三国志 お 1


於夫羅  流浪の王


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区景  張津を殺す


区景(おうけい)字は不明
荊州長沙郡の人(??~??)

張津(ちょうしん)の臣。

交州刺史の張津に仕えていたが、反乱し殺してしまった。(『士燮伝』)

薛綜(せつそう)は「張津は荊州牧の劉表(りゅうひょう)と争い、勝ち目もないのに年ごと出兵したため兵は反発した。それを引き締めようとしたところ殺された」と振り返った。(『薛綜伝』)

区景は「古今図書集成」には長沙の人で蒼梧太守と記されているそうで、単なる一将の反乱くらいに思っていたが、太守による刺史の謀殺という一大事になって驚いた。

それとも張津の暗殺と前後して蒼梧太守の史璜(しこう)が没し、劉表が刺史と太守の後任を勝手に派遣しており、それに対抗し朝廷が正式な太守として、張津の兵を受け継いでいただろう区景を指名した、という流れも考えられるか。

また長沙の区氏といえば、孫堅に187年に討伐された区星(おうせい)がおり、珍しい姓なのでまず間違いなく区景と同族であろう。
区星は孫堅に瞬殺されたが1万もの兵を率いており、それなりの名家であったことは確かである。



区星  長沙の大盗賊


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王威  大言壮語


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王偉  李傕に殺されかけた大臣A


王偉(おうい)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「献帝紀」に曰く。
李傕(りかく)は太常の王偉らを嫌悪していたため殺そうとしたが、賈詡に「天子の大臣をなぜ殺そうとするのか」と諌められ思いとどまった。(『賈詡伝』)



王異  奥様は烈女


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王彧  程昱を推薦した劉岱配下


王彧(おういく)字は不明
出身地不明(??~??)

劉岱(りゅうたい)の臣。

初平年間(190~193)、兗州刺史の劉岱は袁紹・公孫瓚(こうそんさん)と同盟し、袁紹は妻子を預け、公孫瓚は従事の范方(はんほう)に騎兵を任せ援護させていた。公孫瓚は袁紹と敵対し、撃破すると劉岱へ「袁紹の妻子を渡さなければ范方を引き上げさせ、袁紹の次にお前を殺す」と脅した。
劉岱は決断できず、別駕の王彧が「程昱(ていいく)は策謀があり大事を定めます」と進言したため意見を求めると「袁紹という近きを捨てて公孫瓚という遠くに助けを求めるのは、溺れる子を助けるため遠国から人を呼ぶようなものです。そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。一時の勝利を得ましたが結局は敗れます」と言われた。
劉岱はそれに従い、范方は引き上げたが公孫瓚は合流する前に袁紹に大敗した。(『程昱伝』)



王彧


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王允  剛毅さ、身を滅ぼす


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王贇  廖化に敗れた広魏太守


王贇(おういん)字は不明
出身地不明(??~238)

魏の臣。

「魏書」に曰く。
238年、蜀の廖化(りょうか)が宕蕈(とうしん)を攻撃した。雍州刺史の郭淮は広魏太守の王贇と南安太守の游奕(ゆうえき)に救援させたが、挟み撃ちを狙っていると聞いた曹叡は不利を悟り游奕を移動させるよう命じた。
しかし勅命が届く前に游奕は廖化に撃破され、王贇も流れ矢に当たり戦死した。(『明帝紀』)



王惲  王粛の長男


王惲(おううん)字は不明
徐州東海郡郯県の人(??~??)

魏の臣。
王粛(おうしゅく)の子。王朗(おうろう)の孫。

256年、父が没すると後を継いだが、早逝し後継ぎもなかったため爵位が断絶してしまった。
263年、王粛と王朗の功績を惜しみ、勅命で次男の王恂(おうじゅん)が後を継いだ。(『王朗伝』)



王営  東牟の賊徒


王営(おうえい)字は不明
青州東莱郡東牟の人(??~??)

賊徒。

3千軒あまりを率いて昌陽県を脅し反乱したが、何夔(かき)に計略を授けられた王欽(おうきん)によって離散させられた。(『何夔伝』)



王叡  黄金一気飲み


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王越  曹丕の剣の師の師


王越(おうえつ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「典論」に曰く。
曹丕は「多くの師匠に剣術を学んだが、東西南北の剣術はそれぞれ異なり、最も優れていたのは都のものだった。桓帝・霊帝の頃に虎賁(近衛兵)の王越が都で高名で、彼の剣術を会得した史阿(しあ)に私は師事した」と語った。(『文帝紀』)



王延  郭馬に殺された王蕃の弟B


王延(おうえん)字は不明
揚州廬江郡の人(??~279)

呉の臣。
王蕃(おうばん)の弟。

王蕃は孫晧の逆鱗に触れ266年に殺され、弟の王著(おうちょ)と王延は広州に強制移住させられていた。
二人はそれぞれ立派な才能を備えていたが、279年に反乱した郭馬(かくば)に従わなかったため殺された。(『王蕃伝』)



王衍


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王琰  高幹を討ち取る


王琰(おうえん)字は不明
司隷左馮翊郡の人(??~??)

