三国志 は 2


白侯子安


未作成



白爵  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


白爵(はくしゃく)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、白爵ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。(『張燕伝』)



白寿


未作成



白繞  于毒・眭固の相方


白繞(はくじょう)字は不明
出身地不明(??~??)

黒山賊の頭目。
黒山賊は通称を用いる者が多く、白繞も通称だろうか。

191年、黒山賊の于毒(うどく)・白繞・眭固(すいこ)らが十余万の兵で魏郡を襲い、東郡太守の王肱(おうこう)も防げなかった。
曹操は東郡に入って黒山賊を撃破し、袁紹は上奏して曹操を東郡太守に任命した。

192年、黒山賊は曹操が頓丘に陣を布いたのを見て、政庁のある東武陽を攻めたが、曹操は救援に向かわず賊の本拠地の黒山を攻めた。黒山賊はあわてて引き返し、待ち伏せする曹操に撃破された。(『武帝紀』)



白波


未作成



伯固  伊夷模の父王


伯固(はくこ)
高句麗の人(??~??)

高句麗王の宮(きゅう)の子。

父が没すると後を継ぎ、順帝・桓帝の時代に、父と同じく遼東郡を荒らし回った。
新安・居郷で略奪し、西安平を攻め、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を奪った。
だが169年、玄菟太守の耿臨(こうりん)に大敗し降伏した。
熹平年間(172~178)、自ら望んで玄菟郡の支配下に入り、遼東で勢力を伸ばしてきた公孫度(こうそんど)にもよしみを通じ勢力を保った。

伯固の死後、長男の抜奇(ばつき)が愚鈍だったため重臣たちは協議し次男の伊夷模(いいも)に後を継がせたが、それを恨む抜奇は公孫度の子の公孫康(こうそんこう)に降伏して兵を借り、伊夷模を苦しめることとなる。(『東夷伝』)



柏孝長  勇気は習えるもの


柏孝長(はくこうちょう)字が孝長か
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「九州春秋」に曰く。
201年、杜襲(としゅう)が荊州南陽郡西鄂県長を務めていた時、荊州牧の劉表(りゅうひょう)に侵攻された。
功曹の柏孝長は恐怖のあまり家に籠もって布団を頭からかぶり、半日ほど経ってからようやく頭を出した。
翌日には身体をすくませながらも立ち上がって様子をうかがい、2日目には戸口まで出てきて状況を尋ねた。
4~5日経つと盾を担いで戦闘に加わり、杜襲に「勇気は習えるものです」と言った。(『杜襲伝』)

「正史」によると50人余りで劉表軍1万と戦い、30数人が戦死し残る18人も負傷したという。柏孝長は無事に逃げられただろうか。



駮位居


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馬日磾  悶死した大学者


馬日磾(ばじつてい)字は翁叔(おうしゅく)
司隷右扶風郡茂陵県の人(??~194)

後漢の臣。

族父で大学者の馬融(ばゆう)の薫陶を受け、才知と学識で取り立てられた。
楊彪(ようひょう)・盧植(ろしょく)・蔡邕(さいよう)らとともに宮中の書物を校訂した。九卿を歴任し、三公に上った。(『袁術伝』)

175年、諫議大夫の馬日磾と盧植・楊彪・蔡邕・韓説(かんせつ)らが校訂にあたり、「漢記」の続きも著した。(『後漢書 蔡邕伝』・『後漢書 盧植伝』)

178年、妖異が相次いだため、馬日磾・蔡邕らが招かれ中常侍とともに対策を議論した。(『後漢書 蔡邕伝』)

袁紹が董卓討伐のため挙兵すると、董卓は王匡(おうきょう)の妹婿の胡母班(こぼはん)に説得を命じたが、胡母班は捕らえられた。胡母班は弁解の手紙の中で「董卓は献帝を人質にしています。私は馬日磾らと同じく勅命を受けた身なのに、殺せば謀叛と同じです」と記したが、結局殺された。(『董卓伝』)

191年、太尉の趙謙(ちょうけん)が辞任したため、太常の馬日磾が太尉に上った。(『後漢書 献帝紀』)

