三国志 ち 5


趙岐


未作成



趙姫  曹茂の母


趙姫(ちょうき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の側室。
曹茂(そうぼう)の母。

曹茂は傲慢で強情な性格だったため王位につけられたのは兄弟で一番遅く、曹叡の代になってからだった。(『楽陵王茂伝』)



趙基  倉慈どころか王遷に及ばない敦煌太守


趙基(ちょうき)字は不明
涼州天水郡の人(??~??)

魏の臣。

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。
倉慈(そうじ)は太守に赴任すると、道理に沿って強きをくじき弱きを助け復興を遂げた。

後任の太守の王遷(おうせん)は倉慈の統治を見習ったが及ばず、その次の太守の趙基は王遷にも及ばなかった。
趙基の後を受けた皇甫隆(こうほりゅう)は最新鋭の農具や灌漑技術を持ち込み、ようやく倉慈に次ぐ評価を得た。(『倉慈伝』)



趙顒  趙昂と同一人物?


趙顒(ちょうぎょう)字は不明
出身地不明(??~219)

魏の臣。

(※劉備の益州制圧後に対抗として)曹操に益州刺史に任命された。
219年、定軍山の戦いで蜀軍に敗れ夏侯淵とともに戦死した。(『先主伝』)

先に馬超と戦った、王異の夫でもある趙昂(ちょうこう)と同一人物と思われる。
いちおう項は分ける。



趙欽


未作成



趙衢  馬超撃破の中心人物?


趙衢(ちょうく)字は不明
涼州南安郡の人(??~??)

魏の臣。

212年、馬超は冀城を攻め、降伏した涼州刺史の韋康(いこう)を約束を違えて殺し、制圧した。
楊阜(ようふ)は復讐の機会をうかがい、城外にいた姜叙(きょうじょ)・趙昂(ちょうこう)・尹奉(いんほう)・趙衢・梁寛(りょうかん)・王異らと密議を凝らした。
そして楊阜・姜叙が鹵城で挙兵すると馬超は討伐に向かい、その隙に趙衢・梁寛が冀城を奪回し、趙昂・尹奉・王異は祁山に籠城した。
馬超は敗走し漢中へ逃げて行った。(『楊阜伝』)

「武帝紀」には趙衢・尹奉が馬超を撃破したとある。(『武帝紀』)

「董卓伝」には趙衢が義勇軍を興し馬超を討伐したとある。(『董卓伝』)

同じく「夏侯淵伝」にも趙衢・尹奉が馬超を騙して出撃させ、その隙に冀城を制圧したとある。(『夏侯淵伝』)

記述を見る限り、馬超撃破の中心人物だったように思える。

「演義」でも楊阜らとともに馬超を撃破し、その妻子と一族を処刑し、城外の馬超の前へ投げ落とした。怖い。



趙君安


未作成



趙月  王異の馬超に殺された子


趙月(ちょうげつ)字は不明
涼州天水郡の人(??~213)

趙昂(ちょうこう)と王異の嫡子。

「列女伝」に曰く。
213年、馬超は張魯(ちょうろ)の協力を得て反乱し冀城を制圧した。
馬超は趙月を張魯のもとへ人質に出させ趙昂を登用しようとしたが、内心では信頼しきれずにいた。
馬超の妻の楊(よう)はかねてから王異の節義ある行為を聞いていたので、親しくなりたいと考え招いた。王異はそれを好機と「戦いが終わったばかりでまだ周辺は動揺しています。曹操と戦うためには、夫ら涼州の力が必要でしょう」と吹き込み、楊を通じて馬超の信頼を得た。
趙昂・楊阜(ようふ)らは馬超討伐の策を練り、計画は固まったが、人質に出している趙月を助ける算段が立てられずにいると、王異は「忠義を貫くためには自分の首を失っても大したことではありません。ましてや一人の子がなんだと言うのです。顔回(孔子の高名な弟子。若死にした)は百歳まで生きましたか? 道義を尊重するだけです」と言い、決行させた。
首尾よく馬超を撃破したが、報復で趙月は殺された。(『楊阜伝』)

「演義」では馬超に仕えており、同様の経緯で殺された。



趙彦  献帝に諫言し曹操に殺される


趙彦(ちょうげん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

195年、献帝を保護した曹操は、次第に専横をきわめていった。
議郎の趙彦が献帝のため諫言すると、曹操はそれを憎み殺してしまったと、伏皇后(ふく)が父へ曹操の非道さを訴えた手紙に記される。(『後漢書 后紀』)

また官渡の戦いを前に袁紹も「趙彦は真心を込めて献帝に諫言し感謝されていたが、曹操は邪魔に思い独断で殺した」と非難の材料に使っている。(『袁紹伝』)



趙謙  趙典の甥の三公


趙謙(ちょうけん)字は彦信(げんしん)
益州蜀郡成都県の人(??~192)

後漢の臣。
趙典(ちょうてん)の甥(兄の子)。趙温(ちょうおん)の兄。
「後漢書 趙典伝」に附伝される。

167年、日食が起こると桓帝は賢良方正の士を推挙させ、趙謙(※左馮翊の人と記される)らは董扶(とうふ)を推挙したが、病と称して帰られた。(『劉焉伝』)

190年、黄琬(こうえん)の後任の太尉となった。長安に遷都すると行車騎将軍に任じられた。(『後漢書 趙謙伝』)

