三国志 い


伊夷模  高句麗王


伊夷模(いいも)
高句麗の人(??~??)

高句麗王の伯固(はくこ)の子。

父が没すると、兄の抜奇(ばつき)は愚鈍だったため国人たちは共議し伊夷模を王位に据えた。
父の路線を受け継ぎしばしば遼東に侵攻し、公孫康(こうそんこう)らと争った。
王位を継げなかった抜奇は弟を憎み、公孫康に降伏し連携して伊夷模と戦った。劣勢の伊夷模は遷都を余儀なくされた。

伊夷模が没した時、嫡子がなかったため庶子の位宮(いきゅう)が後を継いだが、記述が乏しく伊夷模と位宮を同一人物とする説もある。(『高句麗伝』)



伊健妓妾  胡族三巨頭?


伊健妓妾(いけんぎしょう)
涼州盧水の人(??~??)

胡族。

221年、涼州で伊健妓妾・治元多(ちげんた)・封賞(ほうしょう)が魏に反乱した。
「文帝紀」には伊健妓妾ではなく盧水(ろすい)という名が見えるが、「張既伝」に伊健妓妾は涼州盧水の人と記され、同一人物と思われる。(『文帝紀』・『張既伝』)

反乱を聞いた曹丕は張既(ちょうき)でなければ対処できないと考え、涼州刺史に交代させた。
張既は後詰めを待たずに強行軍で進撃し、その速さに胡族は神業と驚き後退した。
さらに張既は歩を緩めず兵を進め、胡族をおびき寄せると伏兵で叩き、大勝利を挙げた。

伊健妓妾らの消息は不明である。(『張既伝』)



伊声耆  倭の使者たち


伊声耆(いせいぎ)
倭の人(??~??)

倭人。

223年、伊声耆、掖邪狗(ややこ)ら8人は魏に朝貢し官位を賜った。
卑弥呼の死後に掖邪狗ら20人が再び朝貢したが、すでに没していたのか、単に略されたのか、その際に伊声耆の名は見えない。(『倭伝』)



伊籍  馬鑑定だけじゃない


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夷廖  張津の残党A


夷廖(いりょう)字は不明
出身地不明(??~??)

交州刺史の張津(ちょうしん)の配下。

張津が荊州刺史の劉表(りゅうひょう)と争い、配下に寝首をかかれた後も夷廖と銭博(せんはく)は勢力を保っていたが、交州刺史に着任した歩騭(ほしつ)によって駆逐された。(『薛綜伝』)

「薛綜伝」には簡潔にそう記されているが、「呂岱伝」では銭博は呉に降伏したとされ、やや矛盾している。(『呂岱伝』)



位居  夫余の重鎮


位居(いきょ)
夫余の人(??~??)

夫余の大使(重臣)。
夫余の単于(王)麻余(まよ)の甥(兄の子)。

麻余が単于になると、位居は高位につき、富を惜しまず人に施したため国人たちに慕われた。
魏の都にも朝貢の使者を毎年送ってよしみを通じ、正始年間(240~249)に毌丘倹(かんきゅうけん)が高句麗を討伐すると、兵糧を供出した。
末の叔父が魏への反乱を企てたが、位居はそれを察知すると叔父とその子を殺し、没収した財産を帳簿に記し、魏へ贈らせた。(『夫余伝』)



位宮  花嫁は豚とり名人


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壱与  卑弥呼の後継者


壱与(いよ)
倭の人(??~??)

倭の女王。

卑弥呼が没すると男性の王が立ったが、人々は従わず、国中で大乱が起こった。
そこで卑弥呼の親族の娘である壱与が13歳にして女王に立てられると、ようやく国情は落ち着いた。

新王が即位したと聞き、魏からは張政(ちょうせい)が遣わされ、指導を与えた。
壱与は重臣の掖邪狗(ややこ)に命じ張政を国許まで送り届けさせ、さらに魏の都へと朝貢させた。(『倭伝』)

三国志の記述はここまでだが「晋書」にも倭人が朝貢したことが記され、これも壱与のことと思われる。(『晋書 武帝紀』)
だがこれを最後に日本国王の消息は途絶え、次に記録に現れるのは413年のことである。



依慮  夫余の王たち


依慮(いりょ)
夫余の人(??~??)

夫余の単于(王)。

尉仇台(いきゅうだい)が没すると簡位居(かんいきょ)が後を継ぎ単于となった。
尉仇台との関係は記されていないが、息子ならば公孫度(こうそんど)が一族の娘を尉仇台に嫁がせたとも記されており、簡位居の母の可能性がある。

簡位居が没すると嫡子が無かったため、重臣たちは協議し庶子の麻余(まよ)に後を継がせた。
麻余の甥(兄の子)の位居(いきょ)が信望を集め、魏へよしみを通じるなど大いに貢献した。

麻余も没すると6歳の子の依慮が後を継いだ。(『夫余伝』)

ただし尉仇台~依慮の即位まで記述に混乱が見られると、ちくま版の訳者(今鷹真・小南一郎)は指摘している。



韋休甫  三休のあと二人


韋休甫(いきゅうほ)字が休甫か
司隷京兆郡の人(??~??)

