三国志 り 8


劉友  稲田を横領


劉友(りゅうゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

武陔(ぶがい)が没すると、李憙(りき)は「武陔は立進令の劉友とともに官用の稲田を横領しました。悪い諡号を与えるべきです」と言上したが、責任は劉友にあるとして退けられた。(『晋書 李憙伝』)

任愷(じんがい)は賈充の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
だが讒言により劣勢となり、尚書の杜友(とゆう)・廷尉の劉良(りゅうりょう)ら誠実な士大夫は助けようと上奏を試みたが、賈充は罪を犯した劉友と関わりがあるなど追撃の手を緩めず、任愷・杜友・劉良は揃って罷免された。

政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)



劉由  孫策の朝貢の使者A


劉由(りゅうゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

孫策の臣。

「江表伝」に曰く。
孫策は江南を制圧すると奉正都尉の劉由と五官掾の高承(こうしょう)を使者に立て朝貢した。(『孫策伝』)



劉雄  劉備の祖父


劉雄(りゅうゆう)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~??)

後漢の臣。
劉備の祖父。

帝室の末裔で、代々にわたり州郡に仕えた。
孝廉に挙げられ兗州東郡范県令となった。(『先主伝』)



劉雄鳴  神人から老賊へ


劉雄鳴(りゅうゆうめい)字が雄鳴か
雍州京兆郡藍田県の人(??~??)

隠者。後に魏の臣。

「魏略」に曰く。
若い時から薬草の採取と狩猟を生業とし、覆車山の麓に住んでいた。一日中雲霧の中を歩き回っても道に迷わなかったため、雲霧を操ると噂された。

192年、董卓残党が都を占拠すると、多くの人々が劉雄鳴のもとへ落ち延びた。
建安年間(196~220)に州に従属し、小将に推薦された。

211年、馬超が反乱すると従わなかったため撃破され、曹操を頼った。曹操は手を握って喜び「ちょうど潼関を越えた時に神のような人物を手に入れる夢を見た。君のことだったのか」と礼遇し、上表して将軍にした。
だが配下を迎えに行くと彼らは従わず、劉雄鳴を脅して担ぎ上げ、武関の街道口に立て籠もった。夏侯淵に撃破され、漢中へ逃げた。

215年、曹操が漢中を制圧すると行き場がなくなり降伏した。曹操はあご髭を引っ張り「老賊め、本当にお前を手に入れられたぞ」と言い、元の官位に戻してやり(担ぎ上げられないよう?)渤海郡へ追いやった。(『張魯伝』)

「藍田の人」とあり、藍田には「高貴な家柄」という意味もあるがいちおう藍田県の人とした。



劉輿


未作成



劉邕  篤実で辺境で活躍


劉邕(りゅうよう)字は南和(なんか)
荊州義陽郡の人(??~??)

蜀の臣。

211年からの劉備の益州侵攻に随行した。

214年、益州が制圧されると江陽太守に任命された。(『楊戯伝』)

223年、蔣琬(しょうえん)は諸葛亮から茂才に推挙されたが、固辞して劉邕・陰化(いんか)・龐延(ほうえん)・廖化(りょうか)らを代わりに勧めた。(『蔣琬伝』)

建興年間(223~237)に監軍・後将軍へ昇進し、関内侯に封じられた後に死去した。

子の劉式(りゅうしょく)が後を継いだ。
末子の劉武(りゅうぶ)は樊建(はんけん)と並ぶ名声を上げ、官位も等しかった。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「篤実で、軍事の任務につき、辺境の地で活躍した」と評した。(『楊戯伝』)



劉陽  王朗に子孫を救われた旧友


劉陽(りゅうよう)字は不明
豫州沛国の人(??~??)

後漢の臣。

「王朗家伝」に曰く。
王朗(おうろう)は若い頃に名士の劉陽と交友を結んだ。劉陽は莒県令まで進んだが30歳で没したため著名ではない。
かつて劉陽は曹操の野心を見抜き、漢王室のために除こうとしたことがあり、曹操は高位に上ると劉陽の子を厳しく追及した。累が及ぶのを恐れた親類縁者は助けず、王朗が何年もかくまってやった。
曹操に仕えるとさらにたびたび申し開きしてやり、長年経ってようやく許され、一族は難を逃れた。(『王朗伝』)



劉瑶  劉禅の子の安定王


劉瑶(りゅうよう)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉禅の子。
劉備の孫。

238年、安定王に封じられた。(『後主伝』)

「蜀世譜」に曰く。
劉璿(りゅうせん)・劉瑶・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん)の6人兄弟だった。
263年、蜀が滅亡すると子らは劉禅とともに洛陽の都へ移住させられた。
永嘉の乱(307~312)によりほとんどの子孫が死に、劉永(りゅうえい)の孫の劉玄(りゅうげん)だけが益州へ逃げ延び、支配する李雄(りゆう)によって勝手に劉禅の後を継がされた。(『劉璿伝』)



劉曄  策謀の貴公子


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劉繇  実は名君


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劉曜  劉巴の祖父


劉曜(りゅうよう)字は不明
零陵郡烝陽県の人(??~??)

