三国志 り 1


李偉  李豊の下の弟


李偉(りい)字は不明
司隷左馮翊郡東県の人(??~254?)

魏の臣。
衛尉を務めた李義(りぎ)の子。李豊(りほう)の弟。

兄の李豊は重職にあり、その息子が公主をめとったため、李偉ら弟も恩恵にあずかり、出仕から数年で郡太守を歴任した。
だが李豊が傲慢になり出仕をさぼりがちになると、李偉も兄にならって酒に溺れ、新平・扶風の二郡を混乱に陥れた。
李豊は形ばかり注意を与えたが免職せず、人々に恨まれた。

李偉のその後は不明だが、李豊は254年に司馬師暗殺を企むも失敗して三族皆殺しになっており、その際に連座したと思われる。(『夏侯尚伝』)



李異  二人の李異


個別ページへ



李移子  公孫瓚の義兄弟B


李移子(りいし)字が移子か
出身地不明(??~??)

絹商人。

「英雄記」に曰く。
公孫瓚(こうそんさん)は占い師の劉緯台(りゅういだい)・絹商人の李移子・商人の楽何当(がくかとう)と義兄弟の契りを結び、長兄を名乗った。三人とも巨万の富を持つ大富豪だったため、娘や息子同士を結婚させて一族となり、自分達を前漢の(貧しい身分から名臣となった)酈商・灌嬰になぞらえた。(『公孫瓚伝』)



李意其  無言仙人


個別ページへ



李遺  李恢の子


李遺(りい)字は不明
益州建寧郡愈元県の人(??~??)

蜀の臣。
李恢(りかい)の子。

231年、父が没すると後を継いだ。(『李恢伝』)



李允


未作成



李胤  消えた父と祖父


李胤(りいん)字は宣伯(せんはく)
幽州遼東郡襄平県の人(??~282)

晋の臣。
李敏(りびん)の孫。

祖父の李敏は故郷で有名で、遼東太守の公孫度(こうそんど)が自分に逆らう者を粛清し、漢王朝をおびやかそうとしていることを不快に思っていた。
粛清を恐れて家族を引き連れ海路から逃亡すると、公孫度は李敏の父の墓を暴き、棺を壊して遺体を焼き捨て、残された一族を誅殺した。

「晋陽秋」に曰く。
その後、李敏の子ははぐれた父を探して20年以上も放浪し、妻もめとらなかった。同郷の徐邈(じょばく)は「後継ぎが無いことほど親不孝なことはない」とさとし結婚させたが、彼は息子の李胤が生まれるとすぐに妻を離縁し、まるで服喪中のように暮らし数年で亡くなった。
(※裴松之は「家族を連れて逃亡した」のに子がはぐれているのはなぜか、と疑問を呈している)(『公孫度伝』)

離縁された母は牽招(けんしょう)に再嫁し牽嘉(けんか)を生んだ。(『牽招伝』)

「晋陽秋」に曰く。
李胤に両親の記憶はなく、物心つくと粗衣粗食をし、父と同じく服喪中のように3年暮らした。祖父の李敏の生死は不明で、位牌を作り(祖父に対するように)仕えた。
これらにより李胤は名を知られた。(『公孫度伝』)

「譜叙」に曰く。
華表(かひょう)は清潔淡白な性格で、常に公的に身を引こうと考えていた。司徒の李胤と司隷校尉の王弘(おうこう)はいつも「華表のような人物は尊い身分にも卑しい身分にもできないし、近しい関係にも疎遠にもできない」と称賛した。(『華歆伝』)

「晋書」に列伝されているため後に追記する。



李永  典韋に代理で報復される


李永(りえい)字は不明
兗州済陽郡睢陽県の人(??~??)

後漢の臣。

かつて富春県長を務めた。
劉氏(りゅうし)と仇敵の間柄で、典韋は劉氏のために報復を志した。
警戒し護衛を集めていたため、典韋は鶏と酒を用意して車で訪問者を装い、門が開くと匕首を手に押し入り、李永とその妻を殺した。
悠々と退出し、車から刀と戟を取り上げ歩き去った。李永の家は市場に近く大騒ぎとなり、護衛ら数百人が後を追ったが、典韋を恐れて近づけず、4~5里も行くと他の仲間が集まり襲いかかったが、突破された。
これにより豪傑たちに典韋の名は知られた。(『典韋伝』)



李越  蘇則に秒で降伏した賊徒


李越(りえつ)字は不明
雍州隴西郡の人?(??~??)

賊徒。

215~219年頃、隴西郡を根拠地に反乱したが、金城太守の蘇則(そそく)が羌族を率いて包囲するとすぐに服従した。(『蘇則伝』)



李延  董卓に煮殺される


李延(りえん)字は不明
出身地不明(??~191?)

袁紹の臣。

「献帝紀」に曰く。
袁紹配下の豫州従事の李延は董卓に捕らえられ、煮殺された。(『董卓伝』)



李延  華佗のカルテ―内側が強いほう


李延(りえん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

太尉府の役人の児尋(げいじん)と李延は頭痛と熱に苦しみ、華佗(かだ)は「児尋には下剤を与え、李延には汗をかかせよ」と命じた。同じ症状なのになぜ処方が違うのか聞かれると「児尋の体質は外側が強く、李延は内側が強い」と答え、翌朝には治った。(『華佗伝』)



李応  趙温を助けた李傕の従弟


李応(りおう)字は不明
涼州北地郡泥陽県の人(??~??)

