三国志 た


都市牛利  魏への朝貢の副使


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乃太源


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大喬  二喬・姉


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大洪  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


大洪(たいこう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、大洪ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。(『張燕伝』)



代王


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帯固  謝宏に人質に取られた高句麗の主簿B


帯固(たいこ)
高句麗の人(??~??)

高句麗の臣。

「呉書」に曰く。
234年、呉は謝宏(しゃこう)と中書の陳恂(ちんじゅん)を使者として句麗王の位宮(いきゅう)に単于(王)の称号や宝物を下賜しようとした。
だが先行した陳奉(ちんほう)は先に魏の使者が訪れ、位宮に呉の使者を始末するよう命令していたことを聞きつけた。
位宮が送った主簿の笮咨(さくし)・帯固ら30人を謝宏は捕縛して人質に取り、位宮は魏への鞍替えをやめ、謝罪し数百匹の馬を贈った。
謝宏は笮咨・帯固を解放して予定通りに詔勅と下賜品を与え、船が大きくなかったため馬80匹だけを積み帰還した。(『呉主伝』)



戴員  媯覧の相方


戴員(たいいん)字は不明
揚州呉郡の人?(??~204?)

孫堅の三男・孫翊(そんよく)の配下。

以前に孫権が呉郡太守の盛憲(せいけん)を粛清すると、盛憲に孝廉に推挙された媯覧(きらん)、戴員は山へ逃げ隠れていたが、孫翊は二人を招聘し、戴員を郡丞に任じた。
だが二人が側近の辺鴻(へんこう)と親しくするのを何度も叱責したため恨まれた。

204年、孫翊は側近の辺鴻に殺された。
孫翊の妻の徐氏(じょし)は辺鴻の首に賞金を掛け、翌日には首尾よく捕らえて処刑したが、実は媯覧・戴員が黒幕だと誰もが察していた。
孫河(そんか)が媯覧・戴員の監督責任を叱責すると、彼らは「孫翊と親しくない孫河ですらこんなに激怒するなら、兄の孫権には一族を根絶やしにされるだろう」と恐れおののき、孫河も殺してしまい、反乱しようとした。
媯覧らは我が物顔で振る舞い、孫翊の側妾から侍女まで奪い、徐氏にも食指を動かした。
徐氏は「夫の喪が明けるまでお待ち下さい」と言い時間を稼ぐと、夫の旧臣の傅嬰(ふえい)・孫高(そんこう)・徐元(じょげん)らと仇討ちのため密議を凝らした。
そして喪が明けると、徐氏は媯覧を部屋に招き、油断した隙に殺させ、戴員も同日のうちに殺して仇討ちを果たした。(『孫韶伝』)



戴顒


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戴乾  陳羣に陳矯とともに推挙される


戴乾(たいけん)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

曹操の臣。

陳羣(ちんぐん)は陳矯(ちんきょう)・戴乾を推薦し曹操は起用した。
後に陳矯は名臣となり、戴乾は孫権との戦いで忠義を全うして危難に殉じた。人々は陳羣は人物を見分ける目があると称えた。(『陳羣伝』)



戴胡阿狼泥  魏に降伏した歩度根の配下


戴胡阿狼泥(たいこあろうでい)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の大人(王)。

233年、鮮卑の軻比能(かひのう)と歩度根(ほどこん)が反乱し、秦朗(しんろう)が討伐した。
同年10月、歩度根の配下の戴胡阿狼泥が并州へ赴き降伏したため、秦朗は兵を引き上げた。(『明帝紀』)



戴捷  曹彪か曹袞の処分に連座させられた配下B


戴捷(たいしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

楚王の曹彪(そうひょう)、中山王の曹袞(そうこん)は太和年間(227~232)に相次いで禁令を犯して処分され、趙宗(ちょうそう)・戴捷が罪に服した。
記述の順序からして趙宗は曹彪の、戴捷は曹袞の配下だろうか。(『趙王幹伝』)



戴風  羊続に討伐された安風県の賊徒


戴風(たいふう)字は不明
揚州廬江郡安風県の人(??~??)

