鄭泰 董卓に面従腹背
鄭泰(ていたい)字は公業(こうぎょう)
司隷河南郡開封県の人(??~??)
後漢の臣。
鄭太(ていたい)とも書かれる。「後漢書」を著した范曄が父(范泰)の諱を避けたためという。
若くして才略があり、乱世の到来を予見すると、密かに豪傑と交流を結んだ。家は裕福だったが交際費がかさみ、食べる物にも事欠いたが、名は大いに広まった。
孝廉にあげられ、三公の役所から招かれたが応じなかった。
大将軍の何進(かしん)に招かれ尚書侍郎を、後に侍御史を務めた。(『後漢書 鄭泰伝』)
奉車都尉も加官された。(『鄭渾伝』)
荀攸(じゅんゆう)・華歆(かきん)も何進に招かれた。(『華歆伝』)
何進は実権を握る宦官に対抗するため、并州牧の董卓らを招こうとしたが、鄭泰は「董卓は強暴残忍で義心に乏しく、欲望は飽くことを知りません。もし都に入れれば必ずや朝廷は危機に陥るでしょう」と反対した。
他にも急を要する献策を何度もしたが聞き入れられず、官を辞して去り、荀攸へ「何進の補佐は簡単ではない」とぼやいた。
何進が宦官と共倒れになり、混乱に乗じて実権を握った董卓には面従腹背し、伍瓊(ごけい)・何顒(かぎょう)・荀攸・种輯(ちゅうしゅう)らと共謀し、袁紹を渤海太守につけて挙兵させるなど裏から画策した。(『後漢書
鄭泰伝』・『荀攸伝』)
董卓が大規模な討伐軍を催そうとすると、鄭泰は制御できなくなることを恐れて反対し、董卓に理由を述べよと詰め寄られると、即興で「1つ、治世が続き兵は鍛えられておらず恐れるに足りない。2つ、あなた(董卓)は歴戦の勇士だと畏敬されている。3つ、袁紹らに軍才はない。4つ、渤海や山東から出た優れた人材はいない。5つ、敵は勝手に自滅する。6つ、(董卓率いる)西の人々は女性でさえ戦えるほど精強。7つ、西の羌族などの強敵と比べれば袁紹は話にならない。8つ、あなたの軍勢は団結している。9つ、天子を擁し徳を備えている。10つ、鄭玄(じょうげん)や邴原(へいげん)ら山東の賢者がすぐに戦を止める」と詭弁を弄した。
董卓は喜び、鄭泰に軍勢を統率させ、袁紹と対峙させようとしたが、ある人が「鄭泰の知略は人々を凌駕しています。もし彼が袁紹らと通じていれば合流させることになります」と忠告したため、董卓は進軍を取りやめ、鄭泰を議郎に留め置いた。(『後漢書
鄭泰伝』)
王允(おういん)は鄭泰・黄琬(こうえん)と打倒董卓の策を練り、袁術の討伐と偽って楊瓚(ようさん)・士孫瑞(しそんずい)に兵を預けようとしたが、董卓は疑って認めなかった。(『後漢書
王允伝』)
董卓が長安へ遷都すると、飢饉により混乱が起こり、士大夫も命を落とした。鄭泰は資産に余裕があったため彼らを招いて盛大に宴を開き、多くの人々を救った。
裏では何顒・荀攸・王允とともに董卓暗殺の策を練ったが、露見して何顒・荀攸は捕らえられ、鄭泰は単身で袁術のもとへ逃げた。(『後漢書 鄭泰伝』・『鄭渾伝』)
「華氏譜叙」に曰く、華歆も同行し6~7人で逃げていた。途中で出会った旅人に同行を求められたが、華歆だけが「我々は危険に取り巻かれ、一致団結しなければいけない。他人を入れれば和が乱れるし、危機が迫った時に見捨てることもできない」と反対したが、結局受け入れた。
旅人は途中で井戸に落ちた。見捨てようとしたが、華歆だけが「既に連れになっているのに見捨てては友誼に外れる」と引き返して助けてやり、みな華歆の道義心に感服した。(『華歆伝』)
袁術は上表し鄭泰を揚州刺史に任じたが、赴任する途上で没した。享年41。(『後漢書 鄭泰伝』)
弟の鄭渾(ていこん)は兄の遺児の鄭袤(ていほう)を連れ、淮南へ避難した。淮南に拠点を移していた袁術は歓迎したが、鄭渾は衰退を予見し、豫章太守になっていた華歆を頼った。
曹操は鄭渾の評判を聞きつけ招聘した。
後に華歆・荀攸は成長した鄭袤を見て「鄭泰は死んでいないと言えるぞ」と評価した。
鄭渾は「魏書」に、鄭袤も「晋書」に立伝されるほどの大人物となった。(『鄭渾伝』)
「演義」では何進の董卓招聘に反対し、官を辞して去ったきり登場しない。
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