三国志 お 4


王祐


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王雄  軻比能を暗殺した王戎の祖父


王雄(おうゆう)字は元伯(げんはく)
徐州瑯邪郡臨沂県の人(??~??)

魏の臣。
竹林の七賢の王戎(おうじゅう)の祖父。

220年、崔林(さいりん)は幽州刺史に赴任した。
河北の軍権は呉質(ごしつ)が握っていたが、崔林はご機嫌伺いをしなかったため、涿郡太守の王雄は心配し、挨拶に出向くよう助言した。
しかし崔林は「私は刺史を辞めさせられることを、履物を脱ぎ捨てる程度にしか思っていない。異民族への対処が気掛かりだから留まっているのだ」と意に介さなかった。
任期の間、異民族の侵略を防いだが、呉質に恨まれ河間太守に左遷され、清潔な人々に惜しまれた。

一方で「魏名臣奏」には「尚書令の桓階(かんかい)は、崔林が尚書の才を持たないと判断し河間太守にした」と記されている。

孟達(もうたつ)は「王雄は西部従事の時に同僚でした。天性善良そのもので、果敢な上に智慧があります。3つの県を見事に統治し、今は涿郡太守を務めていますが彼には役不足です」と推挙した。
曹叡は「王雄が文武両道なのは承知している。散騎常侍として側近に置き、意向を理解させよう。天下の人士はまず散騎常侍を経てから州や郡を統治させたい」と詔勅を下した。
王雄は後に幽州刺史に上った。(『崔林伝』)

配下の者が王雄を烏丸校尉に据えようと考え、同職にある田豫(でんよ)を讒言して汝南太守へ左遷させた。

232年、遼東で公孫淵(こうそんえん)が反乱すると、楊曁(ようき)は田豫を推挙した。田豫は汝南太守のまま青州の諸軍を率い、遼東軍の進路を読んで撃破した。(『田豫伝』)

「戦略」に異聞がある。
232年、曹叡は幽州刺史の王雄に陸路から、平州刺史の田豫に海路から遼東を攻めさせた。
蔣済(しょうせい)は「敵対国でもないのに討伐しては逆効果で、遼東は制圧しても益はありません」と反対したが聞き入れられず、討伐も失敗した。(『蔣済伝』)

王雄は烏丸校尉を兼任し、恩賞と信義で鮮卑をなつかせた。鮮卑の大人(長)の軻比能(かひのう)も役所を訪ねては献上物をささげた。
ところが233年、軻比能は反乱した。

235年、王雄の進言により、曹叡は軻比能へ刺客の韓龍(かんりょう)を送り暗殺した。(『烏丸伝』・『鮮卑伝』)

子の王渾(おうこん ※呉討伐で活躍した王渾とは別人)は涼州刺史に、下の子の王乂(おうがい)は平北将軍に上った。
王渾の子の王戎は司徒に上り、また竹林の七賢に名を連ねた。(『崔林伝』)



王融  王祥の父


王融(おうゆう)字は不明
徐州琅邪郡臨沂県の人(??~??)

隠者?
王祥(おうしょう)の父。

父の王仁(おうじん)は後漢の青州刺史を務めたが、王融は三公に招聘されたが出仕しなかった。
早くに妻を亡くし、後妻の朱氏(しゅし)に王祥は嫌われ、讒言されたため父にも嫌われたが、非常に親孝行だった。

王融が没すると王祥の評判が立ち、それを恨んだ朱氏はついに毒殺を企んだ。弟で朱氏の実子の王覧(おうらん)は毒酒を王祥から奪おうとし、王祥も毒が入っているのを察し、奪わせまいと争った。朱氏があわてて奪い、引っくり返した。その後は王覧が常に毒味してから兄に食べさせたため、朱氏は王覧を殺してしまうのを恐れ毒殺を諦めた。

継母の死後に王祥は魏に仕え、後に晋の三公に上った。(『晋書 王祥伝』)



