三国志 ち 7


陳震  老いてますます誠実純朴


陳震(ちんしん)字は孝起(こうき)
荊州南陽郡の人(??~235)

蜀の臣。

208年、荊州牧となった劉備に召され従事に任じられ、諸郡を取り仕切った。
211年からの益州侵攻にも従い、214年に益州が制圧されると蜀郡北部都尉、汶山太守、犍為太守を歴任した。

225年、都に上り尚書、次いで尚書令に上り、呉への使者を務めた。
229年、孫権が帝位につくと衛尉に任じられ、慶賀の使者として赴いた。その際に諸葛亮は兄の諸葛瑾(しょかつきん)へ「陳震の誠実純朴さは老いてますます固い。呉と蜀の友好を促進し、なごやかに喜びを共にする時代の、貴重な存在でしょう」と称賛した。
陳震は孫権へ「呉・蜀は友好関係を維持・発展させています。心を一つにすればいかなる賊(魏)も滅ぼせるでしょう。私はまるで祖国へ帰るような思いで入国しました。他国の人間ですから間違いもあるでしょうが、どうか適切にご教示ください」と述べた。
孫権は陳震とともに祭壇に上って盟約の儀式を行い、魏討伐後の領土の分割について話し合った。
帰国すると城陽亭侯に封じられた。

231年、李厳(りげん)は兵糧輸送に失敗した責任を諸葛亮になすりつけようとし、罷免された。
諸葛亮は蔣琬(しょうえん)と董允(とういん)へ「陳震は以前、李厳は腹の中にトゲがあり、郷里の人さえ近づけないと話していると教えてくれた。私はトゲには触れなければいいと思っていたが、まさか蘇秦・張儀(※古代の弁舌家)のような舌先のごまかしが突然行われるとは思わなかった。陳震にも知らせなければ」とぼやいた。

235年に没した。
子の陳済(ちんせい)が後を継いだ。(『陳震伝』)

陳寿は「忠実で慎み深く、老いてますます篤実な、良き家臣である」と評した。

「演義」では大きくアレンジされ、はじめは袁紹の配下として登場。当時、曹操に降伏していた関羽との連絡役や、孫策との同盟交渉役を務めた。

「横山三国志」では関羽に会う際に背後に音もなく現れたりと、ほとんど忍者のような扱いである。



陳諶  陳羣の叔父の大徳


陳諶(ちんしん)字は季方(きほう)
豫州潁川郡許昌県の人(??~??)

陳寔(ちんしょく)の子。四男か。
陳紀(ちんき)の弟。陳羣(ちんぐん)は甥にあたる。

6人の子の中で陳紀、陳諶が最も賢く、名声高かった。
兄弟はみな徳高く孝養で、後進の者は誰もがその気風を慕った。(『後漢書 陳寔伝』)

世間では陳寔・陳紀・陳諶を合わせて「三君」と呼び、大臣から招聘が掛かる時はほとんど三人同時で、礼物と使者がひっきりなしに行き来した。

189年、霊帝が没すると大将軍の何進(かしん)は天下の名士を招き、陳諶も司空掾となったが早くに亡くなった。

その後、陳紀・陳羣の子孫は衰えていったが、陳諶の孫の陳佐(ちんさ)が州刺史に上るなど、陳諶の子孫が最も栄えた。(『陳羣伝』)



陳正  二宮の変に抗議し処刑された無難督


陳正(ちんせい)字は不明
出身地不明(??~250)

呉の臣。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と屈晃(くつこう)は孫権へ考え直すよう訴えた。
それに無難督の陳正や陳象(ちんしょう)らも加わると、孫権は酷く立腹し、陳正・陳象を一族皆殺しにし、朱拠・屈晃を追放した。(『孫和伝』)

陳正・陳象の関係は記されないが同族だろうか。



陳生  張虎の相方


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陳声


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陳済  陳震の子


陳済(ちんせい)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
陳震(ちんしん)の子。

235年、父が没すると後を継いだ。(『陳震伝』)



