令狐邵 令狐愚の破滅を予見
令狐邵(れいこしょう)字は孔叔(こうしゅく)
并州太原郡の人(??~??)
魏の臣。
父は後漢の烏丸校尉を務めた。
196年頃、冀州の鄴に移住した。
204年、毛城に駐留した時、曹操が鄴を制圧し、毛城も陥落させた。令狐邵は捕虜となり危うく処刑されかかったが、引見した曹操が彼の衣冠を不審に思い素性を尋ねると、父と旧知の仲だったため釈放され、軍謀掾に取り立てられた。
郡太守を歴任し、丞相主簿を経て弘農太守に赴任した。どの任地でも氷雪のように清潔で、下役からも大いに慕われた。
当時、郡内に経書を理解する者がいなかったため、希望者を募り河東郡の大学者である楽詳(がくしょう)のもとで学ばせた。そのため弘農は一転して学問の盛んな土地となった。
220年頃、都に召され虎賁中郎将にまで上ったが、3年後に病没した。
甥の令狐愚(れいこぐ)は無官の頃から大志を抱き、人々は彼が家を栄えさせると噂した。
だが令狐邵だけは「令狐愚は奔放で徳を修めず大言壮語している。きっと一族を滅ぼすだろう」と危惧していた。
令狐邵が虎賁中郎将に上った頃、すでに令狐愚は多くの官職を歴任し評判を取っていた。令狐愚は彼に会うと「以前あなたは私が一族を滅ぼすと言ったそうですが、私は結局どうなりましたか」と皮肉を吐いた。
令狐邵はただ見つめるだけで何も言わなかったが、家に帰ると妻子に「令狐愚の性根は何も変わっておらず、最後は破滅するに違いない。私が生きているうちかはわからないが、お前たちは巻き込まれるだろう」と言った。
249年、令狐愚が王凌(おうりょう)とともに謀叛を企んでいたことが発覚した。
令狐愚は既に没していたため墓を暴かれ、一族の多くが処刑された。
だが令狐邵の子の令狐華(れいこか)は、遠縁のため連座を免れた。
陳寿は魏の歴史の中で優秀な太守5人の中に令狐邵を入れている。(『倉慈伝』)
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