魏の臣。

同時代に王琰という人物は二ヶ所に見え、記述は少ないが同一人物としても差し支えないので、事績をまとめる。

206年、曹操に反乱するも敗れた高幹(こうかん)は、荊州へ落ち延びる途上で上洛都尉の王琰に首を獲られた。(『武帝紀』)

これにより王琰は列侯されたが、一報を聞いた妻は、富貴を得た夫は妾を取り自分を捨てるだろうと考え、泣き叫んだと伝わる。(『袁紹伝』)

護羌校尉の王琰は左馮翊の人で、清廉潔白ではないが各地の太守を歴任した。
また子の王嘉(おうか)は県令を歴任し、中正として同郷の吉茂(きつぼう)を「人品は立派だが容姿は劣る。徳に優れるが能に乏しい」と評した。
吉茂は「私はお前たち父子のように権威を笠に着ない」と言い返した。(『常林伝』)

二人の王琰が同一人物だとすれば、彼は清廉潔白ではなく、皮肉られる程度には地位を笠に着る人物であり、妻が危惧した通りに妾を取ったことは想像に難くない。



王翁  王基の叔父


王翁(おうおう)字は不明
青州東莱郡曲城県の人(??~??)

魏の臣。
王基(おうき)の叔父。

王基は早くに孤児となったため、叔父の王翁に養育された。王翁は非常に慈しみ、王基も父のように仕え孝行を称賛された。

255年、反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)の討伐に大功のあった王基は鎮南将軍・都督に昇進し列侯されるなど激賞された。
王基は叔父の恩に報いるため、王翁の子の王喬(おうきょう)に所領を200戸分け与え、関内侯に封じるよう願い出て、許可された。(『王基伝』)



王纓  袁術か王匡か袁紹に殺された朝廷の使者


王纓(おうおう)字は不明
出身地不明(??~190?)

後漢の臣。

190年、(董卓が牛耳る)朝廷から韓融(かんゆう)、陰脩(いんしゅう)、胡母班(こぼはん)、越騎校尉の王纓らが関東の争いを仲裁するため各地へ遣わされた。
しかし袁術、王匡(おうきょう)らに殺され、韓融だけが無事だった。(『後漢書 献帝紀』)

「袁紹伝」には別の経緯が記される。
190年、袁紹が挙兵すると董卓は都にいたその家族を皆殺しにした。そして韓融らに命じて袁紹の兵を収拾させようとしたが、袁紹の命を受けた王匡によってみな殺され、韓融だけが名声により難を逃れた。(『後漢書 袁紹伝』)



王夏  早逝した王祥の次男


王夏(おうか)字は不明
徐州琅邪郡臨沂県の人(??~??)

晋の臣。
王祥(おうしょう)の次男。

268年に父が没すると、長男の王肇(おうちょう)は妾腹で、次男の王夏は早逝していたため三男の王馥(おうふく)が爵位を継いだ。(『晋書 王祥伝』)



王嘉  吉茂を酷評した王琰の子


王嘉(おうか)字は不明
司隷左馮翊郡の人(??~??)

魏の臣。
王琰(おうえん)の子。

各地の県令を歴任し、世故に長けた人物と評された。
220年、九品官人法が制定されると、王嘉は散騎侍郎から中正に上り、郡内の人物に等級を付けた。吉茂(きつぼう)を「人品は上級に当たるが容姿ははなはだ劣る。徳に優れるが能に乏しい」と評した。
吉茂は「私はお前たち父子のように権威を笠に着ない」と言い返した。(『常林伝』)



王乂  王衍の父


王乂(おうがい)字は不明
徐州瑯邪郡臨沂県の人(??~??)

