三国志 ち 2


張夔


未作成



張顗  袁紹(地味)四天王B


張顗(ちょうぎ)字は不明
出身地不明(??~??)

袁尚(えんしょう)の臣。

204年、曹操に本拠地の鄴を包囲された袁尚は、自陣も包囲されかかると降伏を申し入れたが拒否された。
袁尚は夜間に逃走したが追撃を受け、配下の馬延(ばえん)・張顗が戦わずして降伏したため総崩れとなった。(『武帝紀』)

「演義」では大幅に出番が増え、同じ降将の馬延・焦触(しょうしょく)・張南(ちょうなん)と地味な四天王のようにセットで行動する。
長坂の戦いでは4人がかりで趙雲を襲うが敗北し、赤壁の戦いで馬延とともに甘寧に討たれた。

「柴錬三国志」では4人まとめて趙雲に殺されたように書かれるが、その後も平然と登場する。



張吉  公孫瓚に寝返ろうとした賊の斥候


張吉(ちょうきつ)字は不明
冀州安平郡の人(??~??)

袁紹の臣。

191年、界橋の戦いに際し、鉅鹿太守の李邵(りしょう)らは袁紹が敗れると考え公孫瓚(こうそんさん)方につこうとした。
袁紹はそれを聞き董昭(とうしょう)に鉅鹿郡を治めさせ、方策を尋ねた。董昭は「一人の力では多数の企みを消せません。反乱者に同調したふりで心を引きつけ、内情をつかんでから適切な処置をするだけです。今は何も言えません」と答えた。
董昭は赴任すると豪族の孫伉(そんこう)が反乱の中心人物だと突き止め、袁紹の命令と偽り「賊の斥候の張吉を捕らえ、彼は孫伉らと同調していると吐いた。すぐに処刑せよ。妻子は連座させるな」と言い、孫伉ら首謀者数十人を殺した。郡は震え上がり、反乱は未然に防がれ袁紹は見事と称えた。(『董昭伝』)



張牛角  黒山賊の初代頭目


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張休  讒言に斃れる


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張休  毌丘倹・文欽と結託した反乱者C


張休(ちょうきゅう)字は不明
出身地不明(??~251?)

魏の臣。

毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)らの上奏に曰く。
255年、毌丘倹・文欽は安豊護軍の鄭翼(ていよく)、廬江護軍の呂宣(りょせん)、廬江太守の張休、淮南太守の丁尊(ていそん)、督守合肥護軍の王休(おうきゅう)らと結託し反乱した。(『毌丘倹伝』)

鄭翼・呂宣・張休・丁尊・王休の5人には他の事績がない。「各人累代に渡って(魏に)御恩をお受けし」とあり、あるいは著名な臣下の子弟だろうか。
最期は敗死した毌丘倹か、呉へ亡命した文欽と運命をともにしたのだろう。



張休  王謀ほどの人物はとてもとても


張休(ちょうきゅう)字は不明
益州漢嘉郡の人(??~??)

蜀の臣。

大将軍の蔣琬(しょうえん)は張休に「君の郡には王謀(おうぼう)がいたが、今は誰が後を継いだのか」と尋ねると、張休は「王謀ほどの人物の後継者は州で探してもいません。私の郡ではとてもとても」と首を振った。(『楊戯伝』)

「ちくま版」索引では街亭の戦いで処刑された張休と同一人物にしているが、蔣琬の官位からして明らかに別人である。

余談だが張休という人物は魏・呉にも存在し、三国全てに同姓同名の人物が正史に載っているのは張休だけである。



張休  馬謖とともに処刑された将軍A


張休(ちょうきゅう)字は不明
出身地不明(??~228)

蜀の臣。

228年、街亭の戦いに敗れた馬謖(ばしょく)は、配下の将軍の張休・李盛(りせい)とともに処刑された。(『王平伝』)

「ちくま版」索引では蔣琬(しょうえん)に王謀(おうぼう)の後継者を尋ねられた張休と同一人物にしているが、蔣琬の官位からして明らかに別人である。

余談だが張休という人物は魏・呉にも存在し、三国全てに同姓同名の人物が正史に載っているのは張休だけである。



張挙  劉虞に討伐された自称天子


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張恭  敦煌太守を代行し守り抜く


張恭(ちょうきょう)字は不明
涼州敦煌郡の人(??~??)

魏の臣。
「閻温伝」に附伝される。

涼州刺史の張既(ちょうき)が招聘した人物の一人で、みな名声と地位を得たと記される。(『張既伝』)

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。(『倉慈伝』)

太守の馬艾(ばがい)の死後、丞(副官)すらいなくなり、郡民は学問があり品行高い、功曹の張恭を長史代行として統治させていた。
張恭は子の張就(ちょうしゅう)を曹操のもとへ派遣し新太守の任命を要請した。
豪族の黄華(こうか)が酒泉郡を、張進(ちょうしん)が張掖郡を占拠しており、帰途の張就を捕らえると、父に敦煌郡を明け渡すよう脅した。
張就はひるまず、密かに父へ手紙を送り、魏の大軍が迫っていることを教え、自分の命など顧みないよう訴えた。
張恭は従弟の張華(ちょうか)に酒泉郡を攻撃させ、赴任してきた新太守の尹奉(いんほう)の軍を出迎えた。
黄華は降伏し、張就も無事で、尹奉も着任できた。(『張恭伝』)

だが尹奉も旧習に従うだけで、敦煌郡にのさばる豪族には手出しできなかった。
その後、倉慈(そうじ)が太守に赴任すると、道理に沿って強きをくじき弱きを助け復興を遂げた。(『倉慈伝』)

221年、曹丕は張恭を称揚し関内侯に封じ、西域戊己校尉に任じた。

数年後、朝廷に召し返し、近侍の官位を授け、張就と交代させようとした。
だが張恭は重病を理由に辞退した。

太和年間(227~232)に没し、執金吾を追贈された。
張就は後に金城太守に上り、父子ともに西州で名声高かった。

孫の張斅(ちょうがく)、曾孫の張固(ちょうこ)も高位に上った。(『張恭伝』)



張喬  張悌の甘さに付け込む


張喬(ちょうきょう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

280年、晋の大軍が呉へ侵攻した。王渾(おうこん)は陳慎(ちんしん)・張喬に尋陽郡瀬郷を攻めさせ、さらに呉の孔忠(こうちゅう)を撃破し、周興(しゅうこう)ら五将を捕虜にした。(『晋書 王渾伝』)

