三国志 り 4


梁寛  馬超を撃破し龐娥親の伝記を作る


梁寛(りょうかん)字は不明
涼州安定郡の人(??~??)

魏の臣。

212年、馬超は冀城を攻め、降伏した涼州刺史の韋康(いこう)を約束を違えて殺し、制圧した。
楊阜(ようふ)は復讐の機会をうかがい、城外にいた姜叙(きょうじょ)・趙昂(ちょうこう)・尹奉(いんほう)・趙衢(ちょうく)・梁寛・王異らと密議を凝らした。
そして楊阜・姜叙が鹵城で挙兵すると馬超は討伐に向かい、その隙に趙衢・梁寛が冀城を奪回し、趙昂・尹奉・王異は祁山に籠城した。
馬超は敗走し漢中へ逃げて行った。(『楊阜伝』)

その後(?)黄門侍郎を務めた。
女性ながら自ら剣を振るい父の仇討ちを果たした龐娥親(ほうがしん)の逸話を後から聞き、彼女の伝記を作った。(『龐淯伝』)

「演義」でも楊阜らとともに馬超を撃破し、その妻子と一族を処刑し、城外の馬超の前へ投げ落とした。怖い。



梁岐  曹操に降伏した渉県長


梁岐(りょうき)字は不明
出身地不明(??~??)

袁尚(えんしょう)の臣。

204年、袁尚は袁譚(えんたん)の攻撃に向かい、その隙に曹操は袁尚の本拠地の鄴を攻めた。
易陽県令の韓範(かんはん)と渉県長の梁岐は県をあげて降伏し、関内侯に封じられた。(『武帝紀』)

韓範は降伏すると偽り、籠城して抵抗した。
討伐を命じられた徐晃は矢文を送って利害を説き、降伏させた。そして曹操へ「袁譚・袁尚は健在で、諸城は行く末を見守っています。易陽県を滅ぼせば諸城は必死に抵抗し、河北は安定しません」と助言し、降伏を認めさせた。(『徐晃伝』)



梁奇  陶璜に買収された扶厳


梁奇(りょうき)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

269年、呉は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
陶璜(とうこう)は緒戦に敗れたものの、小勢を率いて晋軍の董元(とうげん)に夜襲を掛け財宝を奪う戦果を挙げた。
そして奪った錦数千匹を扶厳(※地名ではなく山越のような異民族)の梁奇に贈り、援軍1万を得た。(『晋書 陶璜伝』)

梁奇のその後は不明だが271年、呉は扶厳を討伐し武平郡を設置したと記される。(『孫晧伝』)



梁幾  孟達の内通を調査


梁幾(りょうき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
蜀の孟達(もうたつ)は魏へ寝返り曹丕に厚遇されたが、226年に曹丕や親しい友人が相次いで没したため、帰参を考え諸葛亮と連絡を取り合った。
魏興太守の申儀(しんぎ)は孟達と不仲だったため、内通していると密告した。曹叡は信じなかったが、司馬懿は参軍の梁幾を調査に送り、さらに孟達を召還した。孟達は恐れおののき反乱し、228年に司馬懿に斬られた。(『明帝紀』)



梁寓  使者として魏に行き来する


梁寓(りょうぐう)字は孔儒(こうじゅ)
揚州呉郡呉県の人(??~??)

孫権の臣。

219年、孫権は校尉の梁寓を使者として漢に朝貢した。

「魏略」に曰く。
孫権は梁寓に魏の視察を命じた。曹操はいったん梁寓を(配下の)掾としたが結局孫権のもとへ返した。
曹丕の代にも魏と行き来した記録がある。(『呉主伝』)



梁元碧  魏に帰順した休屠胡


梁元碧(りょうげんへき)
涼州の人(??~??)

