三国志 と 2


董越  占い師にハメられる


董越(とうえつ)字は不明
出身地不明(??~192)

董卓の配下。

190年、孫堅は董卓軍を次々と撃破し洛陽へ入った。董卓は劉艾(りゅうがい)に「(袁紹ら)関東の諸将は弱く無能ばかりだが、孫堅は少しマシな方だ。警戒しろ」と言い、東中郎将の董越を澠池県に、段煨(だんわい)を華陰県に、牛輔(ぎゅうほ)を安邑県に駐屯させるなど各県の防備を固めさせた。(『後漢書 董卓伝』)

「王沈魏書」に曰く。
192年、董卓が呂布に暗殺されると、娘婿の牛輔は恐れおののき、常に兵士を召集する割符を握り締め、そばには処刑用の斧と首斬り台を置いておき、客に会う前には人相見や占い師に反乱する気があるかどうか占わせた。
中郎将の董越が身を寄せてくると、反乱する気だと占われたため即刻処刑した。

「献帝紀」に曰く。
占い師は常に董越に鞭打たれていたため報復したのである。(『董卓伝』)



董和  董允の清廉潔白な父


董和(とうか)字は幼宰(ようさい)
荊州南郡枝江県の人(??~??)

蜀の臣。
董允(とういん)の父。

後漢末に一族を率いて益州へ移住した。
州牧の劉璋(りゅうしょう)は彼を牛鞞県長・江原県長・成都県令に次々と任命した。当時の益州は豊かで、財産家は奢侈を競っていた。董和は自ら倹約に努め、規制したため任地の風俗は改まった。だが豪族には恨まれ、巴東郡の属国都尉へ転任させられた。
すると官民が老若男女こぞって数千人も留任を懇願したため、劉璋は2年の留任を認めた。
後に益州太守に上ったが清潔さと倹約さは変わらなかった。南方の異民族とは誠意を持って協力し、敬愛と信頼を得た。(『董和伝』)

県令の爨習(さんしゅう)が罪を犯し、甥の李恢(りかい)とともに免職となりかけたが、益州太守の董和は爨習が豪族であるのを考慮し、不問に付した。後に爨習・李恢はともに蜀の重臣となった。(『李恢伝』)

214年、劉備が益州を制圧すると、掌軍中郎将に任じられ、諸葛亮とともに劉備の幕府の仕事を担当した。(『董和伝』)

その頃、董允は費禕・許叔龍(きょしゅくりゅう)と並び称された。董和は息子と費禕の器を測ろうと、重臣の葬儀の際に、わざと粗末な馬車を用意し、二人を乗せた。董允は周囲の目を気にしたが、費禕は落ち着き払っているのを見て、董和は息子へ「お前と費禕のどちらが優れているか測りかねていたが、今ではよくわかった」と言った。(『費禕伝』)

没年は不明だが、20年以上にわたり重職を歴任しながら、家に余財は全く無かったと伝わる。

諸葛亮とは公私に渡り親しく付き合い、後に丞相になった諸葛亮は部下へ「職務に携わる者は、人々の意見を求めて参考にせよ。もしわずかな不満で人を遠ざけ、自分と違う意見を退ければ、仕事に欠陥を生じる。異なる意見を検討し、適切な施策を行うべきだが、人間は残念ながらそう全てのことには気を配れない。
徐庶(じょしょ)はこうしたことに迷わず、董和は職務にあること7年、常に不充分な点があれば何度も検討し、相談にやってきた。徐庶の十分の一の謙虚さと、董和の繰り返し検討する態度をもって国家に忠誠を尽くせば、私も過失を少なくできただろうに」と語った。
さらに諸葛亮は「初めは崔州平(さいしゅうへい)が欠点を指摘してくれた。次に徐庶に何度も教示を受け、董和はいつも言いたいことを遠慮なしに言ってくれた。胡済(こせい)も諫言し間違いを止めてくれた。私は暗愚で全ての意見を受け入れられなかったが、この四人とは終始気が合った。彼らの直言をためらわない態度を証明するものだ」と述べた。董和への追慕はこれほどに大きかった。(『董和伝』)

子の董允も優れた人物で、諸葛亮・蔣琬(しょうえん)・費禕(ひい)とともに「四相」または「四英」と並び称された。(『董允伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で董和を「清潔な節操を持ち、意気高らかにして不動の心を持ち、もっぱら直言を吐き、民衆はその道義を思慕した」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「詩経の「羔羊の詩」にうたわれる質素な行いをした。蜀の良き臣である」と評した。

また陸遜の子の陸抗(りくこう)や、陳羣(ちんぐん)の子の陳泰(ちんたい)ら父に勝るとも劣らない事績を挙げても通常は父の伝に附伝されるに留まるが、董允は異例なことに別に伝を立てられている。事績も官位も父をはるかに上回っているためかと裴松之は推測している。

