三国志 お 2


王公仲  荀顗・董仲連に並ぶ慎み深さ


王公仲(おうこうちゅう)名は不明
出身地不明(??~??)

魏・晋の臣?
僕射を務めた。

李秉(りへい)の「家誡」に曰く。
司馬昭は李秉に最近の人物で慎み深い者を問うた。人々が迷う中、李秉は荀顗(じゅんぎ)・董仲連(とうちゅうれん)・王公仲の名を挙げた。
司馬昭は「彼らも慎み深いが、天下で最も慎み深いのは阮籍(げんせき)だろうか。彼と語り合うと深遠な話には言及するが、時事の評論や人物評は一切しない。まことに最高の慎み深さと言うべきだ」と言った。
李秉は司馬昭のこの言葉を立派な戒めとする価値があると思い「人間は年少から一人前になるまで、軽々しく他人を評論したり、時事を説いてはならない。そうすれば悔恨は生じず災難も訪れない」と(子らに)述べた。(『李通伝』)

王公仲には他に事績がなく名もわからない。



王広  王淩の反乱失敗を危惧した子


王広(おうこう)字は公淵(こうえん)
并州太原郡祁県の人(??~251)

魏の臣。
王淩(おうりょう)の子。

学業に優れ高い志を持っていた。

「魏氏春秋」に曰く。
弟の王飛梟(おうひきゅう)・王金虎(おうきんこ)兄弟は人並み外れた才能と武勇を持っていた。司馬懿がある時に蔣済(しょうせい)へ彼らについて尋ねると、「王淩は文武両道の当代に並ぶ者のない人物ですが、王広ら息子はそれ以上です」と答えた。
蔣済は後に「私の言葉は彼ら一門を滅ぼすことになる」と悔やんだ。

都督の王淩は甥で兗州刺史の令狐愚(れいこぐ)と結託し、曹芳を帝位から退け曹彪(そうひょう)を擁立する計画を立てた。
王淩は舎人の労精(ろうせい)を洛陽にいる子の王広のもとへ送り計画を伝えると、王広は災難に遭うことを危惧した。
「漢晋春秋」にその発言が詳しく記されるが、裴松之は「他の史書に見えず創作だろう」と断じる。

251年、王淩は令狐愚が病死したものの単独でも計画を実行しようとしたが密告された。
司馬懿はすぐさま討伐軍を催し、王淩を赦免するとともに尚書の王広を説得に向かわせた。観念した王淩は降伏し、移送中に自害した。
連座した者は三族まで処刑され、王広も処刑された。40数歳だった。(『王淩伝』)



王弘  王宏の別名か誤記?


王弘(おうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

「譜叙」に曰く。
華表(かひょう)は清潔淡泊で名声を求めず、常に身の引き際を考え、司徒の李胤(りいん)・司隷校尉の王弘らは「華表のような人物は貴い身分にも卑しい身分にもできない。親しくも疎遠にもなれない」と称賛した。(『華歆伝』)

原文で名は王密(おうみつ)と記されるが「ちくま版」は陳景雲の説に従い王弘と記す。
しかし王弘という人物は他に見えず、日本語読みの同じ司隷校尉の王宏(おうこう)の別名もしくは誤記ではなかろうか? いちおう項目は分ける。
また司隷校尉ではなく司隸出身とする記述も見るが、「司徒の李胤・司隷の王弘」と並べており役職と見るべきだろう。



王弘直  管輅の占術―良いお告げと悪いお告げ


王弘直(おうこうちょく)字が弘直か
冀州渤海郡の人(??~??)

魏の臣。

管輅(かんろ)が冀州広平郡列人県で典農を務める王弘直を訪ねた時、つむじ風が庭をうろついた。「東から役人が来て、父が子供のために泣きますがどうしようもありません」と占った。王弘直の息子が没したという報告が来た。
別の日には雉が家に入り、呼び鈴のある柱に止まった。「2ヶ月後に昇進します」と占い、王弘直は渤海太守に上った。

「管輅別伝」に曰く。
管輅は「時間を事物の根本にある法則と重ね合わせて考えればなんの困難もありません」と言った。
王弘直は学問を積み方術もたしなんでいたが理解できず、「風の変化も同様に解読できるのか」と聞くと、管輅は「今のは風全体の中では毛髪のようなものです。天が乱れた時はこの程度ではありません」と答えた。(『管輅伝』)



王伉  呂凱の相方


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王宏  王弼の兄


王宏(おうこう)字は正宗(せいそう)
兗州山陽郡の人(??~??)

魏の臣。
王業(おうぎょう)の子。

司隷校尉に上った。
弟の王弼(おうひつ)は玄学の始祖に挙げられる。(『鍾会伝』)



王肱  橋瑁の後任の東郡太守


王肱(おうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣?

190年、劉岱(りゅうたい)は不仲の東郡太守の橋瑁(きょうぼう)を殺し、王肱を後任の太守に据えた。

191年、黒山賊の于毒(うどく)・白繞(はくじょう)・眭固(すいこ)らが十余万の兵で魏郡を襲い、王肱も防げなかった。
曹操は東郡に入って黒山賊を撃破し、袁紹は上奏して曹操を東郡太守に任命した。(『武帝紀』)



王曠  裴郃を褒める


王曠(おうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

「晋諸公賛」に曰く。
司馬睿が安東将軍になると、裴郃(はいこう)はその長史を務めた。
侍中の王曠は司馬越(しばえつ)へ手紙を送り「こちらに在任している裴郃は、政治に携わらなくても広大な識見と器量によって人士に尊敬され懐かれています」と称えた。(『裴潜伝』)



王国  合衆将軍の王国


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王国  世の官吏の手本


王国(おうこく)字は不明
兗州東平郡の人(??~??)

魏の臣。

曹操は冀州を制圧すると、薛悌(せつてい)と王国を左右の長史に任じた。二人はともに中領軍に昇進し、忠節と事務に練達し、世の官吏の手本とされた。(『陳矯伝』)

韓遂(かんすい)らとともに反乱した涼州の賊徒に同姓同名がいるが別人である。



王渾  三国統一に大貢献


王渾(おうこん)字は玄沖(げんちゅう)
并州太原郡晋陽県の人(223~297)

魏・晋の将。
王昶(おうちょう)の子。

父は王渾ら子や甥の名と字に「謙虚」を意味する言葉を選び、訓戒を与えた。(『王昶伝』)

落ち着いて典雅さと器量があった。
父の爵位を継いで京陵侯となり、曹爽(そうそう)の大将軍府の掾に招かれたが249年、司馬懿により曹爽一派が粛清されると免職された。
すぐに司馬昭に召されて復帰し、散騎侍郎、黄門侍郎、散騎常侍と昇進していき、咸熙年間(264~265)に越騎校尉となった。

晋代には揚烈将軍となり、徐州刺史に赴任した。飢餓に苦しむ民のため倉を開いて施し、人々に頼りにされた。泰始年間(265~275)のはじめに封邑1800戸を追加され、東中郎将・督淮北諸軍事として許昌を守り、たびたび政策を採用された。
征虜将軍・監豫州諸軍事・仮節として豫州刺史を兼任し、王渾の威信に打たれ呉からの降伏者が相次いだ。
呉の薛瑩(せつえい)、魯淑(ろしゅく)が十万と号した大軍で攻め寄せた時、州兵の多くが休暇をとっており、一部隊しかいなかった。だが王渾は州兵を召し返さず寡兵で川を渡って奇襲を仕掛け、呉軍をさんざんに打ち破った。
この功により次子の王尚(おうしょう)が関内侯に封じられた。(※王尚は長子であり、王済の誤記か)