魏の臣。
王雄(おうゆう)の次子。

平北将軍に上った。

後に晋の名将となる祖逖(そてき)は早くに父を亡くし、兄の祖訥(そとつ)は母と弟らへの孝行で知られていた。
王乂は祖訥に目を掛け、二人の女召使いを与えた。
ある人が祖訥を「男奴隷(祖訥)は女奴隷の2倍の値段か」とからかうと、祖訥は「百里奚は羊の皮5枚より安いのか?」と言い返した。(※秦の宰相の百里奚は奴隷の頃に、羊の皮5枚で買われた)(『世説新語』)

任地の北平郡で没した。
子の王衍(おうえん)は北平郡へ手厚く寄付し、父の旧臣に惜しみなく金を貸し、数年のうちに家財を無くして名を上げた。(『晋書 王衍伝』)

子の王衍は太尉に、王澄(おうちょう)は荊州刺史に上った。

父はかつて幽州刺史を務め、反乱した鮮卑の大人(王)の軻比能(かひのう)へ刺客を送り暗殺した。
兄の王渾(おうこん ※呉討伐で活躍した王渾とは別人)は涼州刺史へ上り、その子の王戎(おうじゅう)は司徒に上り、また竹林の七賢に名を連ねた。(『崔林伝』)



王悝


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王海


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王凱  王弼の祖父


王凱(おうがい)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

荊州牧の劉表(りゅうひょう)の娘婿。

族弟の王粲(おうさん)とともに荊州へ避難した時、王粲の聡明さを聞いた劉表は、娘婿に迎えようとした。
だが引見すると容貌が醜く、性格も軽率だったため、容姿の優れた王凱を娘婿にした。

その後、王粲は魏の重臣となったが、没後に二人の息子が魏諷(ぎふう)の反乱に加担したため処刑された。
家が絶えるのを惜しみ、曹丕は王凱の子の王業(おうぎょう)に後を継がせた。

王業も高位に上り、その子の王弼(おうひつ)は玄学の始祖に挙げられる。(『鍾会伝』)



王愷  王恂の性悪の弟


王愷(おうがい)字は君夫(くんふ)
徐州東海郡郯県の人(??~??)

魏・晋の臣。
王粛(おうしゅく)の子。
王朗(おうろう)の孫。王元姫の兄弟。

「晋諸公賛」に曰く。
8人兄弟で他に王恂(おうじゅん)・王虔(おうけん)が出世した。
若い頃から才能力量があったが品行悪かった。石崇(せきすう)と仲が良く、ともに豪奢を競い合い、後将軍まで上った。(『王朗伝』)

「冀州記」に曰く。
牽秀(けんしゅう)は優れた才能の持ち主で若くして立派な評判を得たが、黄門侍郎の王愷とは平素から軽蔑し合っていた。
王愷は司隷校尉の荀愷(じゅんがい)に「牽秀は田興(でんこう)の妻と車に同乗した」と誣告した。牽秀は即座に上奏して否定し、あわせて王愷の醜悪さを激烈な文辞で訴えた。
多数の朝臣が無実を証明してやったが、名誉は大いに損なわれた。(『牽招伝』)

牽秀は司馬炎の舅(おじ)の王愷を堂々と非難し、結局罷免された。(『晋書 牽秀伝』)

司馬炎の娘婿の王済(おうせい)は豪奢な生活を好み、王愷も同様で「八百里駁」と名付けた牛の蹄や角をいつも研いでいた。
王済はその牛と自身の一千万銭を賭けて、射的の勝負を挑んだ。王愷も腕に覚えがあり、それを受けると先に撃たせたが、王済は一発で的を射止めた。王済は悠々と座椅子に腰掛け、左右の者を叱りつけ牛の心臓を取り出させ調理させた。だがハツを一切れ食べただけで去っていった。(『晋書 王渾伝』)



王悝  王観の子


王悝(おうかい)字は不明
兗州東郡廩丘県の人(??~??)

魏・晋の臣。
王観(おうかん)の子。

226年、曹叡は帝位につくと、郡・県の状況を劇・中・平の三段階で報告するよう命じた。
王観が太守を務める涿郡の担当官は中・平(安泰)で報告するつもりだったが、王観は「国境と接したびたび被害を蒙っているのになぜ劇(危険)にしないのだ」と叱責した。
劇にすれば太守は(裏切りを避けるため)都へ人質を差し出すことになっており、王観には一人の子がいるだけで、しかも幼かったため、担当官はそれを気遣ったのだが、王観は「支配者は人民のために存在する。太守の利益のために郡の人民を裏切って良いものか」と言い、劇と報告させ人質を送った。
このように公正かつ清廉かつ質素で、我が身を引き締め、部下にも慎ましい態度を取ったため、部下はみな務めに励んだ。

260年、父が没すると後を継いだ。

咸熙年間(264~265)に改めて父の功績を評価され、王悝は膠東子に取り立てられた。(『王観伝』)



王楷  許汜の相方


王楷(おうかい)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操、後に呂布に仕えた。

はじめは曹操に仕え従事中郎を務めたが194年、曹操が徐州に遠征した隙に陳宮(ちんきゅう)、張邈(ちょうばく)、許汜(きょし)らと共謀し、呂布を迎え入れ反乱した。
一時は兗州の大半を制圧したが、反転してきた曹操に撃破され、以降、陳宮・許汜・王楷は呂布に仕えた。

