陸康 陸氏の宗主
陸康(りくこう)字は季寧(きねい)
揚州呉郡呉県の人(126~195)
後漢の臣。
陸績(りくせき)の父。
父や兄へ孝行し、自らの行いを修め正すことに努めた。呉郡太守の李粛(りしゅく)に孝廉に推挙された。
後に李粛が処刑されると、遺体を引き取って故郷に送り届け、喪に服した。後に茂才に推挙された。(『陸績伝』)
若い頃から義烈で知られた。揚州刺史の臧旻(ぞうびん)に茂才に推挙され、高成県令に任じられた。軍役を免除するなど治績を上げ、178年に武陵太守に上ったのを皮切りに、桂陽・楽安太守を歴任した。(『後漢書
陸康伝』)
霊帝が銅像の作製のため年貢を上げると、陸康は水害が起こったばかりであり、銅像も無意味であると反対したため、不敬であると讒言を受けた。処罰されかかったが、劉岱(りゅうたい)の弁護により免職だけに留められ、後に議郎として復帰した。
廬江郡の賊徒の黄穰(こうじょう)が、江夏蛮と結んで10万の兵を集め、4県を攻撃した。
陸康は廬江太守に任じられ速やかに討伐し、孫の陸尚(りくしょう)が郎中に取り立てられた。(『後漢書 陸康伝』)
陸遜は幼くして父を失い、父の従兄弟の陸康に身を寄せ、ともに任地の廬江へ赴いた。(『陸遜伝』)
「呉録」に曰く。
この頃、陸康の従子が賊徒に攻められ、孫堅に助けを求めた。他郡のことであり越権行為になると反対されたが、孫堅は「私はただ征伐により功績を立ててきた。郡を越えてよその土地を助けて罪を得たとして、天下の人々に何を恥じることがあろう」と言い、救援した。(『孫堅伝』)
189年、献帝が即位すると董卓らの専横により世は乱れた。陸康は盛んに朝貢して朝廷を助け、忠義将軍を加官された。
194年、寿春に駐屯する袁術は飢饉に遭ったため陸康に兵糧の援助を求めた。(『後漢書 陸康伝』)
袁術は(刺史の陶謙(とうけん)の死に乗じて)徐州への侵攻を企み、兵糧の援助を求めた。(『孫策伝』)
だが陸康は反逆者には協力できないと拒否し、防備を固めたため、袁術は麾下の孫策に攻めさせた。(『後漢書 陸康伝』)
孫策はかつて陸康に面会を求めた時、当人は出てこず配下に対応されたのを恨みに思っており、さらに袁術に廬江を落とせば太守に任命するとそそのかされた。(『孫策伝』)
陸康は攻撃を察すると、陸遜(当時12歳)に一族を率いさせて故郷へ帰らせた。陸績より5歳上だったため、陸遜が(その後も)一族を取りまとめた。(『陸遜伝』)
城を何重にも包囲されたが、休暇で城外に出ていた配下らは、陸康を助けるため夜間に城へ忍び入って合流した。
2年にわたり籠城したがついに陥落し、心痛からか間もなく病没した。享年70。
陸氏宗族の百余人は各地に離散し、その半数が死亡したという。
朝廷は彼の忠節を哀れみ、子の陸儁(りくしゅん)に郎中の位を与えた。
末子の陸績は孫策・孫権に仕えた。(『後漢書 陸康伝』)
孫の陸尚は早逝し、妻の徐夫人(じょふじん)は孫権に再嫁した。
陸尚の死期・死因は不明だが、廬江の陥落時に没した一族の中の一人だった可能性もある。いずれにしろ徐夫人にとって孫氏は夫の実家を滅ぼした仇で、また徐夫人は孫権の縁戚(※父が孫堅の甥)でもあり、徐夫人の再嫁は孫・陸・徐3氏の関係修復のための政略結婚の意味合いが強い。(『孫権徐夫人伝』)
「演義」でも同様に孫策に討たれるが、陸績の父とは記されない。
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