光禄勲の趙謙は太尉に任じられた。(『後漢書 献帝紀』)

「英雄記」に曰く、劉焉(りゅうえん)が益州で独立すると、董卓は司徒の趙謙に命じて討伐させたが失敗した。(※趙謙が司徒になったのは董卓の死後であり、官位か人物の間違いだろう)(『劉焉伝』)

191年、重病により罷免され、司隷校尉に転任した。
董卓の寵愛する侍子が権威を傘に来てしばしば法を犯していたため処刑した。董卓は激怒し従事を殺したが、趙謙を敬いはばかっていたため罪に問わなかった。
前将軍に転任し、白波黄巾賊を討伐し、郫侯に封じられた。(『後漢書 趙謙伝』)

「献帝紀」に曰く。
司隷校尉の趙謙に董卓は侍子を殺されると「愛犬でさえ他人に叱責されたくないのに、まして人間である」と激怒し、都官を殴り
殺させた。(『董卓伝』)

192年、董卓が討たれ、その残党により司徒の王允(おういん)が殺されると後任に就いた。
だが数ヶ月で重病により罷免され尚書令に移り、同年に没した。
忠侯と諡された。(『後漢書 趙謙伝』)

「後漢書 献帝紀」では太尉・司徒はいずれも辞任したと記される。(『後漢書 献帝紀』)

「演義」には趙謙・趙温ともに登場しない。



趙儼  名監督


趙儼(ちょうげん)字は伯然(はくぜん)
豫州潁川郡陽翟県の人(171~245)

魏の臣。

同郡の辛毗(しんぴ)・陳羣(ちんぐん)・杜襲(としゅう)と並び称され、姓から辛陳杜趙と呼ばれ、いずれも魏の重臣となった。

戦乱を避けて荊州に避難し、杜襲・繁欽(はんきん)と暮らしていたが、曹操が献帝を迎え入れたと聞くと、曹操こそ中華を救う者だと確信し、197年に一族を率いて許都へ移住した。
朗陵県長に取り立てられると、当地では勢力を頼みに横暴な者が多く、趙儼は最も酷い者を逮捕したが、上申して死刑を免じてやり、権威と恩愛を示した。(『趙儼伝』)

曹操は汝南郡を分割して陽安郡を新設し、李通(りつう)を都尉に任じた。
李通の妻の伯父が罪を犯し、(陽安郡に属する朗陵県長の)趙儼に逮捕され、死刑を命じられた。
李通の妻子は泣いて助命嘆願したが、李通は「私は曹公(曹操)と力を合わせている。道義からも公私混同はできない」とそれを退け、かえって趙儼を評価し親交を結んだ。(『李通伝』)

200年、官渡の戦いに際し袁紹が豫州の諸郡に誘いを掛けると、ほとんどの郡が袁紹方になびいたが陽安郡だけは動揺しなかった。
李通は徴税を急ぎ曹操への忠誠を示そうとしたが、趙儼は逆効果だとそれを止め、(上官の)荀彧へむしろ税を民に返還してやるよう勧めた。荀彧も同意し、陽安郡は安定した。(『趙儼伝』)

評判の高い杜襲・辛毗・趙儼らを荀彧は招聘した。(『荀彧伝』)

都に上り司空掾属主簿となった。于禁、楽進、張遼が協調せず思いのままに振る舞っていたため、趙儼が参軍として彼らを監督し、事あるごとに教え諭した結果、次第に仲睦まじくなった。
208年、荊州討伐が始まると章陵太守を兼任し、都督護軍として于禁・張遼・張郃・朱霊(しゅれい)・李典・路招(ろしょう)・馮楷(ふうかい)ら7軍を統括した。

(荊州討伐後)丞相主簿となり、扶風太守に上った。
曹操は韓遂(かんすい)・馬超を討伐すると、その残党5千人を殷署(いんしょ)に任せ、趙儼を関中護軍として総指揮を取らせた。
国境を侵す羌族を撃破し、陳倉で反乱した呂並(りょへい)を討伐した。

漢中の守備を助けるため、殷署が1200人の兵を率い出発した。兵は突然の命令で家族と引き離されたため、みな憂鬱な表情をしており、趙儼はそれを見て心配になり、一日遅れで彼らに追いつくと、一人ひとりをねぎらい、殷署にも注意を促した。
はたして40里ほど進んだところで兵は反乱し、殷署の消息も途絶えた。趙儼は雍州刺史の張既(ちょうき)のもとで休んでいたが、急報を聞き出発しようとした。配下の150人はいずれも反乱兵と同じ部隊で縁戚の者も多く、動揺しており、張既は「小勢で向かっても仕方ない。まず情報を集めるべきだ」と言ったが、趙儼は「本隊もまだ動かないだろう。ぐずぐずしていたら反乱が拡大する恐れもある。それに総指揮を任された私が鎮圧できなければ、私に災難が及ぶのは運命だ」と言い、出立した。
30里ほど進むと兵を休息させ、動揺する彼らをなだめすかしたため、彼らは忠誠を誓った。反乱兵を見つけると指導者だけを処罰し、その他の者は不問に付したため、こぞって降伏してきた。
趙儼は曹操へ(殷署が指揮していた)韓遂・馬超の残党を漢中へ援軍として送り、古参の兵に関中を守らせるよう依頼した。まず劉柱(りゅうちゅう)が2千の古参兵で守備を引き受け、その後に残党が送られる手はずだったが、計画が漏洩し、また家族と引き離され、それに乗じてまた反乱が起こるのではと諸将は動揺した。
趙儼は(反乱しそうにない)温厚な兵1千人で守備を固めさせ、その他の者を東方(漢中)へ送ると通告し落ち着かせた。
兵の名簿を集めて部隊を上手く編成し、少しずつ東方へ送り、守備兵もなだめすかして結局は送り、合計で2万人余りを移動させた。(※後世の孫盛は約束を違え信義にもとると批判している)