呉の丞相の張悌(ちょうてい)、沈瑩(しんえい)、孫震(そんしん)らは3万の兵を率い長江を渡って迎撃した。
城陽都尉の張喬は7千の兵で揚荷橋を守っていたが降伏を申し出た。諸葛靚(しょかつせい)は無視して殲滅すべきだと進言したが、張悌は「強敵が前方に控えており、小勢にかかずらっている場合ではない。それに降伏してきた者を殺すのは不祥だ」と却下した。
諸葛靚はなおも「こいつらは援軍が来ないからひとまず偽って降伏しただけで、本心ではありません。戦意を失っている今のうちに全員生き埋めにすべきで、捨て置けば後の災いとなります」と反対したが、張悌は聞き入れなかった。
結局、呉軍が不利に陥ると張喬はその背後を襲い、張悌・孫震・沈瑩らは捕らえられた。(『孫晧伝』)

三人は処刑された。(『孫賁伝』)



張嶷  侍


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張君  衛継を養子にとるが法に阻まれる


張君(ちょうくん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。
君は名ではなく敬称か。

厳道県長を務めた。
衛継(えいけい)ら功曹の息子たちが役所の庭で遊んでいると、張君は子供が無かったため喜び、衛継の父に命じてたびたび連れてこさせ、非常にかわいがった。
やがて衛継を養子にもらいたいと申し出て、父もすぐに承知した。

衛継は早熟で鋭い頭脳と広い学識を有し、州や郡に出仕しエリートコースを歩んだ。
他の4兄弟に世間に通用する才能は無く、父は自分の家は衰え、張君の家は栄えるだろうと言った。
だが異姓の者を後継ぎにするのを禁止する法が制定され、衛継は元の家に戻った。

衛継は奉車都尉、大尚書に上った。(『楊戯伝』)



張羣  遼東から決死の脱出に成功した呉臣B


張羣(ちょうぐん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「呉書」に曰く。
233年、孫権は遼東の公孫淵(こうそんえん)へ友好の使者を送った。
だが公孫淵は使者の張弥(ちょうび)・許晏(きょあん)を殺し兵や物資を奪おうと企て、随行していた配下らを各地へ分散して幽閉した。
中使の秦旦(しんたん)・張羣・杜徳(ととく)・黄彊(こうきょう)ら60人は玄菟郡に移され、民家に住み食事を提供された。
40日余り経ち、秦旦は「我々は使者の任も果たせず死んだも同然だ。太守の王賛(おうさん)には400ほどの兵しかなく、決起してこれを打ち破ればたとえ殺されても心残りはない。今よりはよほどマシだ」と挙兵を誘った。
8月19日夜に挙兵を決めたが、決起日の昼に部下の張松(ちょうしょう)が裏切り、挙兵を知った王賛は門を封鎖した。
秦旦らは城壁を乗り越え脱出したが、張羣は膝が腫れており、杜徳が肩を貸していたものの6~700里逃げた山中でついに倒れ伏した。仲間らは涙し、張羣は自分を見捨てて逃げるよう勧めたが、杜徳は「祖国から万里も離れた土地で生死を共にした仲間をどうして見捨てられるか」と自分は看病のため残ると決断した。杜徳は山菜や木の実を採ってしのぎ、秦旦・黄彊は数日後に高句麗にたどり着いた。
句麗王の位宮(いきゅう)は事情を聞くと喜んで兵を出し、張羣・杜徳を助け、4人を呉へ送り届けるとともに朝貢した。
孫権に目通りした秦旦らは感極まり、孫権は称えて4人を校尉に任じた。(『呉主伝』)



張勲  袁術軍の重鎮


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張京  ごもっともです曹丕様


張京(ちょうけい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「典論」に曰く。
荀彧(じゅんいく)が曹丕へ「あなたは左右どちらの手でも弓を射られるそうですが、それは難しい技術でしょう」と聞くと曹丕は「私がうなじや口の辺りから矢を放ち、上下の標的を狙う様を見たことがなかったか」と言い、荀彧を笑わせた。
さらに曹丕は「射的場は通路も標的の位置も決まっていて、それを百発百中でも至妙の技とは言えない。平原を駆けて獣や鳥にも百発百中なら素晴らしいことだ」と言い、居合わせた軍祭酒の張京は手を叩き「ごもっとも」と言った。(『文帝紀』)



張京  劉亀を告発して共倒れになった功曹


張京(ちょうけい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

曹叡の代の頃、狩猟に関する法は厳しく、宜陽県の典農都尉の劉亀(りゅうき)が天子の狩猟場を利用したことを、功曹(配下)の張京が密告した。
曹叡は張京の名を伏せて劉亀の処刑を命じたが、高柔(こうじゅう)は密告者の名を明かすよう求めた。曹叡は「廷尉は命令通りに処刑すればいい。私がでたらめに逮捕したとでも言うのか」と激怒したが、高柔は「廷尉は天下の公平を保つ要です。天子の喜怒で法を破壊できません」と厳しい態度で繰り返し求めた。曹叡もやがて非を認め名を明かすと、劉亀・張京を法に照らして処罰した。(『高柔伝』)



張烱  袁術に帝位僭称を決断させる


張烱(ちょうけい)字は不明
司隸河内郡の人(??~??)

袁術の臣?

197年、張烱の「天の意志を示す瑞祥が下った」という説を用い、袁術は帝位を僭称した。(『袁術伝』)

記述はこれだけで張烱は袁術の臣なのか、在野の学者か何かなのかもわからない。



張景  魯昔を追撃した従事


張景(ちょうけい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
217年、曹操は漢中を制圧すると騎督の魯昔(ろせき)を内地に留め、池陽に駐屯させて廬水方面を守らせた。
しかし魯昔は太原郡晋陽県に残した妻が恋しくなるとともに二度と帰れなくなるのではと恐れ、部下500騎を引き連れ出奔した。そして谷に部下を留めて単身で晋陽に入り妻を連れ出した。
州郡もようやく出奔に気づいたが、弓の名手の魯昔を恐れ、追撃に及び腰だった。そこで并州を治める梁習(りょうしゅう)は従事の張景に鮮卑から兵を募らせ後を追わせた。
魯昔は妻と二人乗りだったため移動に時間がかかり、部下と合流する前に鮮卑の兵に射殺された。
曹操は魯昔の出奔を聞くと大きな反乱を招くことを危惧したが、すぐに討伐した報告が入って大いに喜び、梁習が前後に渡り何度も策略を立てたことから関内侯に封じた。(『梁習伝』)



張玄  張紘の子


張玄(ちょうげん)字は不明
徐州広陵郡の人(??~??)

