことに目を付け、磁鉄鉱(天然磁石)で足止めし、革装備の兵に襲わせた。鮮卑は動きを封じられ、一方で自由に動き回る相手を神兵と恐れた。

馬隆が出陣した後、しばらく戦況が伝わらなかったため朝臣は戦死したと思っていたが、吉報がもたらされると司馬炎は大いに喜び「諸君の言う通りに馬隆を罷免していたら、涼州と秦州は陥落していただろう」と皮肉った。

快進撃を続けた馬隆が武威に到着した頃には大勢は決し、鮮卑の部族を率いる猝跋韓(そつばつかん)・且万能(しょばんのう)らは1万の部落を率い降伏した。禿髪樹機能も配下の没骨能(ぼつこつのう)に殺され、反乱は平定された。
朝廷では出陣前に爵位を与えられた馬隆とその配下に、新たに恩賞を与えるべきか意見が分かれたが、楊珧(ようちょう)がこれだけの戦果を挙げたのだから前の爵位など問題にならないと主張し、司馬炎も同意した。

280年頃、西平郡が異民族の脅威にさらされ荒廃していたため、馬隆が西平太守に赴任した。異民族は要害を固め警戒したが、馬隆は兵に農作業を行わせて油断させ、隙をついて一気に討伐した。任期が終わる頃には西平郡は復興を遂げた。

290年頃、略陽太守の厳舒(げんじょ)は、馬隆の後任の座をうかがい「馬隆は耄碌して軍務にふさわしくない」と讒言した。
馬隆は任を解かれ、厳舒はまんまと後任になったが、すぐさま異民族が反乱し、混乱が起こった。
朝廷はすぐに厳舒を罷免し、馬隆を復職させると、異民族は彼を恐れ鳴りを潜めた。

馬隆は在職のまま没した。
子の馬咸(ばかん)も父譲りの勇猛さだった。(『晋書 馬隆伝』)



馬良  馬氏の五常、白眉最もよし


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馬朗  二人の棊聖


馬朗(ばろう)字は綏明(すいめい)
出身地不明(??~??)

呉の臣?

葛洪(かつこう)は「抱朴子」で「常人の及ばない技量の持ち主を「聖」と呼ぶ。厳武(げんぶ)と馬綏明は棊聖(棋聖)の名をほしいままにしている」と記した。(『抱朴子』)

厳武は囲棊(囲碁)の名手で「八絶」の一人に数えられる。(『趙達伝』)



貝羽  劉表に逆らった華容県長


貝羽(ばいう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の華容県長。

劉表(りゅうひょう)が荊州牧に赴任した時、周囲は敵に囲まれ、蘇代(そだい)、貝羽ら太守や県長も兵を頼みに命令に服さなかった。劉表は蒯越(かいえつ)らを招き対策を協議した。

蒯越は「戦の趨勢は兵力ではなく人物の優劣にかかっています。袁術(えんじゅつ)は武勇がありますが決断力がなく、蘇代や貝羽は一介の軍人で問題になりません」と言った。

劉表は蒯越の策に従い、敵に利益をちらつかせ誘いに乗った55人を斬り殺し、動揺したその配下を一気に突き崩した。
蘇代・貝羽の消息は不明である。(『劉表伝』)



梅頤


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梅乾  陳蘭・雷緒のマブダチ


梅乾(ばいけん)字は不明
揚州廬江郡の人?(??~209?)

廬江の賊徒。

200年、廬江太守の李術(りじゅつ)が揚州刺史の厳象(げんしょう)を殺し孫権に反乱すると、それに同調し陳蘭(ちんらん)・雷緒(らいしょ)・梅乾らが数万の兵を率いて挙兵し、長江流域を荒らし回った。
曹操が後任の揚州刺史として劉馥(りゅうふく)を合肥に送り、李術も速やかに討伐されると、梅乾らは劉馥に帰順した。(『劉馥伝』・『孫策伝』)

その後、消息が途絶えるが入れ替わりに梅成(ばいせい)という同姓の人物が現れ、一族か同一人物と思われる。

209年、曹操は張遼・于禁らに命じて討伐させ、陳蘭・雷緒・梅成を撃破した。(『張遼伝』)



梅成


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梅敷


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梅平


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裴越


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裴楷  裴徽の高名な三男


裴楷(はいかい)字は叔則(しゅくそく)
司隷河東郡聞喜県の人(??~??)