「演義」にも登場し、劉備軍が成都に迫ると張魯(ちょうろ)に援軍を求める奇策を立てたり、徹底抗戦を唱えたりと出番が増やされているが、諸葛亮との親交は描かれない。



董和  曹拠の命令で法を犯した司馬


董和(とうか)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「王沈魏書」に曰く。
237年、曹拠(そうきょ)は司馬の董和を都へ送り、禁止されている器物を造らせた罪で領邑2千戸を削られた。(『彭城王拠伝』)



董和  朱光とともに捕虜にされる


董和(とうか)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

214年、廬江太守の朱光(しゅこう)と参軍の董和は皖城を孫権軍に攻め落とされ捕虜となった。

219年、孫権は魏と和睦し朱光を返還した。董和も存命なら同行しただろう。(『呉主伝』)

ちなみに「演義」で朱光は甘寧に一番乗りされ戦死している。



董艾


未作成



董恢  董允に礼を尽くされる


董恢(とうかい)字は休緒(きゅうしょ)
荊州襄陽郡の人(??~??)

蜀の臣。

董允(とういん)が費禕(ひい)・胡済(こせい)と外出しようとした時、郎中の董恢が表敬訪問に来た。董允はすぐに馬車を片付けようとしたが、董恢は年若く官位も低かったため尻込みして遠慮した。
だが董允は「友人と歓談するために出掛けようとしていただけだ。君がわざわざお越しになって話をしてくれるのに、宴会に行くなど考えられない」と言い、外出を中止した。
董允が正しい態度を貫き、士人に謙虚なさまは全てこのようだった。

「襄陽記」に曰く。
宣信中郎となり費禕の副官として呉へ使いした。
孫権は泥酔し「楊儀(ようぎ)・魏延が重用されているが彼らは牧童くらいの小者だ。かつて鶏や犬くらいの役に立ったことがあるだけだが、高位に置いたからにはそう軽視もできない。もし諸葛亮に急変があれば必ず災いを起こし、諸君はどうすればよいかわからなくなるだろう」と言った。
費禕は驚いて返す言葉もなかったが、董恢は目配せして口を挟み「楊儀と魏延は私怨で争っているだけで、反乱を企んでいるわけではありません。功績も事業も才能によってもたらされるもので、彼らを後の災いのために用いないのは、嵐が来る前に自ら櫂を捨てるようなものです」と反論した。
孫権は大笑いし、伝え聞いた諸葛亮は帰国後3日もせずに董恢を丞相府の属官とし、巴郡太守に昇進させた。

しかし裴松之は「この逸話は「漢晋春秋」にも載っているが董恢の言葉とは記されず、内容も異なる。「襄陽記」と「漢晋春秋」はともに習鑿歯の著作なのにだ。しかも正史には董恢の官位は低かったとあるが、この逸話が事実ならばそうは言えず、信用がならない」と指摘する。(『董允伝』)

「演義」では「襄陽記」の逸話は「魏延は諸葛亮の死後に反乱する」の部分だけが切り取られた。
「吉川三国志」では「楊儀・魏延は小者」の部分のみ使われた。
ともに董恢は登場せず、費禕は黙ってそれを諸葛亮へ伝えた。



董貴人  董承の娘


董貴人(とうきじん)名は不明
出身地不明(??~200)

董承(とうじょう)の娘。

献帝の側室となった。

200年、曹操の暗殺を企んだ董承は処刑され、献帝の子を妊娠していた娘の董貴人も連座させた。

後に伏皇后(ふく)がこの件で曹操を激しく非難した手紙が明るみに出たため、214年に処刑された。(『後漢書 后紀』)



董季中  董遇を笑った兄


董季中(とうきちゅう)名は不明
司隷弘農郡の人(??~??)

魏に仕えた董遇(とうぐう)の兄。

興平年間(194~195)に董卓死後の動乱を避け、兄弟は段煨(だんわい)に身を寄せた。生活は貧しかったが、勉強熱心な董遇は農業や行商の合間にも書を手放さず、兄に笑われた。

その後、魏に仕えた董遇は侍中、大司農に上り、「魏略」では儒学の宗家7人に数えられ、当代稀な真に学問を修めた人々と称賛されているが、彼を笑った兄は事績が途絶え、明暗が分かれた。(『王朗伝』)



董箕  曹叡の臨終に立ち会う


董箕(とうき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

黄門令を務めた。
249年、専権を振るう曹爽(そうそう)一派を打倒するため挙兵した司馬懿は上奏の中で「私が先帝(曹叡)に後事を託され、命に替えて勅命に従うと言ったのは董箕や女官らも聞いています」と述べた。(『曹真伝』)



董遇  読書百遍、意自ずから通ず


董遇(とうぐう)字は季直(きちょく)
司隷弘農郡の人(??~??)

