王済 王渾の性悪の子
王済(おうせい)字は武子(ぶし)
并州太原郡晋陽の人(??~??)
晋の臣。
王渾(おうこん)の次男。
若い頃から秀逸な才能を持ち、風貌は凛々しく、気概は盛んだった。
文武両道に優れ、姉婿の和嶠(かきょう)や裴楷(はいかい)と並び称され、常山公主(じょうざんこうしゅ)をめとり司馬炎の娘婿となった。
20歳で中書郎に任じられ、母の喪に服した後に驍騎将軍、侍中と昇進した。
同僚の孔恂(こうじゅん)・王恂(おうじゅん)・楊済(ようせい)とともに将来を嘱望され、司馬炎は「私の左右は、恂恂済済(慎み深く、厳かで恭しい)である」と偶然ツーペアになった四人の名を並べて笑った。
時事を語らず清談を好み、言辞を飾り司馬炎にただ従ったため朝臣からは評価されなかったが、司馬炎の覚えはめでたかった。
昇進は早かったが義父の七光ではなく実力によるものと論者も認めた。(『晋書 王済伝』)
「老子」や「莊子」の解釈に頭を悩ませていたが、常に「王弼(おうひつ)の「易注」を読めば理解の行く点が数多い」と評価した。(『鍾会伝』)
だが表面は典雅に飾るが嫉妬深く自尊心が高く、他人の陰口を好み、父子で揃って、呉討伐の際に抜け駆けした王濬(おうしゅん)を非難したため世評は衰えた。
司馬攸(しばゆう)が兄の司馬炎の不興を買い外へ出されそうになると、妻やその姉妹とともに泣きながら反対させた。司馬炎は「司馬攸とのことは朕の家庭の事情だ。娘を差し向け、葬式でもないのに哭礼させるとは何事だ」と怒り、王済を国子祭酒へ左遷させたが、側近として侍らせ続けた。(『晋書 王済伝』)
「魏書」には左遷された時の役職は左衛将軍と記される。(『文昭甄皇后伝』)
数年後、侍中に復帰した時、人事は上官の王渾をはばかり公正なものではなかった。王済は厳しく容赦ない性格のため、法に照らしてこれを正したが、王済と折り合いの悪い従兄の王佑(おうゆう)の仲間は「父のことも思いやれない不孝行」と非難した。
やがて王済は河南尹に任じられたが、赴任前に父の封国の官吏を勝手に鞭打った罪で罷免され、王佑が代わって後任となり、王済は都にいられなくなり山に移り住んだ。
豪奢な生活を好み、華美な服を着てごちそうを食べた。洛陽の地価は非常に高かったが、土地を買って馬場を作り、その周囲の垣根を、銭の穴にひもを通してとじた物で満たしたので、人々はそれを「金溝」と呼んだ。
司馬炎の舅の王愷(おうがい)も豪奢を好み、「八百里駁」と名付けた牛の蹄や角をいつも研いでいた。
王済はその牛と自身の一千万銭を賭けて、射的の勝負を挑んだ。王愷も腕に覚えがあり、それを受けると先に撃たせたが、王済は一発で的を射止めた。王済は悠々と座椅子に腰掛け、左右の者を叱りつけ牛の心臓を取り出させ調理させた。だがハツを一切れ食べただけで去っていった。
姉婿の和嶠は非常にケチで、庭に立派なスモモの樹があり、それを司馬炎に所望された時さえ、数十個を献上しただけだった。
王済は彼の留守を見計らい、少年たちをけしかけてスモモを食い尽くさせ、挙げ句に樹を根こそぎ盗ませた。
司馬炎が王済の家を訪ねた時、立派な瑠璃の器に盛り付けて食事を振る舞った。司馬炎は砂肝を気に入り、どう調理したのか聞くと、王済は「母乳で蒸しました」と答えた。司馬炎は不快に思い、食事の途中で帰った。
馬の心を理解することができ、ある時に乗っていた馬が川を渡ろうとしないことがあった。服を汚したくないのだろうと察し、馬に着させていた服を脱がせると、やはり川を渡った。「左伝癖」を名乗る杜預(どよ)は、それを聞き王済を「馬癖」と呼んだ。
司馬炎は(王佑と争い)失職した王済をそろそろ復職させようと思い、その際にどう言って反省させたものか和嶠に相談した。和嶠は「彼は才能高く豪放で(自尊心が高いからどうせ)屈服しないでしょう」と言った。
司馬炎は「恥を知ったか」と厳しく問責したが、王済は「陛下が弟(司馬攸)を左遷したことでそしられるのを止められず、私も同じように親族(王佑)と親しくできないことを恥じています」と答え、司馬炎を黙らせた。
かつて晋に降伏後の孫皓(そんこう)に司馬炎が「なぜ人の皮を剥いだりしたのだ」と尋ねた際に、孫皓は司馬炎とだらしない姿勢で囲碁を打っていた王済を見ながら「君主に無礼な者の面を剥いだだけだ」と答えていた。
復職し太常を兼務したが、46歳で父より先に没した。驃騎将軍を追贈された。
葬儀には当時の賢者がことごとく参列した。(『晋書 王済伝』)
王済はかつて出身地の并州の大中正を務めた際に、孫楚(そんそ)を「君たちが評価できるような人物ではない」と言い、自ら「天才にして英邁博識、まことに群を抜いている」と評した。(『劉放伝』)
参列した孫楚はロバの鳴き真似が上手く、王済がよく笑ったことをしのび、鳴き真似を披露した。
あまりにそっくりで周囲の者が笑うと、孫楚は振り返り「諸君が死なずに、なぜ天は王済を死なせたのだ」と嘆いた。(『晋書 王済伝』)
余談だが王粲(おうさん)が没した時に、親友の曹丕がやはりロバの鳴き真似を他の友人とともにしたという逸話と似ているが、曹丕は笑い者にならなかった(させなかった)。同じ性悪でもやはり曹丕のほうが格上である。(『王粲伝』)
妻の常山公主は盲目で、嫉妬深かったため寵愛されず、子をもうけなかった。
二人の庶子のうち、長男の王卓(おうたく)は後に祖父(王渾)の爵位を継ぎ、次男の王聿(おういつ)は母の爵位を継いだ。
弟の王澄(おうちょう)、王汶(おうびん)も重職を歴任した。(『晋書 王済伝』)
|