三国志 ほ 1


歩璣  歩闡の甥


歩璣(ほき)字は不明
徐州臨淮郡淮陰県の人(??~272)

呉の臣。
歩協(ほきょう)の子。歩騭(ほしつ)の孫。

父が没すると、歩璣が爵位を継ぎ、叔父の歩闡(ほせん)が兵を継ぎ西陵督となった。

272年8月、歩闡は繞帳督へ転任を命じられ都に呼ばれると、父祖代々にわたり西陵督を務めながら、急に転任はおかしいと疑心暗鬼を生じ、謀叛を起こした。
歩闡は晋に降伏し高位に任じられ、歩璣も監江陵諸軍事・左将軍・散騎常侍・廬陵太守・江陵侯を与えられた。

晋からも援軍が送られたが陸抗(りくこう)に敗れて降伏し、処刑された。
一族は皆殺しとなり、下の叔父の歩璿(ほせん)だけが祭祀を絶やさないよう助命された。(『歩闡伝』)



歩協  歩騭の跡継ぎ


歩協(ほきょう)字は不明
徐州臨淮郡淮陰県の人(??~??)

呉の臣。
歩騭(ほしつ)の子。

247年、父が没すると歩協が兵と爵位を継ぎ、撫軍将軍を加官された。(『歩闡伝』)

歩協や、諸葛瑾(しょかつきん)の子の諸葛融(しょかつゆう)は父の任を引き継いでいたが、孫権は統率力に優れた朱然(しゅぜん)に彼らの指揮を執らせた。(『歩協伝』)

249年、王基(おうき)は歩協の守る夷陵を攻撃したが、籠城された。王基は攻撃の素振りを見せながら兵を分けて兵糧庫を襲い、さらに譚正(たんせい)を捕虜とし数千人を降伏させた。そして降伏者たちを移住させて夷陵県を設置した。(『王基伝』)

264年、蜀が滅亡すると、呉は救援にかこつけて蜀の旧領を切り取ろうと考え、歩協らを進撃させた。
永安城を守る羅憲(らけん)は降伏勧告をはねつけ、籠城した。
蜀を制圧した鄧艾・鍾会は反乱によって命を落とし、蜀を併合する好機だったが、羅憲の抵抗により進めなかった。歩協は城を攻めたが羅憲は城外へ出て迎え撃ち大破した。
孫休は陸抗(りくこう)に3万の兵を与え永安城を包囲させたが6ヶ月経っても落とせず、晋の援軍が現れ呉軍は撤退した。(『霍弋伝』)

歩協も没すると、その子の歩璣(ほき)が爵位を継ぎ、弟の歩闡(ほせん)が兵を継ぎ父に引き続き西陵督となった。

272年8月、歩闡は繞帳督へ転任を命じられ都に呼ばれると、父祖代々にわたり西陵督を務めながら、急に転任はおかしいと疑心暗鬼を生じ、謀叛を起こした。
晋からも援軍が送られたが陸抗に敗れて降伏し、処刑された。
一族は皆殺しとなり、下の弟の歩璿(ほせん)だけが祭祀を絶やさないよう助命された。(『歩闡伝』)



歩騭  呉の隠れた名将


個別ページへ



歩璿  歩闡の弟


歩璿(ほせん)字は不明
徐州臨淮郡淮陰県の人(??~??)

呉の臣。
歩騭(ほしつ)の子

272年8月、兄の歩闡(ほせん)は繞帳督へ転任を命じられ都に呼ばれると、父祖代々にわたり西陵督を務めながら、急に転任はおかしいと疑心暗鬼を生じ、謀叛を起こした。
歩闡は晋に降伏し高位に任じられ、歩璿も給事中・宣威将軍・都郷侯を与えられた。

晋からも援軍が送られたが陸抗(りくこう)に敗れて降伏し、処刑された。
一族は皆殺しとなり、歩璿だけが祭祀を絶やさないよう助命された。(『歩闡伝』)



歩闡  西陵で反乱した歩騭の子


歩闡(ほせん)字は不明
徐州臨淮郡淮陰県の人(??~272)

呉の臣。
歩騭(ほしつ)の子。

247年、父が没すると兄の歩協(ほきょう)が兵と爵位を継いだ。
歩協も没すると、その子の歩璣(ほき)が爵位を継ぎ、歩闡が兵を継ぎ昭武将軍を加官され西亭侯に封じられ、父に引き続き西陵督となった。(『歩闡伝』)

265年9月、歩闡の上表により孫晧は建業から武昌へ遷都した。(『孫晧伝』)

272年8月、繞帳督へ転任を命じられ都に呼ばれると、父祖代々にわたり西陵督を務めながら、急に転任はおかしいと疑心暗鬼を生じ、謀叛を決意した。
歩璣と弟の歩璿(ほせん)を晋へ送って投降を伝えると、晋から都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司・侍中・仮節・交州牧・宜都公を与えられ、歩璣・歩璿も高位に上った。(『孫晧伝』・『歩闡伝』)

晋は歩闡を援護するため羊祜(ようこ)や徐胤(じょいん)、楊肇(ようちょう)を援軍として送った。
討伐を命じられた陸抗(りくこう)は歩闡の籠城する西陵を長陣で包囲させた。まるで敵が目前に迫っているかのように急ピッチで作業させたため諸将は「晋軍の到着前に攻めれば済むのに、なぜ包囲ばかり考え兵や民を疲弊させるのか」と諌めたが、陸抗は「西陵の防備は皮肉にも私が固めたから、すぐに落とせないことはわかっている。まず晋軍に挟み撃ちされるのを防ぐべきだ」と答えた。
なおも反対され、中でも雷譚(らいたん)が誠意ある言葉で攻撃を進言したため、陸抗は一度だけ攻撃を認めたが、敗北しようやく諸将も納得した。

羊祜の軍が江陵に迫ると諸将は救援を求めたが、これにも陸抗は「江陵の防備は固く、たとえ落とされても維持はできない。西陵へ晋軍が入られたら、異民族の反乱も招き、対処のしようがない。江陵を捨ててでも西陵を包囲すべきだ」と反対した。
そして張咸(ちょうかん)に命じて平地にある江陵に水を流し、水で囲んで守らせた。羊祜は水を利用して船で兵糧を輸送しようと考え、逆に晋軍は堰を切ろうとしていると偽報を流した。だが陸抗は羊祜の考えを見抜くとすぐさま張咸に堰を切らせた。羊祜は陸路での輸送を強いられ晋軍の兵力は割かれた。

