韋昭 呉書の著者
韋昭(いしょう)字は弘嗣(こうし)
揚州丹陽郡雲陽県の人(??~273)
呉の臣。
韋曜(いよう)の別名も持つ。
司馬昭の名を避けて韋曜と書かれた、とされるが、「正史」に昭の名を持つ人物は数多く、誤解だろう。
若い頃から学問を好み、立派な文章をものした。
丞相掾から西安県令となり、中央に戻ると尚書郎・太子中庶子に上った。
太子の孫和(そんか)は、彼の嫌う博奕(双六)を批判する文書を韋昭に書かせた。
250年、二宮の変により孫和は太子から廃され、韋昭は黄門侍郎に転じた。
孫亮の代に諸葛恪(しょかつかく)が実権を握ると、推薦され太史令となり、華覈(かかく)・薛瑩(せつえい)らと「呉書」の編纂を始めた。
258年、孫休が即位すると中書郎・博士祭酒に任じられ、書物の校定にあたった。学問を愛する孫休に侍講に招聘されかけたが、実直な彼に悪事を糾弾されては敵わないと張布(ちょうふ)が猛反対したため果たされなかった。
264年に即位した孫晧に高陵亭侯に封じられ、中書僕射・侍中・左国史に任じられたが、孫晧が好んで集めた吉祥を、生真面目な韋昭は「単なるでっち上げ」と切り捨てたり、「呉書」に孫晧の父(孫和)の本紀(皇帝としての伝)を立てるよう命じられるも、太子なのだから伝を立てるべきと主張し恨まれた。
危険を察知した韋昭は仮病で官を辞そうとしたが、孫晧は医者と薬を贈り、それを許可しなかった。
孫晧は群臣に酒を7升(1.5リットル)飲ませ、他人の陰口を叩かせ、失言したり孫晧を名で呼んだ者がいれば処刑させた。韋昭は酒の量を減らしてもらっていたが、寵愛が薄れると7升飲まされ、いつも飲みきれず処罰された。陰口も叩かず経書の議論をするだけだったが、孫晧はこれを忠誠が無い証拠だとして273年、ついに投獄した。
韋昭は今後は書物の注釈にあたりたいと草稿を提出したが、孫晧は紙が汚いと難詰した。ともに「呉書」を編纂した華覈は必死に助命嘆願したが実らず、処刑された。
享年は不明だが華覈の嘆願文に70歳以上と記されている。
子の韋隆(いりゅう)も文化的な才能があった。(『韋曜伝』)
「呉書」の編纂は華覈が受け継ぐも彼も数年後に失脚し、薛瑩らが受け継いだと思われる。(『華覈伝』)
後世の虞喜(ぐき)は「志林」で「韋昭は孫邵(そんしょう)を失脚させようとした張温(ちょうおん)の支持者だったから、(孫邵が初代丞相にも関わらず)立伝しなかった」と記した。(『呉主伝』)
陳寿は薛瑩の「韋昭は学問に厚くいにしえを好み、あまねく種々の書物を読み、立派な文章を著す才能を持っていた」という評を引き称賛している。
また陳寿は「正史」の執筆に際して「呉書」を大いに参考にした。それどころかほとんど丸写しの部分もあり、「正史」に孫邵ら重要人物の列伝が無いこと、伝によってはぶつ切りに終わっていることは、韋昭らの死によって「呉書」が完成しなかった影響だと考えられている。
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