198年、呂布は下邳城を曹操に包囲されると、袁術(えんじゅつ)のもとに許汜・王楷らを送り救援要請した。
渋る袁術を「呂布が滅びれば次はあなたの番です」と説き伏せ、呂布の娘を袁術の息子とめあわせる条件で承諾を得た。
だが呂布は娘を引き渡さなければ援軍が得られないのではと懸念し、自ら連れ出そうとしたが、包囲された城から娘を脱出させるのは難しく、結局援軍も間に合わず、呂布は滅亡した。

その後、許汜は荊州の劉表(りゅうひょう)のもとへ落ち延びたが、王楷の消息は不明である。(『呂布伝』)

「演義」には許汜ともども袁術への救援要請の場面にしか登場しない。



王含  楽城を守る。以上


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王咸  劉焉に殺された益州の豪族


王咸(おうかん)字は不明
益州の人(??~188?)

益州の豪族。

188年、益州牧に赴任した劉焉(りゅうえん)は独立の野心を秘めており、権力拡大のために李権(りけん)・王咸ら豪族を十数人殺した。(『劉焉伝』)



王簡  反乱で殺された県長の亡骸を郷里まで運ぶ


王簡(おうかん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の平民。

257年、玄菟郡高顕県で反乱が起き、県長の鄭熙(ていき)が殺されると平民の王簡はその亡骸を背負い、郷里まで運んでやった。
曹髦は詔勅を下して称賛し、王簡を忠義都尉に任命し表彰した。(『高貴郷公紀』)



王観  公正にして揺るがず


王観(おうかん)字は偉台(いだい)
兗州東郡廩丘県の人(??~260)

魏の臣。

若くして父を失い貧しかったが、心を奮い立たせくじけなかった。
曹操に召され丞相文学掾となり、高唐・陽泉・酇・任の県令を務め、治績を讃えられた。

220年、曹丕が帝位につくと都に上り、尚書郎、廷尉監となり、南陽・涿の太守を歴任した。
涿郡は鮮卑との国境にあり、しばしば侵入や略奪に遭っていたため、住民を十軒以上集めてともに暮らせさ、物見台を築いて見張らせた。反発する者もいたが、王観は役人らに期限を切らず休暇を出して家族を助けさせ、仕事が終わったら戻るよう命じたため、彼らはおのずから協力するようになり、10日で準備は整い、鮮卑の侵攻は止まった。

226年、曹叡は帝位につくと、郡・県の状況を劇・中・平の三段階で報告するよう命じた。
涿郡の担当官は中・平(安泰)で報告するつもりだったが、王観は「国境と接したびたび被害を蒙っているのになぜ劇(危険)にしないのだ」と叱責した。
劇にすれば太守は(裏切りを避けるため)都へ人質を差し出すことになっており、王観には一人の子がいるだけで、しかも幼かったため、担当官はそれを気遣ったのだが、王観は「支配者は人民のために存在する。太守の利益のために郡の人民を裏切って良いものか」と言い、劇と報告させ人質を送った。
このように公正かつ清廉かつ質素で、我が身を引き締め、部下にも慎ましい態度を取ったため、部下はみな務めに励んだ。

曹叡は王観を招き治書侍御史に任じ、政府高官の裁判を担当させた。
当時は一時の感情で事件を起こす者が多かったが、王観は誰にもおもねらず公正に裁いた。
司馬懿の推挙により従事中郎となり、尚書に上り、河南尹を務め、少府に転任した。

曹爽(そうそう)は実権を握ると張達(ちょうたつ)に命じて他家の屋材を勝手に切り取ったり、私物を奪い私腹を肥やしたが、王観は被害に遭った物の目録を作り、その全てを没収した。
少府は魏の蔵を管理していたため、曹爽は従わない王観をはばかり、太僕に転任させた。

249年、司馬懿は曹爽一派を粛清すると、王観を中領軍代行とし、曹爽の弟が率いていた軍勢を統率させた。
関内侯に封じられ、尚書に復帰し、駙馬都尉を加えられた。(『王観伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に尚書・関内侯として連名した。(『斉王紀』)

同年、曹髦が帝位につくと中郷亭侯に進み、光禄大夫も加えられ、尚書右僕射に転任した。(『王観伝』)

256年、盧毓(ろいく)は司空になると王昶(おうちょう)・王観・王祥(おうしょう)を強く推薦した。(『盧毓伝』)

260年、曹奐が帝位につくと陽郷侯に進み、1千戸を加増され2500戸となった。司空に任じられたがそれを固辞したものの、使者が派遣され自宅で任命を受けた。
だが数日後に返上し、ただちに郷里へ帰り、4ヶ月後に没した。
葬儀は質素にするよう命じ、粛侯と諡され、子の王悝(おうかい)が後を継いだ。

咸熙年間(264~265)に改めて功績を評価され、王悝は膠東子に取り立てられた。(『陳留王紀』・『王観伝』)

陳寿は「清潔・剛直で誠実・潔白」と評した。

「演義」では中領軍代行として司馬懿を助ける場面にのみ登場する。



王岐  虞忠に見出された自分を棚に上げる


王岐(おうき)字は不明
揚州会稽郡余姚県の人(??~??)