魏の臣。

素朴な性格で口数少なく、学問を好んだ。
興平年間(194~195)に董卓死後の動乱を避け、兄の董季中(とうきちゅう)とともに段煨(だんわい)に身を寄せた。生活は貧しかったが、農業や行商の合間にも書を手放さず、兄に笑われても学問を深めた。

196年頃、郡から孝廉に推挙され、次第に昇進し黄門侍郎に上った。献帝に経書を講義し寵愛と信頼を受けた。

218年、吉本(きつほん)らが曹操暗殺を図ると、董遇は関与していなかったが、疑われ閑職に遠ざけられた。

遠征軍に同行した際、少帝の陵墓を通りかかり、曹操は少帝は王として祀られており、皇帝陵として詣でるべきか迷い、意見を求めたが誰も答えられなかった。
すると董遇が進み出て「古例によると年内に死亡すれば君主として認められません」として不要と答え、納得した曹操は参拝しなかった。(『王朗伝』)

220年、曹丕に皇帝即位を勧める文書に給事黄門侍郎として連名した。(『文帝紀』)

黄初年間(220~226)に太守を任され、曹叡の代には都に呼ばれ侍中・大司農に上り、数年後に没した。
「魏略」は董遇ら7人を儒学の宗家とし、当代稀な真に学問を修めた人々と称賛している。

董遇は2つの故事成語を生んでいる。
弟子に請われても無理に教えず「読書百遍、意自ずから通ず」と、ただ読書を勧めた。
そして読書をする余裕が無いと返されると、「冬は歳の残り、夜は日の残り、陰雨は季節の残りである」と言い、冬と夜と雨の日にすればいいと説いた「読書三余」も著名である。

しかし自発的な学問を勧めたため弟子は少なく、春秋左氏伝を注釈した「朱墨別異」は後世に伝わらなかった。(『王朗伝』)



董君雅  董卓の父


董君雅(とうくんが)字が君雅か
涼州隴西郡臨洮県の人(??~??)

後漢の臣。
董卓の父。

「英雄記」に曰く。
小役人から出世して潁川郡綸氏県の尉になった。
董擢(とうてき)、董卓、董旻(とうびん)の三人の子がいる。(『董卓伝』)



董経  焦先に無視された男


董経(とうけい)字は不明
司隸河東郡の人(??~??)

魏の臣。

「傅子」に曰く。
議郎の董経は奇矯な人物を好んだため、同郡の隠者の焦先(しょうせん)に会いに行き「先ちゃん久しぶりだな。白波黄巾軍から逃げたことを覚えているかい」と旧友のように振る舞った。董経は侯武陽(こうぶよう)が彼を助けた逸話を知っていたため、黙ったままの焦先に「武陽を覚えているか」とさらに尋ねた。焦先は「もう彼には恩を返した」とだけ答え、それきり黙った。

「高士伝」に曰く。
焦先の評判を聞いた司馬師が安定太守の董経を会いに行かせたが話をしようとせず、董経は大賢者だと考えた。(『管寧伝』)



董厥  黄皓には無抵抗も剣閣で抗戦


董厥(とうけつ)字は龔襲(きょうしゅう)
荊州義陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
「諸葛亮伝」に附伝される。

諸葛亮の丞相府の令史となり、「優れた人物で、思慮深く過不足がない」と評価され主簿に上った。

234年、諸葛亮の没後も段々と昇進し尚書僕射に上り、258年に陳祗(ちんし)が没すると後任の尚書令を務めた。

諸葛瞻(しょかつせん)・董厥・樊建(はんけん)が政治を担った。
姜維が北伐に出たまま都に戻らなくなると、宦官の黄皓(こうこう)が実権を握ったが、三人はかばい合うだけで矯正できなかった。樊建だけは黄皓と私的に付き合わなかった。

「異同記」に曰く、諸葛瞻と董厥は姜維を益州刺史に任じ、兵権を奪おうとさえした。(『董厥伝』)

263年、魏の大軍が迫ると、廖化(りょうか)が最前線の姜維と合流し、張翼(ちょうよく)と輔国大将軍の董厥が陽安関に向かった。
しかし魏軍の侵攻は早く、姜維・廖化は撤退し、張翼・董厥とともに剣閣に籠城した。
姜維らはよく守ったが、その隙に鄧艾が背後に回って成都を襲撃し、蜀は滅亡した。(『姜維伝』)

264年春、董厥・樊建は(劉禅とともに)洛陽に上り、相国参軍となった。
同年秋、ともに散騎常侍を兼任し、蜀の人々の慰撫にあたった。(『董厥伝』)

「演義」では諸葛亮や姜維の配下として長く活躍。黄皓とも仲良くせず、蜀の滅亡後には心痛から廖化とともに悶死した。



董元  交阯で陶璜と戦った九真太守


董元(とうげん)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

268年、呉の前部督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
南中監軍の霍弋(かくよく)は、益州から九真太守の董元や毛炅(もうけい)、孟幹(もうかん)、孟通(もうつう)、李松(りしょう)、王業(おうぎょう)、爨能(さんのう)らと大軍を率いて迎撃し、脩則と劉俊を討ち取った。(『晋書 陶璜伝』)