陸抗は楊肇と対峙したが古参の兪賛(ゆさん)が寝返ってしまった。陸抗は兪賛が呉軍の弱点に詳しいことを利用して罠にはめ、楊肇軍を撃退した。
数ヶ月後、楊肇は万策尽き果てて夜陰に紛れ撤退を始めた。
陸抗は追撃したかったが歩闡に背後を襲われるのを警戒し、追撃の素振りだけを見せた。楊肇の兵はこれに泡を食って恐慌状態となり、鎧を捨てて逃げ出した。陸抗は軽装の兵に追撃させ大戦果を上げ、羊祜の軍も撤退した。
孤立した歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)

歩闡と腹心ら数十人が一族皆殺しとなった。(『孫晧伝』)

(祖父の功績に免じて)歩璿だけが、一族の祭祀を絶やさないよう赦された。(『歩闡伝』)

陸抗は反乱した将兵の多くは助命嘆願してやり、助けられた者は数万人に及んだ。凱旋後も功績をおごらず謙虚な態度が変わらなかったため将兵は彼に心から仕えた。

一方で「陸機陸雲別伝」には「陸抗は歩闡を降すと嬰児まで皆殺しにした。道理ある人々は子孫に報いがあるだろうと話したが、その通りに陸機(りくき)が誅殺され陸氏は滅びた」と記される。(『陸抗伝』)

孫晧は戦勝を祝って大赦を行い、気が大きくなり尚広(しょうこう)に天下統一について占わせた。「庚子の年に(天子が用いる)青いきぬがさが洛陽に入るでしょう」と占われ、孫晧は内政を顧みず外征ばかり考えた。
280年、呉は滅亡し孫晧は洛陽へ移送された。この年は確かに庚子であった。

陸機は「弁亡論」の中で歩闡について「歩闡は異民族に反乱を呼びかけ、晋軍も雲のように集まったが陸抗に撃退された。だが陸抗も没すると(279年からの)晋の侵攻は曹操の侵攻よりも盛大ではなく、郭馬(かくば)が起こした反乱は歩闡よりも劣ったがそれによって呉は滅びた」と末期の呉の脆弱さの例えに上げている。(『孫晧伝』)



歩度根  軻比能のライバル


歩度根(ほどこん)
鮮卑の人(??~233)

鮮卑の大人(王)。

長兄の魁頭(かいとう)が没したため大人の座を継いだ。
鮮卑は歩度根の代には勢力が衰えており、次兄の扶羅韓(ふらかん)が数万の部族を別に率いていた。
曹操が幽州を制圧すると、同じく大人の軻比能(かひのう)らとともに、閻柔(えんじゅう)を通じて朝貢した。(『鮮卑伝』)

218年(『武帝紀』)、代郡烏丸の能臣氐(のうしんてい)は、魏に背き扶羅韓によしみを通じようとした。だが扶羅韓の配下が心服しておらず、いずれ失敗すると考え、軻比能とも別に連絡を取った。軻比能は扶羅韓・能臣氐と同盟を結ぼうと持ちかけ、席上で扶羅韓を殺し軍勢を奪ってしまった。
扶羅韓の幼い息子の泄帰泥(せつきでい)は軻比能に目を掛けられ、歩度根は軻比能を仇敵と付け狙うようになった。

曹丕の代になると、田豫(でんよ)が烏丸・鮮卑校尉となった。歩度根は馬を献上し、魏から王位を授けられた。
しばしば軻比能を攻撃したが劣勢となり、配下の1万戸を率いて魏の勢力圏の太原郡・雁門郡へ移住した。そして泄帰泥を「軻比能はいつかお前を殺そうと企んでいる。父の仇よりも肉親を信じるべきだ」と懐柔し、味方につけた。(『鮮卑伝』)

歩度根・泄帰泥が3万戸を率いて魏に従属すると、雁門太守の牽招(けんしょう)はこれを好機と歩度根らに軻比能を攻撃させ、その弟の苴羅侯(しょらこう)と烏丸の王同(おうどう)・王寄(おうき)を討ち取り、自らも兵を出し軻比能を撃破した。(『牽招伝』)

222~224年にかけ、歩度根・軻比能・素利(そり)の率いる三部族が争った。
224年、軻比能は鮮于輔(せんうほ)へ「仇敵の素利と戦った時、田豫は素利に味方し、歩度根は私の弟を殺しておきながら、略奪を働いているのは私だと誣告しています。私の一族は魏から印綬を授かり、忠誠を誓っています」と仲裁を頼んだ。鮮于輔の上聞により、曹丕は田豫に調停を命じた。

同224年、歩度根は自ら朝貢し魏との関係を深め、以後は守りを固めて国境を荒らさなかった。
軻比能の勢力はますます強まったが、曹叡の代になると魏は異民族との戦いを避け、名目的に支配下に置くだけに留められた。

233年、軻比能から歩度根へ同盟を持ちかけ、連合軍は并州へ侵攻した。(『鮮卑伝』)
并州刺史の畢軌(ひつき)は討伐を訴え出たが、曹叡は「歩度根は軻比能に誘われたが迷いがある。討伐軍を差し向ければかえって結託させてしまうだろう」と反対したものの、畢軌はすでに蘇尚(そしょう)、董弼(とうひつ)を出撃させていた。軻比能は息子に1千騎を与え歩度根の民を迎えに行かせたが、これが討伐軍と出くわし、不意をつかれたのか2将は敗北し首を打たれた。
歩度根は国境を出て軻比能と合流し、魏へ攻撃を加えた。都から派遣された秦朗(しんろう)にようやく撃退され、鮮卑軍は北方へ逃げた。(『明帝紀』)

泄帰泥は裏切って魏へ降伏した。歩度根は軻比能に殺された。(『鮮卑伝』)
配下の戴胡阿狼泥(たいこあろうでい)らが10月に魏へ降伏し、秦朗の討伐軍も帰還しており、それまでに殺されたと思われる。(『明帝紀』)

2年後、軻比能も魏の刺客に暗殺された。(『鮮卑伝』)



歩夫人(練師)  心の皇后


歩夫人(ほふじん)名は不明
徐州臨淮郡淮陰県の人(??~238)

孫権の側室。

呉の重臣・歩騭(ほしつ)の一族。
(曹操の徐州侵攻から避難し?)母に連れられ廬江郡へ移住し、廬江も孫策に攻められると、江南へ移住した。
大変な美貌で孫権に見初められ、後宮で最も寵愛された。
孫魯班(そんろはん)、孫魯育(そんろいく)の二人の娘を生んだ。
嫉妬を知らない性格で、後宮の他の女性の後ろ盾となり、孫権は長く彼女を大切にした。

