三国志 ら


羅憲  孤立無援の戦い


個別ページへ



羅市  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


羅市(らし)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、羅市ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。(『張燕伝』)



羅襲  羅憲の子


羅襲(らしゅう)字は不明
荊州襄陽郡の人(??~??)

晋の臣。
羅憲(らけん)の子。

「襄陽記」に曰く。
蜀の滅亡後、晋に仕えた羅憲は265年、妻子を洛陽へ移住させた。
子の羅襲は司馬炎により給事中に任命された。
淩江将軍に上ったが若くして没し、(祖父と同じ)広漢太守を追贈された。(『霍峻伝』)



羅蒙  羅憲の父


羅蒙(らもう)字は不明
荊州襄陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
羅憲(らけん)の父。

「襄陽記」に曰く。
戦火を避けて蜀へ移住し広漢太守まで上った。(『霍峻伝』)



羅厲  呂岱に討伐された南海郡の賊徒


羅厲(られい)字は不明
揚州南海郡の人(??~236)

賊徒。

234年11月、廬陵郡で李桓(りかん)・羅厲らが反乱した。
235年夏、呂岱(りょたい)が討伐に向かった。
236年2月、吾粲(ごさん)が李桓を、唐咨(とうし)が羅厲を捕らえた。(『呉主伝』)

「呂岱伝」に詳細が記される。
235年、廬陵郡で李桓と路合(ろごう)、会稽郡で随春(ずいしゅん)、南海郡で羅厲が同時に蜂起した。
孫権は詔勅を下し呂岱に劉簒(りゅうさん)・唐咨らを指揮させ討伐に向かわせた。
随春はただちに降伏し、呂岱は偏将軍に任じてそのまま兵を率いさせた。随春は後に呉の将軍となった。
李桓・羅厲らは斬首され首級を都へ送られた。
孫権は「羅厲は険阻な地勢を頼みに反乱し、自らさらし首となった。李桓は悪賢く反乱を繰り返し長年に渡り捕らえられなかった。呂岱の計略でなければさらし首にできなかった」と称えた。(『呂岱伝』)



来豔  来敏の父


来豔(らいえん)字は季徳(きとく)
荊州南陽郡新野県の人(??~178)

後漢の臣。
来敏(らいびん)の父。
「後漢書」では来艶と書かれる。

「華嶠後漢書」に曰く。
学問を好み謙虚な人柄で、屋敷を解放して士人を養った。若い頃から高位を歴任した。(『来敏伝』)

170年4月、太常から司空となり8月に罷免された。
178年4月、再び太常から司空となり9月に没した。(『後漢書 霊帝紀』)

子の来敏は戦乱を避けて姉とともに荊州へ疎開し、姉の夫の黄琬(こうえん)が劉璋(りゅうしょう)の縁戚だったため益州へ移住し、後に蜀に仕えた。(『来敏伝』)



来達  柱天将軍に捕らえられた合浦太守


来達(らいたつ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

古くから交趾(交州)は多くの宝石や美木を産出する肥沃な土地で、歴代の交趾刺史は私腹を肥やし、誰もが赴任したがり民には恨まれた。
184年、反乱により交趾刺史と合浦太守の来達が捕らえられ、首謀者は柱天将軍と自称した。霊帝は対処できる能吏を選抜させ、賈琮(かそう)が後任の交趾刺史となり1年で平定した。(『後漢書 賈琮伝』・『後漢書 霊帝紀』)



来忠  来敏の子のライチュウ


来忠(らいちゅう)字は不明
荊州義陽郡新野県の人(??~??)

蜀の臣。
来敏(らいびん)の子。

経学を広く身に着け、父の面影があった。
向充(しょうじゅう)とともによく姜維を補佐し、姜維は来忠を評価し参軍に任じた。(『来敏伝』)



来敏  蜀のクソジジイ


個別ページへ



雷緒  廬江で大暴れ


雷緒(らいしょ)字は不明
揚州廬江郡の人?(??~209?)

廬江の賊徒。
陳蘭(ちんらん)と共闘しており、ともに袁術配下から山賊に転じた雷薄(らいはく)の一族か、雷薄の別名と思われる。

200年、廬江太守の李術(りじゅつ)が揚州刺史を殺し孫権に反乱すると、それに同調し雷緒・陳蘭・梅乾(ばいけん)らが数万の兵を率いて挙兵し、長江流域を荒らし回った。
だが李術は速やかに孫権に討伐され、曹操が後任の揚州刺史として劉馥(りゅうふく)を合肥に送ると、雷緒らは劉馥に帰順した。(『呉主伝』・『劉馥伝』)

208年、赤壁の戦いで勝利した劉備が荊州南部を制圧に掛かると、雷緒らは数万人を率いて劉備に鞍替えした。(『先主伝』)

209年、曹操は夏侯淵に命じて討伐させ、雷緒を撃破した。(『夏侯淵伝』)