やがて安東将軍・都督揚州諸軍事となり寿春を守った。呉は侵攻の準備を進めていたが、王渾は揚州刺史の応綽(おうしゃく)に攻撃させ、大量の船と兵糧を焼き払い、逆襲の機会をうかがった。
279年、ついに呉征伐が始まると、陳慎(ちんしん)・張喬(ちょうきょう)を派遣して孔忠(こうちゅう)を破り、周興(しゅうこう)ら五将を捕虜にした。さらに李純(りじゅん)に俞恭(ゆきょう)を討たせた。
呉の将軍の陳代(ちんだい)・朱明(しゅめい)を降伏させ、孫疇(そんちゅう)・周浚(しゅうしゅん)に丞相の張悌(ちょうてい)・皇族の孫震(そんしん)を討ち取らせ、斬首・捕虜の数は7800にも及び、呉を震え上がらせた。(『晋書 王渾伝』)
丹陽太守の沈瑩(しんえい)も討った。(『孫皓伝』)
司徒の何植(かしょく)や孫晏(そんあん)は王渾に印綬や節を届けて呉の降伏を申し入れた。(『晋書 王渾伝』)
王濬(おうしゅん)、司馬伷(しばちゅう)にも同じく降伏の使者が送られた。(『孫皓伝』)
王濬ははじめは杜預(どよ)の、次いで王渾の指揮下にあった。王渾は王濬を招き足並みを揃えて進軍しようとしたが、王濬は「風が強いので船を止められません」と言い、一気に呉の都に迫り、孫皓を降伏させた。(『晋書 王濬伝』)
王渾は常に先陣を切り、呉の主力も打ち破ってきたのに抜け駆けされたと恨み、何度も上奏して王濬を非難したため、名声を損なった。(『晋書 王渾伝』)
王濬が時系列を整理し弁解すると、今度は「王濬は呉の宝物を略奪した」と告発し、王濬も「王渾は戦功を水増ししている」と返すなど争いは泥沼に陥った。(『晋書 王濬伝』)
司馬炎は勲功顕著であると王渾を慰労し、8000戸を加え、爵位を公に上げ、子の王澄(おうちょう)と弟の王湛(おうたん)を列侯させた。(『晋書 王渾伝』)

子の王済(おうせい)も父とともに王濬を非難し名声を落とした。(『晋書 王済伝』)

確執は収まらず、王濬は王渾と面会する際には厳重に衛兵を配備させた。(『晋書 王濬伝』)

征東大将軍に転任し揚州を統治した。処断は明快かつ順当で、戦乱で各地へ散った人々を手厚く保護したため、呉の旧臣は喜んで従った。
都に上り尚書左僕射・散騎常侍を務めた。司馬攸(しばゆう)が兄の司馬炎の不興を買い外へ出されそうになると反対したが、聞き入れられなかった。(『晋書 王渾伝』)

王済も妻である司馬炎の娘に、その姉妹とともに泣きながら反対させた。司馬炎は「司馬攸とのことは朕の家庭の事情だ。娘を差し向け、葬式でもないのに哭礼させるとは何事だ」と怒り、王済を左遷させた。

数年後、侍中に復帰した時、人事は上官の王渾をはばかり公正なものではなかった。王済は厳しく容赦ない性格のため、法に照らしてこれを正したが、王済と折り合いの悪い従兄の王佑(おうゆう)の仲間は「父のことも思いやれない不孝行」と非難した。
やがて王済は河南尹に任じられたが、赴任前に父の封国の官吏を勝手に鞭打った罪で罷免され、王佑が代わって後任となり、王済は都にいられなくなり山に移り住んだ。(『晋書 王済伝』)

290年、王渾は司徒に上った。司馬衷(しばちゅう)の代になると侍中を加えられ、王祥(おうしょう)にならい封国にも士官を置かれた。
291年、権勢を振るっていた楊駿(ようしゅん)が誅殺され、古参の臣が重用されると再び兵権を与えられようとしたが、文官(司徒)であると固辞し、その見識と謙虚さを讃えられた。
司馬瑋(しばい)は挙兵を企み、公孫宏(こうそんこう)は「かつて司馬懿が曹爽を討った時、太尉の蔣済(しょうせい)を担ぎ上げたように、司徒の王渾を味方につけるべきです」と進言した。
だが打診された王渾は病と称して家に引きこもり、私兵1千で門を固めた。司馬瑋は諦め、後に誅殺されると王渾は復職した。
司馬衷に諮問されて的確に答弁し、録尚書事を加えられた。

王渾はいずれの官職でも名声を博したが、司徒になって以降は日ごとに声望は衰えていった。
297年、75歳で没し元公と諡された。(『晋書 王渾伝』)
子の王尚・王済はともに先立っていたため、王済の子の王卓(おうたく)が後を継いだ。(『晋書 王渾伝』・『晋書 王済伝』)

他に弟の王深(おうしん)が冀州刺史に上るなど、孫や甥ら一族は西晋の名門となっていった。(『王昶伝』)



王渾  王戎の父


王渾(おうこん)字は不明
徐州瑯邪郡臨沂県の人(??~??)

魏の臣。
王雄(おうゆう)の子。
呉討伐で活躍した王渾とは別人。

涼州刺史・貞陵亭侯にまで上った。

子の王戎(おうじゅう)が15歳の時、友人の阮籍(げんせき)に会わせると20歳差をものともせず二人は交友を深めた。
阮籍は王渾とは短時間しか話さず、王戎とは長時間話し込み「王戎は清賞で王渾は倫直ではない。王戎と話すほうが楽しい」と言った。
後に阮籍と王戎は竹林の七賢に名を連ねた。

任地の涼州で没した。爵位を継いだ王戎は数百万の香典を断り名を上げた。(『晋書 王戎伝』)

父はかつて幽州刺史を務め、反乱した鮮卑の大人(王)の軻比能(かひのう)へ刺客を送り暗殺した。
弟の王乂(おうがい)は平北将軍に上った。
王戎は司徒に上った。(『崔林伝』)



王才  何かの不法行為をした


王才(おうさい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

騎都尉を務めた。楽人の孟思(もうし)と結託してなんらかの不法行為を犯し、首都を揺り動かした。

杜恕(とじょ)が「王才と孟思の罪を告発したのは小役人だった」と大臣の怠慢を批判する際の例に挙げている。(『杜畿伝』)



王山  王連の子


王山(おうさん)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
王連(おうれん)の子。

223~225年頃に父が没すると後を継ぎ、江陽太守にまで上った。(『王連伝』)



王粲  建安七子・記憶力王


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王賛  秦旦らに脱出された玄菟太守


王賛(おうさん)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫淵(こうそんえん)の臣。

「呉書」に曰く。
233年、孫権は遼東の公孫淵へ友好の使者を送った。
だが公孫淵は使者の張弥(ちょうび)・許晏(きょあん)を殺し兵や物資を奪おうと企て、随行していた配下らを各地へ分散して幽閉した。
中使の秦旦(しんたん)・張羣(ちょうぐん)・杜徳(ととく)・黄彊(こうきょう)ら60人は玄菟郡に移され、民家に住み食事を提供された。
40日余り経ち、秦旦は「我々は使者の任も果たせず死んだも同然だ。太守の王賛には400ほどの兵しかなく、決起してこれを打ち破ればたとえ殺されても心残りはない。今よりはよほどマシだ」と挙兵を誘った。
8月19日夜に挙兵を決めたが、決起日の昼に部下の張松(ちょうしょう)が裏切り、挙兵を知った王賛は門を封鎖した。
秦旦らは城壁を乗り越え脱出したが、張羣は膝が腫れており、杜徳が肩を貸していたものの6~700里逃げた山中でついに倒れ伏した。仲間らは涙し、張羣は自分を見捨てて逃げるよう勧めたが、杜徳は「祖国から万里も離れた土地で生死を共にした仲間をどうして見捨てられるか」と自分は看病のため残ると決断した。杜徳は山菜や木の実を採ってしのぎ、秦旦・黄彊は数日後に高句麗にたどり着いた。
句麗王の位宮(いきゅう)は事情を聞くと喜んで兵を出し、張羣・杜徳を助け、4人を呉へ送り届けるとともに朝貢した。
孫権に目通りした秦旦らは感極まり、孫権は称えて4人を校尉に任じた。(『呉主伝』)



王子服  一度見たら忘れない名前


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王子法  孔融の無能な配下


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王士  王甫の従兄


王士(おうし)字は義彊(ぎきょう)
益州広漢郡郪県の人(??~225?)