陳遷  張氏(孫和)の宦官


陳遷(ちんせん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の宦官。

二宮の変の末に太子から外された孫和(そんか)は252年正月、長沙へと追放された。
同年4月、孫権が没し、孫和の正室の張氏(ちょうし)のおじにあたる諸葛恪(しょかつかく)が実権を握った。張氏が陳遷(ちんせん)を挨拶に向かわせると、諸葛恪は「間もなく彼らより優位に立てるとお伝え下さい」と言付けした。
これが世間に漏れ、諸葛恪が遷都を行おうと武昌を整備させていたことから、孫和を武昌に迎えようとしていると噂された。

翌253年、諸葛恪は専横により孫峻(そんしゅん)に暗殺された。
孫魯班(そんろはん)はかつて孫和の母を讒言し死に追いやったことから復讐を恐れ、新たに実権を握った孫峻をそそのかし、孫和を強制移住のうえ自害させた。張氏も夫に殉死した。(『孫和伝』)



陳琮  陳瑀の弟


陳琮(ちんそう)字は公琰(こうえん)
徐州下邳郡の人(??~192?)

後漢の臣。
陳球(ちんきゅう)の子。陳瑀(ちんう)の弟。

「謝承後漢書」に曰く。
汝陰太守に上った。(『後漢書 陳球伝』)

「九州春秋」に曰く。
192年、袁術は陳瑀を揚州牧に任じた。袁術が曹操に敗れると、南方の土着民が反乱し陳瑀は防戦に努めた。
袁術は下手に出て言葉巧みに陳瑀を説得したが、陳瑀は臆病で駆け引きもわからず、何もできなかった。そのうちに袁術は兵を集め攻撃を仕掛けた。陳瑀は弟の陳琮を送り和睦を申し出たが、そのまま捕虜にされてしまい、故郷の下邳郡へ逃げた。(『呂範伝』)

その後は不明。袁術に殺されただろう。



陳泰  大将とはかくあるべし


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陳坦  陳佐の弟


陳坦(ちんたん)字は不明
豫州潁川郡許昌県の人(??~??)

魏・晋の臣。
陳諶(ちんしん)の孫。陳佐(ちんさ)の弟。

「陳氏譜」に曰く。
陳佐は青州刺史まで上った。弟の陳坦は廷尉に、子の陳準(ちんじゅん)は太尉になり、他の子らも大官に上った。
一族では陳羣(ちんぐん)がはじめに台頭したが子孫は衰退し、陳佐の一族が代わって栄えた。(『陳羣伝』)



陳端  張紘・秦松とともに仕えた参謀


陳端(ちんたん)字は子正(しせい)
徐州広陵郡の人(??~??)

呉の臣。

197年頃、孫策は呉郡・会稽郡を制圧すると、配下を周辺の太守に任じ、張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)・秦松(しんしょう)・陳端を参謀に迎えた。(『孫策伝』)

張紘・秦松と同郷で、ともに孫策の参謀を務めたが、秦松・陳端は早くに没した。(『張紘伝』)

秦松の事績は210年頃まで見えるが、陳端のその後は不明である。



陳稚  陳騫と骨肉の争い


陳稚(ちんち)字は不明
徐州広陵郡東陽県の人(??~??)

魏の臣。
陳矯(ちんきょう)の子。三男より下。

晋代に次兄の陳騫(ちんけん)の子の陳輿(ちんよ)と争い、陳騫と衝突した。陳稚は甥らの淫行を告発し、激怒した陳騫は報復で陳稚を流刑に処すよう上表した。
並ぶ者のないほど名声高かった陳騫だが、この骨肉の争いにより評価は落ちた。

281年、陳騫が没すると子の陳輿が後を継いでおり、淫行は不問に付されたようである。(『晋書 陳騫伝』)



陳稚叔


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陳超  任岐とともに挙兵も返り討ち


陳超(ちんちょう)字は不明
出身地不明(??~191?)

劉焉(りゅうえん)の臣。

益州従事の賈龍(かりゅう)は黄巾賊を一掃し、益州牧の劉焉を迎え入れた。
だが劉焉は益州で独立する野望を抱いており、張魯(ちょうろ)と結託して漢中への交通路を遮断した。さらに州内の豪族を殺して権威を高めた。(『劉焉伝』)
191年(『後漢書 劉焉伝』)、賈龍はこれに反発し、犍為太守の任岐(じんき)とともに劉焉を攻めたが、返り討ちに遭い戦死した。