後漢の臣。
劉巴(りゅうは)の祖父。

「零陵先賢伝」に曰く。
蒼梧太守を務めた。(『劉巴伝』)



劉曜  鮑勛に報復する


劉曜(りゅうよう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

陳留太守の孫邕(そんよう)は鮑勛(ほうくん)を訪ねる際、設営中で標識が立っているだけの陣をつい横切った。軍営令史の劉曜は処罰しようとしたが鮑勛はそれをなだめた。
その後、劉曜が罪を犯したため鮑勛が罷免しようとすると、劉曜は孫邕を不問にした件を訴えた。かねてから鮑勛を憎んでいた曹丕は、これ幸いと投獄した。懲役5年か罰金がせいぜいだったが、曹丕は強権発動し処刑させてしまった。(『鮑勛伝』)



劉翊  施しのためなら全てを捨てる


劉翊(りゅうよく)字は子相(しそう)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

後漢の臣。

代々の資産家で、惜しみなく施しを好んだ。
汝南郡の境まで出掛けた時、張季礼(ちょうきれい)という人物が師の葬儀に向かう途中で馬車が壊れ、立ち往生しているところに行き合った。
劉翊は「道義を全うするために急ぎなさい」と言い、乗っていた馬車を譲ると、裸馬に乗って去っていった。
名乗られなかったが張季礼は噂に聞く劉翊だと察し、後日わざわざ家を訪ね馬車を返そうとしたが、門を閉ざしたまま別れを告げ、会わなかった。

潁川太守の种払(ちゅうふつ)に功曹に招かれた。それまで病と称して招聘を断っていたが、名高い种暠(ちゅうこう)の子ならばと応じたため、非常に信頼された。
同郡の黄綱(こうこう)は霊帝の側室の程夫人(ていふじん)の縁戚で、権力を笠に着て、山沢の独占を要求した。种払は「黄綱は権力者だ。断れば恨みを買い、認めれば民が苦しむ」と迷い、劉翊に相談した。劉翊は「古来より山沢は民衆のためにあるものです。もしあなたが認めれば汚名となり、令息の种劭(ちゅうしょう)殿は親子の縁を切り、あなたが没しても孤児になったわけではないと考えるでしょう」と進言したため、要求を拒否した。
劉翊を孝廉に推挙したが受けなかった。

その後、黄巾の乱が起こると郡県では戦災被害者が多く出た。劉翊は私財を投じて彼等を助け、数百人が生きながらえた。一族の貧しい者が没すれば丁重に葬ってやり、妻や夫を失った者には後添えを探してやった。(『後漢書 劉翊伝』)

汝南太守の時、従弟の許劭(きょしょう)と仲違いし仕官できなかった許靖(きょせい)を計吏に推挙し、さらに孝廉に推薦した。(『許靖伝』)

190年、長安遷都の後に朝廷から上計掾に招聘された。
戦乱のさなかで盗賊が横行しており、劉翊は昼間は隠れ、夜陰に乗じて進み、長安へたどり着いた。献帝は喜び議郎に任じ、陳留太守に上った。(『後漢書 劉翊伝』)
また种払は司空に任じられた。(『後漢書 种払伝』)

後に劉翊は拝領した宝物を残し、自身で馬車を操り故郷へ帰ろうとした。
途上で病死した士大夫を見つけると、馬を売って棺を買い、自分の着物を着せて葬ってやった。
牛に乗りさらに進むと、旧知の人が窮乏しているのを見かけた。配下の者は止めたが「困っている人を見捨てるのは士人ではない」と、牛を殺して振る舞った。
結局、故郷に着く前に一行は飢え死にした。(『後漢書 劉翊伝』)



劉翊  張邈の配下の方


劉翊(りゅうよく)字は不明
出身地不明(??~??)