呉・晋の臣。

「会稽典録」に曰く。
王岐は家柄が低かったが、人物鑑定に優れる同県出身の虞忠(ぐちゅう)は親しく付き合い、先に王岐が宜都太守となり、虞忠がその後任となった。

呉の滅亡後は晋に仕えたと思われる。

虞忠の弟の虞聳(ぐしょう)は、無名で後ろ盾のない身分の低い者を推挙するのを好んだ。
王岐は「優れた人物は必ず人々に抜きん出て異彩を放つから、無名の者に有能な者などいない」と批判した。
虞聳は一族の後輩の虞察(ぐさつ)に「今の世は無名の人材を発掘せず、人々が称賛するのはすでに高く評価された者だけ、けなすのは悪評を得た者だけでつくづく残念だ」とぼやいた。(『虞翻伝』)

それにしても虞聳の兄に目を掛けられておいて、完全に自分を棚に上げたしょうもない批判である。



王起  賈輔の激励を将兵に伝える


王起(おうき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

264年、蜀を滅亡させた鍾会は成都で反乱し討伐された。
その時、相国左司馬の夏侯和(かこうか)と騎士曹属の朱撫(しゅぶ)は相国(司馬昭)の使者として成都に滞在していた。鍾会は夏侯和・朱撫や、配下で中領軍司馬の賈輔(かほ)・郎中の羊琇(ようしゅう)に反乱に加担するよう迫ったが、4人は危険を顧みず拒絶した。
賈輔は散将の王起に「鍾会は凶暴で将兵をことごとく殺そうとしているが、司馬昭が30万の兵を率い既に討伐に向かっている」と誇張して話し、人々を奮い立たせようとした。王起から将兵にこの言葉が伝わったため士気が上がり鍾会は速やかに討伐された。
曹奐は詔勅を下して称え、夏侯和・賈輔を郷侯に、朱撫・羊琇を関内侯に封じた。王起も部曲の将に昇進した。(『陳留王紀』)



王基  魏後期の完璧超人


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王寄


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王貴人


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王貴人  劉禅の長男を生む


王貴人(おうきじん)名は不明
出身地不明(??~??)

劉禅の側室。劉璿(りゅうせん)の母。

もともと正室の敬哀皇后(けいあいこうごう)の侍女だったが劉禅に手を付けられ、長男の劉璿を224年に生んだ。
劉璿は皇太子に立てられたが武芸と遊興を好み、たびたび諫言されたという。(『劉璿伝』)

彼女について事績はほとんど残っていないが、敬哀皇后が立后されたのは223年のことで、その翌年に事もあろうに長男を生んだ彼女への風当たりは想像するだに恐ろしい。
敬哀皇后の没後の238年にはその妹が立后されており、風当たりは少しも変わらなかったことであろう。



王頎  李傕・郭汜に殺された後漢の重臣C


王頎(おうき)字は不明
出身地不明(??~192)

後漢の臣。

「漢紀」に曰く。
192年、董卓が暗殺されると残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは兵を集め長安の都を攻め落とした。
司徒の王允(おういん)、太僕の魯馗(ろき)、大鴻臚の周奐(しゅうかん)、城門校尉の崔烈(さいれつ)、越騎校尉の王頎らが殺された。(『董卓伝』)

魯馗・周奐・王頎は「李傕・郭汜に殺された」以外の事績が無いがなぜか「演義」にも登場する。



王頎  張政を倭に送る


王頎(おうき)字は孔碩(こうせき)
青州東莱郡の人(??~??)

魏の臣。

245年、玄菟太守の王頎は毌丘倹(かんきゅうけん)の高句麗討伐に従い、夫余に兵糧を供出させ、千里以上にわたり追撃し位宮(いきゅう)を撃破した。(『毌丘倹伝』・『東夷伝』)

その際に地元の老人に東方に島があるか尋ね、女ヶ島と腕長族とうなじにも顔がある民族が住んでいると教えられた。

247年、帯方太守に赴任した王頎のもとに卑弥呼が救援を求めたため、張政(ちょうせい)を送り、卑弥弓呼(ひみここ)との争いを仲裁させた。(『東夷伝』)

