三国志 り 5


劉阿  荊州方面の司令官の一人


劉阿(りゅうあ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

221年、夷陵の戦いで陸遜・李異(りい)・劉阿は蜀軍の呉班(ごはん)・馮習(ふうしゅう)に撃破された。
222年、陸遜が蜀軍を大破すると、李異・劉阿は追撃して南山に駐屯し、劉備は撤退した。(『先主伝』)

226年、曹叡が即位すると張郃は司馬懿とともに荊州に駐屯し、孫権の別将の劉阿を攻め、祁口まで追撃して破った。(『張郃伝』)



劉威  劉勲に巻き添え


劉威(りゅうい)字は不明
青州琅邪郡の人(??~??)

魏の臣。
劉勲(りゅうくん)の甥(兄の子)。

豫州刺史の父(名は不明)が没すると跡を継いだ。
だが曹操に降った後、増長し禁令をたびたび犯した劉勲が、ついに告発され処刑されると、一族の劉威にも累は及び、免職されてしまった。(『司馬芝伝』)



劉偉  劉廙の弟


劉偉(りゅうい)字は不明
荊州南陽郡安衆県の人(??~219)

魏の臣。
劉廙(りゅうよく)の弟。

219年、魏諷(ぎふう)の反乱に加担し処刑された。
兄の劉廙も処刑されかかったが、陳羣(ちんぐん)が減刑を願い出て、曹操も同意し連座を免れた。
劉廙はかねてから弟に「魏諷は徳行を修めずに人を集め、花があっても実がない。ただ世の中をかき乱し名を売るだけの者だ」と交際を断つよう命じていたという。(『劉廙伝』)



劉緯台  公孫瓚の義兄弟A


劉緯台(りゅういだい)字が緯台か
出身地不明(??~??)

占い師。

「英雄記」に曰く。
公孫瓚(こうそんさん)は占い師の劉緯台・絹商人の李移子(りいし)・商人の楽何当(がくかとう)と義兄弟の契りを結び、長兄を名乗った。三人とも巨万の富を持つ大富豪だったため、娘や息子同士を結婚させて一族となり、自分達を前漢の(貧しい身分から名臣となった)酈商・灌嬰になぞらえた。(『公孫瓚伝』)



劉韙


未作成



劉懿  212年に王に立てられた献帝の子B


劉懿(りゅうい)字は不明
司隸河南郡洛陽県の人(??~??)

献帝の子。

「山陽公載記」に曰く。
212年、漢王朝は皇子の劉煕(りゅうき)を済陰王、劉懿を山陽王、劉敦(りゅうとん)を東海王に立てた。
許靖はそれを聞き「老子に言う「何かを縮めようと思えば必ず先に大きくし、何かを奪おうと思えば必ず先に与える」とは曹操のことか」と言った。(『許靖伝』)



劉壱  華歆を説き伏せた功曹


劉壱(りゅういつ)字は不明
出身地不明(??~??)

豫章郡の功曹。

「江表伝」に曰く。
孫策は豫章太守の華歆(かきん)に降伏勧告した。
華歆が功曹の劉壱に相談するとやはり降伏を勧められたが、「私は揚州刺史の劉繇(りゅうよう)に任命されたが、朝廷が追認したから正式に任命されたのと同じだ。降伏すれば後世まで咎が残る」と渋った。
劉壱は「先に会稽太守の王朗(おうろう)が降伏しましたが、彼も今は朝廷に仕えています。しかも会稽郡は(この豫章郡より)兵も勢いも盛んでしたが、罪に問われませんでした。何を気になさるのですか」と説いた。
華歆は降伏を決意し、孫策に丁重に迎えられた。

後世の孫盛は「華歆には風格も節操もなく、邪悪な学者(劉壱)の説に心を曲げ、放埒な連中(孫策)と手を握った」と非難した。(『華歆伝』)



劉胤  劉理の子の哀王


劉胤(りゅういん)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~256)

劉理(りゅうり)の子。
劉備の孫にあたる。

244年、父が没したため安平王を継いだ。

256年に没し、哀王と諡された。

子の劉承(りゅうしょう)が後を継ぐも、翌257年に早逝し血統が絶えてしまった。
劉禅はこれを悼み261年、劉胤の弟の劉輯(りゅうしゅう)に王位を継がせた。(『劉理伝』)



劉隠  孫賁を征虜将軍に任ずる


劉隠(りゅういん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

208年、朝廷の使者として孫賁(そんふん)に詔勅を下し、正式に征虜将軍に任じ、豫章太守を兼任させた。(※征虜将軍は袁術に、豫章太守は孫策によって仮に任命されていた)(『孫賁伝』)

当時、曹操は孫権配下によしみを通じて切り崩しを図っており、その一環と思われる。



劉㝢  劉曄の子


劉㝢(りゅうう)字は不明
揚州淮南郡成悳県の人(??~??)

魏の臣。
劉曄(りゅうよう)の子。

父が没すると後を継いだ。
末弟の劉陶(りゅうとう)は才能あったが品行悪かった。(『劉曄伝』)



劉永  劉備の地味な子


劉永(りゅうえい)字は公寿(こうじゅ)
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉備の子。
劉禅の異母弟。劉理(りゅうり)とも母は異なる。

側室(名は不明)の子で、221年に劉備が皇帝に即位すると魯王に封じられた。(『劉永伝』)

223年、劉備は臨終の床に呼び「お前たち兄弟は丞相(諸葛亮)を父と思って仕え、ひたすら大臣たちが丞相に協力して事をなすように仕向けよ」と遺言した。(『先主伝』)

229年、蜀・呉の間で魏討伐後の領地の分割が討議され、魯国のある豫州が呉の統治下に入った。(『陳震伝』)
そのため230年、甘陵王に改封された。

宦官の黄皓(こうこう)が台頭すると、かねてから彼を憎んでいた劉永は讒言され、それにより劉禅に遠ざけられ、十余年も謁見を許されなかった。

蜀滅亡後の264年、(兄の劉禅とともに)洛陽に移住させられ、奉車都尉に任じられ郷侯に封じられた。(『劉永伝』)

311年、永嘉の乱により劉備の子孫はほとんど死に絶え、劉永の孫の劉玄(りゅうげん)だけが生き延び、益州へ逃げた。
李雄(りゆう)は勝手に(劉禅と同じ)安楽公に任じ、劉禅の後を継がせた。

「演義」では兄弟の劉理(りゅうり)とともに穆皇后(ぼくこうごう)の実子に設定され、父の遺命でともに諸葛亮に父子の礼を取った。



劉穎


未作成



劉延  官渡の戦いで白馬城を守る


劉延(りゅうえん)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

200年、袁紹は顔良(がんりょう)・淳于瓊(じゅんうけい)・郭図(かくと)に、白馬に駐屯する東郡太守の劉延を攻撃させた。
曹操が救援しようとすると、荀攸(じゅんゆう)は「兵力差が大きく対抗できません。背後に回るふりをして敵軍を分散させ、白馬を襲撃すれば顔良を生け捕りにできるでしょう」と進言した。
曹操はそれに従い、当時配下にいた関羽が顔良を討ち取った。(『武帝紀』)