李傕(りかく)の従弟。

董卓が討たれ残党の李傕・郭汜(かくし)が激しく争い、李傕は献帝を幽閉しようとした。李傕は司徒の趙温(ちょうおん)が従わないとわかっていたため、先に幽閉した。
趙温は恐れずこんこんと李傕をさとし激怒されたが、李応がかつて趙温に仕えていたため数日にわたり弁護し、処刑は免れた。

「献帝起居注」に曰く、献帝は趙温が李傕を諌めたと聞くと「李傕には善悪を判断する力がない。趙温の言葉は厳しすぎるから、心が凍りつくほど心配だ」と案じたが、常洽(じょうこう)が「李応がもうなだめました」と伝え安心させた。(『董卓伝』)



李華  曹芳に令狐景の悪口を吹き込んだ女官A


李華(りか)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の保林(※女官)。

「王沈魏書」に曰く。
司馬師らは曹芳の廃位を求める上奏の中で「郭懐(かくかい)・袁信(えんしん)らつまらぬ役者を宮殿に引き入れ、全裸で保林の女尚(じょしょう)らと乱交させた。妖婦の恰好をさせて悪ふざけさせたり、親族の女性と酒席で乱交させた。
保林の李華・劉勲(りゅうくん)ともいちゃつき、清商令(※女官長)の令狐景(れいこけい)が叱りつけると、李華・劉勲は曹芳に言いつけ、曹芳はハジキ(※弾棊に使うスティック?)で令狐景の頭や目を殴り、なおもひるまず諫言されると鉄を熱して全身を焼いた」と弾劾した。(『斉王紀』)



李恢  何がむむむだ


個別ページへ



李傕  つけは必ず回ってくる


個別ページへ



李楽  演義では極悪人


個別ページへ



李桓  呂岱に討伐された廬陵郡の賊徒


李桓(りかん)字は不明
揚州廬陵郡の人(??~236)

賊徒。

234年11月、廬陵郡で李桓・羅厲(られい)らが反乱した。
235年夏、呂岱(りょたい)が討伐に向かった。
236年2月、吾粲(ごさん)が李桓を、唐咨(とうし)が羅厲を捕らえた。(『呉主伝』)

「呂岱伝」に詳細が記される。
235年、廬陵郡で李桓と路合(ろごう)、会稽郡で随春(ずいしゅん)、南海郡で羅厲が同時に蜂起した。
孫権は詔勅を下し呂岱に劉簒(りゅうさん)・唐咨らを指揮させ討伐に向かわせた。
随春はただちに降伏し、呂岱は偏将軍に任じてそのまま兵を率いさせた。随春は後に呉の将軍となった。
李桓・羅厲らは斬首され首級を都へ送られた。
孫権は「羅厲は険阻な地勢を頼みに反乱し、自らさらし首となった。李桓は悪賢く反乱を繰り返し長年に渡り捕らえられなかった。呂岱の計略でなければさらし首にできなかった」と称えた。(『呂岱伝』)



李堪  旗本八旗パワー担当


個別ページへ



李簡  蜀に寝返った狄道県長


李簡(りかん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏→蜀の臣。

254年、魏の狄道県長の李簡は蜀に密かに内通を伝えた。
「益部耆旧伝」に曰く、蜀の臣はみな疑ったが張嶷(ちょうぎょく)だけは間違いないと見抜いた。(『張嶷伝』)

姜維は張嶷らを率い李簡の軍需物資を頼りに出撃し、無事に迎え入れられた。
魏の徐質(じょしつ)を討ち取り勝利したが、張嶷は自軍の倍以上の損害を与えつつも戦死した。(『張嶷伝』・『姜維伝』)
「益部耆旧伝」に曰く、張嶷は重病で起き上がるのもやっとだったが志願して従軍した。(『張嶷伝』)



李姫  曹乗・曹整・曹京の母


李姫(りき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の側室。

曹乗(そうじょう)、曹整(そうせい)、曹京(そうけい)の三人の男子を生んだ。(『武文世王公伝』)



李基  李通の子


李基(りき)字は不明
荊州江夏郡平春県の人(??~??)

魏の臣。
李通(りつう)の子。

父が42歳で没すると後を継いだ。
220年、曹丕は帝位につくと功績を改めて採り上げ「李基が既に爵位を継いでいるが李通の勲功に報いるには足りない」とし、李基を奉義中郎将に、兄の李緒(りしょ)を平虜中郎将に昇進させた。(『李通伝』)



李貴人  曹協の母


李貴人(りきじん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。
曹協(そうきょう)の母。

220年、曹丕が帝位につくと山陽公(献帝)の二人の娘が側室となり、郭后(かくこう ※後の郭皇后)・李貴人・陰貴人(いんきじん)が寵愛されたため、皇后の甄姫は顧みられなくなり、恨み言を言ったため自害を命じられた。(文昭甄皇后伝』)



李憙  礼と法を重んじ確かな眼力を持つ


李憙(りき)字は季和(きか)
司隸上党郡銅鞮県の人(??~??)

魏・晋の臣。

父の李佺(りせん)は後漢の大鴻臚だった。
若い頃から高尚な品行と博学で知られ、管寧(かんねい)とともに賢良に推挙されたが応じなかった。三公に続けて招かれ、太傅の司馬懿にも太傅属に招かれたが病と称して応じず、郷里の人々は無理やり輿に乗せて送り出したが、母が危篤だったためこっそり抜け出して臨終に間に合い、その志節を称えられた。

并州の別駕従事となり、皇族に連なる秦朗(しんろう)が立ち寄ると并州刺史の畢軌(ひつき)は車で迎えようとしたが、李憙に強く諌められ取りやめた。
司馬師が実権を握ると、大将軍府の従事中郎に招かれた。司馬師が「父(司馬懿)の招きには応じなかったのに、なぜ私には応じたのだ」と問うと「父君は礼によって招いたので礼によって断りました。あなたは法によって招いたので、法を恐れて応じたのです」と答え、非常に重んじられた。
司馬、右長史と昇進し255年、毌丘倹(かんきゅうけん)の討伐に功績あり御史中丞に上った。厳粛たる態度で職務に励み、権勢ある人物にもはばからず、百官を恐れさせた。
推挙した孫璞(そんはく)も道徳ある人物で、人物鑑定眼も称えられ大司馬(※司馬師より上位になってしまうため大将軍司馬の誤りか)に上ったが、公務上の罪を得て罷免された。

司馬伷(しばちゅう)に招かれ軍司として復帰し、涼州刺史・揚威将軍に上り、節を授かり護羌校尉を兼務した。統治は高い評判を取り、羌族が攻め寄せると朝廷の指示を待たずに先制攻撃で大戦果を上げ、漢の名将にたとえられた。抜け駆けの罪は武功により譴責だけに留められたが、自ら罷免を求めた。
1ヶ月ほどで冀州刺史に任じられ、やがて司隷校尉に上った。
265年、司馬炎が帝位についた時には司徒の任務を代行し、太尉の鄭沖(ていちゅう)の副官として帝位禅譲の使者を務めた。
泰始年間(265~275)のはじめ、祁侯に封じられた。
劉友(りゅうゆう)・山濤(さんとう)・司馬睦(しばぼく)・武陔(ぶがい)が私腹を肥やしたとして弾劾したが、司馬炎は調査させ劉友が山濤らの名を騙ったと裁定を下した。(『晋書 李憙伝』)

