三国志 り 7


劉整  魏の鳥居強右衛門B


劉整(りゅうせい)字は不明
出身地不明(??~253)

魏の臣。

253年、諸葛恪(しょかつかく)は魏の合肥新城を包囲した。
守将の毌丘倹(かんきゅうけん)は兵士の劉整を城外へ出し都に連絡を取ろうとしたが、呉軍に捕らえられた。情報を吐けば助けると言われた劉整は「くたばり犬めが何を言っている。私は死して鬼となりお前らを追い払ってやる。さっさと殺せ」と罵倒し(そのまま殺され)た。
同じく兵士の鄭像(ていぞう)も捕まり、城へ援軍は来ないと言うよう命じられたが「援軍は間近に来ている」と大声で叫び続け(そのまま殺され)た。

254年、毌丘倹は二人の功績を述べ報奨を与えるよう言上した。
詔勅が下り、劉整・鄭像に関中侯が追贈され、兵士の身分から引き上げ、子に爵位を継がせ、兵士ではなく部隊長が戦死した時と同じ待遇をするよう命じられた。(『斉王紀』)



劉石  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


劉石(りゅうせき)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、黄龍(こうりゅう)、左校(さこう)、張牛角(ちょうぎゅうかく)、于氐根(うていこん)、劉石、平漢(へいかん)、張燕(ちょうえん)、于毒(うどく)ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。

「漢紀」に曰く。
左校、郭大賢(かくたいけん)、左髭丈八(さしじょうはち)ら3人が他に大きな徒党を率いていた。(『張燕伝』)

「英雄記」に曰く。
193年(『後漢書 袁紹伝』)、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を破り祝勝会を開いていたが、魏郡で反乱が起き、黒山賊の于毒らによって太守の栗成(りつせい)が殺され鄴が陥落したという急報が届き、鄴に家族がいる人々は動揺したが、袁紹は泰然自若としていた。
賊の陶升(とうしょう)はもともと魏郡内黄県の下役人を務めていた善良な人物で、城壁を乗り越えて役所に入り込み、袁紹らの家族や官吏を保護して逃走した。袁紹は陶升と合流し、于毒を討ち取った。
さらに左髭丈八も殺し、劉石・張牛角・黄龍・左校・郭大賢・李大目(りたいもく)・于氐根らの砦を破壊し、頭目の彼らは逃走したが数万の首級を上げた。(『袁紹伝』)

陶升は平漢将軍を自称しており(『後漢書 袁紹伝』)、「ちくま版」は平漢と陶升を同一人物としている。



劉節  司馬芝に徴兵される


劉節(りゅうせつ)字は不明
荊州済南郡の人?(??~??)

魏の臣。

荊州済南の郡主簿を務めた。

劉節は古い家柄で役所を私物化し、千余家の子分を持ち、郡の外では強盗を働かせていた。
曹操が荊州を制圧すると司馬芝(しばし)は済南郡菅の県長として登用された。
司馬芝は劉節の配下の王同を徴兵しようとしたが、劉節を恐れて県の役人は反対した。
劉節は王同をかくまい、逆に司馬芝を徴兵失敗のかどで訴えた。県の役人は自分が王同の代わりに徴兵されようと言ったが、司馬芝は済南太守の郝光(かくこう)に事情を訴えると、かねてから司馬芝を信頼していた郝光は、即座に劉節を徴発した。
「司馬芝は郡主簿を兵卒にした」と州にまでその名は轟いた。(『司馬芝伝』)



劉川


未作成



劉先  曹操を面前で非難する


劉先(りゅうせん)字は始宗(しそう)
荊州零陵郡の人(??~??)

劉表(りゅうひょう)、後に魏の臣。
「後漢書」には劉光(りゅうこう)と記されるが誤記だろう。(『後漢書 劉表伝』)

博学で記憶力に優れ、老荘学を好み、漢王朝の故実に詳しかった。
劉表に仕えて別駕となった。(『劉表伝』)

甥の周不疑(しゅうふぎ)は麒麟児で、同郡の劉巴(りゅうは)のもとで学ばせようとしたが、劉巴は故事を引き「甥御さんの鸞鳳のごとき美質を抑えつけ、燕雀のような私に指導させようとは、恥ずかしくて引き受けられません」と断られた。(『劉巴伝』)

200年、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、劉表はどちらにも与せず中立を決め込んだ。韓嵩(かんすう)は劉先とともにそれを責め、曹操の勝利を予見し、早くよしみを通じるべきだと進言した。
蒯越(かいえつ)も同意すると劉表は重い腰を上げ、韓嵩を都に使者として送り、情報収集させた。

劉先も使者として曹操に会った。
曹操が、天子にのみ許される、天地を祀る儀式を劉表が行ったことを問いただすと、劉先は「劉表は皇族のはしくれで、荊州牧です。政道は安定せず、凶悪な者どもに阻まれ、貢物を朝廷に届けることもできませんから、真心を表すために行ったのです」と弁解した。
曹操がさらに「凶悪な者どもとは誰か」と問うと、劉先はその場にずらりと並んだ賓客をものともせず「目に映る全てです」と言った。
曹操は「私には十万の勇猛な兵があり、勅命を戴き征伐できない者はいない」と暗に脅しを掛けたが、劉先は「漢王朝は衰え、天子を戴き全ての国々を道徳で服従させる、忠義の士もいません。それどころか軍事力を盾に平然と残忍な行為をし、自分に勝る者はいないと称しています。現代の蚩尤・智伯(古代に討ち滅ぼされた暴君)と言えます」と返した。曹操は不機嫌に黙り込んだ。
武陵太守に任じられた。

208年、曹操が荊州を制圧すると、劉先ははじめ後漢の尚書となったが、後に魏の尚書令になった。

周不疑も曹操に将来を見込まれたが、208年に同じく神童とうたわれた曹沖(そうちゅう)が没すると、他の息子たちでは扱いきれないと危ぶみ、曹操は彼を暗殺してしまった。(『劉表伝』)

「演義」にも登場するが劉表配下の一将に過ぎず全く目立たない。



劉禅  暗君・阿斗


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劉璿  ドラ息子のドラ息子


劉璿(りゅうせん)字は文衡(ぶんこう)
幽州涿郡涿県の人(224~264)

劉禅と王貴人(おうきじん)の長男。

238年、15歳で太子となった。(『劉璿伝』)

費禕(ひい)の長女をめとった。(『費禕伝』)

霍弋(かくよく)は太子中庶子として傅役を務め、武芸を好み節度のない劉璿を、古例を引き合いに言葉を尽くして諌め、人格を磨いた。
後に参軍として庲降の副弐都督や護軍に転任したが、傅役は務め続けた。(『霍峻伝』)

李譔(りせん)は太子庶子、次いで太子僕に任じられた。
博識な彼は劉璿に大いに気に入られ、中散大夫・右中郎将に転任後も近侍し続けた。
だが軽薄でふざけるのが好きな性格だったため、世間の名声は低かった。(『李譔伝』)