その直前、沮授(そじゅ)は「顔良は性格がこせこせしていて、一人では任せられません」と反対していたが、袁紹は聞き入れなかった。(『袁紹伝』)

「演義」でも同様の事績が描かれる。
また関羽が劉備のもとへ帰ろうとすると、黄河の渡し場を、関羽を憎む夏侯惇の配下が守っていることを教えた。だが夏侯惇の恨みを恐れ舟は貸さなかった。

「吉川三国志」では零陵で劉備と戦う劉賢(りゅうけん)がなぜか劉延の名で登場するため紛らわしい。



劉焉  城が焼けたよ


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劉琰  劉禅をブチギレさせた男


劉琰(りゅうえん)字は威碩(いせき)
豫州魯国の人(??~234)

蜀の臣。

194年、劉備が豫州刺史になった頃に従事に招かれた。
同姓で雅な心があり、談論を愛好したため厚遇され、常に賓客として側近くに仕えた。

214年、劉備が益州を制圧すると固陵太守に任命された。
223年、劉禅が即位すると都郷侯に封じられ、席次は常に李厳(りげん)に次いだ。衛尉・中軍師・後将軍に任命され、車騎将軍に上ったが、国政には参与せず、1千程の兵を持ち、諸葛亮のそばで議論に加わるだけだった。
贅沢を好み、歌や音楽に巧みな数十人の侍婢を連れていた。

223年、魏延と不仲になり、でまかせを吐いたため諸葛亮に詰問された。劉琰は「私は素行が悪く酒乱でたびたび物議を醸していますが、先帝やあなたに助けられ今日に至りました。先日は泥酔し誤ったことを申しましたが、司直に委ねず大目に見ていただきました。しかし反省すると神明に誓ったとしても、御恩に報いる術がないと困ります」と弁解(弁解?)した。
諸葛亮は彼を成都に帰したが、官位はそのままにしてやった。(『劉琰伝』)

231年、李厳(りげん)の罷免を求める文書に行中軍師・車騎将軍・都郷侯として連名した。(『李厳伝』)

失脚した劉琰は希望を失いぼんやりと日々を送っていた。
234年正月、妻の胡氏(こし)が年賀の挨拶に出向くと、穆太后(ぼくたいこう)は彼女を宮中に1ヶ月留め置いた。
胡氏は美人だったため、劉琰は彼女が劉禅と密通したとあらぬ疑いを掛け、吏卒に命じて鞭打たせた。さらに自ら草履で顔を殴って離縁を言い渡した。
胡氏が事細かに告訴したため、劉琰は投獄された。司直は「吏卒は主君の妻を鞭打つべきではないし、顔は草履を受ける場所ではない」ともっともな意見を具申し、劉琰は公開処刑された。
その後、(誤解を避けるため)大官の妻や母が参内する風習は絶えた。(『劉琰伝』)

陳寿は「古くから仕え尊重されたが、災いを招き罪を得たのは、全て身から出た錆である」と評した。

劉禅と諸葛亮は北伐軍を身勝手な理由で撤退させた李厳や、劉備を罵倒した廖立(りょうりつ)さえ殺していないが、劉琰は容赦なく処刑しており、その怒りのほどがうかがい知れる。
だが「演義」では劉琰の処刑は蜀の滅亡直前の出来事にされ、劉禅の暗愚ぶりを示す逸話にアレンジされてしまった。



劉琬  孫権の予言を的中させる


劉琬(りゅうえん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

孫策の朝貢への返礼の使者を務めた。
帰還後に「孫家の兄弟は優れた才能と見識を具えてはいるが長寿を得られそうにない。だが孫権だけは人並み優れた容貌で骨格も非凡であり、高貴な位に上り最も長寿を得るだろう。この予言を覚えておいてくれ」と述べた。(『呉主伝』)



劉何  曹仁に生け捕りにされた呂布の臣


劉何(りゅうか)字は不明
出身地不明(??~??)

呂布の臣。

(194年?)曹仁は兗州済陰郡句陽県を制圧し、大将の劉何を生け捕りにした。(『曹仁伝』)



劉和  劉虞の長男


劉和(りゅうか)字は不明
徐州東海郡郯県の人(??~??)

後漢の臣。
劉虞(りゅうぐ)の長男。

188年、父は幽州牧として赴任したが劉和は朝廷に仕え侍中となった。

董卓に実権を握られた献帝は、劉和を長安から脱走させ、劉虞に救援を求めさせようとした。
劉和が道中で袁術に事情を話したところ、袁術は軍勢を奪おうと考え、劉和を引き止め父に兵を送るよう頼む手紙を書かせた。劉虞はすぐに応じようとしたが、公孫瓚(こうそんさん)は罠だと見抜き反対したものの、却下された。
公孫瓚は自分が反対したと知れば袁術との関係が悪化すると危ぶみ、従弟の公孫越(こうそんえつ)に千騎を預けて協力させ、密かに劉和の兵を奪おうとした。それが露見し劉虞と公孫瓚はますます険悪となった。
劉和はどうにか袁術の手を離れたが、今度は袁紹に引き止められ、その間に劉虞は公孫瓚に処刑された。

袁紹は仇敵の公孫瓚を討つ大義名分として劉和を担ぎ上げ、多くの兵を預けた。劉虞の旧臣や、生前の彼を慕った異民族らの大軍が集まり、199年に公孫瓚は討ち取られた。(『公孫瓚伝』)

劉和のその後の消息は不明である。



劉夏  卑弥呼の朝貢を助ける


劉夏(りゅうか)字は不明
青州東萊郡の人(??~??)

魏の臣。

238年、卑弥呼が朝貢を願い出ると、帯方太守の劉夏は役人と兵士を倭の使者に同行させ、都まで護衛した。(『東夷伝』)

侯史光(こうしこう)は同郷の劉夏のもとで学問を修めた。(『晋書 侯史光伝』)



劉華  伏完の正室


劉華(りゅうか)字は不明
司隸河南郡洛陽県の人(??~??)

桓帝の娘。

158年に陽安長公主に封じられ、後に伏完(ふくかん)に嫁いだ。

その後は不明で、献帝に嫁いだ伏皇后の母は盈(えい)と記され、側室である。(『後漢書 后紀』)



劉艾  献帝を間近で記録する


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劉偕  劉勲の従弟


劉偕(りゅうかい)字は不明
青州琅邪郡の人(??~??)