後漢の臣?

後漢の兗州刺史に上った金尚(きんしょう)の字は元休(げんきゅう)と言い、同郷の韋休甫、第五文休(だいごぶんきゅう)と合わせ「三休」と並び称された。
しかしこの逸話以外に韋休甫と第五文休の消息は不明である。(『呂布伝』)

なお一度見たら忘れられない名前の第五文休だが、第五はれっきとした姓であり、先祖が俸禄を受けた順番をそのまま姓にしたそうで、他に第二と第八も確認されているらしい。



韋晃  処刑か自害か


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韋康  馬超に屈する


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韋昭  呉書の著者


韋昭(いしょう)字は弘嗣(こうし)
揚州丹陽郡雲陽県の人(??~273)

呉の臣。
韋曜(いよう)の別名も持つ。
司馬昭の名を避けて韋曜と書かれた、とされるが、「正史」に昭の名を持つ人物は数多く、誤解だろう。

若い頃から学問を好み、立派な文章をものした。
丞相掾から西安県令となり、中央に戻ると尚書郎・太子中庶子に上った。
太子の孫和(そんか)は、彼の嫌う博奕(双六)を批判する文書を韋昭に書かせた。
250年、二宮の変により孫和は太子から廃され、韋昭は黄門侍郎に転じた。

孫亮の代に諸葛恪(しょかつかく)が実権を握ると、推薦され太史令となり、華覈(かかく)・薛瑩(せつえい)らと「呉書」の編纂を始めた。

258年、孫休が即位すると中書郎・博士祭酒に任じられ、書物の校定にあたった。学問を愛する孫休に侍講に招聘されかけたが、実直な彼に悪事を糾弾されては敵わないと張布(ちょうふ)が猛反対したため果たされなかった。

264年に即位した孫晧に高陵亭侯に封じられ、中書僕射・侍中・左国史に任じられたが、孫晧が好んで集めた吉祥を、生真面目な韋昭は「単なるでっち上げ」と切り捨てたり、「呉書」に孫晧の父(孫和)の本紀(皇帝としての伝)を立てるよう命じられるも、太子なのだから伝を立てるべきと主張し恨まれた。
危険を察知した韋昭は仮病で官を辞そうとしたが、孫晧は医者と薬を贈り、それを許可しなかった。
孫晧は群臣に酒を7升(1.5リットル)飲ませ、他人の陰口を叩かせ、失言したり孫晧を名で呼んだ者がいれば処刑させた。韋昭は酒の量を減らしてもらっていたが、寵愛が薄れると7升飲まされ、いつも飲みきれず処罰された。陰口も叩かず経書の議論をするだけだったが、孫晧はこれを忠誠が無い証拠だとして273年、ついに投獄した。

韋昭は今後は書物の注釈にあたりたいと草稿を提出したが、孫晧は紙が汚いと難詰した。ともに「呉書」を編纂した華覈は必死に助命嘆願したが実らず、処刑された。
享年は不明だが華覈の嘆願文に70歳以上と記されている。

子の韋隆(いりゅう)も文化的な才能があった。(『韋曜伝』)

「呉書」の編纂は華覈が受け継ぐも彼も数年後に失脚し、薛瑩らが受け継いだと思われる。(『華覈伝』)

後世の虞喜(ぐき)は「志林」で「韋昭は孫邵(そんしょう)を失脚させようとした張温(ちょうおん)の支持者だったから、(孫邵が初代丞相にも関わらず)立伝しなかった」と記した。(『呉主伝』)

陳寿は薛瑩の「韋昭は学問に厚くいにしえを好み、あまねく種々の書物を読み、立派な文章を著す才能を持っていた」という評を引き称賛している。

また陳寿は「正史」の執筆に際して「呉書」を大いに参考にした。それどころかほとんど丸写しの部分もあり、「正史」に孫邵ら重要人物の列伝が無いこと、伝によってはぶつ切りに終わっていることは、韋昭らの死によって「呉書」が完成しなかった影響だと考えられている。



韋端  韋康・韋誕を生んだドブガイ


韋端(いたん)字は不明
司隷京兆尹杜陵県の人(??~??)

後漢の臣。

涼州牧を務めた。
子の韋康(いこう)、韋誕(いたん)はともに名高く、孔融(こうゆう)は「ドブガイが生んだ2つの真珠」と皮肉交じりに讃えた。(『荀彧伝』)

196年、関中で馬騰(ばとう)と韓遂(かんすい)が激しく争っていたため、曹操は司隷校尉の鍾繇(しょうよう)と涼州牧の韋端を派遣し、彼等を和解させた。(『馬超伝』)

曹操と袁紹が対立した頃、楊阜(ようふ)は韋端の使者として許都へ赴き、安定郡の長史に任じられた。帰還した楊阜は戦の趨勢を問われると、曹操が勝つと見立てた。
後に長史が肌に合わず楊阜は官を辞した。(『楊阜伝』)

韋端が太僕として都に召されると、世襲制ではないにも関わらず、子の韋康が涼州牧を継ぎ、人々に名誉であるともてはやされた。
だが212年、韋康は反乱した馬超により殺された。(『荀彧伝』)

韋康に召し出されて復帰していた楊阜は、密かに策謀を凝らして馬超を撃破し追放した。(『楊阜伝』)



韋誕  魏が誇る能書家


韋誕(いたん)字は仲将(ちゅうしょう)
司隷京兆尹杜陵県の人(??~??)