219年、関羽が曹仁の守る樊城を包囲した。
趙儼は議郎としてその補佐を命じられ、徐晃とともに救援へ向かったが、包囲は固く、他の援軍もまだ到着していなかった。
兵は不足していたが諸将が戦いを挑むよう勧めると、趙儼は「包囲は固く、水攻めもされていて曹仁と連携も取れない。まずは間者を送って援軍の到着を知らせ、曹仁軍の士気を上げる。他の援軍も10日以内には到着するし、それまでは曹仁も持ちこたえるだろう。援軍が集まるまで進軍は控えるべきだ。もしその前に樊城が陥落したら私が責任を取る」と言い、攻撃を控えさせた。
そして地下道を掘り、矢文を城内へ送り、連絡を取った。他の援軍も到着すると攻撃し、関羽は撤退した。
孫権が同盟を破棄し関羽の背後を襲うと、諸将は追撃を勧めたが、趙儼は「孫権は関羽との戦いで疲弊し、我々が漁夫の利を得るのを恐れ、魏へ従属を申し出てきた。ここで関羽を追撃すれば、今度は孫権は我々の背後を襲う恐れがある。関羽は逃して孫権の目の上のたんこぶにするのがいいでしょう。王(曹操)も同じことを考えるはずです」と反対した。
はたして曹操からも追撃をやめるよう命令が届いた。

220年、曹丕が王位につくと侍中となり、後に駙馬都尉に任じられ、河東太守・典農中郎将を代行した。(『趙儼伝』)

「魏略」に曰く、寡婦を都へ送るよう各地の太守へ命令があり、(拡大解釈され)すでに他家へ嫁いだ者も離縁させられ、都へ送られていた。杜畿(とき)は河東太守の時、他家へ嫁いでいない者だけを送っていたが、趙儼が後任になると、数が増えたため曹丕は不思議がり、杜畿に質問した。杜畿は「私は死者の妻だけを送っていましたが、趙儼は生者の妻も送っています」と答え、曹丕は実状を知り青ざめた。(『杜畿伝』)

222年、関内侯に封じられた。
孫権が国境を侵すと曹休が迎撃し、趙儼が招かれ軍師を務めた。
宜土亭侯となり、度支中郎将に転任し、尚書に昇進した。曹丕の親征に従い呉を攻め、広陵郡に留まり征東軍師となった。

226年、曹叡が帝位につくと都郷侯に爵位が進み、領邑600戸を与えられ、監荊州諸軍事・仮節となったが、病により赴任せず、尚書に戻った。
快癒すると監豫州諸軍事に赴任し、大司馬軍師に転任し、都に戻り大司農に上った。

239年、曹芳が帝位につくと監雍州涼州諸軍事・仮節に任じられ、征蜀将軍を務めた。
後に征西将軍・都督雍州涼州諸軍事に転じた。

「魏略」に曰く、征西将軍には公儀の調理場と帳簿があり、誰もが利用していたが、趙儼は使わなかった。
ある時、外出中に常用薬を忘れたことを何気なくつぶやくと、雍州の役所から薬箱が何箱も届けられた。趙儼は「言葉というのは難しい。常用薬のことを聞いただけなのに、こんなにもらってどうするのだ」と笑い、受け取らなかった。

243年、老齢と病を理由に前線を離れ、都に戻り驃騎将軍となった。(『趙儼伝』)

正始年間(240~249)に驃騎将軍の趙儼ら魏の多くの重臣が胡昭(こしょう)を推挙した。(『管寧伝』)

245年、司空に上り逝去した。穆公と諡された。享年75。
子の趙亭(ちょうてい)が後を継いだ。(『斉王紀』・『趙儼伝』)

「魏略」は梁習(りょうしゅう)・裴潜(はいせん)らと並べ「張既・楊俊(ようしゅん)には及ばないが、自己を抑制し老いていよいよ盛んだった」と評した。(『裴潜伝』)

陳寿は「剛毅・果断で度量が大きい」と評した。

「演義」には登場しないが、同姓同名の謎のオリキャラの宦官がいて、曹操に処刑される。
「吉川三国志」にも宦官の趙儼が登場するため、関羽を追撃しないよう進言する人物は趙厳(ちょうげん)というもじった名前のオリキャラに変えられている。



趙孔曜  管輅を推挙した親友


趙孔曜(ちょうこうよう)字が孔曜か
冀州安平郡の人(??~??)

