三国志 お 3


王遷  倉慈に及ばない敦煌太守


王遷(おうせん)字は不明
涼州金城郡の人(??~??)

魏の臣。

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。
倉慈(そうじ)は太守に赴任すると、道理に沿って強きをくじき弱きを助け復興を遂げた。

後任の太守の王遷は倉慈の統治を見習ったが及ばず、その次の太守の趙基(ちょうき)は王遷にも及ばなかった。
趙基の後を受けた皇甫隆(こうほりゅう)は最新鋭の農具や灌漑技術を持ち込み、ようやく倉慈に次ぐ評価を得た。(『倉慈伝』)



王祚


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王双  飛べ! おっぱいハンマー


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王則  呂布を懐柔した勅使


王則(おうそく)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「英雄記」に曰く。
曹操は呂布を懐柔するため、奉車都尉の王則に詔勅と平東将軍の印綬を持たせ使者として送った。
呂布は喜び、曹操と親しく手紙をやり取りした。(『呂布伝』)

「演義」では王則の説得により呂布は劉備と和睦し、袁術と断交した。

出番はこれだけだが「演義」にも登場したためか、SLG「三國志Ⅲ」にも曹操配下で登場する。



王族  郭馬の乱に加担し始興郡を攻める


王族(おうぞく)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

279年、合浦太守の脩允(しゅういん)は桂林太守に転任となったが、病気のため広州に留まり、先に私兵隊長の郭馬(かくば)に500の兵を預けて桂林郡へ行かせ、異民族の慰撫に当たらせた。
ところが脩允はそのまま没し、兵は分割され各地へ転属させられることになった。郭馬らは父祖の代から同じ軍団に属しており、分かれることを望まなかった。
折しも孫晧は課税のため広州の戸籍を正確に調べようとしており、民衆は不安を抱いていた。郭馬は軍団の将の何典(かてん)、王族、呉述(ごじゅつ)、殷興(いんこう)らと共謀し、兵や民衆を扇動して蜂起した。

広州督の虞授(ぐじゅ)を殺し、郭馬が都督交広二州諸軍事・安南将軍を名乗るなど官位を僭称し、反乱軍は何典が蒼梧郡へ、王族が始興郡へ侵攻した。

呉は滕脩(とうしゅう ※本文では別名の滕循(とうじゅん)と記される)の討伐軍を派遣したが、始興郡で王族軍に足止めされるうちに、郭馬は南海太守の劉略(りゅうりゃく)を殺し、広州刺史の徐旗(じょき)を追放した。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始し、内外から攻められた呉は翌年に滅亡した。
その影響か郭馬の反乱の顛末は不明である。(『孫晧伝』)



王沢


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王旦  卞皇后の誕生を寿ぐ


王旦(おうたん)字は不明
出身地不明(??~??)

占い師。

「王沈魏書」に曰く。
160年、後の卞皇后(べんこうごう)が生まれた時、何日も部屋に黄気が満ちた。
父の卞遠(べんえん)が不審に思い王旦に尋ねると「これはめでたい徴です」と言われた。(『武宣卞皇后伝』)



王湛


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王稚  新附督

王稚(おうち)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
呉から魏へ寝返った。

264年4月、新附督(呉から魏へ寝返った者たちで編成された部隊の長)の王稚が、海路から句章へ侵攻し、長官を捕虜にし財貨と民衆200余人を略奪した。
呉の孫越(そんえつ)はそれを迎撃し、船1隻を拿捕し30人の捕虜を得た。(『孫休伝』)



王沖


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王忠  人を食った男


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王忠  王脩の子


王忠(おうちゅう)字は不明
青州北海郡営陵の人(??~??)

魏の臣。
王脩(おうしゅう)の子。

長じると東莱太守、散騎常侍まで上った。

兄弟の王儀(おうぎ)は司馬昭に諫言し殺された。(『王脩伝』)

220年、帝位についた曹丕は「忠直で仁愛と道義を旨としたが子孫が衰微している」と、王脩の子らを郎中に取り立てさせた。(※これが王忠のことだろうか?)(『文帝紀』)



王著  郭馬に殺された王蕃の弟A


王著(おうちょ)字は不明
揚州廬江郡の人(??~279)

呉の臣。
王蕃(おうばん)の弟。

王蕃は孫晧の逆鱗に触れ266年に殺され、弟の王著と王延(おうえん)は広州に強制移住させられていた。
二人はそれぞれ立派な才能を備えていたが、279年に反乱した郭馬(かくば)に従わなかったため殺された。(『王蕃伝』)



王昶  毒舌都督


王昶(おうちょう)字は文舒(ぶんじょ)
并州太原郡晋陽県の人(??~259)

魏の臣。
王沢(おうたく)の子。

若くして同郷の王淩(おうりょう)と並び称され、年上の彼を兄として仕えた。
曹丕に仕え太子文学、太子中庶子となり、220年に帝位につくと散騎侍郎に移り、洛陽の典農を務めた。林や荒れ地を開拓して多くの田を作り、兗州刺史に上った。(『王昶伝』)