魏の臣。
韋端(いたん)の次男。
馬超に殺された涼州刺史の韋康(いこう)は兄にあたる。
「劉劭伝」に附伝される。

文才に優れた。
当時、書家として邯鄲淳(かんたんじゅん)・衛覬(えいき)と並んで名声が高かった。
衛覬の孫の衛恒(えいこう)が記した「四体書勢」によると、邯鄲淳を師としたが及ばなかった。
草書の名手の張芝(ちょうし)にも学び、彼を「草聖」と呼んだ。だが弟子はいずれも弟の張昶(ちょうちょう)にすら及ばなかった。(『韋誕伝』)

また印相を陳羣(ちんぐん)に学び、弟子の楊利(ようり)は特に名手として知られ、吉凶を占えば十中八九は的中した。(『夏侯玄伝』)

若い頃から声望高く、孔融(こうゆう)には「誠実で人情と真心があり、一門の主の風格がある」と評され、兄とともに「ドブガイが生んだ2つの真珠」と皮肉交じりに讃えられた。(『荀彧伝』)

建安年間(196~220)に郡の上計吏となったのを皮切りに、郎中から侍中・中書監となり、光禄勲まで上った。

太和年間(227~233)に武都太守に任じられたが、書家の腕を買われて赴任せず侍中として都に留まった。
魏王朝の所有する宝物の銘文は全て彼が記したという。(『韋誕伝』)

魚豢(ぎょかん)は王粲(おうさん)らが才能に比してあまり出世しなかったことを疑問に思い、大鴻臚の韋誕に質問した。韋誕は彼らの欠点を一言で表すとともに「出世しなかった理由はあるが、君子は一人の身に完全さを要求しない。朱の漆のようなもので、どっしりとしてはいないが、その光沢はやはり見事だ」と評した。(『王粲伝』)

250年、隠者で同じく書家として韋誕と並び称された胡昭(こしょう)の招聘が建議された。まず人物評価に掛けられようとしたが、韋誕が「疑う理由はない。特例で招聘すべきだ」と意見したため、特例で召し出そうとしたが、ちょうど亡くなった。(『管寧伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に侍中・中書監・安陽亭侯として連名した。(『斉王紀』)

光禄勲で退官し75歳で没した。(『韋誕伝』)

生没年は(179~251)や(181~253)とwiki等に記されるが、75歳で没したという正史の記述と矛盾し、上記の通り254年には存命で全く意味がわからない。

また「四体書勢」には地上60メートルのゴンドラに乗せられて扁額を書かされ、恐怖のあまり髪も髭も真っ白になり、子孫には書道を学ばせないよう遺言したという眉唾ものの逸話が描かれている。



尉仇台


未作成



育延  逆ギレして梁習に殺される


育延(いくえん)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の豪族。

「魏略」に曰く。
并州で恐れはばかられていた。
ある時、配下5千騎を引き連れ刺史の梁習(りょうしゅう)に交易を求めた。聞き入れなければ恨まれ、許可すれば城下に入られ略奪の心配があり、悩んだ末に承諾し空城で会合した。
すると交渉中に市場管理の役人が育延の配下の一人を捕らえた。鮮卑の騎兵はいきり立ち、馬に乗って弓を構え梁習らを何重にも包囲した。梁習は動揺せず逮捕した理由を聞くと、殺人の罪に問われていた。梁習は通訳を呼び事情を説明すると、「自分から法を犯し、役人は危害を与えたわけではないのに、なぜ騎兵で脅すのだ」と咎め育延を殺した。その配下は肝を潰して抵抗せず、鮮卑は以後おとなしくなった。(『梁習伝』)



乙修  夏侯儒に救援された樊城の守将


乙修(いつしゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
241年、朱然が樊城を包囲し、守将の乙修は窮地に陥った。
夏侯儒(かこうじゅ)は救援に赴いたが兵が少なかったため戦いを挑まず、距離をおいて太鼓や笛を鳴らし牽制した。1月余りし司馬懿が到着するとともに進撃し朱然を撃退したが、夏侯儒は臆病だとも策士だとも言われ賛否両論となり、結局前線から召還され太僕となった。(『張既伝』)



壱多雑


未作成



尹異


未作成



尹嘉  龐娥を赦免した県長


尹嘉(いんか)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

李寿(りじゅ)は同県の趙安(ちょうあん)を殺した。3人の息子も亡くなり李寿は報復を逃れたと安堵したが、娘の龐娥(ほうが)は帳のある車に乗り袖に剣を隠し、白昼に李寿を刺殺した。そしてゆっくりと役所に赴き、顔色も変えず「父の仇討ちをしましたので死刑を受けたいと思います」と報告した。
県長の尹嘉(いんか)は感嘆し印綬の紐を解き辞任の意を示すと、罪に問わず無理やり龐娥を車に乗せ家へ帰した。ちょうど恩赦があり罪を免れた。
州郡も感嘆し龐娥の事績を石に刻み村の門に建てた。(『龐淯伝』)



尹楷  曹操に敗れた毛城城主


尹楷(いんかい)字は不明
出身地不明(??~??)

