三国志 り 2


李仁  李譔の父


李仁(りじん)字は徳賢(とくけん)
益州梓潼郡涪県の人(??~??)

蜀の臣?
李譔(りせん)の父。

同県の尹黙(いんもく)とともに荊州へ遊学し、司馬徽(しばき)や宋忠(そうちゅう)らに学んだ。
子の李譔は父の学問を全て受け継ぎ、尹黙に師事し五経・諸子百家を全て読破した上に、算術・占術から医術、弩やバネ仕掛けのからくり技術まで幅広く学んだ。(『李譔伝』)

「ちくま版」は末期の呉に仕えた李仁を同じ索引に入れている。



李仁


未作成



李申成  劉勲を告発


李申成(りしんせい)字が申成か
出身地不明(??~??)

魏の臣?

曹操に降った後、旧友であることから増長し禁令をたびたび犯した劉勲(りゅうくん)を告発し、処刑に追いやった。(『司馬芝伝』)



李進  呂布を撃破した乗氏県人


李進(りしん)字は不明
兗州済陰郡乗氏県の人(??~??)

庶民?

194年、曹操が徐州を攻めた隙に呂布は蜂起し兗州を制圧したが、蝗害により両軍は撤退した。
呂布は乗氏県へ進軍したが、県人の李進に撃破され、山陽郡へ移った。(『武帝紀』)

当時、李典(りてん)の従父の李乾(りけん)が乗氏に駐屯しており、李進もその一族だろうか。(『李典伝』)



李崇


未作成



李鄒  徐晃に降伏した呂布配下B


李鄒(りすう)字は不明
出身地不明(??~??)

呂布の臣。

199年、徐晃に敗れ趙庶(ちょうしょ)とともに降伏した。(『徐晃伝』)



李成  華佗のカルテ―18年殺し


李成(りせい)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

軍役人の李成はかつて咳と吐血に苦しんだ。華佗(かだ)は薬を飲ませ「これを飲めば治ります。18年後に再発し死の危険があるが、この薬があれば大丈夫です」ともう一つ与えた。
5~6年後、李成の親族が同じ病にかかった。その人は「お前は今健康だが私は死にかけている。その薬を分けてくれ。治ったら華佗にもらいに行く」と頼み薬をもらった。だが華佗は曹操によって殺され二度と手に入らず、李成は予告された18年後に病を再発させ亡くなった。(『華佗伝』)



李盛  馬謖とともに処刑された将軍B


李盛(りせい)字は不明
出身地不明(??~228)

蜀の臣。

228年、街亭の戦いに敗れた馬謖(ばしょく)は、配下の将軍の張休(ちょうきゅう)・李盛(りせい)とともに処刑された。(『王平伝』)



李整  李乾の子


李整(りせい)字は不明
兗州山陽郡鉅野県の人?(??~??)

曹操の臣。
李乾(りけん)の子。李典(りてん)の従兄弟。

194年、曹操が徐州を攻めた隙に呂布が蜂起し、曹操は乗氏県へ李乾を派遣し慰撫させた。
呂布配下の薛蘭(せつらん)・李封(りほう)は、李乾を調略したが応じなかったため殺害した。
曹操は李乾の子の李整に李乾の残党を任せ、薛蘭・李封を撃破させた。

李整が没すると従兄弟の李典が兵を受け継いだ。(『李典伝』)



李暹  李傕の甥B


李暹(りせん)字は不明
涼州北地郡の人(??~??)

李傕(りかく)の甥(兄の子)。

「献帝起居注」に曰く。
都を制圧した郭汜(かくし)は献帝を陣営に迎え入れようとしたが、それを李傕に密告する者がいた。
李傕は先手を打ち、李暹に数千の兵を率いさせて宮殿を包囲した。楊彪(ようひょう)は「帝王が人臣の家に住んだためしはない。事を起こすには天下の人心と合意すべきで、正しいやり方ではない」と抗議したが李暹は「将軍(李傕)の計画は決定済みだ」と言い、強引に献帝や伏皇后(ふくこうごう)らを車に乗せた。(『董卓伝』)

「演義」ではその後、許褚に討ち取られた。

SLG「三國志」シリーズでは許褚と戦ったおかげか武力がわりと高めに設定される。



李譔  博識にして軽薄


李譔(りせん)字は欽仲(きんちゅう)
益州梓潼郡涪県の人(??~??)

蜀の臣。
李仁(りじん)の子。

父は尹黙(いんもく)とともに荊州へ遊学し、司馬徽(しばき)や宋忠(そうちゅう)らに学んだ。
李譔は父の学問を全て受け継ぎ、尹黙に師事し五経・諸子百家を全て読破した上に、算術・占術から医術、弩やバネ仕掛けのからくり技術まで幅広く学んだ。

益州書佐、尚書令史を経て238年、劉璿(りゅうせん)が皇太子に立てられると太子庶子、次いで太子僕に任じられた。
博識な彼は劉璿に大いに気に入られ、中散大夫・右中郎将に転任後も近侍し続けた。
だが軽薄でふざけるのが好きな性格だったため、世間の名声は低かった。

学問上では賈逵(かき ※魏の重臣とは別人)・馬融(ばゆう)らの説を採り、鄭玄(じょうげん)の説とは異なった。
また魏の王粛(おうしゅく)とは面識がなく、お互いの著作も読んでいないはずだが、後世に照らし合わせると意見の一致を多く見たという。

景耀年間(258~263)に没した。(『李譔伝』)

陳寿は許慈(きょじ)・孟光(もうこう)・来敏(らいびん)・李譔を「博学多識で、徳行の点で称賛を受けることはなかったが、まことにみな一代の学者である」と評した。



李祚  九真郡で反乱した呉の功曹


李祚(りそ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉、後に晋の臣。

九真郡の功曹の李祚が反乱し晋に寝返った。
陶璜(とうこう)が討伐したがなかなか城を落とせなかった。配下に李祚の舅の黎晃(れいこう)がいたため、降伏勧告をさせた。だが李祚は「私は晋の、あなたは呉の臣です。ただ力を尽くし職務に従事するだけです」と拒否した。季節が変わるまで城は落ちなかった。(『晋書 陶璜伝』)



李大目  黒山賊の大目玉


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李覃  郤倹を見習い死にかける


李覃(りたん)字は不明
冀州安平郡の人(??~??)

