三国志 え 2


袁沛


未作成



袁買  袁紹の子か孫


袁買(えんばい)字は不明
豫州汝南郡汝陽県の人(??~207?)

袁紹の子か孫。

「呉書」に曰く。
袁尚(えんしょう)の弟で、曹操に敗れともに遼東郡へ逃げた。

「曹瞞伝」に曰く。
袁尚(えんしょう)の甥(兄の子)である。(『袁紹伝』)

裴松之もどちらが正しいかわからないと記すが、いずれにしろ袁尚とともに公孫康(こうそんこう)に殺されただろう。



袁敏  袁覇の弟の武芸者


袁敏(えんびん)字は不明
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

魏の臣。
袁覇(えんは)と袁徽(えんき)の弟。

武術と治水工事が得意で、官位は河隄謁者に上った。

従兄の袁渙(えんかん)がかつて呂布の命令を拒否したことを聞き、曹丕は袁敏に人となりを尋ねた。
「袁渙は柔和に見えますが、大義に関わる状況に直面し、危難に臨んだ時は、孟賁や夏育(※古代の勇者)でさえも超えられないほどです」と答えた。(『袁渙伝』)

曹丕は「私は若い頃、二刀流に精進し敵なしと思っていた。後に袁敏に武術を学んだが、彼の一つの武器で二刀流を攻撃する様は神技だと思った。彼と戦う者は打つ手がわからず、狭い道で出会ったら不意打ちするしかないと言っていた(※翻訳が曖昧で「彼と戦う者は~」の下りは解釈がまちまちである)」と述懐した。(『文帝紀』)

兄の袁覇は魏の大司農に上り、袁徽は仕官しなかったが儒学者として高名だった。従兄の袁渙は「魏書」に列伝された。(『袁渙伝』)



袁夫人  袁術の娘は孫権夫人


袁夫人(えんふじん)名は不明
豫州汝南郡汝陽県の人(??~??)

孫権の側室。
袁術(えんじゅつ)の娘。

199年、袁術の遺族は孫策の手に落ち、兄弟の袁燿(えんよう)は呉に仕え郎中に任じられた。(『袁術伝』)

袁夫人は孫権の側室となり、行状は正しかったが子供には恵まれなかった。孫権は他の妻妾のもとで生まれた子供を彼女に養育させたが、みな夭折した。

最も寵愛された歩練師が没すると(彼女を生前に皇后に立てなかった後悔からか)、孫権は袁夫人を立后しようとした。だが彼女は、子がいないことを理由に固辞した。

その後、嫉妬深い潘夫人(はんふじん)の讒言により死に追いやられた。(『孫権潘夫人伝』)



袁平


未作成



袁逢


未作成



袁滂  袁渙の父の司徒


袁滂(えんぼう)字は公熙(こうき)
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

後漢の臣。
袁渙(えんかん)の父。
字は公喜とも書く。

「漢紀」に曰く。
純粋素朴で欲が少なく、決して他人の欠点を語らなかった。(司徒となり)権勢の頂点に立ちながら朝廷では派閥に加わらず中立を保ったため、災難を逃れた。

子の袁渙も他の貴族の子弟のように法を無視せず清潔で、必ず礼に従った。(『袁渙伝』)

178年、光禄勲の時、司徒となった。
179年、罷免された。(『後漢書 霊帝紀』)

185年、涼州で反乱した韓遂(かんすい)・辺章(へんしょう)の討伐に司徒の張温(ちょうおん)が向かい、執金吾の袁滂が副将を務めた。(『後漢書 董卓伝』)



袁雄


未作成



袁曄


未作成



袁燿  袁術の子


袁燿(えんよう)字は不明
豫州汝南郡汝陽県の人(??~??)

呉の臣。
袁術(えんじゅつ)の子。

199年、袁術の遺族は孫策の手に落ち、子の袁燿は呉に仕え郎中に任じられた。
その娘は孫権の五男の孫奮(そんふん)に嫁いだ。(『袁術伝』)

また姉妹の袁夫人(名は不詳)が孫権の側室となり、一時は皇后の候補にもなっている。(『孫権潘夫人伝』)