袁尚(えんしょう)の臣。

204年、袁尚は袁譚(えんたん)の攻撃に向かい、その隙に曹操は袁尚の本拠地の鄴を攻めた。
尹楷が毛城に駐屯し上党郡からの糧道を確保していたため、曹洪(そうこう)を鄴の包囲に残し、曹操は自ら攻撃し尹楷を打ち破った。(『武帝紀』)

毛城攻撃には徐晃も別働隊を率いて加わり、伏兵で3つの屯営を打ち破った。(『徐晃伝』)

「演義」では武安県長。毛城を守り、許褚に討たれた。

SLG「三國志Ⅲ」では武官なのに陸戦指揮が42しかなくクソ弱い。曹操・徐晃・許褚に負けたのにあんまりな評価である。



尹虞  尹虞の娘らの父


尹虞(いんぐ)字は不明
荊州長沙郡の人(??~??)

晋の臣。

陸機(りくき)・陸雲(りくうん)兄弟は、以前に父の陸抗(りくこう)を吾彦(ごげん)に「従兄弟の陸喜(りくき)に及ばない」と評されたのを恨み、「吾彦は極めて貧しい身分の出で交際する必要はない」と非難した。
長沙郡の孝廉の尹虞が「何楨(かてい)・侯史光(こうしこう)・唐彬(とうひん)・張義允(ちょうぎいん)も低い身分から身を起こした」とたしなめ、兄弟は非難をやめた。(『晋書 吾彦伝』)

杜弢(ととう)が蜂起すると始興太守の尹虞は討伐に向かったが敗退し、二人の娘を捕虜にされた。
娘らは国でも有数の美貌だったため杜弢はめとろうとしたが、姉妹は「太守の娘が賊の妻になることはありません。死あるのみです」と拒絶したため殺された。(『晋書 尹虞二女伝』)



尹胡  宗廟郊祀の曲も歌える歌師


尹胡(いんこ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢・魏の臣。

曹操は音楽家の杜夔(とき)を軍謀祭酒に任じ、太楽(宮廷音楽)を新たに制定させた。
杜夔は並外れた音感と聴覚を持ち、弦楽器や管楽器ら8種の楽器を全て演奏できたが、歌と舞は得手ではなかった。
そこで雅楽の名手の鄧静(とうせい)・尹斉(いんせい)、歌師で宗廟郊祀の曲も歌える尹胡と、舞師の馮粛(ふうしゅく)・服養(ふくよう)らを集めて古代からの音楽を考究し、古くは四書五経から、近代の様々な事例を参考に、芸能者を養成し、楽器を作り揃えた。古来からの音楽を復興し、後世に引き継がせたのは全て杜夔の尽力によるものである。(『杜夔伝』)



尹昌  劉類に罵倒された御長寿


尹昌(いんしょう)字は不明
司隸弘農郡の人(??~??)

魏の民。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗(げいぎ)、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かったが、人間関係の処理に長けたため失脚しなかった。
嘉平年間(249~254)、弘農太守に赴任すると下役200余人に休暇も与えずもっぱら急ぎでもない仕事をさせた。過失があれば重さに関わらず髪を引き抜き杖でめった打ちし、投獄したり引きずり出したりを3~4度繰り返した。
銭を探すためあちこち掘らせたため市場は穴だらけだった。
表では簡素化を口にし、巡視に出ると無理に挨拶に来ないよう命じておきながら、来ない者を記憶して陥れた。
他人を信頼せず、上役を外に出すと下役に尾行させて監視し、それも信用できず小使いや奴婢に下役も監視させた。
ある時、巡察に出て民家で宿を取った。たまたま犬と豚が騒ぎ出すと配下が勝手に殺して食べようとしていると思い込み、五官掾の孫弼(そんひつ)を連れてこさせ土下座させた。事情を聞くと詳しく調べなかったことに引け目を感じたが、他のことにかこつけて責め続けた。
100歳近い民の尹昌は巡察を知ると子に抱えられながら挨拶に赴いたが、劉類は「こんな死人をわざわざ私に会わせるのか」と子を叱りつけた。彼の無礼さは全てこのようだった。
刺史や太守に降級・免職・死刑を口にしてはいけない「三不肯」という古い慣習があったが、郡民は苦しみ「劉府君(知事)には三不肯がある」と門に書きつけた。劉類は態度を改めなかった。
その後、司馬昭が外征のため弘農郡を通った時に郡の人々が「もうろくし郡を治める力がない」と訴え、都に召され五官中郎将となった。(『梁習伝』)