兗州刺史の時、名高い阮籍(げんせき)を招き会見したが、一日中、言葉を交わせなかった。王昶は感嘆し、自分には計り知れない人物だと考えた。蔣済(しょうせい)はこれを聞き阮籍を招聘した。(『王粲伝』)

杜恕(とじょ)は「韓観(かんかん)・王昶は多くの才能を備え、高い官位と重い任務にふさわしく、三州の刺史に留まりません」と上奏した。(『徐邈伝』)

226年、曹叡が即位すると揚烈将軍を加えられ、関内侯に封じられた。
任務で外にいる時も、常に朝廷のことを気にかけ、青龍年間(233~237)に、古代の法制度は苛酷に過ぎて現代にはそぐわないと、改正を唱え「治論」を著し、また「兵書」を著し奇策と正攻法について論じた。
子や甥には名や字に謙虚・質実を意味するものを選んでやった。
だが本人は毒舌で、子弟に与えた訓戒の中で郭奕(かくえき)、劉禎(りゅうてい)ら旧友の人となりを悪い例として列挙し痛烈に非難している。(※王昶もその態度を裴松之に厳しく非難された)

236年、上位の官にある者に人材を推挙するよう詔勅が下ると、司馬懿に推挙された。
正始年間(240~249)に徐州へ赴任し、武観亭侯に取り立てられ、征南将軍・仮節都督荊豫諸軍事に上った。
荊州の役所は宛にあったが前線から遠かったため、上奏して新野に移し、得意の開墾で兵糧を蓄えた。

249年、司馬懿が国を牛耳る曹爽(そうそう)を粛清し、広く意見を求めると、王昶は5つの政策を具申し賞賛された。
翌250年、二宮の変に揺れる呉を討伐する好機と、州泰(しゅうたい)、王基(おうき)とともに三方から呉へ侵攻した。
呉は施績(しせき)が迎え撃ったが、王昶は弩で返り討ちにし、施績は江陵に籠城した。王昶は城からおびき出そうと、5つの軍をわざと撤退させ、さらに馬と呉兵の首に戦利品の鎧兜を着せて城の周囲を駆け回らせた。怒った施績は撤退する軍を追い、伏兵に撃退された。
敵将の鍾離茂(しょうりぼう)、許旻(きょびん)を討ち取り、大量の戦利品を奪い、州泰・王基も勝利した。(『王昶伝』)

だが戴烈(たいれつ)・陸凱(りくがい)の防戦により魏軍は撤退した。(『呉主伝』)

王昶も江陵城を落とせず撤退した。施績は諸葛融(しょかつゆう)へ手紙を送り、ともに追撃しようと約束し合ったが、諸葛融は現れず、王昶は逃げ切った。
孫権は施績の働きを喜び、諸葛融を叱責したが、その兄の諸葛恪が重臣のため免職されず、もともと険悪だった施績と諸葛恪・諸葛融兄弟の仲はますます深刻なものとなった。(『朱然伝』)

この功により王昶は征南大将軍・儀同三司に上り、爵位も京陵侯に進められた。(『王昶伝』)

252年、孫権が没すると胡遵(こじゅん)・毌丘倹(かんきゅうけん)とともに呉の征伐を上奏した。
三人の策略がそれぞれ異なったため、朝廷は傅嘏(ふか)に意見を求めた。傅嘏は内政に励み力を蓄えるべきだと答えたが聞き入れられず、王昶らは呉を攻めたが、諸葛恪に大敗した。(※東関の戦い)(『傅嘏伝』)

王昶・毌丘倹も東軍の敗退により、陣営を焼き払い撤退した。朝廷は処罰を検討したが、司馬師が「私が諸葛誕の進言を聞き入れなかったからだ」と言ったため、罪に問われなかった。(『斉王紀』)

255年、毌丘倹・文欽(ぶんきん)の反乱でも武功を立て、二人の子が列侯され、王昶も驃騎将軍に昇進した。(『王昶伝』)

256年、盧毓(ろいく)は司空に任じられたが、重病のため辞退し、王昶・王観(おうかん)・王祥(おうしょう)を代わりに推薦した。だが受け入れられず、司空となるも翌年に没した。(『盧毓伝』)

257年、諸葛誕は司空に任命されると「私が三公になるのは王昶の後のはずだ。しかも正式な使者ではなく、兵を楽綝(がくちん)に明け渡せと言っている。楽綝の陰謀に違いない」と疑い、ついに謀叛を決意した。(『諸葛誕伝』)

王昶は江陵方面に駐屯し、施績・全煕(ぜんき)を足止めし諸葛誕の救援に向かわせなかった。
この功により1千戸を加えられ4700戸となり、武官ながら三公(司空)の位に上り、そのまま持節・都督も兼ねる異例の待遇を受けた。

259年に没し、穆公と諡された。
後を継いだ子の王渾(おうこん)は呉討伐に大功あり、一族は三国統一の元勲として晋で栄華を極めていく。(『王昶伝』)

人相見の達人である朱建平(しゅけんぺい)の予言はよく当たったが、王昶・程喜(ていき)・王粛(おうしゅく)への予言だけは外れた。(『朱建平伝』)

陳寿は「君主を補導し民を治め、識見・度量があった」とし、同伝に収めた徐邈(じょばく)・胡質(こしつ)・王基とともに「地方の長官を司り、称賛を残し、功績を著した。国家の良臣、当代の優れた人物」と評した。

「演義」では東関の戦いにのみ登場する。



王暢


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王澄


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王肇  王祥の庶長子


王肇(おうちょう)字は不明
徐州琅邪郡臨沂県の人(??~??)