魏の臣。

深い思慮と知識があり、三国一の占術師として知られる管輅(かんろ)とは「管鮑の交わり」のような厚い友情で結ばれていた。

244年、管輅が清河太守の華表(かひょう)に招聘され出仕していると聞き、「あなたは古の賢者にも並ぶ才能を持つのに、どうして郡で留まっているのか。冀州刺史の裴徽(はいき)殿は聡明で、老荘にも詳しい。私も目を掛けられているから、あなたを推挙しよう」と申し出た。

裴徽は趙孔曜に会うと、顔色が優れないことに気づいた。趙孔曜は「清河郡に駿馬がいるのに才能を発揮できていないのを憂慮しています。名は管輅と言い、闊達で世間と折り合いよく、見上げれば天文を、見下ろせば「周易」を理解することは古の偉人にも匹敵します」と推挙した。
裴徽は「私は逸材を見つけられず、官を辞して都に帰り、哲学の議論でもしようと考えていた。駿馬がいるならぜひ会いたい」と管輅を招聘するとともに友人として遇した。(『管輅伝』)



趙広  趙雲の次男


趙広(ちょうこう)字は不明
冀州常山郡真定県の人(??~263)

蜀の臣。
趙雲の次男。

229年、父が没すると兄の趙統(ちょうとう)が後を継いだ。
趙広は牙門将軍となり、蜀の滅亡に際し姜維とともに戦い討ち死にした。(『趙雲伝』)

「演義」では趙統とともに父の死を報告するだけで戦死は描かれなかった。

「ちくま版」は後漢の同姓同名の趙広を同一人物として索引に載せている。



趙弘  考えるのをやめた


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趙昂  王異の夫


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趙莋  劉備を皇帝に推挙した謎の重臣D


趙莋(ちょうさく)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に益州別駕従事として連名した。(『先主伝』)

連名した劉豹(りゅうひょう)・向挙(しょうきょ)・殷純(いんじゅん)・趙莋・張爽(ちょうそう)には他の事績がない。
こんな重要文書に連名する重臣の事績が残っていないことが、史官を置かなかった蜀の問題点を浮き彫りにしている。

「演義」にも名前のみ登場するが名は趙祚(ちょうそ)と誤記される。



趙咨  司馬朗の理解者


趙咨(ちょうし)字は君初(くんしょ)
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏の臣。
(※趙咨は魏・呉に二人いるが「ちくま版」は呉の趙咨と混同して索引に載せている)

189年、董卓が実権を握ると、司馬朗(しばろう)は彼の滅亡を察知し、賄賂を使い郷里へ帰った。そして一族の長老たちへ「董卓追討軍が立てば、ここは必ず戦場となります。今のうちに親戚の趙威孫(ちょういそん)のいる黎陽へ避難しましょう」と言ったが、故郷から離れがたいと誰も従わなかった。
結局、司馬朗と同郷の趙咨だけが黎陽へ逃げ、数ヶ月後には読み通りに河内に追討軍が集結した。(『司馬朗伝』)

233年、満寵(まんちょう)は合肥が呉に攻略されかかっていると考え、合肥新城の築城を上奏した。蔣済(しょうせい)は反対したが、満寵は重ねて「孫子」を引いて利益を説き、尚書の趙咨も賛成したため築城を認められた。(『満寵伝』)

太常まで上り、世間で立派な人物と評判を取った。

子の趙鄷(ちょうほう)は晋代に驃騎将軍に上り、東平陵公に取り立てられた。
父子ともに「百官名」に記された。(『司馬朗伝』)



趙咨  曹丕を唸らせる論客


趙咨(ちょうし)字は徳度(とくど)
荊州南陽郡の人(??~??)

呉の臣。
(※趙咨は魏・呉に二人いるが「ちくま版」は魏の趙咨と混同して索引に載せている)

「呉書」に曰く。
博聞多識で人との受け答えに巧みだった。
220年、魏から呉王に封ぜられた孫権は趙咨を中大夫に抜擢し魏への使者に立てた。
曹丕は彼を気に入り「呉王(孫権)は少しは学問がわかるのか」とからかった。
趙咨は「長江に1万の戦艦を並べ、百万の兵を率い、賢者を信任し能力のある者を手足のように使い、天下国家の経略を志しています。暇があれば経書やその注釈、歴史書を学び、その優れたものを吸収していますが、学者のように一字一句のこまごまとした詮索はしません」と答えた。
曹丕が「我々は呉を討伐することができるか」と問うと「貴国には討伐軍がいますが、我が国にも防御の固めがあります」と言い、曹丕がさらに「呉は魏をはばかっているのか」と言うと「百万の兵がおり、長江と漢水を堀にしているのにどうしてはばかるでしょう」と返した。
曹丕は「呉にはあなたぐらいの人物はどれほどいるのか」とも聞き、趙咨は「聡明で飛び抜けた見識を持つ者が80~90人。私程度なら車で運び一斗枡で計るほどで数え切れません」と答えた。

毎年のように使者を務め、魏の人々は趙咨を尊敬し高く評価した。孫権はそれを喜び騎都尉を加官した。
趙咨は「魏が盟約を守り通すことはありません。今のうちに呉が漢王朝の後を受け継ぐ準備を整えるべきです」と上言し、孫権もその意見を容れた。

「呉主伝」に曰く。
220年、魏から呉王に封ぜられた孫権は都尉の趙咨を使者に立てた。
曹丕に孫権の主君ぶりを尋ねられた趙咨は「聡明にして仁智、雄と略を備えた主君です」と答えた。
曹丕が具体的に説明するよう求めると「魯粛(ろしゅく)を平民から取り立てたのが聡、呂蒙を兵士から抜擢したのが明、捕虜の于禁(うきん)を殺さず解放したのが仁、荊州を無血で奪い返したのが智、三州を治め虎視眈々と天下を窺うのが雄、身を屈して魏に臣従するのが略です」と返した。(『呉主伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「趙咨・沈珩(しんこう)は使者の任に当たり、機転の利く応対により国の名誉を外国にまで広げた」と評した。(『孫晧伝』)

「演義」にも登場し、魏への出立を前に孫権へ「失敗したら長江に身を投げます」と覚悟を述べた。曹丕との問答もほぼ再現されている。



趙祇  馬相の相方


趙祇(ちょうし)字は不明
益州の人(??~188?)