賊徒。

184年、黄巾の乱が起こると廬江郡でも舒県が攻撃された。廬江太守の羊続(ようしょく)は県内の20歳以上の男子を徴兵し、弱い者には水で消火に当たらせた。数万人を集めて黄巾賊を撃退し、郡を平定した。
安風県で戴風(たいふう)が反乱するとこれも撃破し3千の首級を挙げ、残党は許して民とし、農具を与え農業に従事させた。(『後漢書 羊続伝』)



戴良  呉の初代交州刺史


戴良(たいりょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

226年、士燮(ししょう)が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に任命した。
戴良は陳時とともに合浦郡まで来たが、士燮の子の士徽(しき)は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
配下の桓鄰(かんりん)は不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。
士徽は観念し、兄弟らとともに降伏したが、処刑された。(『士燮伝』)

「呂岱伝」には別の経緯が描かれる。
士燮が没すると士徽は安遠将軍・九真太守に任じられ、呂岱は上表し広州・交州の設置と呂岱と将軍の戴良の刺史就任の認可を得た。
だが士徽はそれを拒絶し着任を阻止しようとした。
呂岱は3千の兵を率い、昼夜兼行で海上から交趾郡へ迫った。士氏は長く周辺を治めているから慎重にすべきだと進言する者がいたが、呂岱は「こんなに早く急襲されるとは思っていない。時間を掛ければ防備を固められ、7つの郡から異民族の兵が集まる」と却下し、道を急がせた。
はたして士徽は呂岱の出現に恐慌をきたし、兄弟6人を引き連れて降伏したが、揃って処刑された。(『呂岱伝』)



戴陵  皇帝諌めて飛ばされる


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戴烈  陸凱とともに王昶・王基を迎撃


戴烈(たいれつ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

250年、魏の王昶(おうちょう)・王基(おうき)が攻め込んだが、将軍の陸凱(りくがい)・戴烈が防戦し撤退させた。(『呉主伝』)



第五文休  三休のあと二人


第五文休(だいごぶんきゅう)字が文休か
司隷京兆郡の人(??~??)

後漢の兗州刺史に上った金尚(きんしょう)の字は元休(げんきゅう)と言い、同郷の韋休甫(いきゅうほ)、第五文休と合わせ「三休」と並び称された。(『呂布伝』)

しかしこの逸話以外に韋休甫と第五文休の消息は不明である。
なお一度見たら忘れられない名前の第五文休だが、第五はれっきとした姓であり、先祖が俸禄を受けた順番をそのまま姓にしたそうで、他に第二と第八も確認されているらしい。



太史享


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太史慈  野望はついえず


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卓氏


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卓庸  ドマイナーな男


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拓跋沙漠汗  力微の子


拓跋沙漠汗(たくばつさばくかん)
鮮卑の人(??~277)

鮮卑の拓跋部の大人(族長)拓跋力微(たくばつりょくび)の子。

身長8尺で立派な容貌と才覚を備えていた。
魏と講和した力微は261年、沙漠汗を朝貢させた。
そのまま都に留まり、最高の賓客の一人として遇され、黄金・布絹を毎年一万献上されたという。
彼自身も持ち前のコミュ力で、魏・晋の重臣たちと交流を結び、敬愛された。

267年にいったん帰国し、275年に再び朝貢した。
晋の衛瓘(えいかん)は彼の才覚と人脈を恐れ、都に留め置くよう進言した。司馬炎は拓跋部との関係悪化につながると渋ったが、衛瓘はその隙に拓跋部の大人らに調略を仕掛ける策を示し、認められた。

277年、帰国した沙漠汗は晋で学んだ弾弓の技を披露した。調略を受けた大人らは「沙漠汗は晋で妖術を学んだ。彼が中原の文化をもたらせば国を乱す恐れがある」と讒言した。
100歳を超え、判断力の衰えた力微はそれを信じ、すかさず大人らは沙漠汗を誅殺してしまった。
我に返った力微は後悔し、病を得て同年のうちに没した。後事を託した者も調略を受けており、拓跋部の勢力は著しく衰退した。