孟光(もうこう)は郤正(げきせい)へ、劉璿が学んでいる書物と、人となりについて尋ねた。郤正が当たり障りのないことを答えると、孟光は「権謀才智はどうか知りたいのだ」と言ったが、郤正は言葉を選び「それは胸のうちに秘めておくもので、いざとならなければわかりません」と返した。
孟光は彼が慎重でいいかげんな議論はしないと悟り「私は直言をはばからず、欠点を糾弾し、人々から憎まれた。あなたもよく思っていないようだが、私の言葉には論理がある。太子の勉学は問題用紙に答えるようなものではなく、もっと大切なことに努力すべきだ」と進言した。郤正も心からもっともだと思った。(『孟光伝』)

263年、蜀が滅亡すると父や弟らは洛陽へ送還されたが、劉璿は成都に残ったと思われる。(『後主伝』)

264年、蜀滅亡後に鍾会が起こした反乱に巻き込まれ命を落とした。享年41。(『劉璿伝』)

「演義」でも同様に鍾会の反乱で死んだ。



劉闡  劉璋の波乱万丈の子


劉闡(りゅうせん)字は不明
荊州江夏郡竟陵県の人(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の子。
後に蜀、呉の臣。
別名は劉緯(りゅうい)。

益州を劉備に制圧されると父とともに降伏した。
劉璋・劉闡は荊州に移されたが220年、孫権が関羽を討ち荊州を陥落させたため麾下に入り、劉璋は益州刺史に(正式な刺史の劉備への対抗として)任じられた。
劉璋が没し、南中で雍闓(ようがい)が反乱すると、孫権は劉闡を益州刺史に任じ、交州と益州の境界に駐屯させた。

225年、諸葛亮が南中を平定したため、劉闡は呉へ帰り御史中丞に任じられた。
長兄の劉循(りゅうじゅん)は蜀に残っており、かくして兄弟は敵味方に分かれた。

「呉書」に曰く。
慎み深い人となりで、財を軽んじ義を愛する親分肌の人物だった。後に病没した。(『劉璋伝』)



劉租  華佗のカルテ―医療ミスを暴かれる


劉租(りゅうそ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

華佗(かだ)は督郵の徐毅(じょき)を往診すると「昨日、医曹吏(官医)の劉租に鍼を胃に打ってもらってから咳が止まらず眠れない」と言われ「鍼が誤って肝臓に当たったのでしょう。日ごとに食事が進まなくなり5日で死にます」と診立て、その通りになった。(『華佗伝』)



劉琮  地味な次男


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劉琮  劉禅の子の西河王


劉琮(りゅうそう)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~262)

劉禅の子。
劉備の孫。

252年、西河王に封じられた。
262年に没した。(『後主伝』)

「蜀世譜」に曰く。
劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん)の6人兄弟だった。
263年、蜀が滅亡すると子らは劉禅とともに洛陽の都へ移住させられた。
永嘉の乱(307~312)によりほとんどの子孫が死に、劉永(りゅうえい)の孫の劉玄(りゅうげん)だけが益州へ逃げ延び、支配する李雄(りゆう)によって勝手に劉禅の後を継がされた。(『劉璿伝』)



劉岱  群雄の方の劉岱


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劉岱  魏の臣の方の劉岱


劉岱(りゅうたい)字は公山(こうざん)
豫州沛国の人(??~??)

曹操の臣。

「魏武故事」に曰く。
曹操の司空長史を務めた。討伐に従って功績あり、列侯された。

199年、劉備は曹操の命を受けて袁術を撃破すると、徐州刺史の車冑(しゃちゅう)を殺し独立した。
劉岱・王忠(おうちゅう)が攻撃したが敗北した。
「献帝春秋」に曰く、劉備は「お前達が百人来ても何もできない。曹操が自身で来るならわからないが」とうそぶいた。

翌200年、曹操は自ら攻撃し劉備は大敗した。(『武帝紀』)

同時期に兗州刺史を務めた同姓同名の劉岱がおり、しかも字も同じく公山で非常に紛らわしい。
「演義」では二人の劉岱は同一人物とされた。

「横山三国志」では関羽・張飛を恐れてなかなか進撃できず、曹操に催促されてしかたなくクジ引きで先手を決める場面がコミカルに描かれた。



劉誕  父と兄の反乱に巻き込まれた劉焉の次男


劉誕(りゅうたん)字は不明
荊州江夏郡竟陵県の人(??~194)

後漢の臣。
劉焉(りゅうえん)の次男。

治書御史を務めた。

「英雄記」に曰く、董卓は劉焉へ人夫や軍需物資の供出を命じたが従わなかったため、後漢朝廷に仕える劉誕と兄の劉範(りゅうはん)、弟の劉璋(りゅうしょう)を秘密の牢屋へ閉じ込めた。

董卓死後の194年、馬騰(ばとう)は反旗を翻した。兄の劉範と益州牧の劉焉は共謀し馬騰とともに長安を攻めたが、計画は露見し劉範は逃亡するも、捕らえられて殺された。馬騰も敗走し涼州へ逃げた。
劉誕も同時に捕縛され殺された。
劉焉と父祖からの交友がある龐羲(ほうぎ)は、劉範・劉誕の遺児を連れて益州へ逃げた。(『劉焉伝』)

劉誕は(敵を油断させるためかもしれないが)反乱に加わっておらず、父と兄の計画に連座させられたように読める。



劉智


未作成

 


劉忠


未作成



劉柱  兵の移送に従事できず


劉柱(りゅうちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

漢中の守備を助けるため、殷署(いんしょ)が1200人の兵を率い出発した。兵は突然の命令で家族と引き離されたため、みな憂鬱な表情をしており、趙儼(ちょうげん)はそれを見て心配になり、一日遅れで彼らに追いつくと、一人ひとりをねぎらい、殷署にも注意を促した。
はたして40里ほど進んだところで兵は反乱し、殷署の消息も途絶えた。趙儼は雍州刺史の張既(ちょうき)のもとで休んでいたが、急報を聞き出発しようとした。配下の150人はいずれも反乱兵と同じ部隊で縁戚の者も多く、動揺しており、張既は「小勢で向かっても仕方ない。まず情報を集めるべきだ」と言ったが、趙儼は「本隊もまだ動かないだろう。ぐずぐずしていたら反乱が拡大する恐れもある。それに総指揮を任された私が鎮圧できなければ、私に災難が及ぶのは運命だ」と言い、出立した。
30里ほど進むと兵を休息させ、動揺する彼らをなだめすかしたため、彼らは忠誠を誓った。反乱兵を見つけると指導者だけを処罰し、その他の者は不問に付したため、こぞって降伏してきた。
趙儼は曹操へ(殷署が指揮していた)韓遂(かんすい)・馬超の残党を漢中へ援軍として送り、古参の兵に関中を守らせるよう依頼した。まず将軍の劉柱が2千の古参兵で守備を引き受け、その後に残党が送られる手はずだったが、計画が漏洩し、また家族と引き離され、それに乗じてまた反乱が起こるのではと諸将は動揺した。
趙儼は(反乱しそうにない)温厚な兵1千人で守備を固めさせ、その他の者を東方(漢中)へ送ると通告し落ち着かせた。
兵の名簿を集めて部隊を上手く編成し、少しずつ東方へ送り、守備兵もなだめすかして結局は送り、合計で2万人余りを移動させた。(※後世の孫盛は約束を違え信義にもとると批判している)(『趙儼伝』)