雷譚  陸抗に西陵攻撃を進言


雷譚(らいたん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
討伐を命じられた陸抗(りくこう)は歩闡の籠城する西陵を長陣で包囲させた。まるで敵が目前に迫っているかのように急ピッチで作業させたため諸将は「晋軍の到着前に攻めれば済むのに、なぜ包囲ばかり考え兵や民を疲弊させるのか」と諌めたが、陸抗は「西陵の防備は皮肉にも私が固めたから、すぐに落とせないことはわかっている。まず晋軍に挟み撃ちされるのを防ぐべきだ」と答えた。
なおも反対され、中でも宜都太守の雷譚が誠意ある言葉で攻撃を進言したため、陸抗は一度だけ攻撃を認めたが、敗北しようやく諸将も納得した。

その後、陸抗の読みは次々と当たり晋軍を撃退し、降伏した歩闡は処刑された。(『陸抗伝』)



雷定


未作成



雷銅  技の雷銅


個別ページへ



雷薄  山賊の似合う男


個別ページへ



頼恭  零陵の名族


頼恭(らいきょう)字は不明
荊州零陵郡の人(??~??)

蜀の臣。

荊州の名族と「季漢輔臣賛」の注に記される。(『楊戯伝』)

交州刺史の張津(ちょうしん)が部下に殺されると、荊州牧の劉表(りゅうひょう)は頼恭を後任に据えた。だが同時に蒼梧太守に任じられた呉巨(ごきょ)と仲違いし、攻撃され零陵へ逃げた。(『士燮伝』)

薛綜(せつそう)はその経緯について「頼恭は年配で仁愛があり慎み深かったが、時事に通じていなかった。呉巨は勇猛な武人で、頼恭はその指図に従わず衝突した」と語った。(『薛綜伝』)

208年、劉備が零陵を制圧した際に傘下に入ったと思われる。

219年、劉備を漢中王に推挙する上表に鎮遠将軍として連名した。(『先主伝』)
即位した劉備は荊州の名族の頼恭・黄柱(こうちゅう)・王謀(おうぼう)を高位に起用した。
頼恭を太常に任じた。(『楊戯伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に太常として連名した。(『先主伝』)

222年、劉備が没すると、諸葛亮と討議し甘皇后(かんこうごう)に昭烈皇后(しょうれつこうごう)と諡し、劉備と合葬した。(『甘皇后伝』)

子の頼広(らいこう)は諸葛亮に見込まれたが若死にし、大いに嘆かれた。

陳寿は頼恭・黄柱・王謀は事績が残っていないため伝を立てなかったと「季漢輔臣賛」の注に記した。(『楊戯伝』)

ちなみに皇帝に推挙する上奏に頼恭・黄柱・王謀は許靖(きょせい)・糜竺(びじく)・諸葛亮ら筆頭級の重臣と名を連ねている。

「演義」では劉備に皇帝即位を勧めた一人として名前が挙がるのみである。



頼広  諸葛亮に惜しまれた頼恭の子


頼広(らいこう)字は不明
荊州零陵郡の人(??~??)

蜀の臣。
頼恭(らいきょう)の子。

諸葛亮に見込まれ丞相西曹令史となり、漢中に出征したが若死にした。
諸葛亮は蔣琬(しょうえん)と張裔(ちょうえい)に手紙を送り「頼広と楊顒(ようぎょう)を失い朝廷の損失は多大だ」と嘆いた。(『楊戯伝』)



駱秀


未作成



駱俊


未作成



駱統  心優しき名臣


個別ページへ



駱曜


未作成



駱禄  景初暦を作る


駱禄(らくろく)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

太史待詔を務めた。
太和年間(227~232)、これまで用いられていた暦は時節より遅れていることから、月の満ち欠けを計算し直し、新暦(太和暦)を作るよう進言があり、曹叡は高堂隆(こうどうりゅう)と楊偉(ようい)、駱禄(らくろく)らに作製を命じた。
ところが高堂隆は旧暦を重んじたため議論は紛糾し、数年に渡り互いに上奏して非難し合う事態となった。
楊偉が高堂隆と駱禄の主張にはともに一長一短あると述べ、詔勅が下され新暦の採用が決まった。高堂隆は敗れたものの彼の精緻さは知れ渡った。(『高堂隆伝』)

237年、太和暦は景初暦に改名された。(『明帝紀』)

265年、晋に禅譲されると景初暦は泰始暦に改められたが、実際は景初暦と同じであり、北魏の代の451年まで用いられたという。



欒文博  石徳林の師


欒文博(らんぶんはく)字が文博か
出身地不明(??~??)

学者。

「魏略」に曰く。
建安年間(196~220)、石徳林(せきとくりん)は三輔に居住した。
当時、長安に欒文博という高齢の学者がおり、数千人の門弟を抱えていた。石徳林は師事し、はじめ「詩経」・「尚書」を学び、後に内事(方術)を愛好した。(『管寧伝』)

ら  り1  り2  り3  り4  り5
り6  り7  り8    ろ~わ