220年、孫権が呉王に封じられると王后に、229年、孫権が帝位につくと皇后に立てたいと考えたが、群臣は正室の徐夫人(じょふじん)を立后すべきだと主張したため、決められないまま十余年が経った。しかし宮中では皆が歩夫人を皇后と呼び、一族も彼女を中宮(※皇后の呼称)と呼んだ。(『孫権歩夫人伝』)

徐夫人は孫権の長男の孫登(そんとう)を、生母の身分が低かったため代わりに養育した。
だが嫉妬深い性格の彼女は次第に孫権に疎まれ、212年、秣陵(後の建業)に遷都される際に正室から廃され、呉郡に残された。
代わって歩夫人が寵愛されると、孫登は彼女からの贈り物は無理に辞退せず丁寧に受け取った。
一方で徐夫人から衣服が贈られると、必ず沐浴し身を清めてからまとい、孝行を忘れなかった。

229年、孫権が帝位につくと孫登が太子に推されたが、孫登は「まず母を皇后に立てるべき」と主張した。孫権が母親とは誰かと訝ると、孫登は徐夫人が健在だと答え、孫権は黙ってしまった。
群臣も賛同したが孫権は歩夫人を皇后にしたいと思っていたため応じなかった。(『孫権徐夫人伝』・『孫登伝』)

238年、逝去すると群臣は孫権の意向を受け、正式に皇后の位を追贈するよう申し出て、印綬が贈られた。
孫権は策命(任命書)で「あなたこそは私の補佐で、日夜敬虔に務め、心は広く思いやり深く、貞淑だった。臣下も民衆も、遠きも近きもあなたに心を寄せた。私はまだ天下が統一されないから、あなたの謙譲の心に沿い、皇后に立てなかったが、それはあなたが長寿を得て、末永くともにいられると考えていたからだ。あなたを皇后にできなかったことを心残りに思い、深い愛惜の念に心を痛めている。今、皇后の位を授けるが、あなたの魂はこの栄誉を喜んでくれるだろう。ああ、哀しいことだ」と述べた。
蔣陵(孫権の陵墓)に葬られた。(『孫権歩夫人伝』)

孫権は(※生前に歩夫人を立后しなかった反省からか)袁夫人(えんふじん)を立后しようとしたが、子供に恵まれなかったため固辞された。後に潘夫人(はんふじん)に讒言され、殺された。(『孫権潘夫人伝』)

孫和(そんか)が太子に立てられると、その母の王夫人(おうふじん)が立后されようとしたが、孫魯班は(母が立后されなかったことを恨み)王夫人を讒言して寵愛を薄れさせ、心労から死に追いやった。(『孫権王夫人伝』)

孫魯班はそのため孫和に恨まれていると恐れ、夫の一族とともに弟の孫覇(そんは)を擁立し、二宮の変を引き起こした。

「演義」には登場しない。
「真・三國無双」には諱の練師(れんし)の名で登場する。(※練師の名は「建康実録」に見える)



蒲忠  朱然に敗れる


蒲忠(ほちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の将。

242年、朱然が魏を攻めると胡質(こしつ)とともにそれぞれ数千の兵を率いて迎え撃った。
蒲忠は要害を抑えて退路を断ち、胡質は背後からそれを援護した。
ちょうど朱然の兵は四方に散っていたため手勢8百しか残っていなかったが、構わず打って出て来た。思わぬ反撃に形勢不利と見た胡質は無理をせず撤退した。(『朱然伝』)

なお裴松之は「正史」の誤記で237年のことではないかと指摘している。



蒲頭  西部鮮卑の大人


蒲頭(ほとう)
鮮卑の人(??~??)

西部鮮卑の大人(王)。
姓は附頭(ふとう)とも書かれる。

228年、護鮮卑校尉の田豫(でんよ)は、鮮卑の大人(王)の軻比能(かひのう)の娘婿である鬱築鞬(うつちくけん)に通訳の夏舎(かしゃ)を殺されたため、軻比能と敵対する泄帰泥(せつきでい)と西部鮮卑の蒲頭とともに報復の兵を挙げ、鬱築鞬を撃破した。(『鮮卑伝』)



慕容


未作成



輔匡  李厳に寄せ付けられず


輔匡(ほきょう)字は元弼(げんひつ)
荊州襄陽郡の人(??~??)

蜀の臣。

211年からの劉備の益州侵攻に随行した。

214年、益州が制圧されると巴郡太守に任命された。(『楊戯伝』)

222年、夷陵の戦いでは趙融(ちょうゆう)・廖化(りょうか)・傅彤(ふとう)らとそれぞれ一軍団を率いた。(『陸遜伝』)

建興年間(223~237)に鎮南将軍に転じ、右将軍に上り中郷侯に封じられた。

李厳(りげん)は自尊心が強く、輔匡ら年齢も地位も彼に次ぐ人物も寄せ付けなかったが、20以上も年下の費観(ひかん)とは打ち解け、まるで同年輩のように付き合った。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「豪気で、軍事の任務につき、辺境の地で活躍した」と評した。(『楊戯伝』)



芒中  反乱した焼当羌の王A


芒中(ぼうちゅう)
羌族の人(??~??)

焼当羌の王。

238年、同じく焼当羌の王の注詣(ちゅうけい)とともに反乱し、涼州刺史(※徐邈(じょばく)か)に討伐され、注詣は斬られた。(『明帝紀』)



法衍


未作成



法真


未作成



法正  悲運の天才


個別ページへ



法邈


未作成



封賞  胡族三巨頭?


封賞(ほうしょう)
胡族の人(??~??)

221年、涼州で伊健妓妾(いけんぎしょう)・治元多(ちげんた)・封賞が魏に反乱した。
「文帝紀」には伊健妓妾ではなく盧水(ろすい)という名が見えるが、「張既伝」に伊健妓妾は涼州盧水の人と記され、同一人物と思われる。(『文帝紀』・『張既伝』)

反乱を聞いた曹丕は張既(ちょうき)でなければ対処できないと考え、涼州刺史に交代させた。
張既は後詰めを待たずに強行軍で進撃し、その速さに胡族は神業と驚き後退した。
さらに張既は歩を緩めず兵を進め、胡族をおびき寄せると伏兵で叩き、大勝利を挙げた。

伊健妓妾らの消息は不明である。(『張既伝』)



封仁  曹操の蔣済への信頼を聞く


封仁(ほうじん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

温恢(おんかい)が揚州刺史になると蔣済(しょうせい)はその別駕に任命され、曹操は「君がいれば心配ない」と辞令を下した。
後に蔣済が謀叛を企んでいると誣告されると、曹操はその辞令を于禁(うきん)と沛国相の封仁らに示し「謀叛が事実なら私は人を知らないことになる。これは愚民が騒乱を楽しんでいるだけだ」と言い、すぐに釈放させ、召し寄せて丞相主簿西曹属に取り立てた。(『蔣済伝』)



封俌


未作成



紡績


未作成



逢紀  目から鼻に抜ける


個別ページへ



彭綺  鄱陽で反乱


彭綺(ほうき)字は不明
揚州鄱陽郡の人?(??~227?)