劉胄  張翼・馬忠・張嶷に討伐される


劉胄(りゅうちゅう)
南中の人(??~233)

南中の指導者。

231年、張翼(ちょうよく)は庲降都督・綏南中郎将に任じられたが、厳格に法を執行したため異民族に恨まれた。

233年、南夷の大酋長の劉胄が反乱し諸郡を荒らし回った。張翼は討伐したが勝てず罷免され、馬忠(ばちゅう)が後任の庲降都督に任じられた。
張翼は都へ出頭を命じられ、配下はただちに向かうよう勧めたが「私は職務に耐えられないから罷免されただけで、しかも後任はまだ到着していない。兵站を構築しておくべきで、罷免されるからと言って任務を放棄してよいものか」と指揮を取り続け、馬忠が到着してから都へ出頭した。
馬忠はその準備に助けられ、劉胄を討ち取り平定することができた。
諸葛亮は話を聞いて感心し、張翼を前軍都督・扶風太守に昇進させた。後にも改めてこの功績を採り上げられ関内侯に封じられた。(『馬忠伝』・『張翼伝』)

「益部耆旧伝」に曰く。
劉胄の討伐では張嶷(ちょうぎょく)が常に全軍の先頭に立って戦った。(『張嶷伝』)



劉兆  王襃とともに評判の隠者


劉兆(りゅうちょう)字は延世(えんせい)
青州済南郡の人(??~??)

隠者。

「漢晋春秋」に曰く。
劉兆と王襃(おうほう)は仕官しないことによって評判を上げた。(『王脩伝』)



劉長仁


未作成



劉昶  一緒に飲まなくていい男


劉昶(りゅうちょう)字は公栄(こうえい)
豫州沛国の人(??~??)

魏の臣。

人物鑑定に優れたため、同郷の武周(ぶしゅう)に頼まれ3人の子を鑑定し、長男の武陔(ぶがい)は宰相の風格があり三公に次ぐ位に、下の二人も高位に上るだろうと見立てた。いずれも的中した。(『胡質伝』)

253年、王戎(おうじゅう)が阮籍(げんせき)を訪ねると劉昶が居合わせ、3人で歓談した。
阮籍は王戎に「良い酒が2斗あるから飲もう。公栄にはやらなくていい」と誘い2人だけで酒を飲んだが、劉昶は恨み言の一つもこぼさず話をし続けた。

後日、不思議に思い王戎があれは誰だったのかと尋ね、阮籍は兗州刺史の劉昶だと告げた。
王戎は「劉昶より優れた者なら一緒に飲むべきで、劣る者ならやはり飲まない理由はない。劉昶だけが一緒に飲まずに済むのだ」と納得したという。

この逸話はあちこちに書かれているが出典ごとに発言者が異なったり、意味が逆になったりと混乱が見える。



劉肇  沐並に捕らえられかける


劉肇(りゅうちょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
ある時、校事(監察官)の劉肇が成皋県を訪れ、食料を要求した。ところが蝗害と旱害で役所には蓄えが無かった。劉肇の使者が県吏を怒鳴りつけると、県令の沐並(もくへい)は激怒し配下を引き連れ、劉肇を捕らえようとした。
逃亡した劉肇が訴え出たため「爪や牙にも等しい監察官を捕らえようとは、沐並は清廉という評判をかさに着て驕っているのか」と糾弾された。危うく処刑されるところだったが髠刑に留められた。(『常林伝』)



劉寵


未作成



劉楨  建安七子・不敬罪


劉楨(りゅうてい)字は公幹(こうかん)
兗州東平郡の人(??~217)

魏の臣。
劉梁(りゅうりょう)の子。(※「後漢書」によると孫)

建安七子の一人。
曹操に召されて丞相掾となり、曹丕には友人として親愛された。

曹丕は劉楨に革帯を与えたが、作った細工師が亡くなったため、いったん返してもらい複製しようとした。曹丕は「物の価値は持ち主によって変わる。卑しい君が持っていたのだから、私のような尊貴な者には使われない。返してくれないのではと疑う必要はないぞ」とからかった。
劉楨は「そもそも尊貴な方が身につける物も、卑しい者が作ったのです。家も米もみな同じです。その革帯が珍しく思われるなら、どうぞお納めください」と当意即妙に返し、感心された。
文章も同様に巧みで、諸公子にも親愛された。(『劉楨伝』)

曹植(そうしょく)も劉楨を「海浜(山東)にあって文才を振るう」と評した。(『陳思王植伝』)
劉楨は曹植に庶子(官名)として仕えたが、同僚の邢顒(けいぎょう)は礼を持って取り締まり言いなりにならなかったため、曹植と不仲だった。
劉楨は曹植へ「邢顒と比べれば私は同僚になる価値すらありません。ところがあなたは劉楨の春の花の如き華やかさを採り上げ、邢顒の秋の実りの如き誠実さを忘れています」と邢顒を重用するよう諌めた。(『邢顒伝』)

劉楨は四本足の蛇が門の中に穴を掘って住み着く夢を見て、夢占いの名手の周宣(しゅうせん)に相談した。
周宣は「これはあなたではなく国家についての予知夢です。蛇は女を表し、足は蛇にあるべきではありません。女が反乱し誅殺されるでしょう」と見立てた。
その後、女賊の鄭(てい)と姜(きょう)が反乱し討伐された。(『周宣伝』)

ある時、曹丕は酒宴を催すと妻の甄姫に挨拶させた。客らはみな平伏したが、劉楨だけが直視した。
曹操はそれを聞くや不敬罪で逮捕させた。死刑は免れたが懲役刑となった。
刑期を終えて官吏に復帰した。

217年、同じく建安七子の陳琳(ちんりん)、徐幹(じょかん)、応瑒(おうとう)らとともに疫病で没した。
曹丕はその文才を「優れた気質を持っているが、ただ力強さだけが足りなかった」と振り返った。
一方「典論」では「力強いが緻密でない」となぜか全く逆に評している。(『劉楨伝』)

毒舌の王昶(おうちょう)は劉楨を「博学で高い才能を持ち、誠実に生き、大きな志を抱いていたが、人柄と行為とに均質性が無い。自制心や遠慮が少なく、長所と短所を差し引きすればゼロだ。私は彼が好きだが、子供が彼を慕うのは希望しない」と評した。(『王昶伝』)



劉展  曹操に魏公即位を勧めた奮威将軍


劉展(りゅうてん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に奮威将軍・楽郷侯として連名した。(『武帝紀』)



劉度  邢道栄でおなじみ


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劉陶  劉曄の口だけの子


劉陶(りゅうとう)字は季冶(きや)
揚州淮南郡成悳県の人(??~255?)