魏の臣。

「博物志」に曰く。
曹操は道家の養生の法に詳しく、方術士の左慈、華佗(かだ)、甘始(かんし)、郤倹(げきけん)らを招いた。(『武帝紀』)

曹丕の「典論」に曰く。
郤倹は穀断ちができ、茯苓(キノコ)を服用した。人々は彼ら方術士を見習い、郤倹がやってくると茯苓の値段が数倍になった。議郎の李覃は彼を見習い茯苓と冷水だけを服用し、下痢で死にかけた。(『華佗伝』)



李重


未作成



李朝  李氏の三龍・目立たない兄


李朝(りちょう)字は偉南(いなん)
益州広漢郡郪県の人(??~222)

蜀の臣。
李邵(りしょう)の兄。

郡の功曹を経て臨邛県令を務め、都に戻り別駕従事となった。

219年、劉備を漢中王に推挙する文書を記した。

222年、夷陵の戦いに従軍し、同年に永安で没した。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「篤厚不動の、蜀の誉れとなる人々である」と評した。

弟の李邵と夭折した弟(※名は不詳)も名声高く、人々は「李氏の三龍」と称えた。
もうひとり李邈(りばく)という兄弟もいるが、彼は諸葛亮の死を喜ぶ上表をして、父をこき下ろした廖立(りょうりつ)さえ許した劉禅をブチギレさせ、即刻処刑された人物で、裴松之は「李邈の度外れな率直さは三龍に入れられない」と皮肉っている。(『楊戯伝』)



李通  侠客将軍


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李通  譙周の頌辞を書く


李通(りつう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

「益部耆旧伝」に曰く。
270年、譙周(しょうしゅう)が没すると益州刺史の董栄(とうえい)は肖像を州の学校に描かせ、従事の李通に次の頌辞を書かせた。
「礼儀正しき譙侯は古を好み儒学を祖述し、道理を宝とし真実を胸に抱き、世の盛衰を見抜いた。優雅な名声と誉れ高き足跡を全てここに書き記す。我が主君(董栄)は賢者を敬い常に称賛し、過去の賢人を慕い、丹青(赤と青の絵の具)で肖像を描かせた。汝よ後世にてこの鮮やかな肖像を見よ」(『譙周伝』)



李定  劉備の家から貴人が出ると予言


李定(りてい)字は不明
幽州涿郡の人(??~??)

素性不明。

劉備の家の庭の隅に桑の大樹があり、遠くから眺めると車蓋のように見え、ある人は「この家からは貴人が出る」と予言した。幼い劉備は「いつかこの樹のような車蓋の付いた(天子の)車に乗る」と言い、叔父に「めったなことを言ったら一族を滅ぼされるぞ」と叱られた。

「漢晋春秋」に曰く。
李定は「この家からきっと貴人が出るだろう」と言った。(『先主伝』)



李禎  李傕を言いくるめる


李禎(りてい)字は不明
涼州北地郡の人(??~??)

後漢の臣。

「献帝起居注」に曰く。
李傕(りかく)は妖術を好み、常に道士や巫女に神降ろしをさせ、神秘的な道具があれば全て手を付けた。董卓を祭壇で祀り、(儀式からか)三振りの刀を帯びて、両手には鞭と抜き身の刀を持って朝廷に入ったため、朝臣は警戒し自分達も抜刀して献帝のまわりを固めた。
李傕は「明帝」「明陛下」と献帝を呼び、郭汜(かくし)の無道さを語ると献帝は同意してやったため、李傕は上機嫌で「明陛下は本当に賢明な聖天子である」と称え、心から献帝の歓心を得ていると自信満々だった。朝臣が抜刀しているのは気に食わなかったが、同郷でかねてから李傕と交流があった侍中の李禎に「国家の慣例です」と騙され納得した。(『董卓伝』)



李禎  李典の子


李禎(りてい)字は不明
兗州山陽郡鉅野県の人(??~??)

魏の臣。
李典(りてん)の子。

父が36歳で没すると後を継いだ。
220年、曹丕は帝位につくと李典の合肥の戦いの功績を改めて採り上げ、李禎に100戸を加増し、兄弟を列侯し100戸を与えた。(『李典伝』)



李典  ペンは剣よりも強し


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李覿  司馬朗に失敗を予見される


李覿(りてき)字は不明
司隷河内郡温県の人(??~??)

魏の臣?

司馬朗(しばろう)と同郷の李覿(りてき)らは高い名声を得ていたが、司馬朗は常に彼らを低評価し、後に失敗するとその見識に心服された。(『司馬朗伝』)



李統  呂興を殺した功曹


李統(りとう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣?

263年、交阯郡役人の呂興(りょこう)は反乱し魏に寝返った。(『孫休伝』)

司馬炎は呂興を安南将軍・交阯太守に任命したが、間もなく功曹の李統に殺された。
次いで爨谷(さんこく)、馬融(ばゆう)を交阯太守に任じたがいずれも早死にし、交阯の混乱は続いた。(『晋書 陶璜伝』)



李韜  李豊の子


李韜(りとう)字は不明
司隷左馮翊郡東県の人(??~254)

魏の臣。
李豊(りほう)の子。

父は魏の重職にあり、自身も列侯され給事中となり、曹叡(そうえい)の娘の斉長公主(せいちょうこうしゅ)をめとった。婚儀が決まると父は表向きこそ謙虚に振る舞ったが内心では当然のように思い、次第に傲慢になり、仮病で職務を休むなど怠けた。しかし立場を利用し私腹を肥やすことはなかった。

254年、李豊は専横を極める司馬師の暗殺を企み、夏侯玄(かこうげん)・張緝(ちょうしゅう)らと結託しようとした。
李韜は怪我で休んでいる張緝を見舞い計画を打ち明けると、張緝はすぐに同意した。

「世語」に曰く、夏侯玄は計画を聞かされると「詳しく話してくれ」とだけ言ったため、李韜は何も言わなかった。

だが計画はあっさり露見し、一網打尽にされた。
李豊は司馬師に罵詈雑言の限りを尽くした末に、刑を待たず首を打たれた。
息子の李韜は皇族に連なることから、処刑ではなく自害を許され、曹叡の孫に当たる息子は赦免された。(『夏侯尚伝』)



李伯仁  杜微を慕う謎の人物A


李伯仁(りはくじん)名は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

224年、諸葛亮は杜微(とび)を招聘した。耳の聴こえない彼のため諸葛亮は手紙を送り、その中で「李伯仁らもあなたの高邁な志に感嘆しています」と記した。(『杜微伝』)

他の事績が無いが列挙された中で2番目に名を挙げられており相当の人物だったのだろう。



李邈  三国一の逆張り馬鹿


李邈(りばく)字は漢南(かんなん)
益州広漢郡郪県の人(??~234)

蜀の臣。
李邵(りしょう)の兄。

益州牧の劉璋(りゅうしょう)に仕え牛鞞県長を務めた。

214年、劉備が益州を制圧すると従事に任じられた。
元旦の祝宴で酒を注いで回る役を得て、劉備に目通りした際に「劉璋はあなたを一族として迎え、賊の討伐を委任されたのに、あなたは賊より先に劉璋を滅ぼしました。私はそれを良く思っていません」と難詰した。
劉備が「良く思っていないならなぜ劉璋を助けなかったのだ」と問うと「助けなかったのではなく力不足でした」と答えた。
担当官吏は李邈を処刑しようとしたが、諸葛亮が嘆願し助命された。

