三国志 り 3


陸喜


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陸機


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陸景  陸抗の文才ある子


陸景(りくけい)字は士仁(しじん)
揚州呉郡呉県の人(250~280)

呉の臣。
陸抗(りくこう)の子。

「文士伝」に曰く、母は張承(ちょうしょう)の娘で、そのおじの諸葛恪(しょかつかく)が専横から誅殺されると、離縁させられてしまい、幼い陸景は祖母の手で育てられた。祖母が没すると3年の喪に服した。

長じると清潔を重んじ、学問を好み数十篇の著書があった。
孫晧の孫娘をめとり騎都尉に任じられ、毗陵侯に封じられた。
ちなみに夫妻ともに張承の孫にあたる。

274年、父が没すると兄の陸晏(りくあん)が後を継ぎ、兄弟が兵を分割して預かった。
陸景は偏将軍・中夏督に上った。

280年、晋が呉へ侵攻すると、王濬(おうしゅん)は快進撃し、陸抗が憂慮していた通りの事態となった。
2月、陸晏は王濬の別働隊に敗れて戦死し、翌日には陸景も殺された。享年31。(『陸遜伝』)

「会稽典録」に曰く。
280年、晋が呉へ侵攻すると、宜都太守の虞忠(ぐちゅう)は陸晏・陸景兄弟とともに宜都城を守り、降伏せず城と運命をともにし戦死した。(『虞翻伝』)

一方で「晋書」には、「王濬は西陵で勝利し虞忠を、荊門城・夷道城を落とし監軍の陸晏を、楽郷で勝利し水軍督の陸景を捕虜にした」とあり経緯が異なる。(『晋書 王濬伝』)



陸玄


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陸宏


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陸抗  陸遜ジュニア


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陸康  陸氏の宗主


陸康(りくこう)字は季寧(きねい)
揚州呉郡呉県の人(126~195)

後漢の臣。
陸績(りくせき)の父。

父や兄へ孝行し、自らの行いを修め正すことに努めた。呉郡太守の李粛(りしゅく)に孝廉に推挙された。
後に李粛が処刑されると、遺体を引き取って故郷に送り届け、喪に服した。後に茂才に推挙された。(『陸績伝』)

若い頃から義烈で知られた。揚州刺史の臧旻(ぞうびん)に茂才に推挙され、高成県令に任じられた。軍役を免除するなど治績を上げ、178年に武陵太守に上ったのを皮切りに、桂陽・楽安太守を歴任した。(『後漢書 陸康伝』)

霊帝が銅像の作製のため年貢を上げると、陸康は水害が起こったばかりであり、銅像も無意味であると反対したため、不敬であると讒言を受けた。処罰されかかったが、劉岱(りゅうたい)の弁護により免職だけに留められ、後に議郎として復帰した。

廬江郡の賊徒の黄穰(こうじょう)が、江夏蛮と結んで10万の兵を集め、4県を攻撃した。
陸康は廬江太守に任じられ速やかに討伐し、孫の陸尚(りくしょう)が郎中に取り立てられた。(『後漢書 陸康伝』)

陸遜は幼くして父を失い、父の従兄弟の陸康に身を寄せ、ともに任地の廬江へ赴いた。(『陸遜伝』)

「呉録」に曰く。
この頃、陸康の従子が賊徒に攻められ、孫堅に助けを求めた。他郡のことであり越権行為になると反対されたが、孫堅は「私はただ征伐により功績を立ててきた。郡を越えてよその土地を助けて罪を得たとして、天下の人々に何を恥じることがあろう」と言い、救援した。(『孫堅伝』)

189年、献帝が即位すると董卓らの専横により世は乱れた。陸康は盛んに朝貢して朝廷を助け、忠義将軍を加官された。

194年、寿春に駐屯する袁術は飢饉に遭ったため陸康に兵糧の援助を求めた。(『後漢書 陸康伝』)
袁術は(刺史の陶謙(とうけん)の死に乗じて)徐州への侵攻を企み、兵糧の援助を求めた。(『孫策伝』)

だが陸康は反逆者には協力できないと拒否し、防備を固めたため、袁術は麾下の孫策に攻めさせた。(『後漢書 陸康伝』)
孫策はかつて陸康に面会を求めた時、当人は出てこず配下に対応されたのを恨みに思っており、さらに袁術に廬江を落とせば太守に任命するとそそのかされた。(『孫策伝』)

陸康は攻撃を察すると、陸遜(当時12歳)に一族を率いさせて故郷へ帰らせた。陸績より5歳上だったため、陸遜が(その後も)一族を取りまとめた。(『陸遜伝』)

城を何重にも包囲されたが、休暇で城外に出ていた配下らは、陸康を助けるため夜間に城へ忍び入って合流した。
2年にわたり籠城したがついに陥落し、心痛からか間もなく病没した。享年70。
陸氏宗族の百余人は各地に離散し、その半数が死亡したという。
朝廷は彼の忠節を哀れみ、子の陸儁(りくしゅん)に郎中の位を与えた。