賊徒。

225年、鄱陽の大頭目の彭綺が反乱し将軍を自称した。辺りの諸県を攻め落とし、軍勢は数万に膨れ上がった。(『呉主伝』)

魏ではこれに連動し呉を討伐しようという意見が上がった。曹叡が孫資(そんし)に諮問すると「鄱陽では何度も反乱が起きていますが、軍勢は弱く計画は粗末でたちまち瓦解しています。先帝(曹丕)は呉では法令を上も下も遵守し、すぐに立ち直ると申されました。彭綺は孫権の内臓に食い込む大病にはなれますまい」と答えた。(『劉放伝』)

227年、鄱陽太守に任じられた周魴(しゅうほう)は胡綜(こそう)と協力して討伐し、生け捕りにして武昌の都に送った。(『呉主伝』・『周魴伝』)

魏へ偽装投降する際に周魴は、曹休(そうきゅう)へ「彭綺が反乱した時、あなたが後1ヶ月、付近に駐留していたら呉軍は攻撃できなかった」と記した。(『周魴伝』)



彭璆  孔融に推挙される


彭璆(ほうきゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

北海国相となった孔融(こうゆう)は、彭璆を方正に、邴原(へいげん)を有道に、王脩(おうしゅう)を孝廉に推挙した。(『崔琰伝』)

孔融は公卿に任命されるほどの逸材を登用するよう呼びかけ、鄭玄(じょうげん)が計掾に、彭璆が計吏に、邴原が計佐に取り立てられた。(『邴原伝』)



彭虎


未作成



彭材


未作成



彭式


未作成



彭旦


未作成



彭羕  残念すぎる男


個別ページへ



鮑雅  鮑出の兄弟達


鮑雅(ほうが)字は不明
司隸京兆郡新豊県の人(??~??)

平民。
鮑出(ほうしゅつ)の兄弟達。

上から鮑初(ほうしょ)、鮑雅、鮑出、鮑成(ほうせい)で末弟の名だけが不明の五人兄弟。

興平年間(194~195)、三輔(長安周辺)は乱れ、飢饉に襲われた。鮑出は老母に留守を任せ兄弟とともに食料調達に出掛けたが、数十人の人食い盗賊によって母は連れ去られた。
兄弟はひるんだが鮑出は「母が煮て食われ、自分が生き延びたとしてなんになる」と言い、ただ一人で後を追った。
盗賊は気づいて待ち構えたが、鮑出は端から数人を叩き斬った。囲まれると包囲を飛び越え、十数人を斬り捨てた。盗賊は母や他の人質を連れて逃げたので追撃した。
盗賊は泡を食って「何が望みだ」と言い、鮑出が指差した母を解放した。近所の老婆も捕まっており、助けを求めたので鮑出はまた賊を殺した。「母は助けてやっただろ」と賊が言うと「あれは兄嫁だ」と老婆を指差し、解放させた。
鮑出は母と老婆を連れ帰り、後に南陽郡へ移住した。

200年、ようやく三輔が落ち着いたので帰郷した。兄弟は母を車に乗せようとしたが、鮑出は道が険しく危険だと、母を籠に入れて背負った。
郷里の士大夫は孝行に感心し州や郡に推挙しようとしたが、鮑出は「農民は冠や帯に耐えられません」と辞去した。

鮑出は平民のまま仕官しなかったが、その孝行ぶりとあまりの強さから「魏略」では孫嵩(そんすう)、楊豊(ようほう)、祝公道(しゅくこうどう)とともに「勇侠伝」に列伝された。(『閻温伝』)



鮑勛  曹丕に恨まれ殺される


鮑勛(ほうくん)字は叔業(しゅくぎょう)
兗州泰山郡平陽県の人(??~226)

魏の臣。
曹操が挙兵した頃の盟友だった鮑信(ほうしん)の三男。

清廉にして節操高く、広く名を知られた。
212年、曹操は鮑信の功績を採り上げ、兄の鮑卲(ほうしょう)が列侯され、鮑勛も丞相掾になった。
217年、曹丕の太子中庶子に任じられると、公正な彼は曹丕の思い通りにならず、気に入られなかった。
後に黄門侍郎を経て、魏郡の都尉の時、曹丕側室の郭貴人(かくきじん)の弟が罪を犯した。曹丕は何度も自筆の手紙を送り罪の免除を頼んだが、鮑勛は気にせず公正に裁いたため、大いに恨まれた。
曹丕は裏から手を回し、鮑勛を免職させた。

侍御史に復帰し220年、曹操が没すると駙馬都尉のまま侍中を兼ねた。(『鮑勛伝』)
同年、司馬懿らとともに曹丕に皇帝への即位を求めた。(『文帝紀』)

その後「狩猟より政治に励んでいただきたい」と重ねて上奏し、激怒した曹丕はその場で上奏文を破り捨てた。
鮑勛は全くめげず、狩猟に賛成した劉曄(りゅうよう)の処罰まで求めたため、曹丕は狩りを切り上げて帰り、鮑勛を左遷させた。

223年、司馬懿と陳羣(ちんぐん)が鮑勛を御史中丞に推挙し、曹丕もやむなく認めた。皇帝にも諫言する彼を恐れ、人々は襟を正した。

225年、呉への遠征の際にも「呉・蜀は要害に囲まれており失敗するでしょう」と意見し、曹丕は鮑勛を再び左遷させた。無視して出陣した曹丕は敗北した。

孫邕(そんよう)は鮑勛を訪ねる際、設営中で標識が立っているだけの陣をつい横切った。劉曜(りゅうよう)は処罰しようとしたが鮑勛はそれをなだめた。
その後、劉曜が罪を犯したため鮑勛が罷免しようとすると、劉曜は孫邕を不問にした件を訴えた。かねてから鮑勛を憎んでいた曹丕は、これ幸いと投獄した。

