三国志 て 2


鄭称  曹叡の傅役


鄭称(ていしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
220年、曹叡が太子に立てられ、侍中の鄭称が傅役となった。
曹丕は「古の名剣や宝石も、山や田から発掘されたが、砥石で磨かれ城に匹敵する宝物となったのだ。学問は人間を磨く砥石である。鄭称は篤学の大儒者だから、経学で曹叡を補佐し、朝も夕も側に侍して志節を光り輝かせてくれ」と布告した。(『文帝紀』)



鄭遂  青州黄巾軍に殺された任城国相


鄭遂(ていすい)字は不明
出身地不明(??~192)

後漢の臣。

192年、青州黄巾軍100万が兗州に侵攻し、任城国相の鄭遂を殺した。
兗州刺史の劉岱(りゅうたい)は無謀な戦いを挑んで敗死し、兗州牧となった曹操が討伐し青州黄巾軍を降伏させた。(『武帝紀』)



鄭崇  鄭渾の子


鄭崇(ていすう))字は不明
司隷河南郡開封県の人(??~??)

魏の臣。
鄭渾(ていこん)の子。

父が没すると子の鄭崇が郎中に取り立てられた。(『鄭渾伝』)



鄭泉  酒壺になりたい


鄭泉(ていせん)字は文淵(ぶんえん)
豫州陳郡の人(??~??)

呉の臣。

222年、夷陵の戦いの直後に魏は三路から呉へ侵攻した。
呉は太中大夫の鄭泉を使者として劉備のもとへ送り蜀と和睦した。

以下「呉書」に曰く。
幅広く学問を修め心ばせは人から抜きん出ていた。きわめて酒好きで「美酒で500石の船を満たし、傍らには旬の食材を置く。酒の中で泳いだり潜ったりし、疲れたらご馳走を食べる。酒が少しでも減ったら注ぎ足す。こんなふうにできたらすばらしいではないか」と常々言っていた。

孫権は郎中に任じた。ある時「お前は衆目の前で主君を諌め、礼と敬から外れることもある。逆鱗に触れることを恐れないのか」と聞かれ「主君が明ならば臣下は直だと聞きます。ご主君の広い仁愛を心強く思っているので恐れることはありません」と答えた。
孫権は鄭泉を怖がらせようと思い、宴会のさなかに役人に引きずり出させ、処罰するふりをした。鄭泉はしきりに孫権のほうを振り返りながら引きずられていき、孫権は笑って「お前は逆鱗を恐れないと言ったくせになぜ振り返ったのか」と指摘した。
鄭泉は「仁愛を信じていたので処刑されないとはわかっていましたが、ご主君の威霊に心打たれ思わず振り返りました」とごまかした。

劉備のもとへ使者を務めると、劉備は「孫権はなぜ私の手紙に返答しないのか。私が皇帝になったことが不服なのか」と問い、鄭泉は「曹操・曹丕は帝位を簒奪しました。あなたは漢王室の一人としてそれに立ち向かう義務がありながら、自身が帝位につきました。これは天下の公論に背くもので、だから孫権は返事をしないのです」と答えた。劉備はひどく恥じ入った。

鄭泉は臨終の床で仲間らに「遺体は陶器職人の家のそばに埋めてくれ。百年も経てば我が身は土となり、上手く行けばその土で酒壺が作られるかもしれない。その時私の宿願は叶うのだ」と遺言した。(『呉主伝』)



鄭像  魏の鳥居強右衛門C


鄭像(ていぞう)字は不明
出身地不明(??~253)

魏の臣。

253年、諸葛恪(しょかつかく)は魏の合肥新城を包囲した。
守将の毌丘倹(かんきゅうけん)は兵士の劉整(りゅうせい)を城外へ出し都に連絡を取ろうとしたが、呉軍に捕らえられた。情報を吐けば助けると言われた劉整は「くたばり犬めが何を言っている。私は死して鬼となりお前らを追い払ってやる。さっさと殺せ」と罵倒し(そのまま殺され)た。
同じく兵士の鄭像も捕まり、城へ援軍は来ないと言うよう命じられたが「援軍は間近に来ている」と大声で叫び続け(そのまま殺され)た。

254年、毌丘倹は二人の功績を述べ報奨を与えるよう言上した。
詔勅が下り、劉整・鄭像に関中侯が追贈され、兵士の身分から引き上げ、子に爵位を継がせ、兵士ではなく部隊長が戦死した時と同じ待遇をするよう命じられた。(『斉王紀』)



鄭泰  董卓に面従腹背


鄭泰(ていたい)字は公業(こうぎょう)
司隷河南郡開封県の人(??~??)