休屠胡の有力者。

240年頃、2千家を率いて魏に帰順した。
雍州刺史の郭淮は上奏して涼州安定郡高平県へ移住させて民を守らせ、西州都尉を設置し監督させた。(『郭淮伝』)



梁虔  姜維の友人Bの弟


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梁広


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梁宏


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梁郟  関羽に手懐けられた賊徒A


梁郟(りょうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

219年、関羽は北上し魏を攻めた。
梁郟・陸渾(りくこん)ら遠方の盗賊に印綬称号を与えて配下とし、中原を揺るがせた。(『関羽伝』)



梁綱  梁綱と梁剛と梁紀


梁綱(りょうこう)字は不明
出身地不明(??~197)

袁術の臣。

197年、袁術は陳国へ侵攻した。
曹操が討伐に赴くと袁術は撤退し、橋蕤(きょうずい)・李豊(りほう)・梁綱・楽就(がくしゅう)を守備に残したが、敗北し全員が首を打たれた。(『武帝紀』)

「演義」ではよく似た字面の梁剛(りょうごう)という人物が全く同じ事績で登場しており、誤記か改名だろう。
「演義 李卓吾本」には梁剛でもなく梁紀(りょうき)という人物がやはり同じ事績で現れる。

「吉川三国志」はそれを参考にしたようで梁紀が登場。呂布と戦った。

「横山三国志」は梁剛が登場。「吉川三国志」を底本にしているのに元に戻っているので、吉川英治とは参考にした「演義」の版が違うのだろう。

ファミコンのRPG「天地を喰らう2」にはなんと梁剛・梁紀が両方登場する。



梁興  旗本八旗ノッポ担当


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梁鵠  師宜官の技法を盗み師宜官を超える


梁鵠(りょうこく)字は孟黄(もうこう)
涼州安定郡の人(??~??)

魏の臣。

「四体書勢」に曰く。
霊帝が書道を愛好したため、能書家が多く生まれた。
中でも師宜官(しぎかん)が第一人者で、才能を大いに自負しており、技法を真似られまいと、簡札(紙代わりの木札)をすぐに削ったり燃やしたりした。
そこで梁鵠はダミーの簡札を用意し、師宜官を酔わせた隙にすり替えて、その技法を学び、後漢の選部尚書に上った。(『武帝紀』)

涼州刺史に赴任した。武威太守が権勢を頼みに横暴に振る舞っていたため、蘇正和(そせいか)が摘発したが、梁鵠は仕返しを恐れ、蘇正和を殺して口封じしようと考えた。
そこでかねてから蘇正和を仇敵と恨む蓋勲(がいくん)に方策を尋ねたが、蓋勲は「優れた人物を謀殺するのは忠ではなく、危機に乗じて恨みを晴らすのは仁ではありません」と反対し「狩りのために飼っている鷹を、狩りをさせて殺しては無意味です」と諌めた。梁鵠は納得した。
蘇正和はいきさつを知り感謝したが、蓋勲は「梁鵠のためにやっただけで、蘇正和のためではない」と言い、恨みは忘れなかった。

「続漢書」に曰く。
184年、黄巾の乱が起こると元武威太守の黄雋(こうしゅん)が徴用されたが、期日に間に合わなかった。
梁鵠が処罰しようとすると、蓋勲が弁護し助けた。黄雋は黄金20斤をお礼に贈ろうとしたが、蓋勲は「特赦に該当すると思っただけで、あなたのためでも、名を売るためでもない」と固辞した。(『後漢書 蓋勲伝』)

選部尚書の頃、曹操は洛陽県令の地位を望んだが、梁鵠は洛陽北部尉に任じた。
後に荊州牧の劉表(りゅうひょう)に仕え、208年に劉表が没し、曹操は荊州を制圧すると、賞金を出して梁鵠を探した。
梁鵠は北部尉に任じたことの意趣返しをされると恐れ、自ら縄を掛けて出頭した。
だが曹操は彼の書家の才を求めており、軍の仮司馬に任じ、秘書として才を振るわせた。
梁鵠の書を大いに気に入り、天幕に吊り下げたり、壁に打ち付けて愛玩し、師宜官よりも優れていると評価した。
魏の宮殿の題字は全て梁鵠が記したものだという。(『武帝紀』)