呉の臣。
張紘(ちょうこう)の子。
「張紘伝」に附伝される。

「江表伝」に曰く、清廉に己を保ち、行動は立派だったが才能は父に及ばなかった。

南郡太守、尚書などを歴任した。

子の張尚(ちょうしょう)は侍中に上ったが、孫晧の不興を買い殺された。(『張玄伝』)



張倹  八友・爆弾ゲーム


張倹(ちょうけん)字は元節(げんせつ)
兗州山陽郡高平県の人(??~??)

後漢の臣。

「漢末名士録」に曰く。
劉表(りゅうひょう)・陳翔(ちんしょう)・范滂(はんぼう)・孔昱(こういく)・苑康(えんこう ※范康とも記される)・張倹・檀敷(だんふ)・岑晊(しんしつ)ら8人は名高く「八友」と呼ばれた。(『劉表伝』)

「後漢書 党錮伝」は范滂を外し翟超(てきちょう)を入れ「八及」と記す。(『後漢書 党錮伝』)

「後漢書 劉表伝」には「八顧」と記されるが誤りだろう。(『後漢書 劉表伝』)

はじめ茂才に挙げられたが、刺史の人物を低く見たため病と称し断った。
165年、山陽太守の翟超の招きに応じ東部督郵となった。
中常侍の侯覧(こうらん)の家が郡内にあり(※東防県と記されるが存在しない)民を迫害していたため、侯覧とその母を弾劾した。握り潰され、仇敵となった。
同郷の朱並(しゅへい)は佞臣で張倹に忌み嫌われており、逆恨みした末に張倹と同郡の24人を讒言し逮捕させようとした。(※その中で張倹は「八俊」に数えられる。李膺(りよう)らの「八俊」とは別物)張倹は逃亡し、彼の名声品行を慕う名士に匿われた。(『後漢書 張倹伝』)

友人の孔褒(こうほう)を頼ろうとしたが留守で、16歳の弟の孔融(こうゆう)が応対した。張倹は年若い弟では頼れないと思い帰ろうとしたが、逼迫した様子を察した孔融は「私では一家の主として不足でしょうか」と言い匿った。
後に張倹を逃がし孔融・孔褒は投獄された。孔融は「匿ったのは私である」と言い、孔褒は「張倹が助けを求めたのは私である」と兄弟は罪をかばい合った。意見を求められた母も「家長の私の罪だ」と言い、郡では裁定できず詔勅により孔褒が処刑された。
孔融の名はこれによって知れ渡り陶丘洪(とうきゅうこう)・辺譲(へんじょう)と名声を等しくした。(『後漢書 孔融伝』)

東萊郡の李篤(りとく)に匿われた時、追ってきた毛欽(もうきん)に詰問されたが、李篤は身を盾にしてかばい、郡外へ逃がした。
張倹をかばったため死罪となった者は十数人、その一族にも累が及び、これにより郡県は荒廃した。

184年、党錮の禁が解かれるとようやく帰郷し、大将軍・三公に招聘されたが全て断った。
献帝の代になると万民は飢えに苦しんだが、張倹の家には財産が十分にあったため、全て分かち合い数百人を助けた。

建安年間(196~220)のはじめに衛尉となったが、(老齢で)立ち上がれなかった。
曹操が実権を握ると隠棲し、1年余りで没した。享年84。(『後漢書 張倹伝』)



張倹  梅敷の使者


張倹(ちょうけん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏→呉の臣?

220年、曹操が没すると魏の将の梅敷(ばいふ)は張倹を使者とし孫権に鞍替えを申し入れた。荊州南陽郡の5県の住民5千戸が鞍替えした。(『呉主伝』)

「襄陽記」に曰く。
夷王(異民族?)の梅敷ら三兄弟は柤中に郎党1万戸とともに立て籠もり、山岳地帯に居住した。(『朱然伝』)

228年に掛けて周魴(しゅうほう)は魏へ偽装投降を仕掛け、その手紙の中で「陸遜・潘璋(はんしょう)らが梅敷を討伐している」と述べた。(『周魴伝』)

記述からは梅敷は漢民族なのか異民族なのか、結局魏と呉のどちらについたのかもよくわからない。
魏から離れて柤中に移住し呉へよしみを通じたが、服従せず討伐されたのだろうか。



張権  13歳の荀攸に魂胆を見破られる


張権(ちょうけん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

荀攸(じゅんゆう)の祖父で広陵太守を務めた荀曇(じゅんたん)が没すると、下役だった張権が墓守をしたいと願い出た。13歳の荀攸は不審さを感じ、叔父の荀衢(じゅんく)に「彼は何か悪事を働いたのでは」と言った。荀衢も思い当たり調べさせると、はたして張権は人を殺して逃亡していた。
以来、荀衢は荀攸を高く買うようになった。(『荀攸伝』)



張儼  主君の名を辱めず


張儼(ちょうげん)字は子節(しせつ)
揚州呉郡呉県の人(??~266?)

呉の臣。

張純(ちょうじゅん)、朱異(しゅい)らとともに幼い頃から聡明で、朱拠(しゅきょ)は彼らを試そうと周囲の物で賦を作らせた。張儼は犬を賦い褒められた。(『朱異伝』)

20歳そこそこで名を知られ、重職を歴任し、博学で多くのことに通じていたため大鴻臚に任じられた。

266年、丁忠(ていちゅう)とともに晋へ友好の使者として赴く際、孫皓に激励されると「栄誉ある役目を賜り、古人のように主君の名を遠くまで輝かすことはできなくとも、武器を切っ先から根元まで磨き上げるように、主君を辱めない覚悟です」と述べた。
晋の朝廷では賈充(かじゅう)、裴秀(はいしゅう)、荀勗(じゅんきょく)らが彼をやり込めようと知識を試したが全く困らなかった。
敵ながら羊祜(ようこ)や何楨(かてい)と厚い友情を結んだ。

だが帰路に病没してしまった。(『孫皓伝』)