王羕  李豊捕縛の策を立てる


王羕(おうよう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
254年、李豊(りほう)の反乱計画が露見すると、舎人の王羕は司馬師に「李豊を呼び出してください。反乱の準備ができていなければ応じて簡単に捕らえられますし、応じなければ使者の私一人でどうとでもできます。李豊が露見したことを知り、宮中に入って天子を人質にして兵を集めたら手に負えません」と進言した。
司馬師は同意し、王羕は車で李豊を迎えに行き、脅して連れ帰り処刑させた。(『夏侯尚伝』)



王廙


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王覧  命がけの兄孝行


王覧(おうらん)字は玄通(げんつう)
徐州琅邪郡臨沂県の人(206~278)

魏・晋の臣。
王融(おうゆう)と朱氏(しゅし)の子。
王祥(おうしょう)の弟。
「晋書 王祥伝」に附伝される。

王祥は早くに母を亡くし、継母の朱氏には嫌われ、讒言されたため父にも嫌われたが、非常に親孝行だった。(『晋書 王祥伝』)

弟の王覧は朱氏の実子で可愛がられたが、10歳にもならないのに兄に同情し、一緒に母に鞭打たれ、抱き合って泣いた。長じると母を諌めるようになり、虐待は少し収まった。
王祥の妻も同様に朱氏に責められたが、王覧もその妻もともに兄夫婦をかばった。

父の王融が没すると王祥の評判が立ち、それを恨んだ朱氏はついに毒殺を企んだ。王覧は毒酒を王祥から奪おうとし、王祥も毒が入っているのを察し、奪わせまいと争った。朱氏があわてて奪い、引っくり返した。その後は王覧が常に毒味してから兄に食べさせたため、朱氏は王覧を殺してしまうのを恐れ毒殺を諦めた。(『晋書 王覧伝』)

後漢末に戦乱を避け、母や兄とともに(母の故郷の)揚州廬江郡へ移住した。王祥は州郡から召されたが応じず、30年余りを過ごした。
母が没すると王祥は喪に服して憔悴し、杖をつきやっと立てるほどだった。
徐州刺史の呂虔(りょけん)が招聘したが、既に60歳近い王祥は老齢を理由に固辞した。しかし王覧が車馬を整えてやり出仕を勧めたため、別駕に任じられた。(『晋書 王祥伝』)

王覧も郡に出仕し、兄に次ぐ名声を得た。
司徒西曹掾・清河太守に上り、264年には即丘子に封じられ600戸を得た。
泰始年間(265~275)に弘訓少府に任じられ、廃止されると太中大夫に転任したが俸禄は据え置かれた。

兄の王祥は三公に上り268年に没した。かつて呂虔に与えられた三公が身に着けるいわれのある名刀を「お前の子孫は必ず繁栄する」と言って王覧へ譲った。
王覧の子孫は代々優れた人物を輩出し栄えた。

咸寧年間(275~280)のはじめ、司馬炎に「若くして徳行を極め、仁に従い義を行い、正しく飾らない様を変えないことは成人してもますます変わらなかった」と称賛され宗正卿に上った。
後に病で官を辞すと、司馬炎は銭20万や寝具を与え、医者を送った。復帰し光禄大夫に転じた。

278年、73歳で没し「貞」と諡された。
6人の子はいずれも高位に上った。
孫の王導(おうどう)は東晋の名臣となり「晋書」に列伝された。(『晋書 王覧伝』)

「晋諸公賛」では「素直で素朴、品行申し分なし」と評され、裴松之も「子孫は繁栄し、賢才が相次いで生まれ、異なった王朝のもとで栄え続けたのは古今に例が少ない」と記した。(『呂虔伝』)



王離


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王立  後漢はオワコン


王立(おうりつ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の侍中太史令。

「漢紀」に曰く。
董卓残党の支配する長安を脱出した献帝は、黄河を渡り東に出ようとしたが、王立が天文を見て不吉だと言ったため、取りやめた。
さらに王立は天文を見て劉艾(りゅうがい)に「漢の命運は尽き、晋・魏に興隆する者が現れる」と語った。
その後もたびたび献帝に「天命には去就があり、漢に代わるのは魏、天下を安定させるのは曹氏です。曹氏に委任してください」と進言した。
曹操はそれを聞くと「君は忠誠心から朝廷のために言っているのだろうが慎んでくれ」と苦言を呈した。(『武帝紀』)

「演義」でも予言をし、曹操に口止めされる逸話が描かれる。



王淩  賛否両論の男


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王累  逆さ吊り


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王黎  王弼とポストを争う


王黎(おうれい)字は不明
冀州常山国高邑県の人(??~??)

