三国志 り 6


劉弘


未作成



劉弘


未作成



劉弘  劉備の父


劉弘(りゅうこう)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~??)

後漢の臣。
劉備の父。劉雄(りゅうゆう)の子。

帝室の末裔で、代々にわたり州郡に仕えた。
劉備が幼い頃に亡くなったため家は貧しく、母とともにわらじやむしろを売って生計を立てた。(『先主伝』)



劉宏  後漢を崩壊させた霊帝


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劉宏  劉邠の子の太常


劉宏(りゅうこう)字は終嘏(しゅうか)
出身地不明(??~??)

晋の臣。
劉邠(りゅうひん)の子。

「晋諸公賛」に曰く。
太常に上った。兄弟の劉粋(りゅうすい)・劉漢(りゅうかん)も高位に上り、特に劉漢の名声は楽広(がくこう)に次いだ。
劉宏の子孫も同様で、孫の劉恢(りゅうかい)は東晋の名士となった。(『管輅伝』)



劉郃  後出師表の謎メンバーE


劉郃(りゅうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

「漢晋春秋」のいわゆる「後出師表」に曰く。
諸葛亮が漢中に駐屯してからわずか1年で趙雲・陽羣(ようぐん)・馬玉(ばぎょく)・閻芝(えんし)・丁立(ていりゅう)・白寿(はくじゅ)・劉郃・鄧銅(とうどう)らの将を失った。(『諸葛亮伝』)

「後出師表」は偽作を疑われており、その根拠としてまだ存命のはずの趙雲が死亡したと記されていること、陽羣以下の将が(閻芝を除き)他の史書に一切見えないことが挙げられる。



劉康  献帝・劉協の嫡孫


劉康(りゅうこう)字は不明
司隷河南尹洛陽県の人(??~??)

献帝・劉協(りゅうきょう)の嫡孫。

234年、劉協が没すると桂氏郷公の劉康が後を継ぎ、山陽公となった。(『明帝紀』)



劉闔  扈瑁を援護した荊州別駕


劉闔(りゅうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

劉表(りゅうひょう)の臣。

194年、劉璋(りゅうしょう)が益州刺史を継ぐと、朝廷(を牛耳る李傕(りかく)ら)は扈瑁(こぼう)を益州刺史に任じ、漢中に入らせた。
荊州別駕の劉闔や、益州の甘寧ら不穏分子はそれに呼応し劉璋を攻撃したが、敗北し荊州へ逃げた。劉璋は趙韙(ちょうい)に追撃させた。(『劉焉伝』)

劉闔の消息は不明である。



劉囂  宦官と董卓に媚びへつらう


劉囂(りゅうごう)字は重寧(ちょうねい)
荊州長沙郡の人(??~??)

後漢の臣。

169年、太僕から司空に上った。
170年、辞任した。(『後漢書 霊帝紀』)

「風俗通」に曰く、中常侍(宦官)と結びつき大臣の位を得た。

「傅子」に曰く、金で官位を買った者よりなお悪い輩である。

「王沈魏書」に曰く。
董卓は司隷校尉の劉囂に命じて官民のうち、親不孝な者、不忠な者、清廉でない者、従順でない弟をリストアップさせ、全て処刑し財産を没収した。これにより多くの民が愛憎によって告発し合い殺された。(『董卓伝』)



劉札  吾彦の出世を予言した人相見


劉札(りゅうさつ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣?

吾彦(ごげん)が通江県の下級官吏の頃、薛珝(せつく)が南征し、軍勢の士気は甚だ盛んで、思わず嘆息した。人相見に優れた劉札は「あなたもいずれこのような身分になるから、羨むことはありません」と励ました。(『晋書 吾彦伝』)



劉纂  呉の書道家


劉纂(りゅうさん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

はじめ孫権の次女をめとったが早くに先立たれ、同じく孫権の娘で未亡人の孫魯育(そんろいく)をめとった。(『孫権歩夫人伝』)

235年、廬陵・会稽・南海で一斉に反乱軍が蜂起すると、呂岱(りょたい)の指揮下で唐咨(とうし)とともに戦い武功を立てた。(『呂岱伝』)

256年8月、孫峻(そんしゅん)は文欽(ぶんきん)の献策により車騎将軍の劉纂、呂拠(りょきょ)・唐咨らを魏へ攻め込ませた。
だが翌月に孫峻が急逝し、後を継いだ孫綝(そんちん)は撤退命令を下した。(『孫亮伝』)

呂拠はそれに腹を立て、孫綝を廃するよう企てた。孫綝は呂拠討伐の詔勅を出させ、文欽・劉纂・唐咨らに攻めさせた。呂拠は亡命の勧めを断り自害した。(『呂範伝』)

266年、晋へ司馬昭の弔問の使者を送った。
使者を務めた丁忠(ていちゅう)は帰国するや、隙をつき晋への侵攻を進言した。陸凱は反対したが、劉纂は「兵器も詐術も使うべきで、敵に隙があれば見過ごせません。間諜を送り情勢を探りましょう」と賛同し、孫晧も乗り気だったが、晋に制圧されたばかりの益州の様子を見ているうちに取りやめとなった。(『孫晧伝』)

「抱朴子」に八絶の皇象(こうしょう)らと並ぶ呉の書家として劉纂が挙げられており、同一人物と思われる。(『抱朴子』)

孫権の娘婿・書の大家・車騎将軍でありながらなぜか立伝されておらず、「呉書」で不遇をかこった一人である。



劉瓚  劉禅の子の新平王


劉瓚(りゅうさん)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉禅の子。
劉備の孫。

256年、新平王に封じられた。(『後主伝』)

「蜀世譜」に曰く。
劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん)の6人兄弟だった。
263年、蜀が滅亡すると子らは劉禅とともに洛陽の都へ移住させられた。
永嘉の乱(307~312)によりほとんどの子孫が死に、劉永(りゅうえい)の孫の劉玄(りゅうげん)だけが益州へ逃げ延び、支配する李雄(りゆう)によって勝手に劉禅の後を継がされた。(『劉璿伝』)



劉子恵  韓馥に的確な助言


劉子恵(りゅうしけい)字が子恵か
出身地不明(??~??)