後漢の臣。
鄭太(ていたい)とも書かれる。「後漢書」を著した范曄が父(范泰)の諱を避けたためという。

若くして才略があり、乱世の到来を予見すると、密かに豪傑と交流を結んだ。家は裕福だったが交際費がかさみ、食べる物にも事欠いたが、名は大いに広まった。
孝廉にあげられ、三公の役所から招かれたが応じなかった。
大将軍の何進(かしん)に招かれ尚書侍郎を、後に侍御史を務めた。(『後漢書 鄭泰伝』)
奉車都尉も加官された。(『鄭渾伝』)

荀攸(じゅんゆう)・華歆(かきん)も何進に招かれた。(『華歆伝』)

何進は実権を握る宦官に対抗するため、并州牧の董卓らを招こうとしたが、鄭泰は「董卓は強暴残忍で義心に乏しく、欲望は飽くことを知りません。もし都に入れれば必ずや朝廷は危機に陥るでしょう」と反対した。
他にも急を要する献策を何度もしたが聞き入れられず、官を辞して去り、荀攸へ「何進の補佐は簡単ではない」とぼやいた。

何進が宦官と共倒れになり、混乱に乗じて実権を握った董卓には面従腹背し、伍瓊(ごけい)・何顒(かぎょう)・荀攸・种輯(ちゅうしゅう)らと共謀し、袁紹を渤海太守につけて挙兵させるなど裏から画策した。(『後漢書 鄭泰伝』・『荀攸伝』)
董卓が大規模な討伐軍を催そうとすると、鄭泰は制御できなくなることを恐れて反対し、董卓に理由を述べよと詰め寄られると、即興で「1つ、治世が続き兵は鍛えられておらず恐れるに足りない。2つ、あなた(董卓)は歴戦の勇士だと畏敬されている。3つ、袁紹らに軍才はない。4つ、渤海や山東から出た優れた人材はいない。5つ、敵は勝手に自滅する。6つ、(董卓率いる)西の人々は女性でさえ戦えるほど精強。7つ、西の羌族などの強敵と比べれば袁紹は話にならない。8つ、あなたの軍勢は団結している。9つ、天子を擁し徳を備えている。10つ、鄭玄(じょうげん)や邴原(へいげん)ら山東の賢者がすぐに戦を止める」と詭弁を弄した。
董卓は喜び、鄭泰に軍勢を統率させ、袁紹と対峙させようとしたが、ある人が「鄭泰の知略は人々を凌駕しています。もし彼が袁紹らと通じていれば合流させることになります」と忠告したため、董卓は進軍を取りやめ、鄭泰を議郎に留め置いた。(『後漢書 鄭泰伝』)

王允(おういん)は鄭泰・黄琬(こうえん)と打倒董卓の策を練り、袁術の討伐と偽って楊瓚(ようさん)・士孫瑞(しそんずい)に兵を預けようとしたが、董卓は疑って認めなかった。(『後漢書 王允伝』)

董卓が長安へ遷都すると、飢饉により混乱が起こり、士大夫も命を落とした。鄭泰は資産に余裕があったため彼らを招いて盛大に宴を開き、多くの人々を救った。
裏では何顒・荀攸・王允とともに董卓暗殺の策を練ったが、露見して何顒・荀攸は捕らえられ、鄭泰は単身で袁術のもとへ逃げた。(『後漢書 鄭泰伝』・『鄭渾伝』)

「華氏譜叙」に曰く、華歆も同行し6~7人で逃げていた。途中で出会った旅人に同行を求められたが、華歆だけが「我々は危険に取り巻かれ、一致団結しなければいけない。他人を入れれば和が乱れるし、危機が迫った時に見捨てることもできない」と反対したが、結局受け入れた。
旅人は途中で井戸に落ちた。見捨てようとしたが、華歆だけが「既に連れになっているのに見捨てては友誼に外れる」と引き返して助けてやり、みな華歆の道義心に感服した。(『華歆伝』)

袁術は上表し鄭泰を揚州刺史に任じたが、赴任する途上で没した。享年41。(『後漢書 鄭泰伝』)

弟の鄭渾(ていこん)は兄の遺児の鄭袤(ていほう)を連れ、淮南へ避難した。淮南に拠点を移していた袁術は歓迎したが、鄭渾は衰退を予見し、豫章太守になっていた華歆を頼った。
曹操は鄭渾の評判を聞きつけ招聘した。

後に華歆・荀攸は成長した鄭袤を見て「鄭泰は死んでいないと言えるぞ」と評価した。
鄭渾は「魏書」に、鄭袤も「晋書」に立伝されるほどの大人物となった。(『鄭渾伝』)

「演義」では何進の董卓招聘に反対し、官を辞して去ったきり登場しない。



鄭沖  論語集解を著し三公をも超える


鄭沖(ていちゅう)字は文和(ぶんか)
司隸滎陽郡開封県の人(??~274)

魏・晋の臣。
「晋書」に列伝される。

清廉かつ穏やかで無欲な人柄で、経書や史書に親しみ諸子百家に広く通じた。家は貧しく名誉を求めなかったため、長らく招聘されなかった。

217年、太子となった曹丕は身分の低い者から人材を探し、鄭沖も抜擢された。実務には優れなかったが質素を重んじたため名声を高めた。(『晋書 鄭沖伝』)

侍中の盧毓(ろいく)が昇進する際、曹叡(そうえい)は自ら後任を選ばせた。盧毓は鄭沖を推挙したが曹叡は「鄭沖は知っている。聞いたこともない者を選べ」と言い、改めて孫邕(そんよう)と阮武(げんぶ)を推挙し、孫邕が選ばれた。(『盧毓伝』)

曹芳(そうほう)の代になると、曹爽(そうそう)に目を掛けられ従事中郎・散騎常侍・光禄勲と昇進した。
孫邕、曹羲(そうぎ)、荀顗(じゅんぎ)、何晏(かあん)らとともに「論語集解」を著した。
曹爽・曹羲・何晏が処刑された粛清からも逃れ、251年には司空に上った。(『晋書 鄭沖伝』)

