王祥 命がけの親孝行
王祥(おうしょう)字は休徴(きゅうちょう)
徐州琅邪郡臨沂県の人(184?~268?)
魏・晋の臣。
祖父の王仁(おうじん)は青州刺史を務め、父の王融(おうゆう)は三公に招聘されたが出仕しなかった。
早くに母を亡くし、継母の朱氏(しゅし)には嫌われ、讒言されたため父にも嫌われたが、非常に親孝行だった。
朱氏が冬に生魚を欲しがると、王祥は氷の張った川で衣服を脱ぎ、魚を捕ろうとした。氷は自然に割れ、2匹の魚が飛び出した。
朱氏が焼き鳥を食べたいと言うと、数十羽の鳥が自ら網に飛び込んで焼かれた。人々は親孝行の念が天に届いたのだと讃えた。
またリンゴがなったため朱氏は樹を守るよう命じた。風雨が強くなると王祥は泣きながら樹に抱きついて守った。
弟の王覧(おうらん)は朱氏の実子で可愛がられたが、10歳にもならないのに兄に同情し、一緒に母に鞭打たれ、抱き合って泣いた。長じると母を諌めるようになり、虐待は少し収まった。
王祥の妻も同様に朱氏に責められたが、王覧もその妻もともに兄夫婦をかばった。
父の王融が没すると王祥の評判が立ち、それを恨んだ朱氏はついに毒殺を企んだ。王覧は毒酒を王祥から奪おうとし、王祥も毒が入っているのを察し、奪わせまいと争った。朱氏があわてて奪い、引っくり返した。その後は王覧が常に毒味してから兄に食べさせたため、朱氏は王覧を殺してしまうのを恐れ毒殺を諦めた。
後漢末に戦乱を避け、母や弟とともに(母の故郷の)揚州廬江郡へ移住した。州郡から召されたが応じず、30年余りを過ごした。
母が没すると喪に服して憔悴し、杖をつきやっと立てるほどだった。
徐州刺史の呂虔(りょけん)が招聘したが、既に60歳近い王祥は老齢を理由に固辞した。しかし王覧が車馬を整えてやり出仕を勧めたため、別駕に任じられた。(『晋書 王祥伝』)
呂虔は政治の一切を任せ、世間はよく賢者に任せたと讃えた。(『呂虔伝』)
王祥は盗賊の討伐、州の統治で目覚ましい成果を上げ、人々は「治安が良くなったのも、国が荒れ果てないのも王祥のおかげ」と歌った。
呂虔は三公が身に着けるいわれのある名刀を持っており、王祥へ「見込みが無い者ならば逆に害があるかも知れないが、君は三公になれる才能だ」と言い、強引に与えた。
秀才に推挙され、温県長に任じられたのを皮切りに昇進を重ね、大司農に上った。(『晋書 王祥伝』)
254年、曹芳の廃位を求める上奏に大司農として連名した。(『斉王紀』)
曹髦が即位すると関内侯に封じられ、光禄勲・司隷校尉に転任した。
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)の討伐に従軍し、太常となり、400戸を加増され万歳亭侯に進んだ。(『晋書 王祥伝』)
256年、盧毓(ろいく)は司空になると王昶(おうちょう)・王観(おうかん)・王祥を強く推薦した。(『盧毓伝』)
258年、曹髦は太学に入り、王祥を「仁義を踏み行い、平素より純粋堅固な心を抱いている」と三老に任じ教えを請うた。帝王学を教え、聞く者はみな学問に励んだ。(『晋書 王祥伝』・『高貴郷公紀』)
260年、曹髦が没すると朝臣は挙哀の礼(哭礼)をとったが、王祥は「私は形式だけではありませんぞ」と涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で言い、朝臣は恥じ入った。
同年、司空に上った。
264年、太尉に転じ、侍中を加官され、睢陵侯に封じられ領邑は1600戸となった。