劉勲(りゅうくん)の従弟。

199年、廬江太守の劉勲は、袁術の残党を加え、にわかに大軍を抱えたため兵糧が不足した。
劉偕を派遣し豫章太守の華歆(かきん)に援助を求めたが当地の豪族は従わずろくに調達できず、劉偕は豫章の町を略奪しようと企てた。

だが豫章の豪族は襲撃を察知し、米を持って隠れてしまい、手間取るうちに劉勲は孫策に居城を攻め落とされ、軍勢を奪われてしまった。
劉勲は荊州牧の劉表(りゅうひょう)に援軍を求め抵抗したが、敗北し劉偕とともに旧友の曹操のもとへ落ち延びた。

劉偕のその後は不明だが、傲慢な劉勲は後に処刑され、一族にも累が及んでおり、生きていても無事ではなかったろう。(『孫策伝』)



劉璝


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劉括  劉禅の養父?


劉括(りゅうかつ)字は不明
司隸扶風郡の人(??~??)

庶民?

以下「魏略」に曰く。
劉備が徐州刺史の頃、曹操の奇襲を受けてあわてて逃げたため家族は取り残された。当時5~6歳の劉禅は漢中へ流れ、売り飛ばされた。

211年、劉括は戦乱を避けて漢中へ移住し、買い取った劉禅が良家の子と知り、養子にして妻をめとらせ子にも恵まれた。
214年、益州を制圧した劉備が将軍の簡(かん)を漢中へ派遣すると、劉禅は父の字を玄徳だと覚えていたため、簡に会い事情を話した。劉備の子だとわかり、漢中太守の張魯(ちょうろ)に話して身柄を引き取り、かくして劉禅は太子となった。
劉備は諸葛亮を太子太傅に任じ「政治は諸葛亮に、祭祀は私が行う」と言い、諸葛亮はまだ政治に不慣れな劉禅に代わり国政を取り仕切った。

裴松之は劉禅の年齢の矛盾を細々と指摘し「こんな妄説を200字に渡り述べているとはなんと奇体なことか」と皮肉り「諸葛亮が太子太傅になった事実もない」ととどめを刺す。(『後主伝』)



劉幹  呂乂とともに抜擢される


劉幹(りゅうかん)字は不明
荊州南郷郡の人(??~??)

蜀の臣。

214年、益州を制圧した劉備は、王連(おうれん)を司塩校尉に任じた。王連は莫大な利益を上げるとともに、呂乂(りょがい)、杜祺(とき)、劉幹らを典曹都尉に抜擢し、みな出世した。

劉幹は巴西太守まで上った。
呂乂、杜祺とは親交があり、揃って高い名声を得たが、倹約・質素で法を遵守することにかけては呂乂に及ばなかった。(『呂乂伝』)



劉漢  劉邠の子の光禄大夫


劉漢(りゅうかん)字は仲嘏(ちゅうか)
出身地不明(??~??)

晋の臣。
劉邠(りゅうひん)の子。

「晋諸公賛」に曰く。
光禄大夫に上った。兄の劉粋(りゅうすい)・劉宏(りゅうこう)も高位に上り、特に劉漢の名声は楽広(がくこう)に次いだ。
劉宏の子孫も同様で、孫の劉恢(りゅうかい)は東晋の名士となった。(『管輅伝』)



劉渙  劉曄の兄


劉渙(りゅうかん)字は不明
揚州淮南郡成悳県の人(??~??)

劉曄(りゅうよう)の兄。
劉普(りゅうふ)の子。

母の脩(しゅう)は劉曄が7歳、兄の劉渙が9歳の時に病に倒れ「父(劉普)の側近は人に取り入り悪事を引き起こす性質で、私の死後に家をむちゃくちゃにするに違いないと心配です。お前達が大きくなって彼らを除けば思い残すことはありません」と子らに遺言した。
劉曄は13歳になると「母の言葉を実行しましょう」と言ったが、劉渙は「どうしてそんなことができよう」とためらった。劉曄はそれを聞くや自ら側近を殺し、母の墓に報告へ行った。
家中は仰天し、劉普も激怒すると劉曄は頭を下げ「母上のご遺言です。父上にお願いもせず勝手に行った罰は受けます」と謝った。劉普は見どころがあると思い、結局咎めなかった。(『劉曄伝』)

「ちくま版」の索引では晋代の劉渙と同一人物にされているが、そちらは100年ほど後の元康年間(291~299)に尚書吏部郎になった人物でそんなわけない。
さらに元康年間(264~265)とも誤記されており、それを鵜呑みにした記事も多々見られる。劉渙とともに尚書吏部郎になった邢喬(けいきょう)は306年没であり、年号ではなく期間の誤記だろう。(『邢顒伝』)



劉寬  絶対に怒らない男


劉寬(りゅうかん)字は文饒(ぶんじょう)
司隸弘農郡華陰県の人(120~185)

後漢の臣。

父の劉崎(りゅうき)は司徒を務めた。
牛車に乗っていた時、ある人がそれは自分の牛だと主張すると、劉寬はすぐに引き渡し歩いて帰った。
後日、誤解だったと牛を返され罪を請われたが「牛は似ているし間違いは起こる。苦労が報われて牛が帰ってきたのに何を謝ることがあるのだ」と意に介さなかった。郷里の人々はその度量に感服した。

「謝承書」に曰く、若い頃から学問に通じ、星読み・風読み・算術は師の教えを極め尽くし「通儒」と称えられた。権勢や利益を他人と争うことがなかった。

桓帝の代に大将軍の梁冀(りょうき)に召され、5度昇進し司徒長史に上った。
「真誥」に曰く、方正に推挙された。
「劉寬碑」に曰く、三公に召されたが断った。大将軍に高第に推挙され、侍御史を経て梁県令に赴任した。旧主が没したため官を辞して喪に服し、三公の招請を断った。茂才、有道に推挙され議郎・司徒長史を拝命し、入朝して侍中に上った。

地震が起こると桓帝に直々に相談され、2度昇進し東海国相となった。165年、都に戻り尚書令となった。
(※恵棟は165年に地震があり侍中、尚書、東海国相に転任した、と誤記を指摘する)

南陽太守を皮切りに3つの郡太守を務め、温厚仁愛で常に寛容だった。どんなに多忙でも早口になったり顔色を変えることなく「論語」の「刑罰で人を治めればそれを逃れるため恥を知らない」を旨とし、鞭打ちには柔らかいガマの穂を用い、恥じ入らせるだけだった。
人が手柄を立てればへりくだって褒めそやし、災いが起これば責任を負った。巡察に出ると休憩の際には人々を招き経書を講義した。その恩徳に感銘を受け人々は日ごとに教化されていった。