魏の臣。
劉曄(りゅうよう)の末子。

才能あったが品行悪かった。平原太守まで上った。

「王弼伝」に曰く。
よく合従連衡の策を論じ、当時の人々から推重された。(『劉曄伝』)

「王弼伝」に曰く。
「戦国縦横家」の説に詳しく、王弼(おうひつ)との議論ではいつもやり込めたが、王弼の得意分野になると打ち負かすことはできなかった。(『鍾会伝』)

「傅子」に曰く。
なかなか評判高く雄弁家だった。曹爽(そうそう)が権勢を振るっていた頃に選部郎となり、鄧颺(とうよう)ら一派に(現代の)伊尹・呂尚(太公望)だと称えられた。
空を突き破るほどに意気高く、夏侯玄(かこうげん)へ「孔子は聖人ではない。なぜなら智者は天下を切り回すもので、(そうしない孔子のような)愚者は球遊びをしているようなもので、天下は取れないのです」と言った。
夏侯玄はあまりに見当外れな言葉に細かく反論する気も起きず「天下の実態は変転して常ならぬ。今に窮地に立った君が見られよう」とだけ言った。
後に曹爽一派が粛清されると劉陶は村の宿舎に引っ込み、失言を謝罪した。

「晋紀」に曰く。
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱すると司馬師は質問したが、劉陶の返事は要領を得なかった。
司馬師は「君はいつも私と天下のことを議論しながら、いざとなるとまるっきり控えるのか」と激怒し、平原太守に左遷した上、殺した。(『劉曄伝』)



劉陶


未作成



劉徳然  劉元起の子


劉徳然(りゅうとくぜん)字が徳然か
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉備の一族。
劉元起(りゅうげんき)の子。

劉備は15歳の時、母に遊学させられ一族の劉徳然や公孫瓚(こうそんさん)とともに同郷の盧植(ろしょく)に師事した。劉徳然の父の劉元起はいつも劉備を息子と同等に扱って学費を出してやり、妻に苦言を呈されると「この子は並の人間ではない」と答えた。(『先主伝』)



劉惇  八絶・太乙の劉惇


劉惇(りゅうとん)字は子仁(しじん)
冀州平原郡の人(??~??)

呉の臣。

太乙の術(占術)の名手で「八絶」の一人に数えられる。
様々な方術に通じていたが、特に太乙の術を極めていた。百余りの著書を記し、高名な儒者の刁玄(ちょうげん)にも称賛された。

戦乱を避けて揚州廬陵郡へ移住し、孫権の従兄の孫輔(そんほ)に仕えた。
天文に明るく占術に通じているため南方一帯に名が轟いた。
水害・旱害・侵攻を占い百発百中で、孫輔は軍師に任じ、人々は「神明」と呼び敬った。

204年、星に異変があり、孫権に尋ねられ「丹陽で客が主人を圧倒する」と言い、日時も予告した。
その日、孫権の弟の孫翊(そんよく)が配下に殺された。(『劉惇伝』)

同じ「八絶」に数えられる呉範(ごはん)は風を、趙達(ちょうたつ)は算木を用いて占った。趙達は「帷幕の中で算木をめぐらせ、戸外に出ずに天道を知るのが占いなのに、わざわざ昼夜戸外に身をさらして読み取ろうとするのは、まことに御苦労なことだ」と他二人を嘲笑った。(『趙達伝』)

呉範・趙達と同じく、秘術を誰にも明かさなかった。(『劉惇伝』)

陳寿は呉範・劉惇・趙達を同じ巻に収録し「秘術に精通し、彼らがめぐらせた心の働きは精妙だった。しかし君子がその心を用いるのは大きく広いものに対してであるべきで、それゆえ立派な見識を備えた人物は、神秘的な事柄には心を向けず、現実をもっぱら問題とするのである」と三者の技術は讃えながらも、そうした占術を重用した孫権を非難している。

「演義」には登場しない。



劉敦  212年に王に立てられた献帝の子C


劉敦(りゅうとん)字は不明
司隸河南郡洛陽県の人(??~??)

献帝の子。

「山陽公載記」に曰く。
212年、漢王朝は皇子の劉煕(りゅうき)を済陰王、劉懿(りゅうい)を山陽王、劉敦を東海王に立てた。
許靖はそれを聞き「老子に言う「何かを縮めようと思えば必ず先に大きくし、何かを奪おうと思えば必ず先に与える」とは曹操のことか」と言った。(『許靖伝』)



劉寧  武陵蛮にあらず


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劉巴  「劉備? ああ、あの義の人ね(薄笑)」


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劉巴  李平の罷免に連名した蜀臣B


劉巴(りゅうは)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

231年、李平(りへい)の罷免を求める文書に行前監軍・征南将軍として連名した。(『李厳伝』)

著名な劉巴は222年に没しており別人である。ちなみに同じ文書に姜維も征南将軍と記されておりどちらかが誤っていると思われる。

余談だがこの弾劾文書にしか登場しない蜀臣は9人もいる。



劉班  龐娥を赦免した酒泉太守


劉班(りゅうはん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「続漢書」に曰く。
張綱(ちょうこう)らとともに「八雋」と並び称された。
圧政を敷いていた大将軍の梁冀(りょうき)の命令に従い他の7人は四方へ飛んだが、張綱だけは「山犬や狼(梁冀)が道に居座っているのに、どうして狐や狸を問題にするのだ」と動かず、弾劾した。(『張翼伝』)

