三国志 え 1


栄邵  李傕に殺されかけた大臣B


栄邵(えいしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「献帝紀」に曰く。
李傕(りかく)は司隷校尉の栄邵らを嫌悪していたため殺そうとしたが、賈詡に「天子の大臣をなぜ殺そうとするのか」と諌められ思いとどまった。(『賈詡伝』)



盈  伏皇后の母


盈(えい)姓は不明
出身地不明(??~??)

伏完(ふくかん)の側室。

195年、娘の伏寿(ふくじゅ)が献帝の皇后に立てられた。

209年に伏完は没し、214年に伏寿が生前の父へ曹操の非道さを訴えた手紙が明るみに出たため、伏寿と一族の百余人が処刑された。

赦されたのは母の盈ら19人に過ぎず、いずれも幽州涿郡に追放された。(『後漢書 后紀』)



衛温


未作成



衛開  侯音とともに反乱


衛開(えいかい)字は不明
出身地不明(??~219)

魏の臣。

218年10月、南陽郡宛県の守将の侯音(こうおん)が反乱し、南陽太守の東里袞(とうりこん)を捕らえ、籠城した。
樊城で関羽に備えていた曹仁が討伐し、翌219年1月に陥落させ侯音を斬った。(『武帝紀』)

侯音・衛開が反乱し、曹仁・龐悳に討伐された。(『龐悳伝』)

侯音の反乱の顛末は各所に記されるが、衛開の存在は「龐悳伝」にしか記されない。



衛楷  衛権の父


衛楷(えいかい)字は不明
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
衛臻(えいしん)の子。

父が没すると兄の衛烈(えいれつ)が後を継いだ。
弟の衛京(えいけい)、衛楷は太守に上った。

子の衛権(えいけん)は司馬亮(しばりょう)の甥にあたり(※衛楷の妹が司馬亮の妻)尚書郎・東宮の属官となったが、傅咸(ふかん)に「属官にするのは越権である」と批判された。(『衛臻伝』)



衛瓘  鍾会の乱と八王の乱


衛瓘(えいかん)字は伯玉(はくぎょく)
司隷河東郡安邑県の人(220~291)

魏・晋の臣。
衛覬(えいき)の長男。

父は「魏書」に列伝された名臣だが10歳の時に亡くし、母の陳氏(ちんし)へ孝行を尽くした。物静かで公平な人柄は、名声に実態が伴っていると評された。

240年、尚書郎に任じられたが、当時の魏は法が厳しく母が心配したため、通事郎へ転属を願い出て、後に中書郎へ移った。
曹爽(そうそう)が専制を極めていたが衛瓘は近づかず、傅嘏(ふか)ら心ある人々に称賛された。10年の長きに渡り中書郎として活躍した。
260年、曹奐(そうかん)の代になると侍中に上り、やがて廷尉になり司法をあずかると、事件の大小に関わらず熱心に職務に励んだ。

263年、蜀征伐の軍を監督した。首尾よく蜀を滅亡させたが、成都を陥落させた鄧艾は増長し、配下に勝手に官位を与えたりと独断専行が目に余った。
謀叛を企む鍾会はこの機とばかりに鄧艾を非難し、衛瓘も同意し都に処罰を願い出た。
鄧艾逮捕の詔勅が下ったが、専用の檻車が遠く成都にまで届くには時間が掛かり、鄧艾が察知することを恐れた鍾会は、先に逮捕するよう衛瓘に命じた。兵の少ない衛瓘が失敗して殺されれば、さらに罪をかぶせる狙いだったが、衛瓘は夜中のうちに成都に入り、鄧艾の配下に逮捕を宣告し、反対すれば処刑すると脅して従わせ、眠っていた鄧艾を捕らえた。

翌264年、鍾会が反乱し、胡烈(これつ)ら諸将を投獄した。
鍾会は鄧艾の逮捕に協力した衛瓘を味方と思い込み善後策を相談した。衛瓘は厠に行くと称して外に出ると、胡烈の昔の配下に事情を話し、成都外の兵に鍾会の反乱を伝えさせた。
衛瓘は鎮圧の兵が集まるまで時間を稼ぎ、城外の騒ぎに気づいた鍾会が様子を見に行くよう命じると、自分で行くよう勧めるなど警戒心を解く工作をした。
衛瓘が出掛けると鍾会はようやく不審を抱き、追っ手を差し向けた。衛瓘は仮病を使い、大量に塩を入れた白湯を飲んで吐いたり、側近の医者に重病と診断させたりして信じ込ませ、まんまと城外へ抜け出すと翌朝に兵を招き入れ、鍾会を誅殺した。

この頃、洛陽へ護送されていた鄧艾はすでに配下によって救出されていたが、衛瓘は彼が生きていると投獄したことへの報復を受けると考え、蜀征伐の際に鄧艾に処刑されかかった田続(でんしょく)を焚き付け殺させてしまった。
混乱を収めた衛瓘に朝廷は恩賞を贈ろうとしたが、勝手に自滅しただけだと全てを固辞した。
その後、関中、ついで徐州の都督として全権を預かり、列侯された。

晋の代になると司馬炎に絶大な信頼を受け、青州を統治し治績を上げた。
271年には幽州に移り、分割し平州を立てるよう上表し、認められると幽・平2州を任された。
当時、幽州では烏桓と鮮卑が国境を荒らしており、衛瓘は両者が相争うようけしかけ、烏桓を晋に帰順させることに成功した。