司隷校尉の李憙は侯史光(こうしこう)とともに、鄭沖(ていちゅう)・何曾(かそう)・荀顗(じゅんぎ)らは老齢で重病であるとして罷免を上奏したが司馬炎は却下した。(『晋書 鄭沖伝』)

(272年より前)羊祜(ようこ)は開府儀同三司に任じられたが、「光禄大夫の李憙は節義を守ること高潔で正しく、公の場では表情を改め態度を正している」と李憙、魯芝(ろし)、李胤(りいん)らの方が相応しいと辞去したが認められなかった。(※李憙が光禄大夫に任じられたのは晩年であり誤りか)(『晋書 羊祜伝』)

晋でも司隷校尉を務め誰もが称賛したが、また公務上の罪を得て罷免された。
司馬衷が太子に立てられた時、魏の曹叡以来、太子が立てられなかったため官庁は整備されず役職さえ足りなかったが、太子太傅に任じられた李憙が尽力し、幾年にもわたり司馬衷を教導した。
後に尚書僕射に上り、特進・光禄大夫を拝命したが、老齢を理由に引退した。司馬炎は三公にするつもりだったと惜しみ、引退後も光禄大夫のまま三公待遇を与えた。

尚書僕射の時に涼州が異民族に襲われ、李憙は討伐を訴えるも朝臣は事態を軽く見ており却下したが、後に壊滅的被害を受けて李憙の正しさが証明された。
283年、司馬攸(しばゆう)が兄の司馬炎に疎まれ都を放逐されると、取りやめるよう懇切に訴えたが認められなかった。
重職を歴任し、清廉であるとして絹百匹を与えられたが、他の清廉な者と比べて飛び抜けてはいなかったものの、家に余財はなく、旧友や親族に食事や衣服を分け与え、封国の官吏を私的に利用することは一度もなかった。
没すると太保を追贈され、「成侯」と諡された。
子の李賛(りさん)が後を継いだ。下の子の李倹(りけん)は屯騎校尉まで上り、孫の李弘(りこう)も祖父譲りの清廉さで給事黄門侍郎・散騎常侍に上った。(『晋書 李憙伝』)

「演義」にも「正史」にも全く登場しない。



李義  李豊(魏)の父


李義(りぎ)字は孝懿(こうい)
司隷左馮翊郡東県の人(??~??)

魏の臣。
名は李恢(りかい)ともいう。

出身地には名家が無かったが、同郷の厳幹(げんかん)とともに重厚な人柄をうたわれ名を上げた。中平年間(184~189)の末にともに20余歳で、厳幹は剣術を、李義は葬儀の仕切りを好み、馮翊の名士らにも認められた。
戦乱を避けて人々が移住して行く中、二人は薪を採って生活し、やがて馮翊郡が分割されると、李義は「青二才らと席を争うわけにはいかん」と言い、出身の西部ではなく東部の郡に仕えた。

厳幹は司隷校尉から招聘されたが断り、孝廉に推挙され、李義は上計掾となった。
李義は職務で都に上り、そのまま留め置かれて平陵県令に任じられ、冗従僕射に上り、高官を歴任した。
魏が建国されると後漢から魏へ身柄を請い受けられ、軍祭酒に任じられ、尚書左僕射に上った。

220年、曹丕が即位すると諫議大夫・執金吾衛尉に上り、在官のまま没した。(『裴潜伝』)

子の李豊(りほう)は無官の頃から名声高く、黄初年間(220~226)に父の縁故で召された。あまりに虚名ばかり上がるのを憂いてか、李義は門を閉ざし客を断るよう命じさえした。(『夏侯尚伝』)

「傅子」に曰く、太僕の李義は、親しく付き合っていた杜畿(とき)に、郭智(かくち)とともに息子を紹介した。
すると杜畿は「李義には子が無い。いずれ家も無くすだろう。郭智の子は父の後を継ぎ、郭智が死なないのと同じことだ」と言った。
李豊はすでに名声高く、郭智の子の郭沖(かくちゅう)は風采が上がらず評価されていなかったため人々は誤りだと考えた。

だが254年、李豊は反乱を企てて一家を滅ぼし、郭沖は代郡太守として名を上げ、杜畿の見立ては的中した。(『杜畿伝』)



李休  李勝の父


李休(りきゅう)字は子朗(しろう)
荊州南陽郡の人(??~??)

張魯(ちょうろ)の臣、後に魏の臣。
李勝(りしょう)の父。

「魏略」に曰く。
智略があり、張魯が鎮北将軍になるとその司馬となり、南鄭(漢中)に移住した。
ある時、漢中に甘露が降り、李休は漢中は要害で数万の精鋭を擁していることから、後漢王朝に代わり皇帝を名乗るよう張魯に勧めたが退けられた。
215年、曹操が漢中を制圧すると李休は降伏を勧めたことを評価され、関内侯に封じられ、散官騎従となり都へ上った。
黄初年間(220~226)、上党・鉅鹿の太守を歴任し、年老いると都へ戻り議郎となった。

子の李勝は曹爽(そうそう)に寵愛され権勢を振るったが249年、司馬懿に粛清された。(『曹真伝』)



李求承  龔禄を殺し張嶷に仇討ちされる


李求承(りきゅうしょう)字が球承か
益州越雋郡斯都県の人(??~??)