254年、三代皇帝・曹芳(そうほう)の廃位を求める上奏に、司空・文陽亭侯として連名した。(『斉王紀』)

学問を好んだ曹髦(そうぼう)には鄭小同(ていしょうどう)とともに手ずから経書を教え褒美を下賜された。
256年、司徒に転任した。
260年、曹髦が決起に失敗して没すると、司馬昭・司馬孚(しばふ)・高柔(こうじゅう)とともに王礼で葬るよう上奏した。(『高貴郷公紀』)

同年に曹奐(そうかん)が即位すると太保に任じられ、三公の上に置かれ寿光侯に封ぜられた。
政務には携わらなかったが、重臣たちはまず鄭沖に相談してから事に臨んだ。

265年、司馬炎は晋への禅譲にあたり鄭沖に禅譲を告げる書を提出させた。
晋が興ると太傅に任じられ寿光公に進んだ。
その後、李憙(りき)と侯史光(こうしこう)は鄭沖・何曾(かそう)・荀顗らは老齢で重病であるとして罷免を上奏したが司馬炎は却下した。
鄭沖も自ら引退を申し出たが、270年に司馬炎は詔勅を下してまで認めなかった。

273年、再度引退を願い出ると、司馬炎は寿光公のまま家に帰し、参内は不要、太保・太傅と同列で、重大事があれば朝臣は鄭沖に相談せよ、という破格の待遇で引退を認めた。

翌年に鄭沖は没した。273年の詔勅から六十代と思われる。
司馬炎は喪に服し、太傅を追贈し成と諡した。
咸寧年間(275~279)に功臣12人の一人として廟に祀られた。
男子がなかったため甥の鄭徽(ていき)が後を継いだ。(『晋書 鄭沖伝』)



鄭胄  呂壱に逆恨みされる


鄭胄(ていちゅう)字は敬先(けいせん)
豫州沛国の人(??~??)

呉の臣。
鄭札(ていさつ)の末子。

父は孫権に仕えて朝廷の儀礼制度を定めた人物で、鄭胄も文武両道に優れ若くして名を知られた。

建安太守の時、呂壱(りょいつ)の食客が罪を犯したため、厳しく取り調べ処刑した。呂壱はこれを恨み、讒言した。呂壱を寵愛する孫権は激怒し、鄭胄を殺そうとしたが、潘濬(はんしゅん)・陳表(ちんひょう)が命乞いをし赦された。

239年、魏から独立した公孫淵(こうそんえん)の援護のため、羊衜(ようどう)・鄭胄が使者として向かい、将軍の孫怡(そんい)が魏へ攻め込み、張持(ちょうじ)・高慮(こうりょ)を撃破し捕虜を得た。
しかし公孫淵は司馬懿によって討たれ、呉軍も結局は敗走したが、鄭胄は帰還後に執金吾に任じられた。(『呉主伝』)

257年8月、鄱陽と新都で民衆が反乱を起こしたため、歩兵校尉の鄭胄と、丁密(ていみつ)、鍾離牧(しょうりぼく)が討伐した。(『孫亮伝』)

子の鄭豊(ていほう)は文学的素養が高かった。(『呉主伝』)



鄭長


未作成



鄭度  劉璋に焦土作戦を献策する


鄭度(ていど)字は不明
益州広漢郡の人(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の臣。

「華陽国志」に曰く。
益州従事を務めた。

212年、劉備が益州制圧に乗り出すと鄭度は「劉備は本拠地(荊州)から遠く離れ兵は1万に満たず心服していません。食糧は野の穀物に頼り輜重車も無いから兵糧攻めが有効です。民を西へ移住させて穀物を焼き払い籠城に徹すれば、劉備は100日も経たずに撤退しそこを追撃すれば必ず勝てます」と焦土作戦を献策した。
劉備はそれを聞き不快に思ったが、法正は「採用されないから心配ありません」と言った。
はたして劉璋は「敵を防いで民を落ち着かせる話は知っているが、民を強制移住させて敵を避けるなど聞いたことがない」と退けた。(『法正伝』)

「演義」でも同様の献策をしたがやはり却下されると法正に見抜かれた。
「吉川三国志」では劉璋は「それは敗戦の策だ」といつにない名言を吐いた。



鄭文信  厳幹・李義を認める


鄭文信(ていぶんしん)字が文信か
司隸馮翊郡の人?(??~??)

後漢の臣。

「魏略」に曰く。
司隸馮翊郡の名族の桓氏・田氏・吉氏・郭氏そして元侍中の鄭文信らは同郡出身の厳幹(げんかん)・李義(りぎ)を重厚な人柄を具えていると認めた。(『裴潜伝』)



鄭宝  劉曄に暗殺される


鄭宝(ていほう)字は不明
揚州の人?(??~??)