192年、董卓が誅殺されると蔡邕は儒者としてそれを嘆いたため、王允(おういん)の不興を招き投獄された。蔡邕は司馬遷のように罪人となり歴史書の執筆を願い出たが王允は許さず、馬日磾らの仲裁も聞き入れなかった。馬日磾は王允の世は長くないと嘆息した。(『後漢書 蔡邕伝』)

同年、太傅となり録尚書事を兼任した。(『後漢書 献帝紀』)

193年(※「後漢書 献帝紀」では192年)、朝廷を牛耳る李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは太傅の馬日磾、太僕の趙岐(ちょうき)を派遣し、袁紹・公孫瓚(こうそんさん)ら争う関東の諸将に停戦を命じた。(『袁紹伝』)

馬日磾は洛陽につくと上表し、趙岐を別行動させ袁紹のもとへ向かわせた。(『後漢書 趙岐伝』)

華歆(かきん)は董卓を討伐するよう袁術に進言したが受け入れられず、彼のもとを去ろうと考えた。ちょうどそこへ馬日磾が関東の慰撫のために派遣され、馬日磾は華歆を掾に招き、さらに豫章太守に任命した。(『華歆伝』)

馬日磾は寿春へ赴き、孫策を鄭重な礼で召し寄せ、懐義校尉に任命した。(『孫策伝』)

馬日磾は寿春で朱治(しゅち)を招き自分の幕府の掾に迎え入れた。(『朱治伝』)

さらに李傕らの命で袁術に爵位を与え味方につけようとしたが、袁術は馬日磾の節(使者の証)を奪い勾留した。そして幕下の人物10余人を招聘するよう迫ったが馬日磾は拒否した。
なんとか逃げ出そうとしたが果たせず、憂いと怒りから病に倒れ、194年に没してしまった。(『袁術伝』・『後漢書 献帝紀』)

兗州刺史の金尚(きんしょう)も袁術に従わなかったため殺された。馬日磾とともに遺体が都に届けられ、献帝は忠義を称賛し霊を祀らせた。(『呂布伝』)

馬日磾も同様に弔われようとしたが、孔融(こうゆう)が「帝位を僭称した袁術に媚びて手を貸した」として猛反対したため果たされなかった。(『後漢書 孔融伝』)

孫策は華歆を降伏させ豫章郡を制圧した。華歆を説得した虞翻(ぐほん)に「私はかつて寿春で馬日磾に会い、中原の人士とも顔合わせした。彼らは東方の人々は才能はあるが学問が無いから、議論では敵わないと言っていた。あなたは学問があるから、中原の人々を論破してくれないか」と頼んだが、虞翻は「家宝を見せびらかせて中原の人々に気に入られたら、家宝を奪われますぞ」と言い、孫策は笑って取りやめた。(『虞翻伝』)

196年、曹操が袁紹を非難すると、袁紹は反論を上書し、その中で「馬日磾が王命を乱した」と批判した。(『後漢書 袁紹伝』)

「演義」では董卓の命で勅使として袁紹と公孫瓚の争いを仲裁した。後に蔡邕が董卓の死を嘆いて投獄され、赦免しない王允の死を予見する様も描かれた。



伐同


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抜奇  弟許すまじ


抜奇(ばつき)
高句麗の人(??~??)

高句麗王の伯固(はくこ)の子。

父の死後、長男の抜奇が愚鈍だったため重臣たちは協議し次男の伊夷模(いいも)に後を継がせた。

抜奇はそれを恨み、公孫康(こうそんこう)が攻め寄せると3万余もの配下を率いて降伏した。
劣勢の伊夷模は遷都を余儀なくされ、抜奇は息子を高句麗に入らせ、自身は公孫康の本拠地である遼東に留まった。(『東夷伝』)



万彧  孫晧を擁し孫晧に殺される


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万演  陳瑀の配下


万演(ばんえん)字は不明
出身地不明(??~??)