張呉  王基に偽装投降を見抜かれるC


張呉(ちょうご)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

261年、呉の鄧由(とうゆう)が内応を申し出て、王基(おうき)は進撃するよう命じられたが、疑念を抱き応じないよう進言し、司馬昭もそれに従った。結局、内応しなかった。

「戦略」に詳細が記される。
襄陽太守の胡烈(これつ)は「呉の鄧由・李光(りこう)が内応を申し出て、将の張呉・鄧生(とうせい)らとともに人質を送ってきました。期日を決めて進撃し協力して呉の屯営を落としたいと存じます」と上奏した。
司馬昭は王基・胡烈に1万の兵を与え許可しようとしたが、王基は地勢を分析し「道は狭く伏兵に襲われればひとたまりもありません。曹爽(そうそう)が蜀を、姜維が魏を攻め、文欽(ぶんきん)が反乱したが全て失敗しました。これらは戒めとすべき最近の出来事です。反乱が相次ぐ今は内を安定させるべきで、外に利益を求めるべきではありません」と反対した。何度も文書をもらい司馬昭も疑念を生じ、進軍を止めさせた。
はたして鄧由らは内応しなかった。(『王基伝』)



張固  孫狼に反乱される


張固(ちょうこ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

218年、陸渾県長の張固は、命令を受けて徴兵し漢中へ送ろうとしたが、遠隔地への赴任を嫌がる人々を扇動し、孫狼(そんろう)が反乱した。
張固は十余人の部下を連れ、陸渾山で暮らす隠者の胡昭(こしょう)を頼り抵抗した。孫狼は関羽に服属し、なおも戦いを続けたが反乱軍は「胡先生の地域は侵犯するな」と誓い合ったため、一帯は被害を免れた。(『管寧伝』)



張固


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張虎  陳生の相方


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張虎  張遼の子


張虎(ちょうこ)字は不明
并州雁門郡馬邑県の人(??~??)

魏の臣。
張遼の子。

222年、父が没すると後を継いだ。
偏将軍まで上って没し、子の張統(ちょうとう)が後を継いだ。(『張遼伝』)

「演義」では楽進(がくしん)の子の楽綝(がくちん)とコンビを組み、諸葛亮の北伐軍と戦うが、捕縛されて顔に墨を塗られ裸で解放されたりとあまり活躍しない。



張護雄  張嶷の次男


張護雄(ちょうごゆう)字が護雄?
益州巴西郡宕渠県の人(??~??)

蜀の臣。
張嶷(ちょうぎょく)の次男。

254年、父が戦死すると兄の張瑛(ちょうえい)は西郷侯に封じられた。
弟の張護雄は父の爵位を継いだ。(『張嶷伝』)



張公子  弾棊の名手C


張公子(ちょうこうし)名は不明
出身地不明(??~??)

弾棊(おはじき)の名手。

「典論」に曰く。
曹丕は「私は弓・馬・剣以外の趣味は少ないが、弾棊は技術を極め、若い頃には賦も作った。
都で昔、馬合郷侯(ばごうきょうこう)・東方安世(とうほうあんせい)・張公子らが名手として知られたが、対戦できず残念だ」と語った。(『文帝紀』)



張弘  陳登の3人の弟を救出する


張弘(ちょうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

呂布の臣。

「先賢行状」に曰く。
曹操が呂布の籠城する下邳に迫り、陳登(ちんとう)が先陣を務めた。陳登の3人の弟が城内にいたため、呂布は人質に取り寝返りを促したが、陳登は無視した。
呂布の刺姦(検察官)を務める張弘は敗北を悟り、3人の弟を救出し陳登のもとへ逃げた。(『呂布伝』)



張泓


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張皇后  曹芳の二番目の皇后


張皇后(ちょうこうごう)名は不明
司隸左馮翊高陵県の人(??~??)

曹芳の二番目の皇后。
張緝(ちょうしゅう)と向氏(しょうし)の娘。張既(ちょうき)の孫。

「王沈魏書」に曰く。
251年、曹芳は甄皇后(しんこうごう)を亡くすと、寵愛する王貴人(おうきじん)を立后しようとしたが、郭太后(かくたいこう)の反対により、やむなく翌252年に張皇后を立てた。
そのため両親ら一族が厚遇されたものの、張皇后は曹芳に冷遇された。

そして254年、父は同郷の親友の李豊(りほう)と、魏の重鎮の夏侯玄(かこうげん)とともに司馬師の暗殺を企むも、計画は露見し一網打尽にされた。
一族も連座し処刑され、娘の張皇后は廃位された。その後の消息は不明。(『斉王紀』)

「演義」では父の処刑とともに暗殺されている。



張皇后  劉禅の皇后(妹)


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張郃  臨機応変


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張剛  遼東への使者A


張剛(ちょうごう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

229年、校尉の張剛と管篤(かんとく)は使者として遼東へ赴いた。(『呉主伝』)

この前月に孫権は皇帝に即位しており、それに関連した使者だろうか。



張紘  孫権の片腕


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張衡


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張顥  張奉の弟


張顥(ちょうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
中常侍(宦官)の張奉(ちょうほう)の弟。

「傅子」に曰く、宦官のおかげで官位を得た張顥らは、金で官位を買った者よりなお悪い輩である。(『董卓伝』)

wiki等に張奉は張譲(ちょうじょう)の養子で、妻は何皇后(かこうごう)の妹だと記されるが、出典がまだ確認できないのでいったん保留する。



張参  誘拐されなかった張範の子


張参(ちょうさん)字は不明
司隷河内郡修武県の人(??~??)