末子の陸績は孫策・孫権に仕えた。(『後漢書 陸康伝』)

孫の陸尚は早逝し、妻の徐夫人(じょふじん)は孫権に再嫁した。

陸尚の死期・死因は不明だが、廬江の陥落時に没した一族の中の一人だった可能性もある。いずれにしろ徐夫人にとって孫氏は夫の実家を滅ぼした仇で、また徐夫人は孫権の縁戚(※父が孫堅の甥)でもあり、徐夫人の再嫁は孫・陸・徐3氏の関係修復のための政略結婚の意味合いが強い。(『孫権徐夫人伝』)

「演義」でも同様に孫策に討たれるが、陸績の父とは記されない。



陸渾  関羽に手懐けられた賊徒B


陸渾(りくこん)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

219年、関羽は北上し魏を攻めた。
梁郟(りょうこう)・陸渾ら遠方の盗賊に印綬称号を与えて配下とし、中原を揺るがせた。(『関羽伝』)



陸儁  陸康の子


陸儁(りくしゅん)字は不明
揚州呉郡呉県の人(??~??)

陸康(りくこう)の子。陸績(りくせき)の兄。

195年、父の陸康が孫策との戦いに敗れ、70歳で没すると、朝廷は彼の忠節を哀れみ、子の陸儁に郎中の位を与えた。(『後漢書 陸康伝』)



陸駿


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陸尚  徐夫人の最初の夫


陸尚(りくしょう)名は不明
揚州呉郡の人(??~??)

陸康(りくこう)の孫。
後に孫権の正室となる徐夫人(じょふじん)の最初の夫。

陸尚に早くに先立たれ、徐夫人は200~208年に孫権に再嫁した。
陸尚の死因は不明だが、実家は陸康が孫策に敗れた時に一族50余人が餓死しており、その際に没した可能性もある。(『後漢書 陸康伝』)
いずれにしろ徐夫人にとって孫氏は夫の実家を滅ぼした仇で、また徐夫人は孫権の縁戚(※父が孫堅の甥)でもあり、徐夫人の再嫁は孫・陸・徐3氏の関係修復のための政略結婚の意味合いが強い。
そのせいか孫権と徐夫人の夫婦生活はすぐに破綻し、子宝には恵まれず、離縁され皇后にも立てられなかった。(『孫権徐夫人伝』)



陸昭  高岱を迎えに行く


陸昭(りくしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

孫策の臣。

「呉録」に曰く。
孫策は会稽郡で隠遁する高岱(こうたい)を招聘するため郡丞の陸昭を向かわせた。(『孫策伝』)



陸式  陸胤の子


陸式(りくしょく)字は不明
揚州呉郡呉県の人(??~??)

呉の臣。
陸胤(りくいん)の子。
陸凱(りくがい)の甥(弟の子)にあたる。

父が没すると爵位を継ぎ、柴桑督・楊武将軍となった。

もともと孫皓は諫言をはばからない陸凱を煙たがり、寵愛する何定(かてい)も繰り返し讒言していたことから、陸凱を処罰したがっていた。だが陸凱は重臣であり、しかも族父の陸抗(りくこう)が最前線で兵権を預かっていたため、手出しできなかった。
274年、陸抗が没すると、翌年に一族の陸禕(りくい)・陸式を建安へ強制移住させた。

278年に陸式は赦免され、元の地位と爵位に復した。(『陸凱伝』・『陸胤伝』)



陸績  陸家の麒麟児


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陸遜  紅顔の美少年?


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陸耽


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陸瑁  陸遜の義に厚すぎる弟


陸瑁(りくぼう)字は子璋(ししょう)
揚州呉郡呉県の人(??~239)

呉の臣。
陸遜の弟。

若い頃から学問を好み義に厚かった。
陳融(ちんゆう)、濮陽逸(ぼくよういつ)、蒋纂(しょうさん)、袁迪(えんてき)ら清貧の士を招き彼らと苦楽をともにした。
同郷の徐原(じょげん)は臨終に際し、全く面識のない陸瑁に遺族の面倒を見るよう頼んだ。陸瑁は彼のために墓を立て、遺児を養育した。
族父の陸績(りくせき)が没した時も、幼い遺児を引き取り、成人するまで育て上げた。
兄の陸遜は早くから呉に仕えたが、陸瑁は州・郡から招聘や推挙があっても一切応じなかった。
また人事を壟断していた曁艶(きえん)を諌めたが聞き入れられず、結局は破滅を招いた。

232年、婿の顧承(こしょう)とともに召し出され議郎・選曹尚書に任じられた。(『陸瑁伝』・『顧雍伝』)