韓馥(かんふく)の臣。

「英雄記」に曰く。
189年、袁紹らは董卓討伐のため挙兵の動きを見せ、冀州牧の韓馥はそれを恐れて監視させた。袁紹らは三公からの文書を偽造し、韓馥に協力を求めた。
韓馥が「袁紹につくべきか、董卓につくべきか」と意見を求めると、治中従事の劉子恵は「挙兵するのは国のためであり、袁紹や董卓は関係ありません」と言い、韓馥は恥じ入った。
劉子恵はさらに「戦は不吉なもので口火を切ってはいけません。他州の動向を見て後から動くべきです。冀州は(裕福で)他州に劣らず、功績でも負けることはありません」と言った。
韓馥は納得し、袁紹へ手紙を送り、董卓を非難し、挙兵を支持した。(※翌年ともに挙兵した)(『武帝紀』)



劉子敬  劉備の叔父


劉子敬(りゅうしけい)字が子敬か
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉備の叔父。
劉雄(りゅうゆう)の子。劉弘(りゅうこう)の弟。

劉備の家の庭の隅に桑の大樹があり、遠くから眺めると車蓋のように見え、ある人は「この家からは貴人が出る」と予言した。幼い劉備は「いつかこの樹のような車蓋の付いた(天子の)車に乗る」と言い、叔父の劉子敬に「めったなことを言ったら一族を滅ぼされるぞ」と叱られた。(『先主伝』)



劉子元  荀芝の夫


劉子元(りゅうしげん)字が子元か
出身地不明(??~??)

魏の臣。
荀芝(じゅんし)の夫。

潁川太守を務めていた。
255年、反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)が討伐されると、息子とその妻の荀氏(じゅんし)も連座させられた。族兄の荀顗(じゅんぎ)ら一族が助命嘆願したため離縁を認められ釈放されたが、その娘の荀芝も、既に劉子元へ嫁いでいたが逮捕されていた。
荀氏は何曾(かそう)へ、自分が代わりに奴婢になるから娘を助けて欲しいと願い出て、同情した何曾は程咸(ていかん)に命じて審議書を作らせた。その中で「既に嫁いだ娘も連座させるのは、悪人の一族を殲滅したいからです。しかし男は他家の罪に問われないのに、女だけが嫁いだ後も実家の罪に問われるのは公平ではありません」と述べ、夫の家の罪にだけ連座するよう法改正させ荀芝を助けた。(『何夔伝』・『晋書 何曾伝』)

「魏書」には劉氏と記され、見落とされたのか「ちくま版」の索引にも載っていない。



劉子平  劉備を武勇に優れると推薦


劉子平(りゅうしへい)字が子平か
冀州平原郡の人(??~??)

素性不明。

「典略」に曰く。
反乱した張純(ちょうじゅん)の討伐に向かう軍が平原郡を通過した際、かねてから劉備が武勇に優れると評価する劉子平は推薦して同行させた。
劉備は賊軍と戦い負傷したが、死んだふりをして難を逃れ、賊軍が去ると友人に助け出された。軍功により安喜県の尉に任じられた。(『先主伝』)



劉氏  曹奐の皇后の卞氏の母


劉氏(りゅうし)名は不明
出身地不明(??~??)

曹奐の皇后の卞氏(べんし)の母。
卞琳(べんりん)の弟。

263年、娘の卞氏が立后された。(『陳留王紀』)

父はすでに没しており、母の劉氏が広陽郷君に封じられた。(『后妃伝』)



劉氏  曹髦の皇后の卞氏の生母


劉氏(りゅうし)名は不明
出身地不明(??~??)

曹髦の皇后の卞氏(べんし)の生母。

255年、曹髦は卞氏を立后した。
その父の卞隆(べんりゅう)は光禄大夫・特進となり睢陽郷侯に封じられた。妻の王氏(おうし)も顕陽郷君に封じられた。
卞隆の前妻で既に没していた劉氏も卞氏の生母だったため順陽郷君を追贈された。(『高貴郷公紀』・『后妃伝』)



劉氏  袁紹の嫉妬深い妻


劉氏(りゅうし)名は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の妻。

「典論」に曰く、下の子の袁尚(えんしょう)は美貌だった。
劉氏も彼を愛し、たびたび称揚した。
202年、袁紹が没すると嫉妬深い劉氏は、かりもがり(通夜)も終えないうちに側室5人を殺し、あの世で袁紹と再会してもわからないよう、髪を剃り顔に入れ墨した。袁尚も加担し側室の一族を皆殺しにした。(『袁紹伝』)