魏の臣。
張範(ちょうはん)の子。

212年、父が没した。

220年、曹丕は帝位につくと、子の張参を郎中に任じた。(『張範伝』)
同時期に功臣の子弟で不遇な者を一斉に取り立てており、その一環だろうか。(『文帝紀』)



張瓚  劉虞に殉じた掾B


張瓚(ちょうさん)字は不明
出身地不明(??~193)

後漢の臣。

「英雄記」に曰く。
193年、劉虞(りゅうぐ)が公孫瓚(こうそんさん)に処刑される時、元の常山国相の孫瑾(そんきん)と掾の張逸(ちょういつ)・張瓚は忠義の心に燃えて駆けつけ、公孫瓚を罵倒しともに殺された。(『公孫瓚伝』)



張子謙


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張氏  甄姫の母


張氏(ちょうし)名は不明
冀州常山郡の人(??~227)

曹丕の皇后である甄姫の母。

甄逸(しんいつ)との間に甄豫(しんよ)ら8人の子に恵まれたが185年、末娘の甄姫が3歳の時に甄逸は没した。
次男の甄儼(しんげん)も196年に没すると、その妻の劉氏(りゅうし)に甄姫はかいがいしく仕えた。
張氏は厳しい性格で、嫁たちには同じ態度を取ったが、甄姫が「義姉(劉氏)は操を立てて他家に再嫁せず、遺児を養育しています。嫁ではなく娘のように思ってください」と願い出たため、張氏は感動し、甄姫と劉氏を一緒に暮らさせ、二人は実の姉妹のように仲睦まじくなった。

227年4月に没した。孫にあたる二代皇帝の曹叡(そうえい)が葬儀を催し、百官も列した。
236年、安喜君の位を追贈された。(『甄皇后伝』)



張氏


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張氏  鍾会の教育ママ


張氏(ちょうし)字は昌蒲(しょうほ)
涼州太原郡茲氏県の人(199~257)

鍾繇(しょうよう)の側室。鍾会の母。
名は不明。

鍾会の記した伝記に曰く。
代々の2千石(刺史・太守クラス)の名家の出で、若くして両親を亡くし鍾繇に嫁いだ。
身を修め行いを正し、礼を重んじたため身分を問わず上下の者から称えられた。
側室の孫氏(そんし ※実際には正室)は正室に代わって家事を取り仕切り、賢明な張氏を嫌い遠慮なく悪口を言った。孫氏は口が達者で濡れ衣を着せるのが得意だったが、張氏は陥れられなかった。
張氏が身ごもるといよいよ嫉妬し、食事に毒を混ぜた。誰の仕業か気付いたがなぜ黙っているのか聞かれた張氏は「正室と側室が傷つけ合うのは古来より戒められています。公(鍾繇)に訴えてたとえ信じてもらえても、証拠はありません。しかし孫氏は私が訴えると考え、先手を打って公に話すでしょう。自ら罪を暴くとは痛快ではないですか」と答えた。
はたして孫氏は「張氏が男子を欲しがっていたので、男子をもうける薬を飲ませただけです」と弁解したが、鍾繇は「こっそり食事に混ぜるのは人情から外れている」と言い、協力者を尋問し白状させ、孫氏を離縁した。鍾繇もなぜ訴えなかったのかいぶかり、先の張氏の言葉を聞くと驚き、ますます賢明だと思った。
225年に鍾会が生まれ、いよいよ寵愛は増した。

「魏氏春秋」に曰く。
張氏を寵愛した鍾繇は正室を離縁した。卞太后(べんたいこう)が取りなしてやり、曹丕は復縁を詔勅で命じたが、鍾繇は憤激して自害しようと思い、鴆毒(猛毒)を求めたが見つからず、代わりに山椒を(大量に)食べて口が利けなくなり、曹丕は勅命を取り下げた。

以下、鍾会の記した伝記に曰く。
張氏は謹厳かつ教育熱心で、鍾会は4歳から学問を授けられ、15歳で太学に入った。鍾会に「学問は広く手を出すと嫌気が差し、怠け心が生じます。私はそれを心配し少しずつ様々な学問を授けたのです。これからはお前が一人で勉強しなければいけません」とさとした。
張氏は読書家で特に「易」と「老子」を好み、「孔子が説いた謙虚と慎重に従えば君子になれます」と教えた。

247年、鍾会が尚書郎に任じられると手を握り「若くして出世し満足感があるでしょうが、そこに落とし穴があります」と戒めた。当時、曹爽(そうそう)が専権を振るい毎日酒宴を開いていた。参加した兄の鍾毓(しょういく)がそれを話すと、張氏は「さぞ楽しいでしょうが、上の地位にあって驕らず節度を保たねば災難を避けられません。身の程をわきまえない曹爽の贅沢ぶりでは長く富貴を保てません」と言った。

249年、曹爽が曹芳を連れて曹叡の墓に詣でた隙に、司馬懿が挙兵した。重臣の夫人らが動揺する中、張氏は泰然としており「鍾会は帝(曹芳)に同行しているのに心配ではないのか」と尋ねられ「曹爽の贅沢ぶりに私は不安を感じていました。太傅(司馬懿)に国を危うくするつもりはなく、曹爽を討つために挙兵しただけです。鍾会は帝のそばにおりなんの心配がありましょう。それに太傅は(城攻めの?)大型兵器を用意しておらず、戦も長くならないでしょう」と言った。
予見した通りになり、人々は明察ぶりを称えた。

私(鍾会)は10余年にわたり国の機密に携わり政治の中心を担った。張氏は故事を引き「お前は心の持ち方が正しいから大丈夫だとは思いますが、ひたすら正しい意志をつちかって時代を教化し、先祖を辱めないようにしなければいけません」と戒めた。
また常日頃から「人間は自然に徳性を身に着けられません。たゆまず努力し、身分の低い人に対しても言葉に責任を持ち、物のやりとりはけじめを付けなさい」と言い、ある人に「それは小事ではないか」と問われると「君子は小さなことを積み重ねて高大さに達するのです。小さな善を役立たないと行わないのは小人物の態度です。要領だけ良くして大きな結果を得ようとするのを私は好みません」と答えた。
私は幼い頃から青か紺の(質素な)衣服しか与えられず、張氏は自ら家事に携わり、自然と慎み深くつつましさをわきまえ、利益を目にしても道義を考え、財物を前にしても必ず一歩譲った。私は功績により数百万の褒賞を得たが(張氏へ献上したが)母は全て公務に用いた。

257年、急病により59歳で没した。
曹髦は直筆の詔勅で悼み、司馬昭に命じて手厚い香典と葬儀に必要な物を全て支給させた。
論者は張氏は立派な人物であり、故事を引き妾ではなく命婦と呼ぶべきだとした。葬儀も古例にのっとり行われた。

「魏書」に曰く。
同年、諸葛誕が司空に任じられると、鍾会は諸葛誕が必ず反乱すると読み、服喪を切り上げて司馬昭へ具申した。読みは当たり、討伐軍にも従軍した。(『鍾会伝』)

「ちくま版」の訳者は、正室の孫氏が側室と記されるなど、張氏を美化するためかなりいいかげんなことが書かれていると指摘する。
また自ら母の伝記を記すほどのマザコンぶりが理由かはわからないが、鍾会は生涯未婚だった。