魏の臣。

正始年間(240~249)、黄門侍郎に欠員が生じ、丁謐(ていひつ)は王黎を、何晏(かあん)は王弼(おうひつ)を推薦した。
王黎と王弼は親密だったが、曹爽(そうそう)は王黎を起用したため、王弼はそれを恨んだ。

しかし王黎は間もなく病没してしまった。
後任には王沈(おうしん)が選ばれ、何晏はまたしても王弼が選ばれず残念がったが、王弼は意に介さなかったという。(『鍾会伝』)



王霊


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王烈  人々に自ずと襟を正させる


王烈(おうれつ)字は彦方(げんほう)
青州平原郡の人(141~218)

隠者。

優れた見識と道徳を備え、道義を守り横道にそれなかった。
陳寔(ちんしょく)に師事し、その二人の子を友とした。荀爽(じゅんそう)、賈彪(かひょう)、李膺(りよう)、韓融(かんゆう)ら名だたる人物が同門だったが、王烈の器量と学業は並外れており、彼らは感服し親しく付き合い、王烈の名は四海に轟いた。

学問を修め故郷に帰り、父の喪に3年服した。飢饉が起こると蓄えを放出して人々を救い、一族や民から慕われた。
学校を建てて教鞭をとり、道義を教えた。教化は行き届き、生徒は自分でも気づかぬうちに己を律し、盛り場にいる時さえ、王烈の生徒は歩き方だけで見分けがついた。

ある時、牛泥棒が捕まった。盗人は「出来心でした。心を改めますので、どうか王烈には言わないでください」と反省した。
王烈はこれを聞き「晋の穆公は馬を盗み、食ってしまった者を許し酒を与えた。後に盗人は身を挺して穆公を守った。この牛泥棒は私に知られることを恐れ、悪事を恥じている。だから贈り物をして善事を奨励しよう」と盗人に布を贈った。
1年ほど後、ある老人が重荷を抱えて歩いていると、通りがかった男が代わりに数十里も運んでやり、名も告げずに去った。
後に同じ老人が剣を落とした。通りがかりの男がそれを見つけ、持ち主が戻るまで見張り続けた。老人が戻ってきて、重荷を背負ってくれたのと同じ男だと驚いた。
今度は名を聞き、王烈に伝えると、牛泥棒だった男であった。王烈は感嘆し、国に彼を顕彰させた。

人々は争いが起こると王烈に裁定を求めようとしたが、ある人は道まで出て帰り、またある人は門前まで来て引き返し、結局は正しい方へ自ずと譲り合い、王烈の耳に入れまいとした。
国主らは自ら王烈を訪ね政令について諮問し、孝廉に推挙され、三公全てから招聘されたが応じなかった。

当時は管寧(かんねい)・邴原(へいげん)も清貧の士として知られたが、王烈が最も名声があった。(『管寧伝』)
黄巾の乱、董卓の台頭が起こると、遼東へ管寧・邴原・国淵(こくえん)らとともに疎開し、太守の公孫度(こうそんど)に歓迎された。(『管寧伝』・『国淵伝』)

王烈は士人から農民になり自ら畑を耕した。東方の人々は彼を主君のように仰ぎ、善事と公正の道へ導かれた。危害を加えられることも多々あった疎開民の中で、彼は一度も災難に遭わなかった。
公孫度は長史に任命したが、商人に身をやつし、それを固辞した。
曹操も何度も招いたが、公孫度ら遼東の太守らは王烈に代わって言い訳し断り続けた。
曹操の台頭により中原が落ち着くと邴原、国淵ら疎開民は帰っていったが、管寧と王烈だけは遼東に残った。(『管寧伝』)

210年、丞相懲事が初めて設置され、邴原と王烈が任命された。(※だが断った)(『邴原伝』)

218年、丞相掾に招かれたが招聘が届く前に病没した。享年78。(『管寧伝』)



王烈  王祥の早逝した四男


王烈(おうれつ)字は不明
徐州琅邪郡臨沂県の人(??~??)