魏・晋の臣。
裴徽(はいき)の三男。裴潜(はいせん)の甥。

若い頃から荀寓(じゅんぐう)・王戎(おうじゅう)・杜黙(ともく)らと都で名を馳せた。(『荀彧伝』)

鍾会は裴楷・王戎を司馬昭に紹介し「裴楷は清廉で諸事に通じ、王戎は淡白で要を得ています」と述べた。ともに掾に招かれ名を上げた。

謝鯤(しゃこん)は「俊英明朗で識見を具え、当時に並ぶ者がない」と称えた。

侍中・中書令・光禄大夫・開府となった。
四人兄弟のうち下三人は名士となったが、裴楷の才能・人望が最も高かった。(『裴潜伝』)

晋代になると賈充らは新たな法律を制定した。司馬炎から諮問を受けると、散騎侍郎の裴楷らとともに回答した。(『晋書 賈充伝』)

王済(おうせい)は和嶠(かきょう)・裴楷と並び称された。(『晋書 王渾伝』)

291年、二代皇帝・司馬衷(しばちゅう)の皇后の賈南風(かなんぷう)は、実権を握るため宦官とともに楊一族の殲滅を図った。
司馬瑋(しばい)と結託して挙兵し、楊駿(ようしゅん)を殺害し一族と側近を捕らえた。
その弟の楊済(ようせい)は外にいたが宮廷へ召還された。裴楷へ処遇を問うと「あなたは傅役なのだから応じるしかない」と言われた。
楊済は捕らえられ処刑された。(『晋書 楊駿伝』)



裴頠


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裴徽  管輅の良き理解者


裴徽(はいき)字は文季(ぶんき)
司隷河東郡聞喜県の人(??~??)

魏の臣。
裴茂(はいぼう)の末子で裴潜(はいせん)の弟。

高い才能と遠大な識見を持ち、よく玄妙の理について語り、冀州刺史まで上った。(『裴潜伝』)

227年、荀粲(じゅんさん)は都で傅嘏(ふか)と出会い、名理(形式論理学)を得手とする彼と、老荘思想を尊ぶ荀粲は基本的な結論は一致するものの、場面場面では言い合いになることも多く、友好を結ぶまでには至らなかったが、裴徽が仲介に入ったことで仲良くなり、そこに夏侯玄(かこうげん)も加わった。(『荀彧伝』)

吏部郎の時、まだ20歳にならない王弼(おうひつ)を一目見るや高く評価し、孔子について質問した。(『鍾会伝』)

占術師の管輅(かんろ)と親しく、「管輅伝」には裴冀州、裴刺史、裴太守などの通称で何度も登場する。
冀州刺史の時、趙孔曜(ちょうこうよう)の推薦で管輅を招聘し、文学従事に任命し、引見すると高く評価し、立場を越えて友人として付き合った。

「管輅別伝」に曰く、244年、趙孔曜は管輅が清河太守の華表(かひょう)に招聘され出仕していると聞き、「あなたは古の賢者にも並ぶ才能を持つのに、どうして郡で留まっているのか。冀州刺史の裴徽殿は聡明で、老荘にも詳しい。私も目を掛けられているから、あなたを推挙しよう」と申し出た。
裴徽は趙孔曜に会うと、顔色が優れないことに気づいた。趙孔曜は「清河郡に駿馬がいるのに才能を発揮できていないのを憂慮しています。名は管輅と言い、闊達で世間と折り合いよく、見上げれば天文を、見下ろせば「周易」を理解することは古の偉人にも匹敵します」と推挙した。
裴徽は「私は逸材を見つけられず、官を辞して都に帰り、哲学の議論でもしようと考えていた。駿馬がいるならぜひ会いたい」と管輅を招聘するとともに友人として遇した。

管輅が都に上ることになると裴徽は「何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)は国を治める才略を持ち、物事の道理にも精通している。易について質問されるだろうから対策しておくとよい」と勧めたが、管輅は自分の相手にもならないと意に介さなかった。
何晏・鄧颺の死相を見抜き、249年に彼らは粛清された。

帰郷した管輅は裴徽に何晏の人物を尋ねられ「ちっぽけな巧みさを才能に見せかけていただけ」と評した。裴徽は「何晏と老荘について論じた時、彼が道理を捉えているように感じて反論できず、人々も褒めそやしていたから、本質がわからなかった。今初めてはっきりと認識できた」と言った。