「英雄記」には別の経緯が記される。
犍為太守の任岐は勝手に将軍を自称し、従事の陳超とともに挙兵し劉焉を攻めたが返り討ちにされた。
都の実権を握る董卓は、趙謙(ちょうけん)に軍勢を与え益州に向かわせ、賈龍を説得し劉焉を討伐させた。
だが劉焉は勇猛な青羌族に迎撃させ、賈龍を討ち取った。(『劉焉伝』)



陳到  その力趙雲に次ぐ


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陳桃


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陳登  曲者父子・子


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陳敗  残党の怪僧


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陳蕃


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陳毖  零陵の山越


陳毖(ちんひ)字は不明
荊州零陵郡の人?(??~255)

山越の指導者。

255年、零陵で反乱するも陸凱(りくがい)に討ち取られた。(『陸凱伝』)



陳苗


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陳表  陳武の子は人格者


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陳敏


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陳武  モンゴリアンチョップ


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陳福  徐晃に撃破される


陳福(ちんふく)字は不明
出身地不明(??~??)

張魯(ちょうろ)の臣?

215年、漢中討伐で徐晃は包囲された張順(ちょうじゅん)を救出し、陳福の屯営30以上を撃破した。(『徐晃伝』)



陳奉


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陳宝  呉夫人と孫権らを迎えに行く


陳宝(ちんほう)字は不明
出身地不明(??~??)

孫策の臣。

「江表伝」に曰く。
195年、孫策は劉繇(りゅうよう)を撃破し曲阿を制圧すると、部将の陳宝に母の呉夫人(ごふじん)と孫権ら弟を迎えに行かせ曲阿へ移住させた。(『孫策伝』)



陳茂  韓曁の父と兄を死に追いやり復讐される


陳茂(ちんぼう)字は不明
荊州南陽郡堵陽県の人?(??~??)

堵陽県の顔役。

陳茂は韓曁(かんき)の父の韓純(かんじゅん)と兄を陥れ死に追いやった。
韓曁は表にこそ出さなかったが復讐を誓い、日雇いで資金を貯め、刺客と結び、陳茂を殺すと、首を父の墓前に供えた。それにより名を知られた。(『韓曁伝』)



陳鳳


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陳牧  呂範・徐逸に討ち取られた陳瑀配下


陳牧(ちんぼく)字は不明
出身地不明(??~197)

陳瑀(ちんう)の臣。

「江表伝」に曰く。
197年、孫策は「呂布と行呉郡太守・安東将軍の陳瑀とともに袁術を討伐せよ」と詔勅を下された。
ところが陳瑀は孫策の襲撃を企て、都尉の万演(ばんえん)らを送り、周辺の祖郎(そろう)・焦已(しょうい)・厳白虎(げんはくこ)ら反抗勢力に官位を約束して蜂起させようとした。
だが孫策はそれを見抜き、呂範(りょはん)・徐逸(じょいつ)に先制攻撃させ、陳瑀の兵や妻子ら4千人を捕虜にした。(『孫策伝』)

「呂範伝」に経緯が記される。
陳瑀は勝手に呉郡太守を自称し、広陵郡に駐屯し厳白虎と連携していた。孫策は厳白虎を攻めると呂範・徐逸の別働隊に陳瑀を攻撃させた。陳瑀配下の大将の陳牧が討ち取られた。(『呂範伝』)



陳僕


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陳本  陳矯の才を継いだ長男


陳本(ちんほん)字は不明
徐州広陵郡東陽県の人(??~??)

魏の臣。
陳矯(ちんきょう)の長男。

曹叡に寵愛される劉曄(りゅうよう)が陳矯を讒言すると、陳矯は恐れを抱き陳本に相談したが、彼はただうろたえるだけで、次男の陳騫(ちんけん)に「帝は聡明で、あなたは既に大臣です。ただ三公になれないだけです」と励まされた。数日後、曹叡への目通りを許されると、陳騫は「陛下のお気持ちがほぐれたのです」と言い、はたして曹叡は讒言があったため調べたが疑いは晴れたと詫び、金の延べ板を与えた。(『陳矯伝』)

陳本と母が夏侯玄(かこうげん)とともに酒宴を開いていたところに陳騫が加わろうとすると、夏侯玄は席を立ち「同席は構わないが礼は乱すなよ」と念押しした。(『世説新語』)
陳騫は夏侯玄に侮辱されたが全く動じず、かえって非凡な人物と認められた。(『晋書 陳騫伝』)