蜀の臣。
王甫(おうほ)の従兄。

211年からの劉備の益州侵攻に随行した。
その後、孝廉に推挙され符節県長に任じられ、牙門将に昇進し、宕渠太守・犍為太守を歴任した。

225年、諸葛亮の南征に際し益州太守に転任するが、赴任前に異民族に殺された。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で龔禄(きょうろく)とともに「志気勇壮」と評した。(『楊戯伝』)



王氏  曹芳の三番目の皇后


王氏(おうし)名は不明
出身地不明(??~??)

曹芳の三番目の皇后。
王夔(おうき)と田氏(でんし)の娘。

「王沈魏書」に曰く。
251年、曹芳は甄皇后(しんこうごう)を亡くすと、寵愛する王貴人を立后しようとしたが、郭太后(かくたいこう)の反対により、やむなく翌年に張皇后(ちょうこうごう)を立てた。

だが254年、張皇后の父の張緝(ちょうしゅう)が同郷の親友の李豊(りほう)と、魏の重鎮の夏侯玄(かこうげん)とともに司馬師の暗殺を企むも、計画は露見し一網打尽にされた。
張皇后は廃位され、代わって王貴人が皇后に立てられた。

しかし同年、曹芳は司馬師によって廃位された。
王氏のその後は不明である。(『斉王紀』)



王氏  曹髦の皇后の卞氏の生母


王氏(おうし)名は不明
出身地不明(??~??)

曹髦の皇后の卞氏(べんし)の継母。

255年、曹髦は卞氏を立后した。
その父の卞隆(べんりゅう)は光禄大夫・特進となり睢陽郷侯に封じられた。妻の王氏も顕陽郷君に封じられた。
卞隆の前妻で既に没していた劉氏(りゅうし)も卞氏の生母だったため順陽郷君を追贈された。(『高貴郷公紀』・『后妃伝』)



王氏  孫皓に寵愛される


王氏(おうし)名は不明
出身地不明(??~270)

孫皓の左夫人。

270年、4代皇帝の孫皓は寵愛する王氏を亡くし、悲しみのあまり政務を放り出し数ヶ月の間、表に出なかった。
やがて孫皓の死亡説が流れ、孫権の五男の孫奮(そんふん)か、その従兄弟の孫奉(そんほう)が即位するという噂が流れた。(※「孫皓伝」では噂が流れたのは274年と記される)
それを聞いた孫皓は激怒し、孫奮と孫奉を殺した。(『孫策伝』・『孫奮伝』)



王氏


未作成



王始  巨人の予言を聞いた民


王始(おうし)字は不明
雍州隴西郡襄武県の人(??~??)

魏の平民。

265年8月、雍州隴西郡襄武県に高さ3丈(720cm)、足の大きさ3尺2寸(72.5cm)で白髪頭の黄色い衣冠を身に着けた巨人が現れ、王始に「今に呉が平定され太平となる」と言った。(『陳留王紀』)

誰にでもできる全く意味のない予言である。



王思  老醜を細かく描かれる


王思(おうし)字は不明
兗州済陰郡の人(??~??)

魏の臣。

貧しい出自だったが魏に仕え、梁習(りょうしゅう)とともに西曹令史に上った。ある時、王思の出した意見書が曹操の逆鱗に触れ、逮捕を命じられた。だが王思は留守にしており、代わりに出向いた梁習が捕らえられた。
王思は急報を聞くと馬を走らせ駆けつけて、罪は自分にあると処刑を願い出た。
曹操は梁習がかばい、王思が逃げなかったことに感心し「我が軍に二人も義士がいるとは知らなかった」と罪を許した。その後、王思を豫州刺史、梁習を并州刺史へ同時に抜擢した。
(※ただし裴松之は、親しくもない王思をかばい、もしそのまま処刑されれば梁習は無駄死にである、と辛辣に評している)

王思は細かいことにうるさい性格だが、法に明るく機転が利き、優れた人物には礼を尽くしたため評判を取った。
曹丕の代には同じく貧しい出自から昇進した薛悌(せつてい)・郤嘉(げきか)とほぼ同等の官位に上り「薛悌は混じり気があり、郤嘉と王思は混じり気なしの役人である」と評され、揃って関内侯に封じられた。(『梁習伝』)

曹叡の代に劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)が権勢を振るい、誰もが交際を求めたが辛毗(しんぴ)は一切それに加わらなかった。それを子の辛敞(しんしょう)に批判されると「劉放・孫資と上手く行かなくても、せいぜい三公になれないだけだ。三公になりたいために節義を失う者がどこにいる」と叱りつけた。
この言葉が耳に入ったのだろう、後に畢軌(ひつき)が「王思は古参の精励なる官吏ですが、忠誠と計略では辛毗に及びません。尚書僕射は王思から辛毗に交代させるべきです」と上奏されると、劉放・孫資は「陛下が王思を用いるのは努力を買い、虚名に惑わされないからです。辛毗は誠実だが強情で妥協しません」と反対し、起用されなかった。(『辛毗伝』)
人々は報復した劉放・孫資を批判した。(『劉放伝』)

正始年間(240~249)には大司農に上った。
しかし老いて耄碌し、目もよく見えなくなったため猜疑心が強くなり、常に腹を立てていたが、部下にはなぜ怒っているのかさえわからなかった。
ある時、父が危篤になったため休暇を願い出た部下がいたが、王思は「妻に会いたくて、母親が病気と偽る者が多い」と疑い、許可しなかった。
翌日に父の訃報が届いたが、王思は気にもとめなかった。

またせっかちさも酷くなり、ある時、筆に蝿が止まり、何度追い払ってもしつこくまとわりつくことがあった。王思は筆を置いて立ち上がり蝿を追ったが上手く行かず、ついには筆を床に叩きつけるとそれを踏み潰したという。

一連の老醜ぶりから王思は「魏略」で「苛吏伝」に収録されている。(『梁習伝』)



王嗣  羌族と骨肉の間柄に


王嗣(おうし)字は承宗(しょうそう)
益州犍為郡資中県の人(??~??)

蜀の臣。

人情に厚く実意ある人柄で、人々に愛され信頼された。
延熙年間(238~257)に功業・徳行が顕著と孝廉に推挙された。
西安囲督・汶山太守に昇進し、安遠将軍を付与された。

羌族と親睦を結び、平素は乱暴な部族もみな帰服させた。恩愛と信義をもった統治により北方の国境は安定した。
姜維の北伐のたびに羌族は家畜や穀物を供出し、兵糧を助けた。
やがて鎮軍に昇進し、太守を兼任した。

その後、北伐に従軍した際に流れ矢で負傷し、数ヶ月後に没した。
葬儀に参列し野辺送りをする羌族は数千人に上り、みな涙を流し声を上げて泣いた。
子や孫に対して羌族は肉親のように接し、義兄弟の契りを結んだという。(『楊戯伝』)



王次仲  楷書の始祖


王次仲(おうじちゅう)字は不明
幽州上谷郡の人(??~??)

書家?

「四体書勢」の著者の衛恒(えいこう)は能書家で、「王次仲が初めて楷書を作った。梁鵠(りょうこく)は大字を書き、邯鄲淳(かんたんじゅん)は小字を書いた。梁鵠は、邯鄲淳は王次仲の書法をものにしたのだと言った。しかし梁鵠の筆使いも充分に筆勢を尽くしている」と評した。(『晋書 衛瓘伝』)

記述が少なくいつ頃の人物かわからない。
「邯鄲淳は次仲の書法を~」と記され、姓が王、名が次仲と思われる。
「ちくま版」索引は名を王惜(おうせき)とするが、他に同様の説は見つからなかった。



王戎  竹林の七賢・走者


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王柔  王昶の伯父


王柔(おうじゅう)字は叔優(しゅくゆう)
并州太原郡晋陽県の人(??~??)

後漢の臣。
王昶(おうちょう)の伯父。

「郭林宗伝」に曰く。
王柔と弟の王沢(おうたく)は幼少の頃、人物鑑定に優れた郭泰(かくたい ※郭林宗)を訪ね、自分達に相応しい職務について意見を聞き進路を決めようとした。
郭泰は笑い「二人とも2千石(太守・刺史)の才がある。王柔は仕官で、王沢は経術(儒学)で名を上げるとよい。もし才能に反した職務に就けば出世できないこともあろう」と助言した。
兄弟はそれに従い、王柔は北中郎将に、王沢は代郡太守まで上った。(『王昶伝』)



王脩  危難に必ず駆けつける


王脩(おうしゅう)字は叔治(しゅくち)
青州北海郡営陵の人(??~??)