269年、呉は虞汜(ぐし)や薛珝(せつく)、陶璜(とうこう)に荊州から、李勗(りきょく)、徐存(じょそん)に海路から交阯を攻めさせた。(『孫晧伝』)

陶璜は交阯太守の楊稷(ようしょく)に敗れ二将を失った。
薛珝が「お前は自ら上表して出撃したのに二将を失った。その責任はどこにある」と激怒すると、陶璜は「私の思った通りにできず、諸軍も従わなかったため負けただけです」と言ったため、薛珝はますます怒り、撤退しようとした。
陶璜は小勢を率いて晋軍の董元に夜襲を掛け財宝を奪う戦果を挙げたため、薛珝は怒りを解き、陶璜を前部督に任じ交州を任せた。
董元は偽って退却したが、陶璜は伏兵を見抜いて逆に罠にはめた。奪った財宝を扶厳の賊徒の梁奇(りょうき)に贈り、援軍1万を得た。

陶璜は董元配下の勇将の解系(かいけい ※晋書に列伝される解系とは別人)に手を焼いた。
そこで解系の弟の解象(かいしょう)を調略し、兄へ説得の手紙を送らせるとともに、解象を自分の車に乗せ、軍楽隊を率い行進した。それを見た董元は「解象でさえこれだけ厚遇されるなら解系は必ず裏切る」と考え、殺してしまった。(『晋書 陶璜伝』)

271年、交阯は陥落した。(『孫晧伝』)



董宏  董允の孫


董宏(とうこう)字は不明
荊州南郡枝江県の人(??~??)

晋の臣。
董允(とういん)の孫。
董和(とうか)の曾孫。

晋に仕え巴西太守となった。(『董允伝』)



董璜  董卓の甥


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董衡  エリート(笑)部隊・七軍の将


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董氏  郭皇后(曹丕)の母


董氏(とうし)名は不明
出身地不明(??~??)

魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の母。

夫の郭永(かくえい)は南郡太守に上ったが、妻の董氏ともども早くに亡くなり、家は没落し、郭皇后は召使いにまで身をやつした。
だが213年に30歳で曹操に見出され、曹丕の侍女となり、彼の後継者争いを助けたため、皇后へと上り詰めた。

230年、二代皇帝の曹叡は郭永に安陽郷敬侯、董氏に都郷君の諡を追贈し、郭一族もそれぞれ昇進させた。
235年に郭皇后も没すると、翌年には一族の家督を継いでいた郭表(かくひょう)が観津侯に封じられたのに合わせ、郭永は観津敬侯、董氏は堂陽君に国替えされた。(『文徳郭皇后伝』)



董氏  馬超の不憫すぎる妻


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董嗣


未作成



董襲  艦長


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董承  忠臣? 疫病神?


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董昭  魏国一の能弁家


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董岑


未作成



董尋  死を恐れず曹叡に諫言する


董尋(とうじん)字は不明
司隸河東郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
237年、曹叡は宮殿造営に飽き足らず、長安から都へ無数の調度品を移送させ、多大な労役を課した。公卿や官僚さえ自ら土を背負わされるのを見かねて、司徒軍議掾の董尋はそれを諌め「私は必ず死ぬと知っていますが、私の命など牛の一毛に過ぎません。8人の子供の面倒を頼みます」と上奏した。
曹叡は上奏が届くと「董尋は死を恐れないのか」と言い、罪に問おうとした官吏を止めさせた。

後年、貝丘の県令となり、清潔かつ簡素な統治で人心をつかんだ。(『明帝紀』)



董綏  董遇の子


董綏(とうすい)字は不明
司隷弘農郡の人(??~??)

魏の臣。
董遇(とうぐう)の子。

「世語」に曰く。
父譲りの才能学識があり秘書監まで上った。
子の董艾(とうがい)は司馬冏(しばけい)の重臣を務めた。(『王朗伝』)



董太后  賄賂大好き霊帝の母


董太后(とうたいこう)名・字は不明
冀州河間郡の人(??~189)

霊帝の母。
董承(とうじょう)は甥にあたる。

解瀆亭侯の劉萇(りゅうちょう)に嫁ぎ後の霊帝の劉宏(りゅうこう)を生んだ。
168年、霊帝が即位すると慎園貴人となった。
同年、竇太后(とうたいこう)の一族が霊帝の廃位を狙って失敗し粛清されると、翌169年に孝仁皇后(こうじんこうごう)に迎えられ、太后の地位を手に入れた。嘉徳殿に起居し、永楽宮と名付けられたため永楽太后(えいらくたいこう)とも呼ばれる。
同時に兄の董寵(とうちょう)も執金吾に任じられたが、後に董太后の命令を詐称したため処刑された。
172年、竇太后が崩ずると朝政にあずかり、霊帝に売官をさせて私腹を肥やした。(『後漢書 孝仁董皇后紀』)