一方で何晏・鄧颺は管輅の天賦の才を認め、管輅も彼らと語ると精神が活発化し夜も眠くならないと言っており、親密ぶりが記されている。(『管輅伝』)

裴楷(はいかい)ら4人の子はいずれも高位に上った。(『裴潜伝』)

没年は不明だが「傅嘏伝」に傅嘏は若い頃から裴徽・荀甝(じゅんかん)と仲良かったが、二人とも早くに亡くなった、と記され、荀甝は30歳で没しており、裴徽も近い年齢で没したと思われる。(『傅嘏伝』)

裴徽らが老荘について論じたことは、何晏・王弼・竹林の七賢らが一大潮流を築き上げる清談・玄学の端緒となった。



裴欽  裴玄の子


裴欽(はいきん)字は不明
徐州下邳郡の人(??~??)

呉の臣。
裴玄(はいげん)の子。

父の裴玄と斉の桓公らについて議論し、ともに言葉は美しく道理が通っていた。
裴欽はいつも太子の孫登(そんとう)にお供し、文章を高く評価された。(『厳畯伝』)

241年、孫登は病没し、遺言で「裴欽は博聞強記でその文才は極めて有用」と評した。(『孫登伝』)



裴玄  厳畯・張承と議論


裴玄(はいげん)字は彦黄(げんこう)
徐州下邳郡の人(??~??)

呉の臣。
「厳畯伝」に附伝される。

学問を修め行いも正しく、太中大夫まで上った。
子の裴欽(はいきん)と斉の桓公らについて議論し、ともに言葉は美しく道理が通っていた。
裴欽は太子の孫登(そんとう)にも文章を高く評価された。(『裴玄伝』)

厳畯(げんしゅん)・張承(ちょうしょう)・裴玄は管仲や季路について議論し、広く世に伝わった。(『厳畯伝』)

229年頃、孫登が歩騭(ほしつ)に人材の列挙を頼んだ時、荊州の代表的な人材として諸葛瑾(しょかつきん)、陸遜、朱然(しゅぜん)、程普(ていふ)、潘濬(はんしゅん)、そして裴玄ら11名を上げた。
すでに没していた程普らが含まれており、裴玄は歴代11傑に名を連ねたことになる。(『歩騭伝』)



裴康  裴徽の次男


裴康(はいこう)字は仲豫(ちゅうよ)
司隷河東郡聞喜県の人(??~??)

魏・晋の臣。
裴徽(はいき)の次男。裴潜(はいせん)の甥。

太子左衛率となった。
弟の裴楷(はいかい)・裴綽(はいしゃく)といずれも名士となったが裴楷の才能・人望が最も高かった。
「晋諸公賛」に曰く、子の裴純(はいじゅん)・裴盾(はいとん)・裴郃(はいこう)・裴廓(はいかく)はみな高位に上った。(『裴潜伝』)

長兄の裴黎(はいれい)とともに名声あった。
王恬(おうてん)の字は同じ仲豫だったが、交友あったため配慮し敬豫(けいよ)に改めた。
裴氏と王氏は魏・晋の二代に渡り栄え、名声ある8人ずつがそれぞれ並び称され裴康は王綏(おうすい)と比較された。(『晋書 裴秀伝』)



裴綽  裴徽の四男


裴綽(はいしゃく)字は季舒(きじょ)
司隷河東郡聞喜県の人(??~??)

魏・晋の臣。
裴徽(はいき)の四男。裴潜(はいせん)の甥。

黄門侍郎となったが早逝し長水校尉を追贈された。
兄の裴康(はいこう)・裴楷(はいかい)といずれも名士となったが裴楷の才能・人望が最も高かった。
「晋諸公賛」に曰く、子の裴遐(はいか)も高い名声があったが早逝した。(『裴潜伝』)

度量が広く黄門侍郎・長水校尉まで上った。(※晋書では追贈ではないとされる)
石崇(せきすう)は裴楷と不仲で交流せず、裴綽と酒を飲んだ時に度を過ぎて不遜な態度だったため罷免を求めようとした。
すると裴楷は「(裴綽が酒乱なのは天下の誰もが知っているのに)あなたは狂薬(酒)を飲ませ、礼儀が無いと責めるのは矛盾していませんか」とたしなめ、取りやめさせた。