魏の臣。

7歳の村祭の日に母を亡くした。翌年、隣村の祭の日にそれを思い出し悲しんでいると、隣村は彼のために祭を取りやめた。
20歳の時、荊州南陽郡に遊学し、張奉(ちょうほう)の世話になった。張奉の一家が病に倒れてしまい、王脩は彼らが治るまで介抱した。

初平年間(190~193)に北海太守の孔融(こうゆう)に主簿に招かれ、高密県令を代行した。当地の顔役の孫氏(そんし)は勢力が強く、子分や食客が罪を犯しても処罰できなかった。王脩は役人と住民を引き連れ彼の家を包囲した。役人らが気後れすると、王脩は攻めなければ同罪だと叱咤し、おじけづいた孫氏は罪人を差し出した。これ以来、顔役たちは服従するようになった。

孔融は王脩を孝廉に推挙したが、王脩は辞退し邴原(へいげん)に譲ろうとした。孔融は「邴原の立派さは承知している。だが彼は位階を気にしない。今すぐ取り立てず、後任の太守のために残しておこう」と言い、重ねて王脩を推挙した。
だが都は動乱が続いており、結局応じなかった。

北海郡で反乱が起こると、孔融は「危難を冒してでもやって来る者がいるとすれば王脩だけだ」と言い、直後に夜中にも関わらず王脩が現れた。孔融は喜び功曹に任じた。

膠東県が乱れていたため県令を代行すると、有力豪族で私兵を雇い、陣営を築いて納税に応じない公沙盧(こうさろ)兄弟を数人で訪ね、度肝を抜かれた彼らを斬り捨てた。
王脩はたとえ休暇中でも、孔融に危機あらば必ず駆けつけたという。

(孔融を撃破し北海郡から追放した)青州刺史の袁譚(えんたん)に治中従事に招かれた。劉献(りゅうけん)は王脩を目の敵にし欠点をあげつらったが、罪を犯し死刑になると、劉献を弁護してやり、人々を感心させ、袁紹からも主簿に招かれたが、袁譚の別駕に復した。

202年、袁紹が没すると袁譚は弟の袁尚(えんしょう)と後継者争いを起こし、武勇に優れた袁尚に連敗した。
王脩は兵や民を引き連れ救援し「我が軍を成り立たせているのは王脩だ」と喜ばせた。
劉詢(りゅうじゅん)らが反乱すると、袁譚は自分の不徳のせいだろうかと嘆いたが、王脩は「管統(かんとう)はきっと来ます」と言った。10日後、管統は妻子を捨てて駆けつけた。
袁譚は袁尚に反撃しようとしたが、王脩は「兄弟はいわば両手であり、互いに争うのは、戦いを前に右手を切り捨て、必ず勝つぞと言うようなものです。そもそも兄弟で争う者に誰が親愛の情を持ってくれるでしょう。争わせようとする佞臣を殺し、兄弟で協力してください」と言った。袁譚は彼の意志と節義は認めていたが聞き入れず、袁尚と戦った。
しかし敗北し、曹操の協力を得て袁尚を破ったが、反乱して曹操にも攻められた。
兵糧輸送をしていた王脩は駆けつけようとしたが間に合わず、途中で袁譚の戦死を聞いた。

王脩は曹操に遺体を引き取りたいと願い出たが、彼を試そうと曹操は黙って返事をしなかった。王脩は死刑に処されても構わないと覚悟を示し、曹操は願いを聞き入れた。
「傅子」に曰く、曹操は袁譚を殺すと、哭礼する者は妻子もろとも処刑すると布告した。王脩と田疇(でんちゅう)は「生前の袁譚に招聘されながら、死後に哭礼しなければ道義に外れる」と話し合い、ともに哭礼した。曹操は義士であるとして赦した。
ただし裴松之は「田疇が袁譚に仕えた記録はない」と疑義を示している。(『王脩伝』)

「袁紹伝」の注に引く「九州春秋」には「袁譚は華彦(かげん)、孔順(こうじゅん)ら佞臣を腹心とし、王脩らは顧みられずただ官位についているだけだった」と記されるが、「王脩伝」を見る限りそこまで冷遇されてはいない。(『袁紹伝』)

王脩は改めて兵糧輸送を命じられた。袁譚の残党はこぞって降伏したが、管統だけは籠城した。曹操は首を持ってくるよう命じたが、王脩は彼は亡国の忠臣であると応じず、説得して出頭させた。曹操は上機嫌で赦免した。
袁氏の政治は大雑把で、調べさせると審配(しんぱい)ら諸臣は私腹を肥やしていたが、王脩の財産はほとんど無く、代わりに書物が数百巻あった。
曹操は「みだりに名声があるわけではない」と嘆息し、司空掾に招き司金中郎将を代行させた。
7年後、王脩が御恩に報いられず恐縮だと上奏すると、曹操は「私の君への理解は目と耳だけではなく心底からの物だ。初めて司金中郎将を設置した時、適任者は他にないと考えた。私は何度も君をもっと高位に据えようとしたが、そのたびに袁渙(えんかん)らに反対された。君を優遇する気がないという誤解をしないでくれ」と言い、魏郡太守に昇進させた。
弱きを助け強きをくじき、賞罰をはっきりさせた行政で郡民に讃えられた。

216年、魏の建国後に大司農・郎中令に上った。
肉刑の復活(※死刑の下に肉刑(身体切断等)を設け、死刑を減らすのが目的)が議論されると、王脩らは反対し、制定されなかった。

奉常に転任後、厳才(げんさい)が都で反乱を起こした。王脩は車馬を用意させたが、待ち切れず徒歩で宮門に駆けつけた。曹操は遠くからそれを見て「あれは王脩に違いない」と言った。
鍾繇(しょうよう)は「しきたりでは宮城に変事があれば九卿は役所にいることになっている」と苦言を呈したが、王脩は「しきたりは危難に駆けつける道義に反します」と意に介さなかった。

在職中に病没した。
20歳の頃の高柔(こうじゅう)や童子の頃の王基(おうき)を評価し、後にともに重臣になり、死後に人物鑑定眼も讃えられた。
子の王忠(おうちゅう)も高位に上ったが、王儀(おうぎ)は司馬昭に諫言し殺された。(『王脩伝』)

220年、帝位についた曹丕は「忠直で仁愛と道義を旨としたが子孫が衰微している」と、王脩の子らを郎中に取り立てさせた。(『文帝紀』)

陳寿は「田疇の節義、王脩の忠誠は、世俗を矯正させるに充分である」と評している。

「演義」では袁尚暗殺に反対して袁譚にクビにされるが、遺体を引き取りに現れ、曹操に司金中郎将に任じられた。



王粛  晋の成立に二重に貢献


王粛(おうしゅく)字は子雍(しよう)
徐州東海郡郯県の人(195~256)

魏の臣。
王朗(おうろう)の子。
「王朗伝」に附伝される。

王朗は旧知の許靖(きょせい)へ手紙を送り「男女一人ずつの子を亡くし、今は男子が2人で、王粛は会稽太守として赴任中に生まれ、下の子は28歳離れている」と記した。(『許靖伝』)

212年、18歳の時に宋忠(そうちゅう)に「大玄経」を学び注釈を施した。
黄初年間(220~226)に散騎侍郎となった。(『王粛伝』)
228年に父が没し後を継いだ。(『王朗伝』)
229年に散騎常侍に上った。
230年、曹真(そうしん)が蜀の征伐に向かうと「兵糧輸送は困難で、険阻な道を切り開くための道路工事で疲弊して戦いにならない。長雨と疲労を理由に撤退させるべきです」と説き、受け入れられた。
また「死去した大臣への供養」も採用され、他にも余分な官職の削減を提案した。