後に犍為太守・丞相参軍・安漢将軍に上った。
228年、馬謖(ばしょく)が街亭の戦いに敗れ、処刑を命じられると、故事を引き反対したため、諸葛亮の機嫌を損ね都に帰された。

234年、諸葛亮が没すると「彼は強力な軍兵を擁し、狼のごとく振り返り、虎のごとく機会を窺い、私は彼が反逆するのではと恐れていました。諸葛亮の死は陛下(劉禅)の一族にとって安泰を、民衆も安息を得られたことであり、全ての人にとって喜ぶべきことです」と上表した。
劉禅は激怒し、李邈を処刑させた。(『楊戯伝』)

劉禅はかつて父をこき下ろした廖立(りょうりつ)さえ許し、在位40年で記録に残る限り、自ら処刑させたのは李邈と劉琰(りゅうえん)だけである。(『廖立伝』・『劉琰伝』)

兄弟の李邵と李朝(りちょう)、夭折した弟(※名は不詳)は名声高く、人々は「李氏の三龍」と称えた。
李邈だけがハブられており、裴松之は「李邈の度外れな率直さは三龍に入れられない」と皮肉っている。(『楊戯伝』)



李敏  公孫度の魔の手から逃れる


李敏(りびん)字は不明
幽州遼東郡襄平県の人(??~??)

後漢の臣。

元の河内太守の李敏は故郷で有名で、遼東太守の公孫度(こうそんど)が自分に逆らう者を粛清し、漢王朝をおびやかそうとしていることを不快に思っていた。
粛清を恐れて家族を引き連れ海路から逃亡すると、公孫度は李敏の父の墓を暴き、棺を壊して遺体を焼き捨て、残された一族を誅殺した。

「晋陽秋」に曰く。
その後、李敏の子ははぐれた父を探して20年以上も放浪し、妻もめとらなかった。同郷の徐邈(じょばく)は「後継ぎが無いことほど親不孝なことはない」とさとし結婚させたが、彼は息子の李胤(りいん)が生まれるとすぐに妻を離縁した。
(※裴松之は「家族を連れて逃亡した」のに子がはぐれているのはなぜか、と疑問を呈している)
李敏の生死は不明で、孫の李胤は位牌を作り(祖父に対するように)仕えた。(『公孫度伝』)



李夫人


未作成



李孚  出入り自在で曹操を笑わせる


李孚(りふ)字は子憲(しけん)
冀州鉅鹿郡の人(??~??)

袁紹、後に魏の臣。
元は馮孚(ふうふ)と名乗ったが改姓した。

以下「魏略」に曰く。
興平年間(194~195)、郡で飢饉が起こった。学生だった李孚はニラを育てており、成熟してから食べようとした。飢えた人々に求められたが一本も分け与えず、育ち切るまで自身も食べなかった。初志貫徹の人と呼ばれた。

袁氏に仕え役人となり、袁尚(えんしょう)の主簿となった。
(204年)、袁尚が遠征した時、本拠地の鄴を曹操に包囲された。
袁尚は守将の審配(しんぱい)と連絡を取ろうとし、誰に任せるか李孚に相談すると「小者に命じても状況を十分に知らせることができず、そもそも到達できない恐れがあります」と自ら連絡役を買って出た。
李孚は3人の部下を選ぶと、行き先も教えず丸腰で出発した。当時、禁令に背いて草刈りや牧畜をする者が多かったため、それに紛れて鄴へ着くと、役人に変装して堂々と曹操軍の陣中を通った。都督だと偽り、周囲の将兵を叱責し勝手に処罰を与え、包囲の兵を怒鳴りつけて捕縛させると道を開けさせ、城兵に縄を垂らさせ中に入ることに成功した。
曹操はその顛末を聞くと「こいつは入っただけではない。今になんとかして出てくるぞ」と笑った。

李孚は報告のため袁尚の元に戻ろうとし、審配に老人や子供を解放し兵糧を節約するよう進言した。
曹操軍に降伏すると申し出て夜に3つの城門を同時に開き、数千人の降伏者が火を持って城から出てきた。曹操軍は全面降伏だと思っていたうえ、火に気を取られて警戒せず、李孚は部下とともに降伏者に紛れて脱出した。
報告を聞いた曹操は「やはり私の言った通りだ」と手を叩いて笑った。

結局、袁尚は敗走し、はぐれた李孚は袁譚(えんたん)に降り主簿となった。
袁譚が曹操に討たれると李孚は平原城に戻った。城兵は降伏したいと考えたが混乱して落ち着かず、李孚は曹操に面会し、収拾のため信頼できる者を派遣するよう求めた。曹操は「あなたの思うようにせよ」と命じ、李孚は帰って城中を落ち着かせた。
曹操は役立つ人物だと思ったが、讒言により閑職に留まった。

後に解県長を務め厳格で有能と評判を取り、出世の道がひらけ司隷校尉に上った。
70余歳だったが精密さと決断力は衰え知らずで、策略も往時と変わらなかった。陽平太守に転じ、在任中に没した。

「魏略」では李孚、賈逵(かき)、楊沛(ようはい)の3人が同伝に収められた。(『賈逵伝』)

「演義」でも曹操の部下になりすまして審配と合流する逸話が語られた。
だが非戦闘員の解放は曹操の油断をつく策略に変更され、李孚が脱出することもその後は曹操に降ることもない。



李伏  姜合の予言を伝える


李伏(りふく)字は不明
出身地不明(??~??)

張魯(ちょうろ)、後に魏の臣。

「献帝伝」に曰く。
220年、献帝は曹丕に帝位を譲ろうとした。
左中郎将の李伏は上書し「かつて先王(曹操)が魏公になった時、(※当時張魯に仕えていた我ら)国外には詳細が伝わらず、魏王になったのだと思っていた。だが李庶(りしょ)や姜合(きょうごう)は「まだ魏公になっただけで、天下を平定するのは曹丕だと予言書にある」と言った。一月後に魏から亡命者が来て姜合の言った通りだと明らかになった。
姜合は関中で名の知られた予言者で、それを聞き目を覚ました張魯は私とともに魏へ降伏しようと議論したが、劉備に降伏すべきだと者もおり、張魯は「魏の奴隷となっても劉備の上客にはならない」と怒っていた。
姜合は既に没してしまい、私はこの予言を伝えたいと思っていたが、魏に仕えて日も浅く、かえって罪を招くのではと発言を控えていた。しかし帝位禅譲の話が出た今こそ伝えるべきである」と述べた。
曹丕は喜び、重臣らもこれこそ天意であると大いに同意した。(『文帝紀』)



李服  曹操の命を狙った男(※出典:後出師表)


李服(りふく)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「漢晋春秋」のいわゆる「後出師表」に曰く。
曹操に任用されたが裏切って命を狙った。(『諸葛亮伝』)