263年、天水太守の王頎は鄧艾の蜀征伐に従い、牽弘(けんこう)・楊欣(ようきん)とともに三方から姜維を攻め、戦果を上げた。(『鄧艾伝』)
その後は名前が出てこないが、牽弘・楊欣は引き続き蜀征伐に登場しており、王頎も従軍していたと思われる。

ちなみに孫の王弥(おうび)は前趙の初代皇帝・劉淵(りゅうえん)の片腕として活躍した、晋にとっての大逆賊である。
また「晋書 王弥伝」には王頎は汝南太守と記されており、辺境専門ではなかったらしい。



王毅  呉滅亡時の蒼梧太守


王毅(おうき)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

280年、呉が滅亡すると広州牧の滕脩(とうしゅう)は、広州刺史の閭豊(りょほう)、蒼梧太守の王毅とともに自身の印綬を晋へ送り届けた。(『晋書 滕脩伝』)



王儀  司馬昭に理不尽に殺された王脩の子


王儀(おうぎ)字は朱表(しゅひょう)
青州北海郡営陵の人(??~252)

魏の臣。
王脩(おうしゅう)の子。

気品があり明るく誠実な人物だった。
安東将軍の司馬昭の司馬を務めていたが252年、東関の戦いで呉軍に敗れると、司馬昭に「誰が責任を負うべきか」と聞かれ、「責任は軍の統帥にあります」と答えたところ「罪を私に押し付けるのか」と殺害された。

子の王襃(おうほう)は父の死を嘆いて隠遁し、終生誰にも仕えなかった。(『王脩伝』)



王徽


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王夔  王皇后(曹芳)の父


王夔(おうき)字は不明
出身地不明(??~??)

曹芳の三番目の皇后の王皇后(おうこうごう)の父。

「王沈魏書」に曰く。
251年、曹芳は甄皇后(しんこうごう)を亡くすと、寵愛する王貴人を立后しようとしたが、郭太后(かくたいこう)の反対により、やむなく翌年に張皇后(ちょうこうごう)を立てた。

だが254年、張皇后の父の張緝(ちょうしゅう)が同郷の親友の李豊(りほう)と、魏の重鎮の夏侯玄(かこうげん)とともに司馬師の暗殺を企むも、計画は露見し一網打尽にされた。
張皇后は廃位され、代わって王貴人が皇后に立てられた。

奉車都尉だった王夔は広明郷侯・(張緝が務めていた)光禄大夫・特進に、妻の田氏(でんし)は宣陽郷君に任じられた。
しかし同年、曹芳は司馬師によって廃位された。
王皇后と両親のその後は不明である。(『斉王紀』)



王九真  曹操が匹敵した名棋士B


王九真(おうきゅうしん)字が九真か
司隸馮翊郡の人?(??~??)

棋士?

「博物志」に曰く。
山子道(さんしどう)、王九真、郭凱(かくがい)は囲碁の名手だが曹操の腕前は彼らに匹敵した。(『武帝紀』)

九真は任地で九真太守なのかもしれない。



王休


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王休


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王匡  義侠君主


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王喬  王基の従兄弟


王喬(おうきょう)字は不明
青州東莱郡曲城県の人(??~??)

魏の臣。
王翁(おうおう)の子。

王基(おうき)は早くに孤児となったため、叔父の王翁に養育された。王喬とも兄弟同然に育ったと思われる。(『王基伝』)

234年、曹幹(そうかん)のもとに曹簒(そうさん)と王喬が訪れたが、時節を間違えたため、勝手に賓客と交際する罪を犯したと上奏された。
だが曹叡は詔書を送り戒めるだけに留め、処罰しなかった。(『趙王幹伝』)

255年、反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)の討伐に大功のあった王基は鎮南将軍・都督に昇進し列侯されるなど激賞された。
王基は叔父の恩に報いるため、王喬に所領を200戸分け与え、関内侯に封じるよう願い出て、許可された。(『王基伝』)



王業  王弼の父


王業(おうぎょう)字は長緒(ちょうしょ)
兗州山陽郡の人(??~??)

魏の臣。
父は王凱(おうがい)、母は劉表(りゅうひょう)の娘。

父の王凱が族弟の王粲(おうさん)とともに荊州へ避難した時、王粲の聡明さを聞いた劉表は、娘婿に迎えようとした。
だが引見すると容貌が醜く、性格も軽率だったため、容姿の優れた王凱を娘婿にした。

その後、王粲は魏の重臣となったが、没後の219年、二人の息子が魏諷(ぎふう)の反乱に加担したため処刑された。
家が絶えるのを惜しみ、曹丕は王業に後を継がせた。同時に王粲が大学者の蔡邕(さいよう)から譲り受けていた、1万巻もの蔵書も受け継いだ。
景初年間(237~239)頃?、尚書郎を務め、謁者僕射まで上った。

上の子の王宏(おうこう)も司隷校尉に上り、下の子の王弼(おうひつ)は玄学の始祖に挙げられる。(『鍾会伝』)



王業  司馬昭へご注進


王業(おうぎょう)字は不明
益州上庸郡武陵県の人(??~??)

