王覧 命がけの兄孝行
王覧(おうらん)字は玄通(げんつう)
徐州琅邪郡臨沂県の人(206~278)
魏・晋の臣。
王融(おうゆう)と朱氏(しゅし)の子。
王祥(おうしょう)の弟。
「晋書 王祥伝」に附伝される。
王祥は早くに母を亡くし、継母の朱氏には嫌われ、讒言されたため父にも嫌われたが、非常に親孝行だった。(『晋書 王祥伝』)
弟の王覧は朱氏の実子で可愛がられたが、10歳にもならないのに兄に同情し、一緒に母に鞭打たれ、抱き合って泣いた。長じると母を諌めるようになり、虐待は少し収まった。
王祥の妻も同様に朱氏に責められたが、王覧もその妻もともに兄夫婦をかばった。
父の王融が没すると王祥の評判が立ち、それを恨んだ朱氏はついに毒殺を企んだ。王覧は毒酒を王祥から奪おうとし、王祥も毒が入っているのを察し、奪わせまいと争った。朱氏があわてて奪い、引っくり返した。その後は王覧が常に毒味してから兄に食べさせたため、朱氏は王覧を殺してしまうのを恐れ毒殺を諦めた。(『晋書 王覧伝』)
後漢末に戦乱を避け、母や兄とともに(母の故郷の)揚州廬江郡へ移住した。王祥は州郡から召されたが応じず、30年余りを過ごした。
母が没すると王祥は喪に服して憔悴し、杖をつきやっと立てるほどだった。
徐州刺史の呂虔(りょけん)が招聘したが、既に60歳近い王祥は老齢を理由に固辞した。しかし王覧が車馬を整えてやり出仕を勧めたため、別駕に任じられた。(『晋書 王祥伝』)
王覧も郡に出仕し、兄に次ぐ名声を得た。
司徒西曹掾・清河太守に上り、264年には即丘子に封じられ600戸を得た。
泰始年間(265~275)に弘訓少府に任じられ、廃止されると太中大夫に転任したが俸禄は据え置かれた。
兄の王祥は三公に上り268年に没した。かつて呂虔に与えられた三公が身に着けるいわれのある名刀を「お前の子孫は必ず繁栄する」と言って王覧へ譲った。
王覧の子孫は代々優れた人物を輩出し栄えた。
咸寧年間(275~280)のはじめ、司馬炎に「若くして徳行を極め、仁に従い義を行い、正しく飾らない様を変えないことは成人してもますます変わらなかった」と称賛され宗正卿に上った。
後に病で官を辞すと、司馬炎は銭20万や寝具を与え、医者を送った。復帰し光禄大夫に転じた。
278年、73歳で没し「貞」と諡された。
6人の子はいずれも高位に上った。
孫の王導(おうどう)は東晋の名臣となり「晋書」に列伝された。(『晋書 王覧伝』)
「晋諸公賛」では「素直で素朴、品行申し分なし」と評され、裴松之も「子孫は繁栄し、賢才が相次いで生まれ、異なった王朝のもとで栄え続けたのは古今に例が少ない」と記した。(『呂虔伝』)
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