234年、先の献帝が没すると前王朝の皇帝であり、王の礼で葬ることになったが、諡をどうするか意見が分かれた。王粛は「帝」よりも軽い「皇」を推したが、曹叡は結局「漢孝献皇帝」と諡した。
後に秘書監・崇文観祭酒を兼任した。
景初年間(237~239)に曹叡が宮殿造営に血道を上げると、批判しつつも刑罰をはっきりさせるべきと改善案も示した。
また故事について尋ねられ、明快に回答した。(『王粛伝』)

240年、広平太守に赴任した。
同年に当地に住む讖緯学者(神秘学者)の張臶(ちょうせん)が亡くなっており、「都にも名の届いていた彼に会うのが楽しみだったが、その前に亡くなってしまった。彼は老齢になっても学問に励み、名誉を重んじなかった。家の門戸に表彰の言葉を記し、恩恵を与えよ」と命じた。(『管寧伝』)

都に召還されて議郎となり、侍中・太常と昇進した。
当時、大将軍の曹爽(そうそう)が実権を握り、何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)らを重用した。王粛は蔣済(しょうせい)・桓範(かんはん)と議論している時、彼らの話になると「こいつら(何晏・鄧颺)は弘恭・石顕(前漢の佞臣)の仲間です。これ以上の説明がいりますか」と激昂した。
曹爽は何晏らに「慎重にあらねばならない。王粛ら高官は諸君を前代の悪人と並べていたぞ」と戒めた。後に理由をつけて王粛は免職させられた。(『王粛伝』)

249年、曹爽一派が司馬懿に粛清されると太常の王粛が使者となり、司馬懿へ丞相の位、1万戸の加増、数々の特権が与えられたが、辞退された。(『斉王紀』)

光禄勲の時、武器庫の屋根に二匹の魚が現れ、吉凶いずれか意見が分かれた。王粛は辺境での敗戦だと読み、東関の戦い(※252年)の敗北として的中した。(『王粛伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に河南尹・蘭陵侯として連名した。
持節兼太常・河南尹として曹髦を皇帝に迎える役目を務めた。(『斉王紀』)

同年、白気が空を横切る異変があり、司馬師に尋ねられ、東南の動乱を予言した。翌255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が反乱し的中した。さらに対策を求められると、関羽が呂蒙に敗れたのを例に上げ、反乱軍の家族を確保し、離反させるよう進言した。(『王粛伝』)

毌丘倹らの討伐には司馬孚(しばふ)が向かえばいいと言う者もあったが、王粛と傅嘏(ふか)だけが反対し、司馬師が自ら出陣した。(『傅嘏伝』)

後に中領軍に上り、散騎常侍に復職し、2200戸に加増された。
256年、62歳で没した。
百人以上の門弟が喪に服し、衛将軍を追贈され、景侯と諡された。

子の王惲(おううん)が後を継いだが、早逝し跡継ぎもなかったため封国が断絶してしまった。
263年、下の子の王恂(おうじゅん)が蘭陵侯に封じられた。咸熙年間(264~265)に改めて王粛の功績を採り上げられ、王恂が永県の子爵に封じられた。
娘の王元姫は司馬昭に嫁ぎ、後の晋初代皇帝である司馬炎を生んだ。
他に6人の男子があり、王虔(おうけん)と王愷(おうがい)は高名で、王虔の子らも重きを置かれた。

王粛は賈逵(かき ※魏の重臣とは別人)や馬融(ばゆう)の学問に親しみ、鄭玄(じょうげん)を好まなかった。
「聖証論」を著し鄭玄を批判すると、その門弟で「東州の大儒」と呼ばれる孫叔然(そんしゅくぜん)は反駁した。
王粛は数多くの学説を集めて注釈を施し、朝廷の制度や祭祀に関する著書は百を超えた。(『王粛伝』)

朝廷の儀礼について王基(おうき)は鄭玄の説を支持し、常に王粛と対抗した。(『王基伝』)

蜀の李譔(りせん)も賈逵・馬融の説を採り、鄭玄の説とは異なった。
王粛とは面識がなく、お互いの著作も読んでいないはずだが、後世に照らし合わせると意見の一致を多く見たという。(『李譔伝』)

256年、曹髦は儒者を集め講義を行わせた。その中で「尚書」について鄭玄と王粛の論に食い違いがあると尋ね、庾峻(ゆしゅん)は「王粛の解釈の方が優れている」と答えた。(『高貴郷公紀』)

かつて名高い人相見である朱建平(しゅけんぺい)に「寿命は70歳を超え、官位は三公に上る」と占われており、王粛は重病にかかっても「予言した寿命も官位も実現していない」と余裕を見せたが、そのまま没してしまったといい、朱建平の予言が外れた稀有な例として挙げられている。(『朱建平伝』)

陳寿は「誠実にして博学、よく父の業を受け継いだ」と評した。
一方で同じ魏の臣の劉寔(りゅうしょく)は「上には折り目正しかったが下にはへつらいを求めた。栄誉と高貴を愛したが権力者に取り入らなかった。財物を好みながら清貧を選んだ。3つの矛盾がある」と評した。

孔子の著作「孔子家語」を偽造したとされるが、これは主流だった鄭玄の礼制に基づいた、曹氏の帝位禅譲を否定し、司馬氏の帝位禅譲を正当化する狙いがあったと見られている。
行為の是非はともかく、初代皇帝の母を生み、禅譲を正当化させ、晋の成立に王粛が大きく貢献したのは確かである。

また「演義」にも登場し、長雨による曹真の撤退の進言や、呂蒙を参考にした毌丘倹への対策がそのまま描かれた。



王恂  王粛の後継ぎ


王恂(おうじゅん)字は良夫(りょうふ)
徐州東海郡郯県の人(??~??)

魏・晋の臣。
王粛(おうしゅく)の次男。
王朗(おうろう)の孫。王元姫の兄弟。

256年、父が没すると兄の王惲(おううん)が後を継いだが、早逝し後継ぎもなかったため爵位が断絶してしまった。
263年、王粛と王朗の功績を惜しみ、勅命で次男の王恂が蘭陵侯となり後を継いだ。
咸熙年間(264~265)、五等の爵位制度が設けられると改めて永県の子爵に封じられた。(『王朗伝』)

王済(おうせい)は同僚の孔恂(こうじゅん)・王恂・楊済(ようせい)とともに将来を嘱望され、司馬炎は「私の左右は、恂恂済済(慎み深く、厳かで恭しい)である」と偶然ツーペアになった四人の名を並べて笑った。(『晋書 王済伝』)

後に山簡(さんかん)は人材登用を奨励し「265年、黄門侍郎の王恂と庾純(ゆうじゅん)は刑罰を論議し尚書の上奏を評定したが、人事に手を付けなかった。簡単なことから先に手を出したのです」と例に挙げた。(『晋書 山濤伝』)

任愷(じんがい)は賈充(かじゅう)の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
任愷には庾純・張華(ちょうか)・温顒(おんぎょう)・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)が味方し、賈充には楊珧(ようちょう)・王恂・華廙(かよく)が肩入れし派閥争いが起こった。
政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)

王恂はかつて賈充を批判したが、賈充は気にせず王恂を推薦し続けた。自分に背いて権力者に取り入る者とも平常心で付き合ったが、公正な節操はなく、媚びへつらう人物を好んだ。

278年、羊徽瑜(ようきゆ)が没し、夫の司馬師に合葬されると河南尹の王恂は「司馬攸(しばゆう)が詣でられなくなる」と反対したが、賈充は「礼の規定では嫡子(司馬炎)だけが詣でればよく、司馬攸は臣下として服喪すればよい」と言った。担当官は「子と臣下の双方の立場で服喪する賈充の建議は前例がない」と王恂を支持したものの、司馬炎は賈充の意見を採択した。(『晋書 賈充伝』)

「世語」に曰く。
広い見識を持ち朝廷では忠実かつ公正だった。
河南尹、侍中を歴任しいずれも評判を立てた。もっぱら公共の利益を考え自己を顧みない忠節心があった。後に汚職で失脚した袁毅(えんき)から駿馬を贈られたが、賄賂と察して受け取らなかった。
(晋の)2つの大学の建立、五経の尊重はいずれも王恂の建言によるものである。
40余歳で亡くなり、車騎将軍を追贈された。
姉妹の王元姫は司馬昭に嫁ぎ司馬炎・司馬攸を生んだ。

「晋諸公賛」に曰く。
8人兄弟で他に王虔(おうけん)・王愷(おうがい)が出世した。(『王朗伝』)



王雋  張登に助けられた県長


王雋(おうしゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「王朗集」に曰く。
張登(ちょうとう)が県主簿の時、黒山賊に郡を襲われた。張登は県長の王雋とともに72人を引き連れて救援したが、敗れて散り散りになり、王雋もほとんど殺されるところだったが、張登が自ら一人の賊と格闘して助けた。
その後、夏逸(かいつ)が冤罪になった時に張登は自ら拷問を担当して事実を暴き、助けてやった。
大理の王朗(おうろう)はこの2人の上官を助けた功績を上奏したが、多忙にかまけて顕彰されなかった。
220年、曹丕の代に鍾繇(しょうよう)とともに改めて上奏すると「忠義は顕著であり職務に功労がある」として張登は太官令(食膳長)に任命された。(『王朗伝』)



王儁  曹操を救世主と呼んだ友人


王儁(おうしゅん)字は子文(しぶん)
豫州汝南郡の人(??~??)