「魏略」に曰く。
204年、鄴が陥落した時、劉氏は嫁の甄姫とともにおり、(降伏の証に)自らの手を縛り、甄姫は彼女の膝の上に顔を伏せていた。発見した曹丕は「夫人よなぜそんなことをするのです。嫁御の顔を上げさせなさい」と命じた。曹丕は甄姫の顔をじっと見るとその美貌を称えため息をついた。
曹操は甄姫を曹丕の嫁に迎えさせてやった。

「世語」に曰く。
曹丕が屋敷に踏み込むと、劉氏の背後に髪を振り乱し垢まみれの顔をした甄姫がいた。曹丕は素性を聞き顔を拭ってやると、類まれな美貌が現れた。彼が立ち去ると劉氏は「殺される心配はないでしょう」と甄姫に言った。曹丕の妻に迎えられた。(『文昭甄皇后伝』)

204年、曹操は鄴を陥落させると、袁紹の墓に詣でて祀り、涙を流した。
袁紹の妻をいたわり、下僕と宝物を返還し、衣服や米を与えた。(『武帝紀』)



劉氏  甄姫の義姉


劉氏(りゅうし)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の正室の甄姫の義姉。

「魏略」に曰く。
甄姫の次兄の甄儼(しんげん)に嫁いだ。
196年に夫が没すると、甄姫は嘆き悲しみ、劉氏にかいがいしく仕えた。
義母の張氏(ちょうし)は厳しい性格で、嫁たちには同じ態度を取ったが、甄姫が「義姉(劉氏)は操を立てて他家に再嫁せず、一人っ子の遺児を養育しています。嫁ではなく娘のように思ってください」と願い出たため、張氏は感動し、甄姫と劉氏を一緒に暮らさせ、二人は実の姉妹のように仲睦まじくなった。

236年、甥(甄姫の子)にあたる二代皇帝の曹叡は劉氏に東郷君の位を授けたとあり、存命だったと思われる。
また一人っ子のはずの甄像(しんぞう)に三人の弟がいたことも記され、他家に再嫁したようである。

曹叡(※239年没)の在位中に没した。
曹叡は絶えず甄姫の一族を気にかけ、亡き劉氏のために高殿と廟を建て、その地域を母を想う故事にならい渭陽里と名付けた。

243年、孫娘(甄像の娘)が三代皇帝の曹芳の皇后となった。(『甄皇后伝』)



劉氏  曹爽の妻


劉氏(りゅうし)名は不明
出身地不明(??~249)

曹爽(そうそう)の妻。

「世語」に曰く。
249年、専権を振るう曹爽一派を打倒するため挙兵した司馬懿は武器庫に向かい、その南にある曹爽の屋敷の門前で止められた。
劉氏がおびえ「夫は外にいるのに兵乱が起こっています。どうしたらいいでしょう」と言うと、守将は「奥様、ご心配はいりません」と言い、櫓に登り司馬懿に矢を浴びせようとした。
そばにいた孫謙(そんけん)が「天下の事はどうなるかまだわかりません」と制止し、三度ばかり押し問答をしたため、その間に司馬懿は無事に通過した。

その後、曹爽は三族皆殺しにされており劉氏も処刑されただろう。(『曹真伝』)

ちなみに「演義」では無名の守将は潘挙(はんきょ)と名付けられ、問答無用で矢を射かけている。



劉氏  李密の祖母


劉氏(りゅうし)名・字は不明
出身地不明(172~??)

李密(りみつ)の祖母。李光(りこう)の夫。

「華陽国志」に曰く。
李密の祖父の李光は益州朱提太守を務めた。父は若くして没し、母の何氏(かし)が再嫁したため、李密は祖母の劉氏に育てられた。
祖母孝行で病気になれば昼夜にわたり看病し、食事や薬は毒味してから与えた。

264年、蜀が滅亡すると鄧艾は名声を聞き主簿に招聘したが、祖母が高齢のため固辞した。
267年、司馬衷が太子になると、司馬炎は太子洗馬に任命しようと詔勅を下し、郡県からも圧力を掛けさせたが、李密は「私は生後6ヶ月で父を失い、4歳で母も再嫁させられる不幸な生い立ちで、哀れんだ祖母に養育されました。病気がちで9歳になっても歩けず、成人後も父の兄弟はなく、自分の兄弟も少なく、晩年に一人息子をもうけただけです。一年の喪に服すほど近い親戚すらおらず、来客の取り次ぎをする小僧もいません。しかも祖母は病床にふせり、太守が孝廉に、刺史が秀才に推挙してくれましたが看病のため断りました。詔勅をいただき郎中、さらに太子洗馬に任命いただきましたが、それを断るのは怠慢ではなくただ孝行したいだけなのです。私は44歳、祖母は96歳です。最後までまっとうさせてください」と辞去した。
司馬炎は上奏を読み「いたずらに評判が高いわけではない」と感心し、奴婢2人を与え郡県に命じて祖母の世話をさせ御馳走を届けさせた。(※上奏は「文選」にも採られ「陳情事表」の名で三絶文(※三大名文)の一つに数えられた)

祖母が没し服喪を終えると仕官し重職を歴任した。(『楊戯伝』)



劉氏  典韋に報復してもらう


劉氏(りゅうし)名は不明
兗州陳留郡襄邑県の人(??~??)

素性不明。

李永(りえい)と仇敵の間柄で、典韋は劉氏のために報復して李永を殺し名を挙げた。(『典韋伝』)



劉祗  八交の一人


劉祗(りゅうし)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

後漢の臣?