拓跋力微  拓跋部の始祖


拓跋力微(たくばつりょくび)
鮮卑の人(174~277)

鮮卑の拓跋部の大人(族長)。
拓跋部を勃興させた人物で、拓跋部の歴史は彼から始まる。

母は天女だという逸話もあり、幼い頃から聡明で、英雄の気質があり周囲の人物には計り知れないほどだった。
220年、拓跋部は敗戦により離散し、力微は没鹿回部の大人・竇賓(とうひん)に仕えた。
ある時、力微は敗走する竇賓に自分の馬を渡し、無事に逃がした。竇賓は感謝し、国土の半分を譲ろうとしたが、固辞されたため代わりに娘を嫁がせ、独立に協力した。離散していた拓跋部は力微のもとに再集結した。

248年、竇賓は臨終の床で2人の息子へ力微に仕えるよう命じた。
息子らはそれを拒絶し、葬儀の席で力微を殺そうとしたが、計画は事前に漏れ、力微はまず竇賓の妻を殺し息子らをおびき寄せ、2人を捕らえて処刑した。
竇賓の領土を奪った力微の兵は20万にも膨れ上がった。

258年、定襄郡盛楽に移ると、匈奴の蹋頓(とうとん)が曹操に敗死した例を上げ、魏と講和することを訴え、261年には息子の拓跋沙漠汗(たくばつさばくかん)を魏の都に送った。沙漠汗は6年にわたり滞在し、その間に魏から晋へと禅譲された。

275年、沙漠汗は再び朝貢した。彼の才覚を恐れた晋の衛瓘(えいかん)は、都に留めるとともに、鮮卑の各大人に調略を仕掛けた。
2年後、沙漠汗が帰国すると、調略された大人らは「沙漠汗は晋で妖術を学んだ。彼が中原の文化をもたらせば国を乱す恐れがある」と讒言した。
100歳を超え、判断力の衰えた力微はそれを信じ、すかさず大人らは沙漠汗を誅殺してしまった。

我に返った力微は後悔し、病を得て床に伏した。
烏丸王の庫賢(こけん)に後事を託したが、彼もまた衛瓘に調略されており「晋は沙漠汗の殺害に怒り、各大人の息子を殺すよう命じた」と発布したため、泡を食った鮮卑の諸部族は離散していった。
同年、力微は失意のうちに没した。享年104。

鮮卑はしばらく衰退の一途をたどるが、力微の子の拓跋禄官(たくばつろくかん)が再興させ、やがて北朝を立てるに至る。



丹  曹操の娘を出迎えた侍中


丹(たん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
丹とだけ記され姓か名かも不明。

「献帝起居注」に曰く。
214年、献帝は侍中の丹に近衛兵を率いさせ、曹操の二人の娘を貴人(側室)に迎えさせた。その行列は引きも切らず続いた。(『武帝紀』)



段訓  公孫瓚に脅され劉虞を処刑させる


段訓(だんくん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
「後漢紀」には姓を殷訓(いんくん)と記される。(『後漢書 公孫瓚伝』)

192年、董卓が暗殺されると献帝は劉虞(りゅうぐ)の所領を増やし、6州を治めさせようと考え、段訓を使者として送った。
合わせて公孫瓚(こうそんさん)も前将軍に昇進し易侯に封じられたが、公孫瓚は劉虞が帝位簒奪を企んでいると誣告し、段訓を脅して劉虞を処刑させた。
そして公孫瓚は上表し段訓を劉虞の後任の幽州刺史に任じた。(『公孫瓚伝』)