晋の臣。
王祥(おうしょう)の四男。

父より先に早逝した。

五男の王芬(おうふん)と同時期に没し、王烈は故郷で、王芬は都で死ぬことを望み、王祥は「故郷を忘れないのは仁、こだわらないのは達である。私の子らは仁と達を身に着けていた」と泣いたという。(『晋書 王祥伝』)



王連  丞相の南征ダメ絶対


王連(おうれん)字は文儀(ぶんぎ)
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。

劉璋(りゅうしょう)の代(※194年に後継)に益州に移住し梓潼県令に任じられた。
212年、益州に侵攻した劉備の軍が梓潼に迫ると、王連は降伏せず籠城した。義を感じた劉備はあえて攻めず、214年に劉璋が降伏すると王連も軍門に下った。

什邡県令、広都県令を歴任し治績をあげた。司塩校尉になり鉄と塩の管理を担当すると、専売で莫大な利益を上げ国庫を潤した。さらに呂乂(りょがい)、杜祺(とき)、劉幹(りゅうかん)らを抜擢し、後にみな出世した。蜀郡太守・興業将軍に昇進した後も、鉄と塩の管理を任された。(『王連伝』)

廖立(りょうりつ)は地位に不満を抱き、劉備や関羽すら批判し免職されたが、王連も「俗人が卑しくも偉そうな顔をして民衆を疲弊させた結果、今日の事態を招いたのだ」とこき下ろした。(『廖立伝』)

223年、屯騎校尉と丞相長史を兼務し、平陽亭侯に封じられた。
当時、南中で反乱が起こっていたため諸葛亮は自ら南征に赴こうとしたが、王連は「不毛で風土病の蔓延する危険な土地に、一国を担う方が行くべきではない」と敢然と反対した。
諸葛亮は他に南征を任せられる者がおらず、決心を曲げなかったが、王連が口を開くたびに取りやめるよう懇願したため出征できなかった。
結局、南征に出られたのは王連の死後(※225年)だった。(『王連伝』)

224年、諸葛亮は杜微(とび)を招聘した。耳の聴こえない彼のため諸葛亮は手紙を送り、その中で「王連らもあなたの高邁な志に感嘆しています」と記した。(『杜微伝』)

向朗(しょうろう)が後任の丞相長史となった。(『向朗伝』)
子の王山(おうさん)が後を継ぎ江陽太守にまで上った。(『王連伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「節操固く心変わりしなかった。蜀に仕えてからは世の規範となるよう心を尽くし、軍需担当として頼みにされ、よく任務を遂行した」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「節義を貫いて心変わりしない、記録に値する人物である」と評した。



王盧九  王夫人(大懿)の父


王盧九(おうろきゅう)字は不明
徐州琅邪郡の人(??~??)

孫権の側室の王夫人(おうふじん)の父。
孫和(そんか)の祖父にあたる。(『孫権王夫人伝』)



王朗  Mr.清廉潔白


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王朗  于禁を推挙した方


王朗(おうろう)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

192年、兗州刺史となった曹操に于禁(うきん)は仲間を引き連れて仕官し、将軍の王朗の配下となった。
王朗に大将軍の資質があると推挙され、曹操は引見すると軍司馬に任じた。(『于禁伝』)



王和平


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応璩  白い犬を見る


応璩(おうきょ)字は休璉(きゅうれん)
豫州汝南郡南頓の人?(??~254)

魏の臣。
建安七子の一人である応瑒(おうとう)の弟。
「王粲伝」に附伝される。

学識高く、兄と同じく文学の才に優れた。
曹丕・曹叡の代に散騎常侍を務めた。(『応璩伝』)