黄巾賊。

益州刺史を務める郤倹(げきけん)は、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれていた。
188年、賊徒の馬相(ばしょう)と趙祇は黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。1~2日のうちに数千人が集まり、手始めに綿竹県令の李升(りしょう)を殺し、官民を糾合し1万人に膨れ上がった。
さらに雒県を落とし、郤倹を殺害し、1ヶ月のうちに蜀郡・広漢郡・犍為郡を制圧した。馬相は天子を僭称し、勢力は十万を超えた。(※「蜀書」には5桁、「後漢書」には十余万とある)(『劉焉伝』)
さらに巴郡を攻め、太守の趙部(ちょうぶ)を殺した。(『後漢書 劉焉伝』)

だが犍為郡の東にいた賈龍(かりゅう)は1千余りの兵を集めると、数日のうちに馬相・趙祇を撃破し、平定した。
賈龍は赴任できずにいた益州牧の劉焉(りゅうえん)を迎え入れた。(『劉焉伝』)



趙慈  江夏郡で反乱し羊続に討伐された兵士


趙慈(ちょうじ)字は不明
荊州江夏郡の人(??~186)

賊徒。

186年、江夏郡で兵士の趙慈が反乱し、南陽太守の秦頡(しんけつ)を殺し6県を陥落させた。
廬江太守の羊続(ようしょく)は南陽太守に転任して討伐に当たることとなり、まず見すぼらしい服に着替え、童子一人を連れ各県を視察して回った。それをもとに各県の風土や官民の性質を次々と言い当てると、郡内の人々は種がわからず畏怖した。
そして荊州刺史の王敏(おうびん)とともに討伐し、趙慈ら5千の首級を挙げた。残党は降伏し、羊続は罪に問わなかった。郡内は平定され万民は喜んで服従した。(『後漢書 羊続伝』)



趙楫


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趙庶  徐晃に降伏した呂布配下A


趙庶(ちょうしょ)字は不明
出身地不明(??~??)

呂布の臣。

199年、徐晃に敗れ李鄒(りすう)とともに降伏した。(『徐晃伝』)



趙正  占いで楊儀の出世を否定する


趙正(ちょうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

234年、楊儀(ようぎ)は諸葛亮の没後に全軍をまとめて無事に帰還し、従わなかった魏延を誅殺した功績を大と考え、自身が諸葛亮の後継者にふさわしいと思い込んだ。
そこで都尉の趙正に吉凶を占わせたが「役割は家人に過ぎない」と出たため不機嫌になった。

その後、閑職に甘んじた楊儀は謀反をほのめかして地位を剥奪され、なおも反省の色を見せずついに自害させられた。(『楊儀伝』)



趙青龍  鄭渾に討伐された賊B


趙青龍(ちょうせいりゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

212年過ぎ、趙青龍は反乱し、程休(ていきゅう)を殺害した。
左馮翊太守の鄭渾(ていこん)は壮士を派遣し、その首を挙げた。(『鄭渾伝』)



趙泉


未作成



趙戩  董卓を謝らせ、王允の遺体を収容


趙戩(ちょうせん)字は叔茂(しゅくぼう)
司隸京兆郡長陵県の人(??~??)

後漢、後に魏の臣。

「典略」に曰く。
質朴で学問を好み発言する際には「詩経」や「尚書」の言葉を用いた。人を慈しみ分け隔てしなかった。
三公の府に召され、入朝し尚書選曹郎となった。
董卓が都の実権を握り、尚書を全てお気に入りの者で占めようとすると、人事担当の趙戩は拒絶した。
董卓は立腹し彼を殺そうとし、周囲の者は動揺したが、趙戩は平然とし、厳しい表情で道理を説いた。董卓は凶暴だったが、非を認め謝罪した。(だが左遷され)平陵県令に赴任した。

192年、董卓を暗殺した王允(おういん)が残党によって殺されると、累が及ぶのを恐れ誰もがためらうなか、官を棄てて遺体を収容した。戦乱を避けて荊州へ移住し、荊州牧の劉表(りゅうひょう)には賓客として遇された。
208年、曹操は荊州を制圧すると、趙戩の手を取り「なんと出会うのが遅かったことよ」と言い(丞相)掾に召し寄せた。
後に曹丕の五官中郎将司馬、鍾繇(しょうよう)の丞相長史を務め、60歳あまりで亡くなった。

「傅子」に曰く。
212年、劉備が益州を攻めると丞相掾の趙戩は「劉備は戦下手で、益州は堅固な土地だからすぐには陥落しない」と言った。
傅幹(ふかん)は「劉備は寛大で度量があり人の死力を振り絞らせる。諸葛亮は正道に寄りながら権謀がある。張飛・関羽は万人と戦える。劉備の智略を三人の英雄が補佐すれば必ず成功する」と見立てた。(『先主伝』)



趙宗  曹彪か曹袞の処分に連座させられた配下A


趙宗(ちょうそう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

楚王の曹彪(そうひょう)、中山王の曹袞(そうこん)は太和年間(227~232)に相次いで禁令を犯して処分され、趙宗・戴捷(たいしょう)が罪に服した。
記述の順序からして趙宗は曹彪の、戴捷は曹袞の配下だろうか。(『趙王幹伝』)



趙濯


未作成



趙達  八絶・九宮一算の趙達


趙達(ちょうたつ)字は不明
司隸河南郡の人(??~??)