張氏


未作成



張氏  孫和の正室


張氏(ちょうし)名は不明
徐州琅邪郡の人(??~253)

孫和(そんか)の正室。
張承(ちょうしょう)の娘。
諸葛瑾(しょかつきん)と張昭(ちょうしょう)は祖父にあたる。

張承は妻に先立たれ、父の張昭に諸葛瑾の娘を後妻に勧められた。諸葛瑾は4歳上の親友であり難色を示したが、話を聞いた孫権が仲人を務め縁組が決まった。そうして張氏が生まれた。
後に孫和の妃となった時、張承は(喜ぶどころか)あたかも弔問を受けるように浮かない様子だった。(『張昭伝』)

242年、孫和は太子に立てられた。
異母姉の孫魯班(そんろはん)は母が立后されないまま亡くなったことから、孫和の母の王夫人(おうふじん)が皇后に立てられそうになると恨んだ。
ある時、孫権が病床に伏し、孫和が宗廟で祭祀を代行した。張氏のおじの張休(ちょうきゅう)が宗廟の近くに住んでおり、彼を家に招いた。すると孫魯班は「孫和と張休が密議を凝らし、王夫人は病を喜んでいます」と父に吹き込んだ。孫権はそれを信じて寵愛を薄れさせ、王夫人は心痛から没した。
孫和の心証も悪くなり、これを好機と太子の地位を望んだ孫覇(そんは)が暗躍し、二宮の変を起こした。

二宮の変の末に太子から外された孫和は252年正月、長沙へと追放された。
同年4月、孫権が没し、張氏のおじの諸葛恪(しょかつかく)が実権を握った。張氏が陳遷(ちんせん)を挨拶に向かわせると、諸葛恪は「間もなく彼らより優位に立てるとお伝え下さい」と言付けした。
これが世間に漏れ、諸葛恪が遷都を行おうと武昌を整備させていたことから、孫和を武昌に迎えようとしていると噂された。

翌253年、諸葛恪は専横により孫峻(そんしゅん)に暗殺された。
孫魯班(そんろはん)はかつて孫和の母を讒言し死に追いやったことから復讐を恐れ、新たに実権を握った孫峻をそそのかし、孫和を強制移住のうえ自害させた。
正室の張氏も夫に別れを告げられると「幸せも不幸もご一緒すべき身で、独り生き残ることなどいたしません」と同じく自害した。
側室の何姫(かき)が「全員が殉死したら誰が父無し子を養うのですか」と命乞いし、遺児を育てた。(『孫和伝』・『孫和何姫伝』)



張氏  孫皓の側室の左夫人


張氏(ちょうし)名は不明
出身地不明(??~??)

孫皓の側室の左夫人。
張布(ちょうふ)の上の娘。

張布は孫皓の不興を買い殺されたが、下の娘の張氏は美人(皇妃の位)として寵愛された。
ある時、孫皓が「お前の父親はどこにいる」とからかうと彼女は「悪人に殺されました」と答え、腹を立てた孫皓に殴り殺された。

その後、孫皓は彼女が懐かしくなり、そっくりな木像を作らせて側に置いた。それにも飽き足らず、姉妹がいなかったか調べさせた。姉が馮純(ふうじゅん)に嫁いでいるとわかると、奪って左夫人とし、一日中、彼女とベッドで過ごし朝政を顧みなくなった。

黄金で髪飾りやかつらを作らせ、それを着けた宮女に女相撲を取らせたため、朝に作った物が夕方には壊れ修理させた。工人たちはここぞと修理費を吹っ掛け国庫が空になった。
張氏が没すると、孫皓は嘆き悲しみ、巨大な塚に葬り、護衛として木像を作らせ、莫大な財宝を供えた。
孫皓は喪に服し半年も姿を見せなかった。そのため人々は孫皓の葬儀だったと思い、顔の似た甥が(影武者として)即位したと噂した。
奚熙(けいき)はこの噂を真に受けて挙兵したが討伐され、デマは下火になったが払拭までは行かず、人々は心中に疑いの念を残した。(『孫和何姫伝』)

これと良く似た話が別にある。
270年、孫皓は寵愛する左夫人の王氏(おうし)を亡くし、悲しみのあまり政務を放り出し数ヶ月の間、表に出なかった。
やがて孫皓の死亡説が流れ、孫権の五男の孫奮(そんふん)か、孫策の孫の孫奉(そんほう)が即位するという噂が流れた。(※「孫皓伝」では噂が流れたのは274年と記される)
張俊(ちょうしゅん)はそれを真に受け、孫奮の母の墓を掃除し恩を売ろうとした。
孫皓は噂を知ると激怒し、孫奮とその5人の子と孫奉を処刑し、張俊を車裂きにした。(『孫策伝』・『孫奮伝』)

王氏の逸話は陳寿の本伝にあり、張氏の逸話は注に引く「江表伝」にある。
王氏の位も張氏と同じ左夫人で、デマを真に受けた人物が殺される流れも一緒であり、物語としてよくできた張氏の逸話は、王氏を元ネタとした創作かもしれない。



張氏  孫皓の側室の美人


張氏(ちょうし)名は不明
出身地不明(??~??)

孫皓の側室の美人(皇妃の位)。
張布(ちょうふ)の下の娘。

張布は孫皓の不興を買い殺されたが、下の娘の張氏は側室として寵愛された。
ある時、孫皓が「お前の父親はどこにいる」とからかうと彼女は「悪人に殺されました」と答え、腹を立てた孫皓に殴り殺された。

その後、孫皓は彼女が懐かしくなり、そっくりな木像を作らせて側に置いた。それにも飽き足らず、姉妹がいなかったか調べさせた。姉が馮純(ふうじゅん)に嫁いでいるとわかると、奪って側室とし、一日中、彼女とベッドで過ごし朝政を顧みなくなった。

張氏が没すると、孫皓は喪に服し半年も姿を見せなかった。そのため人々は孫皓の葬儀だったと思い、顔の似た甥が(影武者として)即位したと噂した。
奚熙(けいき)はこの噂を真に受けて挙兵したが討伐され、デマは下火になったが払拭までは行かず、人々は心中に疑いの念を残した。(『孫和何姫伝』)



張芝  草聖


張芝(ちょうし)字は伯英(はくえい)
涼州酒泉郡の人(??~192)