275年、烏桓の大人(王)の息子である拓跋沙漠汗(たくばつさばくかん)が朝貢に来ると、衛瓘は彼を都に留めさせ、その隙に烏桓に離間工作を仕掛けた。
2年後、拓跋沙漠汗が帰国すると、衛瓘に調略された大人らは彼を讒言し、ついに父の拓跋力微(たくばつりょくび)によって殺された。
拓跋力微が間もなく病に倒れると、大人の庫賢(こけん)に軍権を委ねた。だが庫賢にもすでに衛瓘の魔の手が及んでおり、庫賢は「晋は拓跋沙漠汗を殺した罪で、大人たちの長男を殺すよう命じた」と告げ、驚愕した大人は離散し、烏桓の勢力は著しく弱体化した。
朝廷は衛瓘を讃え、子を列侯しようとしたが、子ではなく弟に譲るよう請い、子らも同意したため称賛された。

278年、都に上ると法のもとに厳粛に政務に当たった。
衛瓘は政治だけではなく文学・筆にも長じ、草書にかけては索靖(さくせい)と並び称され「一台二妙」と呼ばれた。また後漢末に「草聖」と呼ばれた張芝(ちょうし)字は伯英(はくえい)を引き合いに、「衛瓘は伯英の筋を得て、索靖は伯英の肉を得た」と評したという。

283年には司空に上り、四男の衛宣(えいせん)の妻に司馬炎の娘を迎え皇族に連なった。
一方で皇太子の司馬衷(しばちゅう)が暗愚なのを案じ、内心では廃嫡を考えていた。ある時、酔った勢いで司馬炎の足元に取りすがると、玉座を撫でて「この座は惜しまれるべきです」と言った。
司馬炎は廃嫡のことだと察したがあえて気づかないふりをし「衛瓘は泥酔したようだ」とごまかした。司馬衷の妃の賈南風(かなんぷう)はこの一件から衛瓘を恨むようになった。

当時、皇后の父である楊駿(ようしゅん)の一族が権勢をふるっており、衛瓘を煙たく感じていた。
290年、楊駿は酒にだらしない衛宣を宦官とともに讒言し、離婚に追い込んだ。
衛瓘は身の危険を察知し、老齢を理由に引退を願い出た。司馬炎は名誉職に栄転させ、莫大な恩賞を与えた上で引退を認めた。
後に衛宣への讒言を知ると復縁も考えたが、その前に失意から病を得た衛宣は没してしまった。

291年、司馬衷の代になり、傀儡政権を敷いていた楊駿が、司馬瑋(しばい)と結託した賈南風によって誅殺された。
衛瓘は楊駿によって追放された司馬亮(しばりょう)とともに朝政に復帰した。
衛瓘と司馬亮は、横暴で残忍な司馬瑋を憎み、裴楷(はいかい)に兵権を譲らせ、帰国させようとした。司馬瑋は激怒し、恐れた裴楷はすぐさま辞退した。

司馬瑋の配下の岐盛(きせい)はもともと楊駿の側近だったが、裏切って誅殺に加担したため、衛瓘は節操の無さを嫌い処罰しようと考えていた。
岐盛は先手を打ち、司馬瑋からの密告と偽り、衛瓘と司馬亮が皇帝廃立を企んでいると賈南風に訴えた。
かねてから衛瓘を憎む賈南風は、すぐさまこれを採り上げ、諸王に衛瓘・司馬亮の捕縛を命じた。

衛瓘は抵抗せず清河王の司馬遐(しばか)の軍に捕らわれた。
この時、衛瓘が司空の頃に罪を犯し、追放された栄晦(えいかい)が軍中におり、彼は司馬遐の制止を無視して衛瓘と子や孫ら9人を殺してしまった。
司馬亮も誅殺された。

その後、賈南風は「詔勅を偽造し衛瓘・司馬亮を殺した」と罪を着せ、司馬瑋を誅殺し晋の実権を握った。これを好機と衛瓘の娘らが名誉回復と栄晦の処罰を訴え、ともに認められ栄晦は一族もろとも処刑された。

衛瓘・司馬亮の死は、楊駿の誅殺に端を発する、いわゆる「八王の乱」の2つ目の事件である。(『晋書 衛瓘伝』)



衛覬  関中のインフラを整える


衛覬(えいき)字は伯儒(はくじゅ)
司隷河東郡安邑の人(??~229)

魏の臣。

若くして頭角を現し、曹操に司空掾に招かれ、茂陵県令、尚書郎に任命された。
200年、官渡の戦いに際し、曹操は荊州の劉表(りゅうひょう)を牽制するため、益州の劉璋(りゅうしょう)に兵を出させようと考え、衛覬を治書侍御史として使者に出した。
しかし長安まで進んだところで交通が遮断されているのを知り、関中に留まった。衛覬は戦乱を避けて荊州へ逃れていた流民たちが、関中へ戻っても生業が無く、馬超らに徴兵されている現状に気づき、塩の専売で利益を上げて民衆を助け、司隷校尉の鍾繇(しょうよう)に統治させるべきだと荀彧(じゅんいく)に進言した。曹操も同意してその通りにし、関中は安定した。

だが鍾繇は強硬派で、漢中の張魯(ちょうろ)征伐にかこつけて馬超らから人質を取るよう曹操に進言した。
曹操は荀彧を通じて衛覬に意見を求めると「下手に刺激せず官位を与えて手なずける」と逆の献策をした。曹操もはじめは賛成したが、関中への対処を任せていたため結局は鍾繇の策を容れた。
後に馬超らの一斉蜂起を招き、曹操自ら征討し鎮圧したが、死者は5桁に上り、後悔するとともに衛覬をますます尊重した。

次第に昇進し尚書となった。朝廷の古い儀礼に詳しい衛覬は、散逸した古い事例の訂正・決定に大いに寄与した。(『衛覬伝』)

213年、魏の建国に際し(『武帝紀』)侍中に任じられ、王粲(おうさん)とともに制度の制定を担当し、220年に曹丕が王位につくと尚書を経て後漢の侍郎となり、朝廷内から曹丕の帝位禅譲を助け、詔勅文を作った。(『衛覬伝』)
詔勅には「尚書令侍中」と記される。(『武帝紀』)
帝位につくと尚書に戻り、陽吉亭侯に封じられた。