廷尉の高柔(こうじゅう)は懲役5年、三官は罰金刑と判断したが、曹丕は三官以下を逮捕した挙げ句に処刑を命じた。
鍾繇(しょうよう)・華歆(かきん)・陳羣ら名だたる重臣が反対し、父の鮑信の功績に免じるよう訴えたが、曹丕は聞き入れず処刑を命じた。(『鮑勛伝』)
高柔は命令が下っても処刑を執行しなかったため、曹丕は彼を出頭させ、その隙に鮑勛を拷問に掛け、息絶えてから高柔を解放した。(『高柔伝』)

そのわずか20日後に急病から曹丕は没しており、誰もが鮑勛の運の無さを嘆いた。
父に似て施しを好んだ彼の家に、財産はほとんど残っていなかったという。(『鮑勛伝』)

陳寿は「崔琰(さいえん)は品格最も優れ、鮑勛は正しさを守り欠点がなかったのにいずれも死を免れなかった。残念だ。明哲(理解力・判断力に優れる)と直温(正しく真っ直ぐでありながら温和)を兼備できる者はほとんどいない」と評した。

「演義」には登場しない。



鮑鴻  獄死した西園八校尉


鮑鴻(ほうこう)字は不明
司隸右扶風郡の人(??~189)

後漢の臣。

185年、涼州で反乱した辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)を張温(ちょうおん)・董卓らが討伐した。
ある夜、大彗星が現れたのに驚き反乱軍は恐慌をきたし、董卓はそれを好機と鮑鴻とともに攻撃し、数千の首級を挙げた。(『後漢書 董卓伝』)

「山陽公載記」に曰く。
188年、霊帝は西園八校尉を設置し、屯騎校尉の鮑鴻を下軍校尉に任命した。

同年、葛陂の黄巾賊を討伐した。
189年、投獄され獄死した。(『後漢書 霊帝紀』)



鮑子春


未作成



鮑出  強すぎる孝行息子


鮑出(ほうしゅつ)字は文才(ぶんさい)
司隸京兆郡新豊県の人(??~??)

平民。
若い頃は侠客だった。

興平年間(194~195)、三輔(長安周辺)は乱れ、飢饉に襲われた。鮑出は老母に留守を任せ兄弟とともに食料調達に出掛けたが、数十人の人食い盗賊によって母は連れ去られた。
兄弟はひるんだが鮑出は「母が煮て食われ、自分が生き延びたとしてなんになる」と言い、ただ一人で後を追った。
盗賊は気づいて待ち構えたが、鮑出は端から数人を叩き斬った。囲まれると包囲を飛び越え、十数人を斬り捨てた。盗賊は母や他の人質を連れて逃げたので追撃した。
盗賊は泡を食って「何が望みだ」と言い、鮑出が指差した母を解放した。近所の老婆も捕まっており、助けを求めたので鮑出はまた賊を殺した。「母は助けてやっただろ」と賊が言うと「あれは兄嫁だ」と老婆を指差し、解放させた。
鮑出は母と老婆を連れ帰り、後に南陽郡へ移住した。

200年、ようやく三輔が落ち着いたので帰郷した。兄弟は母を車に乗せようとしたが、鮑出は道が険しく危険だと、母を籠に入れて背負った。
郷里の士大夫は孝行に感心し州や郡に推挙しようとしたが、鮑出は「農民は冠や帯に耐えられません」と辞去した。

青龍年間(233~237)に母は100余歳で没し、70余歳になっていた鮑出は礼の通り喪に服した。

「魏略」では孫嵩(そんすう)、楊豊(ようほう)、祝公道(しゅくこうどう)とともに「勇侠伝」に列伝された。
著者の魚豢(ぎょかん)はまだ存命の彼に会い「8~90歳だが5~60歳になったばかりのようだ」と記し、さらに「彼らの名を消さず、軽薄な世俗を正すことを願う。鮑出は礼教を知らないにもかかわらず、心の痛みから自然に礼と同じ思いが湧き出した。一生を平民として送ったが、誠実で激情な君子と何が異なるだろう」と評した。(『閻温伝』)



鮑初  鮑出の兄弟達


鮑初(ほうしょ)字は不明
司隸京兆郡新豊県の人(??~??)

平民。
鮑出(ほうしゅつ)の兄弟達。

上から鮑初、鮑雅(ほうが)、鮑出、鮑成(ほうせい)で末弟の名だけが不明の五人兄弟。

興平年間(194~195)、三輔(長安周辺)は乱れ、飢饉に襲われた。鮑出は老母に留守を任せ兄弟とともに食料調達に出掛けたが、数十人の人食い盗賊によって母は連れ去られた。
兄弟はひるんだが鮑出は「母が煮て食われ、自分が生き延びたとしてなんになる」と言い、ただ一人で後を追った。
盗賊は気づいて待ち構えたが、鮑出は端から数人を叩き斬った。囲まれると包囲を飛び越え、十数人を斬り捨てた。盗賊は母や他の人質を連れて逃げたので追撃した。
盗賊は泡を食って「何が望みだ」と言い、鮑出が指差した母を解放した。近所の老婆も捕まっており、助けを求めたので鮑出はまた賊を殺した。「母は助けてやっただろ」と賊が言うと「あれは兄嫁だ」と老婆を指差し、解放させた。
鮑出は母と老婆を連れ帰り、後に南陽郡へ移住した。

200年、ようやく三輔が落ち着いたので帰郷した。兄弟は母を車に乗せようとしたが、鮑出は道が険しく危険だと、母を籠に入れて背負った。
郷里の士大夫は孝行に感心し州や郡に推挙しようとしたが、鮑出は「農民は冠や帯に耐えられません」と辞去した。

鮑出は平民のまま仕官しなかったが、その孝行ぶりとあまりの強さから「魏略」では孫嵩(そんすう)、楊豊(ようほう)、祝公道(しゅくこうどう)とともに「勇侠伝」に列伝された。(『閻温伝』)



鮑卲  鮑勛の兄


鮑卲(ほうしょう)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(??~??)

魏の臣。
曹操が挙兵した頃の盟友だった鮑信(ほうしん)の長男か次男。

212年、曹操は鮑信の功績を採り上げ、鮑卲は新都亭侯に列侯され、弟の鮑勛(ほうくん)も丞相掾になった。
父の風格を受け継いでいるとして、さらに騎都尉・使持節を加えられた。

没すると子の鮑融(ほうゆう)が後を継いだ。

なお弟の鮑勛は曹丕と折り合いが悪く、226年に処刑されている。(『鮑勛伝』)



鮑信  曹操の戦友


個別ページへ



鮑成  鮑出の兄弟達


鮑成(ほうせい)字は不明
司隸京兆郡新豊県の人(??~??)