裴氏と王氏は魏・晋の二代に渡り栄え、名声ある8人ずつがそれぞれ並び称され裴綽は王澄(おうちょう)と比較された。(『晋書 裴秀伝』)



裴秀  マッパーマッパで死す


裴秀(はいしゅう)字は季彦(きげん)
司隷河東郡聞喜県の人(224~271)

魏・晋の臣。
裴潜(はいせん)の子。

祖父の裴茂(はいぼう)は後漢の、父の裴潜は魏の尚書令を務めた。
若い頃から学問と節操に優れ、8歳で巧みに文章を書いた。叔父の裴徽(はいき)も名声高く賓客が数多く訪れたが、帰りにはまだ十数歳の裴秀のもとへも訪れるほど若くして名声を博した。
母は側室で生まれも卑賤だったため、正室の宣氏(せんし)には冷遇されたが、ある時に裴秀の母が賓客のもとへ料理を運ぶと、賓客は一斉に起立した。裴秀の母は「私は卑賤の出ですが、裴秀のおかげでこのように礼を尽くしてくれます」と言い、宣氏は態度を改めるようになった。人々は「裴秀は後輩の領袖である」と称えた。(『晋書 裴秀伝』)

「晋諸公賛」に曰く、裴秀・賈充(かじゅう)は郭淮の弟の郭配(かくはい)の娘婿となった。(『郭淮伝』)

「魏略」に曰く。
裴潜も母の出自が貧しかったため父から顧みられず、それに発奮して昇進を重ねた。
清潔・質素を重んじ、任地には妻子を連れて行かず、困窮した妻子は野草を織って生計を立てた。その節操は魏の建国以来、他の追随を許さないものだったが、優れた人物を推挙することも無かったため、潔白さだけを尊重された。

244年、裴潜が没し後を継いだ。
「文章叙録」に曰く、喪が明けると財産を兄弟に譲った。(『裴潜伝』)

父の清陽亭侯を継ぎ、毋丘倹(かんきゅうけん)に推挙され、曹爽(そうそう)の大将軍府の掾に招かれた。(『晋書 裴秀伝』)

(248年、)25歳で黄門侍郎に上った。(『裴潜伝』・『晋書 裴秀伝』)

「王弼伝」に曰く、何晏(かあん)が賈充・裴秀・朱整(しゅせい)を黄門侍郎に起用した。(『鍾会伝』)

馬鈞(ばきん)が投石車を改良しようとした時、裴秀は出来はしないと反対し、曹羲(そうぎ)もそれに同意した。
馬鈞の弟子の傅玄(ふげん)の熱心な説得により曹羲も了承したものの、曹爽が聞き入れなかったため採用されなかった。(『杜夔伝』)

249年、曹爽が誅殺され元部下だったため罷免された。
やがて廷尉正として復帰し、司馬昭の安東将軍府・衛将軍府の司馬を歴任し政治・軍事両面で優れた進言を行い衛国相、散騎常侍に上った。(『晋書 裴秀伝』)

曹髦は才智ある人々を好み、司馬望(しばぼう)・裴秀・王沈(おうしん)・鍾会と親しくしよく酒宴に招いて討論し、文学論を書きつづった。曹髦に「儒林丈人」と呼ばれ、師として敬われた。(『高貴郷公紀』)

257年、諸葛誕の反乱では陳泰(ちんたい)・鍾会とともに策謀をめぐらせ、鎮圧されると尚書に転任し、魯陽郷侯に進み1千戸を加えられた。
260年、曹奐が帝位につくと即位に貢献し、爵位は県侯に進み7百戸を加増され尚書僕射に上った。
咸熙年間(264~265)のはじめ、御史台の改革・整理が行われると荀顗(じゅんぎ)が儀礼を、賈充が法律を、裴秀が官制を改めた。五等爵の制度を復活させ、済川侯に封じられ封地は60里四方、封邑は1400戸となった。(※「文章叙録」には広川侯と記される)