呉の臣。
九宮一算の術(占術)の名手で「八絶」の一人に数えられる。

若い頃は後漢の侍中であった単甫(ぜんほ)のもとで学問を修め、その思考は精緻で綿密だった。占いで東南に王者の気を感じ、災難を避けられるだろうと考え、単身で移住した。

九宮一算の術を極め、何事にも臨機応変に対応し、人々の疑問に神のような判断を下した。
イナゴの発生の多寡や、失せ物探しは必ず的中した。
ある人が「飛んでいるイナゴの数など数えようがないからデタラメだ」と言うと、趙達は小豆をばらまかせ、即座にその数を当ててみせた。

ある時、知人を訪ねると「急な来客でおもてなしできない」と粗末な食事を出された。趙達は箸を使って占い「お宅の東に一石の美酒と三斤の鹿肉があるのに何も無いのか」と言った。東の部屋に来客を隠していたことを見抜かれ、知人は仰天し、あなたの力を試しただけですと取り繕った。

またある時、趙達の力を試そうと、空っぽの倉庫に札を置き、そこへ何千、何万と書きつけた人がいた。趙達はその数字を当てるとともに、実際には空だと見抜いた。

趙達は秘訣を誰にも明かさず、闞沢(かんたく)・殷礼(いんれい)ら呉の重臣に聞かれても決して教えなかった。
公孫滕(こうそんとう)は若い頃から趙達を師事し、いつか伝授すると約束されたがそれから何年も経過した。
ある日、機嫌が良い時に懇願すると趙達は「先人はこの術を会得すると、帝王の師になろうとしたが、三代経っても太史郎にしかなれなかった。だからもう伝授する気は無かった。それにこの術は、父子の間でも言葉で伝えることができないほど極めて難解だ。しかしあなたは怠らずに学んできた。伝授して差し上げよう」と言い、指ほどの大きさの巻物を2つ持って来た。
そして「ここに秘伝が書かれている。だがしばらく読んでいないので、久々に私もよく検討してから数日後に渡してやろう」と言った。
しかし公孫滕が約束の日に訪れると、趙達はその巻物が無くなったと言い、探すふりをして「娘婿が昨日訪ねてきたから、盗まれたのだろう」ととぼけ、結局伝授しなかった。

孫権は挙兵に際していつも趙達に吉凶を占わせたが、常に的中した。だが孫権にも秘術を明かさなかったため、疎んじられ官位や俸禄はあまり上がらなかった。(『趙達伝』)

224年、曹丕が親征して来ると、呉は長江に沿って偽の城壁を造った。魏軍は驚き撤退したが、孫権はそれを事実かどうか占わせた。趙達は「確かに逃げましたが、呉は54年後に滅亡します」と言った。孫権は「現在に手一杯で遠い先のことなど考えられない。それは子孫のことだ」と言った。呉は280年に滅亡し、占いは的中した。(『呉主伝』)

229年、孫権は帝位につくと自分の在位が何年続くか占わせた。
趙達は「漢の高祖は王朝を建ててから12年在位しました。陛下はこれに倍されましょう」と言った。孫権の在位はその通り24年続いた。

同じ「八絶」に数えられる呉範(ごはん)は風を、劉惇(りゅうとん)は星を見て占った。趙達は「帷幕の中で算木をめぐらせ、戸外に出ずに天道を知るのが占いなのに、わざわざ昼夜戸外に身をさらして読み取ろうとするのは、まことに御苦労なことだ」と彼等を嘲笑った。

ある時、趙達は自分の命日を占った。ため息をつきながら結果を伝えると、彼の占いが常に的中するのを見てきた妻は、声を上げて泣いた。趙達は妻を思いやり、もう一度占うと「さっきのは間違いで、命日はもっと先だ」と言ったが、はじめの占い通りの日に亡くなった。

孫権は秘術を記した書物があると聞き、趙達の娘を拘禁し尋問したり、棺を開けさえしたがやはり見つからず、結局その死とともに九宮一算の術は途絶えた。(『趙達伝』)

226年に呉範も没しており、孫権は「呉範や趙達のような占術師を推挙すれば千戸を与え列侯する」と支配下の三州に布告したが、誰も見つからなかった。(『呉範伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「孫権の代には呉範・趙達が天の示す吉凶を占い、主君の行いをそれにふさわしいものとした」と評した。(『孫皓伝』)

孫盛は「趙達は魏の出現を予見できず、わざわざ呉へ向かった。けちくさく秘術を明かすことを惜しみ疎んじられた。占いはまぐれで的中しただけのつまらないものだ。大事をなさんと志す君子は占いなどに心惹かれたりなどしない」と非難した。
裴松之はそれに対し「大事をなさん~という批評は誰にでも言えることだ。中原の戦乱は激しく多くの人々が命を落とした。江南へ難を避けたのは不思議ではない。魏の勃興を予見できなかったと言うが、古代の占いの名手も自分の死を予見できなかった。秘術を隠して疎んじられたのも後悔するほどではない。占いをでたらめだと主張するのは周到な議論ではない」と真っ向から異を唱えた。(『趙達伝』)

