三国志 ち 3


張俶


未作成



張粛  張松の裏切りを密告した兄


張粛(ちょうしゅく)字は不明
益州蜀郡の人(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の臣。
張松(ちょうしょう)の兄。

208年、曹操の軍が荊州へ迫ると、劉璋は次々と使者を送りよしみを通じようとした。
別駕従事の張粛も派遣され、兵300と貢物を贈り、返礼に広漢太守に任命された。
次いで弟の張松も送られたが、すでに荊州は制圧されていたため、曹操は歯牙にもかけず、張松は激しく恨んだ。(『劉璋伝』)

211年、曹操と張魯(ちょうろ)に対抗する名目で、張松は劉備を招くよう劉璋に進言し、裏では劉備に益州を乗っ取らせようと画策した。
翌212年、膠着した状況を動かすため、劉備は撤退する構えを見せた。張松は驚き、これを引き留めようとしたところ、兄の張粛に陰謀を察知され、連座を恐れた彼によって劉璋へ密告された。
張松は処刑され、劉備は表立って益州へ攻撃を開始した。

「益部耆旧雑記」によると、張粛は威儀正しく堂々たる容姿だった。張松は小男で品行も劣ったが識見と判断力に優れた、と記される。(『先主伝』)

「益部耆旧伝」によると、楊戯(ようぎ)と並び称された張表(ちょうひょう)は張粛の子である。
だが「華陽国志」には張松の子と書かれ、裴松之もどちらが正しいかわからないと記す。(『馬忠伝』)

「演義」にもほとんど同じ役回りで登場し、弟の内通を密告し処刑させた。



張春華  司馬懿の過激な妻


個別ページへ



張俊  墓を掃除し殺される


個別ページへ



張恂


未作成



張峻  鄧艾の指図を受けた太常


張峻(ちょうしゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

263年、蜀は魏に降伏した。
「蜀記」に曰く。
劉禅は太常の張峻と益州別駕の汝超(じょちょう)を送り(鄧艾の)指図を受けさせ、尚書郎の李虎(りこ)に官民の戸籍を送らせた。(『後主伝』)



張純  劉虞に討伐された自称安定王


個別ページへ



張純  朱拠とともに訴えた張敦の子


張純(ちょうじゅん)字は元基(げんき)
揚州呉郡の人(??~250)

呉の臣。
張敦(ちょうとん)の子。

張儼(ちょうげん)、朱異(しゅい)らとともに幼い頃から聡明で、朱拠(しゅきょ)は彼らを試そうと周囲の物で賦を作らせた。張純は敷物を賦い褒められた。(『朱異伝』)

長じると正しい行いに努め、広い学問と優れた才能を備え、議論をすれば鋭い質問や打てば響くような返答をした。
郎中となり、広徳の県令として治績を上げ、242年に孫和(そんか)が太子に立てられると太子輔義都尉に抜擢された。

だが250年、二宮の変の末に孫和は太子から廃され幽閉された。
朱拠や張純は考えを改めるよう孫権に訴えたがかえって怒りを買い、朱拠は百叩きに遭い、張純は幽閉のうえ公開処刑された。(『孫和伝』)

また朱拠も孫弘(そんこう)に陥れられ自害させられた。(『朱拠伝』)



張順  徐晃に救出される


張順(ちょうじゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

215年、漢中討伐で徐晃は包囲された張順を救出し、陳福(ちんふく)の屯営30以上を撃破した。(『徐晃伝』)



張遵  張飛の孫


張遵(ちょうじゅん)字は不明
幽州涿郡の人(??~263)

蜀の臣。
張苞(ちょうほう)の子。張飛の孫。

父は若くして没し(張遵が幼かったため)叔父の張紹(ちょうしょう)が後を継いだ。

張遵は尚書まで上り263年、蜀の滅亡に際し諸葛瞻(しょかつせん)とともに綿竹で鄧艾と戦い討ち死にした。(『張飛伝』)

「演義」でも同様に戦死するが張飛の孫とは記されない。張紹は張飛の子と記されており、魏への降伏の使者を務めたことから、張遵との対比を避けてぼかしたのだろうか。



張尚  孫晧に難癖つけられた張紘の孫


張尚(ちょうしょう)字は不明
徐州広陵郡の人(??~??)

呉の臣。
張玄(ちょうげん)の子。
張紘(ちょうこう)の孫。
「張紘伝」に附伝される。

「江表伝」に曰く、抜きん出た才能があった。

孫晧の代に侍郎となり、気の利いた言葉で寵愛され、侍中や中書令に抜擢された。
孫晧は彼に琴を演奏させようとしたが、不得手だったため勅命で習わせた。
その後、気楽な席で琴の話になり、張尚は「春秋時代の晋の平公が師曠に琴を弾かせようとすると、師曠はあなたは徳が足りないから聴く資格は無いと言ったそうです」と話した。
孫晧は暗に自分を当てこすっていると考え、別のことにかこつけて獄に下し「あれはどういう意味だ」と詰問し続けた。

「呉紀」に曰く、孫晧は自尊心が強く、自分より優れた者を嫌ったが、張尚はいつも談論で彼を出し抜いたため恨まれた。
孫晧が「私の酒豪ぶりは誰と比較できるか」と尋ねると、張尚は「孔子のように百の杯を飲み干せるでしょう」と言った。孫晧は「孔子は王者になれなかったから私と比べたのだな」と難癖をつけ獄に下した。
岑昏(しんこん)が公卿ら百人余りを引き連れ助命嘆願したため、処刑だけは免れた。

張尚は建安に強制移住させられ、船作りの労役を課せられた。しばらく後に結局誅殺された。(『張尚伝』)



張承  困った時の弟


張承(ちょうしょう)字は公先(こうせん)
司隷河内郡修武県の人(??~??)