同年に晋王に封じられた司馬昭を三公の王祥、何曾(かそう)、荀顗(じゅんぎ)は祝福に訪れた。荀顗が拝礼しようと言うと、王祥は「王と三公の位階は一つしか変わらず、簡単に拝礼すべきではない。朝廷の名誉を損ない、王の人徳を傷つける行為だ。私はやらない」と断った。
結局、荀顗は拝礼したが王祥は丁寧に会釈しただけだった。司馬昭は「今日はじめてあなたの大きな愛顧がわかった」と王祥を称賛した。
265年、司馬炎が帝位につくと太保に任じられ、睢陵公に進んだ。
王祥・何曾・鄭沖(ていちゅう)は老齢を理由に何度も引退を申し出たが、司馬炎は任愷(じんがい)を通じて得失を説き、認めなかった。
侯史光(こうしこう)も「病で参内を怠っている」と罷免を求めたが、司馬炎は「王祥の行いは優れ、私も頼りにしているから引退を認めないのだ。役人がとやかく言うことではない」と退けた。
しかし王祥は諦めず、ついに司馬炎も折れ、官は辞して参内も不要だが、元のままの権力と俸禄を与え、朝臣は大事があれば意見を求めるよう命じた。
268年、病没し元公と諡された。
子らには質素な葬儀と祭礼を命じ、慎み深くするよう遺言した。
また弟の王覧にはかつて呂虔に与えられた名刀を「お前の子孫は必ず繁栄する」と言って譲った。
王覧の子孫は代々優れた人物を輩出し栄えた。
司馬炎は前月に母の王元姫を亡くし喪に服しており「王祥のために特別な哀悼の意を述べられなかった。今はただ泣くだけだ」と嘆いた。
弔問客は朝廷の賢者か、親しくしていた下役の者だけで、(名利を求める)他人はいなかった。一族の王戎(おうじゅう)はそれを見て「清廉なることこの上ない。王祥はかつて名声は低かったが、言葉は理にかない清く幽遠だった。まさに徳が言葉を覆い隠していたのだ」と讃えた。
長男の王肇(おうちょう)は妾腹で、次男の王夏(おうか)は早逝していたため三男の王馥(おうふく)が爵位を継いだ。
四男の王烈(おうれつ)と五男の王芬(おうふん)は先に同時期に没していた。王烈は故郷で、王芬は都で死ぬことを望み、王祥は「故郷を忘れないのは仁、こだわらないのは達である。私の子らは仁と達を身に着けていた」と泣いたという。(『晋書 王祥伝』)
王祥の年齢についてだが、「晋書」には徐州刺史の呂虔に仕官した時に「耳順(60歳)近く」とあり、「呂虔伝」の注に引く「王隠の晋書」には50歳過ぎとある。
また享年は「晋書」に記された遺言に85歳、同じく「王隠の晋書」に89歳とある。
仮に享年85歳とし、呂虔に仕えたのを60歳とすると仕官は243年になる。ところが呂虔は220年に徐州刺史に任じられ、最後の事績は曹叡の即位時(226年)に加増されたことであり、遅くとも曹叡の在位中(239年没)には呂虔も没していたと思われ、矛盾している。
さらに「崔林伝」で王戎の祖父の王雄(おうゆう)を裴松之は「王祥の祖先」と記すが、「晋書」に王戎は「王祥の族孫」とあり、それを信じるなら王雄と王祥は同年代である。
また「孫堅伝」によると189年に殺された荊州刺史の王叡(おうえい)は「王祥の伯父」である。
王祥の生年は(269年に85歳で没なら)184年。王叡が州刺史なら最低40歳だろうと適当に計算すると150年生まれ。王祥の伯父が35歳上は、成人・結婚の早い当時としては少々離れすぎている気もする。
原文に少しも当たっていない素人考えだが、王祥の年齢には何か大きな間違いがあるのではないだろうか。
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