劉放 孫資と名コンビ
劉放(りゅうほう)字は子棄(しき)
幽州涿郡方城県の人(??~250)
魏の臣。
前漢の武帝の末裔。
孝廉に推挙されたが戦乱が拡大すると、漁陽郡に勢力を持つ王松(おうしょう)に身を寄せた。
200年、官渡の戦いに勝利した曹操が河北へ進出すると、劉放は帰順するよう王松に勧めた。後に曹操からも帰順の誘いが届き、劉放が返書を記し降伏した。曹操はその文章の流麗さに感心し、誘う前から説得していたと聞いて興味を抱き、205年、劉放を登用した。
参司空軍事を皮切りに各地の県令を歴任し、213年頃には同じ経歴で出世してきた孫資(そんし)とともに秘書郎となった。
曹丕の代になると孫資とともに側近を務め、政治の中枢を担い、官位は常に同列に置かれた。(『劉放伝』)
劉放・孫資の権力は絶大なものとなり、蔣済(しょうせい)は彼等のように権力を集中させることは危険だと訴えて称賛された。(『蔣済伝』)
また辛毗(しんぴ)は彼等と一切交際せず、それを子の辛敞(しんしょう)に批判されると「劉放・孫資と上手く行かなくても、せいぜい三公になれないだけだ。三公になりたいために節義を失う者がどこにいる」と叱りつけた。
この言葉が耳に入ったのだろう、後に王思(おうし)の後任に辛毗が推された時、劉放・孫資は「辛毗は誠実だが強情で妥協しません」と反対し、起用されなかった。(『辛毗伝』)
232年、呉が周賀(しゅうが)を海路から遼東へ送り、公孫淵(こうそんえん)と連携させようとした時、曹叡はそれを阻止したいと考えたが、誰もが無理だと反対した。その中で劉放だけが賛成し、迎撃に成功した。
達筆で文章に優れた劉放は、曹操~曹叡(そうえい)の三代で発給された公式文書や布令の多くを著した。
233年、呉・蜀が同時に出兵した時、密偵が孫権の文書を入手した。劉放はそれを改竄し、魏の満寵(まんちょう)に宛てた内通の手紙に書き換えた。
諸葛亮はそれに騙され、歩隲(ほしつ)を難詰し、孫権が自ら弁明する事態にまでなった。
238年の公孫淵の討伐にも功績あり、爵位は方城侯に進んだ。
239年、曹叡は病に倒れると、曹宇(そうう)を大将軍に任じ、曹爽(そうそう)・曹肇(そうちょう)ら親族に補佐させようと考えた。
ところが謙虚な曹宇は固辞し、劉放・孫資は曹肇と敵対していたため猛反対し、「固辞したということは曹宇は自信が無いのだ」と指摘し、曹爽と司馬懿を推薦した。
劉放は及び腰となった曹爽の足を踏み、耳打ちしてけしかけたという。
結局、劉放・孫資の意見が通り、曹宇らは都から出され要職から退けられた。
曹芳(そうほう)の代にはますます重用され、240年には孫資とともに儀同三司を授かり宰相待遇となり、245年には劉放が驃騎将軍、孫資が衛将軍に上った。(『劉放伝』)
だが曹爽が専横を極める情勢に危険を察知したのか、248年に二人揃って官を辞した。(『斉王紀』)
そして249年、司馬懿によって曹爽一派が掃討されると、劉放と孫資はちゃっかり復帰した。
翌250年に没し、敬侯と諡され、子の劉正(りゅうせい)が後を継いだ。孫資もその翌年に没した。(『劉放伝』)
陳寿は「劉放伝」を立て、そこに「孫資伝」を付した。
「孫資に才能と策謀で勝るが品性は劣る。劉放・孫資は常に主君に従順で、是非をはっきりしたことは一度もなかった。だが時には臣下の諫言を援護したり、事の長短を説明したりと、阿諛追従に終始したわけではない。劉放は文書で、孫資は真面目さと慎み深さで詔勅を司った。ともに権勢を振るったが、それにふさわしい見識は備えていなかったため、彼らを非難する声が、実績よりも激しかった」と評している。
「演義」には曹爽に実権を握らせる下りにのみ登場する。
|