「四体書勢」の著者の衛恒(えいこう)も能書家で、「梁鵠は大字を書き、邯鄲淳(かんたんじゅん)は小字を書いた。梁鵠は、邯鄲淳は王次仲(おうじちゅう)の書法をものにしたのだと言った。しかし梁鵠の筆使いも充分に筆勢を尽くしている」と評した。

弟子の毛弘(もうこう)がその技法を教え広めたため、隷書の八分体は現代まで残った。
また後漢末の書家の左子邑(さしゆう)も、名声こそ梁鵠・邯鄲淳に少し及ばないが、やはり有名だった。(『晋書 衛瓘伝』)



梁施


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梁習  并州の守護神


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梁緒  姜維の友人B


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梁紹  袁紹に憎まれる大長秋


梁紹(りょうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の大長秋。

「王沈の魏書」に曰く。
袁紹は以前から楊彪(ようひょう)・梁紹・孔融(こうゆう)と険悪で、過失にかこつけて処刑するよう曹操に仕向けた。
だが曹操は故事を引き、無為に恨みを買いたくないとして断った。袁紹は道理を説いているが自分が気に食わないだけだろうと考え深く恨んだ。

裴松之は「曹操は楊彪・孔融を迫害し無為に恨みを買っているではないか」ともっともなツッコミをしている。(『武帝紀』)



梁宣


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梁双  王異の2人の息子を殺す


梁双(りょうそう)字は不明
涼州天水郡の人(??~??)

賊徒。

「列女伝」に曰く。
趙昂(ちょうこう)が羌道県令になったとき、妻の王異は子供たちとともに西県に住んでいた。
しかし梁双が反乱を起こし、2人の息子を殺してしまった。
王異は乱暴される前に自害しようとしたが、まだ6歳の娘の趙英(ちょうえい)を一人残せないと思いとどまり「西施(古代の絶世の美女)とて不潔にしていれば誰もが鼻をつまむと聞きます。ましてや私は西施のような美人ではない」と言うと、衣服に汚物をなすりつけ、食事を断ってやせ衰え、醜く装った。
やがて反乱は治まり、趙昂から迎えの使者が訪れた。夫の待つ羌道へ向かう途上、王異は趙英に「歴史に名を残す女性たちは、たとえ部屋に火をかけられ焼け死んだとしても貞節を守るためには逃げなかったといいます。しかし私は騒乱に遭いながらも死ぬことができませんでした。こうして生き恥をさらしているのも、全てはあなたを助けるためです。あなたが無事に父のもとにたどり着けるのだから、私はもう必要ないでしょう」と言うや、毒をあおった。
さいわい解毒剤があったため、口をこじ開けて飲ませ、なんとか助けることができた。(『楊阜伝』)



梁大  楽進に撃破された劉備配下の県長B


梁大(りょうだい)字は不明
出身地不明(??~??)

劉備の臣。

208年、赤壁の戦いに敗れた曹操は楽進(がくしん)に襄陽を守らせた。(『楽進伝』・『呉主伝』)

楽進は関羽・蘇非(そひ ※蘇飛と同一人物か)を撃破し、南郡の蛮族を降伏させ、臨沮県長の杜普(とふ)や旌陽県長の梁大も撃破した。(『楽進伝』)



梁仲寧  傅燮に斬られる


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凌操  凌パパ


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凌統  夭折の名将


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淩封


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淩烈


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廖化  死んだはずだよお廖さん


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廖式  呂岱に電撃戦で討伐される


廖式(りょうしょく)字は不明
出身地不明(??~240)