顧承は230年、義兄の張温(ちょうおん)の失脚により妻と離縁させられており、顧承の復帰を助けるため招聘に応じたのかもしれない。(『張温伝』)

遼東の公孫淵(こうそんえん)が呉と断交し、魏へ帰順したため孫権は激怒し遠征軍を送ろうとした。陸瑁は二度に渡り理を説いて断念させた。

同郷の聞人敏(ぶんじんびん)が名声を博したが、陸瑁は過大評価だと言い、やがて聞人敏は馬脚を現した。

活躍は短く、239年に兄に先立ち没した。
次男の陸喜(りくき)も学問に長じ、孫晧の代に父と同じ選曹尚書に任じられ、晋でも散騎常侍となった。
孫の陸曄(りくよう)は車騎将軍・儀同三司に、陸玩(りくがん)は司空まで上った。(『陸瑁伝』)

陳寿は「義に篤く主君を諌め正すことに努め、立派な人物たちから称賛を受けた」と評した。

「演義」には登場しない。



栗成  于毒に殺された魏郡太守


栗成(りつせい)字は不明
出身地不明(??~193)

袁紹の臣。

「英雄記」に曰く。
193年(『後漢書 袁紹伝』)、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を破り祝勝会を開いていたが、魏郡で反乱が起き、黒山賊の于毒(うどく)らによって太守の栗成が殺され鄴が陥落したという急報が届き、鄴に家族がいる人々は動揺したが、袁紹は泰然自若としていた。
賊の陶升(とうしょう)は善良な人物で、城壁を乗り越えて役所に入り込み、袁紹らの家族や官吏を保護して逃走した。袁紹は陶升と合流し、于毒を包囲し討ち取った。(『袁紹伝』)



栗攀  兵隊に殺された魏郡太守


栗攀(りつはん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

魏郡太守を務めたが兵隊に殺された。
郡は乱れ万単位の賊がはびこり勝手に交易までしていたが、後任の董昭(とうしょう)は巧みに賊軍をあるいは仲間割れさせ、あるいは急襲して討伐し、2日に3度も勝利の急報が袁紹のもとへ届くほどだった。(『董昭伝』)

同時期に黒山賊の于毒(うどく)に殺された魏郡太守の栗成(りつせい)という人物がおり、同一人物だろうか。(『袁紹伝』)



柳栄


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柳遠  公孫淵の出迎え


柳遠(りゅうえん)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫淵(こうそんえん)の臣。

長史を務めた。
232年、呉は海路から遼東の公孫淵のもとへ張弥(ちょうび)、許晏(きょあん)、賀達(がたつ)ら1万の兵を送り、燕王の位を授けようとした。(『呉主伝』)

一方で公孫淵は魏とも通じており、遠方の呉は当てにならないと考え、233年、呉の使者の張弥、許晏らを殺し、魏へ首を送り恭順の意を示した。

賀達は虞咨(ぐし)とともに船を守っていたため無事だった。
公孫淵は伏兵を潜ませ、柳遠に出迎えさせ、交易をしようと持ちかけた。賀達らは異変を察知し、商人だけを船から下ろそうとしたが、伏兵の韓起(かんき)に襲われ、被害を受けた。(『公孫淵伝』)



柳毅  公孫度の寵臣


柳毅(りゅうき)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫度(こうそんど)の臣。

190年、董卓により乱世がもたらされると遼東太守の公孫度は目を掛けていた官吏の柳毅・陽儀(ようぎ)らに「漢王朝の命運は絶えようとしている。王座を狙うべきだ」と語った。

「王沈魏書」に曰く、公孫度は二人に「讖書(予言書)には孫登(そんとう)が天子になると記される。私の姓は公孫、字は升済で升は登に符合する」と言った。(『公孫度伝』)

205年頃、張遼は遼東の賊の柳毅を撃破した。(『張遼伝』)



柳朱


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柳孚  賈逵にズボンを盗まれた義兄


柳孚(りゅうふ)字は不明
出身地不明(??~??)

賈逵(かき)の義兄(妻の兄)。

「魏略」に曰く。
賈逵は代々の名家の出だったが早くに親を亡くしたため貧しく、冬に履くズボンも無かった。
柳孚の家に泊まった際、我慢できず柳孚のズボンを履いて帰った。そのため人々は賈逵は頑健そのものだと噂した。(『賈逵伝』)

人々の評価がよくわからない。文化の違いだろうか。



柳浦  謀叛の意志が無いことを伝えた公孫淵の重臣B


柳浦(りゅうほ)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫淵(こうそんえん)の臣。

「王沈魏書」に曰く。
237年、毌丘倹(かんきゅうけん)が遼東の討伐に向かうと、公孫淵は大司馬長史の郭昕(かくきん)と参軍の柳浦を筆頭にした連名で、謀叛の意志が無いことを伝えた。(『公孫度伝』)



留賛  オールハンデッドガンパレード


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留平  留賛の子(目立つ方)


留平(りゅうへい)字は不明
揚州会稽郡長山県の人(??~??)