曹操の失敗例の一つとして挙げられる。時期は記述の順序からして合肥の戦いから定軍山の戦いの間だろうか。
「後出師表」は偽作を疑われており、他の史書に見えないこの李服の反乱や、趙雲の死期の矛盾が根拠として挙げられる。それに対する反論として李服とは董承(とうしょう)らとともに曹操暗殺を企んだ王子服(おうしふく)の別名か誤記ではないかという意見があるが、董承・王子服の反乱は200年のことで大きく時期が外れるし、別名か誤記とするのも苦しい。



李福  諸葛亮に後継者を尋ねる


李福(りふく)字は孫徳(そんとく)
益州梓潼郡涪県の人(??~238)

蜀の臣。
李権(りけん)の子。

精密な知識を持ち、決断力に富み、政務に通じていた。(『楊戯伝』)

父の李権は益州の豪族だったが、益州牧に赴任した劉焉(りゅうえん)は独立の野心を秘めており、権力拡大のために李権ら十数人を殺した。(『劉焉伝』)

214年、劉備に益州が制圧されると書佐、西充県長、成都県令に任命された。

223年、巴西太守に上り、江州督・揚威将軍となり、入朝して尚書僕射になり、平陽亭侯に封じられた。

234年、諸葛亮が危篤に陥ると李福が派遣され、国家の大計について諮問した。
帰り道、李福は後継者を聞き忘れたことを思い出し、はせ戻った。
諸葛亮は李福が言う前に「引き返してきた意図は承知している。もう一度来た時に決断するつもりだった。蔣琬(しょうえん)が適任者だ」と言った。
さらにその後は誰かと尋ねられると費禕(ひい)と答え、さらにその次は答えなかった。

238年、蔣琬が漢中へ出征すると、前監軍として司馬を兼任したが死去した。

子の李驤(りじょう)もやはり有名で高位に上った。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「果断気鋭」と評した。(『楊戯伝』)

「演義」にも登場し、諸葛亮に後継者を尋ねたくだりがそのまま描かれた。



李文侯


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李秉  司馬昭と問答した李通の孫


李秉(りへい)字は玄冑(げんちゅう)
荊州江夏郡平春県の人(??~??)

魏・晋の臣。
李緒(りしょ)の子。李通(りつう)の孫。

「王隠晋書」に曰く。
優れた才能で人々に尊敬され、秦州刺史まで上った。
ある時、司馬昭に質問されそれを機会に「家誡」を著した。

以下「家誡」に曰く。
司馬昭は3人の地方の高官を呼び「長官たる者は清潔・慎み・勤勉を保持しなければならない。この3つを修めていれば統治で悩むことはない」と助言した。
3人が辞去すると、司馬昭は李秉らに「どうしてもやむを得ない場合3つのうちどれを捨てるべきか」と問うた。
ある人が「清潔さが当然の基本となります」と言い、李秉は「清潔と慎みは互いに助け合い成り立つものです。最も重大なものは慎みです。清潔な者は必ずしも慎み深くありませんが、慎み深い者は自然と清潔になります。仁愛ある者は勇気を持ちますが、勇気ある者が仁愛とは限らないのと同じです。(易の言葉を引き)これらは慎み深さの極致を示しています」と答えた。
司馬昭は「あなたの言う通りだ」と称え、さらに最近の人物で慎み深い者を問うた。人々が迷う中、李秉は荀顗(じゅんぎ)・董仲連(とうちゅうれん)・王公仲(おうこうちゅう)の名を挙げた。
司馬昭は「彼らも慎み深いが、天下で最も慎み深いのは阮籍(げんせき)だろうか。彼と語り合うと深遠な話には言及するが、時事の評論や人物評は一切しない。まことに最高の慎み深さと言うべきだ」と言った。
李秉は司馬昭のこの言葉を立派な戒めとする価値があると思い「人間は年少から一人前になるまで、軽々しく他人を評論したり、時事を説いてはならない。そうすれば悔恨は生じず災難も訪れない」と(子らに)述べた。

子の李重(りじゅう)、李尚(りしょう)、李矩(りく)、孫の李式(りしょく)らも高名だった。(『李通伝』)



李輔  孟達配下から大出世?


李輔(りほ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

228年、関羽の死後、魏へ寝返った孟達(もうたつ)は諸葛亮と内通し謀叛したが、司馬懿に討伐された。
「魏略」に曰く、司馬懿は孟達の大将の李輔と、甥の鄧賢(とうけん)を調略し城門を開けさせた。(『明帝紀』)

263年、魏軍が蜀へ侵攻した時、楽城・漢城にはそれぞれ5千の守備兵がいた。
鍾会は前将軍の李輔に楽城を、荀愷(じゅんがい)に漢城を1万の兵で包囲させ、西方へ進み諸葛亮の墓に詣でた。(『鍾会伝』)

「演義」ではこの二人の李輔を同一人物とし、「ちくま版」は別人に分けている。
一方、鄧賢という人物も二人いるが「演義」では別人、「ちくま版」では同一人物と逆の扱いになっており面白い。
本項では(その方が面白いので)同一人物とした。



李封  薛蘭の相棒


李封(りほう)字は不明
出身地不明(??~195)

呂布の臣。

194年、曹操が徐州を攻めた隙に呂布が蜂起し、曹操は済陰郡乗氏県へ李乾(りけん)を派遣し慰撫させた。
呂布配下の薛蘭(せつらん)と治中の李封は、李乾を調略したが応じなかったため殺害した。
曹操は李乾の子の李整(りせい)に李乾の残党を任せ、薛蘭・李封を撃破させた。(『李典伝』)

195年、曹操は済陰郡定陶県を攻めたが、済陰太守の呉資(ごし)が南城に籠もって防戦し、呂布の到着まで持ちこたえた。
だが呂布の本隊は連破され、鉅野に駐屯していた薛蘭・李封は討ち取られ、定陶県も陥落した。(『武帝紀』)

荀彧は「李封・薛蘭を討たれた陳宮(ちんきゅう)に余裕はなく、別働隊を向かわせれば動きを封じられ、その間に呂布を撃破できる」と献策した。(『荀彧伝』)

「演義」では曹操配下になったばかりの許褚によって討たれた。
「演義」・「吉川三国志」では薛蘭は呂虔(りょけん)に射殺されるが、「横山三国志」では薛蘭も許褚に討たれた。



李豊  呂布から生き延びた男


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李豊  司馬師暗殺に失敗


李豊(りほう)字は安国(あんこく)
司隷左馮翊郡東県の人(??~254)

魏の臣。
李義(りぎ)の子。

無官の17~18歳の頃から、清廉潔白で人物鑑定眼に優れると評判を取った。黄初年間(220~226)に父の縁故で官途につくとさらに名声は上がり、あまりに虚名ばかり上がるのを憂いてか、父の李義は門を閉ざし客を断るよう命じさえした。(『夏侯尚伝』)

