張承 破滅の未来を視る
張承(ちょうしょう)字は仲嗣(ちゅうし)
徐州彭城郡の人(178~244)
呉の臣。
張昭(ちょうしょう)の嫡子。
「張昭伝」に附伝される。
若くして才能と学問で知られ、後に呉の重鎮となる諸葛瑾(しょかつきん)・歩騭(ほしつ)・厳畯(げんしゅん)とは親友の間柄だった。
男らしく勇敢で真心を持ち、確かな人物鑑定眼で蔡款(さいかん)、謝景(しゃけい)ら若く身分も低い者を抜擢し、大成させた。
諸葛瑾の子の諸葛恪(しょかつかく)は幼い頃から、優れた才能を高く評価されていたが、張承は「結局、諸葛家を滅ぼすのは彼だ」とその末路を見抜いた。
絶えず自身を磨くことに努め、人々に厚い思いやりを注いだため、高い志を持つ者はみな張承のもとを訪れた。(『張承伝』)
(217年?)凌統が没すると、孫権は張承にその功績を称える文章を作らせた。(『凌統伝』)
219年、孫権が後漢の驃騎将軍に任じられると、招かれて西曹掾となった。
後に長沙西部都尉へ赴任し、山中の反乱勢力を討伐し、1万5千の精鋭を編成した。濡須都督・奮威将軍となり、都郷侯に封じられ、部曲5千人を預かった。(『張承伝』)
濡須都督の時、魯粛の子の魯淑(ろしゅく)が成人すると、必ずや自分の後を継ぎ前線を守るだろうと予言した。
魯淑は後に武昌督・夏口督を歴任し的中した。(『魯粛伝』)
妻を亡くすと、父の張昭は諸葛瑾の娘をめとるよう勧めた。諸葛瑾は親友で、義父にしては年齢も近いため(※張承は諸葛瑾の4歳下)渋っていると、それを聞いた孫権が口添えしてやり、妻に迎えた。娘が生まれると、孫権は子の孫和(そんか)の妃に迎えた。(『張承伝』)
234年、呉は三方から魏を攻め、孫韶(そんしょう)・張承は広陵から淮陰へ兵を進めた。
だが孫権の読みに反して曹叡が自ら迎撃に乗り出したため、全軍撤退した。(『呉主伝』)
236年、父の張昭が没すると、張承はすでに列侯されていたため、末弟の張休(ちょうきゅう)が爵位を継いだ。(『張昭伝』)
240年頃、80歳を超えなお現役の呂岱(りょたい)へ手紙を送り称賛した。(『呂岱伝』)
241年、太子の孫登(そんとう)は遺言で「張承らは国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている」と評した。(『孫登伝』)
244年、67歳で没し、定侯と諡された。子の張震(ちょうしん)が後を継いだ。(『張承伝』)
245年、張休は二宮の変に巻き込まれ自害を命じられ、250年、孫和は太子の座から廃された。(『張昭伝』・『孫和伝』)
253年、孫権没後に専権をふるった諸葛恪が誅殺されると、張震も巻き添えを食い、殺された。(『張承伝』)
陸機(りくき)は「弁亡論」で「諸葛瑾・張承・歩騭は教養高く、その名声によって国家に栄誉をもたらした」と記した。(『孫晧伝』)
陸機の兄の陸景(りくけい)の母は張承の娘で、その妻の祖母も張承の娘であり、陸景夫妻はともに張承の孫にあたる。(『陸遜伝』)
孫俊(そんしゅん)も張承の孫で高い名声を得たが、孫晧(※孫和の子で、張承は義祖父にあたる)に殺された。(『孫和伝』)
周昭(しゅうしょう)は「優れた人物は4つのことを避ける。意見を頑固に主張すること、名誉権勢を争うこと、党派を重視すること、性急に事を運ぶことの4つだ。現代でそれを実践しずば抜けているのは顧邵・諸葛瑾・歩騭・厳畯・張承である」と述べ「厳畯・張承は学問を修めたが、それは利益を求めるためではなかった」と評した。
さらに「諸葛瑾・歩騭・厳畯に名声は次ぎ、諸葛瑾・歩騭と同様に軍事に携わった。その政治手腕を見て功績を比較すれば、優劣の差も爵位の高低もある。だが張承は立場を十分に心得て、きっぱりした態度で自らのやり方を曖昧にせず、私欲を持たず、事に当たれば調子に乗ってやりすぎることはなかった。朝廷では常に礼に従い、何はばかること無く直言し、全ての行動が忠の心で貫かれていた。
弟の張休は高位にあったが、身を誤るのではないかと心配し、身分は低く関係もなかった蔡文至(さいぶんし)の有能さを人々に語り聞かせた。娘が太子(孫和)の妃となった時、(喜ぶどころか)あたかも弔問を受けるように浮かない様子だった。
意気に感じれば万難を排して事に赴き、ひたすら立派な人物を見出すことに心を砕き、物事の成否は全て予見通りとなった。彼こそは正道を守りつつも機を見逃さない、古を好むこと厚い人物である」と絶賛した。(『歩騭伝』)
厳畯・裴玄(はいげん)とともに管仲・季路について議論し、広く世間に伝わった。(『厳畯伝』)
陳寿は「張承と顧邵(こしょう)は己を虚しくすることのできる人格者で、有為の人物を見出すことに心を注いだ」と評した。
「演義」には234年の進軍の場面にしか登場しない。
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