司馬昭は後継者をなかなか定めず、三男の司馬攸(しばゆう)を寵愛したため、長子の司馬炎は「私が後を継ぐのを阻む者がいる」と裴秀に相談し、自分には珍しい人相があるとアピールした。裴秀は「司馬炎は人望があり天子の人相がある」と後押ししてやり、やがて司馬炎の後継が決まった。
265年、司馬炎が王位につくと尚書令・右光禄大夫に任じられ、賈充・王沈とともに開府を許され給事中を加えられた。帝位につくと左光禄大夫も加えられ、鉅鹿郡公に封じられ、封邑は3千戸となった。(※「文章叙録」には鉅鹿侯と記される)(『晋書 裴秀伝』)

「呉録」に曰く。
266年、呉の使者として張儼(ちょうげん)が訪れると晋の朝廷では賈充・尚書令の裴秀・荀勗(じゅんきょく)らが彼をやり込めようと知識を試したが全く困らなかった。
敵ながら羊祜(ようこ)や何楨(かてい)と厚い友情を結んだが帰路に病没してしまった。(『孫晧伝』)

郝詡(かくく)が旧友へ「裴秀と知り合いになれたので利益が望める」と送った書状が問題視され弾劾されたが、司馬炎は「孔子ですら悪事の押し付けを拒むのは難しい。利益のために交際を求めるのは郝詡の罪であり、裴秀には防ぎようもない」と却下した。
司隷校尉の李憙(りき)も「劉尚(りゅうしょう)が裴秀のために官有の稲田を私有物として申告した」と弾劾したが、司馬炎は「裴秀の功績に比べれば小さな過失である」とし劉尚の処罰だけを命じた。
司馬炎は「三公はふさわしい者がいなければ空位とすべきだが裴秀こそふさわしい」と司空に任じた。

儒学者として博識で、政治手腕に優れ、司馬炎の帝位禅譲の前後には何一つとして礼に違わなかった。尚書は古来には地官(地理担当)も務めたため、地理を整理し「禹貢地域図」18篇を著した。
晋朝の朝儀の制度を創設し、刑法や政令についての意見は故事として残された。司空を務めること4年、当世の名公として称賛された。
だが271年、治療のため寒食散を服用した際、熱酒を飲むべきところを誤って冷酒を飲んでしまい病没した。享年48。元公と諡された。(『晋書 裴秀伝』)

皇甫謐(こうほひつ)はその最期について「高熱と低体温を繰り返して衰弱し、解毒のため冷水を大量に飲まされ、冷水浴させられたところ、体温を奪われ水中で絶命した」と記す。(『皇甫謐救解法』)

尚書を統括する尚書令・尚書僕射の選任について通例が無かったため制定しようとしていたが急死により果たせなかった。遺品から臨終間際に書いた呉征伐の上表の草稿も見つかり、それを読んだ司馬炎は哀惜した。(『晋書 裴秀伝』)

「文章叙録」に曰く、「易」と「楽」についての議論と「禹貢地域図」は広く世に伝わったが「盟会図」・「典治官制」は未完成だった。(『裴潜伝』)

咸寧年間(275~280)のはじめ、王公の地位にあったため石苞(せきほう)らとともに皇室の宗廟に祀られた。
子の裴濬(はいしゅん)が後を継ぎ父と同じ散騎常侍に上ったが早逝した。その子の裴憬(はいけい)は知的障害があったため別に列侯し、裴濬の弟の裴頠(はいき)が後を継いだ。
裴頠は父の最期を目の当たりにした影響か医術にも造詣深く、薬の調合ミスを防ぐため当時バラバラだった度量衡を統一するよう進言したが却下された。(『晋書 裴秀伝』)

「製図六体」という製図法を考案し、製図の際の縮尺・距離・方位等を定め、地理史に多大な貢献をした。
現代中国にも優れた地図に贈られる「裴秀賞」があるという。



裴儁


未作成



裴生


未作成



裴潜  国の柱石


裴潜(はいせん)字は文行(ぶんこう)
司隷河東郡聞喜県の人(??~244)

魏の臣。
裴茂(はいぼう)の子。

父は李傕(りかく)を討ち取り列侯された人物だが、裴潜は母の身分が低く、自身も礼を重んじなかったため父にはぞんざいに扱われた。
そのため後漢に仕えていた父とは行動をともにせず、見返そうと発奮して官途に付いた。
戦乱を避けて荊州へ移住し、州牧の劉表(りゅうひょう)に賓客として迎えられた。だが親しくしていた王粲(おうさん)・司馬芝(しばし)へ「劉表は覇者の器ではないのに覇者になろうとしており、失敗は遠くない」と言い、南の長沙郡へ移った。(『裴潜伝』)