「漢紀」に曰く。
劉表(りゅうひょう)と同郡出身の張隠(ちょういん)・薛郁(せついく)・王訪(おうほう)・宣靖(せんせい)・公緒恭(こうしょきょう)・劉祗・田林(でんりん)ら8人は名高く、「八交」あるいは「八顧」と呼ばれた。(『劉表伝』)

劉表以外の7人はそれ以外の事績がない。
また「八顧」は前代に郭泰(かくたい)が属する八顧の方が著名である。



劉慈  1万人を摘発した校事


劉慈(りゅうじ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

校事(監察官)の劉慈らは黄初年間(220~226)のはじめから数年の間に5桁に上る官民の罪を摘発していたが、高柔(こうじゅう)はその虚実を明白にするよう要請し、些細な罪は罰金だけに留めさせた。(『高柔伝』)



劉若  曹丕に皇帝即位を勧めた代表者


劉若(りゅうじゃく)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に建武将軍・清苑亭侯として連名した。(『武帝紀』)

220年、曹丕へ魏帝即位を勧める書状に120人が連名し、輔国将軍・清苑侯の劉若がそれを代表した。(『文帝紀』)



劉鑠


未作成



劉脩  劉表の論じたがりの子


劉脩(りゅうしゅう)字は季緒(きしょ)
兗州山陽郡高平県の人(??~??)

魏の臣。
劉表(りゅうひょう)の子。

「典略」に曰く。
曹植(そうしょく)は楊脩(ようしゅう)に送った手紙で「劉脩は才能が作者に及ばないのに人の文章にケチを付け、長所も欠点もあげつらうのを好む。戦国時代の田巴は弁舌に長け一朝で千人を服従させたが、魯仲連に説き伏せられると一生口をつぐんだという。劉脩の弁舌は田巴に及ばず、現代の魯仲連と呼べる人物を探すのは難しくない。(それなのに劉脩に勝手放題言われるのは)ため息が出る」と愚痴った。
楊脩は曹植の才能を称え「劉脩の言葉など些細なことで問題にすることもありません」と返事した。

「文章志」に曰く。
東安太守まで上った。詩・賦・頌6篇を残した。(『陳思王植伝』)

208年、劉表の子の劉琮(りゅうそう)が曹操に降った時に同じく降伏し魏に仕えたのだろう。



劉輯  劉理の後継ぎ


劉輯(りゅうしゅう)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉理(りゅうり)の子。
劉備の孫。

244年、父が没したため兄弟の劉胤(りゅういん)が安平王を継いだ。

256年に劉胤が没し、翌年にその子の劉承(りゅうしょう)も早逝し血統が絶えてしまった。
劉禅はこれを悼み261年、武邑侯の劉輯に王位を継がせた。

蜀滅亡後の264年、劉輯は(劉禅らとともに)洛陽に移住させられ、劉理の兄弟の劉永(りゅうえい)と同じ、奉車都尉に任じられ郷侯に封じられた。(『劉理伝』)



劉俊  霍弋に討ち取られた交州刺史


劉俊(りゅうしゅん)字は不明
出身地不明(??~268)

呉の臣。

268年、呉の前部督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
南中監軍の霍弋(かくよく)は、益州から毛炅(もうけい)らと大軍を率いて迎撃し、脩則と劉俊を討ち取った。(『晋書 陶璜伝』)



劉恂  劉禅の子の新平王


劉恂(りゅうじゅん)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉禅の子。
劉備の孫。

259年、新興王に封じられた。(『後主伝』)

「蜀世譜」に曰く。
劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂・劉虔(りゅうけん)の6人兄弟だった。
263年、蜀が滅亡すると子らは劉禅とともに洛陽の都へ移住させられた。(『劉璿伝』)

「蜀記」に曰く。
271年、父が没すると後を継いだ。(『後主伝』)

永嘉の乱(307~312)によりほとんどの子孫が死に、劉永(りゅうえい)の孫の劉玄(りゅうげん)だけが益州へ逃げ延び、支配する李雄(りゆう)によって勝手に劉禅の後を継がされた。(『劉璿伝』)



劉循  劉璋の長子


劉循(りゅうじゅん)字は不明
荊州江夏郡竟陵県の人(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の長子。
後に蜀の臣。

212年、劉備は益州制圧に乗り出し、進撃し雒城を包囲した。
劉循は籠城して抵抗し1年になろうとした。

214年、ついに陥落し、成都を数十日にわたり包囲され、劉璋は降伏した。
「益部耆旧雑記」に曰く。
張任(ちょうじん)は敗走し、劉循とともに籠城した。再び敗れ捕虜となり、劉備は忠勇を惜しんで降伏させようとしたが「老臣は二主に仕えることは絶対にない」と拒絶し、やむなく処刑したが劉備は感嘆し愛惜した。

劉備が益州を制圧すると劉璋と、劉循の弟の劉闡(りゅうせん)は荊州へ移された。
劉循は龐羲(ほうぎ)の娘をめとっており、左将軍司馬(※左将軍は劉備である)に任じられた龐羲が成都に留め置くよう言上したため、劉循は奉車中郎将として成都に残った。

220年、荊州が陥落し劉璋・劉闡は孫権の麾下に入り、相次いで益州刺史に(正式な刺史の劉備への対抗として)任じられた。
かくして兄弟は敵味方に分かれた。(『劉璋伝』)



劉詢  袁譚に反乱し漯陰で挙兵


劉詢(りゅうじゅん)字は不明
青州平原郡漯陰県の人?(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

202年、袁紹が没すると袁譚は弟の袁尚(えんしょう)と後継者争いを起こし、武勇に優れた袁尚に連敗した。
劉詢は漯陰で反乱し、諸城も全て呼応した。袁譚は自分の不徳のせいで州を上げて背かれたのだろうかと嘆いたが、王脩(おうしゅう)は「管統(かんとう)はきっと来ます」と言った。
10日後、管統は妻子を捨てて駆けつけた。(『王脩伝』)



劉雋  麴勝に殺された祖厲県長


劉雋(りゅうしゅん)字は不明
出身地不明(??~184?)