晋の臣。
王祥(おうしょう)の庶長子。

王祥は老齢となり再三にわたり引退を申し出た。司馬炎はなかなか認めなかったがようやく折れると、様々な特権を与え、また王肇を騎都尉に任じて父の世話をするよう命じた。

268年に父が没すると、長男の王肇は妾腹で、次男の王夏(おうか)は早逝していたため三男の王馥(おうふく)が爵位を継いだ。

王肇は始平太守に上った。子の王俊(おうしゅん)は太子舍人に上り列侯された。(『晋書 王祥伝』)



王直  晋宗に殺される


王直(おうちょく)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

223年、戯口を守っていた晋宗(しんそう)は、同僚の王直を殺し、部下を引き連れ魏へ寝返った。
魏は晋宗を蘄春太守に任じ、国境を荒らさせた。
孫権は賀斉(がせい)・糜芳(びほう)・劉邵(りゅうしょう)らに命じ蘄春を攻撃させ、晋宗を生け捕りにした。(『呉主伝』)



王定  劉虞が帝位につく予兆を見つける


王定(おうてい)字は不明
兗州済陰郡の人(??~??)

素性不明。

「呉書」に曰く。
韓馥(かんふく)は劉虞(りゅうぐ)を皇帝に擁立しようと企み、袁術を味方に引き込むため手紙を送った。その中で劉虞が帝位につく予兆を列挙し「済陰郡の王定が見つけた玉印に「虞が天子になる」と書かれていた」と述べた。
袁術は自分が帝位につくことを狙っていたため、道理を盾に断った。(『公孫瓚伝』)

王定の素性は不明で、そもそも三国時代の人物なのかもわからない。



王図  曹操に魏公即位を勧めた護軍将軍


王図(おうと)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に領護軍将軍として連名した。(『武帝紀』)



王度  程昱のデビュー戦を飾った賊徒


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王同  司馬芝に徴兵される


王同(おうどう)字は不明
荊州済南郡の人?(??~??)

荊州済南郡の郡主簿の劉節(りゅうせつ)の子分。

劉節は古い家柄で役所を私物化し、千余家の子分を持ち、郡の外では強盗を働かせていた。
曹操が荊州を制圧すると司馬芝(しばし)は済南郡菅の県長として登用された。
司馬芝は劉節の配下の王同を徴兵しようとしたが、劉節を恐れて県の役人は反対した。
劉節は王同をかくまい、逆に司馬芝を徴兵失敗のかどで訴えた。県の役人は自分が王同の代わりに徴兵されようと言ったが、司馬芝は郡太守の郝光(かくこう)に事情を訴えると、かねてから司馬芝を信頼していた郝光は、即座に劉節を徴発した。
「司馬芝は郡主簿を兵卒にした」と州にまでその名は轟いた。(『司馬芝伝』)



王同


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王当  黒山賊の初期メンバーB


王当(おうとう)字は不明
出身地不明(??~??)

黒山賊。

張燕(ちょうえん)は故郷の常山郡と周辺の郡の賊徒を糾合し、小頭目の孫軽(そんけい)・王当と合流し軍勢は百万に上り、黒山賊と号した。(『張燕伝』)

204年、張遼は別働隊を率いて趙国・常山郡を攻略し、孫軽らを降伏させた。(『張遼伝』)

存命なら王当もその際に降伏しただろうか。



王徳弥  何顒に善人の筆頭に挙げられる


王徳弥(おうとくび)名は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣?

「漢末名士録」に曰く。
袁術は大勢のいる席上で何顒(かぎょう)を批判し「識見ある大先輩で高名明徳な王徳弥を無視している。貪婪放蕩で不純な許攸(きょゆう)と親しくしている。郭泰(かくたい)・賈彪(かひょう)が貧窮しているのに肥えた馬に乗り道を練り歩いている」と3つの罪を数え上げた。
陶丘洪(とうきゅうこう)が「王徳弥は賢者だが世の難事を救う才は無い。許攸は不純だが危難に立ち向かい泥をかぶることを厭わない。何顒は善人の筆頭に王徳弥、危難を救う人物の筆頭に許攸を挙げている。そのうえ何顒は虞偉高(ぐいこう)のために仇討ちした義士だが、その仇は巨万の富を蓄える名士だった。もし何顒が痩せ馬にのって道で引っくり返っていれば、たちまちその仇の配下に殺されるだろう」と反論したが袁術は納得しなかった。
後年、袁術は宗承(そうしょう)に会った時も何顒を殺すと息巻いたが「あなたは英傑を厚遇して評判を天下に轟かせるべきだ」とたしなめられ、ようやく思い留まった。(『荀攸伝』)



