梁鵠 師宜官の技法を盗み師宜官を超える
梁鵠(りょうこく)字は孟黄(もうこう)
涼州安定郡の人(??~??)
魏の臣。
「四体書勢」に曰く。
霊帝が書道を愛好したため、能書家が多く生まれた。
中でも師宜官(しぎかん)が第一人者で、才能を大いに自負しており、技法を真似られまいと、簡札(紙代わりの木札)をすぐに削ったり燃やしたりした。
そこで梁鵠はダミーの簡札を用意し、師宜官を酔わせた隙にすり替えて、その技法を学び、後漢の選部尚書に上った。(『武帝紀』)
涼州刺史に赴任した。武威太守が権勢を頼みに横暴に振る舞っていたため、蘇正和(そせいか)が摘発したが、梁鵠は仕返しを恐れ、蘇正和を殺して口封じしようと考えた。
そこでかねてから蘇正和を仇敵と恨む蓋勲(がいくん)に方策を尋ねたが、蓋勲は「優れた人物を謀殺するのは忠ではなく、危機に乗じて恨みを晴らすのは仁ではありません」と反対し「狩りのために飼っている鷹を、狩りをさせて殺しては無意味です」と諌めた。梁鵠は納得した。
蘇正和はいきさつを知り感謝したが、蓋勲は「梁鵠のためにやっただけで、蘇正和のためではない」と言い、恨みは忘れなかった。
「続漢書」に曰く。
184年、黄巾の乱が起こると元武威太守の黄雋(こうしゅん)が徴用されたが、期日に間に合わなかった。
梁鵠が処罰しようとすると、蓋勲が弁護し助けた。黄雋は黄金20斤をお礼に贈ろうとしたが、蓋勲は「特赦に該当すると思っただけで、あなたのためでも、名を売るためでもない」と固辞した。(『後漢書 蓋勲伝』)
選部尚書の頃、曹操は洛陽県令の地位を望んだが、梁鵠は洛陽北部尉に任じた。
後に荊州牧の劉表(りゅうひょう)に仕え、208年に劉表が没し、曹操は荊州を制圧すると、賞金を出して梁鵠を探した。
梁鵠は北部尉に任じたことの意趣返しをされると恐れ、自ら縄を掛けて出頭した。
だが曹操は彼の書家の才を求めており、軍の仮司馬に任じ、秘書として才を振るわせた。
梁鵠の書を大いに気に入り、天幕に吊り下げたり、壁に打ち付けて愛玩し、師宜官よりも優れていると評価した。
魏の宮殿の題字は全て梁鵠が記したものだという。(『武帝紀』)
「四体書勢」の著者の衛恒(えいこう)も能書家で、「梁鵠は大字を書き、邯鄲淳(かんたんじゅん)は小字を書いた。梁鵠は、邯鄲淳は王次仲(おうじちゅう)の書法をものにしたのだと言った。しかし梁鵠の筆使いも充分に筆勢を尽くしている」と評した。
弟子の毛弘(もうこう)がその技法を教え広めたため、隷書の八分体は現代まで残った。
また後漢末の書家の左子邑(さしゆう)も、名声こそ梁鵠・邯鄲淳に少し及ばないが、やはり有名だった。(『晋書 衛瓘伝』)
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