呉の臣。
留賛(りゅうさん)の子。

255年、父の留賛が戦死すると、兄の留略(りゅうりゃく)とともに将として重任を担った。(『孫亮伝』)

263年、魏が蜀へ侵攻すると、呉は救援のため魏の後方撹乱を狙い、丁奉を寿春へ向かわせ、留平を南郡の施績(しせき)のもとへ赴かせて善後策を練らせ、漢水流域へ丁封(ていほう)・孫異(そんい)を進撃させた。
だが蜀は滅亡し、これらの軍事行動は取りやめられた。

翌年2月、征西将軍の留平は陸抗(りくこう)の指揮下で巴東を攻めた。だが蜀の旧臣の羅憲(らけん)はよく抗戦し、魏の援軍が到来すると呉軍は撤退した。(『孫休伝』)

266年、丁忠(ていちゅう)が晋への遣いから帰国すると、祝宴が開かれた。その席上でかねてから孫皓に恨まれていた王蕃(おうばん)が、怒りを買って処刑を命じられた。滕牧(とうぼく)と留平が助命嘆願したが聞き入れられず、王蕃は殺された。(『王蕃伝』)

一説に同年12月、陸凱(りくがい)は丁奉・丁固(ていこ)とともに孫皓の廃位を目論んだ。儀仗の先導役をする左将軍の留平を味方にし、孫皓が廟に詣でるところを狙おうとしたが、留平はそれを拒絶した。留平は加担しないが他言もしないと約束したが、計画は実行されなかった。

また「呉録」には別の経緯も記される。
陸凱は孫皓の参詣を狙おうとし、護衛役に丁奉を推薦した。だが孫皓は気に入らず、自ら留平の名を挙げた。
陸凱は息子の陸禕(りくい)に命じ、留平に計画を伝えようとした。だが留平は平素から丁奉と仲が悪く、陸禕が話す前に「丁奉の陣営に野豚が入り込んだらしい。これは凶兆だ」とうれしそうに言った。
陸禕は計画の失敗を悟り、何も伝えずに帰ったという。(『陸凱伝』)

272年、孫皓は華里まで御幸し、帰る素振りを見せなかった。万彧(ばんいく)は丁奉・留平と「最悪の場合は我々だけでも都に帰ろう」と相談した。この密議が孫皓の耳に入り激怒したが、重臣の彼らを一度に処刑するのは差し障りがあり、心中密かに報復を企んだ。
そしてある時、宴会のさなかに万彧・留平へ毒酒を飲ませた。給仕役が気を利かせて量を減らしたため万彧は助かった。留平は毒に気づき、薬を飲んで助かった。
だが不安と憤りから万彧は自害し、留平も一月あまりで悶死した。(『孫皓伝』)

呉の鍾離徇(しょうりしゅん)は西陵の守備を命じられた際、宜城と信陵は建平郡の後ろ盾であり、そこに築城すべきだと訴えた。
だが監軍の唐盛(とうせい)は「施績や留平ら智略を備えた名将もしばしばそこを通ったが、築城しようとは言わなかった」として却下した。
わずか半年後、晋軍は信陵を占領し城を築いてしまった。(『鍾離牧伝』)

「演義」では孫晧を諌めて殺された。父・兄も登場するが血縁は記されない。



留略  留賛の子


留略(りゅうりゃく)字は不明
揚州会稽郡長山県の人(??~??)

呉の臣。
留賛(りゅうさん)の子。

252年、魏軍が攻め寄せると諸葛恪(しょかつかく)は東興の東西に城を築き、西城を全端(ぜんたん)に、東城を都尉の留略に守らせた。
魏軍は撃退された。

255年、父の留賛は諸葛誕に敗れ戦死した。
同年、留略は東海太守に任じられた。(『孫亮伝』)

留略と弟の留平(りゅうへい)はともに将として重任を担った。(『孫亮伝』)

「演義」でも東興を守って戦った。父・弟も登場するが血縁は記されない。



留慮  西陵の戦いの水軍督


留慮(りゅうりょ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、呉の西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
晋は援護するため羊祜(ようこ)や楊肇(ようちょう)、徐胤(じょいん)を援軍として送った。
徐胤は水軍を率いて建平へ向かい、陸抗(りくこう)は羊祜を孫遵(そんじゅん)に、徐胤を水軍督の留慮と朱琬(しゅえん)に足止めさせ、自らは楊肇と対峙した。

数ヶ月後、陸抗は楊肇を撃破し、晋軍は撤退した。歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)