王惇


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王買


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王蕃  俺の酒が飲めず殺される


王蕃(おうはん)字は永元(えいげん)
揚州廬江郡の人(228~266)

呉の臣。

博学で方術にも通じた。
一度は尚書郎まで上ったが官を辞した。
258年、孫休が帝位につくと王蕃・賀邵(がしょう)・薛瑩(せつえい)・虞汜(ぐし)ら4人を散騎中常侍・駙馬都尉に抜擢し、慧眼と讃えられた。
蜀に使者として渡り高評価され、帰国すると最前線の夏口の監軍を任された。(『王蕃伝』)

264年、孫晧が帝位につくと都に戻り、王蕃・楼玄(ろうげん)・郭逴(かくたく)・万彧(ばんいく)が散騎中常侍に任じられた。(『楼玄伝』)

佞臣の万彧は王蕃が内心で自分を軽んじているだろうと思い、陳声(ちんせい)とともに讒言した。
王蕃は誇り高く、主君の顔色をうかがうような人物ではなかったため直言をはばからず、次第に疎まれていった。

266年、丁忠(ていちゅう)が晋への遣いから帰国し宴が催された時、王蕃は酔い潰れて寝てしまった。孫晧は酔ったふりをしているのではないかと不機嫌になり、外へ運ばせた。目覚めた王蕃は宴会場へ戻ったが、威厳が身に備わった彼は全く酔った素振りを見せなかったため、嘘をついたと思い孫晧は激怒し処刑を命じた。滕牧(とうぼく)・留平(りゅうへい)らが取りなしたが聞き入れられずすぐさま前庭で斬り殺された。享年39。

親族は広州へ強制移住させられ、監視下に置かれた。弟の王著(おうちょ)と王延(おうえん)も立派な才能の持ち主だったが、279年に反乱した郭馬(かくば)の誘いを断ったため殺された。

「江表伝」に異聞がある。
孫晧は巫女たちの「建業の宮殿は不吉である」という予言を信じ、武昌に遷都しようと考えた。だが群臣は賛成しないだろうと思い、盛大な宴会を開くと、そのさなかに王蕃へ「射の礼では的に当てることを重視しないのは、人それぞれの能力に差があるからだと言うが、それはどういう意味か」と問うた。王蕃が答えを考えていると、孫晧はいきなり彼を斬り殺した。そして山から首を投げ落とすと、人々に虎や狼の真似をさせて噛みつかせたため、頭蓋骨は粉々に砕けた。
孫晧は遷都に反対させないため、自分に逆らったらどうなるか見せしめにしたのである。

ただし裴松之は「呉録」に記された、王蕃が万彧をからかい逆にやりこめられた逸話と並べ一蹴している。(『王蕃伝』)

後に賀邵は「王蕃は真心をもって公のために尽くし、才能は天子の輔弼に堪えたが、酒に酔ったまぎれに処刑された」と孫晧を非難し、讒言された楼玄ともども配流された。(『賀邵伝』)

さらに薛瑩が投獄されると、陸抗(りくこう)は上疏し「楼玄・王蕃・李勗(りきょく)は当代第一級の優れた人物でしたが、あるいは誅殺され、配流されました。王蕃と李勗は永久に帰らず後悔しても追いつきませんが、楼玄と薛瑩はお許しください」と述べた。(『陸遜伝』)

また陸凱(りくがい)は「王蕃は社稷の重鎮で、景皇帝(孫休)にも称賛されました。しかし陛下(孫晧)は彼の苦言に腹を立て、包み隠さない受け答えを憎み、殿上で斬首し、死体を野山に投げ捨てられました。国を挙げて心ある者たちは悲しみ悼んでいます」と諫言した。

陳寿は薛瑩の「器量がずば抜けて大きく、博学で様々なことに通じた」という評と、胡沖(こちゅう)の「楼玄・賀邵・王蕃は当時の最も優れた人物で優劣は付け難い。どうしても付けるなら楼玄が先で、賀邵がそれに次ぐ」という評を紹介し「乱れた時代に高官となり非業の死を遂げたのはなんの不思議もない」と同情を寄せている。

なお王蕃は天文と数学にも通じ、1年を365日と145/589日、円周率を3.155と計算したという。

「演義」には登場しない。



王毖  曹丕の帝位禅譲を支持した謎メンバー


王毖(おうひ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「献帝伝」に曰く。
220年、曹丕に皇帝即位を勧める文書に給事黄門侍郎として連名した。(『文帝紀』)

辛毗(しんぴ)・劉曄(りゅうよう)・陳羣(ちんぐん)ら錚々たる面々とともに連名したが王毖のみ他の事績が不明である。



王秘  顔俊を殺した和鸞を殺す


王秘(おうひ)字は不明
涼州武威郡の人(??~??)

賊徒?