魏の臣。
張延(ちょうえん)の子。張範(ちょうはん)の弟。

祖父は司徒、父は太尉を務めた名家の出で、兄とともに名を知られた。
方正に推挙され議郎になり、伊闕校尉に転じた。

董卓が実権を握ると、討伐しようと蜂起を企んだ。だが弟の張昭(ちょうしょう ※呉の重臣とは別人)に無謀だとたしなめられ、官を辞すと兄弟は揚州へ避難した。
揚州を支配する袁術は礼を尽くして招聘したが、張範は病気と称して行かず、代わりに張承が出向いた。袁術は帝位につこうと考えていると相談すると、張承は「強さではなく徳義が問題です」と率直に反対し、袁術を不機嫌にさせた。
さらに曹操が袁紹と戦い始めると、袁術は兵力差で負けると言ったが、張承は「曹操は天子を擁しています。漢の徳は衰えたとはいえ天命は定まらず、百万の軍勢が相手でも勝つでしょう」と正論を言った。袁術は顔色を変え、張承は危険を悟り辞去した。

袁術・袁紹を討伐した曹操は張範を招聘した。
張範は病のため張承を代わりに行かせた。

折しも張範の子の張陵(ちょうりょう)と、張承の子の張戩(ちょうせん)が山賊に捕らわれた。
張範はすぐさま交渉に向かい、山賊は張陵を解放した。だが張範は「息子を返してくれたのはかたじけないし、人情では我が子がかわいいが、張戩は幼くて不憫だ。張陵と交換してもらいたい」と申し出た。山賊は感動し二人とも返した。

212年、兄の張範は没した。(『張承伝』)

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に祭酒として連名した。(『武帝紀』)

魏建国(213年)の当初、張承は丞相参軍祭酒と趙郡太守を兼任し、政治と教化は大いに行き渡った。
曹操は遠征にあたり張承を参軍事として従軍させようとしたが、張承は長安まで来たところで病没した。

孫の張邵(ちょうしょう)は晋代に中護軍に上ったが291年、舅の楊駿(ようしゅん)とともに処刑された。(『張承伝』)

陳寿は同伝に記した袁渙(えんかん)・邴原(へいげん)・張範を「清潔な生き方を実践し、出処進退は道義に基づいていた。貢禹・龔勝・龔舎(※春秋・前漢の高潔な名士)の仲間である」と称え、張承も兄に次ぐと評した。



張承  破滅の未来を視る


張承(ちょうしょう)字は仲嗣(ちゅうし)
徐州彭城郡の人(178~244)

呉の臣。
張昭(ちょうしょう)の嫡子。
「張昭伝」に附伝される。

若くして才能と学問で知られ、後に呉の重鎮となる諸葛瑾(しょかつきん)・歩騭(ほしつ)・厳畯(げんしゅん)とは親友の間柄だった。
男らしく勇敢で真心を持ち、確かな人物鑑定眼で蔡款(さいかん)、謝景(しゃけい)ら若く身分も低い者を抜擢し、大成させた。
諸葛瑾の子の諸葛恪(しょかつかく)は幼い頃から、優れた才能を高く評価されていたが、張承は「結局、諸葛家を滅ぼすのは彼だ」とその末路を見抜いた。
絶えず自身を磨くことに努め、人々に厚い思いやりを注いだため、高い志を持つ者はみな張承のもとを訪れた。(『張承伝』)

(217年?)凌統が没すると、孫権は張承にその功績を称える文章を作らせた。(『凌統伝』)

219年、孫権が後漢の驃騎将軍に任じられると、招かれて西曹掾となった。
後に長沙西部都尉へ赴任し、山中の反乱勢力を討伐し、1万5千の精鋭を編成した。濡須都督・奮威将軍となり、都郷侯に封じられ、部曲5千人を預かった。(『張承伝』)

濡須都督の時、魯粛の子の魯淑(ろしゅく)が成人すると、必ずや自分の後を継ぎ前線を守るだろうと予言した。
魯淑は後に武昌督・夏口督を歴任し的中した。(『魯粛伝』)

妻を亡くすと、父の張昭は諸葛瑾の娘をめとるよう勧めた。諸葛瑾は親友で、義父にしては年齢も近いため(※張承は諸葛瑾の4歳下)渋っていると、それを聞いた孫権が口添えしてやり、妻に迎えた。娘が生まれると、孫権は子の孫和(そんか)の妃に迎えた。(『張承伝』)

234年、呉は三方から魏を攻め、孫韶(そんしょう)・張承は広陵から淮陰へ兵を進めた。
だが孫権の読みに反して曹叡が自ら迎撃に乗り出したため、全軍撤退した。(『呉主伝』)

236年、父の張昭が没すると、張承はすでに列侯されていたため、末弟の張休(ちょうきゅう)が爵位を継いだ。(『張昭伝』)

240年頃、80歳を超えなお現役の呂岱(りょたい)へ手紙を送り称賛した。(『呂岱伝』)

241年、太子の孫登(そんとう)は遺言で「張承らは国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている」と評した。(『孫登伝』)

244年、67歳で没し、定侯と諡された。子の張震(ちょうしん)が後を継いだ。(『張承伝』)

245年、張休は二宮の変に巻き込まれ自害を命じられ、250年、孫和は太子の座から廃された。(『張昭伝』・『孫和伝』)