霊帝が即位すると太中大夫に召され講義した。侍中、屯騎校尉、宗正、光禄勲を歴任し176年、許訓(きょくん)の後任として太尉に上った。
霊帝は学問好きで、劉寬を引見するたびに経書の講義を命じた。酒宴の際に劉寬が眠ったことがあり、霊帝が「酔ったのか?」と問うと劉寛は顔を上げ「どうして酔いましょう。責任の重大さに心悩ませ、酔ったようになっているだけです」と言い、霊帝はその言葉を尊重した。

率直な人柄で酒を好んだが、入浴や手洗いは厭い、それをことわざにされるほどだった。
ある時、客人が下人に酒を買いに行かせると、下人はすっかり泥酔して帰ってきた。客人は激怒し「畜生め!」と罵り、下人は落ち込んだ。劉寛は「人間を畜生めと罵るとは酷いことだ。自害しないだろうか」と思いやった。

「真誥」に曰く、劉寛は霊帝に酔っていないと弁解した後、「今朝に下人に野菜を買いに行かせましたが、その金で酒を飲み野菜も買ってこなかったので、お前は死んだ犬だと叱りつけたのです。下人が自害していないだろうかと心配しているうちに眠ってしまいました」と言った。
妻は劉寛をわざと怒らせてみたくなり、下女に命じて劉寛の正装へスープをぶちまけさせた。劉寛は顔色も変えず「手を火傷しなかったか」と下女を案じた。人々はその度量から彼を長者と称えた。

日食により罷免され、後に衛尉となった。
「劉寬碑」に曰く、病で官を辞した後に光禄大夫を拝命し、衛尉に転任した。

179年、段熲(だんけい)の後任として太尉に復帰した。
182年、天変地異により罷免され、永楽少府として復帰し、光禄勲に上った。
184年、黄巾の乱を事前に予見したことを賞され、逯郷侯600戸に封じられた。

185年、66歳で没した。
車騎将軍・特進を追贈され、昭烈侯と諡された。
子の劉松(りゅうしょう)が後を継ぎ、官位は宗正まで上った。(『後漢書 劉寬伝』)

傅燮(ふしょう)は若くして太尉の劉寬に師事し、孝廉に2度挙げられた。(『後漢書 傅燮伝』)

他に公孫瓚(こうそんさん)も門生の中に名が見える。(『後漢書 公孫瓚伝』)

「正史」・「演義」には登場しない。



劉姫  曹棘の母


劉姫(りゅうき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の側室。
曹棘(そうきょく)の母。

曹棘は早逝し、231年に国と諡号を追贈されたが、後継ぎはなかった。(『広宗殤公子棘伝』)



劉基  呉の重臣にして賓客


劉基(りゅうき)字は敬輿(けいよ)
揚州丹陽郡建業県の人(184~232)

呉の臣。
劉繇(りゅうよう)の長子。
「劉繇伝」に附伝される。

父の劉繇は台頭する孫策に敗れ、197年に病没した。
孫策は棺を引き取って遺族に返すとともに、手厚く処遇した。
王朗(おうろう)は孫策に手紙を送り、劉基を讃え登用するよう推薦した。(『劉繇伝』)

14歳の劉基は容姿端麗で、礼に外れること無く喪に服し、父の旧臣が贈ってきた見舞いも断った。苦難の中でも人生を楽しむように悠々と暮らし、誰よりも遅く寝て早起きしたため、妻でさえ顔を見ることは稀だった。幼い弟らは劉基へ父のように仕えた。みだりに交流を広めず、つまらない客が訪れることはなかった。

219年、孫権が驃騎将軍になると東曹掾として招かれ、輔義校尉・建忠中郎将に任じられた。
220年、孫権が呉王に封じられると大農に昇進した。(『劉基伝』)

呉王即位を祝う酒宴の終わり頃、孫権は自ら群臣へ酒を注いで回った。虞翻(ぐほん)は酔い潰れたふりをして避け、孫権が通り過ぎるとすぐに身を起こした。孫権はそれに気づいて激怒し、剣を抜いて斬ろうとした。群臣は動揺し動けなかったが、劉基は少しも慌てず孫権を抱き止め「酒が回った状態で人を殺したら、虞翻に落ち度があったとしても、世間の人々に道理は通じません。大王(孫権)はせっかく賢者を招いていると慕われているのに、失望させてはいけません」と諌めた。
孫権はなおも「曹操は高名な孔融(こうゆう)さえ殺した。俺が虞翻を殺して何が悪い」とごねたが、「曹操は軽々しく立派な人物を殺したため非難されました。大王は徳義を堯舜(※古の名君)と比べているのに、どうして曹操ごときと自身を比べるのですか」と劉基にさとされ、ようやく矛を収めると「俺が酒が入った後に殺すと言っても従うな」と命じた。(『虞翻伝』)

孫権は劉基の議論を高く評価し「酒を三杯飲んだ後の自分の命令は無効」と宣言した。(『孫晧伝』)

孫権は張温(ちょうおん)の評判を聞き、誰に匹敵するか尋ねると、劉基は「全琮(ぜんそう)に肩を並べます」と言った。
すると顧雍(こよう)は「劉基はわかっていない。肩を並べられる者などいません」と言い、孫権は喜び、張温を招聘した。(『張温伝』)

(※確たる血統的な背景・地盤を持たない孫権にとって、後漢王朝に連なる名家の劉基は、自らの政権を保証する貴重な存在で、別格の厚遇を受けた)
船上で酒宴を開いた際に、雷雨に襲われると、孫権は自分と劉基にだけ傘を差すよう命じた。

郎中令となり、229年、孫権が帝位につくと光禄勲に任じられ、分平尚書事を務めた。
232年、49歳で没した。
孫権は後に劉基の娘を、息子の孫覇(そんは)にめとらせ、都に広い屋敷を与え、季節ごとに宿老の張昭(ちょうしょう)や全琮にも匹敵する莫大な贈り物をさせた。
弟の劉鑠(りゅうしゃく)・劉尚(りゅうしょう)も騎都尉に上った。(『劉基伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「駱統(らくとう)・劉基は強い調子で諌めて主君の過ちを正した」と記した。(『孫晧伝』)

「演義」には登場しない。



劉基  公孫瓚が献身した遼西太守


劉基(りゅうき)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

遼西太守の劉基が法に触れ投獄されると、郡役人を務めていた公孫瓚(こうそんさん)は檻車の御者に変装して付き従い面倒を見た。日南郡への流刑が決まると、山で供物を捧げ「昔は人の子だったが今は人の臣下だから日南郡へお供しなければならない。もう帰れないかもしれない」と先祖に別れを告げた。居合わせた人々は心打たれすすり泣いた。だが途上で劉基が赦免されたため帰郷した。(『公孫瓚伝』)



劉亀  天子の狩猟場を勝手に利用


劉亀(りゅうき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

曹叡の代の頃、狩猟に関する法は厳しく、宜陽県の典農都尉の劉亀が天子の狩猟場を利用したことを、功曹(配下)の張京(ちょうけい)が密告した。
曹叡は張京の名を伏せて劉亀の処刑を命じたが、高柔(こうじゅう)は密告者の名を明かすよう求めた。曹叡は「廷尉は命令通りに処刑すればいい。私がでたらめに逮捕したとでも言うのか」と激怒したが、高柔は「廷尉は天下の公平を保つ要です。天子の喜怒で法を破壊できません」と厳しい態度で繰り返し求めた。曹叡もやがて非を認め名を明かすと、劉亀・張京を法に照らして処罰した。(『高柔伝』)



劉琦  病弱な長男


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劉煕  劉馥の孫


劉煕(りゅうき)字は不明
豫州沛国相県の人(??~??)