傅巽(ふそん)は荊州にいた頃、「龐統は不完全な英雄で、裴潜は清潔な品行により名を上げるだろう」と評した。(『劉表伝』)

208年、曹操が荊州を制圧すると参丞相軍事に招かれた。三県の県令を務め、都に上り倉曹属となった。曹操に劉備の人物を聞かれ「中央では世を乱すだけですが、要害を守れば地方の主にはなれるでしょう」と答えており、後の蜀建国を予見したとも言える。

当時、代郡が三人の烏丸の単于(王)によりひどく荒らされていたため、曹操は裴潜を太守に任じ、精鋭を与え統治させようとした。だが裴潜は「代郡の人口は多く兵は1万を超えます。烏丸は長期に渡り勝手放題しており、内心では討伐を恐れています。もし大軍を引き連れていけば必ずや抵抗されるでしょう。計画によって彼らを始末するべきで、武威をもって圧力を掛けるべきではありません」と言い、一台の車だけで赴任した。
これを聞いた単于は感嘆し、地面に額を付けて謝罪し、略奪した人や品々を全て返還した。潜はさらに郡内で烏丸と結託していた郝温(かくおん)、郭端(かくたん)ら汚職役人を一掃し民衆からも支持された。
3年後、丞相理曹属として都に召還されたが「私が烏丸に峻厳に対した分、後任者は寛大に接するでしょう。寛大にした後に締め付ければ必ず謀叛します」と後任の失敗を予測した。曹操は呼び戻すのが早すぎたと後悔したが、数十日もせずに三人の単于が反乱したという急報が届き、曹彰(そうしょう)を征伐に向かわせた。

沛国相、兗州刺史を歴任した。曹操は裴潜の陣営がきっちりしているのに感心し、賞賜を与えた。
清潔・質素を心がけ任地には妻子を伴わなかったため、残された妻子は貧窮し野草を採って暮らしていた。
兗州刺史の時でさえ裴潜は自ら椅子を作り、任地を離れるときにはそれを置いて行った。
朝廷に仕える父の顔を立て、都では幌馬車を使ったが、地方には徒歩で移動した。家人にも倹約させ、食事は2~3日に1度のことさえあった。慎ましさでは魏国で彼に並ぶ者は少なかった。
だが広い才能と気品ある容貌を持ちながら、人材を推挙することは無かったため、人々は清廉潔白さを尊重したが、他の面はあまり評価しなかった。(『裴潜伝』)

219年、孫権が合肥を攻めると、揚州刺史の温恢(おんかい)は兗州刺史の裴潜に「合肥よりも荊州が心配だ。川の水かさが増えているのに曹仁は孤立し、危機に気づいていない。関羽に攻められれば一大事だ」と話した。果たして曹仁は関羽に樊城を包囲され窮地に陥った。
曹操は詔勅を下し、裴潜と豫州刺史の呂貢(りょこう)を呼び寄せたが、ゆっくり来るよう言いつけた。温恢はこれを陽動と見抜き「民衆を動揺させないための手立てで、すぐ荊州へ転進するよう命令が来るはずだ。張遼らにも同じ命令が下るだろうが、彼らもきっと気づいている。彼らに後れを取れば、君は咎められるぞ」と裴潜に忠告した。
果たしてすぐに転進の命令が届いたが、裴潜は忠告を聞き入れ輜重隊を減らし軽装兵を中心に編成していたためすぐに駆けつけられ、面目を保った。(『温恢伝』)

220年、曹丕が帝位につくと都に戻され散騎常侍となり、後に魏郡・潁川の典農中郎将を務めた。太守と同等の人材推挙の権利を求め、これを認めさせ農政官の昇進ルートを広げた。
荊州刺史に転任し、関内侯に封じられた。(『裴潜伝』)

荊州刺史の裴潜は州泰(しゅうたい)を従事に取り立て、宛城に駐屯する司馬懿のもとへ、たびたび使いに出した。そのため司馬懿は州泰を気に入り、後に重用するようになった。(『鄧艾伝』)

226年、曹叡が帝位につくと尚書となったが、その後も河南尹、太尉軍師、大司農と転任し内外で重用された。
清陽亭侯に進み領邑200戸を賜り、尚書令になると150ヶ条を超える上奏文を出し政治を正した。
父の喪に服すため官を離れ、光禄大夫に任じられた。