賊徒。

225年(『楊戯伝』)、叟族の反乱に呼応し越雋太守の龔禄(きょうろく)を殺した。

次の太守の焦璜(しょうこう)も殺されると後任は尻込みして郡に入らず、800余里も離れた安上県に住んだ。
そこで勇猛な張嶷が太守に赴任し、3年で平定した。

張嶷は身分を超えて龔禄と親しく付き合っており、懸賞金を出して李求承の行方を追い、捕らえると長年の悪行を数え上げた後に処刑した。(『張嶷伝』)



李球  李恢の弟


李球(りきゅう)字は不明
益州建寧郡愈元県の人(??~263)

蜀の臣。
李恢(りかい)の弟。

263年、羽林右部督として諸葛瞻(しょかつせん)に従い鄧艾軍と戦い戦死した。(『李恢伝』)

「演義」でも同様に戦死した。



李業  何夔に皮肉られる


李業(りぎょう)字は不明
出身地不明(??~??)

袁術の臣。

袁術は陳郡蘄陽を攻めると、同郡出身で縁戚の何夔(かき)を脅して降伏勧告させようとした。
何夔は謀臣の李業へ「春秋時代の柳下恵は国を討つ計画を聞かされた時、そんなことは仁者には相談しないものだと驚いたそうです」と皮肉を吐いて逃亡した。
袁術は彼が縁戚のため、恨みはしたが危害は加えず、計画を取りやめた。(『何夔伝』)



李玉


未作成



李勗  何定に陥れられた少府


李勗(りきょく)字は不明
出身地不明(??~270)

呉の臣。
「ちくま版」は李勖(りぼう)と記す。勗は勖の異体字。ここでは著名な荀勗(じゅんきょく)の読みに合わせる。

269年、呉は虞汜(ぐし)や薛珝(せつく)、陶璜(とうこう)に荊州から、監軍の李勗、督軍の徐存(じょそん)に海路から交阯を攻めさせた。
翌270年、李勗は進軍に難渋し、案内役の馮斐(ふうひ)を殺すと撤退した。

佞臣の何定(かてい)は以前、李勗の娘を、息子の嫁に迎えたいと申し出たが断られ、恨んでいた。そこで「少府の李勗はみだりに馮斐を殺し、勝手に撤退した」と讒言し、李勗と徐存の一家眷属を誅殺させた。幼い子供も殺され、死体は焼かれた。(『孫晧伝』)

272年、何定も孫晧の不興を買い殺された。(『薛瑩伝』)
さらに薛瑩(せつえい)も投獄されると、陸抗(りくこう)は上疏し「楼玄(ろうげん)・王蕃(おうはん)・李勗は当代第一級の優れた人物でしたが、あるいは誅殺され、配流されました。王蕃と李勗は永久に帰らず後悔しても追いつきませんが、楼玄と薛瑩はお許しください」と述べた。(『陸抗伝』)
薛瑩は釈放された。(『薛瑩伝』)



李歆  考えるな。脱出しろ


個別ページへ



李恵  孫礼に工事を止められる


李恵(りけい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

太和年間(227~232)頃、孫礼(そんれい)は尚書となり、気候不順で穀物が少ないため宮殿造営の労役をやめるべきだと頑強に諌めた。曹叡は聞き入れた。
監督していた李恵は「あと一月続け完成させたい」と上奏したが、孫礼はすぐさま現場へ向かい詔勅と称して民を解放させた。曹叡は立派だとして咎めなかった。(『孫礼伝』)



李権  李福の父


李権(りけん)字は伯豫(はくよ)
益州梓潼郡涪県の人(??~188?)

益州の豪族。

臨邛県長を務めた。(『劉焉伝』)

秦宓(しんふく)から「戦国策」を借りた時、何に使うのか問われ「孔子や厳君平は多くの書籍を収集して著作を作りました。海は川を集めて広大となり、君子は博識によって弘遠となるのです」と答えた。
秦宓は長広舌をふるい「戦国策」を読むのは無駄だと言った。
(※裴松之は気に入らなかったのか秦宓の発言の細かなあげつらいをしている)(『秦宓伝』)

188年、益州牧に赴任した劉焉(りゅうえん)は独立の野心を秘めており、権力拡大のために李権・王咸(おうかん)ら豪族を十数人殺した。(『劉焉伝』)

子の李福(りふく)は蜀に仕え、尚書僕射まで上った。
臨終間際の諸葛亮へ、後継者を尋ねた逸話で有名である。(『楊戯伝』)



李厳  三国一のDQN


個別ページへ



李固  李傕を大司馬に任命した使者


李固(りこ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「献帝起居注」に曰く。
献帝は皇甫酈(こうほり)が(李傕(りかく)・郭汜(かくし)出身の)涼州の名門で弁舌に長けたため、李傕・郭汜を和睦させようとした。郭汜は承諾したが、李傕は拒絶し皇甫酈を脅して味方に引き込もうとし、皇甫酈は脅し返し、李傕は怒鳴りつけて退出させた。
献帝はただちに皇甫酈を外へ逃がした。李傕は王昌(おうしょう)に追撃させたが、王昌は皇甫酈が忠義で正しい人物だと知っていたためわざと見逃し、追いつけなかったと報告した。
献帝は左中郎将の李固に節を持たせて使者とし、李傕を三公の上の大司馬に任命して機嫌を取り、李傕は信仰する鬼神のおかげと喜び巫女に褒美をやった。(『董卓伝』)



李虎  鄧艾に戸籍を届けた尚書郎


李虎(りこ)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

263年、蜀は魏に降伏した。
「蜀記」に曰く。
劉禅は太常の張峻(ちょうしゅん)と益州別駕の汝超(じょちょう)を送り(鄧艾の)指図を受けさせ、尚書郎の李虎に官民の戸籍を送らせた。(『後主伝』)



李光  王基に偽装投降を見抜かれるB


李光(りこう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

261年、呉の鄧由が内応を申し出て、王基(おうき)は進撃するよう命じられたが、疑念を抱き応じないよう進言し、司馬昭もそれに従った。結局、内応しなかった。

「戦略」に詳細が記される。
襄陽太守の胡烈(これつ)は「呉の鄧由(とうゆう)・李光が内応を申し出て、将の張呉(ちょうご)・鄧生(とうせい)らとともに人質を送ってきました。期日を決めて進撃し協力して呉の屯営を落としたいと存じます」と上奏した。
司馬昭は王基・胡烈に1万の兵を与え許可しようとしたが、王基は地勢を分析し「道は狭く伏兵に襲われればひとたまりもありません。曹爽(そうそう)が蜀を、姜維が魏を攻め、文欽(ぶんきん)が反乱したが全て失敗しました。これらは戒めとすべき最近の出来事です。反乱が相次ぐ今は内を安定させるべきで、外に利益を求めるべきではありません」と反対した。何度も文書をもらい司馬昭も疑念を生じ、進軍を止めさせた。
はたして鄧由らは内応しなかった。(『王基伝』)



李光  李密の祖父


李光(りこう)字は不明
益州犍為郡武陽県の人(??~??)