後漢の臣。

184年、涼州で辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)らが反乱すると、金城郡の麴勝(きくしょう)はそれに乗じて武威郡祖厲県長の劉雋を襲って殺した。
県吏の張繡(ちょうしゅう)は隙を見て麴勝を暗殺し、義にかなった行為と称えられ、若者を集め村内の顔役となった。(『張繡伝』)

「ちくま版」索引は益州刺史の劉雋と同一人物とする。刺史から県長への左遷は考えにくく別人だろう。(『劉焉伝』)



劉雋  郤倹と並ぶダメ益州刺史


劉雋(りゅうしゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

188年、劉焉(りゅうえん)は益州牧への赴任を願い出て許可された。

「漢霊帝紀」に曰く。
霊帝は詔勅で「前刺史の劉雋・郤倹(げきけん)はいずれも貪婪・放埒で、賄賂を受け取りでたらめを極めていた。民は頼りにするものもなく怨嗟の声が野に満ち満ちている」と語った。(『劉焉伝』)

「ちくま版」索引は麴勝(きくしょう)に殺された祖厲県長の劉雋と同一人物とする。刺史から県長への左遷は考えにくく別人だろう。(『張繡伝』)



劉助


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劉丞  劉承と同一人物?


劉丞(りゅうじょう)字は不明
出身地不明(??~258)

呉の臣。

256年、呉の実権を握った孫綝(そんちん)は、不平分子の呂拠(りょきょ)・滕胤(とういん)の討伐を命じ、将軍の劉丞に爵位を約束し、滕胤を攻め滅ぼさせた。

258年、皇帝の孫亮は孫綝の排除を図り、劉丞らとともに密議を凝らした。
だが計画は洩れ、孫綝は先制攻撃を仕掛けて、弟の孫恩(そんおん)に蒼龍門外で劉丞を殺させ、宮城を包囲すると孫亮を廃位した。(『孫亮伝』・『孫綝伝』)

劉承(りゅうしょう)と同一人物とする説もあるが、ここでは項を分けた。



劉劭  魏のベストセラー作家


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劉尚


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劉松  劉寬の子


劉松(りゅうしょう)字は不明
司隸弘農郡華陰県の人(??~??)

後漢の臣。
劉寬(りゅうかん)の子。

185年、劉寬が没すると後を継ぎ、官位は宗正まで上った。(『後漢書 劉寬伝』)



劉承  劉胤の子の殤王


劉承(りゅうしょう)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~257)

劉胤(りゅういん)の子。
劉理(りゅうり)の孫、劉備の曾孫にあたる。

256年、父が没したため安平王を継いだ。

257年に没し、殤王と諡された。

劉禅は血統が絶えてしまうことを悼み261年、劉胤の弟の劉輯(りゅうしゅう)に王位を継がせた。(『劉理伝』)



劉承  諸葛竦を斬る


劉承(りゅうしょう)字は不明
出身地不明(??~258)

呉の臣。

253年、専権を振るった諸葛恪は孫峻(そんしゅん)によって誅殺された。
子の諸葛竦(しょかつしょう)は母を連れて逃亡したが、騎督を務める劉承に追いつかれ首を取られた。(『諸葛恪伝』)

その後、諸葛恪に代わって孫峻が実権を握ったが、急逝し後を継いだ従弟の孫綝(そんちん)がさらなる独裁を布いた。
258年、皇帝の孫亮は排除を図り、姉の孫魯班(そんろはん)、舅の全尚(ぜんしょう)、寵愛し将軍に進んだ劉承とともに密議を凝らした。
だが計画は洩れ、孫綝は先制攻撃を仕掛けて、弟の孫恩(そんおん)に蒼龍門外で劉承を殺させ、宮城を包囲すると孫亮を廃位した。(『孫綝伝』)

劉丞(りゅうじょう)と同一人物とする説もあるが、ここでは項を分けた。



劉邵  賀斉や是儀と共闘


劉邵(りゅうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

223年6月、反乱した晋宗(しんそう)へ賀斉(がせい)の指揮下で劉邵、糜芳(びほう)、鮮于丹(せんうたん)・胡綜(こそう)らが奇襲攻撃を掛け生け捕りにした。(『呉主伝』・『賀斉伝』・『胡綜伝』)

黄武年間(222~229)、皖城の将軍の劉邵のもとで是儀(しぎ)は魏の曹休(そうきゅう)をおびき寄せる計略を立てた。
228年、ついに周魴(しゅうほう)の偽装投降が成功し、曹休軍を大破した。(『是儀伝』・『周魴伝』)



劉祥  孫堅のとばっちりで死んだ劉巴の父


劉祥(りゅうしょう)字は不明
荊州零陵郡烝陽県の人(??~190)

後漢の臣。
劉巴(りゅうは)の父。

190年、董卓を討つため挙兵した孫堅は、荊州刺史の王叡(おうえい)と南陽太守の張咨(ちょうし)を殺し兵や軍需物資を奪った。(『孫堅伝』)

