王昶 毒舌都督
王昶(おうちょう)字は文舒(ぶんじょ)
并州太原郡晋陽県の人(??~259)
魏の臣。
王沢(おうたく)の子。
若くして同郷の王淩(おうりょう)と並び称され、年上の彼を兄として仕えた。
曹丕に仕え太子文学、太子中庶子となり、220年に帝位につくと散騎侍郎に移り、洛陽の典農を務めた。林や荒れ地を開拓して多くの田を作り、兗州刺史に上った。(『王昶伝』)
兗州刺史の時、名高い阮籍(げんせき)を招き会見したが、一日中、言葉を交わせなかった。王昶は感嘆し、自分には計り知れない人物だと考えた。蔣済(しょうせい)はこれを聞き阮籍を招聘した。(『王粲伝』)
杜恕(とじょ)は「韓観(かんかん)・王昶は多くの才能を備え、高い官位と重い任務にふさわしく、三州の刺史に留まりません」と上奏した。(『徐邈伝』)
226年、曹叡が即位すると揚烈将軍を加えられ、関内侯に封じられた。
任務で外にいる時も、常に朝廷のことを気にかけ、青龍年間(233~237)に、古代の法制度は苛酷に過ぎて現代にはそぐわないと、改正を唱え「治論」を著し、また「兵書」を著し奇策と正攻法について論じた。
子や甥には名や字に謙虚・質実を意味するものを選んでやった。
だが本人は毒舌で、子弟に与えた訓戒の中で郭奕(かくえき)、劉禎(りゅうてい)ら旧友の人となりを悪い例として列挙し痛烈に非難している。(※王昶もその態度を裴松之に厳しく非難された)
236年、上位の官にある者に人材を推挙するよう詔勅が下ると、司馬懿に推挙された。
正始年間(240~249)に徐州へ赴任し、武観亭侯に取り立てられ、征南将軍・仮節都督荊豫諸軍事に上った。
荊州の役所は宛にあったが前線から遠かったため、上奏して新野に移し、得意の開墾で兵糧を蓄えた。
249年、司馬懿が国を牛耳る曹爽(そうそう)を粛清し、広く意見を求めると、王昶は5つの政策を具申し賞賛された。
翌250年、二宮の変に揺れる呉を討伐する好機と、州泰(しゅうたい)、王基(おうき)とともに三方から呉へ侵攻した。
呉は施績(しせき)が迎え撃ったが、王昶は弩で返り討ちにし、施績は江陵に籠城した。王昶は城からおびき出そうと、5つの軍をわざと撤退させ、さらに馬と呉兵の首に戦利品の鎧兜を着せて城の周囲を駆け回らせた。怒った施績は撤退する軍を追い、伏兵に撃退された。
敵将の鍾離茂(しょうりぼう)、許旻(きょびん)を討ち取り、大量の戦利品を奪い、州泰・王基も勝利した。(『王昶伝』)
だが戴烈(たいれつ)・陸凱(りくがい)の防戦により魏軍は撤退した。(『呉主伝』)
王昶も江陵城を落とせず撤退した。施績は諸葛融(しょかつゆう)へ手紙を送り、ともに追撃しようと約束し合ったが、諸葛融は現れず、王昶は逃げ切った。
孫権は施績の働きを喜び、諸葛融を叱責したが、その兄の諸葛恪が重臣のため免職されず、もともと険悪だった施績と諸葛恪・諸葛融兄弟の仲はますます深刻なものとなった。(『朱然伝』)
この功により王昶は征南大将軍・儀同三司に上り、爵位も京陵侯に進められた。(『王昶伝』)
252年、孫権が没すると胡遵(こじゅん)・毌丘倹(かんきゅうけん)とともに呉の征伐を上奏した。
三人の策略がそれぞれ異なったため、朝廷は傅嘏(ふか)に意見を求めた。傅嘏は内政に励み力を蓄えるべきだと答えたが聞き入れられず、王昶らは呉を攻めたが、諸葛恪に大敗した。(※東関の戦い)(『傅嘏伝』)
王昶・毌丘倹も東軍の敗退により、陣営を焼き払い撤退した。朝廷は処罰を検討したが、司馬師が「私が諸葛誕の進言を聞き入れなかったからだ」と言ったため、罪に問われなかった。(『斉王紀』)
255年、毌丘倹・文欽(ぶんきん)の反乱でも武功を立て、二人の子が列侯され、王昶も驃騎将軍に昇進した。(『王昶伝』)
256年、盧毓(ろいく)は司空に任じられたが、重病のため辞退し、王昶・王観(おうかん)・王祥(おうしょう)を代わりに推薦した。だが受け入れられず、司空となるも翌年に没した。(『盧毓伝』)
257年、諸葛誕は司空に任命されると「私が三公になるのは王昶の後のはずだ。しかも正式な使者ではなく、兵を楽綝(がくちん)に明け渡せと言っている。楽綝の陰謀に違いない」と疑い、ついに謀叛を決意した。(『諸葛誕伝』)
王昶は江陵方面に駐屯し、施績・全煕(ぜんき)を足止めし諸葛誕の救援に向かわせなかった。
この功により1千戸を加えられ4700戸となり、武官ながら三公(司空)の位に上り、そのまま持節・都督も兼ねる異例の待遇を受けた。
259年に没し、穆公と諡された。
後を継いだ子の王渾(おうこん)は呉討伐に大功あり、一族は三国統一の元勲として晋で栄華を極めていく。(『王昶伝』)
人相見の達人である朱建平(しゅけんぺい)の予言はよく当たったが、王昶・程喜(ていき)・王粛(おうしゅく)への予言だけは外れた。(『朱建平伝』)
陳寿は「君主を補導し民を治め、識見・度量があった」とし、同伝に収めた徐邈(じょばく)・胡質(こしつ)・王基とともに「地方の長官を司り、称賛を残し、功績を著した。国家の良臣、当代の優れた人物」と評した。
「演義」では東関の戦いにのみ登場する。
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