陳寿は呉範・劉惇・趙達を同じ巻に収録し「秘術に精通し、彼らがめぐらせた心の働きは精妙だった。しかし君子がその心を用いるのは大きく広いものに対してであるべきで、それゆえ立派な見識を備えた人物は、神秘的な事柄には心を向けず、現実をもっぱら問題とするのである」と三者の技術は讃えながらも、そうした占術を重用した孫権を非難している。



趙達  徐邈を告発し高柔に本性を見抜かれる


趙達(ちょうたつ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

徐邈(じょばく)は酒にだらしなく、禁酒令に背いて泥酔し、校事(監察官)の趙達に聴取されると「聖人(清酒)に当たった」と悪びれなかったため曹操は激怒した。鮮于輔(せんうほ)に「普段は慎み深く、酔って吐いた言葉でしょう」と弁護され処刑は免れた。(『徐邈伝』)

盧洪(ろこう)・趙達が校事を務めていたが、高柔(こうじゅう)は「上司が部下を信頼せず、また盧洪・趙達は自身の愛憎で処置を決めています」と処分を求めた。
だが曹操は「私は君よりも趙達らを理解している。賢人君子には摘発はできないのだ」と却下したが、後に趙達らの汚職が発覚した。曹操は彼らを処刑し、高柔に謝った。(『高柔伝』)

処刑の時期は不明だが、徐邈は216年に尚書令となった後に告発されており、216年から曹操が没した220年の間である。



趙忠  十常侍の母


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趙寵  典韋の怪力にびっくり


趙寵(ちょうちょう)字は不明
出身地不明(??~??)

張邈(ちょうばく)の臣。

初平年間(190~193)、張邈が挙兵すると典韋は司馬の趙寵の配下となった。
大将旗は巨大で誰も持ち上げられなかったが、典韋は片手でそれを立てて見せ、趙寵は腕力に目をみはった。(『典韋伝』)



趙直  蜀の夢占い師


趙直(ちょうちょく)字は不明
出身地不明(??~??)

夢占い師。

蔣琬(しょうえん)は門前に転がった牛の首が血を流す夢を見た。趙直に尋ねると「血を見るのは政治に明るいことを指し、宰相の資質ありという意味です。また牛の角と鼻で公の字を作れ、公の位に上る大吉です」と占われた。後に宰相に上った。(『蔣琬伝』)

「益部耆旧伝雑記」に曰く。
何祇(かし)は若い頃、井戸の中に桑の木が生える夢を見たため、趙直に相談すると「桑は桒とも書き十が四つと八と読め、井戸の中に生えたなら植え替えなければならない。これはあなたが48歳で亡くなることを意味している」と言われた。何祇は「それだけ生きれば十分だ」と笑った。
48歳で病没し的中した。(『何祇伝』)

234年、魏延は先鋒として出撃すると頭に角が生える夢を見て、趙直に相談した。
趙直は「麒麟が角を武器として用いないように、戦わずして敵軍が敗れる予兆です」と言ったが、退座すると密かに「角という字は刀の下に用いると書き、すなわち頭を刀で落とされるという意味だ」と不吉をごまかしたことを明かした。(『魏延伝』)

「正史」では夢占い師としか記されないが「演義」では行軍司馬として登場。魏延の夢を占い、真の意味を明かした相手は費禕(ひい)に設定された。



趙亭  趙儼の子


趙亭(ちょうてい)字は不明
豫州潁川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
趙儼(ちょうげん)の子。

245年、父が没すると後を継いだ。(『斉王紀』・『趙儼伝』)



趙統  趙雲の長男


趙統(ちょうとう)字は不明
冀州常山郡真定県の人(??~??)

蜀の臣。
趙雲の長男。

229年、父が没すると後を継いだ。
虎賁中郎将・督行領軍まで上った。
弟の趙広(ちょうこう)は牙門将軍となり、蜀の滅亡に際し姜維とともに戦い討ち死にした。(『趙雲伝』)

「演義」では趙広とともに父の死を報告する。
「横山三国志」では若い頃の父そっくりである。



趙犢  幽州刺史と涿郡太守を殺した賊徒A


趙犢(ちょうとく)字は不明
幽州涿郡故安県の人(??~205)

賊徒?

205年、趙犢・霍奴(かくど)は反乱し、幽州刺史と涿郡太守を殺した。
同年8月、曹操が討伐し2人を斬った。(『武帝紀』)



趙敦  常播を称えた県令


趙敦(ちょうとん)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

蜀の臣?

237年、常播(じょうは)は無実の罪に陥れられた上官を弁護し、数千回も杖打ちされ3度の裁判を経て2年あまり幽閉された。拷問のたびに「早く処罰しろ。ごたごた訊ねる必要はない」とだけ言った。後に証言者が現れ死罪を免れた。
常播の身を捨てて主君に尽くし、節義を貫いた態度を誰もが称賛した。

後年に(常播の出身地の蜀郡江原県の?)県令の趙敦は常播の肖像を描き、賛を書いて称えた。(『楊戯伝』)



趙範  ヒイヒイ


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趙浮  袁紹迎撃を却下された韓馥の臣A


趙浮(ちょうふ)字は不明
出身地不明(??~??)