253年、孫権没後に専権をふるった諸葛恪が誅殺されると、張震も巻き添えを食い、殺された。(『張承伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「諸葛瑾・張承・歩騭は教養高く、その名声によって国家に栄誉をもたらした」と記した。(『孫晧伝』)

陸機の兄の陸景(りくけい)の母は張承の娘で、その妻の祖母も張承の娘であり、陸景夫妻はともに張承の孫にあたる。(『陸遜伝』)

孫俊(そんしゅん)も張承の孫で高い名声を得たが、孫晧(※孫和の子で、張承は義祖父にあたる)に殺された。(『孫和伝』)

周昭(しゅうしょう)は「優れた人物は4つのことを避ける。意見を頑固に主張すること、名誉権勢を争うこと、党派を重視すること、性急に事を運ぶことの4つだ。現代でそれを実践しずば抜けているのは顧邵・諸葛瑾・歩騭・厳畯・張承である」と述べ「厳畯・張承は学問を修めたが、それは利益を求めるためではなかった」と評した。
さらに「諸葛瑾・歩騭・厳畯に名声は次ぎ、諸葛瑾・歩騭と同様に軍事に携わった。その政治手腕を見て功績を比較すれば、優劣の差も爵位の高低もある。だが張承は立場を十分に心得て、きっぱりした態度で自らのやり方を曖昧にせず、私欲を持たず、事に当たれば調子に乗ってやりすぎることはなかった。朝廷では常に礼に従い、何はばかること無く直言し、全ての行動が忠の心で貫かれていた。
弟の張休は高位にあったが、身を誤るのではないかと心配し、身分は低く関係もなかった蔡文至(さいぶんし)の有能さを人々に語り聞かせた。娘が太子(孫和)の妃となった時、(喜ぶどころか)あたかも弔問を受けるように浮かない様子だった。
意気に感じれば万難を排して事に赴き、ひたすら立派な人物を見出すことに心を砕き、物事の成否は全て予見通りとなった。彼こそは正道を守りつつも機を見逃さない、古を好むこと厚い人物である」と絶賛した。(『歩騭伝』)

厳畯・裴玄(はいげん)とともに管仲・季路について議論し、広く世間に伝わった。(『厳畯伝』)

陳寿は「張承と顧邵(こしょう)は己を虚しくすることのできる人格者で、有為の人物を見出すことに心を注いだ」と評した。

「演義」には234年の進軍の場面にしか登場しない。



張松  お兄ちゃんさえいなければ


個別ページへ



張松  秦旦らを裏切った部下


張松(ちょうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「呉書」に曰く。
233年、孫権は遼東の公孫淵(こうそんえん)へ友好の使者を送った。
だが公孫淵は使者の張弥(ちょうび)・許晏(きょあん)を殺し兵や物資を奪おうと企て、随行していた配下らを各地へ分散して幽閉した。
中使の秦旦(しんたん)・張羣(ちょうぐん)・杜徳(ととく)・黄彊(こうきょう)ら60人は玄菟郡に移され、民家に住み食事を提供された。
40日余り経ち、秦旦は「我々は使者の任も果たせず死んだも同然だ。太守の王賛(おうさん)には400ほどの兵しかなく、決起してこれを打ち破ればたとえ殺されても心残りはない。今よりはよほどマシだ」と挙兵を誘った。
8月19日夜に挙兵を決めたが、決起日の昼に部下の張松が裏切り、挙兵を知った王賛は門を封鎖した。
秦旦らは城壁を乗り越え脱出したが、張羣は膝が腫れており、杜徳が肩を貸していたものの6~700里逃げた山中でついに倒れ伏した。仲間らは涙し、張羣は自分を見捨てて逃げるよう勧めたが、杜徳は「祖国から万里も離れた土地で生死を共にした仲間をどうして見捨てられるか」と自分は看病のため残ると決断した。杜徳は山菜や木の実を採ってしのぎ、秦旦・黄彊は数日後に高句麗にたどり着いた。
句麗王の位宮(いきゅう)は事情を聞くと喜んで兵を出し、張羣・杜徳を助け、4人を呉へ送り届けるとともに朝貢した。
孫権に目通りした秦旦らは感極まり、孫権は称えて4人を校尉に任じた。(『呉主伝』)



張邵  楊駿とともに処刑された婿


張邵(ちょうしょう)字は不明
司隷河内郡修武県の人(??~291)

晋の臣。
張範(ちょうはん)の弟の張承(ちょうしょう)の孫。

「王沈魏書」に曰く。
晋代に中護軍に上ったが291年、舅の楊駿(ようしゅん)とともに処刑された。(『張承伝』)

「晋書」には楊駿の甥で、名は張劭と記される。
翻訳を入手次第、追記する。



張昭  呉の最長老


個別ページへ



張昭  張範の弟の方


張昭  張範の弟の方
張昭(ちょうしょう)字は不明
司隷河内郡修武県の人(??~??)

後漢の臣。
張延(ちょうえん)の子。
張範(ちょうはん)、張承(ちょうしょう)の弟。

祖父は司徒、父は太尉を務めた名家の出で、二人の兄も名声高かった。

董卓が実権を握ると、張承は討伐しようと蜂起を企んだ。だが議郎の張昭は「董卓の兵は多く衆寡敵しません。そのうえ急に挙兵しても将校は平素から目を掛けていたわけではなく、兵も訓練されていません。しかし董卓は兵力を頼んで道義を無視しており、彼の天下は長くは持たないでしょう。協力者を集め時期を待つべきです」とたしなめた。張承はもっともだと思い、官を辞すと兄弟は揚州へ避難した。(『張範伝』)

後に二人の兄は魏の重臣となりともに列伝されたが、張昭の事績はこれっきり途絶えてしまう。張承をたしなめた弁舌は見事だったが、早逝してしまったのだろうか。

余談だが呉の重臣の張昭の子も張承であり、紛らわしい。



張紹  張飛の後継ぎの次男


張紹(ちょうしょう)字は不明
幽州涿郡の人(??~??)