226年、曹叡が即位すると閿郷侯になり、領邑300戸に上った。
刑罰と法律の周知徹底や、労役の削減を上奏し、また書と文章に巧みだったため命じられ「魏官儀」や数十篇書物を著した。文章では建安年間(196~220)の末には衛覬、潘勖(はんきょく)、王象(おうしょう)が並び称された。(『衛覬伝』)
また隷書の名手として胡昭(こしょう)、鍾繇、邯鄲淳(かんたんじゅん)、韋誕(いたん)と名声で並んだ。(『胡昭伝』)
失われかけていた古文(書法)を邯鄲淳が伝えており、衛覬はそれを真似て書き写したところ、邯鄲淳にも自分の書と区別がつかなかったという逸話がある。(『韋誕伝』)

229年に没した。(『晋書 衛瓘伝』)
敬侯と諡され、子の衛瓘(えいかん)が後を継いだ。(『衛覬伝』)
衛瓘は「晋書」に列伝される名臣で、書にも巧みだった。孫の衛恒(えいこう)は「四体書勢」を著し書法の歴史を残した。(『晋書 衛瓘伝』)

陳寿は「古い慣例を多く知り、当時の朝廷の儀式を助けた」と評した。

「演義」には王粲の同僚の衛凱(えいがい)という人物がおり、衛覬の誤記または改名と思われる。



衛京  衛臻の子


衛京(えいけい)字は不明
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
衛臻(えいしん)の子。

父が没すると兄の衛烈(えいれつ)が後を継いだ。
弟の衛京、衛楷(えいかい)は太守に上った。(『衛臻伝』)



衛継  県長の養子から出戻る


衛継(えいけい)字は子業(しぎょう)
益州漢嘉郡厳道県の人(??~264)

蜀の臣。

5人兄弟で父は県の功曹を務めた。
幼い頃、役所の庭で兄弟と遊んでいると、県長の張君(ちょうくん)は子供が無かったため喜び、衛継の父に命じてたびたび連れてこさせ、非常にかわいがった。
やがて衛継を養子にもらいたいと申し出て、父もすぐに承知した。

衛継は早熟で鋭い頭脳と広い学識を有し、州や郡に出仕しエリートコースを歩んだ。
他の4兄弟に世間に通用する才能は無く、父は自分の家は衰え、張君の家は栄えるだろうと言った。
だが異姓の者を後継ぎにするのを禁止する法が制定され、衛継は元の家に戻った。

その後も昇進し奉車都尉、大尚書に上り、篤実な信義に厚い人柄で尊敬された。

蜀滅亡後の264年、鍾会の反乱に巻き込まれ殺害された。(『楊戯伝』)



衛権  裴松之に注を酷評される


衛権(えいけん)字は伯輿(はくよ)
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
衛楷(えいかい)の子。衛臻(えいしん)の孫にあたる。

衛権は司馬亮(しばりょう)の甥にあたり(※衛楷の妹が司馬亮の妻)尚書郎・東宮の属官となったが、傅咸(ふかん)に「文才があり、あなたの甥ですから尚書郎にするのは当然です。しかし楊駿(ようしゅん)が政治を壟断し、人材起用の道を閉ざしたように、属官にするのは越権です。たとえば一匹の犬が人に吠えると、他の犬も一斉に吠え始めます。群犬に吠えられるのを恐れれば、結局は考えを変えることになります」と批判された。

左思(さし)がいわゆる「洛陽の紙価を高める」と、衛権は「呉都の賦」の叙と注を作った。
しかし裴松之は「叙はなんとか文彩があるが、注には全然新しい見解がない。ただ紙と墨を無駄にしただけで、後世に伝えるべきではない」と酷評した。(『衛臻伝』)



衛固  杜畿に翻弄された反乱者


衛固(えいこ)字は仲堅(ちゅうけん)
司隸河東郡の人(??~202)

河東郡の役人。

202年、袁紹が没すると曹操は北上した。袁紹の三男の袁尚(えんしょう)は高幹(こうかん)・郭援(かくえん)に命じて、河東へ侵攻させた。(『鍾繇伝』)

その時、河東太守の王邑(おうゆう)は詔勅により罷免された。(『杜畿伝』)

「魏略」に曰く。
王邑は状況が乱れていたため納得せず、官民も彼を慕い反対した。郡の掾の衛固と中郎将の笵先(はんせん)らは管轄する鍾繇(しょうよう)へ留任を訴えた。(『鍾繇伝』)

衛固・笵先は表向きは留任を名目にしたが、裏では高幹と結託しており、数ヶ月にわたり妨害した。
曹操は結託を見抜き、鎮圧できる人材を尋ね、荀彧は杜畿(とき)を河東太守に推薦した。(『杜畿伝』)

「魏略」に曰く。
杜畿が郡内に入っても王邑はまだ残っており、鍾繇は太守の割符(証)を渡すよう命じたが、王邑は自ら許昌へ赴き、朝廷に割符を返した。罪に服したが寛大な処置で許された。
鍾繇も監督不足として自らを弾劾したが、罪に問われなかった。

鍾繇は馬超・龐徳らの援軍を得て郭援を斬った。
その後、衛固は反乱し高幹・張晟(ちょうせい)・張琰(ちょうえん)らと周辺を荒らし回ったが鍾繇に討伐された。(『鍾繇伝』)

張既(ちょうき)も討伐に貢献した。(『張既伝』)

「杜畿伝」に詳細が記される。
杜畿の着任を妨害する衛固らの討伐に夏侯惇が派遣された。杜畿はそれと合流するよう勧められたが「河東郡の全てが反乱を起こそうとしているわけではない。だが討伐軍が迫ればおじけづき、衛固に扇動され一つにまとまってしまう。そうなると負ければ周辺の反乱を招き、勝てば河東郡を破滅させる。彼らは太守(王邑)の留任を名目としているから、私にも手は出すまい。衛固は計略は立てられるが決断力がない。郡に一月いられれば十分だ」と言い、単身で赴任した。