魏の臣。
劉靖(りゅうせい)の子。
劉馥(りゅうふく)の孫。

254年、父が没すると後を継いだ。
弟の劉弘(りゅうこう)は「晋書」に列伝される名臣となった。(『劉馥伝』)



劉煕  劉放の子の(自称)三豫


劉煕(りゅうき)字は不明
幽州涿郡方城県の人(??~??)

魏の臣。
劉放(りゅうほう)の子。

曹叡の代に名家の子弟の諸葛誕、夏侯玄(かこうげん)ら12人は自らを「四聡八達」と呼び合った。
衛烈(えいれつ)、劉煕、孫密(そんみつ)ら3人は彼らに及ばなかったが、父の威光もあり「三豫」と呼ばれた。
曹叡は彼ら15人を「軽薄な風潮を助長する」と酷く嫌い、全員を免職にした。(『諸葛誕伝』)

ちなみに衛烈・劉煕・孫密の父の衛臻(えいしん)、劉放、孫資(そんし)は曹爽(そうそう)が専横を極めると揃って官を辞しており、三家の交友が垣間見える。(『衛臻伝』・『劉放伝』)

250年、父が没すると兄弟の劉正(りゅうせい)が後を継いだ。(『劉放伝』)



劉煕  212年に王に立てられた献帝の子A


劉煕(りゅうき)字は不明
司隸河南郡洛陽県の人(??~??)

献帝の子。

「山陽公載記」に曰く。
212年、漢王朝は皇子の劉煕を済陰王、劉懿(りゅうい)を山陽王、劉敦(りゅうとん)を東海王に立てた。
許靖はそれを聞き「老子に言う「何かを縮めようと思えば必ず先に大きくし、何かを奪おうと思えば必ず先に与える」とは曹操のことか」と言った。(『許靖伝』)



劉熙  「釈名」の謎の著者


劉熙(りゅうき)字は不明
青州北海郡の人(??~??)

隠者?
「四庫全書総目提要」によると北海郡の人。

戦乱を避け交州に移住した程秉(ていへい)は、劉熙と物事の根本原理について論じ合い、広く五経に通じるようになった。(『程秉伝』)

許慈(きょじ)と薛綜(せつそう)は若い頃に交州へ疎開し、劉熙に師事した。(『許慈伝』・『薛綜伝』)

273年、孫晧の逆鱗に触れ投獄された韋曜(いよう)は、劉熙の著した「釈名」について「素晴らしい書物だが、記載された事物が多すぎて、全てを詳細に講究できず誤りも多い。特に官職爵位は正確ではない。私は「官職訓」と「弁釈名」を記しそれらを正すつもりでした」と草稿を提出し、釈放を求めた。
だが孫晧は草稿が汚いと難癖をつけ、ついに処刑させた。(『韋曜伝』)

「釈名」は語源を解説する辞典で現代にも伝わるが、劉熙の事績はほとんどわからない。



劉義遜  孔融を見捨てた有能な配下


劉義遜(りゅうぎそん)字が義遜か
出身地不明(??~??)

孔融(こうゆう)の臣。

「九州春秋」に曰く。
青州刺史の孔融は兵も米もろくに集めず、王子法(おうしほう)・劉孔慈(りゅうこうじ)ら机上の空論をするだけの無能を信任し、左丞祖(さじょうそ)・劉義遜ら有能な人物を飼い殺しにした。左丞祖を殺すと劉義遜に見捨てられた。
袁譚(えんたん)に連敗しても悠然と過ごし、城が落ちると家族を残し身一つで逃亡した。(『孔融伝』)



劉毅  司馬炎の御意見番


劉毅(りゅうき)字は仲雄(ちゅうゆう)
青州東萊国掖県の人(??~??)

魏・晋の臣。
劉喈(りゅうかい)の子。

後漢王朝の末裔で、父は丞相府属まで上った。
幼い頃から孝行で、若くして清らかな節操を奮い立たせ、人物評価を好み、王公や貴族らにはばかられた。
河東郡平陽県に住んでいた時、河東太守の杜恕(とじょ)に招かれ功曹となり、官吏100人あまりを選抜した。辣腕で「劉毅の活躍ばかり耳に入り、杜恕の話は聞こえてこない」と称えられた。

265年頃、故郷の東萊郡に孝廉に挙げられ、司隷校尉府の都官従事として辟召され、噂を聞き人々は粛然とした。
河南尹を弾劾しようとすると司隷校尉は「獣をわしづかみにした犬は毒鼠に背中を踏まれる」と警告したが、劉毅は「獣も鼠も殺してしまえばいい」と憤慨し、官を辞した。
同郡の王基(おうき)が「方正かつ実直で高潔だが才能を見出されていない」と推薦し、太常の鄭袤(ていほう)が博士に推挙し、司馬昭が相国府の掾に招いたが病と称して応じなかった。人々は劉毅は魏王朝に忠義を尽くしているのだと噂し、怒った司馬昭が処刑をちらつかせたため招きに応じ、やがて相国府の主簿となった。
司馬炎が帝位につくと尚書郎・駙馬都尉となり、さらに散騎常侍・国子祭酒に上った。司馬炎は忠実かつ正直であると評価し諫言を行わせた。城門校尉、太僕、尚書と昇進して行ったが罪を得て罷免された。(『晋書 劉毅伝』)

何曾(かそう)は贅沢を好み、日に1万銭を掛けて一日中食べ続け、劉毅らは度を越していると弾劾したが、司馬炎は功績に免じて見逃した。(『晋書 何曾伝』)

子の何遵(かじゅん)も父・弟と同じく贅沢を好み、天子の倉で器物を作らせ売買したため、劉毅に弾劾され、罷免された。(『晋書 何遵伝』)

