趙儼 名監督
趙儼(ちょうげん)字は伯然(はくぜん)
豫州潁川郡陽翟県の人(171~245)
魏の臣。
同郡の辛毗(しんぴ)・陳羣(ちんぐん)・杜襲(としゅう)と並び称され、姓から辛陳杜趙と呼ばれ、いずれも魏の重臣となった。
戦乱を避けて荊州に避難し、杜襲・繁欽(はんきん)と暮らしていたが、曹操が献帝を迎え入れたと聞くと、曹操こそ中華を救う者だと確信し、197年に一族を率いて許都へ移住した。
朗陵県長に取り立てられると、当地では勢力を頼みに横暴な者が多く、趙儼は最も酷い者を逮捕したが、上申して死刑を免じてやり、権威と恩愛を示した。(『趙儼伝』)
曹操は汝南郡を分割して陽安郡を新設し、李通(りつう)を都尉に任じた。
李通の妻の伯父が罪を犯し、(陽安郡に属する朗陵県長の)趙儼に逮捕され、死刑を命じられた。
李通の妻子は泣いて助命嘆願したが、李通は「私は曹公(曹操)と力を合わせている。道義からも公私混同はできない」とそれを退け、かえって趙儼を評価し親交を結んだ。(『李通伝』)
200年、官渡の戦いに際し袁紹が豫州の諸郡に誘いを掛けると、ほとんどの郡が袁紹方になびいたが陽安郡だけは動揺しなかった。
李通は徴税を急ぎ曹操への忠誠を示そうとしたが、趙儼は逆効果だとそれを止め、(上官の)荀彧へむしろ税を民に返還してやるよう勧めた。荀彧も同意し、陽安郡は安定した。(『趙儼伝』)
評判の高い杜襲・辛毗・趙儼らを荀彧は招聘した。(『荀彧伝』)
都に上り司空掾属主簿となった。于禁、楽進、張遼が協調せず思いのままに振る舞っていたため、趙儼が参軍として彼らを監督し、事あるごとに教え諭した結果、次第に仲睦まじくなった。
208年、荊州討伐が始まると章陵太守を兼任し、都督護軍として于禁・張遼・張郃・朱霊(しゅれい)・李典・路招(ろしょう)・馮楷(ふうかい)ら7軍を統括した。
(荊州討伐後)丞相主簿となり、扶風太守に上った。
曹操は韓遂(かんすい)・馬超を討伐すると、その残党5千人を殷署(いんしょ)に任せ、趙儼を関中護軍として総指揮を取らせた。
国境を侵す羌族を撃破し、陳倉で反乱した呂並(りょへい)を討伐した。
漢中の守備を助けるため、殷署が1200人の兵を率い出発した。兵は突然の命令で家族と引き離されたため、みな憂鬱な表情をしており、趙儼はそれを見て心配になり、一日遅れで彼らに追いつくと、一人ひとりをねぎらい、殷署にも注意を促した。
はたして40里ほど進んだところで兵は反乱し、殷署の消息も途絶えた。趙儼は雍州刺史の張既(ちょうき)のもとで休んでいたが、急報を聞き出発しようとした。配下の150人はいずれも反乱兵と同じ部隊で縁戚の者も多く、動揺しており、張既は「小勢で向かっても仕方ない。まず情報を集めるべきだ」と言ったが、趙儼は「本隊もまだ動かないだろう。ぐずぐずしていたら反乱が拡大する恐れもある。それに総指揮を任された私が鎮圧できなければ、私に災難が及ぶのは運命だ」と言い、出立した。
30里ほど進むと兵を休息させ、動揺する彼らをなだめすかしたため、彼らは忠誠を誓った。反乱兵を見つけると指導者だけを処罰し、その他の者は不問に付したため、こぞって降伏してきた。
趙儼は曹操へ(殷署が指揮していた)韓遂・馬超の残党を漢中へ援軍として送り、古参の兵に関中を守らせるよう依頼した。まず劉柱(りゅうちゅう)が2千の古参兵で守備を引き受け、その後に残党が送られる手はずだったが、計画が漏洩し、また家族と引き離され、それに乗じてまた反乱が起こるのではと諸将は動揺した。
趙儼は(反乱しそうにない)温厚な兵1千人で守備を固めさせ、その他の者を東方(漢中)へ送ると通告し落ち着かせた。
兵の名簿を集めて部隊を上手く編成し、少しずつ東方へ送り、守備兵もなだめすかして結局は送り、合計で2万人余りを移動させた。(※後世の孫盛は約束を違え信義にもとると批判している)