呂安  座布団と幸せを運ぶ


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呂威璜  烏巣レンジャー・烏巣ブルー


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呂壱  そんなことより今日はいい天気です


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呂雅  呂乂の下の子


呂雅(りょが)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
呂乂(りょがい)の子。

父に似て清潔かつ厳格で、文才があり「格論」15編を著した。
謁者に上った。
兄の呂辰(りょしん)は成都県令を務めた。(『呂乂伝』)

蜀滅亡後の268年、蜀の旧臣の羅憲(らけん)は司馬炎に下問され、任用すべき蜀の旧臣として陳寿や呂雅らの名を挙げ、即刻みな登用されいずれも名声を博した。(『霍弋伝』)



呂乂  地方で上げた名を都で落とす


呂乂(りょがい)字は季陽(きよう)
荊州南陽郡の人(??~251)

蜀の臣。
呂常(りょじょう ※魏の臣とは別人)の子。

読書と音楽を好んだ。
父は劉焉(りゅうえん)に仕え、益州牧への赴任に同行したが、道を閉ざされ帰郷できないまま没した。

214年、益州を制圧した劉備は、王連(おうれん)を司塩校尉に任じた。王連は莫大な利益を上げるとともに、呂乂、杜祺(とき)、劉幹(りゅうかん)らを典曹都尉に抜擢し、みな出世した。

後に新都・綿竹の県令を務め、慈悲を旨とした統治は州で第一等と評価された。
巴郡太守に昇進すると、諸葛亮の命令で5千人を徴兵したが、いたわりをもって教え諭し、しっかり取り締まったため一人の逃亡者も出なかった。
漢中太守・督農校尉として兵糧を切らさず諸葛亮の北伐を支えた。

234年、諸葛亮が没すると広漢・蜀郡太守に移った。蜀郡は大都会で人口が多く、また諸葛亮没後の混乱に乗じて逃亡兵らが潜り込み、他人の戸籍を騙っていたが、呂乂の統治により取り締まられ、数年で1万人の逃亡兵らが去っていった。

ついに朝廷に上り尚書を務め、董允(とういん)の後任として尚書令となった。
事務を停滞させず、門前に順番待ちの客が連なることも無かった。
内外の多くの職を歴任したが、倹約に努め謙虚で口数少なく、簡明で煩雑さの無い政務を心掛けたため、清潔で有能と評判をとった。
しかし法を厳守するあまり、法に厳格なだけの官吏を好んで登用したため、県令の頃ほどの名声は得られなかった。

251年に没した。
子の呂辰(りょしん)は県令に、呂雅(りょが)は謁者に上った。(『呂乂伝』)
陳祗(ちんし)が後任の尚書令となった。(『陳祗伝』)

王連に同時に抜擢された杜祺、劉幹とは親交があり、揃って高い名声を得たが、倹約・質素で法を遵守することにかけては呂乂に及ばなかった。(『呂乂伝』)

陳寿は「郡で賞賛され朝廷で評判を落としたが、(同じく地方で功績を上げ朝廷で今一つだった)前漢の薛宣・黄覇と同類である」と評した。

「演義」には北伐に漢中太守の呂義(りょぎ)という人物が登場し、こちらのサイト → 蜀人気質 で呂乂の誤記だろうと推理されている。



呂凱  南中のことなら彼に聞け


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呂凱


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呂岐  袁渙の裁決


呂岐(りょき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

袁渙(えんかん)が梁国相の時、穀熟県長の呂岐は親しく付き合っていた朱淵(しゅえん)と爰津(えんしん)を留学先から帰郷させ、朱淵を師友祭酒に、爰津を決疑祭酒に任命したが、二人とも応じなかったため逮捕したうえ殴り殺した。
その処置を非難する者が多かったが、袁渙は弾劾しなかった。

主簿の孫徽(そんき)は「朱淵らの罪は死刑に相当せず、県長は死刑を独断で決められません。それに朱淵を師友祭酒に任命しながら、師友に対する処置とは思えません」と反対した。
袁渙は「独断で死刑にしたのは確かに罪である。だが君主が家臣を師友に任命するのは敬意を示すためで、罪があれば罰を加えるべきだ。任命を無視した罪を議論せずに、弟子が師を殺したと非難するのは見当外れだ。近頃の世は乱れ、下位の者が上位の者を侮っている。世の中の欠陥を助長するのは誤りである」と言い、やはり弾劾しなかった。(『袁渙伝』)



呂拠  汚名より死を選ぶ


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呂桂  呂虔の孫


呂桂(りょけい)字は不明
兗州任城郡の人(??~??)

魏の臣。
呂翻(りょほん)の子。呂虔(りょけん)の孫。

父が没すると後を継いだ。(『呂虔伝』)



呂建  対関羽の切り札


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呂虔  泰山郡と青・徐州を守る


呂虔(りょけん)字は子恪(しかく)
兗州任城郡の人(??~??)