揚州の賊徒。

揚州では張多(ちょうた)・許乾(きょけん)らが跋扈し、その中で鄭宝が最も勇敢で決断力があり、才能も力量も人並み外れていた。住民を率い長江南岸へ移る計画を立てると、当地で名声高く、漢王室にも連なる劉曄(りゅうよう)を首領に担ごうとした。
劉曄は内心で反対し、曹操から揚州の情勢をうかがう使者が訪れると、それに応対しつつ、なんとか同行して都へ逃げようと考えた。
そこへ鄭宝が使者の歓待に現れ宴会が始まった。劉曄はそのさなかに刺客に斬らせようとしたが、下戸の鄭宝は酔わないため隙を見せず、やむなく劉曄は自ら斬り捨てた。

鄭宝の軍勢を引き継いだものの持て余した劉曄は、兵を劉勲(りゅうくん)に預けたが、孫策の罠にはまり全て奪われた。(『劉曄伝』)

なお「魯粛伝」で劉曄は友人の魯粛へ「鄭宝は1万の衆を率い、土地は肥沃で誰もが身を寄せています。我々も一刻も早く従うべきです」と誘いを掛けたが、魯粛は周瑜に説得され、結局は孫権に仕えた。(『魯粛伝』)

劉曄の言動には矛盾が見られるが、曹操の意向を受けての調略か、魯粛を誘った頃には自分が首領に担がれておらず、状況が変化したのだろうと思われる。



鄭袤  父や叔父の才を受け継ぐ


鄭袤(ていほう)字は林叔(りんしゅく)
司隷滎陽郡開封県の人(189~273)

魏・晋の臣。
後漢の揚州刺史・鄭泰(ていたい)の子。

父が急逝したため、叔父の鄭渾(ていこん)に庇護され、父の親友だった豫章太守の華歆(かきん)を頼り、我が子のように可愛がられた。後にそろって曹操へ仕えた。
幼い頃から聡明で、華歆・荀攸(じゅんゆう)は彼を見て「鄭泰は死んでいないのと同じだ」と評した。

同郷の任覧(じんらん)は魏諷(ぎふう)と親しくしたが、鄭袤は魏諷を奸雄と見抜き、必ず災いをなすと言い距離を置いた。
魏諷は219年に反乱を起こし、任覧は眼識の確かさを讃えた。
また王朗(おうろう)に請われて推挙した王基(おうき)、許允(きょいん)、魯芝(ろし)はいずれも重職に上った。

曹植(そうしょく)の側近を皮切りに着々と昇進して行き、各地の太守を歴任した。広平太守が欠員となった時、司馬懿は鄭袤を推薦した。任地を去る時には住民が号泣しながら見送るほど慕われた。(『晋書 鄭袤伝』)

254年、三代皇帝・曹芳(そうほう)の廃位を求める上奏に、少府として連名し、曹髦を新たな皇帝として迎え入れる使者を務めた。(『斉王紀』)

曹髦の代には王粛(おうしゅく)とともに法制定に功あって列侯された。
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が反乱すると司馬師は自ら討伐に赴いたが、鄭袤が病欠しているのに気づき、見送りの列にいなくて寂しいと王粛にぼやいた。
王粛はすぐに注進してやり、鄭袤は病身を押して駆けつけた。
司馬師は来るとわかっていたぞと笑い、馬車に同乗させ方策を尋ねた。毌丘倹と文欽の性情を熟知していた鄭袤は「毌丘倹は謀略を好むが諜報が苦手で、文欽は勇猛だが頭は空です。電撃戦で不意を突きましょう」と的確に進言した。

人物鑑定眼も衰えず、曹髦に請われ推挙した人材はいずれも高位に上った。
260年に病で失明したが引退を許されず、十余年も病床にありながら人材を発掘し続けた。(『晋書 鄭袤伝』)
271年(『鄭渾伝』)、司馬炎は司空に任命したが、鄭袤はこれを辞退すること十数回にも及んだ。
使者の国坦(こくたん)に「私は徐邈(じょばく)を司空に任命する使者を務めましたが、彼は三公は天意に感応すべきもので、不適格者はなってはいけないと言い、老齢のため辞退しました。彼にならい、受けられません」と固辞し、ついに司馬炎も諦めた。

273年に病没し元侯と諡された。享年85。
子の鄭黙(ていもく)が後を継ぎ、6人の子はいずれも高位に上った。(『晋書 鄭袤伝』)
また妻の曹氏(そうし)も「晋書」に列伝されている。(『晋書 列女伝』)



鄭豊  鄭胄の子


鄭豊(ていほう)字は曼季(まんき)
豫州沛国の人(??~??)

呉の臣。
鄭胄(ていちゅう)の子。

文学的素養があり、素行が正しかった。

陸雲(りくうん)と親密で詩の応酬をした。
呉の滅亡後、司空の張華(ちょうか)に招聘されたが、出仕前に死去した。(『呉主伝』)



鄭黙  司馬炎と同格


鄭黙(ていもく)字は思元(しげん)
司隷滎陽郡開封県の人(213~280)

魏・晋の臣。
鄭袤(ていほう)と曹氏(そうし)の子。

魏に仕え秘書郎となり、古典を研究し、原典と後世に加筆された部分を仕分けし、虞松(ぐしょう)に評価された。
尚書に転じ、蜀の討伐に功あって関内侯に封じられた。

晋代になると郭奕(かくえき)とともに太子中庶子を務めた。太子の配下のみを陪臣と称するべきだという議論が持ち上がった時、鄭黙は「太子は天下において無私の存在で、朝廷に仕える者は全て陪臣である」と反対したが、退けられた。