陳瑀(ちんう)の配下。

「江表伝」に曰く。
197年、孫策は「呂布と行呉郡太守・安東将軍の陳瑀とともに袁術を討伐せよ」と詔勅を下された。
ところが陳瑀は孫策の襲撃を企て、都尉の万演らを送り、周辺の祖郎(そろう)・焦已(しょうい)・厳白虎(げんはくこ)ら反抗勢力に官位を約束して蜂起させようとした。
だが孫策はそれを見抜き、呂範(りょはん)・徐逸(じょいつ)に先制攻撃させ、陳瑀の兵や妻子ら4千人を捕虜にした。(『孫策伝』)



万潜  兗州の官吏から大出世


万潜(ばんせん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢、後に魏の臣。

192年、青州黄巾軍100万が兗州に侵攻し、任城国相の鄭遂(ていすい)を殺した。
兗州刺史の劉岱(りゅうたい)も、鮑信(ほうしん)の諌めを聞かず無謀な戦いを挑んで敗死した。
鮑信と兗州の官吏の万潜は曹操を説得して兗州牧に据え、鮑信も戦死したものの曹操は青州黄巾軍を降伏させた。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に長史として連名した。(『武帝紀』)

220年、曹丕はすでに没していた少府の万潜らの功績を改めて採り上げ、遺児を郎中に登用させた。(『文帝紀』)



万泰  公孫淵に殺された呉の使者B


万泰(ばんたい)字は不明
出身地不明(??~233)

呉の臣。

中郎将を務めた。
232年、呉は海路から遼東の公孫淵(こうそんえん)のもとへ張弥(ちょうび)、許晏(きょあん)、万泰、賀達(がたつ)ら1万の兵を送り、燕王の位を授けようとした。(『呉主伝』)

一方で公孫淵は魏とも通じており、遠方の呉は当てにならないと考え、233年、呉の使者の張弥、許晏、万泰らを殺し、魏へ首を送り恭順の意を示した。(『公孫淵伝』)



万秉  建安年間に討たれる


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氾嶷  靳允に暗殺された呂布配下


氾嶷(はんぎょく)字は不明
出身地不明(??~194)

呂布の臣。

194年、曹操が遠征した隙に張邈(ちょうばく)・陳宮(ちんきゅう)が反乱し、兗州を制圧し呂布を迎え入れた。
鄄城・東阿・范の3県だけが従わなかったが、呂布軍からの降伏者が「陳宮は東阿を攻め、氾嶷に范を攻撃させるつもりだ」と伝えると官民は恐慌をきたした。
荀彧は人望ある程昱(ていいく)に3県を説得して動揺させないよう命じ、程昱は范県令の靳允(きんいん)を「君は母・弟・妻子を人質にされたが、従う主君を間違えれば一家揃って滅亡する。呂布と曹操を比べればどちらに付くべきか明らかだ。よく考慮せよ」と説き伏せた。
靳允は涙を流し「二心は抱きません」と誓い、既に県に入っていた氾嶷を刺客に殺させ、守りを固めた。
程昱は水路を断って陳宮の侵攻も防ぎ、曹操が帰還するまで3県を守り抜いた。(『程昱伝』)



范彊  張飛を殺して名を残す


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范康


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范津  傅燮を見出し後任として迎える


范津(はんしん)字は文淵(ぶんえん)
荊州南陽郡の人(??~??)

後漢の臣。

傅燮(ふしょう)は漢陽太守に赴任した。
前太守の范津は人物鑑定で知られ、かつて傅燮を孝廉に挙げた人であり、傅燮が赴任すると(太守の地位を示す)割符を合わせてから去り、人々は名誉なことだと称えた。(『後漢書 傅燮伝』)



范慎  太尉に推されて引退


范慎(はんしん)字は孝敬(こうけい)
徐州広陵郡の人(??~273?)

呉の臣。

忠義と友情に厚く、彼と交友を結ぶことは光栄とうたわれた。
「矯非」という20篇の論を著した。

229年、皇太子になった孫登(そんとう)の側近の諸葛恪(しょかつかく)、張休(ちょうきゅう)、顧譚(こたん)、陳表(ちんひょう)は「四友」と呼ばれ、謝景(しゃけい)、范慎、刁玄(ちょうげん)、羊衜(ようどう)ら賓客(補佐)も評判を取り、多士済々と讃えられた。
孫登は胡綜(こそう)に命じて「賓友目」を作らせ、その中で「范慎は学問を究め深遠な道理を知り、子游・子夏(孔子の高弟)と同様に優れた才を持つ」と評された。
しかし羊衜は「学問は深いが視野は狭い」と指摘した。

241年、孫登は病没し、遺言で「范慎・華融(かゆう)は勇敢で断固とした節操を持ち国士の風がある」と評した。(『孫登伝』)