魏の臣。

胆力と策略の持ち主と聞いた曹操に兗州従事に招かれ、手勢を率いて湖陸を守った。(『呂虔伝』)

200年、劉備が蜂起すると昌豨(しょうき)はそれに呼応し、東海郡で挙兵した。
付近の郡県も応じ数万の軍勢に膨れ上がったが、すぐに撃破された。(『武帝紀』・『先主伝』)

襄賁校尉の杜松(としょう)に仕える炅母(けいぼ)も反乱した。
曹操は杜松と呂虔を交代させた。呂虔は炅母ら反乱の首謀者を数十人招き酒宴を催した。全員が酔ったのを確認すると、伏兵に殴り殺させた。その配下はいたわったため服従した。

曹操は泰山太守を兼任させた。泰山郡は山海に接し、各地からの流民が隠れ住んでいた。袁紹の息のかかった郭祖(かくそ)・公孫犢(こうそんとく)らが山に潜み暗躍していたが、呂虔の恩愛と信義ある統治により郭祖らは降伏し、流民たちも山を降りた。
呂虔は彼らから屈強の者を徴兵し、泰山郡は兗州の筆頭格の精鋭となった。

済南郡で黄巾賊の徐和(じょか)が周辺の高官を攻撃し、城邑を荒らし回ると、夏侯淵とともに討伐し、前後数十回の戦いで数千人をあるいは斬り、あるいは捕虜にした。
曹操は青州諸郡の兵の指揮を任せ、東來郡で反乱した李条(りじょう)も討伐すると、「意志を貫き目的を成し遂げるのは烈士の求めることである。御身は悪人を捕らえ暴虐を討ち、民衆は安定した。自ら矢石をくぐり、征伐では必ず勝った。後漢の名将たちと等しい」と激賞し、茂才に推挙し、騎都尉を加官し、泰山郡を任せ続けた。
統治は十数年に及び、威厳と恩恵は大きかった。

220年、曹丕は王位につくと裨将軍を加え、益寿亭侯に封じ、さらに徐州刺史・威虜将軍に昇進させた。
王祥(おうしょう)を招いて政治の一切を任せ、世間はよく賢者に任せたと讃えた。
利城郡の反乱を鎮圧した。(『呂虔伝』)

225年、利成郡(利城郡)で蔡方(さいほう)が反乱しており、この件と思われる。(『文帝紀』)

呂虔は三公が身に着けるいわれのある名刀を持っており、王祥へ「見込みが無い者ならば逆に害があるかも知れないが、君は三公になれる才能だ」と言い、強引に与えた。
後に王祥は三公に上り、名刀は弟の王覧(おうらん)の子孫へ受け継がれた。(『晋書 王祥伝』)

226年、曹叡が帝位につくと万年亭侯に国替えされ、200戸を加増され600戸となった。
没すると子の呂翻(りょほん)が後を継いだ。(『呂虔伝』)

陳寿は李通(りつう)・臧覇(ぞうは)・文聘(ぶんぺい)とともに「威厳と恩恵を示した」と評した。

「演義」では史実と全く異なるがあちこちに顔を出し、呂布配下の薛蘭(せつらん)を射殺するなど息の長い活躍を見せた。



呂公  崖の上の呂公


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呂合


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呂貢  樊城の戦い当時の豫州刺史


呂貢(りょこう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

219年、関羽が樊城を包囲すると曹操は詔勅を下し、兗州刺史の裴潜(はいせん)と豫州刺史の呂貢を呼び寄せたが、ゆっくり来るよう言いつけた。
温恢(おんかい)はこれを陽動と見抜き「民衆を動揺させないための手立てで、すぐ荊州へ転進するよう命令が来るはずだ。張遼らにも同じ命令が下るだろうが、彼らもきっと気づいている。彼らに後れを取れば、君は咎められるぞ」と裴潜に忠告した。
果たしてすぐに転進の命令が届いたが、裴潜は忠告を聞き入れ輜重隊を減らし軽装兵を中心に編成していたためすぐに駆けつけられ、面目を保った。(『温恢伝』)

220年、曹丕は即位すると賈逵(かき)を豫州刺史に任じた。
当時、平定されたばかりで州郡の行政が行き渡らず、豫州でも兵曹従事が前の刺史の時から休暇を取り、賈逵の着任から数ヶ月後に帰ってきたりと乱れていたため、州の二千石以下の官吏から阿諛追従する者を一掃するよう上申した。(『賈逵伝』)

時期から見て前の刺史とは呂貢のことだろう。統治がいいかげんだったことがうかがえる。



呂興  孫諝を殺し魏に寝返るも


呂興(りょこう)字は不明
出身地不明(??~263?)