杜恕(とじょ)とは幼馴染だったが、先に李豊が名声を得て出世すると、杜恕の自由闊達さを引き合いに出して批判する者が増えたため、李豊は杜恕をよく思わなくなり、杜恕も成り行きに任せてますます名声を求めず、平民のままだった。
だが太和年間(227~233)に杜恕が散騎黄門侍郎に上ると、同僚となった李豊と関係修復し、袁侃(えんかん)、荀俁(じゅんぐ)らと親しく付き合った。(『杜畿伝』)

「傅子」に曰く、傅嘏(ふか)は李豊と険悪で、すでに名声高かった彼を「見かけだけ飾り立てて疑心暗鬼で、小さな過失に気を遣うが権力・利益に弱い。凡庸な地位にあれば無事で済むが、政治の機密に関わり、優れた人物に睨まれれば必ず殺されるだろう」と予言した。(『傅嘏伝』)

呉からの降伏者に曹叡が、魏の名士として誰が知られているか尋ねると、黄門郎の李豊の名が上がった。曹叡は誰か知らず側近に尋ね、呉にまで名声が届いていることに驚いた。(『夏侯尚伝』)

黄門郎の時、盧毓(ろいく)になぜ彼が人材登用にあたり人格や品行を重視し、才能は二の次とするのか尋ねた。盧毓は「善行に役立てることができなければ才能など無意味だ」と答え、李豊らは感服した。(『盧毓伝』)

騎都尉・給事中に上り、239年に曹叡が没すると永寧太僕になったが、名声が先行しすぎたため重用されなかった。

正始年間(240~249)、侍中・尚書僕射に栄転した。仮病で職務を怠け、100日の欠勤で罷免となるところ、ギリギリまで休むのを数年も続けた。子の李韜(りとう)が曹叡の娘をめとった時、表では神妙に辞退したが、内心では当然と思っていた。皇族に名を連ねると、李豊の二人の弟も郡太守に上ったが、下の弟の李偉(りい)は兄譲りの怠けぶりで任地を混乱させ、李豊も形ばかりの注意を与えるだけで批判された。

当時、曹爽(そうそう)が実権を握り、司馬懿と対立していたが、李豊は中立を保ちどちらにも付かず、世人に「曹爽と司馬懿の間で李豊兄弟は光のように揺れ動く」と揶揄された。
おかげで249年、曹爽一派が司馬懿によって粛清された時には難を逃れたが、一報を聞いた李豊は思わず腰砕けになるほど恐怖に震え上がった。

252年、司馬懿が没した時、中書令が欠員となり、李豊が推薦された。名誉ある職務ではなかったが、皇室の縁戚として皇帝の曹芳に接近できる立場だったため、辞退しなかった。
曹芳は頻繁に李豊を呼んで二人切りで密談したため、司馬師は自分のことを話しているのではと訝ったが、李豊は内容を明かさず、恨まれた。

かねてから司馬師に親任されていたが、内心では同郷の張緝(ちょうしゅう)と結託し、司馬師を暗殺し夏侯玄(かこうげん)に実権を握らせようと企んでいた。
まず兗州刺史を務める弟の李翼(りよく)を入朝させ、内外で蜂起する策を立てたが、李翼の入朝は認められなかった。

254年、行事で皇帝が宮殿から出てくるのを利して、近衛兵に司馬師を暗殺させる計画を立てた。蘇鑠(そしゃく)ら3人の宦官を脅して一味に引き入れたが、あっさり計画は露見し、李豊は司馬師にバレているとも知らず面会に応じて殺され、一味は一網打尽にされた。

「世語」に曰く、王羕(おうよう)は司馬師へ「使者として赴き李豊を招きます。準備ができていなければ応じるから捕らえられます。できていても会えれば使者の私一人でどうとでもできます。挙兵されたら手に負えません」と献策した。
李豊は王羕に脅されて司馬師のもとへ連れてこられた。

「魏氏春秋」に曰く、李豊は事が露見したのを悟ると、司馬師と父の司馬懿を罵り、その場で強力の兵士に刀の柄で腰を叩かれ撲殺された。

張緝・夏侯玄・蘇鑠らは処刑された。李韜は妻が公主だったため処刑ではなく自害を許され、三人の子は罷免された。李翼も速やかに出頭したため子は罷免された。
李豊・夏侯玄と親しかった許允(きょいん)も計画を知っていたと疑われ、後に陥れられて没した。(『夏侯尚伝』)
翌255年にも李豊・夏侯玄と友人の毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱し、その際に「節義の無い司馬師を除こうとした李豊が殺されたのは冤罪である」と唱えた。(『毌丘倹伝』)

傲慢だったが贅沢には興味がなく、余財は親類に分け与え、立場を利用して私腹を肥やすこともしなかったため、死後に調べられると家に貯えは無かった。(『夏侯尚伝』)

「傅子」に曰く、李義は、親しく付き合っていた杜畿(とき)に、郭智(かくち)とともに息子を紹介した。
すると杜畿は「李義には子が無い。いずれ家も無くすだろう。郭智の子は父の後を継ぎ、郭智が死なないのと同じことだ」と言った。
李豊はすでに名声高く、郭智の子の郭沖(かくちゅう)は風采が上がらず評価されていなかったため人々は誤りだと考えた。

だが254年、李豊は反乱を企てて一家を滅ぼし、郭沖は代郡太守として名を上げ、杜畿の見立ては的中した。(『杜畿伝』)

「演義」で李豊・張緝・夏侯玄は曹芳の廃位に抵抗して殺される忠臣となり、後に揃って司馬師を祟った。



李豊  李厳の子


李豊(りほう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
李厳(りげん)の子。

230年、曹真(そうしん)の侵攻に備え諸葛亮は李厳を2万の兵で漢中に駐屯させた。
そして上奏して李豊を江州都督督軍とし、李厳の留守中の職務を司らせた。
李厳は李平(りへい)に改名した。

231年、諸葛亮は北伐の兵を挙げたが、兵站を担当する李平は長雨で輸送に苦慮し、諸葛亮の本隊を撤退させた。
ところが李平は兵站に問題はなかったと主張して責任を諸葛亮に押し付け、劉禅へは魏軍をおびき寄せるために撤退したと偽った。
諸葛亮は前後関係を整理して李平の主張を崩し、罷免させた。

諸葛亮が上奏した李平弾劾の文書には「李平は漢中に駐屯するにあたり司馬懿と同じように幕府を開きたいと望んだ。私は足元を見られていると思い李豊を厚遇することで取り繕った」と記される。
李平は身分を剥奪され庶民となった。