江夏太守・盪寇将軍の劉祥は孫堅と共闘していたため、張咨を殺した仇討ちとして、南陽郡の官民によって殺された。
荊州牧の劉表(りゅうひょう)は平素から劉祥を嫌っていたため、子の劉巴も殺そうと考え、劉祥の旧臣を刺客に仕立て「劉表から一緒に逃げましょう」と何度も誘わせた。だが罠を見抜いた劉巴は応じず、劉表も諦めた。

「零陵先賢伝」に曰く。
劉巴は荊州から交州に逃れ、さらに益州へ移った。郡太守に捕まり危うく殺されかけたが、主簿が常人ではないと考え、益州牧の劉璋(りゅうしょう)のもとへ送らせた。
劉璋の父の劉焉(りゅうえん)はかつて劉祥に孝廉に推挙されていたため、劉璋は仰天して喜び、劉巴を側近くに置いた。

しかし裴松之は「劉祥が江夏太守の時、劉焉はすでに益州牧で推挙できるわけがない」と矛盾を指摘している。(『劉巴伝』)



劉詳  袁術配下の将軍


劉詳(りゅうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

袁術の臣。

193年、袁術は兗州陳留郡へ侵攻した。
黒山賊や匈奴の於夫羅(おふら)と共闘し、匡亭には将軍の劉詳を駐屯させたが、曹操は匡亭を攻撃し、救援に来た袁術も撃破した。
さらに追撃を掛け、連敗した袁術は揚州九江郡まで逃げていった。(『武帝紀』)



劉璋  益州を無難に統治


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劉式  劉邕の後継ぎ


劉式(りゅうしょく)字は不明
荊州義陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
劉邕(りゅうよう)の子。

建興年間(223~237)に(?)父が没すると後を継いだ。

末弟の劉武(りゅうぶ)は樊建(はんけん)と並ぶ名声を上げ、官位も等しかった。(『楊戯伝』)



劉寔  行いは自力で正すもの


劉寔(りゅうしょく)字は子真(ししん)
冀州平原郡高唐県の人(220?~310?)

魏・晋の臣。
劉広(りゅうこう)の子。

後漢王朝の末裔だが父は県令どまりで、若い頃から貧乏で牛の掛け布を売って生計を立てたが、学問を好み常に書物を暗誦し、広く古今のことに通暁した。
清廉潔白で欠点がなく、郡に孝廉に、州に秀才に推挙されたが応じなかった。やがて計吏となって洛陽に入り、抜擢され河南尹丞となり、尚書郎、廷尉正、尚書吏部郎と昇進し、司馬昭の相国府の参軍事となり循陽子に封じられた。

先見の明があり264年、鄧艾・鍾会が蜀の討伐に向かうとある人に成功するか聞かれ「必ず蜀を滅ぼすが、二人とも帰らないだろう」と答えた。理由を聞かれると笑って答えず、その通りになった。
人々が栄達を求め清廉・謙遜の道が損なわれているとして「崇譲論」を著し啓蒙した。(※晋書にも収録される)(『晋書 劉寔伝』)

陳寿は王粛(おうしゅく)を「誠実にして博学、よく父の業を受け継いだ」と評した。
一方で劉寔は「上には折り目正しかったが下にはへつらいを求めた。栄誉と高貴を愛したが権力者に取り入らなかった。財物を好みながら清貧を選んだ。3つの矛盾がある」と評した。(『王朗伝』)

泰始年間(265~275)のはじめに爵位が伯に進み、昇進を重ね少府となった。
咸寧年間(275~280)に太常となり、尚書に転じた。
279年、杜預(とよ)が呉の討伐に向かうと、尚書のまま鎮南軍司を務めた。

かつて妻の盧氏(ろし)は長男の劉躋(りゅうせい)を生んで没していたため、華氏(かし)は娘を後妻に勧めた。劉寔の弟の劉智(りゅうち)は「華氏の一族はみな貪婪で、必ずや我が一門を滅ぼすでしょう」と反対したが、断り切れずにめとり、劉夏(りゅうか)が生まれた。
その劉夏がこの時に収賄で弾劾され、劉寔も連座して尚書を罷免された。後に大司農に復帰したが、またも連座で罷免された。

劉寔が帰郷するたびに人々は大歓迎し酒宴を開いた。好意を無碍にできずいただいたが、最低限を食べて残りは返した。ある人に「あなたは高潔なのに息子らはそれを見習わない。なぜ教導しないのか」と聞かれ「私は父祖の教えを聞いたわけではなく、自ら見聞きしたことで行いを正しており、教導で習わせることはできないのです」と答え納得させた。

復帰し国子祭酒・散騎常侍となり、太子の司馬遹(しばいつ)が広陵王に封じられると師(※官位)に選ばれた。
元康年間(291~299)のはじめ、爵位は侯に進み、太子太保を経て侍中・特進・右光禄大夫・開府・儀同三司となり冀州都督を兼任した。
299年、司空に上り、さらに太保、太傅へ昇進した。

太安年間(302~303)に老齢と病を理由に引退し、百万銭と車を下賜され、洛陽に邸宅を構えさせた。
官位が上がっても貧困のままで、車を使わず杖で歩き、宿を借りれば自ら柴刈りや水汲みをしたりと質素・倹約を尊んだ。
石崇(せきすう)の家を訪ねた時、厠を借りると豪華な帳や敷物で奴婢が2人も香料を手に立っており、劉寔は慌てて引き返し「誤って奥座敷に入ってしまった」と言い、それが厠だと聞くと恐縮し(奴婢用の?)粗末な厠に行った。
(下賜されるまで)邸宅はなく、妻が亡くなると過剰なまでに喪に服し、軽薄な者に笑われたが意に介さなかった。学問には終生励み、職務中でも書物を離さず、「春秋公羊伝」についての論説は広く世に伝わり「春秋條例」20巻も著した。