呉、後に魏(晋?)の臣。

出典ごとに微妙に事績が異なるので以下に列記する。

交阯太守の孫諝は技術者1千人を徴用し都に送った。
263年、都から察戦(※役職名)が訪れると郡の人々はまた徴用されるのではと恐れた。郡役人の呂興はこれに乗じて兵や民を扇動し、異民族まで招き寄せ、孫諝を殺し、魏へ鞍替えし新たな太守と援兵を請うた。(『孫休伝』)

孫諝は欲が深く暴虐で、民衆に憎まれていた。察戦の鄧荀(とうじゅん)が訪れ孔雀3千羽を徴発させた。労役に苦しむ民を扇動し、郡役人の呂興が反乱し孫諝と鄧荀を殺した。(『晋書 陶璜伝』)

曹奐は詔勅で「孫休は鄧句(とうこう)を遣わして交阯太守(孫諝)に命じ、住民を鎖につないで連行し徴兵した。大将の呂興は民の怒りを利用して挙兵し、鄧句を殺し、太守を追放した。九真郡と日南郡も呼応した。そして唐譜(とうふ)を霍弋(かくよく)のもとへ派遣し、魏への服従を明らかにした。
また交阯の将校や官吏からは、呂興を非常措置として督交阯諸軍事・上大将軍・定安県侯に任命したと報告が来た。これらは魏の国威が遠方まで響いている証である。呂興を使持節都督交州諸軍事・南中大将軍・定安県侯に任じる」と述べた。
だが詔勅が届かないうちに部下に殺された。(『陳留王紀』)

霍弋は呂興の救援に向かい交阯・九真・日南郡を制圧した。(『霍弋伝』)

司馬炎は呂興を安南将軍・交阯太守に任命したが、間もなく部下の李統(りとう)に殺された。
次いで爨谷(さんこく)、馬融(ばゆう)を交阯太守に任じたがいずれも早死にし、交阯の混乱は続いた。(『晋書 陶璜伝』)



呂曠  呂翔の相方


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呂習


未作成



呂昭  人事を批判される男


呂昭(りょしょう)字は子展(してん)
兗州東平郡の人(??~??)

魏の臣。

才能と実績があり、鎮北将軍に上った。

「魏略」に曰く。
兗州刺史の桓範(かんはん)は自身が冀州牧に転任するという噂を聞き、冀州は鎮北将軍に管轄されているため、以前は下位にいた呂昭の部下になるのを厭い、妻の仲長(ちゅうちょう)に「諸卿になり三公に拝礼するならまだしも、呂昭に頭を下げるなどごめんだ」と愚痴った。
妻は「あなたは以前、部下の鄭岐(ていき)を殺そうとして、あなたの下で働くのは難しいと皆に思われました。呂昭に頭を下げるのは屈辱だと言われるなら、あなたの上で働くのも難しいということですね」とからかった。
痛い所を突かれた桓範はカッとなり刀の柄で妻の腹を突き、流産させてしまった。桓範は病と称して冀州牧を辞退した。(『曹真伝』)

太和年間(227~233)頃、呂昭は鎮北将軍のまま冀州刺史を兼任することになり、杜恕(とじょ)は「刺史は政務に専念するべきで、軍権を持つべきではない」と反対した。

「世語」に曰く。
長男の呂巽(りょそん)、三男の呂粋(りょすい)は高位に上り、次男の呂安(りょあん)は竹林の七賢の準メンバーとして著名である。(『杜畿伝』)



呂祥  呂凱の子


呂祥(りょしょう)字は不明
益州建寧郡愈元県の人(??~??)

蜀・晋の臣。
呂凱(りょがい)の子。

父が戦死すると後を継いだ。

「蜀世譜」に曰く。
晋の南夷校尉となり、子孫は代々の永昌太守となった。
李雄が反乱した際も一族は服従せず郡をあげて抵抗した。(『呂凱伝』)



呂常  流派・襄陽不敗


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呂常  呂乂の父


呂常(りょじょう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

劉焉(りゅうえん)の臣。
呂乂(りょがい)の父。

劉焉の益州牧への赴任に同行したが、道を閉ざされ帰郷できないまま没した。

子の呂乂は蜀の尚書令に上った。(『呂乂伝』)

魏に関羽と戦った同姓同名の人物がいるが別人である。



呂翔  呂曠の相方


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呂辰  呂乂の子


呂辰(りょしん)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
呂乂(りょがい)の子。

景耀年間(258~263)に成都県令を務めた。
弟の呂雅(りょが)は謁者に上った。(『呂乂伝』)



呂粋  呂安の弟


呂粋(りょすい)字は季悌(きてい)
兗州東平郡の人(??~??)

魏の臣。
鎮北将軍を務めた呂昭(りょしょう)の三男。

河南尹に上った。
子の呂預(りょよ)は御史中丞に上った。(『杜畿伝』)

ちなみに長兄の呂巽(りょそん)は、次兄の呂安(りょあん)の妻と密通したうえ、濡れ衣を着せて処刑させた三国屈指のクソ男である。(『王粲伝』)



呂宣  毌丘倹・文欽と結託した反乱者B


呂宣(りょせん)字は不明
出身地不明(??~251?)