東郡太守として赴任し、飢饉が起こると独断で官舎の倉を開き、兵糧を配り民を救った。処罰を請うたが朝廷はその判断を褒め、「鄭黙のように緊急措置で民を救った者は名乗り出よ」と布告した。
都に戻り散騎常侍に上った。

以前、司馬炎は重臣の子弟から、自分に並ぶ名声と実力を備えた人物を探したが、郡内には見つからず、州内まで輪を広げ鄭黙を見つけた。司馬昭は父の鄭袤に手紙を送り「君の子は賢者だ。その血筋を台無しにするなよ」と忠告した。
その後、司馬炎は鄭黙を招き、彼が実務を軽んじ清談に明け暮れていることを責め、政治に意見を求めた。
鄭黙は「農業に励み、優れた人材を長く用い、その賞罰を明確にし、儒学を敬う、それだけです」と答え、感心させた。

273年、父が没し、喪に服すため官を辞した。
喪が開けて復帰した頃、袁毅(えんき)の贈賄が発覚し、朝臣の多くが処罰されたが、鄭黙ら兄弟だけが清廉潔白で、関わっていなかった。
山濤(さんとう)は親類を推挙したいと考えたが「あなたのような清廉な人がいてはコネも使えない」とぼやき、鄭黙にやんわりとたしなめられた。

司馬炎の弟の司馬攸(しばゆう)が、兄に恨まれ外地へ出されようとすると、多くの朝臣が反対した。特に曹志(そうし)は激しく反対し、鄭黙はそれを咎めなかったかどで、揃って罷免された。

すぐに大鴻臚に転任されたが、母が没したため再び官を辞した。
当時は大臣は服喪を切り上げて職務に戻るよう定められていたが、鄭黙は頑強に復職を断り、ついに大臣も喪を全うできるように法改正させた。
喪が開けると大司農・光禄勲を歴任した。

280年に68歳で没し、子の鄭球(ていきゅう)が後を継いだ。
衛瓘(えいかん)は生前の業績と徳行を讃え、儀同三司を追贈するよう上奏した。
だが皇后の父の楊駿(ようしゅん)は、以前に鄭黙へ縁組を持ちかけた際に「外戚に関わると権力争いに巻き込まれてしまう」と断られたことを恨んでおり、反対したため立ち消えとなった。

「鄭黙は寛大かつ博愛、謙虚で温厚で声を荒げる事すらなかった。才知を誇らず、上には礼を、下には和をもって対したが、楊駿の恨みは消せなかった。士大夫が世渡りをするのは難しい」と評された。(『晋書 鄭黙伝』)

ちなみに祖父の鄭泰(ていたい)は「後漢書」に、大叔父の鄭渾(ていこん)は「魏書」に、父の鄭袤と母の曹氏、子の鄭球は「晋書」にと、一族の多くが列伝されている。



鄭豫


未作成



鄭翼  毌丘倹・文欽と結託した反乱者A


鄭翼(ていよく)字は不明
出身地不明(??~251?)

魏の臣。

毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)らの上奏に曰く。
255年、毌丘倹・文欽は安豊護軍の鄭翼、廬江護軍の呂宣(りょせん)、廬江太守の張休(ちょうきゅう)、淮南太守の丁尊(ていそん)、督守合肥護軍の王休(おうきゅう)らと結託し反乱した。(『毌丘倹伝』)

鄭翼・呂宣・張休・丁尊・王休の5人には他の事績がない。「各人累代に渡って(魏に)御恩をお受けし」とあり、あるいは著名な臣下の子弟だろうか。
最期は敗死した毌丘倹か、呉へ亡命した文欽と運命をともにしたのだろう。



鄭礼


未作成



禰衡  口は災いの元


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翟嬰  崔洪に目が節穴と糾弾され罷免に


翟嬰(てきえい)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

馮恢(ふうかい)は父が下の子の馮淑(ふうしゅく)に爵位を譲りたいと考えていたため、父が没すると喉を病み声が出なくなったと称して隠居した。無事に馮淑が後を継ぐと馮恢は復帰し、博士祭酒となった。
散騎常侍の翟嬰が馮恢を「品行に優れ俗事を超越した古の烈士のような人物」だと推挙すると、崔洪(さいこう)は「馮恢は博士祭酒にふさわしい学問が無く、学生を交替で当直させて(カンニングし)それをごまかしている。弟に爵位を譲ったという微細な善行はあるが、比類なき優れた人物ではない。翟嬰の目は節穴だ」と上奏し、翟嬰は罷免された。
朝廷は崔洪を恐れはばかるようになり、尚書左丞に上ると人々に「生い茂ったトゲ(のような鋭い男)が博陵郡からやって来た。南で灰鷹、北で鷹となる(目を光らせる)」とうたわれた。(『晋書 崔洪伝』)



翟素


未作成



翟丹  魏へ亡命し呉の法律を変えさせる


翟丹(てきたん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉、後に魏の臣。

227年、皖城に駐屯した審悳(しんとく)が曹休(そうきゅう)に撃破され討ち取られた。
これを機に韓綜(かんそう)が同年に、翟丹が翌年に魏へ降伏した。(『曹休伝』・『呉主伝』)

「江表伝」に曰く。
孫権はしくじりを犯した将が亡命するのを恐れ、諸将は重罪3つを犯したら初めて罪に問うことを布告した。(『呉主伝』)



翟文耀  姿を消せる(?)管輅の知り合い


翟文耀(てきぶんよう)字が文耀か
冀州平原郡の人(??~??)