蜀・晋の臣。
張飛の次男。
張皇后(いわゆる星彩)の兄弟。

221年、父が没すると長兄の張苞(ちょうほう)は早逝していたため後を継いだ。
侍中・尚書僕射まで上った。(『張飛伝』)

263年、魏軍が成都へ迫ると譙周(しょうしゅう)・鄧良(とうりょう)とともに降伏の使者を務めた。
264年、劉禅とともに洛陽へ移住させられ、樊建(はんけん)・張紹・譙周・郤正(げきせい)・張通(ちょうつう)ら(同行した重臣)は列侯された。(『後主伝』)

「演義」でも同様の事績が描かれるが、張苞の子で蜀滅亡の際に戦死した張遵(ちょうじゅん)は意図的にか、張飛の孫と記されない。



張敞  韓濊を討伐した公孫康配下B


張敞(ちょうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫康(こうそんこう)の臣。

後漢末(147~189)に掛けて韓濊の力が盛んになり、(統治する)楽浪郡では制しきれず、多くの民が韓へ移住した。
建安年間(196~220)、遼東太守の公孫康は帯方郡を設置し、公孫模(こうそんも)・張敞を送って移住民を結集させ、韓濊を討伐した。それにより韓から少しずつ民が中華へ戻り、以後は帯方郡が倭・韓を統治した。(『東夷伝』)



張翔  許靖の説得に失敗


張翔(ちょうしょう)字は元鳳(げんほう)
冀州鉅鹿郡の人(??~??)

魏の臣。

戦乱を避け交州に疎開していた袁徽(えんき)は、荀彧へ手紙を送り、同じく疎開していた許靖(きょせい)の智略と慈悲を称賛した。
曹操は張翔を派遣して強引に登用しようとしたが、許靖は拒絶し、曹操へ断りの手紙を書いた。根に持った張翔はそれを奪い、全て川に投げ捨てた。
許靖は後に益州へ移住した。(『許靖伝』)



張譲  宮中に巣食う妖怪


個別ページへ



張式  令狐愚と曹彪の連絡係


張式(ちょうしょく)字は不明
出身地不明(??~251)

魏の臣。

都督の王淩(おうりょう)は甥で兗州刺史の令狐愚(れいこぐ)と結託し、曹芳を帝位から退け曹彪(そうひょう)を擁立する計画を立てた。

249年9月、令狐愚は将軍の張式を送り、曹彪と連絡を取り合った。
だが同年11月、またも張式を送ったところ、帰還前に令狐愚は病死した。

251年、王淩は単独でも計画を実行しようとしたが、密告により逮捕され、自害した。
張式らも自首して処分された。「連座した者は三族まで処刑された」とあり、処刑されたのだろう。(『王淩伝』)



張璋  呉匡の相方


張璋(ちょうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

何進(かしん)の配下。

189年、大将軍の何進は対立する宦官によって暗殺された。
配下の呉匡(ごきょう)・張璋は日頃から目を掛けられており、報復のため残党を率い宮中に突撃した。
城門が閉鎖されていたが、袁術の兵も加わり門を破り、宦官を皆殺しにした。(『後漢書 何進伝』)



張任  三国一の忠義者


個別ページへ



張津  袁紹の食客


張津(ちょうしん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の食客。

「続漢書」に曰く。
袁紹は大将軍の何進(かしん)へ食客の張津を差し向け「宦官が朝廷を牛耳り、董太后(とうたいこう)とも結託しているから四海の人々のために害毒を除きましょう」と進言し、何進も同意した。(『袁紹伝』)



張津  殺された交州刺史


張津(ちょうしん)字は子雲(しうん)
荊州南陽郡の人(??~??)

後漢の臣。

交州刺史の朱符(しゅふ)が私腹を肥やした末に没すると、後任の刺史として赴任した。(『薛綜伝』)

交州へ疎開していた許靖(きょせい)は曹操に招聘されたが断り、その手紙の中で「張津は都にいた頃、漢王室を助けようと願っていました。今は最果ての地にいますが、いまだ天子を支える、外地にいる味方です。南方が平定されたら保護の手を差し伸べてください」と記した。(『許靖伝』)

200年、官渡の戦いで袁紹を破った後、夏侯惇は石威則(せきいそく)へ手紙を送り、その中で「張津に零陵・桂陽郡を治めさせる」と記した。

201年にはまだ在任していた。(『孫策伝』)

だが張津は隣接する荊州牧の劉表(りゅうひょう)と争い、勝ち目もないのに年ごと出兵したため兵は反発した。それを引き締めようとしたところ殺された。(『薛綜伝』)

殺害したのは配下の区景(おうけい)である。(『士燮伝』)

「江表伝」には怪しげな道術を教化したため異民族に殺されたと記されるが、「志林」と裴松之に時系列の矛盾を指摘され、でたらめと断じられている。(『孫策伝』)

「演義」ではその怪しげな道術を教化したため殺された逸話が採用されてしまった。



張進  張掖郡で反乱した賊徒


張進(ちょうしん)字は不明
涼州張掖郡の人(??~??)