張邈(ちょうばく)の臣。

194年、曹操が徐州の陶謙(とうけん)征伐に向かうと、張邈は陳宮(ちんきゅう)と共謀して呂布を迎え入れ反乱した。
そして劉翊を使者に立て、留守を守る荀彧に「呂布が加勢に来たから兵糧を供出して欲しい」と願い出たが、荀彧は反乱を察知して防備を整えた。(『荀彧伝』)

「ちくま版」の索引では後漢書に列伝される劉翊と同一人物とされる。
その劉翊は潁川郡の出身で荀彧の同郷だが、慈悲の心が強すぎて命を落とした人格者であり、張邈の反乱に加担するとも思えず、別人と判断すべきだろう。



劉廙  水鏡先生に頭を撫でられる


劉廙(りゅうよく)字は恭嗣(きょうし)
荊州南陽郡安衆県の人(180~221)

魏の臣。

10歳の時、学堂で遊んでいて司馬徽(しばき)に「坊や、易の道理を知っているかい」と頭を撫でられた。
兄の劉望之(りゅうぼうし)は名声高く、荊州牧の劉表(りゅうひょう)に仕えたが、直言をはばからなかったため疎まれ、劉廙が身の危険を訴えたが聞き入れず、結局殺されてしまった。
劉廙は揚州へと逃れた後に曹操へ仕えた。
曹丕の側近になると信任され、書状を送る時は草書で構わないと許され、恐縮した。
213年、魏が建国されると黄門侍郎に任じられた。

218年、曹操が益州制圧へ乗り出すと、故事を引いて反対したが、曹操は「主君が臣下を知るだけではなく、臣下も主君を知らねばならない。私にじっとしたまま周の文王のような徳を行わせたいようだが、おそらく私はそんな人間ではないぞ」と聞き入れなかった。(『劉廙伝』)

219年、魏諷(ぎふう)の反乱に加担し弟の劉偉(りゅうい)が処刑された。劉廙も処刑されかかったが、陳羣(ちんぐん)が減刑を願い出て、曹操も「名臣だから許したいと思っていた」と同意し連座を免れた。
劉廙は感謝したが陳羣は「国家のためであり君のためではない。減刑を決めたのは明君(曹操)の意向である。私は何も関知していない」と取り合わなかった。(『劉廙伝』・『陳羣伝』)

「劉廙別伝」に曰く、劉廙はかねてから弟に「魏諷は徳行を修めずに人を集め、花があっても実がない。ただ世の中をかき乱し名を売るだけの者だ」と交際を断つよう命じていたという。

劉廙は上奏して助命の礼を述べるとともに、「州郡の首長の異動を減らし、一年ごとに能力を調査し、三年で総括させ、処遇を決めます。能力は評判ではなく、戸籍に対しての耕田の数や、盗賊の発生件数、人口における反逆者の比率などを計算し、事実に基づくべきです」と進言し、曹操を感心させた。

丁儀(ていぎ)と刑罰や儀礼について議論した書物など、数十篇を著し全て世に伝わった。
220年、曹丕の代になると侍中となり、関内侯に封じられた。(『劉廙伝』)

曹丕へ重ねて禅譲を勧める上奏に連名した。毎回のように名が記され、中心人物の一人と見られる。(『文帝紀』)

翌221年に没した。享年42。
子がなかったため甥の劉阜(りゅうふ)が後を継いだ。(『劉廙伝』)

呉の謝景(しゃけい)は同郷の劉廙の「礼よりも刑罰を優先すべきだ」という意見を讃え、陸遜に「劉廙は小賢しい議論で先人の教えをたばかっている。あなたは太子に仕えているのだから、仁と義に基づいた徳を教えるべきで、そんな話を聞かせてはいけない」と強く叱られた。(『陸遜伝』)

256年、呉の刁玄(ちょうげん)は司馬徽と劉廙が行った国家と帝位の行く末についての議論を手に入れ、それを改竄し「最後に天下を制するのは荊州・揚州の主君だ」と記した。
孫晧はこれを読んで気を良くし、さらに中原で「呉の天子が間もなく上ってくる」という歌が流行していると聞き、一族を引き連れ洛陽に向かった。
ところが大雪に遭い、兵士たちが反乱を企てたためあわてて引き返した。(『孫晧伝』※ただしこの逸話は創作も多い「江表伝」に記されている)

陳寿は「清潔な見識をもって著名である」と評した。

また「演義」では華歆(かきん)とともに宮中へ押し入り、献帝に禅譲を迫るダーティーな役割を振られた。



劉理  劉備のもっと地味な子


劉理(りゅうり)字は奉孝ほうこう)
幽州涿郡涿県の人(??~244)

劉備の子。
劉禅の異母弟。劉永(りゅうえい)とも母は異なる。

側室(名は不明)の子で、221年に劉備が皇帝に即位すると梁王に封じられた。(『劉理伝』)

時期は不明だが馬超の娘をめとった。(『馬超伝』)