諸葛恪が孫権に馬を献上したが、耳に穴が空けられていた。
范慎が「馬は家畜とはいえ天からの授かり物だ。それを傷付けるのは仁を損なうのではないか」とからかうと、諸葛恪は「母親の娘への情愛は最も深いが、ピアスを着けるため耳に穴を空ける。どうして仁を損なうのか」と返した。(『諸葛恪伝』)

范慎は侍中に上り、武昌の左部督を長く務めた。
271年、武昌に遷都して以来、范慎の働きを見てきた孫皓(そんこう)(※ちくま版では孫権と誤記されている)は彼を「勲功・徳行ともに盛んで心強い。上公の位に上げ人々の期待に応えさせよう」と太尉に任じようとした。ところが范慎は長く放っておかれたのに急に三公に推挙されたことに反発し、引退を願い出た。
配下の者は涙ながらに彼を見送った。

273年(「孫登伝」では274年)に没し、子の范燿(はんよう)が後を継いだ。(『孫登伝』・『孫皓伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「施績(しせき)・范慎は威信の重さで知られていた」と、顧譚の伝で「范慎・謝景・羊衜の名声は高かったが顧譚には及ばなかった」と記している。(『孫皓伝』・『顧雍伝』)

ちなみに羊衜が欠点を指摘した四人は身を誤ったと記されるが、范慎だけは不祥事が事績に記されていない。



笵先  衛固の相棒


笵先(はんせん)字は不明
司隸河東郡の人(??~202)

河東郡の役人。

202年、袁紹が没すると曹操は北上した。袁紹の三男の袁尚(えんしょう)は高幹(こうかん)・郭援(かくえん)に命じて、河東へ侵攻させた。(『鍾繇伝』)

その時、河東太守の王邑(おうゆう)は詔勅により罷免された。(『杜畿伝』)

「魏略」に曰く。
王邑は状況が乱れていたため納得せず、官民も彼を慕い反対した。郡の掾の衛固(えいこ)と中郎将の笵先らは管轄する鍾繇(しょうよう)へ留任を訴えた。(『鍾繇伝』)

衛固・笵先は表向きは留任を名目にしたが、裏では高幹と結託しており、数ヶ月にわたり妨害した。
曹操は結託を見抜き、鎮圧できる人材を尋ね、荀彧は杜畿(とき)を河東太守に推薦した。(『杜畿伝』)

「魏略」に曰く。
杜畿が郡内に入っても王邑はまだ残っており、鍾繇は太守の割符(証)を渡すよう命じたが、王邑は自ら許昌へ赴き、朝廷に割符を返した。罪に服したが寛大な処置で許された。
鍾繇も監督不足として自らを弾劾したが、罪に問われなかった。

鍾繇は馬超・龐徳らの援軍を得て郭援を斬った。
その後、衛固は反乱し高幹・張晟(ちょうせい)・張琰(ちょうえん)らと周辺を荒らし回ったが鍾繇に討伐された。(『鍾繇伝』)

張既(ちょうき)も討伐に貢献した。(『張既伝』)

「杜畿伝」に詳細が記される。
杜畿の着任を妨害する衛固らの討伐に夏侯惇が派遣された。杜畿はそれと合流するよう勧められたが「河東郡の全てが反乱を起こそうとしているわけではない。だが討伐軍が迫ればおじけづき、衛固に扇動され一つにまとまってしまう。そうなると負ければ周辺の反乱を招き、勝てば河東郡を破滅させる。彼らは太守(王邑)の留任を名目としているから、私にも手は出すまい。衛固は計略は立てられるが決断力がない。郡に一月いられれば十分だ」と言い、単身で赴任した。

笵先は役人を30人余り殺して脅したが、杜畿は平然としていた。衛固は「太守を殺せば悪評が立つだけだし、どうせ彼は手中にある」と言い、面従腹背することにした。
杜畿は衛固を都督・功曹に任じて事務を任せ、笵先に3千の兵を与え油断させた。
衛固が兵を大動員しようとすると、杜畿は「民衆が動揺するから、ゆっくりと募兵したほうが良い」とたしなめた。貪欲な将校らは水増しして報告し、兵は集まらなかった。
さらに杜畿は「人心を得るため将兵に休暇を与えよう」と言い、家へ帰らせた。心ある者は外に出て杜畿を援助し、悪人はそのまま戻らなかった。