尹賞  姜維の友人A


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尹世


未作成



尹斉  雅楽の名手の散郎B


尹斉(いんせい)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢・魏の臣。

曹操は音楽家の杜夔(とき)を軍謀祭酒に任じ、太楽(宮廷音楽)を新たに制定させた。
杜夔は並外れた音感と聴覚を持ち、弦楽器や管楽器ら8種の楽器を全て演奏できたが、歌と舞は得手ではなかった。
そこで散郎(特に任務のない役職)で雅楽を詠ずるのに長じた鄧静(とうせい)・尹斉や歌師の尹胡(いんこ)と、舞師の馮粛(ふうしゅく)・服養(ふくよう)らを集めて古代からの音楽を考究し、古くは四書五経から、近代の様々な事例を参考に、芸能者を養成し、楽器を作り揃えた。古来からの音楽を復興し、後世に引き継がせたのは全て杜夔の尽力によるものである。(『杜夔伝』)



尹宗


未作成



尹大目  文欽に助言が伝わらず


尹大目(いんだいもく)字が大目
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
249年、専権を振るう曹爽(そうそう)一派を粛清するため挙兵した司馬懿は、彼らを油断させるため曹爽が信任する殿中校尉の尹大目を通じ、誓って処刑せず罷免だけに留めると伝えさせた。曹爽らは安心し降伏した。(『曹真伝』)

「魏末伝」に曰く。
幼い頃に曹氏の奴僕となり、やがて帝の側近となった。
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が反乱すると、司馬師に「文欽は惑わされただけで、しかも陛下と同郷です。私は彼に信用されているから説得します」と言い、許可された。
文欽に会った尹大目は曹氏に忠誠で、内心では司馬氏の台頭を快く思っていなかったため、司馬師が眼病を患い長くないことを伝えようと「数日間のご辛抱ができませんか」と言った。
だが文欽は全く気づかず「お前は先帝の家人ではないか。御恩に報いず司馬師とともに反逆するのか。天もお前を助けない」と怒り、矢をつがえて射ようとした。尹大目は泣きながら「失敗するでしょうが精一杯努力してください」と言った。(『毌丘倹伝』)

黒山賊に目が大きいことから李大目(りだいもく)と名乗った人物がおり、尹大目も奴僕の出なら同じ理由で字を付けられたのかもしれない。

「演義」でも逸話が2つとも描かれる。司馬懿に騙されて曹爽を懐柔したことを悔やみ、仇討ちを狙い文欽を助けようとした。



尹夫人  何晏の母


尹夫人(いんふじん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の側室。
何晏(かあん)の母。(『曹真伝』)

曹操との間には曹矩(そうく)をもうけたが早逝した。(『范陽閔王矩伝』)

ちなみに何晏は曹操の娘の金郷公主(きんきょうこうしゅ)と義兄妹で結婚している。(『曹真伝』)



尹模  何曾に弾劾された校事


尹模(いんぼ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

何曾(かそう)は嘉平年間(249~254)の中頃に司隷校尉となった。
撫軍校事の尹模が曹芳の寵愛を笠に着てほしいままにしていたが、これを弾劾し称賛された。(『晋書 何曾伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に大長秋として連名した。(『斉王紀』)

程暁(ていぎょう)は嘉平年間(249~254)に黄門侍郎となった。当時、校事(監察官)が我が物顔に振る舞っていたため廃止させ、その上奏の中で「尹模は公然と邪悪さを発揮した」と述べている。(『程昱伝』)



尹奉  馬超を撃退し敦煌太守へ


尹奉(いんほう)字は次曾(じそう)
涼州漢陽郡の人(??~??)

魏の臣。

若い頃は同郡の楊阜(ようふ)、趙昂(ちょうこう)とともに名を上げ、3人とも涼州の従事となった。

212年、馬超は冀城を攻め、降伏した涼州刺史の韋康(いこう)を約束を違えて殺し、制圧した。
楊阜は復讐の機会をうかがい、城外にいた姜叙(きょうじょ)・趙昂・尹奉・趙衢(ちょうく)・梁寛(りょうかん)・王異らと密議を凝らした。
そして楊阜・姜叙が鹵城で挙兵すると馬超は討伐に向かい、その隙に趙衢・梁寛が冀城を奪回し、趙昂・尹奉・王異は祁山に籠城した。
馬超は敗走し漢中へ逃げて行った。(『楊阜伝』)

「武帝紀」には趙衢・尹奉が馬超を撃破したとある。(『武帝紀』)

同じく「夏侯淵伝」にも趙衢・尹奉が馬超を騙して出撃させ、その隙に冀城を制圧したとある。(『夏侯淵伝』)

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。(『倉慈伝』)

太守の馬艾(ばがい)の死後、丞(副官)すらいなくなり、功曹の張恭(ちょうきょう)が長史代行として統治していた。
張恭は子の張就(ちょうしゅう)を曹操のもとへ派遣し新太守の任命を要請した。
豪族の黄華(こうか)が酒泉郡を、張進(ちょうしん)が張掖郡を占拠しており、帰途の張就を捕らえると、父に敦煌郡を明け渡すよう脅した。
張就はひるまず、密かに父へ手紙を送り、魏の大軍が迫っていることを教え、自分の命など顧みないよう訴えた。
張恭は酒泉郡を攻撃し、赴任してきた新太守の尹奉の軍を出迎えた。
張進は降伏し、張就も無事で、尹奉も着任できた。

221年、曹丕は張恭を称揚し関内侯に封じた。(『閻温伝』)

だが尹奉も旧習に従うだけで、敦煌郡にのさばる豪族には手出しできなかった。
その後、倉慈(そうじ)が太守に赴任すると、道理に沿って強きをくじき弱きを助け復興を遂げた。(『倉慈伝』)

「演義」でも楊阜らとともに馬超を撃破した。



尹黙  蜀の大学者


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尹礼  臧覇の配下から東莞太守へ


尹礼(いんれい)字は不明
出身地不明(??~222?)

