劉毅 司馬炎の御意見番
劉毅(りゅうき)字は仲雄(ちゅうゆう)
青州東萊国掖県の人(??~??)
魏・晋の臣。
劉喈(りゅうかい)の子。
後漢王朝の末裔で、父は丞相府属まで上った。
幼い頃から孝行で、若くして清らかな節操を奮い立たせ、人物評価を好み、王公や貴族らにはばかられた。
河東郡平陽県に住んでいた時、河東太守の杜恕(とじょ)に招かれ功曹となり、官吏100人あまりを選抜した。辣腕で「劉毅の活躍ばかり耳に入り、杜恕の話は聞こえてこない」と称えられた。
265年頃、故郷の東萊郡に孝廉に挙げられ、司隷校尉府の都官従事として辟召され、噂を聞き人々は粛然とした。
河南尹を弾劾しようとすると司隷校尉は「獣をわしづかみにした犬は毒鼠に背中を踏まれる」と警告したが、劉毅は「獣も鼠も殺してしまえばいい」と憤慨し、官を辞した。
同郡の王基(おうき)が「方正かつ実直で高潔だが才能を見出されていない」と推薦し、太常の鄭袤(ていほう)が博士に推挙し、司馬昭が相国府の掾に招いたが病と称して応じなかった。人々は劉毅は魏王朝に忠義を尽くしているのだと噂し、怒った司馬昭が処刑をちらつかせたため招きに応じ、やがて相国府の主簿となった。
司馬炎が帝位につくと尚書郎・駙馬都尉となり、さらに散騎常侍・国子祭酒に上った。司馬炎は忠実かつ正直であると評価し諫言を行わせた。城門校尉、太僕、尚書と昇進して行ったが罪を得て罷免された。(『晋書 劉毅伝』)
何曾(かそう)は贅沢を好み、日に1万銭を掛けて一日中食べ続け、劉毅らは度を越していると弾劾したが、司馬炎は功績に免じて見逃した。(『晋書 何曾伝』)
子の何遵(かじゅん)も父・弟と同じく贅沢を好み、天子の倉で器物を作らせ売買したため、劉毅に弾劾され、罷免された。(『晋書 何遵伝』)
咸寧年間(275~280)の末に散騎常侍・博士祭酒として復帰し、司隷校尉に転じ豪族を糾弾した。劉毅を恐れて多くの太守・県令が自ら官を辞し、人々は彼を前漢の諸葛豊・蓋寛饒になぞらえた。
ある時、太子の司馬衷が入朝に際し儀仗隊を入れようとすると不敬であるとして門外に留めさせ、太子太保・太子太傅以下を弾劾した。司馬炎が詔勅を下して赦免させた。
司馬炎が自分は歴代の皇帝の誰と並ぶだろうかと尋ねると、劉毅は「桓帝や霊帝(※暗君)に並びます」と答えた。司馬炎が「徳こそ名君には及ばないが三国統一を果たしたのに、桓帝や霊帝になぞらえるのはあんまりだ」と抗議すると「桓帝や霊帝も売官を行いましたが、銭は国庫に入れました。しかし陛下はそれを自分の懐に入れています。その意味では桓帝や霊帝以下です」と言った。司馬炎は「桓帝や霊帝にはこんな直言の臣はいなかった。それ以下ではあるまい」と大笑いした。
そこへ鄒湛(すうたん)が進み出て「人々は陛下を漢の文帝(劉恒)になぞらえていますが、文帝は直言に怒りました。劉毅の直言を喜んだ陛下の徳は文帝に勝ります」と言った。司馬炎が「天下を平定しても封禅の儀を行わなかったり、様々な徳ある行為をしてもそなたは何も言わなかったのに、こんな小事でなぜ褒めるのか」といぶかると、鄒湛は「凡人でさえ田畑を荒らす猛獣と戦いますが、勇士でも蜂やサソリが服の中に入ったら慌てふためくものです。劉毅の不意打ちのような直言に我々は血相を変えましたが、陛下はそれを喜びました。私が褒めるのは当然のことです」と言った。
6年にわたり在職し、尚書左僕射に上った。ある時、司馬炎が龍を目撃すると百官はそれを慶賀しようとしたが、劉毅は故事を引きむしろ凶兆であると反対した。司馬炎は「それを聞いて恐ろしくなった。慶賀すべきかは故事を調べ、占うべきだ」と命じた。
劉漢(りゅうかん)らは「故事を調べましたが凶兆とは言えず瑞祥とも取れます。曲解した劉毅を処罰すべきです」と言ったが司馬炎は応じなかった。
後に陰の気が現れる怪異が起き、劉毅は「おもねりへつらい徒党を組む輩を誅殺していないから起こったのでしょう」とやり返した。
後に九品官人法には8つの欠点があり廃止すべきだと建議し、司馬炎はそれを称え、司空の衛瓘(えいかん)らも同意したが、結局廃止されなかった。
昼夜を問わず職務に励み、徹夜で朝を迎えた。言論は切実かつ正直曲がったところが無く、朝廷や在野を問わず人々に慕われた。儀礼の最中に病に倒れ、妻が心配して駆け寄ると妨害したから処罰すべきだと上奏したり、妻子に過ちがあれば杖で殴るほど公正無私だったが、あまりに厳格すぎたため宰相の地位には上れなかった。司馬炎は清貧を称え30万銭と毎日米と肉を支給した。
70歳で引退を申し出て、しばらく後に許可された。光禄大夫のまま洛陽の私邸に隠居し、司馬炎は100万銭を下賜し、門には行馬(※来客を断る車止め)を設けさせた。
後に司徒の魏舒(ぎじょ)が青州大中正に任命しようとすると、行馬まで設けたのだから雑事にかまけさせるべぎではないと議論になった。 陳留国相の孫尹(そんいん)が「魏舒や司隷校尉の厳詢(げんじゅん)は劉毅と年齢が近く、かつては同時期に散騎常侍に任じられました。魏舒・厳詢は今も激務に追われているのに誰も老体をわずらわせているなどとは言いません。わずか一州の品評を担当させるべきでないと言うのは劉毅に甘すぎ、魏舒・厳詢に厳しすぎます。劉毅は悪事を嫌悪する心がやや過剰すぎ、担当官は彼を煙たがって実務から遠ざけ置物にしたのでしょう」と推挙し、青州の二品以上の者や石鑒(せきかん)らも同意したため劉毅は州都大中正として復帰した。彼にまず弾劾されたのは司馬炎の親近の貴族だった。
285年に没した。司馬炎は机を叩き「名臣を失った。三公に就けられなかった」と惜しみ、即座に儀同三司を追贈した。
諡をされなかったため司馬宮(しばきゅう)が「漢・魏代から諡は列侯されていなければ贈られない習わしになりましたが、これにより三公になるほどの賢臣にも贈られず、野戦で功績を立てただけの将にも及ばないことになりました」と制度変更を訴え、群臣も同意したが、結局採用されなかった。(『晋書 劉毅伝』)
馮紞(ふうたん)を弾劾しようとしていたが果たせぬまま没してしまい、子の劉暾(りゅうとん)は馮紞の権威が日増しに上がっていく様を見て「父上が存命なら、彼を憂いのない境遇になどいさせなかったのに」と嘆いた。(『晋書 劉暾伝』)
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