これらの裏工作により、高幹・張晟が再び攻め寄せた時、衛固らは兵を集められなかった。
杜畿はすでに官民の支持を得たことを知っていたため数十騎で迎撃に出て、数十日で4千の兵を集めた。衛固・高幹に攻撃されたが防ぎ切り、(夏侯惇の)討伐軍が到着して高幹・張晟を撃破し、衛固・笵先は処刑された。残党は赦免された。(『杜畿伝』)



范旃


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范方  劉岱を援護した公孫瓚配下


范方(はんほう)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫瓚(こうそんさん)の臣。

初平年間(190~193)、兗州刺史の劉岱(りゅうたい)は袁紹・公孫瓚と同盟し、袁紹は妻子を預け、公孫瓚は従事の范方に騎兵を任せ援護させていた。公孫瓚は袁紹と敵対し、撃破すると劉岱へ「袁紹の妻子を渡さなければ范方を引き上げさせ、袁紹の次にお前を殺す」と脅した。
劉岱は決断できず、王彧(おういく)の進言により程昱(ていいく)に意見を求めると「袁紹という近きを捨てて公孫瓚という遠くに助けを求めるのは、溺れる子を助けるため遠国から人を呼ぶようなものです。そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。一時の勝利を得ましたが結局は敗れます」と言われた。
劉岱はそれに従い、范方は引き上げたが公孫瓚は合流する前に袁紹に大敗した。(『程昱伝』)



范滂


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范燿  范慎の子


范燿(はんよう)字は不明
徐州広陵郡の人(??~??)

呉の臣。
范慎(はんしん)の子。

273年(「孫登伝」では274年)に父が没したため、後を継いだ。(『孫登伝』・『孫皓伝』)



范陵  曹操の予言通り立場を悪用


范陵(はんりょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

214年、毌丘興(かんきゅうこう)が安定太守に赴任する際、曹操は「羌族はよしみを通じたいと考えており、向こうから使者を送ってくる。こちらから使者を送れば、使者は立場に付け込み自身が利益を得ようとするだろう」と注意を与えた。
だが毌丘興は着任すると校尉の范陵を使者として送ってしまい、范陵は羌族をそそのかし自分を属国都尉にするよう要求させた。
曹操は「そうなるに違いないと予知していた。私が聖人だからではない。経験豊富なだけだ」と言った。(『武帝紀』)



番歆


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番苗


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頒下


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樊阿  華佗の弟子の鍼師


樊阿(はんあ)字は不明
徐州彭城郡の人(??~??)

医師。
「華佗伝」に附伝される。

呉普(ごふ)とともに華佗(かだ)に師事した。

鍼術に優れた。
従来は背中と肺にはみだりに鍼を打ってはならず、打つとしても4分(9.6mm)より深くしてはならないとされていた。
ところが樊阿は背中に1~2寸(2.4~4.8cm)、肺には5~6寸(12~14.4cm)の深さまで打ち、しかも必ず快癒させた。

華佗へ滋養強壮になる食物を尋ね、漆葉青黏散(しつようせいねんさん)を教えられた。これを服用したため、100歳を超える長寿だった。

「華佗別伝」に曰く、青黏はもともと仙人が服用しているのをある人が見つけ、華佗に教えたものだった。
華佗はすぐ樊阿にも伝えたが、樊阿は独り占めし誰にも教えなかった。
その後、樊阿が老齢になっても健康なのを怪しんだ人が問いただし、酔った拍子に教えてしまったため、薬方が広く知れ渡り、大変な効果があった。(『樊阿伝』)



樊英


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樊岐


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樊建  蜀の人格者


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樊子昭  全琮に似て許靖に劣る


樊子昭(はんししょう)字が子昭か
豫州汝南郡の人(??~??)