賊徒。

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。(『倉慈伝』)

太守の馬艾(ばがい)の死後、丞(副官)すらいなくなり、郡民は学問があり品行高い、功曹の張恭(ちょうきょう)を長史代行として統治させていた。
張恭は子の張就(ちょうしゅう)を曹操のもとへ派遣し新太守の任命を要請した。
豪族の黄華(こうか)が酒泉郡を、張進が張掖郡を占拠しており、帰途の張就を捕らえると、父に敦煌郡を明け渡すよう脅した。
張就はひるまず、密かに父へ手紙を送り、魏の大軍が迫っていることを教え、故事を引き自分の命など顧みないよう訴えた。

張恭は従弟の張華(ちょうか)に酒泉郡を攻撃させ、赴任してきた新太守の尹奉(いんほう)の軍を出迎えた。
黄華は降伏し、張就も無事で、尹奉も着任できた。(『閻温伝』)

だが尹奉も旧習に従うだけで、敦煌郡にのさばる豪族には手出しできなかった。
その後、倉慈(そうじ)が太守に赴任すると、道理に沿って強きをくじき弱きを助け復興を遂げた。(『倉慈伝』)

220年、曹操が没すると西平郡の麴演(きくえん)が二度にわたり反乱した。
張進・黄華も呼応し、張進は太守の杜通(とつう)を捕らえ、太守を名乗った。(『蘇則伝』)

雍州・涼州の豪族が揃って反乱し大勢力となり、毌丘興(かんきゅうこう)は前に麴演を討伐した金城太守の蘇則(そそく)に救援を求めた。
蘇則は金城に駐屯する郝昭(かくしょう)・魏平(ぎへい)と合流し、速攻を仕掛けた。騙し討ちしようとした麴演を逆に騙して処刑し、張進を討ち取り、黄華を降伏させた。(『蘇則伝』)

なお「張既伝」には、張進は涼州刺史の鄒岐(すうき)を着任させず、黄華・麴演がそれに呼応したとあり、反乱の首謀者に読める。(『張既伝』)

「毌丘倹伝」にも、張既の上奏に「黄華と張進が反乱を企て」とある。(『毌丘倹伝』)

「曹真伝」にも、酒泉郡で張進らが反乱し、費曜(ひよう)を派遣して斬ったとある。(曹真伝』)

張恭の討伐は麴演の反乱の際の出来事なのかはっきりしないが、いちおう別件と判断した。



張震  張承の子


張震(ちょうしん)字は不明
徐州彭城郡の人(??~253)

呉の臣。
張承(ちょうしょう)の子。

244年に父が没すると後を継いだ。(『張昭伝』)

だが翌年に叔父の張休(ちょうきゅう)が二宮の変に巻き込まれ自害を命じられ、253年に張震も縁戚の諸葛恪(しょかつかく)とともに誅殺され、呉から一族の名は消えた。
殺された時の役職は都郷侯と記される。(『張昭伝』・『諸葛恪伝』)

東晋の時代に祖父の張昭(ちょうしょう)の曾孫を名乗る張闓(ちょうがい)が現れるが、血縁は不明である。



張震


未作成



張世  孫権とのコンビネーション


張世(ちょうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

孫権の臣。

218年、孫権が自ら虎狩りを行っていると馬を傷つけられた。孫権は双戟を投げてひるませ、従者の張世が戈を打ち込み捕らえた。(『呉主伝』)

ちなみにこの年の孫権の事績はこれしか書かれていない。



張世平  劉備に先行投資


個別ページへ



張政  倭に長期滞在?


張政(ちょうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

247年、倭の女王・卑弥呼は不和だった卑弥弓呼(ひみここ)と戦闘になり、載斯烏越(そしあお)を帯方太守の王頎(おうき)のもとへ派遣しそれを報告させた。
王頎は塞曹掾史の張政を遣わせて卑弥呼と卑弥弓呼の戦を調停させた。
また道すがら、難升米(なそめ)に前年に下賜された詔勅と旗指し物を届けた。

卑弥呼が没すると男王が立ったが国情は不安定となり、代わって卑弥呼の一族の娘である壱与(いよ)が女王となり、ようやく落ち着いた。張政はその際に壱与に指導を与えた。
壱与は重臣の掖邪狗(ややこ)に命じ張政を国許まで送り届けさせ、さらに魏の都へと朝貢させた。(『東夷伝』)

「晋書 武帝紀」に記された266年の倭の使者の来訪がこの時のことだとし、張政は20年近く倭に滞在していたとする説もある。(『晋書 武帝紀』)



張晟  河内郡の賊徒


張晟(ちょうせい)字は不明
司隸河内郡の人(??~202?)

河内郡の賊徒。

1万の軍勢を集め、誰にも従属せず周辺を荒らし回った。
河東郡の衛固(えいこ)、弘農郡の張琰(ちょうえん)も呼応して反乱したが、鍾繇(しょうよう)・張既(ちょうき)らによって討伐された。(『張既伝』)

「杜畿伝」に詳細が記される。
衛固は河東太守の交代に反対すると称して妨害工作をしていたが、裏では袁紹の甥の高幹(こうかん)と結託していた。曹操はそれを見抜き「張晟は荊州牧の劉表(りゅうひょう)ともつながっていて、衛固は奴を頼りにしている」と言い、鎮圧できる人材を尋ね、荀彧は杜畿(とき)を河東太守に推薦した。