229年、蜀・呉の間で魏討伐後の領地の分割が討議され、梁国のある豫州が呉の統治下に入った。(『陳震伝』)
そのため230年、安平王に改封された。

244年に没し、悼王と諡された。
後を継いだ子の劉胤(りゅういん)も256年に没し、その子の劉承(りゅうしょう)が継ぐも、翌257年に早逝した。
劉禅はこれを悼み261年、劉胤の兄弟の劉輯(りゅうしゅう)に王位を継がせた。

蜀滅亡後の264年、劉輯は(劉禅・劉永とともに)洛陽に移住させられ、劉永と同じ奉車都尉に任じられ郷侯に封じられた。(『劉理伝』)

「演義」では劉永とともに穆皇后(ぼくこうごう)の実子に設定され、父の遺命でともに諸葛亮に父子の礼を取った。



劉略  郭馬の乱で殺された南海太守


劉略(りゅうりゃく)字は不明
出身地不明(??~279)

呉の臣。

279年、郭馬(かくば)は父祖の代から続いていた軍団の解散に不満を抱き、広州の兵や民衆を扇動して蜂起した。

滕脩(とうしゅう)が討伐に派遣されたが、始興郡で王族(おうぞく)軍に足止めされるうちに、郭馬は南海太守の劉略を殺し、広州刺史の徐旗(じょき)を追放した。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始し、内外から攻められた呉は翌年に滅亡した。(『孫晧伝』)



劉略


未作成



劉良  甄皇后を称えた人相見


劉良(りゅうりょう)字は不明
出身地不明(??~??)

人相見。

幼い頃の甄姫や兄姉の人相を見ると、甄姫を指差し「この娘さんの高貴さは言葉に表現できないほどです」と見立てた。(『文昭甄皇后伝』)



劉良  任愷を弁護した廷尉


劉良(りゅうりょう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

任愷(じんがい)は賈充の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
だが讒言により劣勢となり、尚書の杜友(とゆう)・廷尉の劉良ら誠実な士大夫は助けようと上奏を試みたが、賈充は罪を犯した劉友(りゅうゆう)と関わりがあるなど追撃の手を緩めず、任愷・杜友・劉良は揃って罷免された。

政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)



劉梁


未作成



劉林  劉封の子


劉林(りゅうりん)字は不明
荊州長沙郡の人(??~??)

蜀の臣。
劉封(りゅうほう)の子。

220年、父は関羽を見殺しにした罪から処刑されたが、劉林は連座しなかった。
牙門将軍に上った。

263年、蜀が滅亡すると翌264年に司隸河東郡へ移住させられた。(『劉封伝』)



劉琳  劉劭の子


劉琳(りゅうりん)字は不明
冀州広平郡邯鄲県の人(??~??)

魏の臣。
劉劭(りゅうしょう)の子。

父が没すると後を継いだ。(『劉劭伝』)



劉類  三国一のクソ上司


劉類(りゅうるい)字は不明
冀州高陽郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗(げいぎ)、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類が最も酷かったが、人間関係の処理に長けたため失脚しなかった。
嘉平年間(249~254)、弘農太守に赴任すると下役200余人に休暇も与えずもっぱら急ぎでもない仕事をさせた。過失があれば重さに関わらず髪を引き抜き杖でめった打ちし、投獄したり引きずり出したりを3~4度繰り返した。
銭を探すためあちこち掘らせたため市場は穴だらけだった。
表では簡素化を口にし、巡視に出ると無理に挨拶に来ないよう命じておきながら、来ない者を記憶して陥れた。
他人を信頼せず、上役を外に出すと下役に尾行させて監視し、それも信用できず小使いや奴婢に下役も監視させた。
ある時、巡察に出て民家で宿を取った。たまたま犬と豚が騒ぎ出すと配下が勝手に殺して食べようとしていると思い込み、孫弼(そんひつ)を連れてこさせ土下座させた。事情を聞くと詳しく調べなかったことに引け目を感じたが、他のことにかこつけて責め続けた。
100歳近い民の尹昌(いんしょう)は巡察を知ると子に抱えられながら挨拶に赴いたが、劉類は「こんな死人をわざわざ私に会わせるのか」と子を叱りつけた。彼の無礼さは全てこのようだった。
刺史や太守に降級・免職・死刑を口にしてはいけない「三不肯」という古い慣習があったが、郡民は苦しみ「劉府君(知事)には三不肯がある」と門に書きつけた。劉類は態度を改めなかった。
その後、司馬昭が外征のため弘農郡を通った時に郡の人々が「もうろくし郡を治める力がない」と訴え、都に召され五官中郎将となった。(『梁習伝』)



劉伶  竹林の七賢・天然


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