後漢の臣?
李密(りみつ)の祖父。

「華陽国志」に曰く。
李密の祖父の李光は益州朱提太守を務めた。父は若くして没し、母の何氏(かし)が再嫁したため、李密は祖母の劉氏(りゅうし)に育てられた。(『楊戯伝』)



李興  李密の子


李興(りこう)字は不明
益州犍為郡武陽県の人(??~??)

晋の臣。
李密(りみつ)の子。
別名は李安(りあん)。

「蜀記」に曰く。
永興年間(304~306)、鎮南将軍の劉弘(りゅうこう)はかつて諸葛亮が居住した隆中を訪れ、石碑を建てて顕彰し、太傅掾の李興に碑文を作らせた。(『諸葛亮伝』)



李興


未作成



李衡  一粒の種は100万のみかんを生む


李衡(りこう)名は叔平(しゅくへい)
荊州襄陽郡の人(??~??)

兵卒の家に生まれ、後漢末に呉へ移住し帰農した。
ある時、人物鑑識に優れると評判の羊衜(ようく)を訪ね「多事多難の世で、尚書を補佐し激務を担当する才がある」と評された。
当時、呂壱(りょいつ)が専権を振るって多くの重臣を陥れたが、誰も逆らえずにいた。羊衜は「李衡しか呂壱を追い詰められる者はいない」と抜擢し、李衡は呂壱の悪事と失策を調べ上げ、孫権へ数千言にわたり述べ立てた。孫権は恥じ入り、数ヶ月後に呂壱は誅殺された。

その後、諸葛恪(しょかつかく)の司馬として事務を取り仕切った。(『孫休伝』)
諸葛恪の命を受け蜀に赴き、ともに魏を攻めようと姜維を説得した。(『諸葛恪伝』)

253年、専制を振るった諸葛恪が誅殺されると、李衡は丹陽太守への出向を願い出た。
当時、丹陽の役所で孫休が暮らしており、李衡は妻の習氏(しゅうし)の忠告も聞かず、法律に則って孫休を容赦なく取り締まり、窮屈に思った孫休は会稽郡へと移住した。

258年、孫休が皇帝に即位すると、意趣返しをされると思い李衡は「お前の言うことを聞かなかったばかりにこんなことになってしまった」と妻に嘆き、魏に亡命しようと言うと、習氏は「あなたには庶民の身から引き立てられた恩があります。それに何度も孫休様へ無礼を働いたのに、今さら疑心暗鬼にかられて保身のために亡命したら、人々に顔向けできません」とたしなめた。
そして習氏は「孫休様はもともと善事や名声を好みます。即位して天下に自身を誇示しようという時に、私怨であなたを殺そうとはしないでしょう。むしろ自ら処罰を乞えば生き延びるどころか厚遇を得られます」と自首を勧めた。
はたして李衡が自首すると、孫休は後に仕えることになる主君を攻撃した故事を引き、李衡は主君のために尽くしただけだと言い、威遠将軍の官位を加増した。

李衡は常々、家業を営み財産をなしたいと考えていたが、習氏に反対されていた。そこで故郷に近い武陵郡に妻に内緒で土地を買い、みかんを千株植えさせ、10人の小作人に世話させた。
李衡は臨終の床で子を呼び「母さんが家業に反対するから我が家は貧乏だが、実は木の奴僕を千人召し抱えている。彼等は衣食も要求せず毎年、絹を一匹ずつ送ってくれるから、それを家計の足しにしなさい」と遺言した。
死後、話を聞いた習氏は「柑橘を植えたのでしょう。小作人が10人いなくなって7~8年経ちます。父さんは司馬遷の「千株のみかんは諸侯の財産に匹敵する」という言葉を好んで口にしていました。私は富貴より徳義を重んじなさいと忠告したものです」と言った。

280年頃には李衡のみかん畑は毎年、絹数千匹もの利益を上げ、家計を潤すようになった。晋の咸康年間(335~342)にその畑の跡地が記録されているという。(『孫休伝』)



李鴻  孟達の出戻りを伝える


李鴻(りこう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏→蜀の臣。

225年、諸葛亮が南中への遠征から帰還中、魏から降伏した李鴻(りこう)が「孟達(もうたつ)は魏へ寝返った際に殿(諸葛亮)が激怒し妻子を処刑しようとしたが、劉備が取りなしたという話を聞くと、諸葛亮の判断は筋道だっているから絶対に違うと言っていました。彼は今も殿を思慕しています」と伝えた。
諸葛亮が孟達に連絡を取ろうと言うと、費詩(ひし)は「孟達は劉璋・劉備に相次いで反逆し価値はない」と反対した。諸葛亮は黙って返事せず、結局孟達へ「李鴻から話を聞きあなたの気持ちを知りました。そもそも劉封のせいであなたは寝返らざるを得なかったのです」と連絡した。
孟達は蜀へ出戻ろうとしたが、司馬懿に討たれ、諸葛亮も孟達には誠実さが無いと考え援軍を送らなかった。(『費詩伝』)



李朔  満寵に恐れをなす


李朔(りさく)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

賊徒。

私兵を抱え郡内で民を迫害していた。
満寵(まんちょう)は18歳で郡の督郵(監査官)になると厳しく取り締まり、恐れをなした李朔らは自ら処罰を請い二度と略奪しなかった。(『満寵伝』)



李若  胡質の事件簿2の犯人


李若(りじゃく)字は不明
徐州東莞郡の人?(??~??)

魏の臣?

(東莞郡の?)士人の盧顕(ろけん)が何者かに殺害された。
東莞太守の胡質(こしつ)は「この人に仇敵はいないが年若い妻がいる。それが動機ではないか」と考え、近所の若者の全てに会った。
書吏の李若が動揺を見せたため、徹底的に取り調べて自白させ、罪に服させた。(『胡質伝』)



李寿  龐娥に殺された父の仇


李寿(りじゅ)字は不明
涼州酒泉郡禄福県の人(??~??)

