劉寔 行いは自力で正すもの
劉寔(りゅうしょく)字は子真(ししん)
冀州平原郡高唐県の人(220?~310?)
魏・晋の臣。
劉広(りゅうこう)の子。
後漢王朝の末裔だが父は県令どまりで、若い頃から貧乏で牛の掛け布を売って生計を立てたが、学問を好み常に書物を暗誦し、広く古今のことに通暁した。
清廉潔白で欠点がなく、郡に孝廉に、州に秀才に推挙されたが応じなかった。やがて計吏となって洛陽に入り、抜擢され河南尹丞となり、尚書郎、廷尉正、尚書吏部郎と昇進し、司馬昭の相国府の参軍事となり循陽子に封じられた。
先見の明があり264年、鄧艾・鍾会が蜀の討伐に向かうとある人に成功するか聞かれ「必ず蜀を滅ぼすが、二人とも帰らないだろう」と答えた。理由を聞かれると笑って答えず、その通りになった。
人々が栄達を求め清廉・謙遜の道が損なわれているとして「崇譲論」を著し啓蒙した。(※晋書にも収録される)(『晋書 劉寔伝』)
陳寿は王粛(おうしゅく)を「誠実にして博学、よく父の業を受け継いだ」と評した。
一方で劉寔は「上には折り目正しかったが下にはへつらいを求めた。栄誉と高貴を愛したが権力者に取り入らなかった。財物を好みながら清貧を選んだ。3つの矛盾がある」と評した。(『王朗伝』)
泰始年間(265~275)のはじめに爵位が伯に進み、昇進を重ね少府となった。
咸寧年間(275~280)に太常となり、尚書に転じた。
279年、杜預(とよ)が呉の討伐に向かうと、尚書のまま鎮南軍司を務めた。
かつて妻の盧氏(ろし)は長男の劉躋(りゅうせい)を生んで没していたため、華氏(かし)は娘を後妻に勧めた。劉寔の弟の劉智(りゅうち)は「華氏の一族はみな貪婪で、必ずや我が一門を滅ぼすでしょう」と反対したが、断り切れずにめとり、劉夏(りゅうか)が生まれた。
その劉夏がこの時に収賄で弾劾され、劉寔も連座して尚書を罷免された。後に大司農に復帰したが、またも連座で罷免された。
劉寔が帰郷するたびに人々は大歓迎し酒宴を開いた。好意を無碍にできずいただいたが、最低限を食べて残りは返した。ある人に「あなたは高潔なのに息子らはそれを見習わない。なぜ教導しないのか」と聞かれ「私は父祖の教えを聞いたわけではなく、自ら見聞きしたことで行いを正しており、教導で習わせることはできないのです」と答え納得させた。
復帰し国子祭酒・散騎常侍となり、太子の司馬遹(しばいつ)が広陵王に封じられると師(※官位)に選ばれた。
元康年間(291~299)のはじめ、爵位は侯に進み、太子太保を経て侍中・特進・右光禄大夫・開府・儀同三司となり冀州都督を兼任した。
299年、司空に上り、さらに太保、太傅へ昇進した。
太安年間(302~303)に老齢と病を理由に引退し、百万銭と車を下賜され、洛陽に邸宅を構えさせた。
官位が上がっても貧困のままで、車を使わず杖で歩き、宿を借りれば自ら柴刈りや水汲みをしたりと質素・倹約を尊んだ。
石崇(せきすう)の家を訪ねた時、厠を借りると豪華な帳や敷物で奴婢が2人も香料を手に立っており、劉寔は慌てて引き返し「誤って奥座敷に入ってしまった」と言い、それが厠だと聞くと恐縮し(奴婢用の?)粗末な厠に行った。
(下賜されるまで)邸宅はなく、妻が亡くなると過剰なまでに喪に服し、軽薄な者に笑われたが意に介さなかった。学問には終生励み、職務中でも書物を離さず、「春秋公羊伝」についての論説は広く世に伝わり「春秋條例」20巻も著した。
司馬乂(しばがい)・司馬穎(しばえい)が争うと拉致され担ぎ上げられたが、故郷へ逃げ帰った。
307年、司馬衷が没するとその陵墓に詣で、即位した司馬熾に太尉に任じられた。
固辞したものの認められなかったが、劉坦(りゅうたん)が故事を引いて弁護したため、309年にようやく許可され、官位は三公の上、俸禄は元のままで出仕は不要だが、大事があれば使者を送るから意見を述べるよう命じられた。
1年余りで91歳で没した。元侯と諡された。
子の劉躋は散騎常侍まで上ったが、劉夏は貪婪で世間から見捨てられた。
弟の劉智も兄譲りの質素・学問好きで侍中・尚書・太常まで上った。
かつて高名な占術師の管輅(かんろ)は「劉寔・劉智と語っていると精神が活発化し夜も眠くならないが、他の者と話していると昼でも眠くなる」と言っていたという。(『晋書 劉寔伝』)
「管輅別伝」に曰く。
何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)・裴徽(はいき)・劉寔・劉智は管輅と親しく、劉寔・劉智への評価と全く同じ表現がされている。
閻纘(えんさん)は「管輅の不思議な逸話は劉寔ら立派な人物や賢者から聞いたものであり虚偽ではない」と言い、劉寔は管輅のこうした話を無数に知っており、管輅の弟の管辰(かんしん)が収録したのはその十分の一か二に過ぎないという。
また劉寔は管辰を「孝廉に推挙されるだけの才能がある」と評した。
裴松之は「劉寔・劉智は儒学で名声があり、管輅や何晏らの玄学の議論は不得手だった。「世語」には劉寔は博識で弁が立つが、それでも裴頠(はいき)・何晏には及ばないと書かれている」と指摘する。(『管輅伝』)
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