皇甫謐(こうほひつ)の「烈女伝」に曰く。
趙君安(ちょうくんあん)は同県の李寿(りじゅ)に殺され、息子3人は仇討ちを狙ったが、李寿の守りは固く、果たせないうちに疫病により3人とも亡くなった。
李寿は「龐家の男は死に絶えもう心配いらない」と笑い、これを幼い龐淯(ほういく)が聞き、母の龐娥親(ほうがしん)に伝えると、彼女は「どうして私が刃を手にお前を殺さないと思い込むのだ」といきり立ち、名刀を入手し研ぎ澄ました。李寿はそれを聞くと気を引き締め直し馬に乗って刀を帯びた。
近所に住む徐氏の夫人は龐娥親を心配し「李寿は凶悪な男で備えまでしています。あなたが激しい気持ちでも力の強弱では敵いません。返り討ちに遭えば家が断絶してしまいます」と忠告したが「親の仇とは天地日月を共にしません。李寿が死ななければ私はいったいなんのために生きるのでしょう。弟も死に絶えもはや家は断絶したも同然ですがまだ私がいます。あなたは李寿を殺すのは不可能とお考えだが、私は殺せて当然と思っています」と聞く耳持たなかった。家の者も近所の者も龐娥親を嘲笑った。
ついに家を捨てて車で李寿を付け狙い、179年2月上旬、白昼に李寿と出くわした。すぐさま車を降り怒鳴りつけると、仰天した李寿は馬首を返そうとしたが、龐娥親は刀で斬りつけ人馬ともに傷つけた。馬は騒いで李寿を道路脇の溝へ振り落とし、龐娥親は斬りつけたが木に当たって刀が折れた。
そこで李寿の刀を奪おうとし、飛び起きた李寿に身体ごとぶつかり、左手で額を抑え右手で喉を何度も突き、押し倒して刀を奪い首を斬った。
李寿の首級を持って役所へ報告に上がり、言葉も顔色も平素と変わらなかった。県長の尹嘉は心打たれ辞任して赦そうとしたが、龐娥親は「復讐を終えて私は死に、裁判をし刑罰を決めるのはあなたの務めです。どうして生を貪るために法を曲げましょう」と言った。
聞きつけた村人が集まり、誰もが感嘆した。守尉(警察長)は逃亡させようとしたが龐娥親は「法を曲げ死を逃れるのは私の本心ではありません。復讐を果たし1万回殺されようとも満足しています。立派な役所に負担を掛けたくありません」と大声で反対した。守尉は無理やり車に乗せ家へ帰した。
涼州刺史の周洪(しゅうこう)、酒泉太守の劉班も揃って赦免を訴え(許可され)た。
道義心を称え事績を彫った石碑を龐娥の村の門に建て、太常の張奐(ちょうかん)は絹を贈るなど、話を聞いた者は襟を正して感心し評価しない者はなかった。
後の安定太守の梁寛(りょうかん)は伝記を作り、皇甫謐は「本来は男の行う仇討ちを女のか細い身で、父の受けた恥辱の痛ましさを思い、仇の凶悪な言葉に心を奮い立たせ、人馬ともに叩きのめした。亡父の魂を満足させ、3人の弟の恨みをそそいだ。近世にかつてなかったことである。詩経に(仇討ちのことで)うたわれたのはまさに娥親のことである」と評した。

子の龐淯も母譲りの義侠心で主の仇討ちを狙い、危機を救うため命を賭した。(『龐淯伝』)



劉磐  劉表の勇猛な従子


劉磐(りゅうばん)字は不明
兗州山陽郡高平県の人(??~??)

劉表(りゅうひょう)の従子。

勇猛でしばしば艾・西安など諸県に侵攻した。
孫策は太史慈を建昌都尉に任じて6県を統治させて対抗し、敗れた劉磐はそれきり影を潜めた。(『太史慈伝』)

黄忠とともに長沙郡攸県を守った。(『黄忠伝』)

その後の消息は不明。劉表の死後に長沙郡は曹操の支配下に入り、その後劉備に奪われた。曹操か劉備のどちらかに仕えたのだろう。

「演義」では劉表の甥に設定。劉表死後は攸県で隠居していたが、劉備に降った黄忠に推挙され長沙太守となった。

ゲームでは「三國志14」で武力78にされるなどパラメーターは高く設定されがちである。



劉範  董卓残党と戦った劉焉の長男


劉範(りゅうはん)字は不明
荊州江夏郡竟陵県の人(??~194)

後漢の臣。
劉焉(りゅうえん)の長男。

左中郎将を務めた。
194年、馬騰(ばとう)は反旗を翻した。劉範と益州牧の劉焉は共謀し馬騰とともに長安を攻めたが、計画は露見し劉範は逃亡するも、弟の劉誕(りゅうたん)とともに捕らえられて殺された。馬騰も敗走し涼州へ逃げた。
劉焉と父祖からの交友がある龐羲(ほうぎ)は、劉範・劉誕の遺児を連れて益州へ逃げた。

「英雄記」に曰く、董卓は劉焉へ人夫や軍需物資の供出を命じたが従わなかったため、劉範・劉誕と弟の劉璋(りゅうしょう)を秘密の牢屋へ閉じ込めた。
後に李傕(りかく)・郭汜(かくし)に敗れた劉範は馬騰の陣営へ逃げ、父に援軍を要請した。孫肇(そんちょう)が救援に駆けつけたが敗走した。(『劉焉伝』)

「劉焉伝」では反乱の首謀者は劉範・劉焉・馬騰と読めるが異聞があるので以下に記す。

192年、种劭(ちゅうしょう)は重職に任じられたが、父が李傕・郭汜に殺されていたため「父は国に殉じたが、私は子であり臣下でありながらその復讐も果たせていない。どの面下げて帝に拝謁できようか」と辞退し、馬騰・韓遂(かんすい)・劉範・馬宇(ばう)らとともに挙兵し、李傕・郭汜と戦った。

194年、郭汜に敗れ种劭らは戦死し、馬騰・韓遂は撤退した。(『後漢書 种劭伝』)

192年、馬騰・韓遂が降伏し、韓遂は涼州へ帰らされた。
後に馬宇は种劭・劉範と共謀し、馬騰の兵を招き入れ内から呼応しようとしたが、露見して馬騰は敗走し、馬宇らは樊稠(はんちゅう)に殺された。(『董卓伝』)



劉備  義侠、天地を喰らう


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劉斐  郭皇后(曹丕)の親戚


劉斐(りゅうひ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の、母方の親戚。
郭皇后の母は董氏(とうし)であり、そのさらに母方の子か。

郭皇后は身分が低く、即位を群臣に反対された経緯もあったため慎み深く振る舞った。一族の劉斐が他国から嫁を娶ったと聞くと、驕って身を滅ぼすことのないよう、同郷で家格の近い嫁を選ぶよう戒めた、甥の孟武(もうぶ)が郷里で妾を求めようとした時も「天下に女性は少なく、軍人にめとらせるべきです。皇后の甥という立場を利用してはいけません」とたしなめた。(『文徳郭皇后伝』)



劉表  荊州の大人


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劉豹  蔡文姫の前夫


劉豹(りゅうひょう)
匈奴の人(??~??)

