笵先 衛固の相棒
笵先(はんせん)字は不明
司隸河東郡の人(??~202)
河東郡の役人。
202年、袁紹が没すると曹操は北上した。袁紹の三男の袁尚(えんしょう)は高幹(こうかん)・郭援(かくえん)に命じて、河東へ侵攻させた。(『鍾繇伝』)
その時、河東太守の王邑(おうゆう)は詔勅により罷免された。(『杜畿伝』)
「魏略」に曰く。
王邑は状況が乱れていたため納得せず、官民も彼を慕い反対した。郡の掾の衛固(えいこ)と中郎将の笵先らは管轄する鍾繇(しょうよう)へ留任を訴えた。(『鍾繇伝』)
衛固・笵先は表向きは留任を名目にしたが、裏では高幹と結託しており、数ヶ月にわたり妨害した。
曹操は結託を見抜き、鎮圧できる人材を尋ね、荀彧は杜畿(とき)を河東太守に推薦した。(『杜畿伝』)
「魏略」に曰く。
杜畿が郡内に入っても王邑はまだ残っており、鍾繇は太守の割符(証)を渡すよう命じたが、王邑は自ら許昌へ赴き、朝廷に割符を返した。罪に服したが寛大な処置で許された。
鍾繇も監督不足として自らを弾劾したが、罪に問われなかった。
鍾繇は馬超・龐徳らの援軍を得て郭援を斬った。
その後、衛固は反乱し高幹・張晟(ちょうせい)・張琰(ちょうえん)らと周辺を荒らし回ったが鍾繇に討伐された。(『鍾繇伝』)
張既(ちょうき)も討伐に貢献した。(『張既伝』)
「杜畿伝」に詳細が記される。
杜畿の着任を妨害する衛固らの討伐に夏侯惇が派遣された。杜畿はそれと合流するよう勧められたが「河東郡の全てが反乱を起こそうとしているわけではない。だが討伐軍が迫ればおじけづき、衛固に扇動され一つにまとまってしまう。そうなると負ければ周辺の反乱を招き、勝てば河東郡を破滅させる。彼らは太守(王邑)の留任を名目としているから、私にも手は出すまい。衛固は計略は立てられるが決断力がない。郡に一月いられれば十分だ」と言い、単身で赴任した。
笵先は役人を30人余り殺して脅したが、杜畿は平然としていた。衛固は「太守を殺せば悪評が立つだけだし、どうせ彼は手中にある」と言い、面従腹背することにした。
杜畿は衛固を都督・功曹に任じて事務を任せ、笵先に3千の兵を与え油断させた。
衛固が兵を大動員しようとすると、杜畿は「民衆が動揺するから、ゆっくりと募兵したほうが良い」とたしなめた。貪欲な将校らは水増しして報告し、兵は集まらなかった。
さらに杜畿は「人心を得るため将兵に休暇を与えよう」と言い、家へ帰らせた。心ある者は外に出て杜畿を援助し、悪人はそのまま戻らなかった。
これらの裏工作により、高幹・張晟が再び攻め寄せた時、衛固らは兵を集められなかった。
杜畿はすでに官民の支持を得たことを知っていたため数十騎で迎撃に出て、数十日で4千の兵を集めた。衛固・高幹に攻撃されたが防ぎ切り、(夏侯惇の)討伐軍が到着して高幹・張晟を撃破し、衛固・笵先は処刑された。残党は赦免された。(『杜畿伝』)
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