隠者。

「逸士伝」に曰く。
若くして范滂(はんぼう)・許章(きょしょう)に認められ、岑晊(しんしつ)と親しくした。
曹操は平民の頃に特に愛情深く接し、王儁も治世の才能があると曹操を称揚した。
袁紹・袁術の母が亡くなり、葬儀には3万人が参列した。曹操は「天下は乱れようとしている。動乱の中心人物は必ずこの二人だ。天下を救い民の命を助けたいなら、この二人を先に始末しないと、動乱は今に起こる」と言った。
王儁は「その言葉通りなら天下を救うのは君以外に誰がいるだろうか」と言い、笑い合った。

表面は静かだが内心では事理に通じており、州郡や三公から招かれたが応じず、やがて難を避けて荊州武陵郡へ移住した。王儁を慕い百以上の家が同行した。
196年、曹操の庇護を受けた献帝が許昌へ遷都すると、尚書として招いたがそれも固辞した。
荊州牧の劉表(りゅうひょう)が袁紹と同盟すると、王儁は「曹操は天下の傑物で、必ず覇道を歩み古の名君の後を継ぐ男です。近くの曹操を放置し遠くの袁紹と結び、危機に見舞われて砂漠の北から救援を期待しても無駄です」と反対したが、劉表は却下した。

64歳で没した。
曹操は悲しみ、208年に荊州を制圧すると、自身で遺体を迎え、江陵郡へ改葬し先哲として表彰した。(『武帝紀』)



王濬  三国志に終止符を打った男


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王承  馬騰を西へ追いやった後漢の将軍


王承(おうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「典略」に曰く。
初平年間(190~193)、征西将軍として赴任した馬騰(ばとう)は穀物が不足していたため池陽に駐屯し収穫する許可を得た。
ところが将軍の王承らは馬騰が害になると恐れ、駐屯地を攻撃した。馬騰は外出していたため防ぎ切れず敗走し、西方へ逃れた。
董卓らが台頭すると戻るのを諦め韓遂(かんすい)らと結託し西方に居を構えた。(『馬超伝』)



王承  王湛の名士の子


王承(おうしょう)字は安期(あんき)
并州太原郡晋陽県の人(??~??)

晋の臣。
王湛(おうたん)の子。王昶(おうちょう)の孫。

「晋書」に曰く、東海郡の内史となった。
父は兄弟の中で最も徳望があり、王承も名士だった。
王承の子の王述(おうじゅつ)と孫の王坦之(おうたんし)も名声高く、羽振りをきかせた名門だった。(『王昶伝』)

司馬越(しばえつ)のもとで阮瞻(げんたん)は記室参軍を務め、王承・謝鯤(しゃこん)・鄧攸(とうゆう)らとともに働いた。
司馬越は子の司馬毗(しばひ)が品行と道徳に優れないから指導してやって欲しいと彼らに頼んだ。(『晋書 阮籍伝』)



王昌  皇甫酈をわざと逃がす


王昌(おうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「献帝起居注」に曰く。
献帝は皇甫酈(こうほり)が(李傕(りかく)・郭汜(かくし)出身の)涼州の名門で弁舌に長けたため、李傕・郭汜を和睦させようとした。郭汜は承諾したが、李傕は拒絶し皇甫酈を脅して味方に引き込もうとし、皇甫酈は脅し返し、李傕は怒鳴りつけて退出させた。
献帝はただちに皇甫酈を外へ逃がした。李傕は虎賁の王昌に追撃させたが、王昌は皇甫酈が忠義で正しい人物だと知っていたためわざと見逃し、追いつけなかったと報告した。(『董卓伝』)

「演義」でも同様に皇甫酈をわざと逃がした。



王松  劉放に帰順を勧められる


王松(おうしょう)字は不明
幽州漁陽郡の人?(??~??)

魏の臣。

同州出身の劉放(りゅうほう)は孝廉に推挙されたが戦乱が拡大すると、漁陽郡に勢力を持つ王松に身を寄せた。
200年、官渡の戦いに勝利した曹操が河北へ進出すると、劉放は帰順するよう王松に勧めた。後に曹操からも帰順の誘いが届き、劉放が書状を記し降伏した。
曹操は誘う前から説得していたと聞いて興味を抱き、劉放を登用した。(『劉放伝』)



王昭儀  曹幹の養母


王昭儀(おうしょうぎ)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の側室。
昭儀は后妃の位で夫人に次ぐ第2位。(『后妃伝』)

「正史」には曹幹(そうかん)の母と記されるが、註に引く「魏略」によると生母は陳氏(ちんし)で、3歳の時に没したため、王昭儀が代わりに養育したという。

また曹幹の母は曹丕の後継者争いに貢献したため、曹丕は遺言で曹幹を厚遇するよう命じたといい、この母は「正史」に母と記される王昭儀のことと思われる。(『趙王幹伝』)



王祥  命がけの親孝行


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王商  王朗を上回ったと評される


王商(おうしょう)字は文表(ぶんひょう)
益州広漢郡の人(??~211)

劉璋(りゅうしょう)の臣。

「益州耆旧伝」に曰く。
才能と学問に秀で郷里に名声が轟いた。劉璋に召され治中従事となった。
この頃、中原と途絶し州の支配者は戦国時代の諸侯のように権力を持っていたが、劉璋は柔弱で疑い深く、重臣を信頼できなかったものの、王商に諌められると多少反省した。
劉璋の父の劉焉(りゅうえん)はかつて馬騰(ばとう)と共闘し、馬騰の子の馬超も劉璋に同盟を持ちかけた。
だが王商は「馬超は勇敢だが仁愛なく、利益に目がくらみ信義がありません。豊かな益州に目をつけているだけです。もし近づければ虎を養い自ら災の種を蒔くようなものです」と反対し、劉璋も従った。
荊州牧の劉表(りゅうひょう)や高名な宋忠(そうちゅう)は名声を聞き、王商へ手紙を送りねんごろに挨拶した。人物評価に優れた許靖(きょせい)も益州へ移住すると「王商がもし中原に生まれていたら王朗(おうろう)でも上回れなかっただろう」と評した。

宋忠は王商へ「許靖は優秀で才能あるから指南役とすべきです」と勧めた。

「益州耆旧伝」に曰く。
蜀郡太守となり、亡き禽堅(きんけん)の孝行を称えて碑を建て孝廉を追贈した。また厳君平・李弘の祠を建て先賢として表彰した。(『許靖伝』)

同郷の秦宓(しんふく)は出仕せず、王商に「困窮しているがいつまでそんな暮らしを続けるのか。一度おいでになって主君(劉璋)にお会いください」と勧められたが、故事を引き「主君は賢明で、しかもあなたが補佐しているのだから、蕭何・張良のような計略のない私の出る幕ではありません。畑で日に当たり、粗食であばら家に住み、時に林や沢をめぐり、隠者と付き合い、猿や鶴の鳴き声を聴き、安らかで憂いのない生活を楽しんでいます。名も才もないのが身上で、誰にも知られないのが望みで、困窮などしていません」と固辞した。
後に王商が厳君平・李弘の祠を建てたと聞くとそれを称えるとともに、彼らを世に出した揚雄の祠も建てるべきだと進言した。(『秦宓伝』)

「益州耆旧伝」に曰く。
学問を修め農業を広めたため民に感謝された。蜀郡を治めること10年、在職のまま没した。
許靖が後任の太守となった。

許靖の赴任は211年と記される。王商が没したのも同年だろう。(『許靖伝』)



王象  楊俊に救われる


王象(おうしょう)字は羲伯(ぎはく)
司隷河内郡の人(??~222?)