南匈奴の左賢王。
単于(王)の於夫羅(おふら)の子。

父の於夫羅は単于の座を争い、後漢の朝廷に裁決を求めたものの、当時は霊帝が没し、十常侍が一掃された混乱でそれどころではなく、帰国もできず漢に留まったまま195年に没した。
その弟の呼廚泉(こちゅうせん)が単于を継ぎ、劉豹は左賢王となった。

またこの頃、長安の動乱に乗じて拉致した蔡文姫を、劉豹は妻に迎えた。2人の息子が生まれたが、207年に蔡文姫の父と親しかった曹操によって身柄を引き取られ離縁した。
2人の息子は匈奴に残ったものの消息は不明だが、蔡文姫は彼らとの別れを詩に詠み、名作と讃えられている。

劉豹はその後、表舞台に現れないが、嫡子とされる前趙の祖である劉淵(りゅうえん)は251年生まれとされ、事実なら相当の長寿だったと思われる。



劉豹  劉備を皇帝に推挙した謎の重臣A


劉豹(りゅうひょう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に元議郎・陽泉侯として連名した。(『先主伝』)

連名した劉豹・向挙(しょうきょ)・殷純(いんじゅん)・趙莋(ちょうさく)・張爽(ちょうそう)には他の事績がない。
こんな重要文書に連名する重臣の事績が残っていないことが、史官を置かなかった蜀の問題点を浮き彫りにしている。

「演義」にも名前のみ登場する。



劉邠  管輅の占術―8年の苦労を諦める


劉邠(りゅうひん)字は令元(れいげん)
出身地不明(??~??)

魏・晋の臣。

平原太守の劉邠は印章を入れる袋と山鶏の羽毛を器に隠し、管輅(かんろ)に当てさせた。官舎で怪異が起きていることを相談すると「漢末の戦乱で流れた血が丘陵を汚し、奇怪なものが現れるのでしょう。あなたには高い徳と天の加護がありますから、それを活用してください」と助言した。

「管輅別伝」に曰く。
劉邠は清らかで穏やかな気質で、論理だった思考力を具えていた。
「易」を好んだがその奥義を究められず、管輅に会うと大喜びし「私は易に注釈を付けているがもうすぐ完成する」と話した。管輅は「それは水に溺れ火に焼かれている者を助けることよりも緊急性の高いことです。なぜなら易を解釈することは万代の後まで及ぶ(※もっと多くの人を救える)からです。しかしあなたの話を朝からずっと聞きましたが、易の十分の一も理解できておらず、これでは注を付けることなどできません」と言い、様々な質問をした。劉邠は努力して答えたが即座に反論され、議論に行き詰まった。
管輅は八卦の道理を説き、劉邠は自分にわかる部分は極めて精妙で、わからない部分は神秘的だと感じ「易に注を付けようと思い立ってから8年、色々と考え心の休まる時はなかったが、あなたの話を聞き私にそんな才の無いことがわかった。だがその苦労を惜しいとは思わない。あなたの言葉を聞き、心が安らいだ」と感謝した。劉邠はさらに射覆(当て物)のやり方を尋ねたが、それも注釈と同じくやめるよう言われ納得した。
劉邠は管輅を5日も引き止め、仕事をほったらかしにして世俗を離れた議論を重ねた。何晏(かあん)と議論したがあなたははるかに超えていると称え、官舎で起きている怪異について相談した。管輅は戦乱で死んだ人々の霊魂が現れたのだろうと指摘し、あなたは徳が高く神秘に通じているから恐れることはないと言い、劉邠は怪異は言われてみれば軍事的な気配を伴っていると思い当たった。

「晋諸公賛」に曰く。
元の名は劉炎(りゅうえん)といったが、司馬炎の名を避けて改名した。太子僕まで上った。
子の劉粋(りゅうすい)・劉宏(りゅうこう)・劉漢(りゅうかん)も高位に上り、特に劉漢の名声は楽広(がくこう)に次いだ。
孫も同様で、曾孫の劉恢(りゅうかい)は東晋の名士となった。(『管輅伝』)



劉敏  蔣琬とともに名を知られた従弟


劉敏(りゅうびん)字は不明
荊州零陵郡泉陵県の人(??~??)

蜀の臣。
「蔣琬伝」に附伝される。

蔣琬(しょうえん)は20歳の時、従弟の劉敏とともに名を知られた。(『蔣琬伝』)

231年、李厳(りげん)の罷免を求める文書に行右護軍・偏将軍として連名した。(『李厳伝』)

左護軍・揚威将軍となり、王平(おうへい)とともに漢中を守った。(『劉敏伝』)

244年、曹爽(そうそう)が10余万の兵で攻め寄せると、漢中の兵は3万足らずだったため、ある者が関城まで戦線を下げ涪城の本隊の救援を得るべきだと進言した。
しかし王平は「涪城は遠く、関城が落ちれば災いの種となる。劉敏と杜祺(とき)を興勢山に立て籠もらせ、私が後方の備えに当たり、本隊の到着まで時間を稼ごう」と言った。
劉敏だけが「民衆は田畑に出て、穀物も収穫されていない。籠城したら取り返しの付かないことになる」と賛成し、百余里にわたって旗や幟を立てて魏軍を撹乱した。費禕(ひい)の本隊が到着すると、王平の読み通りに魏軍は撤退した。(『王平伝』・『劉敏伝』)

この勲功により雲亭侯に封じられた。(『劉敏伝』)

「演義」には第一次北伐に名前だけ見える。



劉夫人  曹昂の母


劉夫人(りゅうふじん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の妻。

曹昂(そうこう)、曹鑠(そうしゃく)、清河長公主(せいかちょうこうしゅ)の二男一女をもうけたが早逝した。

代わって丁夫人(ていふじん)が子を養育したが、我が子のようにかわいがっていた曹昂が197年に戦死したことに激昂し、離縁された。
側室の卞氏(べんし)が昇格し、以降は正室は変わらなかった。(『武宣卞皇后伝』)

2018年、曹操の墳墓から二人の女性の遺骨が発見されたと報じられ、卞氏と劉夫人のものと推測されている。

またよく曹操の正室と記されるが、「太祖(曹操)にははじめ丁夫人があり、また劉夫人が曹昂を生んでいた」とあり、正室とは記されていない。



劉武  劉邕の樊建に並ぶ末子


劉武(りゅうぶ)字は不明
荊州義陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
劉邕(りゅうよう)の末子。

建興年間(223~237)に(?)父が没すると兄の劉式(りゅうしょく)が後を継いだ。

劉武は文才があり、樊建(はんけん)と並ぶ名声を上げ、官位も同じ尚書まで上った。(『楊戯伝』)



劉阜  劉廙の甥


劉阜(りゅうふ)字は伯陵(はくりょう)
荊州南陽郡安衆県の人(??~??)

魏の臣。
劉廙(りゅうよく)の甥。

221年、劉廙が没すると子が無かったため、甥(弟の子)の劉阜が後を継いだ。
陳留太守まで上り、子の劉喬(りゅうきょう)は晋の豫州刺史となった。
その子孫は南北朝(裴松之の時代)でも名家として続いた。(『劉廙伝』)

劉廙の弟の劉偉(りゅうい)は219年に魏諷(ぎふう)の反乱に加担し処刑された。
その子がわずか2年後に劉廙の後を継いだと考えるのは難しいが、劉廙も危ういところで連座を免れており、劉阜が劉偉の子である可能性は残る。



劉普  劉曄の父


劉普(りゅうふ)字は不明
揚州淮南郡成悳県の人(??~??)