張既(ちょうき)が雍州刺史を務めた頃(219年頃)、涼州では武威郡の顔俊(がんしゅん)、張掖郡の和鸞(からん)、酒泉郡の黄華(こうか)、西平郡の麴演(きくえん)らが反乱し、勝手に将軍を名乗って争いあった。
顔俊が母と子を人質に出して魏に援軍を求めると、張既は「顔俊は不遜と逆心を抱いており、(力を貸して)勢いを得れば即座に背きます。我々は蜀との戦いに集中すべき時ですから、介入せず共倒れを待つべきです」と言い、曹操も同意した。
1年余り経ち、顔俊は和鸞に殺され、和鸞も武威郡の王秘に殺された。(『張既伝』)

顔俊と同じ郡の出身であり、配下による仇討ちだろうか。
また263年の蜀征伐に従軍した同姓同名の人物がおり、どちらもその他の事績が無く同一人物の可能性も少しはあるだろうか。



王秘  鄧艾・陳泰らと王経を救援


王秘(おうひ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

255年(『高貴郷公紀』)、雍州刺史の王経(おうけい)は姜維に大敗し、狄道に逃げ込み包囲された。

陳泰(ちんたい)が救援に赴き、合流した鄧艾・胡奮(こふん)・王秘らは「蜀軍は士気高く、(狄道を捨てて)いったん兵を引き態勢を立て直すべきだ」と主張したが、陳泰は「雍州の兵は心を一つにし、容易に城は落ちない。蜀軍は城を囲んで停滞し、むしろ士気は落ちている。兵糧も尽きかけており今こそ攻め時だ」と攻撃を命じた。
陳泰は姜維の伏兵も看破し、蜀軍を撤退させた。王経は「あと10日で城の兵糧は尽き、狄道はおろか雍州も落ちたでしょう」と嘆息し、陳泰の判断を称えた。(『陳羣伝』)



王飛梟


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王必  古参メンバー


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王弼  玄学の始祖


王弼(おうひつ)字は輔嗣(ほし)
兗州山陽郡の人(226~249)

魏の臣。
王業(おうぎょう)の子。

裴松之の注で何劭(かしょう)によって記された伝記が引用されている。

祖父の王凱(おうがい)は名士かつ優れた容貌で、荊州牧の劉表に娘婿に迎えられた。
父の王業は219年に魏諷(ぎふう)の乱に連座して、王粲(おうさん)の子が処刑されると、その蔵書1万巻(大学者の蔡邕(さいよう)の蔵書も含まれる)を受け継いだ。

王弼も幼少からそれら書物に親しんだのか、幼くして明敏な頭脳を持ち、10歳余りで「老子」を語れるほど学識高く、20歳になる前に父の部下の裴徽(はいき)を訪ねると、一目見ただけで高く評価され、彼に「無は万物の根源だが、孔子は無について語らず、老子は繰り返し説くのはなぜか」と問われた。王弼は「聖人(孔子)は無を体得していますが、説明はできないから語りません。老子は有に止まっているため万物を語ります」と答えた。後に傅嘏(ふか)にも評価された。
何晏(かあん)も「孔子は『後生畏るべし』と言ったが、王弼こそ天と人に関する哲理を語り合える人物だ」と感嘆した。

正始年間(240~249)、黄門侍郎に欠員が生じ、何晏は王弼を推薦したが、何晏と対立する丁謐(ていひつ)が王黎(おうれい)を推薦したため尚書郎に任じられるに留まった。
その際、王弼は時の権力者の曹爽(そうそう)に面会を願ったが、ただ道家の話をしただけで、曹爽を不快にさせた。王弼は道理をわきまえ名声を顧みなかったため出世コースから外され、間もなく王黎が亡くなった時も後任には王沈(おうしん)が任じられた。何晏は残念がったが、王弼は尚書郎になってから日も浅く、事務も得意ではないからと全く意に介さなかった。

劉陶(りゅうとう)は「戦国縦横家」の説に詳しく、王弼との議論ではいつもやり込めたが、王弼の得意分野になると打ち負かすことはできなかった。
王弼はおだやかで真面目な性格で投壺(当時のダーツ)が得意だったが、得意分野では他人を嘲笑する癖があり恨みを買った。
道家の学説では何晏に及ばなかったが、一部の論説では勝るものも多くあった。
鍾会とは並び称され、親しく議論を重ねた。
荀融(じゅんゆう)に著書を批判されると、それに回答するとともに皮肉を返した。
多くの著書を残し高く評価された。晋の王済(おうせい)も「老子」や「莊子」の解釈に頭を悩ませていたが、常に「王弼の「易注」を読めば理解の行く点が数多い」と評価した。

一方で人柄は浅薄で(※おだやかで真面目ではなかったのか?)、人の心の機微がわからなかった。はじめは王黎・荀融とも親しかったが、王黎に黄門侍郎の座を奪われるとそれを憎み(※意に介さなかったはずでは?)、荀融との仲も最後はこじれた。