冀州牧の韓馥(かんふく)の臣。

191年、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)の侵攻から守る名目で冀州牧の座を譲るよう韓馥に迫った。
臆病な韓馥は同意したが、長史の耿武(こうぶ)、別駕の閔純(びんじゅん)、治中の李歴(りれき)らは「冀州には百万の兵と十年分の兵糧があり、袁紹は本拠地を持たず困窮しており、膝の上の赤ん坊のようなものです。乳を与えなければ餓死するのになぜ明け渡すのか」と諌め、従事の趙浮・程奐(ていかん)は迎撃したいと願い出たが、韓馥は却下して冀州牧を袁紹へ譲った。

「九州春秋」に曰く。
韓馥は都督従事の趙浮・程奐に強弩隊1万を率いさせ河陽に駐屯させていた。譲位の話を聞くと趙浮・程奐は夜間に数百艘の船と1万の兵で軍鼓を打ち鳴らしながら袁紹の陣営のそばを通過し威嚇した。袁紹は甚だ不快に思った。
趙浮・程奐は韓馥に「袁紹軍には兵糧がなく兵も離散し始めています。新たに味方についた張楊(ちょうよう)・於夫羅(おふら)もまだ頼れず、我らが攻撃すれば10日で壊滅させられます。あなたは戸を開け放し枕を高くして寝ていれば結構です」と進言したが、退けられた。(『袁紹伝』)

その後の事績は不明。袁紹に殺されたのだろう。



趙部  馬相・趙祇に殺された巴西太守


趙部(ちょうぶ)字は不明
出身地不明(??~188)

後漢の臣。

益州刺史を務める郤倹(げきけん)は、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれていた。
188年、賊徒の馬相(ばしょう)と趙祇(ちょうし)は黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。郤倹を殺害し、さらに巴郡を攻め、太守の趙部を殺した。(『後漢書 劉焉伝』)



趙謨  趙典の誤記か別名?


趙謨(ちょうぼ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

189年、反乱鎮圧の功により劉虞(りゅうぐ)は太尉に任命された。

「英雄記」に曰く。
劉虞は辞退し、代わりに衛尉の趙謨や、劉焉(りゅうえん)・黄琬(こうえん)・羊続(ようしょく)らを推挙した。みな三公に任命された。(※みな辞退し劉虞が太尉となった)(『公孫瓚伝』)

趙謨はここにしか登場しない。盧弼は「趙典(ちょうてん)が霊帝の代に衛尉を務めており、趙典(の誤記か別名)かもしれないがわからない」と記す。(『三国志集解』)



趙鄷  無名の驃騎将軍


趙鄷(ちょうほう)字は子仲(しちゅう)
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏・晋の臣。
趙咨(ちょうし)の子。
(※趙咨は魏・呉に二人いるが「ちくま版」は呉の趙咨と混同して索引に載せている)

252年、司馬師が大将軍となった。当時は鍾会・夏侯玄(かこうげん)・王粛(おうしゅく)・陳本(ちんほん)・孟康(もうこう)・趙鄷・張緝(ちょうしゅう)らが朝議をあずかった。(『晋書 景帝紀』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に侍中として連名した。(『斉王紀』)

晋代に驃騎将軍に上り、東平陵公に取り立てられた。
父とともに「百官名」に記された。(『司馬朗伝』)



趙融  袁紹に忠告した西園八校尉


趙融(ちょうゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「霊帝紀」に曰く。
188年、霊帝は西園軍を創設し、袁紹ら8人を校尉に任じた。趙融は助軍校尉となった。(※西園八校尉)(『張楊伝』)

「九州春秋」に曰く。
袁紹は鄭玄(じょうげん)を招聘しておきながら重用しなかったため、趙融は「賢人は君子の希望です。賢人を礼遇しなければ君子は希望を失います。事をなそうとする君主は民衆の歓心を買うべきで、君子に対してはなおさらです」と忠告した。(『袁紹伝』)



趙融  禰衡に罵倒された太鼓腹


趙融(ちょうゆう)字は稚長(ちちょう)
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「平原禰衡伝」に曰く。
禰衡(でいこう)は才能を鼻にかけほとんどの名士を馬鹿にして交友しなかった。
ある人に「曹操、荀彧、盪寇将軍の趙融は一世を風靡する人物ではないか」と言われると「曹操は大したことない。荀彧は顔が良いから弔問に行かせ、趙融は太鼓腹だから台所を仕切って接待役をさせるのが適任だ」と言った。人々は歯ぎしりして憎んだ。(『荀彧伝』)

「ちくま版」の索引では分けられているが、西園八校尉の趙融と同一人物の可能性がある。
曹操・荀彧と並ぶ名士と認識されていたなら可能性は高いだろう。

「演義」でも禰衡は同様に多くの人々を罵倒するが、趙融はハブられている。



趙融  夷陵の戦いと廖化のおかげ


趙融(ちょうゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

222年、夷陵の戦いでは輔匡(ほきょう)・廖化(りょうか)・傅彤(ふとう)らとそれぞれ一軍団を率いた。(『陸遜伝』)

事績はそれだけだが、夷陵の戦いと廖化に絡んだおかげで「演義」にも名前だけ登場する。

「吉川三国志」ではさらに出番が増え、張南(ちょうなん)に全軍撤退を伝えるも、孫桓(そんかん)の追撃を受けともに戦死した。



趙曄


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趙累  ダメ軍師


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