咸寧年間(275~280)の末に散騎常侍・博士祭酒として復帰し、司隷校尉に転じ豪族を糾弾した。劉毅を恐れて多くの太守・県令が自ら官を辞し、人々は彼を前漢の諸葛豊・蓋寛饒になぞらえた。
ある時、太子の司馬衷が入朝に際し儀仗隊を入れようとすると不敬であるとして門外に留めさせ、太子太保・太子太傅以下を弾劾した。司馬炎が詔勅を下して赦免させた。
司馬炎が自分は歴代の皇帝の誰と並ぶだろうかと尋ねると、劉毅は「桓帝や霊帝(※暗君)に並びます」と答えた。司馬炎が「徳こそ名君には及ばないが三国統一を果たしたのに、桓帝や霊帝になぞらえるのはあんまりだ」と抗議すると「桓帝や霊帝も売官を行いましたが、銭は国庫に入れました。しかし陛下はそれを自分の懐に入れています。その意味では桓帝や霊帝以下です」と言った。司馬炎は「桓帝や霊帝にはこんな直言の臣はいなかった。それ以下ではあるまい」と大笑いした。
そこへ鄒湛(すうたん)が進み出て「人々は陛下を漢の文帝(劉恒)になぞらえていますが、文帝は直言に怒りました。劉毅の直言を喜んだ陛下の徳は文帝に勝ります」と言った。司馬炎が「天下を平定しても封禅の儀を行わなかったり、様々な徳ある行為をしてもそなたは何も言わなかったのに、こんな小事でなぜ褒めるのか」といぶかると、鄒湛は「凡人でさえ田畑を荒らす猛獣と戦いますが、勇士でも蜂やサソリが服の中に入ったら慌てふためくものです。劉毅の不意打ちのような直言に我々は血相を変えましたが、陛下はそれを喜びました。私が褒めるのは当然のことです」と言った。

6年にわたり在職し、尚書左僕射に上った。ある時、司馬炎が龍を目撃すると百官はそれを慶賀しようとしたが、劉毅は故事を引きむしろ凶兆であると反対した。司馬炎は「それを聞いて恐ろしくなった。慶賀すべきかは故事を調べ、占うべきだ」と命じた。
劉漢(りゅうかん)らは「故事を調べましたが凶兆とは言えず瑞祥とも取れます。曲解した劉毅を処罰すべきです」と言ったが司馬炎は応じなかった。
後に陰の気が現れる怪異が起き、劉毅は「おもねりへつらい徒党を組む輩を誅殺していないから起こったのでしょう」とやり返した。
後に九品官人法には8つの欠点があり廃止すべきだと建議し、司馬炎はそれを称え、司空の衛瓘(えいかん)らも同意したが、結局廃止されなかった。

昼夜を問わず職務に励み、徹夜で朝を迎えた。言論は切実かつ正直曲がったところが無く、朝廷や在野を問わず人々に慕われた。儀礼の最中に病に倒れ、妻が心配して駆け寄ると妨害したから処罰すべきだと上奏したり、妻子に過ちがあれば杖で殴るほど公正無私だったが、あまりに厳格すぎたため宰相の地位には上れなかった。司馬炎は清貧を称え30万銭と毎日米と肉を支給した。
70歳で引退を申し出て、しばらく後に許可された。光禄大夫のまま洛陽の私邸に隠居し、司馬炎は100万銭を下賜し、門には行馬(※来客を断る車止め)を設けさせた。
後に司徒の魏舒(ぎじょ)が青州大中正に任命しようとすると、行馬まで設けたのだから雑事にかまけさせるべぎではないと議論になった。
陳留国相の孫尹(そんいん)が「魏舒や司隷校尉の厳詢(げんじゅん)は劉毅と年齢が近く、かつては同時期に散騎常侍に任じられました。魏舒・厳詢は今も激務に追われているのに誰も老体をわずらわせているなどとは言いません。わずか一州の品評を担当させるべきでないと言うのは劉毅に甘すぎ、魏舒・厳詢に厳しすぎます。劉毅は悪事を嫌悪する心がやや過剰すぎ、担当官は彼を煙たがって実務から遠ざけ置物にしたのでしょう」と推挙し、青州の二品以上の者や石鑒(せきかん)らも同意したため劉毅は州都大中正として復帰した。彼にまず弾劾されたのは司馬炎の親近の貴族だった。

285年に没した。司馬炎は机を叩き「名臣を失った。三公に就けられなかった」と惜しみ、即座に儀同三司を追贈した。
諡をされなかったため司馬宮(しばきゅう)が「漢・魏代から諡は列侯されていなければ贈られない習わしになりましたが、これにより三公になるほどの賢臣にも贈られず、野戦で功績を立てただけの将にも及ばないことになりました」と制度変更を訴え、群臣も同意したが、結局採用されなかった。(『晋書 劉毅伝』)

馮紞(ふうたん)を弾劾しようとしていたが果たせぬまま没してしまい、子の劉暾(りゅうとん)は馮紞の権威が日増しに上がっていく様を見て「父上が存命なら、彼を憂いのない境遇になどいさせなかったのに」と嘆いた。(『晋書 劉暾伝』)



劉許  劉放の下の子


劉許(りゅうきょ)字は文生(ぶんせい)
幽州涿郡方城県の人(??~??)

魏・晋の臣。
劉放(りゅうほう)の子。

250年、父が没すると兄の劉正(りゅうせい)が後を継いだ。
咸熙年間(264~265)、5階級の爵位制度が設けられると、父の功績を改めて採り上げられ、劉正は方城子に、父の相棒だった孫資(そんし)の子の孫宏(そんこう)は離石子に取り立てられた。

弟の劉許は父の文才を受け継ぎ、張華(ちょうか)ら5人と並び称され、文章が立派で思考が論理的だと評された。
官位は宗正に上り、司馬衷の代(290~307)には越騎校尉を務めた。(『劉放伝』)



劉享  何曾を非難し報復される


劉享(りゅうきょう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

都官従事の劉享は何曾(かそう)の贅沢を非難するため、鉤の形をした縫い取りのある紐で車を引いたり、牛の蹄や角を磨き上げたりと、無駄なことに血道を上げた。
何曾は彼を掾に招聘した。劉享ははじめ断ったが、公平に私怨を抱かないべきだと考え直し応じたものの、何曾は彼を些細なことで殴った。外には寛大で内には厳しかった。(『晋書 何曾伝』)



劉協  ラストエンペラー


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劉昕  秘密裏に平定した帯方太守


劉昕(りゅうきん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

景初年間(237~239)、曹叡は帯方太守の劉昕と楽浪太守の鮮于嗣(せんうし)を新たに任命し、秘密裏に海路から赴任させ平定した。
そして韓の諸国の指導者らに印綬を贈り手懐けた。(『東夷伝』)

239年には帯方郡、240年には楽浪郡の太守が交代している。
劉昕・鮮于嗣は他に事績がなく、妄想を働かせるとこういった平定作戦を担う特殊工作員なのだろうか。



劉欽  蜀征伐で子午谷へ進撃した魏興太守


劉欽(りゅうきん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

263年、魏は蜀征伐の兵を挙げ、魏興太守の劉欽が子午谷へ進撃するなど各地から同時侵攻した。(『鍾会伝』)



劉虞  スキル「異民族◯」持ち


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劉勲  傲慢で身を滅ぼす


劉勲(りゅうくん)字は子台(したい)
青州琅邪郡の人(??~??)