「魏略」に曰く。
杜畿と衛固は若い頃から互いを馬鹿にし合い、衛固は彼を軽蔑していた。杜畿は「私は今に河東太守になるぞ」と言ったが、衛固は彼を馬鹿呼ばわりした。杜畿が太守に着任すると、衛固は功曹に任じられた。

笵先は役人を30人余り殺して脅したが、杜畿は平然としていた。衛固は「太守を殺せば悪評が立つだけだし、どうせ彼は手中にある」と言い、面従腹背することにした。
杜畿は衛固を都督・功曹に任じて事務を任せ、笵先に3千の兵を与え油断させた。
衛固が兵を大動員しようとすると、杜畿は「民衆が動揺するから、ゆっくりと募兵したほうが良い」とたしなめた。貪欲な将校らは水増しして報告し、兵は集まらなかった。
さらに杜畿は「人心を得るため将兵に休暇を与えよう」と言い、家へ帰らせた。心ある者は外に出て杜畿を援助し、悪人はそのまま戻らなかった。

これらの裏工作により、高幹・張晟が再び攻め寄せた時、衛固らは兵を集められなかった。
杜畿はすでに官民の支持を得たことを知っていたため数十騎で迎撃に出て、数十日で4千の兵を集めた。衛固・高幹に攻撃されたが防ぎ切り、(夏侯惇の)討伐軍が到着して高幹・張晟を撃破し、衛固・笵先は処刑された。残党は赦免された。(『杜畿伝』)



衛恒


未作成



衛茲  曹操の挙兵を助ける


衛茲(えいじ)字は子許(しきょ)
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

張邈(ちょうばく)の臣。
衛臻(えいしん)の父。

ことさら人目につこうとせず、名声も求めなかったが明晰な思慮は底深く、遠大なはかりごとを秘めていた。
20歳の頃、同郷の圏文生(けんぶんせい)とともに盛徳を称えられた。
郭泰(かくたい)が二人と市場に行った時、衛茲は商品を値段通りに買い、圏文生はケチを付けて値切らせた。
郭泰は「この二人は兄弟というよりも親子だ」と語り、後に圏文生は金銭欲で名声を損ない、衛茲は節義によって名を残した。

車騎将軍の何苗(かびょう)、司徒の楊彪(ようひょう)に招聘されたが応じなかったが(『衛臻伝』)孝廉に推挙され、陳留太守となった張邈には仕官した。(『武帝紀』)

曹操が初めて陳留を訪れた時に出会い、衛茲は「天下を平定するのはこの人に違いない」と見込み、曹操も彼を優れた人物と認め、重大事を相談し合った。
当時は董卓が都を牛耳っており、衛茲は「動乱が起こってから久しく、事は武力でしか収められません。挙兵する者が現れるでしょう」と曹操にも挙兵を勧めた。

190年、兵3千を集め曹操は挙兵した。(『衛臻伝』)
「世語」には衛茲が家財を提供し兵5千を集めたとある。(『武帝紀』)

滎陽を攻め、一日中力戦したが徐栄(じょえい)に敗れ、張邈の命で随行していた衛茲は戦死した。
曹操は馬を失い、曹洪(そうこう)に乗騎を譲られ辛くも逃げ延びた。(『衛臻伝』・『武帝紀』)

その後、曹操は郡を通過するたびに使者を送り、衛茲の霊を祀らせた。
子の衛臻が謀叛の嫌疑をかけられた時も曹操は「衛臻の父には助けられたから、そんな話は信じない」と謀叛を疑わなかった。
衛臻は魏三代に仕え、司空・司徒にまで上り「魏書」に列伝されるほどの名臣となった。(『衛臻伝』)

「演義」には登場しないが、孝廉に推挙されたが応じなかった陳留郡の富豪の衛弘(えいこう)なるオリキャラが曹操に資金援助しており、明らかに衛茲がモデルである。



衛恂  楊俊に抜擢される


衛恂(えいじゅん)字は不明
兗州陳留郡の人(??~??)

魏の臣。

審固(しんこ)と同じく兵士の身分から楊俊(ようしゅん)に抜擢された。
審固は郡太守を歴任し、衛恂は御史・県令に上った。(『楊俊伝』)



衛慎  公孫淵を懐柔する使者A


衛慎(えいしん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
232年、公孫淵(こうそんえん)が呉と交流すると、魏は断交すれば罪に問わないと懐柔し、遼東へ郎中の衛慎・邵瑁(しょうぼう)を使者として送った。(『公孫度伝』)



衛臻  父に続き魏を支える


衛臻(えいしん)字は公振(こうしん)
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
父の衛茲(えいじ)は曹操の旗揚げに協力したが、董卓と戦い討ち死にした。

夏侯惇が陳留太守になると計吏に推挙されたが、酒宴に妻を招くよう命じられたのを拒絶したため一時捕縛された。

後漢の黄門侍郎の時、反乱を企てる朱越(しゅえつ)に招かれたが、曹操は「衛臻の父には助けられたから、朱越の言葉など信じなかった。荀彧(じゅんいく)も弁護し、忠誠は明らかになった」と謀叛を疑わなかった。
後に朝廷の使者として訪ねた時、曹操は身柄をもらい受け丞相府で軍事に参与させ、父の功績を採り上げ関内侯に封じた。

戸曹掾を経て220年、魏王に即位した曹丕のもとで散騎常侍に、帝位につくと安国亭侯に上った。
群臣が魏を讃え、後漢を貶める中、衛臻は後漢が魏へ禅譲したことを一人讃えた。曹丕はそれを評価し、廃位後の献帝と同等の処遇を衛臻に与えるよう命じ、尚書・侍中吏部尚書に転じた。
中領軍を代行し、曹休(そうきゅう)が孫権が濡須に駐屯しているという情報を得ると、偽りだと見抜いた。