着任した杜畿は衛固に面従腹背し、密かに勢力を弱体化させ、高幹・張晟が再び攻め寄せた時、衛固は兵を集められなかった。
杜畿はすでに官民の支持を得たことを知っていたため数十騎で迎撃に出て、数十日で4千の兵を集めた。衛固・高幹に攻撃されたが防ぎ切り、(夏侯惇の)討伐軍が到着して高幹・張晟を撃破し、衛固は処刑された。残党は赦免された。(『杜畿伝』)

張琰・衛固は斬られたが張晟は消息不明である。



張済  張繍の叔父


個別ページへ



張靖


未作成



張赤  李通に敗れた桃山の賊徒


張赤(ちょうせき)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

(兗州泰山郡?)桃山に5千余家を集め割拠したが、汝南太守の李通(りつう)に撃破された。(『李通伝』)



張碩


未作成



張節


未作成



張宣  韓暹を討ち取る


張宣(ちょうせん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

献帝が曹操の庇護下に入ると韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)は朝廷になじめず出奔し、徐州・揚州で略奪を働いた。

「英雄記」に曰く。
劉備は楊奉を会見に誘い出して捕らえた。韓暹は并州へ逃亡したが豫州沛国杼秋県の守備隊長の張宣に殺された。(『董卓伝』)

「演義」では韓暹も同時に劉備に殺されるため登場しない。



張泉  張繍の子


張泉(ちょうせん)字は不明
涼州武威郡祖厲県の人(??~219)

魏の臣。
張繍(ちょうしゅう)の子。

207年、父が没すると後を継いだ。

219年、魏諷(ぎふう)の反乱に加担したため誅殺され、領地を没収された。(『張繍伝』)

この反乱には張泉ら多くの重臣の子弟が加担していた。



張臶  在野の神秘学者


張臶(ちょうせん)字は子明(しめい)
冀州鉅鹿郡の人(136~240)

隠者。
「管寧伝」に附伝される。

学問に長じ讖緯学(神秘学)と五経をともに修めた。
袁紹に招聘されたが応じず并州上党郡に移住すると、袁紹の甥で并州牧の高幹(こうかん)に県令に任じられたため、それも断り冀州常山郡に移った。彼を慕い数百人もの門弟が移住してきたという。

曹操の招聘も断り、広平郡に移住していた張臶は太和年間(227~232)にも災厄を除ける学者として推挙されたが、老齢を理由に断った。
広平太守の盧毓(ろいく)が着任すると、配下は挨拶に出向くよう勧めたが「張先生は上は天子に仕えず、下は諸侯を友にしない方だ。太守が挨拶に出向いても名誉を与えることにはならない」と言い、盧毓は手紙と贈り物だけを届けさせた。

236年、涼州張掖郡の川から神秘的で巨大な宝石が突如として現れた。諸臣は吉兆だと喜んだが、県令の于綽(うしゃく)から報告を聞いた張臶は、内密の話として「そもそも神の御業は未来を予告するもので、過去を暗示しない。瑞兆が現れ、その後に興廃が起こるのだ。既に漢は滅び、魏の時代になったのだから、この石は魏の誕生を祝うものではない。将来に起こることを暗示しているのだ」と語った。
はたしてこれは魏の滅亡と晋の誕生を予言するものだと後にわかった。

240年、張臶の家の門の陰にカッコウが巣を作った。「陽鳥のカッコウが陰に巣作りするのは凶兆である」と言い、張臶は琴を手にし2編の詩を作り、10日後に亡くなった。享年105。

同年、広平太守に着任した王粛(おうしゅく)は「都にも名の届いていた彼に会うのが楽しみだったが、その前に亡くなってしまった。彼は老齢になっても学問に励み、名誉を重んじなかった。家の門戸に表彰の言葉を記し、恩恵を与えよ」と命じた。(『張臶伝』)

陳寿は「張臶・胡昭(こしょう)は門を閉ざして閑静を保持し、現世の栄利にあくせくしなかった」と評した。

「演義」には登場しない。



張羨  劉表に反旗を翻した長沙太守


張羨(ちょうせん)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

後漢の臣。

「英雄記」に曰く。
零陵郡・桂陽郡の県長を務め一帯の民心を大きくつかんでいた。剛情で人に屈しない性格のため荊州牧の劉表(りゅうひょう)に軽んじられ礼遇されず、遺恨を抱いた。(『劉表伝』)

200年、官渡の戦いが始まると劉表は袁紹に味方した。桓階(かんかい)は長沙太守の張羨に「道義に基づかない行動は失敗します。袁紹に道義は無く、それに呼応した劉表は災難を招きます。あなたは道義を明らかにし災禍を免れたいと願うなら、劉表に同調してはいけません。対する曹操には道義があります。4郡と3江を保持して味方すべきです」と進言した。
張羨はそれに従い、長沙と隣3郡とともに劉表の傘下から離脱し、曹操によしみを通じた。(『桓階伝』)

劉表は張羨を包囲したが何年も陥落させられなかった。(『劉表伝』)

しかし官渡の戦いから続く袁紹勢力との戦いは長引き、抗戦中に張羨は病没した。長沙郡の人々は子の張懌(ちょうえき)を太守に立て抵抗を続けたがついに城は陥落し、零陵・桂陽も劉表の支配下に入った。(『劉表伝』・『桓階伝』)

桓階は劉表の招きを断り隠棲したが208年、劉表没後の荊州を制圧した曹操は、張羨の下での桓階の働きを知り丞相掾主簿とし、趙郡太守に任じた。(『桓階伝』)

なお「後漢書」には張羨の反乱は官渡の戦いより2年も前の198年のことで、それも簡単に鎮圧されたように記される。(『後漢書 劉表伝』)



張戩  誘拐された張範の甥


張戩(ちょうせん)字は不明
司隷河内郡修武県の人(??~??)