徐璆(じょきゅう)が荊州刺史に赴任した時、南陽太守の張忠(ちょうちゅう)は董太后の甥で、権勢を頼りに膨大な賄賂を取っていた。
董太后も徐璆へ甥をよろしくと頼んだが、「私は国家のためを思い従いません」と拒否された。
董太后は激怒し、張忠を司隷校尉に任じ、徐璆を脅させようとした。徐璆は赴任するや張忠の贈賄を摘発し、加担していた5つの郡太守を罪に服させ、威風を轟かせた。(『後漢書 徐璆伝』)

「続漢書」に曰く、袁紹は大将軍で何皇后の兄の何進(かしん)へ「朝廷は宦官が支配し、董太后は宦官と結託して収賄しています。あなたは天下のために害毒を除いてください」と勧めた。(『袁紹伝』)

188年、甥の董重(とうちょう)を驃騎将軍に任じた。
自ら後の献帝の劉協(りゅうきょう)を養育し、太子に立てるよう霊帝に勧めたため、本来の太子である劉弁(りゅうべん)の母の何皇后(かこうごう)は激しく恨んだ。

189年、霊帝は太子を決めないまま崩じ、劉弁が少帝として即位した。
董重は何進と敵対し、董太后が朝政に干渉しようとすると、何太后が阻止した。
董太后が激怒し「董重に命じて何進の首を持ってこさせてやろう」と脅すと、何太后は何進にそれを告げ、何進とその弟で車騎将軍の何苗(かびょう)・三公の連名で董太后を収賄の罪で摘発し、永楽宮から追放させた。
何進は董重の役所を包囲して自害に追い込み、董太后は憂慮の末に病を得て急逝した。人々は何太后に暗殺されたと噂した。

遺体は故郷の河間郡へ帰り、夫と同じ陵墓に葬られた。(『後漢書 孝仁董皇后紀』)

都の実権を握った董卓は同姓の董太后を一族とみなし、劉協を帝位につかせようと考えた。(『後漢書 董卓伝』)

「献帝紀」・「献帝起居注」に曰く、董卓は何太后が董太后を暗殺したと糾弾し、退位させた。(『董卓伝』)

「演義」では収賄したことは描かれず、何太后と敵対し何進に毒殺される。何太后には「豚殺し風情め」と史実より酷い罵倒をした。

「吉川三国志」では収賄も罵倒も描かれず謀殺される。



董卓  暴君


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董仲連  荀顗・王公仲に並ぶ慎み深さ


董仲連(とうちゅうれん)名は不明
出身地不明(??~??)

魏・晋の臣?
尚書を務めた。

李秉(りへい)の「家誡」に曰く。
司馬昭は李秉に最近の人物で慎み深い者を問うた。人々が迷う中、李秉は荀顗(じゅんぎ)・董仲連・王公仲(おうこうちゅう)の名を挙げた。
司馬昭は「彼らも慎み深いが、天下で最も慎み深いのは阮籍(げんせき)だろうか。彼と語り合うと深遠な話には言及するが、時事の評論や人物評は一切しない。まことに最高の慎み深さと言うべきだ」と言った。
李秉は司馬昭のこの言葉を立派な戒めとする価値があると思い「人間は年少から一人前になるまで、軽々しく他人を評論したり、時事を説いてはならない。そうすれば悔恨は生じず災難も訪れない」と(子らに)述べた。(『李通伝』)

董仲連には他に事績がなく名もわからない。



董种  馬超の義弟


董种(とうちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

馬超の妾の董氏(とうし)の弟。

「典略」に曰く。
211年、馬超は蜂起し曹操と戦った。董种は三輔(長安周辺)に留まっていたが、馬超が敗走すると先に漢中へ逃げ、張魯(ちょうろ)に渡りをつけた。
元旦、年賀の挨拶に行くと馬超は胸を叩いて血を吐き「一日にして一門残らず命を落としてしまったのに二人で年賀を祝えるものか」と言った。(『馬超伝』)

その後、馬超は蜀に降ったが董种の消息は不明である。
姉の董氏は「典略」によると曹操に降伏した張魯配下の閻圃(えんほ)に下げ渡されており、姉に同行し魏に仕えた可能性もあるか。



董冑  董昭の子


董冑(とうちゅう)字は不明
兗州済陰郡定陶県の人(??~??)