平民。
鮑出(ほうしゅつ)の兄弟達。

上から鮑初(ほうしょ)、鮑雅(ほうが)、鮑出、鮑成で末弟の名だけが不明の五人兄弟。

興平年間(194~195)、三輔(長安周辺)は乱れ、飢饉に襲われた。鮑出は老母に留守を任せ兄弟とともに食料調達に出掛けたが、数十人の人食い盗賊によって母は連れ去られた。
兄弟はひるんだが鮑出は「母が煮て食われ、自分が生き延びたとしてなんになる」と言い、ただ一人で後を追った。
盗賊は気づいて待ち構えたが、鮑出は端から数人を叩き斬った。囲まれると包囲を飛び越え、十数人を斬り捨てた。盗賊は母や他の人質を連れて逃げたので追撃した。
盗賊は泡を食って「何が望みだ」と言い、鮑出が指差した母を解放した。近所の老婆も捕まっており、助けを求めたので鮑出はまた賊を殺した。「母は助けてやっただろ」と賊が言うと「あれは兄嫁だ」と老婆を指差し、解放させた。
鮑出は母と老婆を連れ帰り、後に南陽郡へ移住した。

200年、ようやく三輔が落ち着いたので帰郷した。兄弟は母を車に乗せようとしたが、鮑出は道が険しく危険だと、母を籠に入れて背負った。
郷里の士大夫は孝行に感心し州や郡に推挙しようとしたが、鮑出は「農民は冠や帯に耐えられません」と辞去した。

鮑出は平民のまま仕官しなかったが、その孝行ぶりとあまりの強さから「魏略」では孫嵩(そんすう)、楊豊(ようほう)、祝公道(しゅくこうどう)とともに「勇侠伝」に列伝された。(『閻温伝』)



鮑丹  鮑信の父


鮑丹(ほうたん)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(??~??)

後漢の臣。
鮑信(ほうしん)の父。
鮑勛(ほうくん)の祖父。

「王沈魏書」に曰く。
少府侍中まで上り、一族は代々、儒学の教養で有名だった。(『鮑勛伝』)



鮑韜  鮑信の弟


鮑韜(ほうとう)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(??~190)

後漢の臣。
鮑信(ほうしん)の弟。
鮑勛(ほうくん)の叔父。

「王沈魏書」に曰く。
190年、曹操が挙兵すると兄とともにそれに応じた。曹操は袁紹とともに鮑信を行破虜将軍に、鮑韜を裨将軍に任命した。
董卓軍に敗れ、鮑信は負傷し鮑韜は戦死した。(『鮑勛伝』)

「演義」には鮑信の架空の弟の鮑忠(ほうちゅう)が登場し、華雄(かゆう)に斬られる。



鮑融  鮑卲の子


鮑融(ほうゆう)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(??~??)

魏の臣。
鮑卲(ほうしょう)の子。
曹操が挙兵した頃の盟友だった鮑信(ほうしん)の孫にあたる。

212年、曹操は鮑信の功績を採り上げ、鮑卲を列侯した。

鮑卲が没すると子の鮑融が後を継いだ。(『鮑勛伝』)



龐淯  母子ともに義士


龐淯(ほういく)字は子異(しい)
涼州酒泉郡表氏県の人(??~??)

魏の臣。
龐娥親(ほうがしん)の子。

龐娥親の父の趙君安(ちょうくんあん)は李寿(りじゅ)に殺された。弟3人は仇討ちを狙ったが、疫病により3人とも亡くなった。
李寿は「龐家の男は死に絶えもう心配いらない」と笑い、これを幼い龐淯が聞き、母の龐娥親に伝えると、彼女はいきり立ち、名刀を入手し研ぎ澄ました。
そして179年、龐娥親は自ら李寿を殺した。出頭し罪を請うたが、刺史も太守も彼女を讃え、罪に問われることはなく、各地で顕彰された。(『龐淯伝』)

龐淯は涼州刺史の張既(ちょうき)が招聘した人物の一人で、みな名声と地位を得たと記される。(『張既伝』)

長じると涼州従事を務め破羌県長を代行した。
209年、雍州刺史の邯鄲商(かんたんしょう)が仲違いの末に張猛(ちょうもう)に殺され、張猛は「弔う者は処刑する」と布告した。
龐淯は官を辞すと、昼夜兼行で邯鄲商の遺体のもとに向かい、号泣して弔い、匕首を忍ばせ張猛を訪ね暗殺しようとした。
失敗したが張猛は「私は刺史を殺して罪を犯し、彼は至忠で名声を得る。彼を殺せば州の道義ある人々は誰も従わない」と嘆息し、義士であると讃え、殺さないよう命令し、龐淯は忠烈さで名声を博した。
酒泉太守の徐揖(じょゆう)に招聘され主簿となった。(『龐淯伝』)

徐揖は豪族の黄一族を処刑した。
黄昴(こうこう)は脱出し、兵を集め城を包囲した。(『閻温伝』)

龐淯は妻子を捨てて城を抜け出し、近くの二郡に救援を求めた。二郡ははじめ信じなかったが、龐淯が自害しようとするとその義心に打たれ兵を出した。だが間に合わず徐揖は殺された。
龐淯は遺体を引き取り、故郷に送り届け、3年の喪に服した。
曹操はそれを聞き、掾属に招いた。

220年、曹丕が帝位につくと駙馬都尉に任じられ、西海太守に上り、関内侯に封じられた。
後に都に召し返され中散大夫となり、逝去した。
子の龐曾(ほうそう)が後を継いだ。

陳寿は「我が身を殺すことを恐れず、誠意は隣国を感動させた」と評した。(『龐淯伝』)

「魏略」では文聘(ぶんぺい)、王脩(おうしゅう)、成公英(せいこうえい)、脂習(ししゅう)、郭憲(かくけん)、単固(ぜんこ)らとともに「純固伝」に列伝された。(『王脩伝』)

「演義」には登場しない。



龐延  張既に招聘された謎の人物


龐延(ほうえん)字は不明
司隸扶風郡の人(??~??)

魏の臣?

涼州刺史の張既(ちょうき)が招聘した人物の一人で、みな名声と地位を得たと記される。(『張既伝』)

楊阜(ようふ)・龐淯(ほういく)ら正史に列伝された人物も含まれるが、龐延だけ事績がわからない。



龐延  蔣琬に推薦される


龐延(ほうえん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

223年、蔣琬(しょうえん)は諸葛亮から茂才に推挙されたが、固辞して劉邕(りゅうよう)・陰化(いんか)・龐延・廖化(りょうか)らを代わりに勧めた。(『蔣琬伝』)



龐娥  三国一の烈女


龐娥(ほうが)字は不明
涼州酒泉郡禄福県の人(??~??)