魏・晋の臣。

260年、曹髦は魏の実権を握る司馬昭を討つため、王経(おうけい)、王沈(おうちん)、散騎常侍の王業を呼び寄せ計画を告げた。王経は無謀だと諌めたが、曹髦は聞き入れなかった。
王沈・王業はすかさず司馬昭へ注進した。王経は誘われたが固辞した。
曹髦は返り討ちにあって刺殺され、王経も(注進しなかった罪で)捕らえられ一族皆殺しを命じられた。

「世語」に曰く。
王経はまっとうな人間だったので注進せず、王沈・王業に頼んで司馬昭へ気持ちを伝えさせた。

「晋諸公賛」に曰く。
王沈・王業は王経も誘ったが、王経は従わず「あなたたちは行きなさい」と言った。(『高貴郷公紀』)

「世語」に曰く。
王業が司馬昭へ王経の気持ちを説明しなかったため処刑されたのである。(『夏侯玄伝』)

後に晋の中護軍となった。(『高貴郷公紀』)

268年(『孫晧伝』)、南中監軍の霍弋(かくよく)は、新たな交阯太守の楊稷(ようしょく)を援護するため、益州から毛炅(もうけい)、王業らと大軍を率いて出撃し、呉の大都督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)を討ち取った。(『晋書 陶璜伝』)



王金


未作成



王金虎


未作成



王欽  何夔に計略を授けられる


王欽(おうきん)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

王営(おうえい)が3千軒あまりを率いて昌陽県を脅し反乱した時、官吏の王欽は何夔(かき)に授けられた計略で彼らを離散させた。(『何夔伝』)



王訓


未作成



王恵陽


未作成



王経  母子ともに死に場所を得る


王経(おうけい)字は彦緯(げんい)
冀州清河郡の人(??~260)

魏の臣。

崔林(さいりん)は王経を平民から抜擢し称賛された。(『崔林伝』)

許允(きょいん)とともに冀州の名士とうたわれた。
やがて太守に上ると、母は「お前は農家の身から太守にまでなりました。物事が上手く行き過ぎるのは不吉です。(出世は)このあたりでやめておきなさい」と忠告したが、王経は聞き入れず2州の刺史と司隷校尉を歴任した。(『夏侯玄伝』)

官を辞して帰郷した時、占術師の管輅(かんろ)が訪ねてきた。王経は怪事があったので占って欲しいと頼み、管輅は「夜に小鳥のような光が現れてあなたの懐に入り、ゴロゴロと鳴りましたね。あなたは上着を脱いでご夫人方を呼び、光を探させたでしょう」と的中させ、吉兆であり昇進すると見立てた。
王経はほどなく江夏太守になった。

「管輅別伝」に曰く、王経ははじめ占いを信じず、でたらめだと言った。管輅は笑って「あなたは物に通じる方として知られているのにお心が狭い。道を明らかにするためなら聖者や賢人も自分の意見を曲げません。ましてや私は下賤の身だから反論します」と言い、故事を引いて滔々と卜占の意義を論じた。
王経は冗談だったと謝り、いつも「管輅は真理に通じている。まぐれ当たりなどではない」と言った。(『管輅伝』)

江夏太守の時、大将軍の曹爽(そうそう)が絹を渡し呉との交易を命じたところ、王経は文書を開きもせず、官を辞して帰郷した。
母は職務放棄に激怒し、刑吏のもとへ送り50回杖打ちさせた。曹爽はそれを聞き処罰しなかった。(『夏侯玄伝』)

255年(『高貴郷公紀』)、姜維が挙兵すると、蜀方面の司令官を務める陳泰(ちんたい)へ、雍州刺史の王経は「姜維は三路から進軍しています。我々も三手に分かれて迎撃しましょう」と進言した。だが陳泰は戦力分散を危ぶみ、王経を狄道に駐屯させ連携しようとした。
しかし進軍中に王経は蜀軍と出くわし、大敗して狄道に逃げ込み、包囲された。(『陳泰伝』)

王経軍の戦死者は数万に及んだ。(『姜維伝』)
王経軍の戦死者は5桁に上った。(『張翼伝』)

鄧艾らは「蜀軍は士気高く、(狄道を捨てて)いったん兵を引き態勢を立て直すべきだ」と主張したが、陳泰は「雍州の兵は心を一つにし、容易に城は落ちない。蜀軍は城を囲んで停滞し、むしろ士気は落ちている。兵糧も尽きかけており今こそ攻め時だ」と攻撃を命じた。
陳泰は姜維の伏兵も看破し、蜀軍を撤退させた。王経は「あと10日で城の兵糧は尽き、狄道はおろか雍州も落ちたでしょう」と嘆息し、陳泰の判断を称えた。(『陳泰伝』)