劉曄(りゅうよう)の父。

妻の脩(しゅう)は劉曄が7歳、兄の劉渙(りゅうかん)が9歳の時に病に倒れ「父(劉普)の側近は人に取り入り悪事を引き起こす性質で、私の死後に家をむちゃくちゃにするに違いないと心配です。お前達が大きくなって彼らを除けば思い残すことはありません」と子らに遺言した。
劉曄は13歳になると「母の言葉を実行しましょう」と言ったが、劉渙は「どうしてそんなことができよう」とためらった。劉曄はそれを聞くや自ら側近を殺し、母の墓に報告へ行った。
家中は仰天し、劉普も激怒すると劉曄は頭を下げ「母上のご遺言です。父上にお願いもせず勝手に行った罰は受けます」と謝った。劉普は見どころがあると思い、結局咎めなかった。(『劉曄伝』)



劉馥  死後も合肥を守った守護神


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劉平  劉備に刺客を送る


劉平(りゅうへい)字は不明
冀州平原郡の人(??~??)

平民。

劉備が平原国の県令から国相に昇進すると、かねてから劉備を軽んじていた劉平は、配下となるのをよしとせず刺客を送り殺そうとしたが、劉備を慕う刺客は事情を話して去った。これほど劉備は人心を得ていた。

「王沈魏書」に曰く。
劉備は刺客だと知らずに彼を手厚くもてなしたため、暗殺をやめて素性を明かして去った。
当時は飢饉により民衆は暴徒化しており、劉備は暴徒を防ぎ、困窮する民を援助した。身分にとらわれず誰とでも同席して同じ食器を使ったため大勢が心を寄せた。(『先主伝』)



劉辟  汝南の黄巾賊残党


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劉弁  第13代皇帝・少帝


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劉宝  諸葛亮を批判した司馬駿の司馬


劉宝(りゅうほう)字は不明
兗州山陽郡高平県の人(??~??)

晋の臣。

晋代の初め頃、司馬駿(しばしゅん)は関中に赴任すると司馬の劉宝、長史の桓隰(かんしゅう)らと諸葛亮について議論した。
多くの者が魏に降らなかったこと、蜀の民を疲弊させたこと、力量に見合わない計画を立てたこと、己の徳や力を図り損ねたことを非難した。
だが郭沖(かくちゅう)は成功しなかったから正当に判断できないだけで、智略は管中・晏嬰にも勝ると言い、世に知られていない五箇条の事績を明かした。劉宝らは批判をやめ、司馬駿も感動して同意した。

しかし裴松之は(よほど腹が立ったのか)五箇条全てに事細かに反論し与太話だと一蹴している。(『諸葛亮伝』)



劉宝  丁晏と告発合戦する


劉宝(りゅうほう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

242年、孫和(そんか)は前年に死去した兄に代わり太子に立てられた。
都督の劉宝が太子庶子の丁晏(ていあん)を告発すると、丁晏も劉宝を告発し返した。
孫和は丁晏を呼び出し「安心して事を任せられる人材は何人もいない。その人材たちが気持ちの行き違いから互いに疎んじ合い、傷つけ合って良いことがあるだろうか」とたしなめ、二人の関係を、心の籠もった交わりをさせるまでに修復させた。(『孫和伝』)



劉奉林  管輅の占術―妻の死期を当てられる


劉奉林(りゅうほうりん)字が奉林か
冀州広平郡の人(??~??)

素性不明。

劉奉林の妻が正月に重病となり葬儀の用意がされたが、管輅(かんろ)は「八月辛卯の日中が寿命です」と占った。そんなに先まで保たないと劉奉林は思ったが、妻は快方に向かい、しかし秋に再発し管輅の予言した時刻に没した。

「管輅別伝」に曰く。
鮑子春(ほうししゅん)はこの話に感心し、どうやって占ったのか説明を求めた。管輅はあたかもコンパスや定規で図形を描くように少しの齟齬もない道理を説き、鮑子春は「私は若い頃から「易」や占いを好んだが、あなたの話を聞いた後では素質がないのに全くの無駄な苦労をしたとわかる」と言った。(『管輅伝』)

「魏書」に列伝される劉劭(りゅうしょう)は冀州広平郡邯鄲県の人である。同族だろうか。



劉放  孫資と名コンビ


劉放(りゅうほう)字は子棄(しき)
幽州涿郡方城県の人(??~250)

魏の臣。
前漢の武帝の末裔。

孝廉に推挙されたが戦乱が拡大すると、漁陽郡に勢力を持つ王松(おうしょう)に身を寄せた。
200年、官渡の戦いに勝利した曹操が河北へ進出すると、劉放は帰順するよう王松に勧めた。後に曹操からも帰順の誘いが届き、劉放が返書を記し降伏した。曹操はその文章の流麗さに感心し、誘う前から説得していたと聞いて興味を抱き、205年、劉放を登用した。
参司空軍事を皮切りに各地の県令を歴任し、213年頃には同じ経歴で出世してきた孫資(そんし)とともに秘書郎となった。
曹丕の代になると孫資とともに側近を務め、政治の中枢を担い、官位は常に同列に置かれた。(『劉放伝』)

劉放・孫資の権力は絶大なものとなり、蔣済(しょうせい)は彼等のように権力を集中させることは危険だと訴えて称賛された。(『蔣済伝』)
また辛毗(しんぴ)は彼等と一切交際せず、それを子の辛敞(しんしょう)に批判されると「劉放・孫資と上手く行かなくても、せいぜい三公になれないだけだ。三公になりたいために節義を失う者がどこにいる」と叱りつけた。
この言葉が耳に入ったのだろう、後に王思(おうし)の後任に辛毗が推された時、劉放・孫資は「辛毗は誠実だが強情で妥協しません」と反対し、起用されなかった。(『辛毗伝』)

232年、呉が周賀(しゅうが)を海路から遼東へ送り、公孫淵(こうそんえん)と連携させようとした時、曹叡はそれを阻止したいと考えたが、誰もが無理だと反対した。その中で劉放だけが賛成し、迎撃に成功した。

達筆で文章に優れた劉放は、曹操~曹叡(そうえい)の三代で発給された公式文書や布令の多くを著した。
233年、呉・蜀が同時に出兵した時、密偵が孫権の文書を入手した。劉放はそれを改竄し、魏の満寵(まんちょう)に宛てた内通の手紙に書き換えた。
諸葛亮はそれに騙され、歩隲(ほしつ)を難詰し、孫権が自ら弁明する事態にまでなった。
238年の公孫淵の討伐にも功績あり、爵位は方城侯に進んだ。