魏の臣。

孤児で奴隷として并州に売られ、17~8歳まで羊飼いをさせられた。主の目を盗んでは書物を読みあさり、見つかると鞭打たれていた。楊俊(ようしゅん)は彼の才を見抜き、身柄を引き取り妻と家を探してやった。(『楊俊伝』)

やがて并州刺史の梁習(りょうしゅう)に名が聞こえ、楊俊・常林(じょうりん)・王凌(おうりょう)・荀緯(じゅんい)とともに推薦され、曹操はみな県長に任じた。(『常林伝』)

文学の才に優れる王象は曹丕に礼遇され、建安七子の亡き後には後進の中で最も才能が高かった。
220年、曹丕が帝位につくと散騎侍郎を経て散騎常侍に上り、列侯された。
詔勅により「皇覧」の著述を命じられ、秘書監を兼任した。多忙な職務と並行しながら、800余万字の大作を2年ほどで完成させた。人々は温厚かつ文才豊かな王象を「儒学の宗家」と称えた。(『楊俊伝』)

「隋書経籍志」には「皇覧」の著者は王象・繆襲(きゅうしゅう)と記される。(『隋書経籍志』)

「皇覧」の制作には桓範(かんはん)らも関わった。(『曹真伝』)

建安年間(196~220)末には潘勖(はんきょく)が、黄初年間(220~226)には王象が、名文家として衛覬(えいき)と並び称された。(『衛覬伝』)

219年、魏諷(ぎふう)が反乱すると、楊俊は責任を感じて自らを弾劾し、免職になると思い込んで曹丕に一方的に別れを告げ、不機嫌にさせた。
翌220年、曹丕が帝位についた頃に楊俊は南陽太守の閑職にあり、王象は彼を都へ呼び戻すよう推挙した。
だが222年、曹丕はかつて後継者争いの際に自分に敵対した楊俊を憎んでおり、些細な罪で自害を命じた。
司馬懿、王象、荀緯らは平伏し、頭から血を流すほど助命嘆願したが、楊俊は罪を認め、自害した。
王象は曹丕の衣をつかみさえしたが、曹丕は「あなたと楊俊の仲は知っている。あなたの言う通り罪を減じれば、私の立場がない。あなたは楊俊と私のどちらを無視するのか」と言い、あまりの言葉の厳しさに思わず手を離したという。

王象も悲憤から病に倒れ、間もなく没した。(『楊俊伝』)



王照  鄭甘の相方


王照(おうしょう)字は不明
司隸馮翊郡の人(??~??)

山賊。

220年、馮翊郡の山賊の鄭甘(ていかん)・王照が降伏し、列侯された。

「王沈の魏書」に曰く。
鄭甘・王照は廬水の蛮族とともに投降した。曹丕は「鮮卑も廬水も討伐せよと言われたが、私は聞き入れなかったが、手を下さずとも降伏してきた。春秋時代の武侯は策略が一つ当たっただけで得意げになり諫言された。私がこうして話すのは誇りたいのではなく、いながらにして降伏させるのは軍を動かすよりも大きな功績だからだ」と自画自賛した。

221年、鄭甘は反逆し曹仁に斬られた。(『文帝紀』)

郭淮は張郃・楊秋(ようしゅう)を監督し、鄭甘や廬水の蛮族を討伐した。(『郭淮伝』)

鄭甘どころか廬水も結局反乱しており即堕ち2コマなのだろうか。
王照の記述はなく、反乱に加担したのかは不明。



王詳  王朗の甥


王詳(おうしょう)字は不明
徐州東海郡郯県の人(??~??)

魏の臣。
王朗(おうろう)の甥(兄の子)。

黄初年間(220~226)、領邑を分割し王朗の子が列侯されたが、願い出て甥の王詳を代わりに列侯させた。(『王朗伝』)



王沈  魏書を著す


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王晨  王淩の兄


王晨(おうしん)字は不明
并州太原郡祁県の人(??~??)

王淩(おうりょう)の兄。

192年、叔父の王允(おういん)が董卓残党の李傕(りかく)らに殺されると、王淩とともに城壁を乗り越えて郷里へ逃げ帰った。

王晨のその後は不明だが王淩は「魏書」に列伝された。(『王淩伝』)



王深  王渾の弟の冀州刺史


王深(おうしん)字は道沖(どうちゅう)
并州太原郡晋陽県の人(??~??)

魏・晋の臣。
王昶(おうちょう)の子。王渾(おうこん)の弟。

王昶は子や甥の名付け親となり、名や字に謙虚・質実を意味するものを選んでやり、彼らのために訓戒を与えた。(『王昶伝』)

264年、蜀を滅ぼした鍾会が反乱すると、郭奕(かくえき)と参軍の王深は、荀勗(じゅんきょく)が鍾会の従甥で、若い頃は鍾氏に養育されていたことから排斥するよう訴えた。しかし司馬昭は却下し、逆に荀勗を馬車に同乗させるなど厚遇した。(『晋書 荀勗伝』)

「晋書」に曰く、王深は冀州刺史に上った。(『王昶伝』)



王遂


未作成



王崇  石亭の戦い直前に魏に寝返った将B


王崇(おうすう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

226~227年頃、張嬰(ちょうえい)とともに軍勢を引き連れて魏へ降伏した。(『賈逵伝』)

228年に周魴(しゅうほう)が偽装投降で曹休(そうきゅう)を騙した石亭の戦いが起こる直前であり、あるいは魏を信用させるための謀略の一環だろうか。



王生  王双の別名?


王生(おうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

228年、曹真(そうしん)は諸葛亮は街亭の戦いの失敗に懲りて次は陳倉を通って出撃するに違いないと読み、郝昭(かくしょう)・王生に城を修理させた。
同年冬(※「曹真伝」によると翌年春)、諸葛亮は陳倉を攻めたが曹真に阻まれ、兵糧が尽きて撤退した。追撃してきた王双(おうそう)を討ち取った。

王生は王双の別名か誤記、または一族の可能性がある。(『曹真伝』・『諸葛亮伝』)



王政  張純を殺した食客


王政(おうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

張純(ちょうじゅん)の食客。

189年、反乱した張純は敗北し、妻子を捨てて鮮卑のもとへ逃げたが、食客の王政に殺された。
王政はその手柄により列侯された。(『公孫瓚伝』)



王晟  孫堅の旧友


王晟(おうせい)字は不明
揚州呉郡嘉興県の人(??~??)

後漢の合浦太守を務めた。

196年頃、孫策が呉郡へ勢力を伸ばした時、烏程県には鄒他(すうた)や銭銅(せんどう)、嘉興県には王晟らがおり、それぞれ数千~1万余の兵を集めていた。
孫策がそれらを討伐すると、母の呉夫人(ごふじん)は「王晟はお前の父(孫堅)とは奥座敷に通り妻と挨拶するほど親しかったが、今や一族は誅滅され彼だけが残りました。老人一人を恐れることはありません」と助命嘆願したため、孫策は王晟だけを見逃し、他(鄒他・銭銅)は一家皆殺しにした。(『孫策伝』)

余談だが「ちくま版」の索引では字面のよく似た王晨(おうしん)と入れ替わっている。



王済  王渾の性悪の子


王済(おうせい)字は武子(ぶし)
并州太原郡晋陽の人(??~??)