司馬乂(しばがい)・司馬穎(しばえい)が争うと拉致され担ぎ上げられたが、故郷へ逃げ帰った。
307年、司馬衷が没するとその陵墓に詣で、即位した司馬熾に太尉に任じられた。
固辞したものの認められなかったが、劉坦(りゅうたん)が故事を引いて弁護したため、309年にようやく許可され、官位は三公の上、俸禄は元のままで出仕は不要だが、大事があれば使者を送るから意見を述べるよう命じられた。
1年余りで91歳で没した。元侯と諡された。

子の劉躋は散騎常侍まで上ったが、劉夏は貪婪で世間から見捨てられた。
弟の劉智も兄譲りの質素・学問好きで侍中・尚書・太常まで上った。
かつて高名な占術師の管輅(かんろ)は「劉寔・劉智と語っていると精神が活発化し夜も眠くならないが、他の者と話していると昼でも眠くなる」と言っていたという。(『晋書 劉寔伝』)

「管輅別伝」に曰く。
何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)・裴徽(はいき)・劉寔・劉智は管輅と親しく、劉寔・劉智への評価と全く同じ表現がされている。

閻纘(えんさん)は「管輅の不思議な逸話は劉寔ら立派な人物や賢者から聞いたものであり虚偽ではない」と言い、劉寔は管輅のこうした話を無数に知っており、管輅の弟の管辰(かんしん)が収録したのはその十分の一か二に過ぎないという。
また劉寔は管辰を「孝廉に推挙されるだけの才能がある」と評した。

裴松之は「劉寔・劉智は儒学で名声があり、管輅や何晏らの玄学の議論は不得手だった。「世語」には劉寔は博識で弁が立つが、それでも裴頠(はいき)・何晏には及ばないと書かれている」と指摘する。(『管輅伝』)

 


劉続


未作成



劉諶  蜀に殉じた劉禅の子


劉諶(りゅうしん)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~263)

劉禅の子。
劉備の孫。

「蜀世譜」に曰く。
劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん)の6人兄弟だった。(『劉璿伝』)

259年、北地王に封じられた。
263年、蜀の降伏が決まると祖国に殉じ、妻子を殺した後に自害した。

「漢晋春秋」に曰く。
劉禅がまさに降伏を決めようとした時、劉諶は激怒して「もし敗北必至となったならば、父子君臣は城を背にして敵と一戦交えるべきです。ともに死んで先帝(劉備)にお目にかかりましょう」と迫ったが聞き入れられなかった。
同日、劉備の霊廟で慟哭し、妻子を殺した後に自害した。側近はみな涙した。(『後主伝』)

「演義」でも殉死が描かれた。
「吉川三国志」には登場しない。
「横山三国志」では殉死が描かれる。
「反三国志」では劉禅が暗殺されるため、三国統一後に劉諶が帝位につく。



劉粋  劉邠の子の侍中


劉粋(りゅうすい)字は純嘏(じゅんか)
出身地不明(??~??)

晋の臣。
劉邠(りゅうひん)の子。

「晋諸公賛」に曰く。
侍中に上った。弟の劉宏(りゅうこう)・劉漢(りゅうかん)も高位に上り、特に劉漢の名声は楽広(がくこう)に次いだ。
劉宏の子孫も同様で、孫の劉恢(りゅうかい)は東晋の名士となった。(『管輅伝』)



劉正  劉放の上の子


劉正(りゅうせい)字は不明
幽州涿郡方城県の人(??~??)

魏・晋の臣。
劉放(りゅうほう)の子。

250年、父が没すると後を継いだ。
咸熙年間(264~265)、5階級の爵位制度が設けられると、父の功績を改めて採り上げられ、劉正は方城子に、父の相棒だった孫資(そんし)の子の孫宏(そんこう)は離石子に取り立てられた。

弟の劉許(りゅうきょ)は父の文才を受け継ぎ、張華(ちょうか)ら5人と並び称された。(『劉放伝』)



劉声叔  孫邵がハブられた理由を推測する


劉声叔(りゅうせいしゅく)字が声叔か
出身地不明(??~??)

晋の臣?

「志林」に曰く。
広く物事に通じた立派な人物だった。
著者の虞喜(ぐき)はなぜ史書に呉の初代丞相である孫邵(そんしょう)が列伝されていないのか疑問に思い、劉声叔に尋ねた。彼は「孫邵は名声や官位からいって当然、列伝されるべきだった。しかし「呉書」を編纂した韋昭(いしょう)が張温(ちょうおん)の派閥に属していたから、張温と険悪だった孫邵は外され(呉書を参考にした陳寿の正史でも)列伝されなかったのだろう」と述べた。(『呉主伝』)



劉政  窮鳥懐に入る


劉政(りゅうせい)字は不明
青州北海郡の人(??~??)

