王経 母子ともに死に場所を得る
王経(おうけい)字は彦緯(げんい)
冀州清河郡の人(??~260)
魏の臣。
崔林(さいりん)は王経を平民から抜擢し称賛された。(『崔林伝』)
許允(きょいん)とともに冀州の名士とうたわれた。
やがて太守に上ると、母は「お前は農家の身から太守にまでなりました。物事が上手く行き過ぎるのは不吉です。(出世は)このあたりでやめておきなさい」と忠告したが、王経は聞き入れず2州の刺史と司隷校尉を歴任した。(『夏侯玄伝』)
官を辞して帰郷した時、占術師の管輅(かんろ)が訪ねてきた。王経は怪事があったので占って欲しいと頼み、管輅は「夜に小鳥のような光が現れてあなたの懐に入り、ゴロゴロと鳴りましたね。あなたは上着を脱いでご夫人方を呼び、光を探させたでしょう」と的中させ、吉兆であり昇進すると見立てた。
王経はほどなく江夏太守になった。
「管輅別伝」に曰く、王経ははじめ占いを信じず、でたらめだと言った。管輅は笑って「あなたは物に通じる方として知られているのにお心が狭い。道を明らかにするためなら聖者や賢人も自分の意見を曲げません。ましてや私は下賤の身だから反論します」と言い、故事を引いて滔々と卜占の意義を論じた。
王経は冗談だったと謝り、いつも「管輅は真理に通じている。まぐれ当たりなどではない」と言った。(『管輅伝』)
江夏太守の時、大将軍の曹爽(そうそう)が絹を渡し呉との交易を命じたところ、王経は文書を開きもせず、官を辞して帰郷した。
母は職務放棄に激怒し、刑吏のもとへ送り50回杖打ちさせた。曹爽はそれを聞き処罰しなかった。(『夏侯玄伝』)
255年(『高貴郷公紀』)、姜維が挙兵すると、蜀方面の司令官を務める陳泰(ちんたい)へ、雍州刺史の王経は「姜維は三路から進軍しています。我々も三手に分かれて迎撃しましょう」と進言した。だが陳泰は戦力分散を危ぶみ、王経を狄道に駐屯させ連携しようとした。
しかし進軍中に王経は蜀軍と出くわし、大敗して狄道に逃げ込み、包囲された。(『陳泰伝』)
王経軍の戦死者は数万に及んだ。(『姜維伝』)
王経軍の戦死者は5桁に上った。(『張翼伝』)
鄧艾らは「蜀軍は士気高く、(狄道を捨てて)いったん兵を引き態勢を立て直すべきだ」と主張したが、陳泰は「雍州の兵は心を一つにし、容易に城は落ちない。蜀軍は城を囲んで停滞し、むしろ士気は落ちている。兵糧も尽きかけており今こそ攻め時だ」と攻撃を命じた。
陳泰は姜維の伏兵も看破し、蜀軍を撤退させた。王経は「あと10日で城の兵糧は尽き、狄道はおろか雍州も落ちたでしょう」と嘆息し、陳泰の判断を称えた。(『陳泰伝』)
鄧艾は陳泰・王経の後任として対蜀方面を任された。人々は蜀軍に余力はなく遠征は行われないと考えたが、鄧艾は「王経の敗戦は小さな被害ではない。将兵は失われ、兵糧は尽き、住民は流浪した。蜀軍はそれに乗じる」と反論し、必ずまた兵を挙げると予測し的中させた。(『鄧艾伝』)
王経は後に司隷校尉に上ると向雄(しょうゆう)を都官従事に抜擢した。
甘露年間(256~260)に尚書となった。(『夏侯玄伝』)
260年、曹髦は魏の実権を握る司馬昭を討つため、王経、王沈(おうしん)、王業(おうぎょう)を呼び寄せ計画を告げた。王経は「司馬氏の専横は今に始まったことではなく、朝廷も天下も牛耳られています。兵はおろか武器も足りないのに成功するわけがありません」と無謀さを諌めたが、曹髦は聞き入れなかった。
王沈・王業はすかさず司馬昭へ注進した。王経は誘われたが固辞した。
曹髦は返り討ちにあって刺殺され、王経も(注進しなかった罪で)捕らえられ一族皆殺しを命じられた。
王経の母も処刑された。母は顔色一つ変えず「あの時お前を(出世をやめるよう)引き止めたのは、死に場所を得られないことを心配したからです。こうして(帝に忠義を貫き)死ねるなら、何を恨むことがありましょうか」と言った。
かつて抜擢された向雄は(身の危険を顧みず)刑場で慟哭し人々を感動させた。
雍州刺史の時の部下の皇甫晏(こうほあん)は家財を売り払って遺体を引き取り、埋葬した。
265年、司馬炎は「王経は法により処刑されたとはいえ、志操を貫き通したのは評価すべきだ。残った一族を不憫に思っていた」と孫に郎中の位を与えた。(『高貴郷公紀』・『夏侯玄伝』)
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