249年、専横を極めた曹爽・何晏・丁謐らが司馬懿に粛清されると、王弼も処刑こそされなかったが免職となった。
その秋に癩病(ハンセン病)を患い、24歳の若さで没した。
子が無く家名も断絶し、司馬師はその才を惜しみ、何日も嘆息し続けたという。

後世の孫盛は「易の真髄には天下で最も精緻な人間しか触れることはできない。世間にある注解はほとんどでたらめで、ましてや王弼はこじつけばかりでどうしようもない。だから美辞麗句でごまかしたり、難解な部分には触れもしない。中には見るべき論もあるが、全体では易に泥を塗るものであろう」と酷評した。(『鍾会伝』)

「幽明録」には王弼の死にまつわる逸話が描かれる。
王弼は常々、先人の大学者である鄭玄(じょうげん)の学説をこき下ろしていた。ある晩、何者かが彼のもとを訪れ鄭玄と名乗り、厳しく問責した。王弼は恐れおののき、間もなく病を発し死に至った。

王弼と何晏は後に南北朝時代まで隆盛する「玄学」の始祖とされる。



王表  見えない神様


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王敏  羊続とともに趙慈を討伐した荊州刺史


王敏(おうびん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

186年、江夏郡で兵士の趙慈(ちょうじ)が反乱し、南陽太守の秦頡(しんけつ)を殺し6県を陥落させた。
廬江太守の羊続(ようしょく)は南陽太守に転任して討伐に当たることとなり、まず見すぼらしい服に着替え、童子一人を連れ各県を視察して回った。それをもとに各県の風土や官民の性質を次々と言い当てると、郡内の人々は種がわからず畏怖した。
そして荊州刺史の王敏とともに討伐し、趙慈ら5千の首級を挙げた。残党は降伏し、羊続は罪に問わなかった。郡内は平定され万民は喜んで服従した。(『後漢書 羊続伝』)

190年、孫堅は荊州刺史の王叡(おうえい)を殺し兵を奪った。王敏の別名か一族だろうか。(『孫堅伝』)



王夫人(大懿)  孫和の母


王夫人(おうふじん)名は不明
徐州琅邪郡の人(??~??)

孫権の側室。
王盧九(おうろきゅう)の娘。
側室に王夫人が二人いるため、皇后としての名の大懿(たいい)で呼ばれることも多い。

孫権の寵愛ぶりは歩夫人(練師)に次ぎ、三男の孫和(そんか)を生んだ。
242年、孫和を太子に立てると、孫権は彼女を皇后にしようとした。
しかし歩夫人の娘の孫魯班(そんろはん)は母が立后されないまま亡くなった恨みから王夫人を讒言した。孫権が重病に掛かった時「王夫人はうれしそうな顔をしています」と吹き込まれ、孫権は彼女に酷く当たるようになり、王夫人は心痛から没してしまった。(『孫権王夫人伝』)

また同時期に袁夫人(えんふじん)が立后を打診されたが、子供が無いことを理由に固辞したとも記される。(『孫権潘夫人伝』)

264年、孫皓は4代皇帝に即位すると、祖母の王夫人に大懿皇后を追贈し、その三人の弟を列侯した。(『孫権王夫人伝』)

余談だが二人の王夫人はどちらも列伝されているが「孫権王夫人伝」と同じ名前で紛らわしい。



王夫人(敬懐)  孫休の母


王夫人(おうふじん)名は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

孫権の側室。
側室に王夫人が二人いるため、皇后としての名の敬懐(けいかい)で呼ばれることも多い。

235年、孫権の六男の孫休を生んだ。
242年、同姓の王夫人(大懿(たいい)皇后)が生んだ三男の孫和(そんか)が太子に立てられると、他の側室らはみな地方に遠ざけられた。
王夫人(敬懐)も荊州公安に移住させられ、同地で没し葬られた。

258年、孫休が3代皇帝に即位すると、母を敬懐皇后と諡し敬陵へ改葬した。実家には跡継ぎがいなかったため、母の同母弟の王文雍(おうぶんよう)が亭侯に封じられた。(『孫権王夫人伝』)

余談だが二人の王夫人はどちらも列伝されているが「孫権王夫人伝」と同じ名前で紛らわしい。



王布


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王普


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王誧


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王馥  王祥の後継ぎの三男


王馥(おうふく)字は不明
徐州琅邪郡臨沂県の人(??~??)

晋の臣。
王祥(おうしょう)の三男。

268年に父が没すると、長男の王肇(おうちょう)は妾腹で、次男の王夏(おうか)は早逝していたため三男の王馥が爵位を継いだ。

咸寧年間(275~280)のはじめ、清廉で家が貧しかったため絹300匹を下賜された。
上洛太守に上り、没すると孝公と諡された。
子の王根(おうこん)が後を継ぎ、散騎侍郎に上った。(『晋書 王祥伝』)



王文儀


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王文雍  王夫人(敬懐)の弟


王文雍(おうぶんよう)字が文雍か
荊州南陽郡の人(??~??)