段珪  十常侍の実行犯


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段熲


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段灼  鄧艾の名誉を回復する


段灼(だんしゃく)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

267年、議郎の段灼は反乱者として扱われている鄧艾を「鄧艾に野心はなく、安定させるため人事を独断専行しただけで、鍾会は鄧艾の権威・名声を憎み濡れ衣を着せた」と弁護し、名誉回復を願った。
273年、詔勅により名誉回復がなされ、嫡孫の鄧朗(とうろう)が取り立てられた。(『鄧艾伝』)



段昭  蔡方を討伐した歩兵校尉


段昭(だんしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

225年、利城郡の兵士の蔡方(さいほう)が郡を上げて反乱し太守の徐質(じょしつ)を殺した。
青州刺史の王凌(おうりょう)と、派遣された屯騎校尉の任福(じんふく)・歩兵校尉の段昭が討伐した。反乱軍のうち脅迫され従わされた者や、亡命した者は罪を許された。(『文帝紀』)

唐咨(とうし)はこの際に反乱軍の指導者として担ぎ上げられた。(※殺害した太守の名は徐箕(じょき)と記される)
敗れた唐咨は呉へ亡命した。(『諸葛誕伝』)



段黙  夏侯楙の冤罪を見抜く


段黙(だんもく)字は不明
司隷京兆郡の人(??~??)

魏の臣。

夏侯楙(かこうぼう)は曹操の長女の清河長公主(せいかちょうこうしゅ)をめとったが、好色な彼は多数の愛妾を抱えたため妻に恨まれた。
夏侯楙の弟らは失態を演じて兄に叱責され、このままでは処罰されると恐れ、義姉の清河長公主とともに夏侯楙を陥れようと企んだ。
罪をでっち上げて皇帝の曹叡(そうえい)に上奏すると、曹叡も夏侯楙をかねてから憎んでいたため同調した。
夏侯楙は冤罪で処刑されかかったが、諮問された長水校尉の段黙が夫婦仲の悪さから真相を見抜き、慎重な裁定を求めたため、改めて調査し陰謀が発覚し、事なきを得た。

その後、清河長公主や義弟らが処罰を受けたか否かは記されていない。(『夏侯惇伝』)



段煨  董卓軍の良心


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貪至王  公孫瓚に降伏した烏丸王


貪至王(たんしおう)
烏丸の人(??~??)

烏丸の王。

187年、張純(ちょうじゅん)は烏丸族とともに反乱し、公孫瓚(こうそんさん)が討伐に当たった。
烏丸の貪至王は民を引き連れ公孫瓚に降伏した。(『公孫瓚伝』)



儋萌


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檀柘


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檀石槐


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檀敷


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檀謨  趙昱を招聘した琅琊国相A


檀謨(だんぼ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「謝承後漢書」に曰く。
趙昱(ちょういく)は琅琊国相の檀謨・陳遵(ちんじゅん)に招聘されたが応じず、激怒する者もいたが意に介さなかった。(『陶謙伝』)



譚紹


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譚正  王基に捕らわれた呉の安北将軍


譚正(たんせい)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

249年、王基(おうき)は歩協(ほきょう)の守る夷陵を攻撃したが、籠城された。王基は攻撃の素振りを見せながら兵を分けて兵糧庫を襲い、さらに安北将軍の譚正を捕虜とし数千人を降伏させた。そして降伏者たちを移住させて夷陵県を設置した。(『王基伝』)



鐔粲


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鐔承  孟光の自業自得で上席になる


鐔承(たんしょう)字は公文(こうぶん)
益州広漢郡の人(??~??)

蜀の臣。

「華陽国志」に曰く。
太守や少府を歴任した。

孟光(もうこう)は直言してはばからず、人の弱点を指弾する時には面前で行ったため多くの人々に嫌われ出世できなかった。
太常の鐔承、光禄勲の裴儁(はいしゅん)らが年功ともに孟光に劣ったが彼より高い地位にいたのはおそらくそのためだろう。(『孟光伝』)

た  ち1  ち2  ち3  ち4  ち5  ち6  ち7
て1  て2  と1  と2  と3