素性不明。

同県の趙安(ちょうあん)を殺した。3人の息子も亡くなり李寿は報復を逃れたと安堵したが、娘の龐娥(ほうが)は帳のある車に乗り袖に剣を隠し、白昼に李寿を刺殺した。そしてゆっくりと役所に赴き、顔色も変えず「父の仇討ちをしましたので死刑を受けたいと思います」と報告した。
県長の尹嘉(いんか)は感嘆し印綬の紐を解き辞任の意を示すと、罪に問わず無理やり龐娥を車に乗せ家へ帰した。ちょうど恩赦があり罪を免れた。
州郡も感嘆し龐娥の事績を石に刻み村の門に建てた。

皇甫謐(こうほひつ)の「烈女伝」に詳しい経緯が記される。
龐娥親の弟3人は仇討ちを狙ったが、李寿の守りは固く、果たせないうちに疫病により3人とも亡くなった。
李寿は「龐家の男は死に絶えもう心配いらない」と笑い、これを幼い龐淯(ほういく)が聞き、母の龐娥親に伝えると、彼女は「どうして私が刃を手にお前を殺さないと思い込むのだ」といきり立ち、名刀を入手し研ぎ澄ました。李寿はそれを聞くと気を引き締め直し馬に乗って刀を帯びた。
近所に住む徐氏(じょし)の夫人は龐娥親を心配し「李寿は凶悪な男で備えまでしています。あなたが激しい気持ちでも力の強弱では敵いません。返り討ちに遭えば家が断絶してしまいます」と忠告したが「親の仇とは天地日月を共にしません。李寿が死ななければ私はいったいなんのために生きるのでしょう。弟も死に絶えもはや家は断絶したも同然ですがまだ私がいます。あなたは李寿を殺すのは不可能とお考えだが、私は殺せて当然と思っています」と聞く耳持たなかった。家の者も近所の者も龐娥親を嘲笑った。
ついに家を捨てて車で李寿を付け狙い、179年2月上旬、白昼に李寿と出くわした。すぐさま車を降り怒鳴りつけると、仰天した李寿は馬首を返そうとしたが、龐娥親は刀で斬りつけ人馬ともに傷つけた。馬は騒いで李寿を道路脇の溝へ振り落とし、龐娥親は斬りつけたが木に当たって刀が折れた。
そこで李寿の刀を奪おうとし、飛び起きた李寿に身体ごとぶつかり、左手で額を抑え右手で喉を何度も突き、押し倒して刀を奪い首を斬った。
李寿の首級を持って役所へ報告に上がり、言葉も顔色も平素と変わらなかった。県長の尹嘉は心打たれ辞任して赦そうとしたが、龐娥親は「復讐を終えて私は死に、裁判をし刑罰を決めるのはあなたの務めです。どうして生を貪るために法を曲げましょう」と言った。
聞きつけた村人が集まり、誰もが感嘆した。守尉(警察長)は逃亡させようとしたが龐娥親は「法を曲げ死を逃れるのは私の本心ではありません。復讐を果たし1万回殺されようとも満足しています。立派な役所に負担を掛けたくありません」と大声で反対した。守尉は無理やり車に乗せ家へ帰した。
涼州刺史の周洪(しゅうこう)、酒泉太守の劉班(りゅうはん)も揃って赦免を訴え(許可され)た。
道義心を称え事績を彫った石碑を龐娥の村の門に建て、太常の張奐(ちょうかん)は絹を贈るなど、話を聞いた者は襟を正して感心し評価しない者はなかった。
後の安定太守の梁寛(りょうかん)は伝記を作り、皇甫謐は「本来は男の行う仇討ちを女のか細い身で、父の受けた恥辱の痛ましさを思い、仇の凶悪な言葉に心を奮い立たせ、人馬ともに叩きのめした。亡父の魂を満足させ、3人の弟の恨みをそそいだ。近世にかつてなかったことである。詩経に(仇討ちのことで)うたわれたのはまさに娥親のことである」と評した。

子の龐淯も母譲りの義侠心で主の仇討ちを狙い、危機を救うため命を賭した。(『龐淯伝』)



李儒  陰険軍師


個別ページへ



李淑才  許劭に推挙された6人の賢者C


李淑才(りしゅくさい)字が淑才か
豫州汝南郡の人?(??~??)

素性不明。

「汝南先賢伝」に曰く。
「村里から召し出した」とあり村人か。
許劭(きょしょう)は樊子昭(はんししょう)・虞永賢(ぐえいけん)・李淑才・郭子瑜(かくしゆ)・楊孝祖(ようこうそ)・和洽(かこう)ら6人の賢者を推挙した。6人には及ばないが、伸び悩んでいたり子供の頃に許劭に評価されて名を上げた者は数え切れないほど多かった。
見せかけの品行を暴き、虚偽の名声を抑えつけたのは周の単襄公さえ問題にならないほどだった。(『和洽伝』)



李粛  呂布の旧友


個別ページへ



李粛  呉の人材で打線組んだwww


李粛(りしゅく)字は偉恭(いきょう)
荊州南陽郡の人(??~??)

呉の臣。

若い時から才能あると評判を取った。
議論に優れ、特に人物評価は的確で、個々の人物の特徴を題目付けてランキング化し、いささかの乱れもなく筋道が通っていた。
そうして見出した非凡な人物を後押ししてやったため、誰もが彼に心服した。(『歩隲伝』)

呉末期に司空に上る孟宗(もうそう)は、若い頃に李粛に師事し「宰相たるべき器」と評された。(『孫皓伝』)

孫権に抜擢され、選曹尚書として適材適所に人材を配した。
自ら地方に出ることを望み、桂陽太守として治績を上げ、官民ともに心服させた。
都に呼び戻され卿に上ったが、急逝してしまい、彼の知人はもちろん、面識の無い者さえその死を惜しんだ。

229年頃、太子の孫登(そんとう)が歩隲(ほしつ)に人材の列挙を頼んだ時、荊州の代表的な人材として諸葛瑾(しょかつきん)、陸遜、朱然(しゅぜん)、程普(ていふ)、潘濬(はんしゅん)、そして李粛ら11名を上げた。
すでに没していた程普らが含まれており、李粛は歴代11傑に名を連ねたことになる。(『歩隲伝』)