孫休の母の王夫人(おうふじん)の同母弟。

242年、孫和(そんか)が太子に立てられると、その母を除く他の側室らはみな地方に遠ざけられた。
王夫人も荊州公安に移住させられ、同地で没し葬られた。

258年、孫休が3代皇帝に即位すると、母を敬懐皇后と諡し敬陵へ改葬した。実家には跡継ぎがいなかったため、母の弟の王文雍が亭侯に封じられた。(『孫権王夫人伝』)



王芬


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王芬  王祥の早逝した五男


王芬(おうふん)字は不明
徐州琅邪郡臨沂県の人(??~??)

晋の臣。
王祥(おうしょう)の五男。

父より先に早逝した。

四男の王烈(おうれつ)と同時期に没し、王烈は故郷で、王芬は都で死ぬことを望み、王祥は「故郷を忘れないのは仁、こだわらないのは達である。私の子らは仁と達を身に着けていた」と泣いたという。(『晋書 王祥伝』)



王平  戦場で育った武人


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王甫  美男子は忠誠の人


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王模


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王甫  美男子は忠誠の人


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王方平


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王豹


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王訪  八交の一人


王訪(おうほう)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

後漢の臣?

「漢紀」に曰く。
劉表(りゅうひょう)と同郡出身の張隠(ちょういん)・薛郁(せついく)・王訪・宣靖(せんせい)・公緒恭(こうしょきょう)・劉祗(りゅうし)・田林(でんりん)ら8人は名高く、「八交」あるいは「八顧」と呼ばれた。(『劉表伝』)

劉表以外の7人はそれ以外の事績がない。
また「八顧」は前代に郭泰(かくたい)が属する八顧の方が著名である。



王髦  曹丕の剣を打つ


王髦(おうぼう)字は不明
出身地不明(??~??)

刀匠?

「典略」に曰く。
楊脩(ようしゅう)は王髦の剣を曹丕に献上し、曹丕は常に帯剣した。
楊脩は曹丕と後継者争いした曹植(そうしょく)の腹心で、危険視されて曹操に殺された。
曹丕は帝位につくと楊脩の自分に対するあまりに冷淡な態度を思い出し、「これは楊脩がくれた剣だが、王髦は今どうしている」と探させ、穀物と絹を与えた。(『陳思王植伝』)



王謀  後継者なぞ見つからない


王謀(おうぼう)字は元泰(げんたい)
益州漢嘉郡の人(??~??)

蜀の臣。

所作は礼にかない品行正しかった。
はじめ劉璋(りゅうしょう)に仕え巴郡太守を務め、召還され州の治中従事となった。

214年、劉備に益州が制圧されると益州別駕従事に任命された。
219年、劉備が漢中王に即位すると少府に任命された。(『楊戯伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に少府として連名した。(『先主伝』)

223年、関内侯に封じられ、後に頼恭(らいきょう)の後任の太常となった。(『楊戯伝』)

224年、諸葛亮は杜微(とび)を招聘した。耳の聴こえない彼のため諸葛亮は手紙を送り、その中で「王謀らもあなたの高邁な志に感嘆しています」と記した。(『杜微伝』)

後年、蔣琬(しょうえん)は(漢嘉郡出身の)張休(ちょうきゅう)に「君の郡には王謀がいたが、今は誰が後を継いだのか」と尋ねると、張休は「王謀ほどの人物の後継者は州で探してもいません。私の郡ではとてもとても」と首を振った。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「身を修め慎み深く、陰陽の変化を広く指し示した」と評した。

陳寿は事績が残っていないため伝を立てなかったとその注に記した。(『楊戯伝』)

「演義」では劉備に皇帝即位を勧めた一人として名前が挙がるのみである。



王襃  父の死を終生悼んだ王脩の孫


王襃(おうほう)字は偉元(いげん)
青州北海郡営陵の人(??~??)

隠者。
王儀(おうぎ)の子。王脩(おうしゅう)の孫にあたる。

身長8尺4寸で容貌はとりわけ優れていた。
若年より品行高く、礼に外れた行動を取らなかった。

父が司馬昭に理不尽に殺されると、世間から離れ墓前に家を建て、若者を教育し終生誰にも仕えなかった。
朝夕いつも墓に参っては父の死を嘆くあまり気絶し、墓前の柏の木に取りすがって泣くため、涙の跡で木は変色した。
「詩経」を読み「哀哀たる父母、我を生みて労悴す」の下りまで来ると繰り返し読んでは涙に暮れた。

家は貧しく自ら田畑を耕し、蚕を育てた。生徒が彼のために麦を刈ってやるとそれを捨ててしまい、手伝う者はいなくなった。
王襃は常に「人間の行動は善事に帰着しなければならない。自分に可能だからと、他人が不可能なことを咎めてはならない」と考え、贈り物は受け取らなかった。
ある時、生徒が徴発されたため労役免除の口添えを依頼されると「君の学問は身をかばうには足りず、私の徳は君を覆うには薄すぎる。それに私は筆を絶って40年になる」と断った。
そして徴発先に向かうと、県令は出迎えたが、王襃は送別に来ただけだと言い、涙を流して生徒と別れた。県令は即座に徴発を取りやめたが、人々は徴発が間違いだったと恥じた。