素性不明。

「汝南先賢伝」に曰く。
頭巾を売る仕事をしていた。
許劭(きょしょう)は樊子昭・虞永賢(ぐえいけん)・李淑才(りしゅくさい)・郭子瑜(かくしゆ)・楊孝祖(ようこうそ)・和洽(かこう)ら6人の賢者を推挙した。6人には及ばないが、伸び悩んでいたり子供の頃に許劭に評価されて名を上げた者は数え切れないほど多かった。
見せかけの品行を暴き、虚偽の名声を抑えつけたのは周の単襄公さえ問題にならないほどだった。(『和洽伝』)

許劭と同郷の樊子昭・和洽は許劭の評価により名声を高め、天下の人々は「抜擢された士は(みんな)許劭・郭泰(かくたい)の称賛した者だ」と言った。(『後漢書 許劭伝』)

210年、周瑜が没すると龐統は遺体を孫権のもとへ送り届けた。戻ろうとすると名声高い龐統の見送りに全琮(ぜんそう)らが集まり、人物評価に優れた龐統は彼らを一人ずつ評し、全琮は「施しを好み名声を嫌い、樊子昭に似ている。智力は多いと言えないが、時代を代表する優れた人物だ」と評された。(『龐統伝』)

「万機論」の中で蔣済(しょうせい)は許劭の人物評価は不公平で、樊子昭を不当に持ち上げ、許靖(きょせい)を不当に低くしていると論じた。劉曄(りゅうよう)が反論したが蔣済は「樊子昭は清廉潔白だが議論する時の彼の顔は見苦しく、許靖の敵ではない」と言った。
また「許靖は国政を担う人材だが、許劭は低く評価した。もし本当に尊ばなかったなら人を見る目がなく、価値を知りながら不当に貶めたなら優れた人物を無視したことになる」と非難した。(『龐統伝』・『許靖伝』)



樊氏


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樊震


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樊正


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樊伷


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樊稠  董卓軍の人格者


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樊能  一喝で死んだ男


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樊普  伏完の義弟


樊普(はんふ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣?
伏完(ふくかん)の義弟(妻の弟)。

「献帝春秋」に曰く。
200年、曹操暗殺を図った董承(とうしょう)が処刑されると、伏皇后(ふくこうごう)は父の伏完へ「献帝は復讐を願っています」と手紙を送った。
伏完にそれを見せられた荀彧は曹操に報告しなかったが、樊普はすぐに密告した。
後に荀彧は発覚を恐れて報告し、「既に申し上げたはずでしたが」としらばっくれ、曹操の不興を買った。

裴松之は「献帝春秋のでたらめな記述のうちで最も酷い」と非難する。(『荀彧伝』)



樊友


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樊陵  金で太尉を買い、宦官に傀儡にされる


樊陵(はんりょう)字は徳雲(とくうん)
荊州南陽郡魯陽県の人(??~189)

後漢の臣。

187年、曹嵩(そうすう)の後任として太尉になった。翌月に罷免された。(『後漢書 霊帝紀』)

「傅子」に曰く。
霊帝の代に官職が売りに出され、段熲(だんけい)・樊陵が太尉、崔烈(さいれつ)が司徒、張温(ちょうおん)が司空をそれぞれ500~1000万銭で買った。
段熲は征伐でたびたび大手柄を立て、崔烈は北方で高い評判を上げ、張温は卓越した才能を持ち、樊陵は時勢によく適応し、皆一代の名士だったが、それでも金で地位を買った者である。(『董卓伝』)

189年、大将軍の何進(かしん)は宦官に暗殺され、宦官は袁紹・王允(おういん)に代わって樊陵・許相(きょしょう)を司隷校尉・河南尹にするよう詔勅を下した。尚書(担当官)が疑い「大将軍(何進)と協議します」と言うと、何進の首を彼に投げつけ「謀叛し既に誅殺された」と言った。
何進配下の袁紹は叔父で太傅の袁隗(えんかい)と共謀し、偽の詔勅で樊陵・許相をおびき寄せて殺し、宮中へ突入し宦官を皆殺しにした。(『後漢書 何進伝』)



潘岳  潘尼と並び称される


潘岳(はんがく)字は安仁(あんじん)
司隸河南郡中牟県の人(??~??)