鄧艾は陳泰・王経の後任として対蜀方面を任された。人々は蜀軍に余力はなく遠征は行われないと考えたが、鄧艾は「王経の敗戦は小さな被害ではない。将兵は失われ、兵糧は尽き、住民は流浪した。蜀軍はそれに乗じる」と反論し、必ずまた兵を挙げると予測し的中させた。(『鄧艾伝』)

王経は後に司隷校尉に上ると向雄(しょうゆう)を都官従事に抜擢した。
甘露年間(256~260)に尚書となった。(『夏侯玄伝』)

260年、曹髦は魏の実権を握る司馬昭を討つため、王経、王沈(おうしん)、王業(おうぎょう)を呼び寄せ計画を告げた。王経は「司馬氏の専横は今に始まったことではなく、朝廷も天下も牛耳られています。兵はおろか武器も足りないのに成功するわけがありません」と無謀さを諌めたが、曹髦は聞き入れなかった。
王沈・王業はすかさず司馬昭へ注進した。王経は誘われたが固辞した。
曹髦は返り討ちにあって刺殺され、王経も(注進しなかった罪で)捕らえられ一族皆殺しを命じられた。

王経の母も処刑された。母は顔色一つ変えず「あの時お前を(出世をやめるよう)引き止めたのは、死に場所を得られないことを心配したからです。こうして(帝に忠義を貫き)死ねるなら、何を恨むことがありましょうか」と言った。

かつて抜擢された向雄は(身の危険を顧みず)刑場で慟哭し人々を感動させた。
雍州刺史の時の部下の皇甫晏(こうほあん)は家財を売り払って遺体を引き取り、埋葬した。

265年、司馬炎は「王経は法により処刑されたとはいえ、志操を貫き通したのは評価すべきだ。残った一族を不憫に思っていた」と孫に郎中の位を与えた。(『高貴郷公紀』・『夏侯玄伝』)



王虔  王恂の出世した弟


王虔(おうけん)字は恭祖(きょうそ)
徐州東海郡郯県の人(??~??)

魏・晋の臣。
王粛(おうしゅく)の子。
王朗(おうろう)の孫。王元姫の兄弟。

「晋諸公賛」に曰く。
8人兄弟で他に王恂(おうじゅん)・王愷(おうがい)が出世した。
王虔は優れた事務能力を称えられ、尚書まで上った。
子の王康(おうこう)・王隆(おうりゅう)も高位に上り重用された。(『王朗伝』)



王謙  王粲の父


王謙(おうけん)字は不明
兗州山陽郡高平県の人(??~??)

後漢の臣。
王粲(おうさん)の父。

父・祖父ともに三公の家柄で、大将軍の何進(かしん)の長史を務めた。何進は姻戚関係を結びたいと思い、二人の娘から嫁を選ばせようとしたが、王謙は拒否した。
病気で罷免され家で(無官で)没した。(『王粲伝』)



王元姫  才色兼備


王元姫(おうげんき)字は不明
徐州東海郡郯の人(217~268)

王粛(おうしゅく)の娘で、司馬昭の妻。
西晋の初代皇帝・司馬炎を生んだ。

魏の重臣・王朗(おうろう)の孫として生まれる。
幼い頃から才知にあふれ、詩論を暗誦し、徳行も優れていたため、王朗には男として生まれなかったことを惜しまれた。
成人するとすぐに司馬昭に嫁いだ。義父母に尽くし、目下の者にもへりくだって接し、誰からも敬意を払われた。

鍾会が重用されるようになると、その人物を見て「彼は自分の利益だけを見て義を忘れ、なにかと事を起こすのを好みます。重用すればいずれ国に災いをもたらすでしょう」と司馬昭に忠告した。
はたして鍾会は蜀を征伐すると、反乱を起こすも失敗して殺された。
司馬昭は蜀の征伐を命じる前から鍾会の反乱を予期していたが、裏には王元姫の進言があったのである。

265年、司馬昭が亡くなり、跡を継いだ司馬炎はすぐに帝位禅譲を受け晋を建国した。
王元姫は皇太后となったが、振る舞いはそれまでと変わらず、質素倹約を重んじ、自分の仕事に励んだ。
その言葉は必ず道理に沿い、礼儀を外れることはなかったという。

ゲーム「三国無双6」ではツンデレ・クール・巨乳・金髪という時代を無視した様々な武装を施され、登場するやいなや人気ナンバーワンを勝ち取ったという。



王護留


未作成

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