王襃は同郷の管彦(かんげん)が若く無名のうちから評価し、娘と管彦の息子を結婚させる約束をした。
管彦は西夷校尉まで上ったが没し、王襃は娘を別の相手に嫁がせた。
管彦の弟の管馥(かんふく)が約束が違うと問いただすと、王襃は「私のわずかな念願は自然の中で暮らすことです。姉妹は遠くに嫁ぎ冠婚葬祭も途絶えています。ところが管彦の子は彼を洛陽に葬りました。洛陽の人には嫁がせられません」と答えた。
管馥は「兄嫁は故郷に帰るでしょう」と言ったが「父を洛陽に葬り、母が帰ることがありえましょうか」と王襃は納得しなかった。

高名な邴原(へいげん)の子孫の邴春(へいしゅん)は郷里の人々に、邴原を継ぐ者と評されていた。
だが王襃は「妥協しない性格で名声を求めすぎるから大成しない」と見立てた。
結局、邴春は学業が身につかず、遠く離れた地を流浪することになり、識者は王襃の鑑識眼に感服したという。

洛陽が陥落し西晋が滅び盗賊が跋扈すると、親族は江東に移住したいと願ったが、王襃は先祖の墓から離れたくないと応じなかった。
さらに賊徒が盛んになるとようやく腰を上げたが、泰山郡から先へは進まず、ついに賊徒に殺害された。(『王脩伝』)



王摩  官渡の戦いで于禁に降伏した将B


王摩(おうま)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

200年、官渡の戦いで于禁(うきん)は楽進(がくしん)とともに5千の兵で西南へ向かい、30以上の陣営を焼き払い、数千の首級と数千の捕虜を得て、何茂(かぼう)・王摩ら20人以上の将を降伏させた。(『于禁伝』)



王明山


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王黙


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王門


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王約  呉に寝返り交阯を陥落させる


王約(おうやく)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

271年、呉は交阯を陥落させた。
その経緯はいくつかあり「華陽国志」には、兵糧が尽き城兵の死者も半数に達すると、将軍の王約が寝返ったため呉軍が城内に入った、と記される。(『孫晧伝』)



王邑  献帝を助けた河東太守


王邑(おうゆう)字は文都(ぶんと)
雍州北地郡涇陽県の人(??~??)

後漢の臣。

195年、献帝は董卓残党の支配する長安を脱出し、安邑を仮の都に定めた。河東太守の王邑は織物を届け、列侯された。
(※王邑の爵位は安邑亭侯。献帝が与えられる領土は仮の都に定めたばかりの当地しかなかったし、それをすぐさま与えた献帝の喜びぶりがうかがえる)(『後漢書 董卓伝』)

202年、袁紹が没すると曹操は北上した。袁紹の三男の袁尚(えんしょう)は高幹(こうかん)・郭援(かくえん)に命じて、河東へ侵攻させた。(『鍾繇伝』)

その時、河東太守の王邑は詔勅により罷免された。(『杜畿伝』)

「魏略」に曰く。
王邑は状況が乱れていたため納得せず、官民も彼を慕い反対した。郡の官吏の衛固(えいこ)・笵先(はんせん)らは管轄する鍾繇(しょうよう)へ留任を訴えた。(『鍾繇伝』)

衛固・笵先は表向きは留任を名目にしたが、裏では高幹と結託しており、道を破壊するなどして数ヶ月にわたり妨害した。
曹操は結託を見抜き、鎮圧できる人材を尋ね、荀彧は杜畿(とき)を河東太守に推薦した。(『杜畿伝』)

「魏略」に曰く。
杜畿が郡内に入っても王邑はまだ残っており、鍾繇は太守の割符(証)を渡すよう命じたが、王邑は自ら許昌へ赴き、朝廷に割符を返した。罪に服したが寛大な処置で許された。
鍾繇も監督不足として自らを弾劾したが、罪に問われなかった。

ちなみに弾劾文書に王邑の役職は鎮北将軍・安陽亭侯と記される。(※安邑亭侯の誤記だろう)(『鍾繇伝』)

「魏略」に曰く。
河東郡の役人の賈逵(かき)は郭援に捕らえられたが「王邑が何年も治めていたのに、お前さんに何ができるのだ」と皮肉を吐いた。郭援は殺そうとしたが、義士の祝公道(しゅくこうどう)によって救出された。(『賈逵伝』)

太守に着任した杜畿は衛固・笵先に面従腹背し、隙を見て片付けた。(『杜畿伝』)

213年、曹操の三人の娘を献帝の貴人(側室)として迎えることが決まった。

「献帝起居注」に曰く。
使持節行太常大司農・安邑侯の王邑が使者となり、結納を交わした。
214年、行太常事大司農安邑亭侯の王邑と宗正の劉艾(りゅうがい)が使者となり、曹操の(年長の)二人の娘を献帝の貴人として宮中へ迎え入れた。(『武帝紀』)

「演義」には献帝へ絹を届けたことだけが記される。

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