晋の臣。
潘勖(はんきょく)の族子。

容姿うるわしく、早くからずば抜けた才知で名を知られた。
文章は清潔にして美麗で卓絶し、族子の潘尼(はんじ)とともに世間に尊重された。

黄門侍郎に上ったが、孫秀(そんしゅう ※西晋)に殺害された。(『衛覬伝』)



潘勖  衛覬と並び称される


潘勖(はんきょく)字は元茂(げんぼう)
司隸河南郡中牟県の人(??~215)

後漢・魏の臣。
名は潘勗とも書かれる。
「衛覬伝」に附伝される。

はじめ潘芝(はんし)と名乗ったが、諱を避けて(※誰の諱かは不明)改名した。

献帝の代に尚書郎となり、尚書右丞に昇進した。詔勅により「二千石の官として才能明敏、博識で古い慣例に習熟していたため、職務を兼務させる」と命じられ、特別な賜与をたびたび受けた。(『潘勖伝』)

212年、荀彧が没すると碑文を記し「優れた容姿、立派な外貌」と称えた。(『荀彧伝』)

213年、曹操が九錫を賜った時の任命書を潘勖が記した。(『潘勖伝』)

文章では建安年間(196~220)の末には衛覬(えいき)、潘勖が並び称された。(『衛覬伝』)

215年、東海国相に上ったが、発令されないうちに尚書左丞に任命され都に留められた。
同年に50余歳で没した。

子の潘満(はんまん)も学問・品行に優れ平原太守に上り、孫の潘尼(はんじ)、族子の潘岳(はんがく)も文才に優れ世間に尊重された。(『潘勖伝』)



潘尼  潘勖の孫


潘尼(はんじ)字は正叔(せいしゅく)
司隸河南郡中牟県の人(??~??)

魏・晋の臣。
潘満(はんまん)の子。潘勖(はんきょく)の孫。

若くして清廉で才能があり、穏やかで典雅な文章を書いた。

はじめ州に招聘されたが、父の潘満が老いると官を辞して世話し、十余年経って父が没し、自身も晩年になってからまた出仕した。
陸機(りくき)と交流があり、詩を贈ると陸機は孝行を称える詩を返した。

官位は太常まで上った。(『衛覬伝』)



潘淑媛  曹蕤の母


潘淑媛(はんしゅくえん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。
曹蕤(そうずい)の母。
淑媛は后妃の位で曹丕が制定した。(『后妃伝』)

曹蕤は北海王まで進んだ。(『北海悼王蕤伝』)



潘濬  泣き虫将軍の20年戦争


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潘翥  潘濬の上の子


潘翥(はんしょ)字は文龍(ぶんりゅう)
荊州武陵郡漢寿県の人(??~??)

呉の臣。
潘濬(はんしゅん)の子。

騎都尉を務めた。
父は蜀からの投降者だが重職に上り、潘翥の姉妹は孫権の次男の孫慮(そんりょ)に嫁ぎ、弟の潘秘(はんひ)は孫権の姪を妻に迎えるなど厚遇された。

230年、魏の隠蕃(いんばん)は呉に投降し、有能な彼に誰もが交際を求めた。
遠方にいた潘濬は、子の潘翥が隠蕃に食料を援助していると聞き「投降者を助けるとは何事だ。速やかに私の使者のもとに出向いて百叩きの刑を受け、食料は返還させよ」と命じた。
人々はその態度をいぶかしんだが、隠蕃が魏の間者と露見すると、先見の明に感服した。

239年、父が没したため爵位と兵を継いだが、若くして没した。(『潘濬伝』)



潘璋  武勇最高・人格最低


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潘秘  潘濬の下の子


潘秘(はんひ)字は不明
荊州武陵郡漢寿県の人(??~??)

呉の臣。
潘濬(はんしゅん)の子。

父は蜀からの投降者だが重職に上り、潘秘の姉妹は孫権の次男の孫慮(そんりょ)に嫁ぎ、兄の潘翥(はんしょ)は騎都尉に上るなど厚遇され、潘秘も孫権の姪(姉の陳氏(ちんし)の娘)を妻に迎え、湘郷の県令に任じられた。

潘濬の死後(239年没)、潘秘は荊州の大公平に任じられた習温(しゅうおん)を訪ねた。
潘秘が「亡父はかつて、郷里(荊州)の人物評価の中心を担うのは習温だろうと申しており、その通りになりました。あなたの後は誰になるでしょう」と聞くと、習温は「あなたに勝る者はない」と答えた。

潘秘は尚書僕射を経て、習温の後を継ぎ公平となり、高い評判を得た。(『潘濬伝』)



潘夫人  縊り殺された孫権の皇后


潘夫人(はんふじん)名は不明
揚州会稽郡句章県の人(??~252)