張承(ちょうしょう)の子。

張範(ちょうはん)の子の張陵(ちょうりょう)と、甥の張戩が山賊に捕らわれた。
張範はすぐさま交渉に向かい、山賊は張陵を解放した。だが張範は「息子を返してくれたのはかたじけないし、人情では我が子がかわいいが、張戩は幼くて不憫だ。張陵と交換してもらいたい」と申し出た。山賊は感動し二人とも返した。(『張範伝』)



張爽  劉備を皇帝に推挙した謎の重臣E


張爽(ちょうそう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に勧学従事として連名した。(『先主伝』)

連名した劉豹(りゅうひょう)・向挙(しょうきょ)・殷純(いんじゅん)・趙莋(ちょうさく)・張爽には他の事績がない。
こんな重要文書に連名する重臣の事績が残っていないことが、史官を置かなかった蜀の問題点を浮き彫りにしている。

「演義」にも名前のみ登場する。



張属  毌丘倹を射殺した民兵


張属(ちょうぞく)字は不明
出身地不明(??~??)

庶民。

255年、文欽(ぶんきん)とともに反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)は敗走し、弟の毌丘秀(かんきゅうしゅう)と孫の毌丘重(かんきゅうちょう)だけを連れて逃げたが、水辺の草に身を潜めていたところを安風津都尉配下の民兵の張属(ちょうぞく)に射殺された。
首は都へ送られ、張属は列侯された。
毌丘秀と毌丘重は呉へ亡命した。(『毌丘倹伝』)

「晋書 景帝紀」では「安風津都尉が殺した」と略される。(『晋書 景帝紀』)

「演義」では慎県令の宗白(そうはく)というオリキャラが殺したと謎アレンジをされてしまい登場しない。



張存  龐統をディスり劉備を激怒させる


張存(ちょうそん)字は処仁(しょじん)
荊州南陽郡の人(??~214?)

蜀の臣。

211年からの劉備の益州侵攻に荊州従事として随行した。
雒城に至ると広漢太守に任じられた。

だが214年、龐統が戦死すると、張存はもともと彼を評価していなかったため、嘆き悲しむ劉備に「龐統は忠義を尽くし惜しむべき人物ですが、君子の道には反していました」と言った。
劉備は「龐統は身を殺して仁を成し遂げた。それをいかんと言うのか」と激怒し、張存を免官した。

ほどなく病没した。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「計策を立てた」と評した。

陳寿は事績が残っていないため伝を立てなかったとその注に記した。(『楊戯伝』)



張多  揚州の賊徒たち


張多(ちょうた)字は不明
揚州の人?(??~??)

揚州の賊徒。

揚州では鄭宝(ていほう)・張多・許乾(きょけん)といった荒くれが跋扈した。
その中で鄭宝が最も大きな勢力を持っていたが、首領に担ごうとした劉曄(りゅうよう)に暗殺された。

劉曄は鄭宝の軍勢を手なづけたが、持て余して廬江太守の劉勲(りゅうくん)に引き渡した。張多・許乾の消息は不明だが、その際に従った可能性もある。
だが劉勲はせっかくもらった軍勢をすぐに孫策に奪われており、張多・許乾の行方はますますわからなくなった。(『劉曄伝』)



張泰  邴原以後で清潔賢明さで評判を上げる


張泰(ちょうたい)字は伯陽(はくよう)
冀州鉅鹿郡の人(??~??)

魏の臣。
張邈(ちょうばく ※曹操と戦ったのとは別人)の父。張貔(ちょうひ)の祖父。

邴原(へいげん)以後では張泰・龐迪(ほうてき)が清潔賢明さで評判を上げ、張閣(ちょうかく)が簡素質朴さで有名だった。
張泰は大鴻臚に上った。

「冀州記」に曰く。
魏代に名声があった。子の張邈は遼東太守に上り、孫の張貔は「自然好学論」の著述で知られた。(『邴原伝』)



張泰  杜夔の同郷の弟子B


張泰(ちょうたい)字は不明
司隷河南郡の人(??~??)

魏の臣。音楽家。

魏の音楽家の杜夔(とき)の弟子で、同郷の邵登(しょうとう)・張泰・桑馥(そうふく)はみな太楽丞まで上り、陳頏(ちんこう)は司律中郎将となった。(『杜夔伝』)



張達  張飛を殺して名を残す


個別ページへ



張達  魏の材官校尉の方


張達(ちょうたつ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

曹爽(そうそう)は実権を握ると材官校尉の張達に命じて他家の屋材を勝手に切り取ったり、私物を奪い私腹を肥やしたが、少府の王観(おうかん)は被害に遭った物の目録を作り、その全てを没収した。
少府は魏の蔵を管理していたため、曹爽は従わない王観をはばかり、太僕に転任させた。(『王観伝』)



張仲  陰脩に推挙された潁川郡の人A


張仲(ちょうちゅう)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

後漢の臣。

「謝承後漢書」に曰く。
陰脩(いんしゅう)は潁川太守に赴任すると賢人を顕彰し英俊を抜擢することに努力し、五官掾の張仲を方正に推挙し、鍾繇(しょうよう)、荀彧、張礼(ちょうれい)、杜祐(とゆう)、荀攸(じゅんゆう)、郭図(かくと)を見出して朝廷を光り輝かせた。(『鍾繇伝』)