魏の臣。
董昭(とうしょう)の子。

236年(『明帝紀』)、父が没すると後を継いだ。
郡太守や九卿を歴任した。(『董昭伝』)



董重  董太后の甥の驃騎将軍


董重(とうちょう)字は不明
冀州河間郡の人(??~189)

後漢の臣。
霊帝の母の董太后(とうたいこう)の甥(兄の子)。

董太后の兄の董寵(とうちょう)は妹が即位すると執金吾に任じられたが、後に董太后の命令を詐称したため処刑された。董重の父の可能性がある。

188年、衛尉・脩侯の董重は驃騎将軍に任じられた。
董太后は自ら後の献帝の劉協(りゅうきょう)を養育し、太子に立てるよう霊帝に勧めたため、本来の太子である劉弁(りゅうべん)の母の何皇后(かこうごう)は激しく恨んだ。

189年、霊帝は太子を決めないまま崩じ、劉弁が少帝として即位した。
董重は何進と敵対し、董太后が朝政に干渉しようとすると、何太后が阻止した。
董太后が激怒し「董重に命じて何進の首を持ってこさせてやろう」と脅すと、何太后は何進にそれを告げ、何進とその弟で車騎将軍の何苗(かびょう)・三公の連名で董太后を収賄の罪で摘発し、永楽宮から追放させた。
何進は董重の役所を包囲して自害に追い込み、董太后は憂慮の末に病を得て急逝した。人々は何太后に暗殺されたと噂した。(『後漢書 皇后紀 下』)



董朝  呉末期のおつかい兼司徒


董朝(とうちょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

258年9月、孫亮を廃位した孫綝(そんちん)は、孫休を次の帝位につけようと考え、孫楷(そんかい)と中書郎の董朝を使者に立て迎えに行かせた。
孫休は魂胆を疑いなかなか応じなかったが、孫楷らに説得され重い腰を上げた。
即位すると迎えの礼として董朝を郷侯に封じたが、すでに列侯していたからか孫楷には特に礼はなかった。(『孫休伝』)

269年、左丞相の陸凱(りくがい)が危篤に陥ったため、孫晧は中書令の董朝に命じて遺言を聞き取らせた。
その際に陸凱は二十箇条にもわたる諫言状を渡したとも言われる。(『陸凱伝』)

276年、陽羨山にある「石室」と呼ばれる巨石に瑞祥が現れていると聞き、孫晧は兼司徒の董朝と周処(しゅうしょ)を派遣し、国山として祀らせた。(『孫晧伝』)



董超  エリート(笑)部隊・七軍の将


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董擢  董卓の兄


董擢(とうてき)字は孟高(もうこう)
涼州隴西郡臨洮県の人(??~??)

董卓の兄。

早逝したとだけ記される。
董卓が都を牛耳ると一族はそのおこぼれにあずかり、董擢の子の董璜(とうこう)も取り立てられたが、董卓が討たれると一族郎党とともに命を落とした。(『董卓伝』)

余談だが次弟の董卓の字は仲穎(ちゅうえい)、三弟の董旻(とうびん)の字は叔穎(しゅくえい)と字の法則に従っているのに、長男の彼は外れている。あるいは伯穎(はくえい)から改めたのかもしれない。



董桃  曹操没後に魏へ使いする


董桃(とうとう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「魏略」に曰く。
三公(鐘繇・華歆・王朗)は孫権の討伐を訴えた上奏の中で「先帝(曹操)が没した時、孫権はその混乱に乗じて董桃を使者として送り、先帝の頃からの地位を継ぎたいと願い出て、その返事が遅れたのを理由に襄陽を占拠しました」と述べた。(『呉主伝』)



董巴  曹丕の帝位禅譲を支持した博士給事中騎都尉


董巴(とうは)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「献帝伝」に曰く。
220年、曹丕に皇帝即位を勧める文書に博士給事中騎都尉として連名した。
後に同職の蘇林(そりん)とともに天文や故事を引き重ねて即位を勧めたが、曹丕は(形式上)辞退した。(『文帝紀』)



董白  董卓の孫娘


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董弼  鮮卑に敗死


董弼(とうひつ)字は不明
出身地不明(??~233)

魏の将。

233年、長年に渡り争ってきた鮮卑の歩度根(ほどこん)と軻比能(かひのう)は和睦すると、魏に反旗を翻した。
并州刺史の畢軌(ひつき)は将軍の蘇尚(そしょう)・董弼を差し向けた。軻比能は息子に1千騎を預け、歩度根の眷属を迎えに行かせたところ、蘇尚・董弼に出くわし遭遇戦となり、撃破された蘇尚・董弼は戦死した。(『明帝紀』・『鮮卑伝』)



董旻  ミニ董卓


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董扶  劉焉に益州入りを勧める


董扶(とうふ)字は茂安(ぼうあん)
益州広漢郡の人(??~??)

後漢の臣。

若い頃に多くの経書を学び、特に尚書学に通じた。
さらに楊厚(ようこう)に図讖(予言)を学び、その奥義を究めた。
都の太学で学び、故郷に帰り教鞭をとると、遠方から多くの弟子が押し寄せた。(『劉焉伝』)

同門の任安(じんあん)と学問・品行において同等の名声を博し、周舒(しゅうじょ)が二人に次いだ。(『秦宓伝』・『周羣伝』)

167年、日食を機に桓帝が賢者を募ると、趙謙(ちょうけん)は董扶を推挙した。だが病気を理由に都に上がらず、長安から意見書を出しただけで、重病になったと称して帰郷した。
宰相の役所から10回、朝廷から公車で迎えられること3回、賢者や博士に2回招かれたが全て断り、大いに名声を高めた。