以前、衛臻は曹丕と後継者争いをする曹植(そうしょく)派の丁儀(ていぎ)から誘いを掛けられたが、大義を盾に拒否した。
曹丕が追放した曹植の様子を尋ねると、徳性を褒め称えたが、曹丕の寵愛する曹霖(そうりん)については触れなかった。(『衛臻伝』)

226年、曹丕に恨まれる鮑勛(ほうくん)が処刑を命じられると助命嘆願したが認められなかった。(『鮑勛伝』)

曹叡が即位すると康郷侯に上り、侍中・尚書僕射として官吏選抜を担った。
蔣済(しょうせい)は平民や下僕からも優秀な者は登用すべきだと意見したが、衛臻は「それは乱世の作法であり、治世でそれを行えばかえって争いを起こす」と反対した。(『衛臻伝』)

曹叡に祖先のどこまでに尊号を与えるべきか議論を命じられると、劉曄(りゅうよう)は故事を引き高祖父の曹騰(そうとう)までが妥当と言い、衛臻も同意したため法制化された。(『劉曄伝』)

諸葛亮が北伐の兵を起こすと糧道を断つよう献策し、自らも征蜀将軍・仮節督諸軍事として出撃したが、長安に到着すると蜀軍は撤退した。帰還して旧職に復し、光禄大夫を加えられた。

当時、曹叡が盛んに宮殿を造営すると厳しく諫言し、担当者の越権行為を、曹叡の干渉をはねつけて公正に裁いた。

諸葛亮が再び出兵し、呉軍がそれに連動して出撃すると、衛臻は朱然(しゅぜん)の動きを陽動と見抜いた。
曹叡が親征しようとすると、呉は蜀への義理で兵を出しただけで、すぐに撤退するから戦費の無駄だと反対した。結局、曹叡は親征したが前線にたどり着く前に呉軍は撤退した。

毌丘倹(かんきゅうけん)が遼東の公孫淵(こうそんえん)討伐を願い出たが、衛臻は失敗を予測し、的中させた。(『衛臻伝』)

官位は237年に司空、238年に司徒に上り詰め(『明帝紀』)、曹芳の代には長垣侯に爵位も上り、1千戸を領し、一子が列侯された。
実権を握る曹爽(そうそう)は尚書令を兼務させ、弟の嫁に衛臻の娘を求めたが、いずれも拒否し、引退を願い出た。(『衛臻伝』)
248年、孫資(そんし)、劉放(りゅうほう)らに続き官を辞した。(『斉王紀』)
ちなみに孫資・劉放・衛臻の子らは三豫と並び称されており、三家の交友が垣間見える。(『諸葛誕伝』)
衛臻は大邸宅と特進を与えられ、三公と同じ恩給を賜った。

逝去すると三公の残り一つの太尉を追贈され、敬侯と諡された。
子の衛烈(えいれつ)が後を継ぎ、魏末期に光禄勲となり、他に2人の子が太守に上った。(『衛臻伝』)

陳寿は盧毓(ろいく)とともに「長い間その官位におり、帝に対する諫戒と清潔な事務処理でその職を汚さなかった」と評した。

「演義」には登場せず、父も別名だが似た事績の架空の人物にされている。



衛旌


未作成



衛宣  衛瓘の飲んだくれの四男


衛宣(えいせん)字は不明
司隷河東郡安邑の人(??~290)

魏・晋の重臣の衛瓘(えいかん)の四男。

283年、父は司空に上り、衛宣は司馬炎の娘の繁昌公主(はんしょう)を妻に迎え皇族に連なった。
当時、皇后の父である楊駿(ようしゅん)の一族が権勢をふるっており、衛瓘を煙たく感じていた。
290年、楊駿は酒にだらしない衛宣を宦官とともに讒言し、離婚に追い込んだ。
衛瓘は身の危険を察知し、老齢を理由に引退した。
司馬炎は衛宣への讒言を知ると復縁も考えたが、その前に失意から病を得た衛宣は没してしまった。(『晋書 衛瓘伝』)



衛弥  徐宣を救出する


衛弥(えいび)字は不明
出身地不明(??~??)

徐州広陵郡海西県の都尉。

海西県で反乱が起こった時、県令の梁習(りょうしゅう)とともに夜間に家に駆けつけ徐宣(じょせん)を救出した。
曹操は扈質(こしつ)に討伐を命じたが、兵が少なく進めなかった。徐宣は密かに扈質に会い、それを咎めるとともに対策を授け、反乱軍を打ち破らせた。
これが曹操の耳に入り徐宣は司空掾に招かれた。(『徐宣伝』)



衛文経  馬良らと並び称された人物A


衛文経(えんぶんけい)名は不明
荊州の人(??~??)

蜀の臣。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「勤勉」と評した。

姓と字だけが伝わっているが、馬良(ばりょう)らと並び称され「楚(荊州)の地の優れた人物」とあることから荊州出身と思われる。(『楊戯伝』)



衛烈  衛臻の子の(自称)三豫


衛烈(えいれつ)字は不明
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
衛臻(えいしん)の子。

曹叡の代に名家の子弟の諸葛誕、夏侯玄(かこうげん)ら12人は自らを「四聡八達」と呼び合った。
衛烈、劉煕(りゅうき)、孫密(そんみつ)ら3人は彼らに及ばなかったが、父の威光もあり「三豫」と呼ばれた。
曹叡は彼ら15人を「軽薄な風潮を助長する」と酷く嫌い、全員を免職にした。(『諸葛誕伝』)

ちなみに衛烈・劉煕・孫密の父の衛臻、劉放(りゅうほう)、孫資(そんし)は曹爽(そうそう)が専横を極めると揃って官を辞しており、三家の交友が垣間見える。(『衛臻伝』・『劉放伝』)

父が没すると後を継ぎ、咸熙年間(264~265)に光禄勲となった。
弟の衛京(えいけい)、衛楷(えいかい)は太守に上った。(『衛臻伝』)



爰翰


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爰邵


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爰敞


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爰津  袁渙の裁決


爰津(えんしん)字は不明
出身地不明(??~??)

