張氏 鍾会の教育ママ
張氏(ちょうし)字は昌蒲(しょうほ) 涼州太原郡茲氏県の人(199~257)
鍾繇(しょうよう)の側室。鍾会の母。
名は不明。
鍾会の記した伝記に曰く。 代々の2千石(刺史・太守クラス)の名家の出で、若くして両親を亡くし鍾繇に嫁いだ。
身を修め行いを正し、礼を重んじたため身分を問わず上下の者から称えられた。
側室の孫氏(そんし ※実際には正室)は正室に代わって家事を取り仕切り、賢明な張氏を嫌い遠慮なく悪口を言った。孫氏は口が達者で濡れ衣を着せるのが得意だったが、張氏は陥れられなかった。
張氏が身ごもるといよいよ嫉妬し、食事に毒を混ぜた。誰の仕業か気付いたがなぜ黙っているのか聞かれた張氏は「正室と側室が傷つけ合うのは古来より戒められています。公(鍾繇)に訴えてたとえ信じてもらえても、証拠はありません。しかし孫氏は私が訴えると考え、先手を打って公に話すでしょう。自ら罪を暴くとは痛快ではないですか」と答えた。
はたして孫氏は「張氏が男子を欲しがっていたので、男子をもうける薬を飲ませただけです」と弁解したが、鍾繇は「こっそり食事に混ぜるのは人情から外れている」と言い、協力者を尋問し白状させ、孫氏を離縁した。鍾繇もなぜ訴えなかったのかいぶかり、先の張氏の言葉を聞くと驚き、ますます賢明だと思った。
225年に鍾会が生まれ、いよいよ寵愛は増した。
「魏氏春秋」に曰く。
張氏を寵愛した鍾繇は正室を離縁した。卞太后(べんたいこう)が取りなしてやり、曹丕は復縁を詔勅で命じたが、鍾繇は憤激して自害しようと思い、鴆毒(猛毒)を求めたが見つからず、代わりに山椒を(大量に)食べて口が利けなくなり、曹丕は勅命を取り下げた。
以下、鍾会の記した伝記に曰く。
張氏は謹厳かつ教育熱心で、鍾会は4歳から学問を授けられ、15歳で太学に入った。鍾会に「学問は広く手を出すと嫌気が差し、怠け心が生じます。私はそれを心配し少しずつ様々な学問を授けたのです。これからはお前が一人で勉強しなければいけません」とさとした。
張氏は読書家で特に「易」と「老子」を好み、「孔子が説いた謙虚と慎重に従えば君子になれます」と教えた。
247年、鍾会が尚書郎に任じられると手を握り「若くして出世し満足感があるでしょうが、そこに落とし穴があります」と戒めた。当時、曹爽(そうそう)が専権を振るい毎日酒宴を開いていた。参加した兄の鍾毓(しょういく)がそれを話すと、張氏は「さぞ楽しいでしょうが、上の地位にあって驕らず節度を保たねば災難を避けられません。身の程をわきまえない曹爽の贅沢ぶりでは長く富貴を保てません」と言った。
249年、曹爽が曹芳を連れて曹叡の墓に詣でた隙に、司馬懿が挙兵した。重臣の夫人らが動揺する中、張氏は泰然としており「鍾会は帝(曹芳)に同行しているのに心配ではないのか」と尋ねられ「曹爽の贅沢ぶりに私は不安を感じていました。太傅(司馬懿)に国を危うくするつもりはなく、曹爽を討つために挙兵しただけです。鍾会は帝のそばにおりなんの心配がありましょう。それに太傅は(城攻めの?)大型兵器を用意しておらず、戦も長くならないでしょう」と言った。
予見した通りになり、人々は明察ぶりを称えた。
私(鍾会)は10余年にわたり国の機密に携わり政治の中心を担った。張氏は故事を引き「お前は心の持ち方が正しいから大丈夫だとは思いますが、ひたすら正しい意志をつちかって時代を教化し、先祖を辱めないようにしなければいけません」と戒めた。
また常日頃から「人間は自然に徳性を身に着けられません。たゆまず努力し、身分の低い人に対しても言葉に責任を持ち、物のやりとりはけじめを付けなさい」と言い、ある人に「それは小事ではないか」と問われると「君子は小さなことを積み重ねて高大さに達するのです。小さな善を役立たないと行わないのは小人物の態度です。要領だけ良くして大きな結果を得ようとするのを私は好みません」と答えた。
私は幼い頃から青か紺の(質素な)衣服しか与えられず、張氏は自ら家事に携わり、自然と慎み深くつつましさをわきまえ、利益を目にしても道義を考え、財物を前にしても必ず一歩譲った。私は功績により数百万の褒賞を得たが(張氏へ献上したが)母は全て公務に用いた。
257年、急病により59歳で没した。 曹髦は直筆の詔勅で悼み、司馬昭に命じて手厚い香典と葬儀に必要な物を全て支給させた。
論者は張氏は立派な人物であり、故事を引き妾ではなく命婦と呼ぶべきだとした。葬儀も古例にのっとり行われた。
「魏書」に曰く。
同年、諸葛誕が司空に任じられると、鍾会は諸葛誕が必ず反乱すると読み、服喪を切り上げて司馬昭へ具申した。読みは当たり、討伐軍にも従軍した。(『鍾会伝』)
「ちくま版」の訳者は、正室の孫氏が側室と記されるなど、張氏を美化するためかなりいいかげんなことが書かれていると指摘する。
また自ら母の伝記を記すほどのマザコンぶりが理由かはわからないが、鍾会は生涯未婚だった。
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