大将軍の何進(かしん)に推挙され、霊帝の招きに応じ侍中となった。朝廷では儒宗と仰がれ、その識見を称えられた。
その頃、劉焉(りゅうえん)は後漢の衰退を感じ、地方の長官に赴任したいと考えていた。はじめは交阯(交州)を望んでいたが、董扶に「都は今まさに乱れようとし、益州には天子の気があります」と勧められ、益州へ希望を変えた。
当時、益州刺史の郤倹(げきけん)は悪評高く、并州・涼州の刺史が相次いで殺害されたこともあり、劉焉の願いは叶い益州牧として赴任した。

188年、董扶も希望して益州蜀郡の属国都尉に赴任した。
益州では彼と対等に議論できる者はおらず、彼が至れば議論が止むことから「至止」と呼ばれた。
翌年に霊帝が崩御し、董卓の専横により天下は大混乱に陥った。
董扶は後に官を辞して帰郷し、82歳で没した。

後に諸葛亮が秦宓(しんふく)へ、董扶の優れた点を尋ねると「毛筋ほどの善を賞賛し、けしつぶほどの悪を非難しました」と答えた。(『劉焉伝』)

陳寿は「劉焉伝」の評で「天命はみだりに願ってはならないという。董扶の言葉で益州へ心を向け、占い師を信じ呉氏と婚姻し、天子の車や衣装を作り天下を盗もうとした。その判断力の無さは甚だしい」と非難した。



董芬  甘始を見習い死にかける


董芬(とうふん)字は不明
司隸弘農郡の人(??~??)

後漢の臣。

196年、董卓残党の支配する長安を脱出し曹操の庇護を受けた献帝は、随行した群臣10数人を列侯した。
「後漢紀」に曰く、御史中丞の董芬らが列侯された。(『後漢書 董卓伝』)

「博物志」に曰く。
曹操は道家の養生の法に詳しく、方術士の左慈、華佗(かだ)、甘始(かんし)、郤倹(げきけん)らを招いた。(『武帝紀』)

曹丕の「典論」に曰く。
甘始は行気(呼吸術)に巧みで年を取っても若々しい顔だった。人々は彼ら方術士を見習い、甘始がやってくると体操や行気が流行し、軍謀祭酒の董芬はやりすぎて窒息し死にかけた。(『華佗伝』)



董奉


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董訪  董昭の弟


董訪(とうほう)字は不明
兗州済陰郡定陶県の人(??~??)

魏の臣。
董昭(とうしょう)の弟。

董昭は袁紹に仕えたびたび功績を立てたが、董訪の仕える張邈(ちょうばく)が袁紹と険悪だったため(内通の)讒言をされ、それを信じた袁紹に処罰されそうになり出奔した。

董昭はその後、曹操に仕え大いに昇進した。
221年、董昭の領邑から100戸を分割し、董訪も関内侯に封じられた。(『董昭伝』)



董蒙  曹操に魏公即位を勧めた南郷亭侯


董蒙(とうもう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に南郷亭侯として連名した。(『武帝紀』)



僮芝  廬陵太守を自称


僮芝(とうし)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

賊徒?

197年、揚州刺史の劉繇(りゅうよう)が病没すると、駐屯していた豫章郡では兵や民ら一万人余りが行き場を失った。
この混乱に乗じて僮芝は廬陵太守を勝手に名乗った。

太史慈は豫章の慰撫に向かい、「豫章太守の華歆(かきん)は現況を見守っているだけです。廬陵郡では僮芝が詔勅を受けたと偽り太守を自称し、鄱陽郡では賊徒が独立していますが、何もできていません」と報告した。孫策はこれを聞き、豫章の制圧を考えた。(『太史慈伝』)

孫賁(そんふん)が豫章を制圧し、太守に任じられた。
孫策は「豫章で僮芝の喉元を押さえ、門戸を見張って欲しい。有利と見たら孫輔(そんほ)に攻撃させ、周瑜に助勢を命じてください」と頼んだ。
後に僮芝が病にかかったと聞くと、孫輔・周瑜に攻撃させ、廬陵を制圧した。(『孫賁伝』)



銅鞮侯  文徳郭皇后が召使いをしていた主


銅鞮侯(どうていこう)本名は不明
出身地不明(??~??)