隠者。

袁渙(えんかん)が梁国相の時、穀熟県長の呂岐(りょき)は親しく付き合っていた朱淵(しゅえん)と爰津を留学先から帰郷させ、朱淵を師友祭酒に、爰津を決疑祭酒に任命したが、二人とも応じなかったため逮捕したうえ殴り殺した。
その処置を非難する者が多かったが、袁渙は弾劾しなかった。

主簿の孫徽(そんき)は「朱淵らの罪は死刑に相当せず、県長は死刑を独断で決められません。それに朱淵を師友祭酒に任命しながら、師友に対する処置とは思えません」と反対した。
袁渙は「独断で死刑にしたのは確かに罪である。だが君主が家臣を師友に任命するのは敬意を示すためで、罪があれば罰を加えるべきだ。任命を無視した罪を議論せずに、弟子が師を殺したと非難するのは見当外れだ。近頃の世は乱れ、下位の者が上位の者を侮っている。世の中の欠陥を助長するのは誤りである」と言い、やはり弾劾しなかった。(『袁渙伝』)



爰靚


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爰倩  句安とともに姜維を追撃


爰倩(えんせい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

263年、参軍として蜀討伐に従い、元蜀将の句安(こうあん)とともに姜維の本隊を追撃した。(『鍾会伝』)



爰兪


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苑御


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苑康


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袁遺  世に勉強家は二人きり


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袁胤  袁術の従弟


袁胤(えんいん)字は不明
豫州汝南郡汝陽の人(??~??)

袁術(えんじゅつ)の従弟。
字は仲績(ちゅうせき)とwikiに記されるが出典がわからなかった。

194年、孫策が劉繇(りゅうよう)を破り江東を制圧すると、袁術は丹陽太守に袁胤を任じた。(『孫権徐夫人伝』)
前任の太守の周尚(しゅうしょう)は甥(従子)の周瑜とともに寿春の袁術のもとへ戻った。周瑜は袁術の破滅を予見し、願い出て居巣県長へ赴任した。(『周瑜伝』)
袁胤は孫策の従兄弟の徐琨(じょこん)に追放されてしまい(『孫権徐夫人伝』)、袁術は祖郎(そろう)に山越を扇動させ報復したが、祖郎は捕縛された上に降伏し、失敗に終わった。(『孫輔伝』)

199年、袁術が没すると、その娘婿の黄猗(こうい)とともに袁術の妻子を連れ、かつて袁術に仕えた劉勲(りゅうくん)に身を寄せた。
だが劉勲が遠征した隙に城を孫策に攻め落とされ、妻子と残党を奪われた。(『孫策伝』)

その後、袁術の息子は孫権に仕え、娘は側室となったが袁胤・黄猗の消息は不明である。

「演義」では袁術の甥にマイナーチェンジ。ハチミツを所望する断末魔を聞き、逃亡中に殺され玉璽を奪われた。

SLG「三國志シリーズ」では脳筋だらけの袁術軍で貴重な内政担当である。



袁㝢  袁渙の次男


袁㝢(えんう)字は宣厚(せんこう)
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

袁渙(えんかん)の次男。

「袁氏世紀」に曰く。
精密な弁論は機智を含んで筋道があり、道家を好んだ。
若くして病にかかり、官途につかず亡くなった。(『袁渙伝』)



袁奥  袁渙の三男


袁奥(えんおう)字は公栄(こうえい)
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

魏の臣。
袁渙(えんかん)の三男。

「袁氏世紀」に曰く。
世俗を奮い立たせるに充分な行動をし、言葉は簡略ながら妥当な論理を持っていた。
光禄勲まで上った。(『袁渙伝』)



袁隗  袁紹の偉い叔父


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袁侃  袁渙の長男


袁侃(えんかん)字は公然(こうぜん)
豫州陳国扶楽の人(??~??)

魏の臣。
袁渙(えんかん)の長男。

議論に優れ、柔和だが威厳があり、保身を考えなかったため多くの人に慕われた。(『袁渙伝』)
司馬懿は若い頃の彼と、荀彧の子の荀顗(じゅんぎ)を引見しともに「彼らの息子なだけはある」と評価した。(『荀彧伝』)

曹叡の代に許允(きょいん)とともに尚書選曹郎となったが、揃って罪を犯し主犯が処刑される見通しとなった。
許允は「私は確実に死罪だが、あなたは功臣の袁渙の子だから殺されはしないだろう」と頼み込み、袁侃が主犯を引き受けた。
予測通りに死罪は免じられ、やがて二人とも高位に返り咲いた。(『夏侯尚伝』)

黄門選部郎を務め清廉公正とうたわれた。(『袁渙伝』)
吏部郎に転じた。同時期に転任した李豊(りほう)、荀俁(じゅんぐ)や杜恕(とじょ)とは同僚で仲が良かった。
248年頃、杜恕は幽州刺史となった。彼とともに城に駐屯する征北将軍の程喜(ていき)が、かつて田豫(でんよ)を讒言で陥れたことから、尚書になっていた袁侃は、よく心して注意するよう忠告したが、杜恕は気にもとめなかった。
一年も経たずに杜恕は讒言され免職となった。(『杜畿伝』)

251年頃、王基(おうき)は魏の全権を握った司馬師へ政治の心得を説くとともに、許允・傅嘏(ふか)・袁侃・崔賛(さいさん)を「現代の正直の士で正しい気質を持ち、浮ついた心がない」と評し、政治に携わらせるよう推薦した。(『王基伝』)