諸葛亮が李豊に送った手紙に曰く。
「李平に漢中を、君に江州を任せたのは私の一存で、感謝して尽くしてくれると信じていたのにこんなことになるとは思わなかった。
李平は罷免されたとはいえ奴婢や食客を百数十人抱え、君も中郎参軍として残っているから他の罪人と比べればまだ上流の家柄である。
李平が悔い改め、君が蔣琬(しょうえん)と協力し職務に励めば、また運も開くことがあるだろう。手紙を書きながらため息をつき、涙を流すのみである」

李豊は連座されず朱堤太守まで上った。(『李厳伝』)

「演義」では出番を増やされ孟達(もうたつ)の寝返りを諸葛亮に知らせた。
李厳の罷免後は後任の長史に抜擢された。



李密  三国一の祖母孝行


李密(りみつ)字は令伯(れいはく)
益州犍為郡武陽県の人(224~287)

蜀・晋の臣。
別名は李虔(りけん)。

「華陽国志」に曰く。
祖父の李光(りこう)は朱堤太守を務めた。父は若くして没し、母の何氏(かし)が再嫁したため、李密は祖母の劉氏(りゅうし)に育てられた。
「春秋左氏伝」をはじめ広く書物を読み、多くの事柄に通暁し頭の回転が早く、弁舌さわやかだった。(『楊戯伝』)

文立(ぶんりつ)は蜀代に太学へ遊学し譙周(しょうしゅう)に師事した。門弟たちは優れた者を孔子の弟子になぞらえ、文立を最高位の顔回に、陳寿・李密を子游・子夏、羅憲(らけん)を子貢にたとえた。(『晋書 文立伝』)

「華陽国志」に曰く。
祖母孝行で病気になれば昼夜にわたり看病し、食事や薬は毒味してから与えた。郡の招聘に応じず、州に招かれ従事中郎となり、大将軍主簿、太子洗馬を歴任した。
呉に使者として赴き、蜀の馬の数を問われると「官用はありあまり民間でも安定して供給されています」と答えた。道義の話になり、呉の皇帝は「兄弟なら弟になるべきだ」と主張したが、李密は「兄になればそれだけ長く両親を世話できる」と答え感心させた。蜀の尚書郎まで上った。

264年、蜀が滅亡すると鄧艾は名声を聞き主簿に招聘したが、祖母が高齢のため固辞した。
267年、司馬衷が太子になると、司馬炎は太子洗馬に任命しようと詔勅を下し、郡県からも圧力を掛けさせたが、李密は「私は生後6ヶ月で父を失い、4歳で母も再嫁させられる不幸な生い立ちで、哀れんだ祖母に養育されました。病気がちで9歳になっても歩けず、成人後も父の兄弟はなく、自分の兄弟も少なく、晩年に一人息子をもうけただけです。一年の喪に服すほど近い親戚すらおらず、来客の取り次ぎをする小僧もいません。しかも祖母は病床にふせり、太守が孝廉に、刺史が秀才に推挙してくれましたが看病のため断りました。詔勅をいただき郎中、さらに太子洗馬に任命いただきましたが、それを断るのは怠慢ではなくただ孝行したいだけなのです。私は44歳、祖母は96歳です。最後までまっとうさせてください」と辞去した。
司馬炎は上奏を読み「いたずらに評判が高いわけではない」と感心し、奴婢2人を与え郡県に命じて祖母の世話をさせ御馳走を届けさせた。(※上奏は「文選」にも採られ「陳情事表」の名で三絶文(※三大名文)の一つに数えられた)

祖母が没し服喪を終えると仕官し、尚書郎を経て河内郡温県令となり、政治と教化は厳格かつ明瞭だった。
中山郡の諸王は温県に貢物を出させる習わしがあったが、李密は故事を引き決然と断り、風習は絶えた。
隴西王の司馬泰(しばたい)は李密に深い敬意を示し友人として遇したが、李密の公正さを煙たがる名家もあった。(『楊戯伝』)

秦秀(しんしゅう)、孟康(もうこう)、前の温県令の李密らは王濬(おうしゅん)の呉討伐の功績に対し報奨が足りないと訴え、鎮軍大将軍・散騎常侍・後軍将軍に昇進させた。(『晋書 王濬伝』)

「華陽国志」に曰く。
後に州の大中正となり人材登用を司ったが、権力や地位に惑わされずいいかげんな人物を推挙しなかった。
権力を握る荀勗(じゅんきょく)・張華(ちょうか)の意向に逆らい漢中太守に左遷された時、諸王の多くが無実を主張しかばった。
1年で官を去り287年、64歳で没した。
著書の「述理論」10篇は胡羆(こひ)・皇甫謐(こうほひつ)に称賛された。(『楊戯伝』)

子の李興(りこう)も文才に優れ、諸葛亮を称える文章をものした。(『諸葛亮伝』)



李蒙  地味な董卓配下B


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李膺


未作成



李膺


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李翼  李豊の上の弟


李翼(りよく)字は不明
司隷左馮翊郡東県の人(??~254)

魏の臣。
李義(りぎ)の子。李豊(りほう)・李偉(りい)の弟。

兄の李豊は重職にあり、その息子が公主をめとったため、李翼ら弟も恩恵にあずかり、出仕から数年で郡太守を歴任した。
だが李豊が傲慢になり出仕をさぼりがちになると、弟らも兄にならって酒に溺れ、下の兄の李偉は新平・扶風の二郡を混乱に陥れた。
李豊は形ばかり注意を与えたが免職せず、人々に恨まれた。

李豊は司馬師暗殺を企み、兗州刺史を務めていた李翼に都に上るよう命じ、内外で蜂起しようとしたが、李翼の参朝は却下されてしまった。
254年、結局、計画は露見し李豊は殺された。

李翼のもとに急報が届くと、後妻(ちなみに荀廙(じゅんよく)の姉で、荀彧の孫にあたる)は信頼の置ける者と呉へ亡命するよう勧めたが、李翼には心当たりがなかった。
妻が「あなたは州刺史なのに一人もいないのですか。逃げても無駄でしょう」と呆れると、李翼は「幼い子供たちのために逃げない。首を差し出せば息子らは助命されるだろう」と言い、進んで処刑された。

子の李斌(りひん)らは果たして助命され、晋代には河南尹にまで上った。(『夏侯尚伝』)



李利  李傕の甥A


李利(りり)字は不明
涼州北地郡の人(??~??)

李傕(りかく)の甥(兄の子)。

「九州春秋」に曰く。
192年、馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)は李傕らに敗れ、樊稠(はんちゅう)が追撃した。韓遂は「天下は引っくり返りこの先どうなるかわからない。我々に私怨はなく、国家のことで争っているだけだ。二度と会えるかもわからないではないか」と言い、同郷の樊稠と語り合って別れた。
樊稠に同行していた李利が叔父の李傕に「何を話していたかわからないが親密そうだった」と密告し、疑念を抱いた李傕は樊稠を殺した。(『李傕伝』)

「演義」では同じく密告する李別(りべつ)という字面がよく似たオリキャラがおり、誤記かアレンジだろう。
李別はその後、許褚に討ち取られた。



李立  荊州刺史就任を予言される


李立(りりつ)字は建賢(けんけん)
幽州涿郡の人(??~??)