邴原(へいげん)の友人。

戦乱を避け遼東へ疎開した邴原は、同郷の劉政(りゅうせい)とともに武略勇気を称えられた。
遼東太守の公孫度(こうそんど)は劉政を殺そうとして家族を逮捕し、劉政だけが逃げ延びた。公孫度は匿う者も同罪だと布告したが、邴原は彼を庇護した。同郡にいた太史慈が帰郷するので、劉政を預けて逃がすと、邴原は公孫度へ「あなたは劉政を恐れていたから殺そうとしました。そんな恐ろしい彼に報復を考えさせるべきではない」と説いて家族を釈放させ、故郷までの旅費を渡した。

余談だが「魏氏春秋」によると劉政は邴原に身を寄せた際に「窮鳥懐に入る」と言った。
「窮鳥懐に入る」の語源を検索したところ、北斉の顔之推だというが、「魏氏春秋」を著した孫盛は晋の人物で200年早いことになり明らかにおかしい。(『邴原伝』)



劉靖  劉馥の子も名臣


劉靖(りゅうせい)字は文恭(ぶんきょう)
豫州沛国譙県の人(??~254)

魏の臣。
劉馥(りゅうふく)の子。
名は劉静(りゅうせい)とも書かれる。

父の劉馥はほぼ単身で合肥を要害に築き上げ、揚州を平定した人物として知られる。

黄初年間(220~226)、黄門侍郎から廬江太守に昇進した。曹丕は「あなたの父は揚州を治めたが、あなたもまた同州の郡を治め、良く父の業を受け継いだ」と統治を称えた。
河内太守に転任し、尚書に上り関内侯に封じられ、河南尹に赴任した。はじめに細々とした法を定め煙たがられたが、結果的には全て民のためとなるのは父の統治に似ており、大いに治績を上げた。応璩(おうきょ)には古の大政治家ですら比較にならないと絶賛された。

母が没したため官を退き、喪が明けると大司農衛尉として復帰し、広陸亭侯に進み領邑300戸を与えられた。
「太学(学校)が設立され20年経つが、学問を究めた者は少数です。博士(教師)の選考が軽く、労役を逃れるために入学する者や、身分の低い子弟とともに学ぶのを恥と考える貴族の子弟が多いからでしょう。博士を厳正に選び、2千石以上の官吏の子を義務教育とし、品行の悪い者は退学させるべきです」と上奏した。

後に鎮北将軍・仮節都督河北諸軍事として北方の軍権を担った。
ここでも政治手腕を発揮し、要害を固め国境線を初めて確立し、戻陵渠という運河の堤防を大改修し灌漑により農地改革を果たした。

254年に没し、征北将軍を追贈され、建成郷侯に進み、景侯と諡された。
子の劉煕(りゅうき)が後を継いだ。
下の子の劉弘(りゅうこう)も西晋きっての名将・名政治家として著名である。(『劉馥伝』)

許允(きょいん)は友人の夏侯玄(かこうげん)らが謀叛を企み処刑されたため怯えていたが、劉靖の後任の鎮北将軍に選ばれ、安堵した。だが油断させるための罠であり、赴任前に些細な罪から死に追いやられた。(『夏侯尚伝』)

「傅子」に曰く、河南は天下の中心であり、利益と悪事の集まる土地である。歴代の河南尹で、司馬芝(しばし)の統治は漁網の大綱を引っ張るように非常に大まかだった。次の河南尹の劉静は小さな網の目で非常に細かく、李勝(りしょう)は規則を壊して一時的な名声を得た。そして傅嘏(ふか)は司馬芝の大綱を立て直し、劉静の網の目を裁ち、李勝の壊したものを繕った。
功績を誇らず隠したため、華々しい名声は得られなかったが、官民は彼の統治に安心した。(『傅嘏伝』)



劉靖  曹芳の代に強盛を誇った匈奴王


劉靖(りゅうせい)字は不明
匈奴の人(??~??)

匈奴の王。

正始年間(240~249)頃、劉靖の率いる軍は強盛を誇り、鮮卑はたびたび国境を荒らした。
そこで孫礼(そんれい)が并州刺史・振威将軍・使持節護匈奴中郎将として対処に当たった。(『孫礼伝』)

他に事績はないが左賢王の劉豹(りゅうひょう)の一族だろう。



劉靖  董卓の偽兵の計に貢献


劉靖(りゅうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

董卓の臣。

「山陽公載記」に曰く。
董卓は「羌族の討伐を命じられた時、別部司馬の劉靖に兵4千を与えて安定郡に駐屯させた。羌族は俺の退路を断とうとしたが少し攻撃されるとすぐ撤退した。これは安定郡に数万の兵がいると思っていたからで、俺の偽兵の計にはまったのだ」と語った。(『孫堅伝』)



劉靖


未作成



劉聖博  韓呉郡に有能な人物を尋ねられる


劉聖博(りゅうせいはく)字が聖博か
出身地不明(??~??)

素性不明。

257年、会稽太守の濮陽興(ぼくようこう)は元旦の宴の際に「私はかつて朱寵(しゅちょう)が鄭凱(ていがい)に、韓呉郡(かんごぐん)が劉聖博に、王朗(おうろう)が虞翻(ぐほん)に有能な人物を尋ねたと聞いた。そのうち虞翻の話だけは知らない。賢者の答えをぜひ聞きたいが誰か知らないか」と問い、朱育(しゅいく)が名乗りを上げた。
朱育は虞翻が語った会稽郡の歴史と名だたる人材を事細かに話し、濮陽興を喜ばせた。(『虞翻伝』)

韓呉郡と劉聖博の素性は不明。呉郡は出身地か任地、聖博は字だろう。いつの時代の人物かもわからず、かの「三国志集解」すら未詳と記している。

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り6  り7  り8    ろ~わ

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