呉の臣。

239年、将軍の蔣秘(しょうひ)は南方の異民族を討伐した。
蔣秘配下の都督の廖式は、臨賀太守の厳綱(げんこう)を殺して勝手に平南将軍を名乗り、弟の廖潜(りょうせん)とともに零陵・桂陽郡を攻めた。交州・蒼梧・鬱林郡にも波及し数万人の勢力に膨れ上がったが、呂岱(りょたい)・唐咨(とうし)らに討伐され1年余りで全て撃破された。(『呉主伝』)

「呂岱伝」に詳細が記される。
廖式の反乱は零陵・蒼梧・鬱林郡の情勢を不穏にした。呂岱は上表して自ら出陣を求め、許可を待たずに討伐に向かった。孫権は追認して交州牧を与えるとともに唐咨らを後詰めに送った。
1年余りで全て討伐し、廖式が勝手に任命した臨賀太守の費楊(ひよう)も斬り、配下を自軍に組み入れて都へ帰還した。(『呂岱伝』)



廖潜  廖式の弟


廖潜(りょうせん)字は不明
出身地不明(??~240)

呉の臣。

239年、将軍の蔣秘(しょうひ)は南方の異民族を討伐した。
蔣秘配下の都督の廖式(りょうしょく)は、臨賀太守の厳綱(げんこう)を殺して勝手に平南将軍を名乗り、弟の廖潜とともに零陵・桂陽郡を攻めた。交州・蒼梧・鬱林郡にも波及し数万人の勢力に膨れ上がったが、呂岱(りょたい)・唐咨(とうし)らに討伐され1年余りで全て撃破された。(『呉主伝』)

「呂岱伝」に詳細が記される。
廖式の反乱は零陵・蒼梧・鬱林郡の情勢を不穏にした。呂岱は上表して自ら出陣を求め、許可を待たずに討伐に向かった。孫権は追認して交州牧を与えるとともに唐咨らを後詰めに送った。
1年余りで全て討伐し、廖式が勝手に任命した臨賀太守の費楊(ひよう)も斬り、配下を自軍に組み入れて都へ帰還した。(『呂岱伝』)



廖立


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林恂  孫儀とともに暗殺未遂


林恂(りんしゅん)字は不明
出身地不明(??~255)

呉の臣。

255年、蜀の使者が訪れると、孫儀(そんぎ)は会見の場で張怡(ちょうい)・林恂とともに専権を振るう孫峻(そんしゅん)を暗殺しようと企てたが露見し、自害した。張怡・林恂は処刑された。(『孫亮伝』・『孫峻伝』)

孫魯班(そんろはん)はこれに乗じて妹の孫魯育(そんろいく)も計画に加担したと讒言し、処刑させた。(『孫休朱夫人伝』)



綸直  謎の怪談キャラ


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鄰戴  張既・夏侯儒に討伐された羌族


鄰戴(りんたい)
羌族の人(??~??)

羌族の有力者。

酒泉郡で蘇衡(そこう)が反乱し、羌族の鄰戴や丁令の蛮族らとともに1万の兵で国境を攻めた。
涼州刺史の張既(ちょうき)は夏侯儒(かこうじゅ)とともに撃破し、全て降伏させた。上奏して城を修理し、防備を整えると西羌族は2万の民を引き連れ降伏した。(『張既伝』)



臨汾公主  曹叡の娘


臨汾公主(りんふんこうしゅ)姓名は不明
豫州沛国譙の人(??~??)

曹叡(そうえい)の娘。
ちなみに臨汾は司隷河東郡にある。

彼女の侍女が、曹洪(そうこう)の乳母の当(とう)とともに無澗山の神に仕えたため、淫祠邪教を崇めた罪で河南尹の司馬芝(しばし)に逮捕・処刑された。
臨汾公主にまで累が及んだかは不明だが、曹叡は独断で処刑した司馬芝を褒め称えており、娘にも手心は加えられなかっただろう。(『司馬芝伝』)

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