龐淯(ほういく)の母。
「龐淯伝」に附伝される。

趙安(ちょうあん)の娘で正確には趙娥である。
「烈女伝」では龐娥親(ほうがしん)と書かれる。

父の趙安は李寿(りじゅ)に殺された。
3人の兄弟も亡くなり李寿は報復を逃れたと安堵したが、龐娥は帳のある車に乗り袖に剣を隠し、白昼に李寿を刺殺した。そしてゆっくりと役所に赴き、顔色も変えず「父の仇討ちをしましたので死刑を受けたいと思います」と報告した。
県長の尹嘉(いんか)は感嘆し印綬の紐を解き辞任の意を示すと、罪に問わず無理やり龐娥を車に乗せ家へ帰した。ちょうど恩赦があり罪を免れた。
州郡も感嘆し龐娥の事績を石に刻み村の門に建てた。

皇甫謐(こうほひつ)の「烈女伝」に詳しい経緯が記される。
龐娥親の弟3人は仇討ちを狙ったが、李寿の守りは固く、果たせないうちに疫病により3人とも亡くなった。
李寿は「龐家の男は死に絶えもう心配いらない」と笑い、これを幼い龐淯が聞き、母の龐娥親に伝えると、彼女は「どうして私が刃を手にお前を殺さないと思い込むのだ」といきり立ち、名刀を入手し研ぎ澄ました。李寿はそれを聞くと気を引き締め直し馬に乗って刀を帯びた。
近所に住む徐氏(じょし)の夫人は龐娥親を心配し「李寿は凶悪な男で備えまでしています。あなたが激しい気持ちでも力の強弱では敵いません。返り討ちに遭えば家が断絶してしまいます」と忠告したが「親の仇とは天地日月を共にしません。李寿が死ななければ私はいったいなんのために生きるのでしょう。弟も死に絶えもはや家は断絶したも同然ですがまだ私がいます。あなたは李寿を殺すのは不可能とお考えだが、私は殺せて当然と思っています」と聞く耳持たなかった。家の者も近所の者も龐娥親を嘲笑った。
ついに家を捨てて車で李寿を付け狙い、179年2月上旬、白昼に李寿と出くわした。すぐさま車を降り怒鳴りつけると、仰天した李寿は馬首を返そうとしたが、龐娥親は刀で斬りつけ人馬ともに傷つけた。馬は騒いで李寿を道路脇の溝へ振り落とし、龐娥親は斬りつけたが木に当たって刀が折れた。
そこで李寿の刀を奪おうとし、飛び起きた李寿に身体ごとぶつかり、左手で額を抑え右手で喉を何度も突き、押し倒して刀を奪い首を斬った。
李寿の首級を持って役所へ報告に上がり、言葉も顔色も平素と変わらなかった。県長の尹嘉は心打たれ辞任して赦そうとしたが、龐娥親は「復讐を終えて私は死に、裁判をし刑罰を決めるのはあなたの務めです。どうして生を貪るために法を曲げましょう」と言った。
聞きつけた村人が集まり、誰もが感嘆した。守尉(警察長)は逃亡させようとしたが龐娥親は「法を曲げ死を逃れるのは私の本心ではありません。復讐を果たし1万回殺されようとも満足しています。立派な役所に負担を掛けたくありません」と大声で反対した。守尉は無理やり車に乗せ家へ帰した。
涼州刺史の周洪(しゅうこう)、酒泉太守の劉班(りゅうはん)も揃って赦免を訴え(許可され)た。
道義心を称え事績を彫った石碑を龐娥の村の門に建て、太常の張奐(ちょうかん)は絹を贈るなど、話を聞いた者は襟を正して感心し評価しない者はなかった。
後の安定太守の梁寛(りょうかん)は伝記を作り、皇甫謐は「本来は男の行う仇討ちを女のか細い身で、父の受けた恥辱の痛ましさを思い、仇の凶悪な言葉に心を奮い立たせ、人馬ともに叩きのめした。亡父の魂を満足させ、3人の弟の恨みをそそいだ。近世にかつてなかったことである。詩経に(仇討ちのことで)うたわれたのはまさに娥親のことである」と評した。

子の龐淯も母譲りの義侠心で主の仇討ちを狙い、危機を救うため命を賭した。(『龐娥伝』)

附伝ながら「正史」で后妃以外で唯一列伝された女性であり、事績も三国時代から外れた黄巾の乱以前のことながら収録されたのは異例のことである。

「演義」には母子ともに登場しない。



龐会  龐悳の子


龐会(ほうかい)字は不明
雍州南安郡狟道県の人(??~??)

魏の臣。
龐悳の子。

219年、父は関羽の捕虜となり、降伏を拒否し処刑された。
曹丕は龐悳の墓所へ使者を送るとともに諡し、龐会ら4人の子にそれぞれ100戸を与え関内侯に封じた。
龐会は勇気があって厳しく、父の風格があり中衛将軍まで上り列侯された。(『龐悳伝』)

257年、諸葛誕の反乱の際に平寇将軍・臨渭亭侯の龐会は反乱に加担せず、路蕃(ろばん)とともに城門から打って出て逃亡した。
曹髦は「壮絶な忠義と壮烈な勇敢さを褒め称えるべきだ」と詔勅を下し龐会の爵位を郷侯に進め、路蕃を列侯した。(『高貴郷公紀』)

263年、蜀征伐が始まり、鍾会は胡烈(これつ)・田続(でんぞく)・龐会らに姜維を追撃させた。(『鍾会伝』)

「蜀記」に曰く。
蜀が滅亡すると龐会は関羽の子孫をことごとく滅ぼした。(『鍾会伝』)

同じく「蜀記」に曰く。
鍾会は蜀にあった龐悳の遺体を引き取り鄴へ送った。遺体はまるで生きているかのようだった。

裴松之は「龐悳は樊城の戦いで死に、曹丕が墓所に使者を送っているのだから遺体が蜀にあるはずがない」と指摘しており、龐会が関羽の子孫を滅ぼした話も眉唾ものである。(『龐悳伝』)

「演義」では樊城の戦いへ向かう父を母とともに見送り、龐悳は「息子は大成し、もし自分が死んでも必ず仇を討つだろう」と言い残した。
蜀征伐にも従軍するが、関羽の子孫は滅ぼさない。



龐楽  李異とともに趙韙を裏切る


龐楽(ほうがく)字は不明
出身地不明(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の臣。

劉璋の重臣の趙韙(ちょうい)は謀叛を起こしたが、返り討ちにした。
趙韙は配下の龐楽・李異(りい)に裏切られ、殺された。(『劉璋伝』)

その後、李異は劉備の益州侵攻の際に劉璋配下に名が見え、さらに呉に同一人物と思われる事績があるが、龐楽の消息は不明である。



龐渙


未作成



龐季  蒯越とともに張虎・陳生を説得


龐季(ほうき)字は不明
出身地不明(??~??)