袁亮  袁覇の子


袁亮(えんりょう)字は不明
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

魏の臣。
袁覇(えんは)の子。

心正しく堅固で、学問品行に優れた。
父は同郷の何夔(かき)とともに評判高く、彼らの子の袁亮、何曾(かそう)も並び称され、親友でもあった。

名声を博していた何晏(かあん)、鄧颺(とうよう)らの人柄を憎悪し、論説を書いて激しく批判した。(『袁渙伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に長合郷侯として連名した。
曹髦の即位が決まると尚書の袁亮らが迎えに行った。(『斉王紀』)

256年、曹髦に宴会に招かれ礼法制度や古代の帝王の優劣について議論した。袁亮は荀顗(じゅんぎ)とともに少康は高祖より優れていると意見した。(『高貴郷公紀』)

河南尹、尚書にまで上った。
子の袁粲(えんさん)も博学で、同じく尚書に上った。(『袁渙伝』)



袁龍


未作成



袁礼


未作成



袁淮  淮水・漢水以南の放棄を訴えた極論バカ


袁淮(えんわい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「漢晋春秋」に曰く。
247年頃、袁淮は曹爽(そうそう)へ「呉軍に手を焼くのは彼らが水戦を得意としているからです。淮水・漢水以南の土地を放棄すれば呉の不得手な陸戦に持ち込めます。襄陽郡は漢水の南で孤立していて役に立たないから廃止しましょう。江夏郡から東の郡は曹操の代から何度も攻略されているからこれも廃止し淮水の北に移しましょう」と進言したが却下された。(『斉王紀』)



縁城  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


縁城(えんじょう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、縁城ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。(『張燕伝』)



燕荔陽


未作成



閻晏


未作成



閻宇  姜維の後継者になりそこねた男


個別ページへ



閻温  魏の鳥居強右衛門


個別ページへ



閻行  葛藤する剣豪


個別ページへ



閻志  閻柔の弟


閻志(えんし)字は不明
幽州広陽郡の人(??~??)

魏の臣。
閻柔(えんじゅう)の弟。

「魏氏春秋」に曰く。
228年、鮮卑の軻比能(かひのう)を討伐した田豫(でんよ)が3万の大軍に包囲され、曹叡は対策を劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)に尋ねた。
孫資は「上谷太守の閻志は軻比能に信頼されています。詔勅で閻志に説得を命じれば包囲は解けます」と進言し、はたしてその通りになった。(『劉放伝』・『鮮卑伝』)

閻柔は異民族の捕虜となりながら崇敬を集め絶大な支持を受けた人物で、閻志にも兄の威光か、それとも兄譲りのカリスマ性があったようだ。



閻芝


未作成



閻柔  三国時代のジョン万次郎


個別ページへ



閻象  袁術軍の良心


個別ページへ



閻忠  皇甫嵩をそそのかす


閻忠(えんちゅう)字は不明
涼州漢陽郡の人(??~188)

後漢の臣。

賈詡は若い頃、誰からも認められなかったが閻忠だけは「張良・陳平のような奇略がある」とただひとり評価した。(『賈詡伝』)

「九州春秋」に曰く。
184年、皇甫嵩(こうほすう)が黄巾賊を討伐し名を轟かせると、信都県令を辞めたばかりの閻忠は「聖人は時節に順応し、智者は機会を利用します。あなたは手に入れにくい時運にめぐり会い、消えやすい好機を前にしながら事を起こしません。いったいどうやって大いなる名誉を得るおつもりか」と言った。
皇甫嵩が意味を問うと「高い功績を得た者は、凡庸な君主に仕えていては身の安泰を得られません」と言い、兵を結集して宦官を討ち、自ら帝位につくことを勧めた。(『賈詡伝』)

皇甫嵩は「黄巾賊は難敵ではなく、功業と呼べるほどのものではない。人々は主君を忘れず、天は逆賊を助けない。不逞なことを企み災禍を招くのと、主君に忠誠を尽くし臣下の節義を守るのと、どちらがよいだろうか」と聞き入れなかった。(『後漢書 皇甫嵩伝』)

意見が容れられなかった閻忠は粛清を避けるため逃亡した。

「英雄記」に曰く。
涼州で反乱した王国(おうこく)は、閻忠を車騎将軍とし指導者に祭り上げた。閻忠は怒りのあまり病を発して亡くなった。(『賈詡伝』)

188年、韓遂(かんすい)は王国を追放し閻忠を指導者に祭り上げた。閻忠は脅された恨みと恥から病を発して亡くなった。(『後漢書 董卓伝』)



閻浮


未作成



閻圃  ああ言えば閻圃言う


個別ページへ

      え1  え2  お1  お2  お3  お4