散騎常侍の時、河南尹の劉靖(りゅうせい)へ手紙を送りその統治を讃えた。(『劉馥伝』)

曹芳の代には侍中・大将軍長史に上った。
時の権力者の曹爽(そうそう)を諷刺し、その言辞はいささか迎合するきらいはあったが、多くは時代に合い広く受け入れられた。

(※曹爽に免職させられ?)侍中に復帰後、254年に没し、衛尉を追贈された。

子の応貞(おうてい)も文才を受け継ぎ、参相国軍事まで上った。
下の子の応純(おうじゅん)も黄門侍郎となり、その弟の応秀(おうしゅう)の子は鎮南大将軍・江州刺史になった。(『応璩伝』)

以前、曹丕は優れた人相見として知られる朱建平(しゅけんぺい)に自身や居合わせた者の寿命を占わせた。
応璩は「62歳で侍中となるが災難に遭う。その一年前にあなたにだけ見える白い犬に会う」と占われた。
61歳で侍中となったある日、白い犬を見かけた。尋ねても他に見た者はなく、これまでの占いが多く的中していたこともあり、寿命を悟った応璩は友人と遊び、旅行に出掛けたりと遊興にふけり、予言より1年多い63歳で没した。(『朱建平伝』)



応綽  三国末期の揚州刺史


応綽(おうしゃく)字は不明
出身地不明(??~?)

晋の臣。

呉は皖城で大々的に耕作を進め侵攻の準備を進めていたが、王渾(おうこん)は揚州刺史の応綽に攻撃させ、大量の船と兵糧を焼き払い、逆襲の機会をうかがった。

279年、呉征伐が始まったが、その際の揚州刺史は周浚(しゅうしゅん)と記される。(『晋書 王渾伝』)



応秀  応詹の父


応秀(おうしゅう)字は不明
豫州汝南郡南頓県の人(??~??)

魏・晋の臣?
応璩(おうきょ)の子。応貞(おうてい)・応純(おうじゅん)の弟。
建安七子の応瑒(おうとう)の甥。

子の応詹(おうせん)は鎮南大将軍・江州刺史に上った。(『王粲伝』)



応珣


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応純  応紹の父


応純(おうじゅん)字は不明
豫州汝南郡南頓県の人(??~??)

魏・晋の臣?
応璩(おうきょ)の子。応貞(おうてい)の弟。
建安七子の応瑒(おうとう)の甥。

子の応紹(おうしょう)は永嘉年間(307~313)に黄門侍郎に上ったが、司馬越(しばえつ)に殺された。(『王粲伝』)



応劭


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応貞  応璩の子・応瑒の甥


応貞(おうてい)字は吉甫(きつほ)
豫州汝南郡南頓県の人(??~269)

魏・晋の臣。
応璩(おうきょ)の子。建安七子の応瑒(おうとう)の甥。
「王粲伝」に附伝される。

若くして才能を称えられ、談論が上手かった。父や伯父譲りの文才によって名を上げた。

正始年間(240~249)、名声高かった夏侯玄(かこうげん)の前で五言詩を作り、寵愛された。
上席で推挙され高官を歴任した。
司馬炎は撫軍大将軍になると、応貞を軍事参与に任じた。
咸熙年間(264~265)に参相国軍事となった。
司馬炎が帝位につくと、太子中庶子・散騎常侍に上った。
また儒学に詳しいことを買われ荀顗(じゅんぎ)とともに新しい儀礼を制定したが、施行には至らなかった。

269年に没した。
弟の応純(おうじゅん)・応秀(おうしゅう)の子らも高位に上った。(『応貞伝』)



応瑒  建安七子・曹植の腹心


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応余  身を挺して東里袞を救う


応余(おうよ)字は子正(しせい)
荊州の人(??~218)

魏の臣。

218年10月、南陽郡宛県の守将の侯音(こうおん)が反乱し、南陽太守の東里袞(とうりこん)を捕らえ、籠城した。
樊城で関羽に備えていた曹仁が討伐し、翌219年1月に陥落させ侯音を斬った。(『武帝紀』)