素性不明。

「管輅別伝」に曰く。
石苞(せきほう)は管輅(かんろ)に会うと「あなたと同郷の翟文耀は姿を消すことができると聞いたが本当か」と尋ねた。
管輅は「原理を把握すれば山も海も消してしまえるもので、人間など造作もないことです」と答えた。石苞がぜひその原理を知りたいと言うと、管輅は「精神で知るもので言葉にはできません。工芸や視力に優れた者がなぜそれができるのか説明できないのと同じです。孔子も「書物は言葉の、言葉は心の全てを表現してはいない」と言っています。それでもおおよその骨組みだけ語るなら、昼に万里をあまねく照らす太陽が夜には一欠片の炭ほどの光も放たないように、万物は陰陽の働きに従うもので、その原理を把握すれば不思議な力を得るのです」と説いた。
石苞は「その陰陽の原理を把握しているという点であなたに勝る者はいない。なぜあなたは姿を消さないのか」とさらに問うた。管輅は「鳥が魚に、魚が鳥にならないように天性は異なります。私は事物の機微を突き止め、今まで習ったことを復習するのが望みで、意味もなく姿を消したり怪事を行う暇はありません」と返した。(『管輅伝』)



田晏


未作成



田楷  公孫瓚配下の(偽)青州刺史


田楷(でんかい)字は不明
出身地不明(??~199?)

公孫瓚(こうそんさん)の臣。
「後漢書」では名を田揩と書かれる。

公孫瓚は厳綱(げんこう)に冀州を、田楷に青州を、単経(ぜんけい)に兗州を統治させた。(『公孫瓚伝』)

賊に敗れた劉備は旧知の公孫瓚を頼り、公孫瓚は彼を別部司馬に任じ、青州刺史の田楷とともに袁紹へ当たらせた。(『先主伝』)

192年、界橋の戦いを制した公孫瓚は南下し、田楷を斉に駐屯させた。(『後漢書 公孫瓚伝』)

193年、曹操は徐州を攻めたが、兵糧が乏しかったため撤退した。

「韋昭の呉書」に曰く、曹操は徐州刺史の陶謙(とうけん)に軍勢を解散するよう詔勅を下させたが、陶謙が応じなかったため侵攻した。陶謙が反撃し、田楷が陶謙を救援したため撤退した。
(※裴松之は「献帝は当時まだ長安におり、曹操の意のままに詔勅を出せはしない」と矛盾を指摘する)(『陶謙伝』)

袁紹が公孫瓚を攻めると、劉備・田楷は斉に駐屯し対処した。
曹操が徐州を攻めると、陶謙は田楷に救援を求め、劉備・田楷が援軍を出した。劉備は私兵1千と烏丸騎兵を率いていたが、さらに飢えた民衆を数千人、無理やり配下に組み入れた。陶謙も丹陽兵を4千与えると、劉備は鞍替えして陶謙配下となり、陶謙が没すると徐州刺史の座を譲られた。(『先主伝』)

この時、公孫瓚配下だった趙雲も鞍替えし劉備配下となった。(『趙雲伝』)

袁紹は数万の兵を率いて2年にわたり田楷と戦い、兵糧は尽き、士卒は疲弊し、農民を奪い合ったため土地は荒れ果て青草も残らなかった。
袁紹は長子の袁譚(えんたん)を青州刺史に任じて攻撃させ、敗れた田楷は撤退した。

199年、公孫瓚は袁紹に敗れて自害し、田楷も戦死した。(『後漢書 公孫瓚伝』)

「演義」では公孫瓚配下とは記されない。陶謙を助け、曹操が後方で呂布に蜂起されたため撤退すると、歓待されて帰っていった。



田楽  死んだ韓遂の首を獲るA


田楽(でんがく)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

212年、韓遂(かんすい)は曹操に敗れて兵を失い、郭憲(かくけん)を頼った。
人々は韓遂を殺して手柄にしようとしたが、郭憲は「追い詰められ私を頼ってきた人を、どうして危険に陥れようとするのだ」と怒った。
手厚くもてなしたが、やがて韓遂は病没した。
田楽・陽逵(ようき)は韓遂の首を斬り、曹操のもとへ送って手柄にしようとした。彼らは郭憲も功績者の中に入れようとしたが、「生きている時も手を下せなかったのに、死人を捕まえて功績とすることなどできない」と断られた。

215年、韓遂の首と功績者の名簿が届けられると、曹操は以前から郭憲を知っていたため、名前が無いのを不思議に思い、陽逵らに事情を尋ね、その節義に感服した。
そして上奏の際に郭憲の名を加えさせ、陽逵らとともに関内侯に封じた。
郭憲の名声は響き渡った。(『王脩伝』)

一方、「武帝紀」には215年、韓遂を麴演(きくえん)・蔣石(しょうせき)が協力して殺し、首級を曹操へ送ったと記され、矛盾が見える。(『武帝紀』)



田銀  河間郡で反乱した賊徒A


田銀(でんぎん)字は不明
冀州河間郡の人?(??~211?)