魏の臣。
別名は盧児(ろじ)。

黄巾の乱が起こると臧覇(ぞうは)は孫観(そんかん)とともに挙兵し、徐州刺史の陶謙(とうけん)に従い、騎都尉に任命された。
尹礼は孫観・呉敦(ごとん)・昌豨(しょうき)らとともに臧覇を首領に仰ぎ、開陽に駐屯した。(『臧覇伝』・『武帝紀』)

198年、曹操が呂布を攻めると救援したが、呂布が討たれたため逃亡し、臧覇は捕らえられた。だが曹操は彼を気に入り、臧覇を通じて孫観兄弟・呉敦・尹礼が招聘され、尹礼は東莞太守に任じられた。

以降は徐州・青州の統治を任された臧覇のもとで反乱鎮圧に尽力したと思われる。(『臧覇伝』)

222年、魏は臧覇(ぞうは)らに洞口を攻めさせたが、呉の全琮(ぜんそう)が迎撃し、尹盧(いんろ)を討ち取った。(『呉主伝』・『全琮伝』)

主将・姓・別名が一致し、尹盧は尹礼の可能性が高い。

「演義」では臧覇配下の泰山の山賊として登場。呉敦とともに許褚と戦い惨敗した。曹操に降伏後は出番がない。



尹盧  尹礼と同一人物?


尹盧(いんろ)字は不明
出身地不明(??~222)

魏の臣。

222年、魏は臧覇(ぞうは)らに洞口を攻めさせたが、呉の全琮(ぜんそう)が迎撃し、尹盧を討ち取った。(『呉主伝』・『全琮伝』)

臧覇の配下だった尹礼(いんれい)と主将・姓・別名(盧児)が一致し、尹盧は尹礼と同一人物の可能性が高い。



殷観  孫権との共同作戦に反対


殷観(いんかん)字は孔休(こうきゅう)
荊州の人(??~??)

蜀の臣。

209年、孫権は妹の孫夫人(孫尚香)を劉備にめあわせ友好を結ぶと、ともに益州を制圧しようと持ちかけた。
群臣は(劉備支配下の)荊州を越えて孫権が益州を支配することは不可能であり、好都合だと賛成した。
だが荊州主簿の殷観は「益州を制圧できなければ孫権と挟み撃ちにされます。今は賛成だけしておいて、荊州南方を制圧したばかりだから動けないと答えましょう。孫権は我が領土を越えて益州に攻め込みはしません。これで益州や孫権よりも利益を得られます」と言った。
劉備も同意し、はたして孫権は計画を取りやめた。
殷観は別駕従事に昇進した。(『先主伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「才能を持つ」と評した。(『楊戯伝』)



殷基  殷礼の「通語」を著した子


殷基(いんき)字は不明
揚州呉郡雲陽県の人(??~??)

呉の臣。
殷礼(いんれい)の子。

才能と学識で知られ、「通語」数十編を著した。その中に父の伝記もあり、裴松之に引用されている。

無難督まで上った。

3人の子があり、殷巨(いんきょ)は偏将軍として夏口を守り、呉の滅亡後は晋に仕え、蒼梧太守に上った。
末子の殷祐(いんゆう)も呉郡太守に上った。(『顧邵伝』)



殷巨  殷基の子の蒼梧太守


殷巨(いんきょ)字は元大(げんたい)
揚州呉郡雲陽県の人(??~??)

呉→晋の臣。
殷基(いんき)の子。殷礼(いんれい)の孫。

有能で呉の偏将軍に任じられると、子や郎党を引き連れて夏口に城を築いて守った。
呉の滅亡後は晋に仕え、蒼梧太守に上った。
末弟の殷祐(いんゆう)も呉郡太守に上った。(『顧邵伝』)



殷興  郭馬の乱に加担し広州刺史を僭称


殷興(いんこう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

279年、合浦太守の脩允(しゅういん)は桂林太守に転任となったが、病気のため広州に留まり、先に私兵隊長の郭馬(かくば)に500の兵を預けて桂林郡へ行かせ、異民族の慰撫に当たらせた。
ところが脩允はそのまま没し、兵は分割され各地へ転属させられることになった。郭馬らは父祖の代から同じ軍団に属しており、分かれることを望まなかった。
折しも孫晧は課税のため広州の戸籍を正確に調べようとしており、民衆は不安を抱いていた。郭馬は軍団の将の何典(かてん)、王族(おうぞく)、呉述(ごじゅつ)、殷興らと共謀し、兵や民衆を扇動して蜂起した。

広州督の虞授(ぐじゅ)を殺し、郭馬が都督交広二州諸軍事・安南将軍を、殷興が広州刺史を名乗るなど官位を僭称し、反乱軍は何典が蒼梧郡へ、王族が始興郡へ侵攻した。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始し、内外から攻められた呉は翌年に滅亡した。
その影響か郭馬の反乱の顛末は不明である。(『孫晧伝』)



殷純


未作成



殷署  北方からの援軍


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殷登  単颺の予言を言い伝える


殷登(いんとう)字は不明
冀州魏郡内黄県の人(??~??)