「楚国先賢伝」に曰く。
侯音が反乱した時、功曹の応余は東里袞を助けて逃走した。
追っ手に追いつかれると応余は東里袞をかばい7つの矢傷を受けながら「侯音は理性を失い反乱したが、間もなく討伐される。君たちはもともと善人なのになぜ侯音に従うのか。私が死んで主君(東里袞)が助かるなら悔いはない」と説得し、血と涙を流した。追っ手は心打たれて撤退し、応余は絶命した。
侯音の討伐後、曹仁は応余を手厚く弔い、報告を受けた曹操もしばらく声を上げて感嘆し(故郷の)村の門に業績を記させ、穀物を下賜した。

258年、改めて功績を採り上げられ、孫の応倫(おうりん)を官吏に取り立て、褒美を与えた。(『高貴郷公紀』)



応倫  応余の孫


応倫(おうりん)字は不明
荊州の人(??~??)

魏の臣。
応余(おうよ)の孫。

218年10月、南陽郡宛県の守将の侯音(こうおん)が反乱し、南陽太守の東里袞(とうりこん)を捕らえ、籠城した。
樊城で関羽に備えていた曹仁が討伐し、翌219年1月に陥落させ侯音を斬った。(『武帝紀』)

「楚国先賢伝」に曰く。
侯音が反乱した時、功曹の応余は東里袞を助けて逃走した。
追っ手に追いつかれると応余は東里袞をかばい7つの矢傷を受けながら「侯音は理性を失い反乱したが、間もなく討伐される。君たちはもともと善人なのになぜ侯音に従うのか。私が死んで主君(東里袞)が助かるなら悔いはない」と説得し、血と涙を流した。追っ手は心打たれて撤退し、応余は絶命した。
侯音の討伐後、曹仁は応余を手厚く弔い、報告を受けた曹操もしばらく声を上げて感嘆し(故郷の)村の門に業績を記させ、穀物を下賜した。

258年、改めて功績を採り上げられ、孫の応倫を官吏に取り立て、褒美を与えた。(『高貴郷公紀』)



温恢  遺産を捨てた男


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温毅


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温顒  任愷派の名文家


温顒(おんぎょう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

任愷(じんがい)は賈充の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
任愷には庾純(ゆうじゅん)・張華(ちょうか)・温顒・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)が味方し、賈充には楊珧(ようちょう)・王恂(おうじゅん)・華廙(かよく)が肩入れし派閥争いが起こった。

政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)

温顒・荀寓(じゅんぐう)・張華・鄒湛(すうたん)・鄭詡(ていく)・劉許(りゅうきょ)ら6人は文章が立派で論理的であると称えられた。(『劉放伝』)



温氏  庭園で曹操と呂布が会う


温氏(おんし)名は不明
出身地不明(??~??)

素性不明。

「献帝春秋」に曰く。
曹操に捕らえられた呂布は「どうして痩せたのですか」と尋ねた。初対面だと思っていた曹操が驚くと、呂布は「洛陽にいた時、温氏の庭園でお目に掛かったことがあります」と明かした。
曹操は思い出し「そうだ、忘れていた。痩せたのはなかなか君を捕らえられなかったからだ」と言った。(『呂布伝』)



温恕  温恢の父


温恕(おんじょ)字は不明
并州太原郡祁県の人(??~??)

後漢の臣。
温恢(おんかい)の父。

涿郡太守に上り、温恢が15歳の時に没した。
家は裕福だったが、乱世の折に財産を持っていてもしかたないと、温恢は遺産を全て親族に分け与え、郷里で称えられた。
後に魏書に列伝される名臣となった。(『温恢伝』)

温恢の没年は不明だが曹丕の在位中(220~226)に45歳で亡くなっており、逆算すると温恕の没年は190~196年か。



温生  温恢の子


温生(おんせい)字は不明
并州太原郡祁県の人(??~??)

魏の臣。
温恢(おんかい)の子。

黄初年間(220~226)に父が没すると関内侯に封じられた。
早逝し爵位は断絶した。(『温恢伝』)

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