賊徒。

211年、曹操が馬超を討伐した時、河間郡で蘇伯(そはく)とともに反乱した。
曹仁に討伐された。(『曹仁伝』)

留守をあずかる曹丕は自ら討伐しようとしたが、常林(じょうりん)は「私は博陵太守・幽州刺史を務めたので当地のことはよく知っています。民は争いを嫌い、田銀・蘇伯は犬や羊が集まったようなもので、智力は小さいのに野心が大きく、害をなしません。あなたは天下の抑えであり、軽はずみに遠征しては、勝っても武威を発揮することにはなりません」と反対し、曹丕は配下を討伐に派遣した。(『常林伝』)

閻柔(えんじゅう)と鮮卑の軻比能(かひのう)も討伐軍に加わった。(『鮮卑伝』)

賈信(かしん)に討伐され1千人が降伏した。
誰もが旧法に照らして処刑すべきだと言ったが、程昱(ていいく)は「乱世ならば包囲後に降伏した者は許さず、包囲前に降伏すべきだと外敵を脅すことは重要だが、今は治世であり、しかも領内で反乱した者を脅してもしかたない」と反対し、処刑するにしても曹操の指示を仰ぐべきだと述べた。
軍事では専断が許されるとなおも反論されたが、程昱は「賊徒は賈信の手中にあり、専断で決定するほどの緊急事態ではない」と言い、曹丕も同意して曹操の判断を仰いだが、やはり処刑しなかった。
曹操は帰還すると「君は軍事に明るいだけではなく、私と曹丕の父子の仲も上手くさばいてくれる」と程昱を褒めた。(『程昱伝』)

残党が捕まると国淵(こくえん)は首謀者ではないから処刑しないよう主張し、1千人以上を助けた。
当時は賊軍を撃破した際に戦果を十倍で計算する習わしだったが、国淵は実数のまま報告した。
曹操に理由を問われると「戦果を実数より多くするのは、民に誇示するためです。しかし河間郡は領内で相手も反乱軍ですから、手柄を立てたとしても私は心密かに恥だと考えます」と答え、曹操は上機嫌で魏郡太守に任じた。(『国淵伝』)



田景  董卓の(数少ない)忠臣


田景(でんけい)字は不明
出身地不明(??~192)

董卓の臣。

192年、董卓が呂布に暗殺されると、主簿の田景は屍に走り寄ったため呂布に殺された。(『董卓伝』)



田彦和


未作成



田興  王愷に妻を利用された夫


田興(でんこう)字は不明
兗州高平国の人?(??~??)

晋の臣。

「冀州記」に曰く。
牽秀(けんしゅう)は優れた才能の持ち主で若くして立派な評判を得たが、王愷(おうがい)とは平素から軽蔑し合っていた。
王愷は司隷校尉の荀愷(じゅんがい)に「牽秀は高平国の守備兵の田興の妻と車に同乗した」と誣告した。牽秀は即座に上奏して否定し、あわせて王愷の醜悪さを激烈な文辞で訴えた。
多数の朝臣が無実を証明してやったが、名誉は大いに損なわれた。(『牽招伝』)

牽秀は司馬炎の舅(おじ)の王愷を堂々と非難し、結局罷免された。(『晋書 牽秀伝』)



田氏  王皇后(曹芳)の母


田氏(でんし)名は不明
出身地不明(??~??)

曹芳の三番目の皇后の王氏(おうし)の母。

「王沈魏書」に曰く。
251年、曹芳は甄皇后(しんこうごう)を亡くすと、寵愛する王貴人を立后しようとしたが、郭太后(かくたいこう)の反対により、やむなく翌年に張皇后(ちょう)を立てた。

だが254年、張皇后の父の張緝(ちょうしゅう)が同郷の親友の李豊(りほう)と、魏の重鎮の夏侯玄(かこうげん)とともに司馬師の暗殺を企むも、計画は露見し一網打尽にされた。
張皇后は廃位され、代わって王貴人が皇后に立てられた。

夫の王夔(おうき)は広明郷侯、(張緝が務めていた)光禄大夫、特進に、田氏は宣陽郷君に任じられた。
しかし同年、曹芳は司馬師によって廃位された。
王氏と両親のその後は不明である。(『斉王紀』)



田氏  短期間で2回寝返る


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田章  蜀征伐で伏兵3部隊を撃破


田章(でんしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

263年、魏は蜀征伐の兵を挙げ、田章は鍾会の指示で剣閣の西から江油へ向かい、百里手前で蜀の伏兵3部隊を撃破した。
さらに鄧艾の指示で先鋒として成都へ向かった。(『鍾会伝』)

蜀征伐には田続(でんしょく)という同姓の人物も従軍しており、そちらは田疇(でんちゅう)の従孫である。田章も同族だろうか。

「演義」にも名前のみ見える。



田韶  公孫度に滅ぼされた豪族


田韶(でんしょう)字は不明
幽州遼東郡の人(??~??)

遼東の豪族。

玄菟郡の役人上がりの公孫度(こうそんど)は軽視されていた。
遼東太守に赴任した公孫度は報復し、名家で以前から冷淡な態度を取っていた田韶も処刑し、反抗する百軒余りが滅ぼされ、遼東郡の人々は震え上がった。(『公孫度伝』)



田続  鄧艾殺害の実行犯


田続(でんぞく)字は不明
幽州右北平郡の人(??~??)