後漢の臣?

176年、豫州沛国譙県に黄龍が現れた。
単颺(ぜんよう)は橋玄(きょうげん)に何の前兆か尋ねられ「沛国に王者が現れます。黄龍も50年以内に再び現れるでしょう。天の所業には常に兆候があります」と答えた。
居合わせた殷登はこれを記憶し、44年後の220年に再び黄龍が現れると「単颺の言葉が証明された」と言った。

「王沈の魏書」に曰く、曹丕は「殷登は篤実な老人で、古人のように占術を胸に刻み天道を記憶していた」と喜び穀物300石を与えた。(『文帝紀』)



殷模


未作成



殷祐  殷基の子の呉郡太守


殷祐(いんゆう)字は慶元(けいげん)
揚州呉郡雲陽県の人(??~??)

呉→晋の臣。
殷基(いんき)の子。殷礼(いんれい)の孫。

兄の殷巨(いんきょ)は呉の滅亡後は晋に仕え、蒼梧太守に上った。
末弟の殷祐も呉郡太守に上った。(『顧邵伝』)



殷礼  張温に猛プッシュされる


殷礼(いんれい)字は徳嗣(とくし)
揚州呉郡雲陽県の人(??~??)

呉の臣。

若い時からたわむれごとを好まず、優れた深い見識を備えていた。
郡の役人となり、19歳で呉県の県丞を代行した。

丁諝(ていしょ)・張秉(ちょうへい)・吾粲(ごさん)・殷礼はいずれも卑賤な生まれだったが、顧邵(こしょう)は彼らを友人として遇し、評判を呼ぶように計らった。4人は後にいずれも高位に上り、人々は顧邵の眼の確かさを讃えた。(『顧邵伝』)

殷礼は占術に巧みと評判を受け召し出された。(『張温伝』)

220年、孫権が呉王に封じられると、郎中に任じられた。
224年、張温(ちょうおん)とともに蜀へ使者として赴き、諸葛亮は彼を口をきわめて称賛した。(『顧邵伝』)

張温は何度も願い出て殷礼を蜀へ同行させ、帰国後は元の職務に戻るところを、尚書戸曹郎へ昇進させてやった。

孫権は帰国後の張温が蜀を賛美しているのを苦々しく思っており、張温が推挙した曁艶(きえん)が人事を壟断し自害を命じられた際に、曁艶の人事は全て張温の差し金であると糾弾し、一族もろとも罷免した。
その際に詔勅で、殷礼の厚遇も勝手な人事の一つであると指摘している。

駱統(らくとう)は張温を弁護し、「蜀の人々と一緒になって殷礼を褒めそやしたのは、他国と内通するためではありません。張温が褒めたことで蜀の人々にも殷礼を称賛する気持ちを引き起こせたなら、それは呉の人材の豊かさを知らしめたことと同じです」と述べた。(『張温伝』)

趙達(ちょうたつ)は九宮一算の術(占術)の名手で「八絶」の一人に数えられたが秘訣を誰にも明かさず、闞沢(かんたく)・殷礼ら呉の重臣に聞かれても決して教えなかった。(『趙達伝』)

241年、零陵太守の殷礼は「魏は幼帝(曹芳)が即位し動揺しています。諸葛瑾(しょかつきん)・朱然に襄陽を、陸遜・朱桓(しゅかん)に寿春を攻めさせ、陛下(孫権)は徐州を攻めれば必ず勝利できるでしょう」と上言したが、孫権は容れなかった。(『呉主伝』)

零陵太守で在官のまま没した。
子の殷基(いんき)は無難督まで上り、孫は呉の滅亡後に晋に仕え、太守にまで上った。(『顧邵伝』)



陰化  舌足らずの使者


陰化(いんか)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

223年、劉備が逝去すると諸葛亮は呉と和睦を結ぶため、鄧芝(とうし)を使者として送った。
孫権は彼を気に入り「以前の使者の丁厷(ていこう)は上っ面だけ華やかで、陰化は舌足らずだった」と諸葛亮に語った。(『鄧芝伝』)

同年、蔣琬(しょうえん)は諸葛亮から茂才に推挙されたが、固辞して劉邕(りゅうよう)・陰化・龐延(ほうえん)・廖化(りょうか)らを代わりに勧めた。(『蔣琬伝』)



陰貴人  曹丕の寵愛された側室


陰貴人(いんきじん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。

220年、曹丕が帝位につくと山陽公(献帝)の二人の娘が側室となり、郭后(かくこう ※後の郭皇后)・李貴人(りきじん)・陰貴人が寵愛されたため、皇后の甄姫は顧みられなくなり、恨み言を言ったため自害を命じられた。(文昭甄皇后伝』)

曹丕との間に男子は生まれなかった。



陰夔  袁紹配下の元豫州刺史


陰夔(いんき)字は不明
出身地不明(??~??)