後漢末の書家。
張昶(ちょうちょう)の兄。
司隷弘農郡に移り住んだため弘農の人とも書かれる。

杜度(とど)、崔瑗(さいえん)、崔寔(さいしょく)ら名高い草書家の技巧を受け継ぎつつも追求した。
字を書ける物はなんでも利用し、家にある布は必ず字を書いてから衣服を作らせた。いつも池に向かって草書の研究をしていたため、墨で池の水は真っ黒になった。(※そのため書道を「臨池」とも呼ぶ)
しかし(他人に文書をやる時は?)常に楷書で書き「忙しくて草書をする余裕がない」とうそぶいた。(※草には忙と同じ意味がありダジャレ)そのため彼の草書は多く残らず、後世の人々は宝物とした。
魏で随一の草書家の韋誕(いたん)は張芝を「草聖」と呼んだ。
弟の張昶が兄に次ぐ名手とうたわれ、張芝は韋誕ら多くの弟子を取ったがいずれも張昶にすら及ばなかった。(『劉劭伝』)

当時、西方では羅暉(らうん)、趙襲(ちょうしゅう)も書家として名高かったが、張芝は「私は杜度・崔瑗・崔寔には及ばないが、羅暉・趙襲には勝る」と評した。
また張超(ちょうちょう ※張邈の弟とは別人)は崔瑗・崔寔と同郷で技巧をよく受け継いだが、やはり張芝には及ばなかった。

後に晋の衛瓘(えいかん)、索靖(さくせい)ら草書の名手は「衛瓘は伯英の筋を得て、索靖は伯英の肉を得た」と評された。(『晋書 衛瓘伝』)

「書聖」と呼ばれ後世に絶大な影響を与えた、東晋の王羲之(おうぎし)も張芝には敬意を払ったという。



張咨  孫堅に騙し討ちされた南陽太守


張咨(ちょうし)字は子議(しぎ)
豫州潁川郡の人(??~190)

後漢の臣。

董卓に人事を任された周毖(しゅうひ)や伍瓊(ごけい)は、韓馥(かんふく)、劉岱(りゅうたい)、孔伷(こうちゅう)、張咨、張邈(ちょうばく)らを各地の刺史・太守に推挙したが、190年、彼らは挙兵した袁紹に呼応した。(『董卓伝』)

董卓を討つため挙兵した孫堅は、荊州刺史の王叡(おうえい)を殺し兵を奪った。南陽郡に差し掛かった頃には軍勢は数万に膨れ上がったが、太守の張咨は少しも驚かず、悠然と構えていた。
孫堅は彼を表敬訪問し、翌日に張咨も答礼し宴が開かれた。宴もたけなわの頃、孫堅の主簿が現れ「先に南陽郡に使者を送り、道の整備や兵糧の準備を求めましたが、全くできていません。南陽郡の主簿を捕らえて理由を問いただします」と言上した。
張咨は落ち着かなくなり帰ろうとしたが、四方を孫堅の兵に囲まれていた。そこへまた主簿が現れ「張咨は我らを引き止め、賊徒の討伐を引き延ばそうとしているから処刑しましょう」と言った。張咨はすぐさま斬られ、南陽郡は孫堅に屈服した。

次の異説がある。「献帝春秋」に曰く。
袁術は上表し孫堅を仮の中郎将に任じた。
孫堅は南陽郡に差し掛かると太守の張咨に兵糧を求めた。張咨が主簿にどうすべきか聞くと「隣郡の太守に食料調達を行う道理はありません」と言われ、応じなかった。

「呉歴」に曰く。
張咨は孫堅に兵糧を渡さず、面会もしなかった。孫堅は後顧の憂いになると考え、仮病で床に伏すと、張咨に兵を預けたいと使者を送った。
張咨が喜んでやって来ると、孫堅は起き上がって彼を捕らえさせ処刑した。(『孫堅伝』)

袁術は董卓を恐れて都から脱出し、ちょうど孫堅が張咨を殺したため南陽郡に陣取った。(『袁術伝』)

袁術は上表し孫堅に豫州刺史と破虜将軍を与え(後ろ盾となっ)た。(『孫堅伝』)

劉巴(りゅうは)の父の劉祥(りゅうしょう)は孫堅と共闘していたため、張咨を殺した仇討ちとして、南陽郡の官民によって殺された。(『劉巴伝』)



張持  孫怡に敗れる


張持(ちょうじ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

239年、魏から独立した公孫淵(こうそんえん)の援護のため、呉の孫怡(そんい)が魏へ攻め込み、張持・高慮(こうりょ)を撃破し捕虜を得た。(『呉主伝』)

張持によく似た字面の張特(ちょうとく)という将が魏におり、同じく対呉戦線で活躍している。同一人物の可能性があるかも知れない。

もうひとり張時(ちょうじ)という人物もいるが、こちらは年齢が少し上のようで、また京兆尹を務めており、別人だろう。



張時  杜畿は功曹に相応しくない


張時(ちょうじ)字は不明
司隸河東郡の人(??~??)

魏の臣。

京兆尹を務めた。
旧知の杜畿(とき)を功曹に取り立てたが、彼は細かいことにこだわらない性格で、心配りが足りなかったため「杜畿は大雑把で功曹には相応しくない」と愚痴った。それを聞いた杜畿は「功曹には相応しくないが、河東太守には相応しいぞ」とうそぶいた。

後年、杜畿は言葉通り河東太守に上った。
張時と再会し名刺を交換すると「昨日の功曹が今は郡の指導者か」と張時は嘆息した。(『杜畿伝』)



張祗


未作成



張脩  鍾会の反乱を知らせ殺される


張脩(ちょうしゅう)字は不明
出身地不明(??~264)

魏の臣。

264年、鍾会が蜀の制圧後に反乱すると、虎賁(近衛兵)の張脩は馬で諸陣営の間を駆け巡って反乱を知らせ、殺された。
265年、その功により弟の張倚(ちょうい)が関内侯に封じられた。(『陳留王紀』)



張脩  張魯に兵を奪われる


張脩(ちょうしゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

劉焉(りゅうえん)の臣。

劉焉は張魯(ちょうろ)を督義司馬に任命し、別部司馬の張脩とともに漢中太守の蘇固(そこ)を攻めさせたが、張魯は張脩を殺し兵を奪った。
劉焉の子の劉璋(りゅうしょう)の代になると、服従しない張魯の母と家族は殺され、張魯は漢中で独立した。(『張魯伝』)

「後漢書」には、張魯は蘇固を殺し漢中を制圧した後、独立し張脩も殺し兵を奪ったとある。(『後漢書 劉焉伝』)

五斗米道の創始者の張脩と同一人物とする説もあるが、別人と判断し項を分ける。



張脩  五斗米道の創始者


張脩(ちょうしゅう)字は不明
益州巴郡の人(??~??)