荊州牧の劉表(りゅうひょう)の臣。

賊徒の張虎(ちょうこ)・陳生(ちんせい)は襄陽に割拠していたが、劉表は蒯越(かいえつ)・龐季を部下を付けず単身で派遣し、説得されて降伏した。(『劉表伝』)



龐煕  曹芳に殴られ諦める


龐煕(ほうき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「王沈魏書」に曰く。
司馬師らは曹芳の廃位を求める上奏の中で「郭懐(かくかい)・袁信(えんしん)らつまらぬ役者を宮殿に引き入れ、全裸で保林の女尚(じょしょう)らと乱交させた。妖婦の恰好をさせて悪ふざけさせたり、親族の女性と酒席で乱交させた。
保林の李華(りか)・劉勲(りゅうくん)ともいちゃつき、清商令(※女官長)の令狐景(れいこけい)が叱りつけると、李華・劉勲は曹芳に言いつけ、曹芳はハジキ(※弾棊に使うスティック?)で令狐景の頭や目を殴り、なおもひるまず諫言されると鉄を熱して全身を焼いた。
(251年、)甄皇后(しんこうごう)が没すると曹芳は寵愛する王貴人(おうきじん)を立后しようとしたが、郭太后は外部から探そうとしたため、曹芳は令狐景に「魏の王室(※曹操・曹丕・曹叡)は全て愛情で皇后を選んだではないか」と立腹し、郭太后が選んだ張皇后(ちょうこうごう)を疎んじた。
郃陽君(こうようくん ※郭太后の母の杜氏)が没しても喪に服さず、清商丞の龐煕が「郭太后は飲み物も喉を通らないほど悲しまれており、陛下は慰めに行くべきなのに遊び呆けているのはよろしくありません」と諫言したが「私は自然に振る舞っているだけで誰にもどうこうできない」と聞かなかったため郭太后が怒って曹芳のお気に入りの張美人(ちょうびじん)と禺婉(ぐえん)を殺すと「母子の縁を切る」と宣言した。
曹芳は親族の美しい娘を清商(※女官庁)に入れ、家来とともに手をつないで歩いた。龐煕がたしなめるとまたもハジキで殴った。
令狐景・龐煕は迫害された末に恐れからこびへつらうようになった」と弾劾した。(『斉王紀』)



龐羲  劉璋の縁者


個別ページへ



龐恭  楊阜とともに馬超を撃退した同志F


龐恭(ほうきょう)字は不明
涼州南安郡の人(??~??)

魏の臣。

213年(※建安17年(212年)と誤記される)、馬超は張魯(ちょうろ)の援軍を得て1万の兵で冀城を陥落させた。
楊阜(ようふ)は城外にいた龐恭ら同志を密かに集めると城外で挙兵し、馬超が討伐に出た隙に冀城を奪回した。
楊阜は5ヶ所の傷を受け、一族の従弟ら7人が戦死したが撃退に成功した。(『楊阜伝』)



龐宏  陳祗を軽んじ干された龐統の子


龐宏(ほうこう)字は巨師(きょし)
荊州襄陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
龐統の子。

気が強く飾り気のない性格で、(父と同じく)他人を批評するのを好んだ。

尚書令の陳祗(ちんし)を軽んじ不遜な態度を取ったため、昇進を邪魔され涪陵太守までしか上れなかった。(『龐統伝』)



龐山民


未作成



龐子夏  龐娥の夫


龐子夏(ほうしか)字が子夏か
涼州酒泉郡表氏県の人(??~??)

素性不明。
龐娥(ほうが)の夫。龐淯(ほういく)の父。

李寿(りじゅ)は同県の趙安(ちょうあん)を殺した。3人の息子も亡くなり李寿は報復を逃れたと安堵したが、娘の龐娥は帳のある車に乗り袖に剣を隠し、白昼に李寿を刺殺した。そしてゆっくりと役所に赴き、顔色も変えず「父の仇討ちをしましたので死刑を受けたいと思います」と報告した。
県長の尹嘉(いんか)は感嘆し印綬の紐を解き辞任の意を示すと、罪に問わず無理やり龐娥を車に乗せ家へ帰した。ちょうど恩赦があり罪を免れた。
州郡も感嘆し龐娥の事績を石に刻み村の門に建てた。(『龐淯伝』)

一連の出来事に龐子夏は全く登場せず、趙安の殺害以前に没していたのだろう。



龐柔  龐悳の従兄


龐柔(ほうじゅう)字は不明
涼州南安郡狟道県の人(??~??)

蜀の臣。
龐悳の従兄。

「魏略」に曰く、龐悳の従兄で蜀に仕えた。

219年、龐悳は関羽の討伐を命じられたが兄(従兄)が蜀に仕えていたため諸将に忠誠を疑われたが、「私は国恩に報い死を捧げる。私が関羽を殺さなければ関羽が私を殺すに違いない」と言い激しく戦った。
関羽の捕虜となり「卿の兄は蜀に仕えている。私は卿を将にするつもりなのになぜさっさと降伏しなかった」と責めると「わっぱめ何が降伏だ。魏王(曹操)の威光は天下に轟き、凡才の劉備は敵対すらできない。私は国家の鬼となっても賊の将になどならぬ」と言い返し、殺された。(『龐悳伝』)

「演義」にも名前だけ登場。龐悳の兄に変更され、蜀に仕えているからと忠誠を疑われる。

他に事績は無いが龐悳の兄という一点突破でSLG等にもわりと登場する。



龐舒  呂布の妻を匿う


龐舒(ほうじょ)字は不明
出身地不明(??~??)

呂布の臣?

「英雄記」に曰く。
曹操軍に城を包囲されると、呂布は陳宮(ちんきゅう)・高順(こうじゅん)に城を守らせ、自身は出撃し糧道を断つ策を立てた。
だが呂布の妻は陳宮と高順の不仲を指摘し、「私は長安でも(董卓残党に攻撃された時)あなたに置き去りにされましたが、龐舒に匿ってもらい無事でした。あの時のように私のことは気にしないでください」と皮肉を吐いた。
呂布は煩悶し、出撃を取りやめた。(『呂布伝』)

は1  は2    ふ1  ふ2    ほ1  ほ2