曹操の臣。

「捜神記」に曰く。
荊州南郡華容県のある女には予知能力があり、「襄陽で今に大事件が起こる」と泣き叫んだ。県は妖言として投獄したが、一月あまり経つと女は「劉表(りゅうひょう)様が今日亡くなった」と慟哭した。襄陽から数百里離れていたが、調べさせるとはたして劉表は病没していた。女は釈放された。
後日、女は「意外や、李立が貴人になるとは」と歌った。荊州を制圧した曹操は間もなく李立を荊州刺史に任命した。(『劉表伝』)



李歴  耿武・閔純とともに韓馥を諫言するも


李歴(りれき)字は不明
出身地不明(??~??)

冀州牧の韓馥(かんふく)の臣。

191年、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)の侵攻から守る名目で冀州牧の座を譲るよう韓馥に迫った。
臆病な韓馥は同意したが、長史の耿武(こうぶ)、別駕の閔純(びんじゅん)、治中の李歴らは「冀州には百万の兵と十年分の兵糧があり、袁紹は本拠地を持たず困窮しており、膝の上の赤ん坊のようなものです。乳を与えなければ餓死するのになぜ明け渡すのか」と諌め、従事の趙浮(ちょうふ)・程奐(ていかん)は迎撃したいと願い出たが、韓馥は却下して冀州牧を袁紹へ譲った。(『袁紹伝』)

「英雄記」に曰く。
韓馥が譲位すると10人の従事が見捨てて去ったが、耿武・閔純は残って抵抗を続け、田豊(でんほう)に殺された。(『後漢書 袁紹伝』)

李歴は去っていった従事の一人だろう。
その後の事績は不明であり、諫言した3人のうち李歴のみ「演義」にも登場しない。



離  冬逢の義弟


離(り)
旄牛族の人(??~??)

旄牛族の人。

蘇祁族の族長の冬逢(とうほう)は蜀に降伏していたが弟の隗渠(かいきょ)とともに再び反乱した。
張嶷(ちょうぎょく)は冬逢を誅殺したが、その妻は旄牛族の王女だったため、処罰しなかった。
隗渠は西方の国境地帯へ逃げた。剛毅かつ精悍で諸部族から恐れられており、張嶷に側近2人を偽って降伏させ情報を得てもいた。
張嶷はそれを見抜くと側近を買収して寝返らせ、彼らに隗渠を殺させた。諸部族も帰順した。

後に冬逢の義理の甥の狼路(ろうろ)が、仇討ちのため反乱した。叔父の離に冬逢の残党を率いさせたが、離は冬逢の妻の弟だったため、張嶷は姉と贈り物を与え懐柔した。姉弟は大いに喜び、配下の部族を率いて帰順した。旄牛族は以後反乱することはなかった。
狼路も冬逢の妻を通じて説得され降伏した。(『張嶷伝』)



陸晏  陸抗の後継ぎ


陸晏(りくあん)字は不明
揚州呉郡呉県の人(??~280)

呉の臣。
陸抗(りくこう)の子。

274年、父が没すると後を継ぎ、兄弟が兵を分割して預かった。
裨将軍・夷道監に上った。

280年、晋が呉へ侵攻すると、王濬(おうしゅん)は快進撃し、陸抗が憂慮していた通りの事態となった。
2月、陸晏は王濬の別働隊に敗れて戦死し、翌日には弟の陸景(りくけい)も殺された。(『陸遜伝』)

「会稽典録」に曰く。
280年、晋が呉へ侵攻すると、宜都太守の虞忠(ぐちゅう)は陸晏・陸景兄弟とともに宜都城を守り、降伏せず城と運命をともにし戦死した。(『虞翻伝』)

一方で「晋書」には、「王濬は西陵で勝利し虞忠を、荊門城・夷道城を落とし監軍の陸晏を、楽郷で勝利し水軍督の陸景を捕虜にした」とあり経緯が異なる。(『晋書 王濬伝』)



陸禕  陸凱の子


陸禕(りくい)字は不明
揚州呉郡呉県の人(??~??)

呉の臣。
陸凱(りくがい)の子。

もともと黄門侍郎だったが、地方に出て兵を預かり偏将軍に任じられた。

一説に266年、陸凱は孫晧の廃位を企み、廟へ参詣したところを狙おうとし、護衛役に丁奉を推薦した。だが孫晧は気に入らず、自ら留平(りゅうへい)の名を挙げた。
陸凱は息子の陸禕に命じ、留平に計画を伝えようとした。だが留平は平素から丁奉と仲が悪く、陸禕が話す前に「丁奉の陣営に野豚が入り込んだらしい。これは凶兆だ」とうれしそうに言った。
陸禕は計画の失敗を悟り、何も伝えずに帰ったという。(『陸凱伝』)

269年、父が没すると中央に戻り太子中庶子を務めた。
華覈(かかく)は「陸禕は天与の剛直な資質を持ち、くじけることのない実行力を備え、人々を率いる才は魯粛(ろしゅく)にも勝ります。中央に召還された時も兵器や兵糧を損なわず迅速に戻りました。戦陣では果敢で、財貨に節度を持つ彼こそ、最前線の夏口を任せる適任者です」と推薦した。

しかし孫晧は諫言をはばからない陸凱を煙たがり、寵愛する何定(かてい)も繰り返し讒言していたことから、もともと陸凱を処罰したがっていた。だが陸凱は重臣であり、しかも族父の陸抗(りくこう)が最前線で兵権を預かっていたため、手出しできなかった。
274年、陸抗が没すると、翌年に一族の陸禕・陸式(りくしき)を建安へ強制移住させた。

278年に陸式は赦免され、元の地位と爵位に復した。(『陸凱伝』・『陸胤伝』)
陸禕の名は見えず、配流先で既に没していたのかもしれない。



陸胤  良き牧民者


陸胤(りくいん)字は敬宗(けいそう)
揚州呉郡呉県の人(??~??)