五斗米道の創始者。

184年、巴郡の妖巫の張脩が反乱し、郡県に侵攻した。
「劉艾紀」に曰く、張脩は五斗米師と号した。(『後漢書 霊帝紀』)

「典略」に曰く。
後漢末に妖術を用いる賊徒が現れ、光和年間(178~184)に漢中で張脩が五斗米道を創設した。
張脩の教えは同時期に現れた太平道の張角とだいたい同じで、病気の治癒には役立たないでたらめだったが、無知な民に信仰された。
張角が黄巾の乱を起こし誅滅されると、張脩も滅亡した。
後年、漢中を制圧した張魯(ちょうろ)は民が五斗米道を依然として信仰しているのを利用し、後継者の座に収まり統治した。

裴松之は「張脩は張魯の父の張衡(ちょうこう)の誤記」と指摘するが、「三国志集解」等で否定されている。(『張魯伝』・『三国志集解』)

また張魯に兵を奪われた劉焉(りゅうえん)配下の張脩と同一人物とする説もあるが、別人と判断し項を分ける。



張就  張恭とともに讃えられる子


張就(ちょうしゅう)字は不明
涼州敦煌郡の人(??~??)

魏の臣。
張恭(ちょうきょう)の子。
「閻温伝」に附伝される。

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。(『倉慈伝』)

太守の馬艾(ばがい)の死後、丞(副官)すらいなくなり、郡民は学問があり品行高い、功曹の張恭を長史代行として統治させていた。
張恭は子の張就を曹操のもとへ派遣し新太守の任命を要請した。
豪族の黄華(こうか)が酒泉郡を、張進(ちょうしん)が張掖郡を占拠しており、帰途の張就を捕らえると、父に敦煌郡を明け渡すよう脅した。
張就はひるまず、密かに父へ手紙を送り、魏の大軍が迫っていることを教え、故事を引き自分の命など顧みないよう訴えた。
張恭は従弟の張華(ちょうか)に酒泉郡を攻撃させ、赴任してきた新太守の尹奉(いんほう)の軍を出迎えた。
黄華は降伏し、張就も無事で、尹奉も着任できた。(『張就伝』)

だが尹奉も旧習に従うだけで、敦煌郡にのさばる豪族には手出しできなかった。
その後、倉慈(そうじ)が太守に赴任すると、道理に沿って強きをくじき弱きを助け復興を遂げた。(『倉慈伝』)

221年、曹丕は張恭を称揚し関内侯に封じ、西域戊己校尉に任じた。

数年後、朝廷に召し返し、近侍の官位を授け、張就と交代させようとした。
だが張恭は重病を理由に辞退した。

太和年間(227~232)に没し、執金吾を追贈された。
張就は後に金城太守に上り、父子ともに西州で名声高かった。

子の張斅(ちょうがく)、孫の張固(ちょうこ)も高位に上った。(『張就伝』)



張緝  夏侯玄・李豊とともに反乱未遂


張緝(ちょうしゅう)字は敬仲(けいちゅう)
司隸左馮翊高陵県の人(??~254)

魏の臣。
雍州・涼州刺史として多大な治績を挙げた張既(ちょうき)の次男。

223年に没した父の後を継いだ。

「魏略」に曰く。
太和年間(227~233)に司隷河内郡温の県令として評判を取り、諸葛亮の北伐に対して意見を出した。曹叡は孫資(そんし)に判断を求め、優れた計略だと聞くと、騎都尉に抜擢し、蜀軍との戦いに用いた。
都に上り尚書郎に任じられたが、曹叡は多方面で用いられる才能だと思い、試しに占わせると2千石ほどと評価されたが、曹叡はそれを退けて重用した。
中書郎から東莞太守に上り数千人の兵を指揮した。

251年、娘が曹芳の皇后(張皇后)に立てられた。
張緝は光禄大夫に上り、妻の向氏(しょうし)も安城郷君とされた。

「王沈魏書」に曰く。
張緝は慣例で東莞太守から解かれてしまい、吝嗇で権勢を好むが仕事人間だった彼は、現場から離され鬱々として楽しまない日々を送った。

「魏略」に曰く。
軍事についてたびたび具申し、「威光が主君を脅かし、功績が国中を覆っている」という理由で呉の諸葛恪(しょかつかく)が間もなく殺されるだろうと予言し、的中させた。司馬師は「はるか彼方から諸葛恪の末路を当てた。張緝の智恵は諸葛恪に勝る」と褒め称えた。(『張既伝』)

252年、司馬師が大将軍となった。当時は鍾会・夏侯玄(かこうげん)・王粛(おうしゅく)・陳本(ちんほん)・孟康(もうこう)・趙鄷(ちょうほう)・張緝らが朝議をあずかった。(『晋書 景帝紀』)

同郷の李豊(りほう)とは代々親しく付き合い、住まいも近かった。(『張既伝』)

「王沈魏書」に曰く。
李豊は司馬師の暗殺を企み、息子の李韜(りとう)に「夏侯玄は司馬師に冷遇され、張緝は実務から離されている。ともに志を得ていないから抱き込めるだろう」と言い、ちょうど怪我をした張緝の見舞いに向かわせた。張緝は計画を聞き「同じ船に乗っている者の危難だ。どうして逃げ隠れしよう。これは大仕事で、勝てなければ災禍が一族全てに及ぶ」と同意した。

だが254年、計画は露見し一網打尽にされた。
張緝・李豊・夏侯玄は処刑され、三族皆殺しとなった。(『夏侯尚伝』)

娘の張皇后は廃位された。その後の消息は不明。(『斉王紀』)

「晋書」に曰く。
孫の張殷(ちょういん)は永興年間(304~306)に晋の梁州刺史に上った。(『張既伝』)

「演義」では父の処刑とともに張皇后も暗殺された。その後、司馬師が病に倒れると張緝の霊が現れ祟った。



張繍  猛将は機をわきまえる


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