魏の臣。
田疇(でんちゅう)の従孫。

220年、曹丕が帝位につくと田疇の徳義を改めて評価され、田続が関内侯に封じられ、後を継いだ。(『田疇伝』)

263年、蜀征伐が始まり、鍾会は胡烈(これつ)・田続・龐会(ほうかい)らに姜維を追撃させた。(『鍾会伝』)

「漢晋春秋」に曰く、鄧艾は田続が進軍しなかったため斬ろうとしたが(先を急いでいたため?)見逃してやった。
蜀の制圧後、鄧艾は鍾会の暗躍により収監されたが、鍾会は反乱に失敗し、衛瓘(えいかん)・胡烈らによって斬られた。
都へ向け護送されていた鄧艾も配下によって救出されたが、衛瓘は(収監に賛成した報復を恐れ)処刑されかけた仕返しをするよう田続を焚き付け、鄧艾を殺させた。(『鄧艾伝』)

「演義」では鄧艾の蜀の桟道を抜けての奇襲攻撃に同行し、疲れた兵を休息させるよう進言して殺されかけた。後に自ら衛瓘へ、鄧艾の殺害を申し出ており、話の流れがわかりやすく整理されている。



田疇  中立国を築いた男


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田彭祖  田豫の子


田彭祖(でんほうそ)字が彭祖か
幽州漁陽郡雍奴県の人(??~??)

魏の臣。
田豫(でんよ)の子。

父が没すると後を継いだ。

「魏略」に曰く。
田豫は危篤になると妻子へ「西門豹(戦国時代の名臣)の祠のそばに葬ってくれ」と命じた。
妻子がなぜ古代の神のそばにといぶかると、田豫は「西門豹の業績は私と同じだ。霊魂があれば必ず仲良くなれる」と言い、妻子は従った。(『田豫伝』)



田豊  剛直さ、身を滅ぼす


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田豫  無私無欲の名将


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田豫  孫資を妬んだ方


田豫(でんよ)字は不明
并州太原郡の人(??~??)

魏の臣。

司空掾を務めた。
「魏書」に列伝された同姓同名の田豫とは出身地が違い、有名な方は司空掾になっていないので別人である。(※ちくま版の索引では同一人物にされている)

孫資(そんし)は同郷の人々の中でも地位・名声ともに高く、田豫、宗豔(そうえん)らに嫉妬から恨まれ、そのうえ楊豊(ようほう)が彼等に加担し讒言を繰り返した。
だが孫資は全く気にせず、やがて田豫は恥じ入って、宿怨を捨て縁組をしたいと願い出た。
孫資は「私には怨恨はもともと無い。君が悪く思っていただけだから、これからは良く思えばいいだけさ」と言い、息子の妻に田豫の娘を迎えた。

孫資が高位についた頃、田豫は老いて病に苦しみ家で暮らしていた。孫資は手厚く彼を助け、その子を太原郡に招いて孝廉に推挙してやった。(『孫資伝』)



田林  八交の一人


田林(でんりん)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

後漢の臣?

「漢紀」に曰く。
劉表(りゅうひょう)と同郡出身の張隠(ちょういん)・薛郁(せついく)・王訪(おうほう)・宣靖(せんせい)・公緒恭(こうしょきょう)・劉祗(りゅうし)・田林ら8人は名高く、「八交」あるいは「八顧」と呼ばれた。(『劉表伝』)

劉表以外の7人はそれ以外の事績がない。
また「八顧」は前代に郭泰(かくたい)が属する八顧の方が著名である。



典韋  悪来


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典満  典韋の子


典満(てんまん)字は不明
兗州陳留郡已吾県の人(??~??)

魏の臣。
典韋の子。

197年、宛城の戦いで父が戦死すると郎中に任じられた。
曹操は命に代えて自分を守った典韋を思い、典満を司馬に任じて身近に置いた。

220年、曹丕は王位につくと都尉に任じ、関内侯に封じた。(『典韋伝』)

「演義」でも曹操の側近にされた。



滇吾  蓋勲を助けた羌族


滇吾(てんご)
羌族の人(??~??)

句就種羌の人。

184年頃、羌族が反乱し護羌校尉の夏育(かいく)を攻撃すると、蓋勲(がいくん)や涼州の兵が救援したが、敗走し蓋勲も包囲された。
3つの傷を受けたがひるまず、近くの木を指差し「屍はここに葬れ」と命じた。羌族の滇吾は彼に厚遇されていたため「蓋勲は賢人だ。殺したら天に背くことになる」と言い武器を振るって味方したが、蓋勲は「お前ら叛徒は死すべきだとなぜわからない。すぐに私を殺せ」と罵ったため、敵も味方も思わず顔を見合わせた。
滇吾は自分の馬を与えたがそれも拒否し、とうとう捕らえられたが、羌族は手出しせず(任地の)漢陽郡へ送り返した。
涼州刺史の楊雍(ようよう)は上表して蓋勲を漢陽太守とした。(『後漢書 蓋勲伝』)

後漢初期の羌族の首領に同姓同名の人物がおり、滇吾の名は世襲制なのかもしれない。

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