袁術、後に曹操の臣。

中平年間(184~189)の末に沛国の建平県長になり、曹操とよしみを通じた。(『司馬芝伝』)

河内太守の時、娘の膝が7~8年にわたり腫れ上がっていたため、名医の華佗(かだ)に診察させた。華佗は犬と二頭の馬を用意させ、馬に犬を引かせた。馬を交代させ30里ほど走ると犬は疲れ果て、人に犬を引かせてさらに20里走らせた。そこで娘を薬で眠らせ、犬の腹を裂き、切り口を娘の膝に向かわせて置いた。膝から蛇のようなものが現れたので退治し、膝に薬を塗ると7日で完治した。(『華佗伝』)

袁術は廬江太守の陸康(りくこう)を攻めるにあたり、孫策に後任の太守の座をちらつかせて攻撃させたが、陥落させると配下の劉勲を太守に任じた。(『孫策伝』)

199年、袁術が没すると残党の張勲(ちょうくん)、楊弘(ようこう)らは旧知の孫策のもとへ落ち延びようとしたが、劉勲に捕らわれ軍勢を奪われた。
孫策は内心を隠して劉勲と同盟し、豫章郡の宗民(宗教結社)を襲うようそそのかし、劉勲が出撃した隙に、廬江郡を制圧した。
配下のほとんどが孫策に降伏し、劉勲は数百人だけを引き連れて曹操に降った。(※「ちくま版」では曹操に降ったのが張勲と誤記され、それを鵜呑みにした記事や創作が多々見られる)

「江表伝」には別の経緯が記される。
袁術が没するとその従弟の袁胤(えんいん)や娘婿の黄猗(こうい)は劉勲のもとへ身を寄せた。残党を加え、にわかに大軍を抱えたため兵糧が不足した。
劉勲は従弟の劉偕(りゅうかい)を派遣し豫章太守の華歆(かきん)に援助を求めたが当地の豪族は従わずろくに調達できず、劉偕は豫章の町を略奪しようと企て、劉勲も出撃した。
だが豫章の豪族は襲撃を察知し、米を持って隠れてしまい、手間取るうちに孫策に廬江を攻め落とされ、軍勢や妻子を奪われてしまった。
劉勲は孫賁(そんふん)・孫輔(そんほ)に撃破され、太守の座も失い、荊州牧の劉表(りゅうひょう)に援軍を求め抵抗したが、敗北し劉偕とともに曹操のもとへ落ち延びた。(『孫策伝』)

「劉曄伝」にもさらに別の経緯がある。
劉曄(りゅうよう)は王室に連なる名家だったため、賊徒の鄭宝(ていほう)に担ぎ上げられそうになり、暗殺して軍勢を奪った。しかし兵を持て余し、劉勲へ引き渡した。
孫策は偽ってへりくだり、劉勲に豫章郡上繚県を略奪するようそそのかした。配下は賛成したが、劉曄は「上繚は守りが堅く、容易に落とせません。10日でかたを付けられなければ、その隙に孫策に留守を襲われるでしょう」と忠告した。
劉勲は聞き入れず出撃し、留守を襲われ孫策に廬江郡を奪われ、曹操のもとへ落ち延びた。(『劉曄伝』)

劉勲との戦いで孫権、周瑜、程普(ていふ)、韓当(かんとう)、董襲(とうしゅう)らが活躍した。(『孫権伝』・『周瑜伝』・『程普伝』・『韓当伝』・『董襲伝』)

劉勲の残党から精鋭を選りすぐり、陳武(ちんぶ)に指揮させた。(『陳武伝』)

199年、軍勢を引き連れて曹操に降伏し、列侯に封じられた。(『武帝紀』)

旧知の曹操の側近となり、平時も有事も議論に加わった。
曹操との旧縁を頼みに日毎に思い上がり、しばしば法律を犯し誹謗中傷を吐いた。(『司馬芝伝』)

曹操は鄴で禁令を無視する者が多いと聞き、楊沛(ようはい)を県令に任じた。厳格な彼を恐れ、曹洪(そうこう)や劉勲は早馬を送り、品行を慎むよう配下に命じた。(『賈逵伝』)

曹丕は劉勲・鄧展(とうてん)と酒を飲んだ時、武芸に優れた鄧展と剣術自慢をしあった。つまみに食べていたさとうきびを使って鄧展と打ち合い、曹丕が圧勝した。(『文帝紀』)

216年、曹操へ魏王即位を勧める書状に平虜将軍・華郷侯として連名した。(『武帝紀』)

征虜将軍となり、任地の河内郡の境界で、部下や子弟もしばしば法を犯した。管轄する司馬芝(しばし)へ匿名で手紙を送り、大目に見るよう依頼したが、司馬芝は無視して法律通りに取り締まった。
後に李申成(りしんせい)に告発されてついに処刑された。豫州刺史だった甥の劉威(りゅうい)らも処罰されたが、司馬芝はおかげで称賛された。(『司馬芝伝』)

曹操に寵愛され、尊貴さは朝廷にも響いていた。杜畿(とき)は大きなナツメを要求されたが、理由をつけて拒絶した。
劉勲が処刑された後、その断りの手紙を読んだ曹操は感心し、故事を引き「まさに竈(実力者)に媚びない男だ」と杜畿を称え、それを州郡に周知した。(『杜畿伝』)

「演義」では廬江太守として登場し、孫策に敗北するだけである。



劉勲  曹芳に令狐景の悪口を吹き込んだ女官B


劉勲(りゅうくん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の保林(※女官)。

「王沈魏書」に曰く。
司馬師らは曹芳の廃位を求める上奏の中で「郭懐(かくかい)・袁信(えんしん)らつまらぬ役者を宮殿に引き入れ、全裸で保林の女尚(じょしょう)らと乱交させた。妖婦の恰好をさせて悪ふざけさせたり、親族の女性と酒席で乱交させた。
保林の李華(りか)・劉勲(りゅうくん)ともいちゃつき、清商令(※女官長)の令狐景(れいこけい)が叱りつけると、李華・劉勲は曹芳に言いつけ、曹芳はハジキ(※弾棊に使うスティック?)で令狐景の頭や目を殴り、なおもひるまず諫言されると鉄を熱して全身を焼いた」と弾劾した。(『斉王紀』)