239年、曹叡は病に倒れると、曹宇(そうう)を大将軍に任じ、曹爽(そうそう)・曹肇(そうちょう)ら親族に補佐させようと考えた。
ところが謙虚な曹宇は固辞し、劉放・孫資は曹肇と敵対していたため猛反対し、「固辞したということは曹宇は自信が無いのだ」と指摘し、曹爽と司馬懿を推薦した。
劉放は及び腰となった曹爽の足を踏み、耳打ちしてけしかけたという。
結局、劉放・孫資の意見が通り、曹宇らは都から出され要職から退けられた。

曹芳(そうほう)の代にはますます重用され、240年には孫資とともに儀同三司を授かり宰相待遇となり、245年には劉放が驃騎将軍、孫資が衛将軍に上った。(『劉放伝』)
だが曹爽が専横を極める情勢に危険を察知したのか、248年に二人揃って官を辞した。(『斉王紀』)
そして249年、司馬懿によって曹爽一派が掃討されると、劉放と孫資はちゃっかり復帰した。
翌250年に没し、敬侯と諡され、子の劉正(りゅうせい)が後を継いだ。孫資もその翌年に没した。(『劉放伝』)

陳寿は「劉放伝」を立て、そこに「孫資伝」を付した。
「孫資に才能と策謀で勝るが品性は劣る。劉放・孫資は常に主君に従順で、是非をはっきりしたことは一度もなかった。だが時には臣下の諫言を援護したり、事の長短を説明したりと、阿諛追従に終始したわけではない。劉放は文書で、孫資は真面目さと慎み深さで詔勅を司った。ともに権勢を振るったが、それにふさわしい見識は備えていなかったため、彼らを非難する声が、実績よりも激しかった」と評している。

「演義」には曹爽に実権を握らせる下りにのみ登場する。



劉茂  濊・韓を討伐した楽浪太守


劉茂(りゅうぼう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

245年、楽浪太守の劉茂は帯方太守の弓遵(きゅうじゅん)とともに、高句麗に寝返った濊を討伐した。
濊王の不耐侯(ふたいこう)は降伏した。
247年、不耐侯は朝貢し不耐濊王(ふたいわいおう)の位を授けられた。

呉林(ごりん)は楽浪郡がもともと韓を統治していたため、辰韓(※韓の3つの国の1つ)を分割して楽浪郡へ併合しようとしたが、意見が紛糾してまとまらず、ついには韓の指導者が煽り立てて帯方郡へ侵攻した。
弓遵・劉茂が迎撃し、弓遵は戦死したもののそのまま討伐し韓を滅ぼした。

弓遵の後任の帯方太守の王頎(おうき)は247年に赴任しており、その年のことだろうか。(『東夷伝』)



劉封  報われない養子


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劉望之  劉廙の兄


劉望之(りゅうぼうし)字が望之か
荊州南陽郡安衆県の人(??~??)

劉廙(りゅうよく)の兄。

名声高く、荊州牧の劉表(りゅうひょう)に招聘され従事となった。ところが友人二人がいずれも讒言に遭って処刑された。
劉望之も直言をはばからなかったため疎まれ、帰郷を考えた。弟の劉廙が身の危険を訴えたが結局は取り止め、讒言により殺されてしまった。
劉廙は揚州へと逃れた後に曹操へ仕えた。

劉廙は逃亡中に劉表へ手紙を送り「兄は過去に礼遇されながら、父や先人の教えを活かさず、心配りも周到ではなかったため天に災厄を与えられました。愚かな私も同じように身を滅ぼし、一族の血を絶やさないため難を避けただけで、恩恵を忘れたわけではありません」と申し開きした。

また傅玄(ふげん)は「劉望之が殺された後、荊州の人々は次は我が身と危険を感じた。劉表は彼を軽視してはいなかったが、直言が気に入らず、度量がなかったため讒言の付け入る隙があった。劉表が荊州を支配しながら成功しなかった原因である」と記している。(『劉廙伝』)



劉瑁  穆皇后の前夫


劉瑁(りゅうぼう)字は不明
荊州江夏郡竟陵県の人(??~208?)

劉焉(りゅうえん)の三男。

益州牧に赴任した劉焉は野心深く、漢王朝からなかば独立した。(『劉焉伝』)

劉焉は旧友の娘で、後の穆皇后(ぼくこうごう)が人相見に「高貴な身分に上る」と占われたため、劉瑁の嫁に迎えた。(『穆皇后伝』)

長男と次男、四男の劉璋(りゅうしょう)は朝廷にいたが、三男で別部司馬を務める劉瑁だけが父のもとにいた。
そこで朝廷は劉璋を派遣し父を説得させようとしたが、劉焉はこれ幸いと劉璋を益州に留め置いた。(※「典略」によると劉焉は病気にかこつけて見舞いに来させた)
やがて長男と次男は死に、劉焉は失意のさなかに城まで落雷で失い、病を得て194年に没した。

重臣の趙韙(ちょうい)はおとなしい劉璋を傀儡にしようと企み、上奏して益州牧に据えた。(『劉焉伝』)

趙韙は反逆したが劉璋に返り討ちにされた。
208年、曹操が荊州制圧に乗り出すとよしみを通じ、劉璋に振威将軍、劉瑁に平寇将軍が与えられた。
間もなく劉瑁は精神を病み、亡くなった。(『劉璋伝』)

214年、穆皇后は益州を制圧した劉備の正室に迎えられた。(『穆皇后伝』)

余談だが本文に「劉瑁は物故した」とあり、裴松之はそれに注を付け、魏で物故という言葉の由来は何か議論され、高堂隆(こうどうりゅう)が「物は無を、故は事を意味し、二度と何もできないという意味」と答えたと記している。
三国時代に既に由来がわからなくなっている言葉が、現代日本で常用されているのは非常に面白い。



劉曼  献帝の娘


劉曼(りゅうまん)字は不明
司隷河南郡洛陽県の人(??~??)

献帝・劉協(りゅうきょう)の娘。
母は曹節(そうせつ)か。

223年、曹丕の妹で山陽公(献帝)夫人の曹節に化粧料として領地が与えられた。
娘の劉曼も長楽郡公主となり、ともに500戸を領した。(『文帝紀』)



劉猛  晋に反乱するも敗死


劉猛(りゅうもう)
匈奴の人(??~272)

出自は諸説あるが、南匈奴の右賢王の去卑(きょひ)の弟か。

271年、南匈奴を率いる右賢王の劉猛は晋に反乱した。
だが何楨(かてい)の討伐軍に敗北し、同年に并州に侵攻するも刺史の劉欽(りゅうきん)にまたも打ち破られた。

翌272年、何楨は劉猛の配下の李恪(りかく)を調略し、暗殺させた。
劉猛の子は鮮卑に亡命したため、南匈奴は去卑の子が受け継いだ。

  り1  り2  り3  り4  り5
り6  り7  り8    ろ~わ