李豊 司馬師暗殺に失敗
李豊(りほう)字は安国(あんこく)
司隷左馮翊郡東県の人(??~254)
魏の臣。
李義(りぎ)の子。
無官の17~18歳の頃から、清廉潔白で人物鑑定眼に優れると評判を取った。黄初年間(220~226)に父の縁故で官途につくとさらに名声は上がり、あまりに虚名ばかり上がるのを憂いてか、父の李義は門を閉ざし客を断るよう命じさえした。(『夏侯尚伝』)
杜恕(とじょ)とは幼馴染だったが、先に李豊が名声を得て出世すると、杜恕の自由闊達さを引き合いに出して批判する者が増えたため、李豊は杜恕をよく思わなくなり、杜恕も成り行きに任せてますます名声を求めず、平民のままだった。
だが太和年間(227~233)に杜恕が散騎黄門侍郎に上ると、同僚となった李豊と関係修復し、袁侃(えんかん)、荀俁(じゅんぐ)らと親しく付き合った。(『杜畿伝』)
「傅子」に曰く、傅嘏(ふか)は李豊と険悪で、すでに名声高かった彼を「見かけだけ飾り立てて疑心暗鬼で、小さな過失に気を遣うが権力・利益に弱い。凡庸な地位にあれば無事で済むが、政治の機密に関わり、優れた人物に睨まれれば必ず殺されるだろう」と予言した。(『傅嘏伝』)
呉からの降伏者に曹叡が、魏の名士として誰が知られているか尋ねると、黄門郎の李豊の名が上がった。曹叡は誰か知らず側近に尋ね、呉にまで名声が届いていることに驚いた。(『夏侯尚伝』)
黄門郎の時、盧毓(ろいく)になぜ彼が人材登用にあたり人格や品行を重視し、才能は二の次とするのか尋ねた。盧毓は「善行に役立てることができなければ才能など無意味だ」と答え、李豊らは感服した。(『盧毓伝』)
騎都尉・給事中に上り、239年に曹叡が没すると永寧太僕になったが、名声が先行しすぎたため重用されなかった。
正始年間(240~249)、侍中・尚書僕射に栄転した。仮病で職務を怠け、100日の欠勤で罷免となるところ、ギリギリまで休むのを数年も続けた。子の李韜(りとう)が曹叡の娘をめとった時、表では神妙に辞退したが、内心では当然と思っていた。皇族に名を連ねると、李豊の二人の弟も郡太守に上ったが、下の弟の李偉(りい)は兄譲りの怠けぶりで任地を混乱させ、李豊も形ばかりの注意を与えるだけで批判された。
当時、曹爽(そうそう)が実権を握り、司馬懿と対立していたが、李豊は中立を保ちどちらにも付かず、世人に「曹爽と司馬懿の間で李豊兄弟は光のように揺れ動く」と揶揄された。
おかげで249年、曹爽一派が司馬懿によって粛清された時には難を逃れたが、一報を聞いた李豊は思わず腰砕けになるほど恐怖に震え上がった。
252年、司馬懿が没した時、中書令が欠員となり、李豊が推薦された。名誉ある職務ではなかったが、皇室の縁戚として皇帝の曹芳に接近できる立場だったため、辞退しなかった。
曹芳は頻繁に李豊を呼んで二人切りで密談したため、司馬師は自分のことを話しているのではと訝ったが、李豊は内容を明かさず、恨まれた。
かねてから司馬師に親任されていたが、内心では同郷の張緝(ちょうしゅう)と結託し、司馬師を暗殺し夏侯玄(かこうげん)に実権を握らせようと企んでいた。
まず兗州刺史を務める弟の李翼(りよく)を入朝させ、内外で蜂起する策を立てたが、李翼の入朝は認められなかった。
254年、行事で皇帝が宮殿から出てくるのを利して、近衛兵に司馬師を暗殺させる計画を立てた。蘇鑠(そしゃく)ら3人の宦官を脅して一味に引き入れたが、あっさり計画は露見し、李豊は司馬師にバレているとも知らず面会に応じて殺され、一味は一網打尽にされた。
「世語」に曰く、王羕(おうよう)は司馬師へ「使者として赴き李豊を招きます。準備ができていなければ応じるから捕らえられます。できていても会えれば使者の私一人でどうとでもできます。挙兵されたら手に負えません」と献策した。
李豊は王羕に脅されて司馬師のもとへ連れてこられた。
「魏氏春秋」に曰く、李豊は事が露見したのを悟ると、司馬師と父の司馬懿を罵り、その場で強力の兵士に刀の柄で腰を叩かれ撲殺された。
張緝・夏侯玄・蘇鑠らは処刑された。李韜は妻が公主だったため処刑ではなく自害を許され、三人の子は罷免された。李翼も速やかに出頭したため子は罷免された。
李豊・夏侯玄と親しかった許允(きょいん)も計画を知っていたと疑われ、後に陥れられて没した。(『夏侯尚伝』)
翌255年にも李豊・夏侯玄と友人の毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱し、その際に「節義の無い司馬師を除こうとした李豊が殺されたのは冤罪である」と唱えた。(『毌丘倹伝』)
傲慢だったが贅沢には興味がなく、余財は親類に分け与え、立場を利用して私腹を肥やすこともしなかったため、死後に調べられると家に貯えは無かった。(『夏侯尚伝』)
「傅子」に曰く、李義は、親しく付き合っていた杜畿(とき)に、郭智(かくち)とともに息子を紹介した。
すると杜畿は「李義には子が無い。いずれ家も無くすだろう。郭智の子は父の後を継ぎ、郭智が死なないのと同じことだ」と言った。
李豊はすでに名声高く、郭智の子の郭沖(かくちゅう)は風采が上がらず評価されていなかったため人々は誤りだと考えた。
だが254年、李豊は反乱を企てて一家を滅ぼし、郭沖は代郡太守として名を上げ、杜畿の見立ては的中した。(『杜畿伝』)
「演義」で李豊・張緝・夏侯玄は曹芳の廃位に抵抗して殺される忠臣となり、後に揃って司馬師を祟った。
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