237年、父が没すると後を継いだ。
郡太守や九卿を歴任した。人々を統率する才能があり、些細なことにこだわらず、任地では要所をつかんで大筋をわきまえ、部下によく能力を発揮させた。
法律を読まないのに廷尉として司法を担当し、名高い司馬岐(しばき)をも上回ると評価され、物事の条理に精通していた。
鎮北将軍・仮節都督河北諸軍事にまで上った。(『陳矯伝』)

252年、司馬師が大将軍となった。当時は鍾会・夏侯玄・王粛(おうしゅく)・陳本・孟康(もうこう)・趙鄷(ちょうほう)・張緝(ちょうしゅう)らが朝議をあずかった。(『晋書 景帝紀』)

晋代に弟の陳騫は車騎将軍に上り、呉軍を征討した功績により、甥(陳本の子)の陳悝(ちんかい)が関中侯に封じられた。(『晋書 陳騫伝』)

没すると子の陳燦(ちんさん)が後を継いだ。(『陳矯伝』)



陳裕  陳祗の次男


陳裕(ちんゆう)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

蜀の臣。
陳祗(ちんし)の次男。

258年、父が没すると兄の陳燦(ちんさん)が関内侯に封じられ、陳裕は黄門侍郎に抜擢された。(『陳祗伝』)

蜀滅亡後の268年、蜀の旧臣の羅憲(らけん)は司馬炎に下問され、任用すべき蜀の旧臣として陳寿や陳裕らの名を挙げ、即刻みな登用されいずれも名声を博した。(『霍弋伝』)



陳融  陸瑁と同居


陳融(ちんゆう)字は不明
豫州陳国の人(??~??)

陸瑁(りくぼう)は若い頃から義に厚く、家の後ろ盾を捨て、陳融、濮陽逸(ぼくよういつ)、蒋纂(しょうさん)、袁迪(えんてき)ら清貧の士を招き彼らと苦楽をともにした。(『陸瑁伝』)

陳融と蒋纂は他に記述がなく詳細は不明だが、濮陽逸は呉に仕え、袁迪もたぶん呉の臣のため、所属はいちおう呉の臣とした。



陳容  臧洪とともに処刑される


陳容(ちんよう)字は不明
徐州広陵郡射陽県の人(??~195?)

臧洪(ぞうこう)の臣。
「臧洪伝」に附伝される。

若い時に書生となり、臧洪を親のように慕った。臧洪が東郡太守になると、その丞を務めた。

臧洪は旧主の張超(ちょうちょう)を見殺しにした袁紹を恨み、大軍に包囲された。陳容を外に逃がした後、城は陥落し、臧洪は袁紹の前に引き立てられた。陳容もその場へ連れてこられた。
臧洪は屈服せず、処刑を命じられると陳容は立ち上がり「あなたは天下のために無法者を除くつもりのはずが、なぜ忠義の人物を真っ先に処刑するのですか。これが天の意志に合致したことでしょうか。臧洪が事を起こしたのは郡のためです」と反対した。
袁紹は痛いところをつかれ気がとがめたが、陳容を追い出させ「お前は臧洪の仲間でもないのにそんな態度を取るのか」と言い返した。
陳容は「そもそも仁義は誰かの物だろうか。仁義を行えば君子となり、背けば小人となる。臧洪とともに殺されたとしても、あなたと同じ時代に生きたいとは思わぬ」と返したため、臧洪とともに処刑された。
それを見ていた心ある袁紹の配下らは「なんたることか。一日で二人の烈士が死ぬとは」と嘆いた。(『陳容伝』)



陳蘭  袁術から略奪した男


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陳琳  曹操を激怒&感嘆させた名文家


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陳留王


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陳梁甫  張超と並び称される


陳梁甫(ちんりょうほ)字が梁甫か
出身地不明(??~??)

書家?

当時、張超(ちょうちょう ※張邈の弟とは別人)と陳梁甫が特に書に優れていたが、張超は厳しすぎ、陳梁甫は奔放すぎる欠点があった。
そこで皇象(こうしょう)は二人の書風を上手く取捨選択し、独自の書法を確立し、中原に並ぶ者が無いと言われ、「八絶」の一人に数え上げられるまでになった。(『趙達伝』)

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