没年は不明で早逝したと記されるが、活動時期は短くない。
三人の弟も有能で、一族は裴松之の時代(430年頃)にも名家として続いている。(『袁渙伝』)



袁渙  正論家


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袁基  袁紹の兄


袁基(えんき)字は不明
豫州汝南郡汝陽県の人(??~190)

後漢の臣。
袁紹の兄。

「後漢書」は袁術の同母兄と記す。そのため袁紹と袁術は異母兄弟の可能性がある。(『後漢書 献帝紀』)

189年、董卓は少帝を廃位しようと考え、袁紹に相談した。
袁紹は「重大事なので叔父の袁隗(えんかい)と相談します」と退出し、そのまま冀州へ逃亡した。董卓は少帝を廃し献帝を即位させた。
190年、袁紹は兵を集めて董卓討伐軍を結成したため、董卓は都にいた袁隗、袁基ら袁一族を皆殺しにした。(『袁紹伝』)

公孫瓚(こうそんさん)は袁紹と敵対すると、上表してその罪を数え上げ「叔父や兄に連絡せず挙兵したため、袁隗や太僕の袁基は一日で殺された。仁愛も孝心も無い」と非難した。(『公孫瓚伝』)

審配(しんぱい)が袁譚(えんたん)へ出した文書で「袁紹は袁譚を廃嫡し、兄の後を継がせた。袁紹は袁譚を兄の子と呼び、袁譚は袁紹を叔父と呼んだ」とあり、この兄が袁基のことと思われる。(『袁譚伝』)



袁煕  ネトラレお兄ちゃん


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袁毅  晋の汚職官吏


袁毅(えんき)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

袁毅は鬲県令の頃、王恂(おうじゅん)に駿馬を贈ったが、貪欲な彼のことだから裏があると考え、王恂は受け取らなかった。(『王粛伝』)

275年、袁毅の汚職が発覚した。
何劭(かしょう)も兄の何遵(かじゅん)とともに収賄で逮捕されたが、司馬炎は何劭と同い年で親密だったため「袁毅と何劭の家は何世代にもわたり付き合いがある。ただの贈り物だ」と弁護したため処罰されなかった。(『晋書 何劭伝』)

華暠(かこう)は以前、袁毅に命じて食客を記録させていたが、袁毅は「賄賂を払わなければ奴僕として記録する」と食客を脅していた。
荀勗(じゅんきょく)はかつて華暠に娘の嫁入りを断られたことから恨んでおり、司馬炎へ「華暠と袁毅は親族です。実は華暠が首謀者です」と讒言したため、華暠は罷免された。
何遵は(自分も疑われたので矛先をそらそうとしたのか?)華暠の爵位を剥奪するべきだと主張したが、却下された。(『晋書 華暠伝』)

朝臣の多くが処罰されたが、鄭黙(ていもく)ら兄弟だけが清廉潔白で、関わっていなかった。(『晋書 鄭黙伝』)



袁徽  袁覇の弟の隠者


袁徽(えんき)字は不明
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

隠者。
袁覇(えんは)の弟。

儒学者としてかねてから評価されていた。
従兄の袁渙(えんかん)が「後漢王室は衰微し、動乱は目前にある。もしそうなったらどこへ逃げればよいのか。天に道徳を存続させる意志があるならば、人は道義を頼って生きられる。強固に意志を保ち礼を失わなければ無事でいられるだろうか」と嘆息した。
袁徽は「易」を引用し「君子は変化の兆しを察知し、動乱を避けるため天道の中に身を潜ませます。私は遠くへ避難するつもりです」と言った。
袁徽は戦乱を避けて交州に避難し、司徒に招聘されたが固辞した。(『袁渙伝』)

荀彧へ手紙を送り、交州刺史の士燮(ししょう)の統治を絶賛した。
また都で激論が交わされていた「春秋左氏伝」と「尚書」の学説について、士燮の議論を参考にして欲しいと添付した。(『士燮伝』)

当時、交州には許靖(きょせい)も疎開していた。
袁徽は荀彧へ手紙を送り許靖の智略と慈悲を称賛した。
曹操は張翔(ちょうしょう)を派遣して強引に登用しようとしたが、許靖は拒絶し、後に益州へ移住した。(『許靖伝』)

兄の袁覇は魏の大司農に上り、弟の袁敏(えんびん)は武術と治水に優れた。従兄の袁渙は「魏書」に列伝された。(『袁渙伝』)



袁元長  袁春卿の父


袁元長(えんげんちょう)字が元長か
豫州汝南郡汝陽県の人(??~??)

袁紹の一族。

200年、官渡の戦いで曹操は鄴城を包囲した。
袁紹の任命した魏郡太守の袁春卿(えんしゅんけい)が城を守っており、曹操は袁春卿の父で揚州にいた袁元長を招き、正式な魏郡太守の董昭(とうしょう)に袁春卿へ「お父上は兵乱を避けて南方へ移住された。智恵のある深い見識があってこそのことだ。曹操はそれに感心し、一族を離れ孤独なことにも同情しそばへ招いた。あなたは朝廷を離れて袁紹に仕え、このままでは忠も孝も無視することになる。かつて曹操に招聘されたこともあるし、よく考慮されよ」と降伏を促させた。(『董昭伝』)

袁春卿が降伏したかは定かでないが、鄴は204年まで陥落しなかった。(『袁紹伝』)



袁粲  袁亮の子


袁粲(えんさん)字は儀祖(ぎそ)
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

魏の臣。
袁亮(えんりょう)の子。袁覇(えんは)の孫。

学識があり博学だった。
儒学に関わる官職を歴任し、父と同じく尚書に上った。(『袁渙伝』)

「晋書 何劭伝」にも袁粲が登場するが、同一人物かは不明。
いちおう項目は分ける。



袁粲


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袁氏


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袁嗣  袁術配下の陳国相


袁嗣(えんし)字は不明
出身地不明(??~??)