張仲景  ありがとう、いいくすりです


個別ページへ



張忠  賄賂大好き董太后の甥


張忠(ちょうちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
霊帝の母の董太后(とうたいこう)の甥(姉の子)。

徐璆(じょきゅう)が荊州刺史に赴任した時、南陽太守の張忠は董太后の甥で、権勢を頼りに膨大な賄賂を取っていた。
董太后も徐璆へ甥をよろしくと頼んだが、「私は国家のためを思い従いません」と拒否された。
董太后は激怒し、張忠を司隷校尉に任じ、徐璆を脅させようとした。徐璆は赴任するや張忠の贈賄を摘発し、加担していた5つの郡太守を罪に服させ、威風を轟かせた。

184年、徐璆は朱儁(しゅしゅん)とともに南陽郡宛県の黄巾賊を撃破したが、張忠が宦官とともに讒言したため罪に問われた。武功により免職だけで済み、後に復帰し汝南太守や東海国相を務め治績を挙げた。(『後漢書 徐璆伝』)

189年、董太后は何太后(かたいこう)との政争に敗れ一族もろとも粛清された。張忠の消息は不明である。(『後漢書 皇后紀 下』)



張著  趙雲に救われる。以上


個別ページへ



張昶  草聖の弟


張昶(ちょうちょう)字は文舒(ぶんじょ)
涼州酒泉郡の人(??~??)

書家。
張芝(ちょうし)の弟。
司隷弘農郡に移り住んだため弘農の人とも書かれる。

兄の張芝は「草聖」とうたわれる高名な書家で、張昶も兄に次ぐ名手と言われた。
張芝は多くの弟子を取ったがいずれも張昶にすら及ばなかったという。(『劉劭伝』)



張超


未作成



張超  人生他人任せ


個別ページへ



張陟  崔林を抜擢させた并州刺史


張陟(ちょうちょく)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣?

壺関に遠征(※206年?)した際、曹操は付近の県令・県長の中で最も仁徳ある政治をする者は誰か問い、并州刺史の張陟は崔林(さいりん)と答えた。
崔林は抜擢され、魏書に列伝されるほどの人物となった。(『崔林伝』)

もともと壺関を居城にしていた高幹(こうかん)が并州刺史を務めていたが206年に戦死(『袁紹伝』)しており、張陟はその後任の刺史だろう。



張通  妻子を捨てて劉禅に随行する


張通(ちょうつう)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

蜀・晋の臣。

263年、蜀は魏に降伏した。
翌264年、鍾会が反乱した混乱により、劉禅はあわただしく洛陽へ移送されることになり、大臣の中では郤正と殿中督の張通だけが妻子を捨てて随行した。郤正の補佐により劉禅は落ち度なく振る舞えたため「郤正を認めるのが遅すぎた」と嘆息した。(『郤正伝』)

樊建(はんけん)・張紹(ちょうしょう)・譙周(しょうしゅう)・郤正・張通ら(同行した重臣)は列侯された。(『後主伝』)



張悌  最後の丞相


個別ページへ



張当  曹爽と結託した宦官


張当(ちょうとう)字は不明
出身地不明(??~249)

魏の宦官。

249年正月6日、司馬懿は決起して都を占拠し、専横をきわめていた曹爽(そうそう)一派を降伏させた。
10日、張当が逮捕され、曹爽一派と反乱を企てていたと供述したため、揃って処刑された。(『斉王紀』)

254年、李豊(りほう)は反乱を企み、蘇鑠(そしゃく)ら宦官を「諸君の不法行為を司馬師は問題にしている。張当が曹爽とともに殺されたことを思い出せ」と脅して一味に引き入れたが、あっさり計画は露見し一網打尽にされ、全員が殺された。(『夏侯尚伝』)

「曹真伝」にはもう少し詳しい経緯が記される。
曹爽は張当を都監(監督役)に任じ、天子を監視させた。
張当は曹爽へ自ら選んだ女官を献上した。朝廷は不正を疑い張当を逮捕したところ、曹爽一派と結託し3月に謀叛を起こそうと企んでいたため処刑された。(『曹真伝』)

と、たまたま別件で逮捕された張当が謀叛を白状したという、どう見ても司馬懿の策略にしか思えない経緯である。
李豊の脅迫も、張当は陰謀に利用されたと言わんばかりである。

「演義」では女官は亡き曹叡の妾に変更され、曹爽一派の非道さと傲慢さが強調された。また張当は本当に謀叛に関与している。



張登  2人の上官を助ける


張登(ちょうとう)字は不明
冀州趙郡の人(??~??)

魏の臣。

「王朗集」に曰く。
県主簿の時、黒山賊に郡を襲われた。張登は県長の王雋(おうしゅん)とともに72人を引き連れて救援したが、敗れて散り散りになり、王雋もほとんど殺されるところだったが、張登が自ら一人の賊と格闘して助けた。
その後、夏逸(かいつ)が冤罪になった時には自ら拷問を担当して事実を暴き、助けてやった。
大理の王朗(おうろう)はこの2人の上官を助けた功績を上奏したが、多忙にかまけて顕彰されなかった。
220年、曹丕の代に鍾繇(しょうよう)とともに改めて上奏すると「忠義は顕著であり職務に功労がある」として太官令(食膳長)に任命された。(『王朗伝』)



張統  張遼の孫


張統(ちょうとう)字は不明
并州雁門郡馬邑県の人(??~??)

魏の臣。
張虎(ちょうこ)の子。張遼の孫。

父が没すると後を継いだ。(『張遼伝』)

  ち1  ち2  ち3  ち4  ち5  ち6  ち7
て1  て2  と1  と2  と3