次の三公になると誰もが考えたが、244年に病没した。
太常を追贈され、貞侯と諡された。葬儀は簡素にするよう遺言し、墓の中には台座と器が1つあるだけだった。
子の裴秀(はいしゅう)が後を継ぎ、彼も「晋書」に列伝される名臣となった。

魚豢(ぎょかん)は「魏略」に列伝し「梁習(りょうしゅう)・趙儼(ちょうげん)・裴潜は張既(ちょうき)・楊俊(ようしゅん)には及ばないが、自己を抑制し、老いていよいよ明知を発揮したのは簡単にできることではない」と称えた。(『裴潜伝』)

陳寿は「常に平常心で、国の柱石であった」と評した。

「演義」には登場しない。



裴潜  呉の校尉の方


裴潜(はいせん)字は不明
出身地不明(??~233)

呉の臣。

校尉を務めた。
遼東の公孫淵(こうそんえん)のもとへ葛都尉(かつ ※名は不詳)とともに赴いた。(『公孫淵伝』)

232年、呉は公孫淵のもとへ海路から周賀(しゅうが)と裴潜を送って援護させ、さらに人々と交易させた。(『呉主伝』・『公孫淵伝』)
曹叡はそれを阻止したいと考えたが、誰もが無理だと反対した。その中で劉放(りゅうほう)だけが賛成した。(『劉放伝』)
同年10月、田豫(でんよ)が成山で周賀を撃破し、首級を挙げた。(『明帝紀』)

一方で公孫淵は魏とも通じており、遠方の呉は当てにならないと考え、233年、呉の使者の張弥(ちょうび)、許晏(きょあん)、万泰(ばんたい)、裴潜を殺し、魏へ首を送り恭順の意を示した。(『公孫淵伝』・『明帝紀』)

魏にも同姓同名の別人がいるが、そちらは「魏書」に列伝されるほどの大物である。



裴茂  李傕の首を挙げる


裴茂(はいぼう)字は巨光(きょこう)
司隷河東郡聞喜県の人(??~??)

後漢の臣。
裴潜(はいせん)の父。

霊帝の代に出仕し、県令、太守、尚書を歴任した。(『裴潜伝』)

193年、大雨があったため侍御史の裴茂が遣わされ、罪人のうち200人が特赦され、その中には李傕(りかく)に陥れられた無実の者がいた。李傕は裴茂を恐れ反対しなかったが、「裴茂は罪人と結託して謀叛を企んでいる」と讒言した。しかし献帝は一顧だにしなかった。(『後漢書 董卓伝』)

197年、勅命により謁者僕射の裴茂は段煨(だんわい)ら関西の諸将を統率し、李傕(りかく)を捕らえ、三族皆殺しとした。この功により列侯された。(『董卓伝』・『裴潜伝』・『後漢書 献帝紀』)

214年、魏公の位階を諸王よりも上に置く詔勅が下された際に、左中郎将の楊宣(ようせん)と亭侯の裴茂が曹操へ勅令を届けた。(『武帝紀』)

子の裴潜は「魏書」で立伝されたほどの人物だが、母の身分が低く、自身も礼を重んじなかったため、父の裴茂にはぞんざいに扱われた。
裴潜は父を見返そうと発奮して官途に付いた。清廉潔白で質素を重んじたが、朝廷に仕える父の顔を立て、都では幌馬車を使ったが、地方には徒歩で移動した。
裴茂の没年は不明だが、226年に帝位についた曹叡の代から裴潜が没する244年の間に、父の喪に服したとあり、226年~244年の間に没したとわかる。(『裴潜伝』)

ちなみに正史の注でおなじみ裴松之も彼の子孫である。



裴黎  裴徽の長男


裴黎(はいれい)字は伯宗(はくそう)
司隷河東郡聞喜県の人(??~??)

魏・晋の臣。
裴徽(はいき)の長男。裴潜(はいせん)の甥。
別名は裴演(はいえん)。

次弟の裴康(はいこう)とともに名声あった。(『晋書 裴秀伝』)

遊撃将軍となった。
「晋諸公賛」に曰く、子の裴苞(はいほう)は秦州刺史に上った。(『裴潜伝』)






未作成



白虎文


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