李粛


未作成



李術  廬江で孫権に反乱


李術(りじゅつ)字は不明
豫州汝南郡の人(??~200)

孫策の臣。
名は李述(りじゅつ)とも書かれる。

199年、廬江太守の劉勲(りゅうくん)が食料調達のため遠征すると、その隙に孫策は居城の皖城を攻め落とし、上表して李術を後任の廬江太守に据えて守らせた。(『孫策伝』)

だが翌200年、孫策が急死すると、後を継いだ孫権が年若いことから侮った李術は反乱し、揚州刺史の厳象(げんしょう)を殺した。
さらに流民を広く受け入れ、孫権に返還を要求されると「人民は徳のある者を頼り、徳の無い者に背くのだ」と答え激昂させた。(『呉主伝』)

廬江ではそれに乗じ陳蘭(ちんらん)・雷緒(らいしょ)・梅乾(ばいけん)らが数万の兵を率いて挙兵し、長江流域を荒らし回った。(『劉馥伝』)

孫権は曹操へ、李術に協力しないよう要請し、曹操も後任の揚州刺史として劉馥(りゅうふく)を合肥に送り、陳蘭らを帰順させた。
同年、孫権に城を包囲されると李術は曹操に救援を求めたが黙殺され、徐琨(じょこん)・孫河(そんか)らに攻撃され、兵糧攻めの末に落城し、晒し首となった。配下3万人は強制移住させられた。(『呉主伝』・『孫権徐夫人伝』・『孫韶伝』・『劉馥伝』)



李俊  楊阜とともに馬超を撃退した同志D


李俊(りしゅん)字は不明
涼州武都郡の人(??~??)

魏の臣。

213年(※建安17年(212年)と誤記される)、馬超は張魯(ちょうろ)の援軍を得て1万の兵で冀城を陥落させた。
楊阜(ようふ)は城外にいた李俊ら同志を密かに集めると城外で挙兵し、馬超が討伐に出た隙に冀城を奪回した。
楊阜は5ヶ所の傷を受け、一族の従弟ら7人が戦死したが撃退に成功した。(『楊阜伝』)



李庶  姜合の相方?


李庶(りしょ)字は不明
涼州武都郡の人(??~??)

張魯(ちょうろ)の臣。

「献帝伝」に曰く。
220年、献帝は曹丕に帝位を譲ろうとした。
李伏(りふく)は上書し「かつて先王(曹操)が魏公になった時、(※当時張魯に仕えていた我ら)国外には詳細が伝わらず、魏王になったのだと思っていた。だが李庶や姜合(きょうごう)は「まだ魏公になっただけで、天下を平定するのは曹丕だと予言書にある」と言った。一月後に魏から亡命者が来て姜合の言った通りだと明らかになった。
姜合は関中で名の知られた予言者で、それを聞き目を覚ました張魯は私とともに魏へ降伏しようと議論したが、劉備に降伏すべきだと者もおり、張魯は「魏の奴隷となっても劉備の上客にはならない」と怒っていた。
姜合は既に没してしまい、私はこの予言を伝えたいと思っていたが、魏に仕えて日も浅く、かえって罪を招くのではと発言を控えていた。しかし帝位禅譲の話が出た今こそ伝えるべきである」と述べた。
曹丕は喜び、重臣らもこれこそ天意であると大いに同意した。(『文帝紀』)



李緒  李通の子で李秉の父


李緒(りしょ)字は不明
荊州江夏郡平春県の人(??~??)

魏の臣。
李通(りつう)の子。

父が42歳で没すると弟の李基(りき)が後を継いだ。(※李緒は庶子だったのだろうか)

219年、樊城の戦いで城に駐屯し軍功あった。

220年、曹丕は帝位につくと李通の功績を改めて採り上げ「李基が既に爵位を継いでいるが李通の勲功に報いるには足りない。また李緒は樊城の戦いで功績あり、世間もその労苦を立派だと感じている」とし、李基を奉義中郎将に、兄の李緒を平虜中郎将に昇進させた。

「王隠晋書」に曰く、子の李秉(りへい)は秦州刺史まで上った。(『李通伝』)



李升  馬相・趙祇に殺された綿竹県令


李升(りしょう)字は不明
出身地不明(??~188)

後漢の臣。

益州刺史を務める郤倹(げきけん)は、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれていた。
188年、賊徒の馬相(ばしょう)と趙祇(ちょうし)は黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。1~2日のうちに数千人が集まり、手始めに綿竹県令の李升を殺し、官民を糾合し1万人に膨れ上がった。
さらに雒県を落とし、郤倹を殺害し、1ヶ月のうちに蜀郡・広漢郡・犍為郡を制圧した。馬相は天子を僭称し、勢力は十万を超えた。(※「蜀書」には5桁、「後漢書」には十余万とある)(『劉焉伝』)



李条  東來郡の賊徒


李条(りじょう)字は不明
青州東來郡の人(??~??)

賊徒。

(200年より後)曹操は呂虔(りょけん)に青州諸郡の兵の指揮を任せ、東來郡で反乱した李条も討伐した。(『呂虔伝』)



李承  孫遵とともに嵇喜に撃破される


李承(りしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

274年9月、江夏太守の嵇喜(けいき)は侵攻してきた呉の孫遵(そんじゅん)・李承を撃退した。(『晋書 武帝紀』)



李松  孟幹とともに捕虜になるA


李松(りしょう)字は不明
出身地不明(??~271?)