劉勲  袁紹の罪の一つに挙げられる


劉勲(りゅうくん)字は子璜(しこう)
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

臧洪(ぞうこう)は旧主の張超(ちょうちょう)を見殺しにされたことに憤り、袁紹に反旗を翻した。降伏を促されたがその返書で「劉子璜は使者の任を果たせず、家族の身を案じて嘘をつき帰国しようとしただけで、忠孝の心ありあなたにとって差し障りの無い人物なのに、逆鱗に触れ殺された」と袁紹に理不尽に排斥された人々の例として挙げた。(『臧洪伝』)

「典略」に曰く。
公孫瓚(こうそんさん)は袁紹の悪事の一例として「虎牙都尉の劉勲は袁紹ともに挙兵し、張楊(ちょうよう)を降伏させるなど多くの手柄を立てたが、些細なことで袁紹は怒り、濡れ衣を着せて殺した」を挙げた。(『公孫瓚伝』)

裴松之はこの劉子璜と劉勲は同一人物だろうと推測する。(『臧洪伝』)



劉敬  孟達を改字させた劉備の叔父


劉敬(りゅうけい)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉備の叔父。

孟達(もうたつ)は劉備に仕えると、叔父の劉敬の名を避けて字を子敬(しけい)から子度(しど)に改めた。(『劉封伝』)

劉備の叔父には劉子敬(りゅうしけい)という人物もいる。同一人物だろうか。(『先主伝』)



劉景宗  華佗のカルテ―4つの神業を目撃


劉景宗(りゅうけいそう)字が景宗か
徐州広陵郡の人(??~??)

魏の臣。

「華佗別伝」に曰く。
山陽太守の劉景宗は中平年間(184~189)に華佗(かだ)によく会い、神業のような4つの治療を見たことを青龍年間(233~237)に語った。(『華佗伝』)



劉元起  劉備を大器と見込んだ一族


劉元起(りゅうげんき)字が元起か
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉備の一族。

劉備は15歳の時、母に遊学させられ一族の劉徳然(りゅうとくぜん)や公孫瓚(こうそんさん)とともに同郷の盧植(ろしょく)に師事した。劉徳然の父の劉元起はいつも劉備を息子と同等に扱って学費を出してやり、妻に苦言を呈されると「この子は並の人間ではない」と答えた。(『先主伝』)



劉彦  朱符のお友達B


劉彦(りゅうげん)字は不明
揚州会稽郡の人(??~??)

後漢の臣。

朱符(しゅふ)は交州刺史に赴任すると、同郷の虞褒(ぐほう)・劉彦らを各地の長官に任じ、民を迫害して重税を課し私腹を肥やした。
民は怒って蜂起し、山越とともに役所を攻撃した。朱符は船で海へ逃げたが、逃亡中に没した。(『薛綜伝』)

虞褒・劉彦のその後は不明だが無事では済まなかったろう。



劉虔  劉禅の子の上党王


劉虔(りゅうけん)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉禅の子。
劉備の孫。

259年、上党王に封じられた。(『後主伝』)

「蜀世譜」に曰く。
劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔の6人兄弟だった。
263年、蜀が滅亡すると子らは劉禅とともに洛陽の都へ移住させられた。
永嘉の乱(307~312)によりほとんどの子孫が死に、劉永(りゅうえい)の孫の劉玄(りゅうげん)だけが益州へ逃げ延び、支配する李雄(りゆう)によって勝手に劉禅の後を継がされた。(『劉璿伝』)

「蜀世譜」の原文では名を劉據(りゅうきょ)と書かれるが「三国志集解」は誤記と指摘する。



劉献  王脩を罵り王脩に救われる


劉献(りゅうけん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

王脩(おうしゅう)は青州刺史の袁譚に治中従事に招かれた。別駕の劉献は王脩を目の敵にし欠点をあげつらったが、罪を犯し死刑になると、劉献を弁護してやり、人々を感心させた。(『王脩伝』)



劉賢  李豊に加担した宦官達


劉賢(りゅうけん)字は不明
出身地不明(??~254)

魏の宦官。

蘇鑠(そしゃく)は黄門監、楽敦(がくとん)は永寧署令、劉賢は宂従僕射と記される。

254年、李豊(りほう)は行事で皇帝が宮殿から出てくるのを利して、近衛兵に司馬師を暗殺させる計画を立てた。蘇鑠ら3人の宦官を「諸君の不法行為を司馬師は問題にしている。張当(ちょうとう)が曹爽(そうそう)とともに殺されたことを思い出せ」と脅して一味に引き入れたが、あっさり計画は露見し一網打尽にされ、全員が殺された。(『夏侯尚伝』)

なぜか蘇鑠だけ処刑されたと書かれていないがただの書き忘れだろう。



劉固  任嘏の業績と文書を集めた下役B


劉固(りゅうこ)字は不明
冀州趙国の人(??~??)

魏の臣。

「別伝」に曰く。
任嘏(じんか)は4万字に及ぶ38篇の著書を遺し、没すると元の下役だった程威(ていい)・劉固・上官崇(じょうかんすう)らが業績と文書を集めて上奏し、時の皇帝はそれを編集するよう詔勅した。(『王昶伝』)



劉虎  劉表の従子


劉虎(りゅうこ)字は不明
兗州山陽郡高平県の人(??~199)

劉表(りゅうひょう)の従子。

「江表伝」に曰く。
199年、袁術の旧臣は劉勲(りゅうくん)のもとへ身を寄せたが、劉勲も孫策に撃破された。
劉勲は山城へ逃げるとともに劉表へ救援要請し、黄射(こうしゃ)が5千の兵を率い出撃した。しかし間に合わず劉勲は撃破されて曹操のもとへ亡命し、黄射も慌てて逃亡した。
孫策は夏口まで追撃し、黄祖(こうそ)は派遣されていた劉虎・韓晞(かんき)の長矛隊5千を先鋒に立て迎撃したが、これも撃破された。

「呉録」の孫策の上表文に曰く。
黄祖の妻と子供7人を捕虜とし、劉虎・韓晞をはじめ2万の首級を上げた。(『孫策伝』)



劉孔慈  孔融の無能な配下B


劉孔慈(りゅうこうじ)字が孔慈か
出身地不明(??~??)

孔融(こうゆう)の臣。

「九州春秋」に曰く。
青州刺史の孔融は兵も米もろくに集めず、王子法(おうしほう)・劉孔慈ら机上の空論をするだけの無能を信任し、左丞祖(さじょうそ)・劉義遜(りゅうぎそん)ら有能な人物を飼い殺しにした。左丞祖を殺すと劉義遜に見捨てられた。
袁譚(えんたん)に連敗しても悠然と過ごし、城が落ちると家族を残し身一つで逃亡した。(『孔融伝』)

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