孫権の皇后。
正室は何人もいるが皇后に立てられたのは彼女のみである。

役人の娘として生まれ、父が罪を犯して処刑されると奴婢に落とされた。
だがそこで孫権に見初められ、後宮に入れられ、後に2代皇帝となる孫亮を生んだ。

250年、孫亮が太子に立てられると、まだ奴婢の身分だった姉を解放し、嫁がせて欲しいと願い出て許された。
251年5月、皇后に立てられた。

潘夫人は陰険で、容姿の美しい女に嫉妬し、他の妻妾を陥れた。彼女の前に皇后の候補に挙がった袁夫人(えんふじん)は讒言により死に追いやられた。

252年2月、孫権が危篤になると、潘夫人は死後に実権を握ろうと考え、孫弘(そんこう)に手紙を送り、過去の事例を調べさせた。
だが彼女は日頃の行いから宮女たちに恨まれており、孫権の看病疲れから病を得て寝込んでいる間に、縊り殺された。
急病で没したとごまかしたが事実が露見し、関与した6~7人が処刑された。
同年4月、孫権が没すると同じ陵墓に葬られた。(『孫権潘夫人伝』・『呉主伝』)



潘平


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潘満  潘勖の子


潘満(はんまん)字は不明
司隸河南郡中牟県の人(??~??)

魏の臣。
潘勖(はんきょく)の子。

215年、父が没した。

父と同じく学問・品行に優れ平原太守に上った。
子の潘尼(はんじ)、一族の潘岳(はんがく)も文才に優れ世間に尊重された。

潘尼ははじめ州に招聘されたが、潘満が老いると官を辞して世話し、十余年経って潘満が没した後にまた出仕した。(『衛覬伝』)



潘臨


未作成



繁欽  杜襲・趙儼のマブダチ


繁欽(はんきん)字は休伯(きゅうはく)
豫州潁川郡の人(??~218)

魏の臣。

文才と機転の利いた弁舌に優れ、若くして近隣に名を轟かせた。(『王粲伝』)

同郷の杜襲(としゅう)・趙儼(ちょうげん)とともに戦乱を避けて荊州へ移り、生計をともにした。(『杜襲伝』・『趙儼伝』)
荊州牧の劉表(りゅうひょう)は繁欽へ目を掛けたが、杜襲は「劉表は乱世を治める器ではない。彼に仕えるならば絶交だ」と半ば脅し、ともに南方の長沙郡へ移った。(『杜襲伝』)

趙儼は曹操が献帝を迎え入れたと聞くと、曹操こそ中華を救う者だと確信し、197年に一族を率いて許都へ移住した。(『趙儼伝』)

同時期に杜襲は郷里へ逃げ帰っていたが、曹操に登用された。(『杜襲伝』)

繁欽も曹操に仕え、書道や詩・賦を作ることに長けたため、建安七子にこそ及ばないがそれに次ぐ名声を得た。
太子の頃の曹丕へ、薛訪(せつほう)の御者の美声を知らせた詩は「文選」に採られた。

丞相主簿まで上り、218年に没した。

後に魚豢(ぎょかん)は建安七子の王粲(おうさん)、阮瑀(げんう)、陳琳(ちんりん)や、繁欽、路粋(ろすい)はその才能の割に古代の文人より名声を得ていないと思い、理由を韋誕(いたん)に尋ねた。韋誕は「繁欽は全く折り目正しくない」と欠点を指摘しながらもその才能を認めた。(『王粲伝』)



繁昌公主  衛宣に嫁いだ司馬炎の娘


繁昌公主(はんしょうこうしゅ)名は不明
司隷河内郡温県の人(??~??)

司馬炎の娘。
魏・晋の重臣の衛瓘(えいかん)の四男の衛宣(えいせん)に嫁いだ。

当時、皇后の父である楊駿(ようしゅん)の一族が権勢をふるっており、衛瓘を煙たく感じていた。
290年、楊駿は酒にだらしない衛宣を宦官とともに讒言し、離婚に追い込んだ。
衛瓘は身の危険を察知し、老齢を理由に引退した。
司馬炎は衛宣への讒言を知ると復縁も考えたが、その前に失意から病を得た衛宣は没してしまった。

繁昌公主のその後は不明である。(『晋書 衛瓘伝』)

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