袁尚(えんしょう)の臣。

袁紹の死後、袁譚(えんたん)と袁尚は後継者争いを始め、高名な崔琰(さいえん)を味方に引き入れようとした。崔琰はどちらかに肩入れするのを避け、病と称して固辞したが、それを咎められ投獄された。
陰夔と陳琳(ちんりん)の助命活動により処刑を免れた。(『崔琰伝』)

204年、曹操に本拠地の鄴を包囲された袁尚は、自陣も包囲されかかると元豫州刺史の陰夔と、陳琳を使者として降伏を申し入れたが拒否された。
袁尚は敗走し鄴も陥落した。(『武帝紀』)

陰夔は敗走前に曹操に降伏した。(『檄呉将校部曲文』)

「演義」でも降伏の使者を務めたが、現役の豫州刺史になっている。



陰脩  鍾繇・荀彧・荀攸らを見出す


陰脩(いんしゅう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~190?)

後漢の臣。

「謝承後漢書」に曰く。
潁川太守に赴任すると賢人を顕彰し英俊を抜擢することに努力し、張仲(ちょうちゅう)を推挙し、鍾繇(しょうよう)、荀彧、張礼(ちょうれい)、杜祐(とゆう)、荀攸(じゅんゆう)、郭図(かくと)を見出して朝廷を光り輝かせた。(『鍾繇伝』)

190年、(董卓が牛耳る)朝廷から韓融(かんゆう)、少府の陰脩、胡母班(こぼはん)、王纓(おうおう)らが関東の争いを仲裁するため各地へ遣わされた。
しかし袁術、王匡(おうきょう)らに殺され、韓融だけが無事だった。(『後漢書 献帝紀』)

「袁紹伝」には別の経緯が記される。
190年、袁紹が挙兵すると董卓は都にいたその家族を皆殺しにした。そして韓融らに命じて袁紹の兵を収拾させようとしたが、袁紹の命を受けた王匡によってみな殺され、韓融だけが名声により難を逃れた。(『後漢書 袁紹伝』)

「謝承後漢書」に曰く。
胡母班は王匡に捕らえられると「私は馬日磾(ばじつてい)、趙岐(ちょうき)、陰脩とともに勅命で動いているだけなのになぜ投獄するのか」と訴えたがそのまま殺された。(『袁紹伝』)



陰溥


未作成



隠蕃  魏の間者


隠蕃(いんばん)字は不明
青州の人(??~??)

魏の臣。

弁舌に長けたため、曹叡は呉に偽って投降し、内部から切り崩すように命じた。

230年、隠蕃は呉に投降し、巧みな弁舌ですぐに孫権に気に入られた。
人物評を聞かれた胡綜(こそう)は「誇大な構想は東方朔に、巧妙な詭弁は禰衡(でいこう)に似ていますが、才能はどちらにも及びません。ひとまずは膝下で小さな官職に就け様子を見ましょう」と答えた。孫権は隠蕃が司法を得意としたため廷尉監に任じた。

衛将軍の全琮(ぜんそう)や(『孫登伝』)、重臣の朱拠(しゅきょ)・郝普(かくふ)が隠蕃を「王者を補佐する才」と称賛したため声望を集め、人々はこぞって交際を求めた。
信頼を得た隠蕃は重臣たちの罪を厳しく取り調べ、彼等を離反するように仕向けた。(『孫登伝』・『胡綜伝』)

しかしついに魏の間者と発覚し捕らえられた。誰が謀叛に関与していたのか、拷問されても口を割らず、孫権は自ら引見し、なぜそこまで他人をかばうのか尋ねた。
隠蕃は「仲間は確かにいるが、烈士は死んでも他人を巻き添えにはしないのだ」と言い、秘密を守ったまま殺された。

隠蕃を特に支持した朱拠と郝普は罪に問われ、朱拠は長らく禁固刑を受けた。
孫権は郝普を「あなたは盛んに隠蕃を称賛し、不当に冷遇されていると朝廷に恨み言まで言った。隠蕃の罪はあなたに責任がある」と問責し、自害を命じた。(『胡綜伝』)

隠蕃が持てはやされていた頃、羊衜(ようどう)と楊迪(ようてき)だけは交際を拒んだ。
また潘濬(はんしゅん)は子の潘翥(はんしょ)が隠蕃に食料を援助していると聞き「投降者を助けるとは何事だ。速やかに私の使者のもとに出向いて百叩きの刑を受け、食料は返還させよ」と命じた。

人々はその態度をいぶかしんだが、陰謀が露見すると、先見の明に感服したという。(『孫休伝』・『潘濬伝』)

『胡綜伝』の註に引く「呉録」は、隠蕃ははじめから魏の策略により偽って投降したとするが、その他の記述は投降後に翻意し、謀叛を企んだようにも読める。
本項では魏の間者として記した。

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