呉の臣。
陸凱(りくがい)の弟。

御史・尚書選曹郎の時、名声を聞いた孫和(そんか)に手厚く礼遇された。
二宮の変が起こると楊竺(ようじく)らが孫和派に讒言を行い、陸胤も投獄された。酷い拷問を受けたが、陸胤は一言も他人に責任をかぶせることをしなかった。

次の異聞がある。
「呉録」に曰く、孫権は楊竺と二人きりで孫覇(そんは)の才能について論じあった。楊竺の絶賛を受け、孫権は太子に立てることを約束した。側近がベッドの下に隠れてこれを聞いており、太子の孫和に報告した。
孫和はたまたま訪れた陸胤に、このことを陸遜に伝えるよう頼んだ。
陸遜は太子を変えないよう上表し、孫権は楊竺が漏洩したと思い詰問した。楊竺は調査し、陸遜に伝えられたのは陸胤しかいないと報告したが、陸胤は孫和をかばい「楊竺に聞きました」と道連れにした。
楊竺は拷問に耐えきれず偽りの自白をし、もともと彼を疑っていた孫権は処刑させた。

その後、衡陽の督軍都尉に任じられた。
248年、異民族が反乱し交州全体が混乱に陥った。そこで陸胤を交州刺史・安南校尉に任じた。
陸胤は国家の恩恵と誠実さを説き聞かせて帰順を呼びかけ、大頭目の黄呉(こうご)ら3千余家を降伏させた。さらに南に進み、決して約束を破らないと呼びかけ財貨を施すと、これまで奥地に隠れて支配を受けなかった頭目ら百余人と5万家の民衆も帰順し、陸胤は安南将軍に上った。
さらに蒼梧や建陵の反乱軍も討伐し、これまでの降伏者から8千の兵を選抜し正式に軍へ編入させた。

258年、陸胤は西陵の督へ転任し都亭侯に封じられ、後に虎林の守備に当たった。
華覈(かかく)は「陸胤は天与の資質は聡明で万事に通じた才能を持ち、行いは清らかです。選曹としても刺史としても活躍し、人々や神々も感動し任地の異常気象も収まりました。任地を離れる際には多くの人々が彼を慕い移住しました。武力で脅すのではなく、恩徳と信義で人を集めた例は他にありません。交州を治め10年以上が経っても私腹を肥やすこともない得難い人物です。虎林の守備では役不足です。王室の股肱の臣に迎えるべきでしょう」と上奏した。

没すると子の陸式(りくしき)が後を継いだ。(『陸胤伝』)
孫晧はかねてから直言をはばからない陸凱を疎んじており、一族の有力者の陸抗(りくこう)も没すると275年、陸式らを建安へ強制移住させた。
278年、陸式は赦されて復職した。(『陸凱伝』・『陸胤伝』)

陳寿は「陸胤は清らかに身を持して職務を立派に果たし、南方の地に名声を挙げた。良き牧民者である」と称賛した。



陸紆


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陸鬱生


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陸雲


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陸叡


未作成



陸延


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陸凱  呉後期の忠臣


陸凱(りくがい)字は敬風(けいふう)
揚州呉郡呉県の人(198~269)

呉の臣。
陸遜の族子で、詳しい続柄は不明。

黄武年間(222~229)のはじめ、永興や諸曁の県長を務め治績を上げた。
後に建武都尉として兵を預かるが、軍中でも書物を手放さず、特に「太玄経」を好んで分析し、それによって占いを行い良く的中した。(『陸凱伝』)

赤烏年間(238~251)に儋耳太守となり、242年、聶友(じょうゆう)とともに反乱軍を討伐し建武校尉に昇進した。(『呉主伝』・『陸凱伝』)

250年、魏の王昶(おうちょう)・王基(おうき)が攻め込んだが、陸凱・戴烈(たいれつ)が防戦し撤退させた。(『呉主伝』)

255年、山越の陳毖(ちんひ)を斬り、巴丘督・偏将軍を授かり、都郷侯に封じられた。
武昌の右部督に転じ、寿春の戦い(※257年の諸葛誕の反乱か)に参戦し、盪魏将軍、綏遠将軍を歴任した。

258年、孫休が帝位につくと征北将軍となり、仮節を与えられ豫州牧を兼務した。

264年、孫晧が帝位につくと鎮西大将軍に上り、巴丘督に復し、荊州牧を兼ね、爵位は嘉興侯に進んだ。

266年、左丞相に上った。(『陸凱伝』)
正月、晋へ司馬昭の弔問の使者を送った。
使者を務めた丁忠(ていちゅう)は帰国するや、隙をつき晋への侵攻を進言した。劉纂(りゅうさん)も賛同し孫晧も乗り気だったが、陸凱は「晋は蜀を滅ぼしておきながら呉へ和睦を求めてきたが、決して助けを求めているわけではない。優勢の相手にまぐれ当たりで勝とうという計画は利益にならない」と反対した。
制圧されたばかりの益州の様子を見ているうちに取りやめとなった。(『孫晧伝』)

一説に同年12月、丁奉・丁固(ていこ)らとともに孫晧の廃位を企んだが、留平(りゅうへい)の反対により断念した。
「呉録」によると丁奉と留平の仲が険悪だったため断念したともいう。(『陸凱伝』)

孫晧の暴虐が募った時、丁固・陸凱・孟宗(もうそう)は心を合わせて国家の行く末を案じた。(『虞翻伝』)

孫晧は他人に見つめられるのを好まず、自分を正面から見ることを禁じたが、陸凱に「顔がわからなければ、不慮の事態に対処できません」と諌められ、陸凱にだけは見ることを許した。
さらに武昌へ遷都することになり民の労役が増え、いいかげんな政治で混乱していたため、言葉を尽くして諫言した。
孫晧が寵愛していた佞臣の何定(かてい)を面と向かって罵倒し、讒言されたが少しも意に介せず、義を貫こうとする気概は顔にも表れ、言葉は歯に衣着せなかった。(『陸凱伝』)

267年、孫晧は宮殿の造営を行い、莫大な出費がかさんだため、陸凱は必死に諌めたが聞き入れられなかった。(『孫晧伝』)

同年、孫晧は霊廟を造営し、亡父の孫和(そんか)の魂を陵墓から迎え入れ、陸凱に祭祀を行わせた。(『孫和伝』)

269年、臨終の床につくと、孫晧に遺言を問われ、陸抗、張悌(ちょうてい)ら有能な忠臣の名を挙げて重用するよう言い、逆に何定らは遠ざけるよう最期まで諫言を貫いた。享年72。
子の陸禕(りくい)は任地から都に戻った。
20項目に渡る諫言の全文が残っているが歯に衣着せぬ物言いで、これを読めば孫晧が激怒し処罰したことは間違いなく、書いただけで上表しなかったとも、遺言代わりに上表したともされるが、真偽の程はわからない。

孫晧は陸凱の諫言を内心では苦々しく思い、処罰したかったが重臣のため手出しできず、没後も一族の陸抗(りくこう)が大軍を率いて国境を守っていたため意趣返しを控えていた。
しかし274年、陸抗も没すると、陸禕や甥の陸式(りくしょく)ら一族を翌275年に強制移住させた。
278年、陸式は許されて元の地位と爵位に復した。(『陸凱伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「主君への直言をはばからず全力を尽くして国家のためを計った」と記した。(『孫晧伝』)

陳寿は「誠心を備え男らしくまっすぐ行動し、節操を貫き通し大丈夫として最高の仕事を成し遂げた」と評した。

「演義」では武昌への遷都を諫言した逸話のみ描かれる。

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り6  り7  り8    ろ~わ