袁術の臣。

袁術によって陳国相に任命されたが195年、曹操が陳国武平県へ攻め寄せると降伏した。(『武帝紀』)



袁術  人生やりたい放題


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袁春卿  董昭に説得された袁紹の一族


袁春卿(えんしゅんけい)字が春卿か
豫州汝南郡汝陽県の人(??~??)

袁紹の一族。

200年、官渡の戦いで曹操は鄴城を包囲した。
袁紹の任命した魏郡太守の袁春卿が城を守っており、曹操は袁春卿の父で揚州にいた袁元長(えんげんちょう)を招き、正式な魏郡太守の董昭(とうしょう)に袁春卿へ「お父上は兵乱を避けて南方へ移住された。智恵のある深い見識があってこそのことだ。曹操はそれに感心し、一族を離れ孤独なことにも同情しそばへ招いた。あなたは朝廷を離れて袁紹に仕え、このままでは忠も孝も無視することになる。かつて曹操に招聘されたこともあるし、よく考慮されよ」と降伏を促させた。(『董昭伝』)

袁春卿が降伏したかは定かでないが、鄴は204年まで陥落しなかった。(『袁紹伝』)



袁準  袁渙の四男


袁準(えんじゅん)字は孝尼(こうじ)
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

魏・晋の臣。
袁渙(えんかん)の四男。

「袁氏世紀」に曰く。
誠実公正で身分が下の者に質問することを恥と思わず、他者が自分以上でないことだけを懸念した。多難な時代だったため常に栄利を争わず、世に出ることを求めなかった。
十余万字の書物を著して政治を論じ、「易」・「周礼」・「詩経」の注釈を書き、五経や聖人の言葉の解説をし、世間に思想を伝えた。(『袁渙伝』)

「嵆康別伝」に曰く。
竹林の七賢の嵆康(けいこう)は処刑に臨み「袁準に広陵散(曲名)を教えてくれと頼まれたが私は固辞した。広陵散はここで絶えるのだ」と言った。(『王粲伝』)

「九州記」に曰く。
優れた才能を持ち泰始年間(265~275)に給事中となった。(『袁渙伝』)

著書の「袁子」は裴松之も注に用いるが、「諸葛亮伝」の注で「諸葛亮は孫権に誘われたが才能を発揮できないからと断った」という逸話を紹介し、「袁準は大いに諸葛亮の人となりを重んじているが、この逸話は見当違いも甚だしい。諸葛亮と劉備の関係はそんなものではない」と批判する。(『諸葛亮伝』)



袁叙  袁紹を称える従弟


袁叙(えんじょ)字は不明
豫州汝南郡汝陽県の人?(??~??)

袁紹の従弟。

「献帝起居注」に曰く。
済陰太守の袁叙は袁紹へ手紙を送り「天意は我ら袁氏に向けられ、あなたには神意があります。袁術の配下が帝位につかせようとした時、袁術は年齢も官位も袁紹のほうが上であるとして、帝位を譲ろうとしましたが、曹操に阻まれました」と述べた。(『武帝紀』)



袁尚  名族の御曹司


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袁紹  名族


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袁信  曹芳に仕えた役者B


袁信(えんしん)字は不明
出身地不明(??~??)

曹芳に仕えた役者。

「王沈魏書」に曰く。
司馬師らは曹芳の廃位を求める上奏の中で「郭懐(かくかい)・袁信らつまらぬ役者を宮殿に引き入れ、全裸で女官の女尚(じょしょう)らと乱交させた。妖婦の恰好をさせて悪ふざけさせたり、親族の女性と酒席で乱交させた。
女官の李華(りか)・劉勲(りゅうくん)ともいちゃつき、清商令(※女官長)の令狐景(れいこけい)が叱りつけると、李華・劉勲は曹芳に言いつけ、曹芳はハジキ(※弾棊に使うスティック?)で令狐景の頭や目を殴り、なおもひるまず諫言されると鉄を熱して全身を焼いた」と弾劾した。(『斉王紀』)



袁綏


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袁成


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袁譚  名実ともに袁紹の後継者


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袁忠  曹操を非難し殺された男A(※出典:曹瞞伝)


袁忠(えんちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「曹瞞伝」に曰く。
沛国相の時、法を犯した曹操を処罰しようとし、同国の桓邵(かんしょう)も曹操を軽侮した。
後に曹操が権力を得ると袁忠・桓邵は交州へ避難したが、曹操は交趾太守の士燮(ししょう)へ使者を送り、一家を皆殺しにした。
桓邵は出頭しひざまずいて謝罪したが、曹操は「ひざまずいて死を逃れられるものか」と言い殺した。(『武帝紀』)



袁綝


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袁迪  袁曄の祖父


袁迪(えんてき)字は不明
徐州広陵郡の人(??~??)

呉の臣?

戦乱を避けて同郷の張紘(ちょうこう)とともに江東に移住した。

陸瑁(りくぼう)は若い頃から義に厚く、家の後ろ盾を捨て、陳融(ちんゆう)、濮陽逸(ぼくよういつ)、蒋纂(しょうさん)、袁迪ら清貧の士を招き彼らと苦楽をともにした。

孫の袁曄(えんよう)は「献帝春秋」を著した。(『陸瑁伝』)



袁覇  袁亮の父


袁覇(えんは)字は不明
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

魏の臣。
袁渙(えんかん)の従弟。

公正謹厳な人柄で事務能力に長けた。(『袁渙伝』)

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に長史として連名した。(『武帝紀』)

216年、魏が建国されると大司農になり、同郷の何夔(かき)とともに評判高かった。
彼らの子の袁亮(えんりょう)、何曾(かそう)も並び称され、親友でもあった。
また弟の袁徽(えんき)、袁敏(えんびん)もやはり高く評価された。(『袁渙伝』)

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