晋の臣。

268年、呉の前部督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
南中監軍の霍弋(かくよく)は、益州から董元(とうげん)や毛炅(もうけい)、孟幹(もうかん)、孟通(もうつう)、李松、王業(おうぎょう)、爨能(さんのう)らと大軍を率いて迎撃し、脩則と劉俊を討ち取った。

だが271年、呉の陶璜(とうこう)によって交阯は陥落した。
毛炅は処刑され、交阯太守の楊稷(ようしょく)は護送中に病死し、孟幹、李松、爨能は捕虜として呉の都の建業へ送られた。
孫晧は殺そうとしたが、ある人が「忠臣であり、辺境の将として使うべき」と進言したため臨海郡へ移されそうになった。孟幹らは逃亡を企て、呉軍の愛好する蜀の弩を造れると言い、建業に留まった。
そして脱走すると、李松、爨能は殺され、孟幹だけが帰国できた。

孟幹は呉の内情を知らせて討伐の計略を立て、喜んだ司馬炎は彼を日南太守に任じた。
そして死亡した楊稷に官位を追贈し、毛炅、李松、爨能の子を関内侯に封じた。(『晋書 陶璜伝』)



李邵  司馬朗と袁紹に逆らいふらふらする


李邵(りしょう)字は不明
司隸河内郡野王県の人?(??~??)

後漢の臣。

冀州刺史を務めた。
野王県に住んでいたが関中で(董卓らの)兵乱が起こり、温県に移住したいと考えた。司馬朗(しばろう)は「唇亡びて歯寒しの故事は温県と野王県にも当てはまります。移住しても朝の滅亡を夕方まで避けるだけです。それにあなたは高名で人々の期待を担っている方ですから、あなたが逃げてくれば人々は動揺し、かえって悪事を招くでしょう」と反対したが、聞き入れなかった。
はたして李邵の亡命に驚いた人々は混乱し、逆に内地へ逃げ野盗となる者もいた。(『司馬朗伝』)

191年、界橋の戦いに際し、鉅鹿太守の李邵らは袁紹が敗れると考え公孫瓚(こうそんさん)方につこうとした。
袁紹はそれを聞き董昭(とうしょう)に鉅鹿郡を治めさせ、方策を尋ねた。董昭は「一人の力では多数の企みを消せません。反乱者に同調したふりで心を引きつけ、内情をつかんでから適切な処置をするだけです。今は何も言えません」と答えた。
董昭は赴任すると豪族の孫伉(そんこう)が反乱の中心人物だと突き止め、袁紹の命令と偽り「賊の斥候の張吉(ちょうきつ)を捕らえ、彼は孫伉らと同調していると吐いた。すぐに処刑せよ。妻子は連座させるな」と言い、孫伉ら首謀者数十人を殺した。郡は震え上がり、反乱は未然に防がれ袁紹は見事と称えた。(『董昭伝』)



李邵  李氏の三龍・目立つ弟


李邵(りしょう)字は永南(えいなん)
益州広漢郡郪県の人(??~225)

蜀の臣。

214年、劉備が益州を制圧すると州の書佐部従事に任じられた。
223年、諸葛亮に招かれ西曹掾となった。(『楊戯伝』)

廖立(りょうりつ)は地位に不満を抱き、丞相掾の李邵と蔣琬(しょうえん)に意見を述べ、劉備や関羽すらこき下ろした。
李邵・蔣琬はすぐに諸葛亮に伝え、廖立は免職のうえ庶民に落とされた。(『廖立伝』)

224年、諸葛亮は杜微(とび)を招聘した。耳の聴こえない彼のため諸葛亮は手紙を送り、その中で「李邵兄弟らもあなたの高邁な志に感嘆しています」と記した。(『杜微伝』)

225年、諸葛亮は南征に際し治中従事に任じ留守を命じたが、同年に没した。(『楊戯伝』)

228年、姜維が魏から降伏すると、諸葛亮は張裔(ちょうえい)と蔣琬へ「李邵や馬良(ばりょう)も及ばない逸材だ。主上(劉禅)へお目通りさせてもらいたい」と頼んだ。(『姜維伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「思慮深く心映えの良い、蜀の誉れとなる人々である」と評した。

兄の李朝(りちょう)と夭折した兄弟(※名は不詳)も名声高く、人々は「李氏の三龍」と称えた。
もうひとり李邈(りばく)という兄もいるが、彼は諸葛亮の死を喜ぶ上表をして、父をこき下ろした廖立さえ許した劉禅をブチギレさせ、即刻処刑された人物で、裴松之は「李邈の度外れな率直さは三龍に入れられない」と皮肉っている。(『楊戯伝』)



李昭  曹髦の挙兵に従った配下A


李昭(りしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏氏春秋」に曰く。
260年、曹髦は司馬昭を討つため挙兵し、宂従僕射の李昭と黄門従官の焦伯(しょうはく)を引き連れ出撃した。(『高貴郷公紀』)

曹髦は殺害されるが李昭・焦伯の消息は不明である。



李昭儀  屈辱に甘んじず自害する


李昭儀(りしょうぎ)名・字は不明
出身地不明(??~263)

劉禅の側室。
昭儀は官位で名は不明。

263年、蜀は魏に降伏した。
「漢晋春秋」に曰く。
魏は蜀の宮女を独身の諸将らに与えた。李昭儀は「屈辱を二重三重に受けることに耐えられない」と自害した。(『張皇后伝』)



李相如  反乱し耿鄙を殺す


李相如(りしょうじょ)字が相如か
出身地不明(??~??)

後漢の臣、後に賊徒。

涼州刺史の耿鄙(こうひ)に信頼された程球(ていきゅう)が私腹を肥やし人々に恨まれていた。
187年、耿鄙が韓遂(かんすい)・王国(おうこく)の反乱鎮圧に向かうと、傅燮(ふしょう)は「あなたは着任して日が浅く、配下はまだ指揮を理解していません。先に地盤を固めるべきです」と諫言したが、耿鄙は却下して出陣し、間もなく反乱により程球とともに殺された。
韓遂らは反撃し傅燮の守る漢陽郡を包囲し、降伏を拒否した傅燮も戦死した。(『後漢書 傅燮伝』)

隴西太守の李相如は反乱して韓遂に合流し、ともに耿鄙を殺した。(『後漢書 董卓伝』)



李将軍


未作成



李勝  金魚を真似たどじょう


個別ページへ



李驤  李福の子


李驤(りじょう)字は叔龍(しゅくりゅう)
益州梓潼郡涪県の人(??~??)

蜀の臣。
李福(りふく)の子。

「益部耆旧雑記」に曰く。
父と同じく有名で、尚書郎・広漢太守まで上った。(『楊戯伝』)

  り1  り2  り3  り4  り5
り6  り7  り8    ろ~わ