晋の臣。
王渾(おうこん)の次男。

若い頃から秀逸な才能を持ち、風貌は凛々しく、気概は盛んだった。
文武両道に優れ、姉婿の和嶠(かきょう)や裴楷(はいかい)と並び称され、常山公主(じょうざんこうしゅ)をめとり司馬炎の娘婿となった。

20歳で中書郎に任じられ、母の喪に服した後に驍騎将軍、侍中と昇進した。
同僚の孔恂(こうじゅん)・王恂(おうじゅん)・楊済(ようせい)とともに将来を嘱望され、司馬炎は「私の左右は、恂恂済済(慎み深く、厳かで恭しい)である」と偶然ツーペアになった四人の名を並べて笑った。
時事を語らず清談を好み、言辞を飾り司馬炎にただ従ったため朝臣からは評価されなかったが、司馬炎の覚えはめでたかった。
昇進は早かったが義父の七光ではなく実力によるものと論者も認めた。(『晋書 王済伝』)

「老子」や「莊子」の解釈に頭を悩ませていたが、常に「王弼(おうひつ)の「易注」を読めば理解の行く点が数多い」と評価した。(『鍾会伝』)

だが表面は典雅に飾るが嫉妬深く自尊心が高く、他人の陰口を好み、父子で揃って、呉討伐の際に抜け駆けした王濬(おうしゅん)を非難したため世評は衰えた。
司馬攸(しばゆう)が兄の司馬炎の不興を買い外へ出されそうになると、妻やその姉妹とともに泣きながら反対させた。司馬炎は「司馬攸とのことは朕の家庭の事情だ。娘を差し向け、葬式でもないのに哭礼させるとは何事だ」と怒り、王済を国子祭酒へ左遷させたが、側近として侍らせ続けた。(『晋書 王済伝』)

「魏書」には左遷された時の役職は左衛将軍と記される。(『文昭甄皇后伝』)

数年後、侍中に復帰した時、人事は上官の王渾をはばかり公正なものではなかった。王済は厳しく容赦ない性格のため、法に照らしてこれを正したが、王済と折り合いの悪い従兄の王佑(おうゆう)の仲間は「父のことも思いやれない不孝行」と非難した。
やがて王済は河南尹に任じられたが、赴任前に父の封国の官吏を勝手に鞭打った罪で罷免され、王佑が代わって後任となり、王済は都にいられなくなり山に移り住んだ。

豪奢な生活を好み、華美な服を着てごちそうを食べた。洛陽の地価は非常に高かったが、土地を買って馬場を作り、その周囲の垣根を、銭の穴にひもを通してとじた物で満たしたので、人々はそれを「金溝」と呼んだ。

司馬炎の舅の王愷(おうがい)も豪奢を好み、「八百里駁」と名付けた牛の蹄や角をいつも研いでいた。
王済はその牛と自身の一千万銭を賭けて、射的の勝負を挑んだ。王愷も腕に覚えがあり、それを受けると先に撃たせたが、王済は一発で的を射止めた。王済は悠々と座椅子に腰掛け、左右の者を叱りつけ牛の心臓を取り出させ調理させた。だがハツを一切れ食べただけで去っていった。

姉婿の和嶠は非常にケチで、庭に立派なスモモの樹があり、それを司馬炎に所望された時さえ、数十個を献上しただけだった。
王済は彼の留守を見計らい、少年たちをけしかけてスモモを食い尽くさせ、挙げ句に樹を根こそぎ盗ませた。

司馬炎が王済の家を訪ねた時、立派な瑠璃の器に盛り付けて食事を振る舞った。司馬炎は砂肝を気に入り、どう調理したのか聞くと、王済は「母乳で蒸しました」と答えた。司馬炎は不快に思い、食事の途中で帰った。

馬の心を理解することができ、ある時に乗っていた馬が川を渡ろうとしないことがあった。服を汚したくないのだろうと察し、馬に着させていた服を脱がせると、やはり川を渡った。「左伝癖」を名乗る杜預(どよ)は、それを聞き王済を「馬癖」と呼んだ。

司馬炎は(王佑と争い)失職した王済をそろそろ復職させようと思い、その際にどう言って反省させたものか和嶠に相談した。和嶠は「彼は才能高く豪放で(自尊心が高いからどうせ)屈服しないでしょう」と言った。
司馬炎は「恥を知ったか」と厳しく問責したが、王済は「陛下が弟(司馬攸)を左遷したことでそしられるのを止められず、私も同じように親族(王佑)と親しくできないことを恥じています」と答え、司馬炎を黙らせた。

かつて晋に降伏後の孫皓(そんこう)に司馬炎が「なぜ人の皮を剥いだりしたのだ」と尋ねた際に、孫皓は司馬炎とだらしない姿勢で囲碁を打っていた王済を見ながら「君主に無礼な者の面を剥いだだけだ」と答えていた。

復職し太常を兼務したが、46歳で父より先に没した。驃騎将軍を追贈された。
葬儀には当時の賢者がことごとく参列した。(『晋書 王済伝』)
王済はかつて出身地の并州の大中正を務めた際に、孫楚(そんそ)を「君たちが評価できるような人物ではない」と言い、自ら「天才にして英邁博識、まことに群を抜いている」と評した。(『劉放伝』)
参列した孫楚はロバの鳴き真似が上手く、王済がよく笑ったことをしのび、鳴き真似を披露した。
あまりにそっくりで周囲の者が笑うと、孫楚は振り返り「諸君が死なずに、なぜ天は王済を死なせたのだ」と嘆いた。(『晋書 王済伝』)

余談だが王粲(おうさん)が没した時に、親友の曹丕がやはりロバの鳴き真似を他の友人とともにしたという逸話と似ているが、曹丕は笑い者にならなかった(させなかった)。同じ性悪でもやはり曹丕のほうが格上である。(『王粲伝』)

妻の常山公主は盲目で、嫉妬深かったため寵愛されず、子をもうけなかった。
二人の庶子のうち、長男の王卓(おうたく)は後に祖父(王渾)の爵位を継ぎ、次男の王聿(おういつ)は母の爵位を継いだ。
弟の王澄(おうちょう)、王汶(おうびん)も重職を歴任した。(『晋書 王済伝』)



王靖


未作成



王詮  何劭の友人


王詮(おうせん)字は不明
豫州陳国の人(??~??)

晋の臣。

同郷の何劭(かしょう)は王詮に「私の名誉や地位は不相応に高いが、若い頃に記録に残るようなことは何もなかった。夏侯駿(かこうしゅん)とともに博士をやり込めた(?)くらいだ」と語った。

301年、何劭が没すると袁粲(えんさん)が弔問に訪れたが、子の何岐(かき)は病気を理由に断った。
中正を務める袁粲は恨み、品(評定)を下げてやると言ったが、王詮に「何岐は以前から過失が多いのに、何劭が亡くなってから格下げしたのでは、あなたは強きを恐れ弱きを侮る者だと言われるでしょう」と諌められ、取りやめた。(『晋書 何曾伝』)



王羨  満長武を恨み陥れる


王羨(おうせん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
260年、曹髦が殺された時に満長武(まんちょうぶ)は門番をしていた。
そこへ司馬昭の弟で、満長武の妹婿でもある司馬幹(しばかん)が現れたが、司馬昭の家に近いため別の門から入るよう促した。そのせいで司馬幹の到着が遅れたのを司馬昭は怒った。参軍の王羨も同じく迂回させられたのを根に持ち、司馬昭に追求するよう言上した。
また257年、諸葛誕の反乱の際に父の満偉(まんい)は病のため従軍せず、その子(満長武?)も父が心配だと反乱が片付くやさっさと離脱したことを根に持っており、とうとう満長武を問責して拷問死させ、満偉も罷免し平民に落とした。人々は同情を寄せた。(『満寵伝』)

「世語」に曰く。
254年、反乱を企んだ李豊(りほう)を逮捕する際、舎人の王羕(おうよう)は司馬師へ「使者として赴き李豊を招きます。準備ができていなければ応じるから捕らえられます。できていても会えれば使者の私一人でどうとでもできます。挙兵されたら手に負えません」と献策した。
李豊は王羕に脅されて司馬師のもとへ連れてこられた。(『夏侯尚伝』)

この王羕が「晋書 景帝紀」では王羨と記される。あるいは同一人物の表記揺れだろうか。(『晋書 景帝紀』)



王潜


未作成



王選  曹操に魏公即位を勧めた祭酒A


王選(おうせん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に祭酒として連名した。(『武帝紀』)

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