魏の臣。

毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)らの上奏に曰く。
255年、毌丘倹・文欽は安豊護軍の鄭翼(ていよく)、廬江護軍の呂宣、廬江太守の張休(ちょうきゅう)、淮南太守の丁尊(ていそん)、督守合肥護軍の王休(おうきゅう)らと結託し反乱した。(『毌丘倹伝』)

鄭翼・呂宣・張休・丁尊・王休の5人には他の事績がない。「各人累代に渡って(魏に)御恩をお受けし」とあり、あるいは著名な臣下の子弟だろうか。
最期は敗死した毌丘倹か、呉へ亡命した文欽と運命をともにしたのだろう。



呂琮


未作成



呂巽  呂安を陥れたNTR兄


呂巽(りょそん)字は長悌(ちょうてい)
兗州東平郡の人(??~??)

魏の臣。
鎮北将軍を務めた呂昭(りょしょう)の長男。

相国掾となり司馬昭に寵愛された。(『杜畿伝』)

景元年間(260~264)、弟の呂安(りょあん)の妻の徐氏(じょし)と密通したうえ、呂安を不孝者と誣告し投獄させた。呂安は兄弟の共通の友人の嵆康(けいこう)に弁護を頼んだが、かねてから嵆康を恨んでいた鍾会は、これを好機と司馬昭に進言し、呂安・嵆康を処刑させた。(『王粲伝』)



呂岱  呉の最長老


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呂霸


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呂伯奢  三国一不幸な男


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呂範  威風堂々


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呂布  三国志最強の男


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呂並  陳倉に立て籠もった屯田兵


呂並(りょへい)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

213年頃?、屯田に従事していたが、将軍を自称して蜂起し陳倉に立て籠もった。
趙儼(ちょうげん)が殷署(いんしょ)を率い討伐したちまち滅亡させた。(『趙儼伝』)



呂睦


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呂翻  呂虔の子


呂翻(りょほん)字は不明
兗州任城郡の人(??~??)

魏の臣。
呂虔(りょけん)の子。

父が没すると後を継いだ。
呂翻も没すると子の呂桂(りょけい)が後を継いだ。(『呂虔伝』)



呂蒙  呉下の阿蒙に非ず


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呂由  曹仁に撃破された陶謙の臣


呂由(りょゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

徐州牧の陶謙(とうけん)の臣。

大将として曹操軍と戦い曹仁に撃破された。(『曹仁伝』)



呂預  呂粋の子


呂預(りょよ)字は景虞(けいぐ)
兗州東平郡の人(??~??)

魏(晋?)の臣。
河南尹を務めた呂粋(りょすい)の子。

御史中丞に上った。(『杜畿伝』)



閭挙


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閭豊  呉滅亡時の広州刺史


閭豊(りょほう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

280年、呉が滅亡すると広州牧の滕脩(とうしゅう)は、広州刺史の閭豊、蒼梧太守の王毅(おうき)とともに自身の印綬を晋へ送り届けた。(『晋書 滕脩伝』)



涼茂  公孫康を脅し返す


涼茂(りょうぼう)字は伯方(はくほう)
兗州山陽郡昌邑県の人(??~??)

魏の臣。

学問を好み、議論に際しては常に経典を根拠として価値判断を下した。
曹操に司空掾に招かれて実績を上げ、侍御史に推挙された。
多くの賊徒がはびこる泰山太守に赴任すると、10ヶ月で平定し、千家以上が移住してきた。

楽浪太守に転任となるも、移動中に遼東の公孫康(こうそんこう)に引き止められ「曹操は遠征し、本拠地は空だ。私には4万の兵があり誰も防げない」と脅されたが、涼茂は大義は曹操にあり、蜂起すればたちまち滅ぼされると脅し返した。諸将は震え上がったが、公孫康は非を認め思いとどまった。

後漢により魏郡太守、甘陵国相に次々と任じられいずれも治績を上げた。
曹丕に招かれ長史、左軍師に転任し216年、魏が建国されると尚書僕射、中尉・奉常と昇進していった。
曹丕が太子となると太子太傅を務め、敬意と礼遇を受けた。(『涼茂伝』)

少傅の何夔(かき)とともに、曹丕や諸侯の属官を選んだが、在職のまま没し、何夔が後任を務めた。(『涼茂伝』・『何夔伝』)

220年、曹丕は魏王に即位すると改めて功績を採り上げ、子を郎中に取り立てさせた。(『文帝紀』)

なお「英雄記」に記される曹丕の八友の一人に名を連ねている。(『涼茂伝』)

陳寿は同伝に記した袁渙(えんかん)・邴原(へいげん)・張範(ちょうはん)には及ばないが、国淵(こくえん)とともに「彼らに次ぐ人物である」と評した。

「演義」には登場しない。

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