219年、関羽が曹仁の守る樊城を包囲した。
趙儼は議郎としてその補佐を命じられ、徐晃とともに救援へ向かったが、包囲は固く、他の援軍もまだ到着していなかった。
兵は不足していたが諸将が戦いを挑むよう勧めると、趙儼は「包囲は固く、水攻めもされていて曹仁と連携も取れない。まずは間者を送って援軍の到着を知らせ、曹仁軍の士気を上げる。他の援軍も10日以内には到着するし、それまでは曹仁も持ちこたえるだろう。援軍が集まるまで進軍は控えるべきだ。もしその前に樊城が陥落したら私が責任を取る」と言い、攻撃を控えさせた。
そして地下道を掘り、矢文を城内へ送り、連絡を取った。他の援軍も到着すると攻撃し、関羽は撤退した。
孫権が同盟を破棄し関羽の背後を襲うと、諸将は追撃を勧めたが、趙儼は「孫権は関羽との戦いで疲弊し、我々が漁夫の利を得るのを恐れ、魏へ従属を申し出てきた。ここで関羽を追撃すれば、今度は孫権は我々の背後を襲う恐れがある。関羽は逃して孫権の目の上のたんこぶにするのがいいでしょう。王(曹操)も同じことを考えるはずです」と反対した。
はたして曹操からも追撃をやめるよう命令が届いた。
220年、曹丕が王位につくと侍中となり、後に駙馬都尉に任じられ、河東太守・典農中郎将を代行した。(『趙儼伝』)
「魏略」に曰く、寡婦を都へ送るよう各地の太守へ命令があり、(拡大解釈され)すでに他家へ嫁いだ者も離縁させられ、都へ送られていた。杜畿(とき)は河東太守の時、他家へ嫁いでいない者だけを送っていたが、趙儼が後任になると、数が増えたため曹丕は不思議がり、杜畿に質問した。杜畿は「私は死者の妻だけを送っていましたが、趙儼は生者の妻も送っています」と答え、曹丕は実状を知り青ざめた。(『杜畿伝』)
222年、関内侯に封じられた。
孫権が国境を侵すと曹休が迎撃し、趙儼が招かれ軍師を務めた。
宜土亭侯となり、度支中郎将に転任し、尚書に昇進した。曹丕の親征に従い呉を攻め、広陵郡に留まり征東軍師となった。
226年、曹叡が帝位につくと都郷侯に爵位が進み、領邑600戸を与えられ、監荊州諸軍事・仮節となったが、病により赴任せず、尚書に戻った。
快癒すると監豫州諸軍事に赴任し、大司馬軍師に転任し、都に戻り大司農に上った。
239年、曹芳が帝位につくと監雍州涼州諸軍事・仮節に任じられ、征蜀将軍を務めた。
後に征西将軍・都督雍州涼州諸軍事に転じた。
「魏略」に曰く、征西将軍には公儀の調理場と帳簿があり、誰もが利用していたが、趙儼は使わなかった。
ある時、外出中に常用薬を忘れたことを何気なくつぶやくと、雍州の役所から薬箱が何箱も届けられた。趙儼は「言葉というのは難しい。常用薬のことを聞いただけなのに、こんなにもらってどうするのだ」と笑い、受け取らなかった。
243年、老齢と病を理由に前線を離れ、都に戻り驃騎将軍となった。(『趙儼伝』)
正始年間(240~249)に驃騎将軍の趙儼ら魏の多くの重臣が胡昭(こしょう)を推挙した。(『管寧伝』)
245年、司空に上り逝去した。穆公と諡された。享年75。
子の趙亭(ちょうてい)が後を継いだ。(『斉王紀』・『趙儼伝』)
「魏略」は梁習(りょうしゅう)・裴潜(はいせん)らと並べ「張既・楊俊(ようしゅん)には及ばないが、自己を抑制し老いていよいよ盛んだった」と評した。(『裴潜伝』)
陳寿は「剛毅・果断で度量が大きい」と評した。
「演義」には登場しないが、同姓同名の謎のオリキャラの宦官がいて、曹操に処刑される。
「吉川三国志」にも宦官の趙儼が登場するため、関羽を追撃しないよう進言する人物は趙厳(ちょうげん)というもじった名前のオリキャラに変えられている。
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