素性不明。

文徳郭皇后(ぶんとくかくこうごう)は早くに両親を失って流浪し、銅鞮侯の家の召使いに身をやつしていた。
213年、曹操は魏公に即位すると彼女を見出して曹丕に仕えさせた。智略で後継者争いを助け、やがて皇后に上った。(『文徳郭皇后伝』)

銅鞮侯の素性は不明だが、銅鞮県は并州上党郡にある。



滕胤  そいつは悪いニュースだ


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滕脩  呉の滅亡後も広州を治める


滕脩(とうしゅう)字は顕先(けんせん)
荊州南陽郡西鄂県の人(??~288)

呉・晋の臣。
別名は滕循(とうじゅん)。

呉に仕え将軍となり、西鄂侯に封ぜられた。(『晋書 滕脩伝』)

269年、陸凱(りくがい)は遺言で「社稷の根幹となり、国家の良き補佐者となる者たち」と滕脩らの名を挙げた。(『呂岱伝』)

孫晧の代に熊睦(ゆうぼく)に代わって広州刺史となり、威厳があり民に恩恵を施した。(『晋書 滕脩伝』)

はじめ南方の賊徒に苦戦していたが、陶璜(とうこう)に「賊は呉の塩や鉄に依存しているから、この交易を断てば武器を壊して農具を作り始める。2年後には一戦で討伐できよう」と助言され、勝利を得た。(『晋書 陶璜伝』)

ある人が「髭の長さが1丈(240cm)もあるエビがいる」と話したが滕脩は信じなかった。その人はわざわざ東海まで出向き、4丈4尺の髭を持つエビを入手し送りつけ、滕脩に誤りを認めさせた。(『呂岱伝』)

後に都に上り執金吾となった。(『晋書 滕脩伝』)

279年、司空に任命されたが、就任前に広州で郭馬(かくば)が反乱したため、実績ある滕脩が使持節・都督広州軍事・鎮南将軍・広州牧に任じられ、1万の兵を率い討伐に出た。(『孫晧伝』・『晋書 滕脩伝』)

滕脩が始興郡で王族(おうぞく)軍に足止めされるうちに、郭馬は南海太守の劉略(りゅうりゃく)を殺し、広州刺史の徐旗(じょき)を追放した。(『孫晧伝』)

平定する前に晋の大軍が攻め寄せ、滕脩は救援に向かおうとしたが280年、巴丘まで来たところで孫晧は降伏し呉は滅亡した。

喪服を着て涙を流し帰還すると、広州刺史の閭豊(りょほう)、蒼梧太守の王毅(おうき)とともに自身の印綬を晋へ送り届けた。
司馬炎は滕脩を安南将軍とし、広州牧・持節・都督のままで、武当侯に封じ、軍楽隊を与え、南方の統治を任せた。
滕脩は長く南方にあり、辺境の異民族を帰服させた。

288年に没した。
都に葬って欲しいという遺言を聞き入れ、司馬炎は墓田を与え声侯と諡した。

後に子の滕並(とうへい)が「声侯(※亡国の臣という意味がある)ではただ名を広めただけで、行いと実績は称賛されていない」と抗議し、忠侯と改められた。

滕並の子の滕含(とうがん)も広州刺史を務め、威厳と恩恵を示し列侯された。(『晋書 滕脩伝』)

「演義」には司空として登場。晋の大軍が迫ると孫晧に善後策を問われたが、丞相の張悌(ちょうてい)だけが答え、一言のセリフも与えられなかった。



滕耽


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滕胄


未作成



滕夫人  孫晧の皇后


滕芳蘭(とうほうらん)字は不明
青州北海国劇県の人?(??~??)

孫晧の皇后。
滕牧(とうぼく)の娘。名は「建康実録」に見える。

257年、一族の滕胤(とういん)が謀叛を企てたとして処刑され、遠縁の滕牧は死罪は免れたが配流された。
258年、孫休が3代皇帝に即位すると大赦が出され、滕牧は都に戻り、列侯された孫晧に、滕芳蘭は正室として迎えられた。

264年、孫休が30歳で急逝し、子も幼かったことから孫晧が4代皇帝に即位した。孫晧は生前の恩に報いるどころか孫休の妻子を皆殺しにし、滕芳蘭を皇后に立て、滕牧を列侯した。(『孫晧伝』・『孫晧滕夫人伝』)

孫晧の暴虐が募ると、朝臣たちは外戚の滕牧を押し立てて諫言したが、滕芳蘭への寵愛が冷めかけており、孫晧は不快に思った。孫晧の母の何姫(かき)が弁護したため廃后や死罪は免れたが、滕牧は爵位はそのままで交州蒼梧郡へと強制移住させられ、その途上で心労から没した。

そうしたことから滕芳蘭は義母の何姫のご機嫌伺いを欠かさなかった。だが皇后付きの官吏は名目上のみ揃えられ、形式だけの朝賀などが続けられ、孫晧は後宮のお気に入りに皇后の印綬を次々と与えたという。

280年、呉が滅亡すると孫晧とともに洛陽へ移住した。(『孫晧滕夫人伝』)
284年に孫晧も没すると、滕芳蘭は夫のために哀愁あふれる追悼文をものしたと伝わる。
没年は不明だが洛陽で亡くなった。(『建康実録』)



滕並  父の諡を改めさせた滕脩の子


滕並(とうへい)字は不明
荊州南陽郡西鄂県の人(??~??)

呉・晋の臣。
滕脩(とうしゅう)の子。

呉の広州牧を務めた父は、呉の滅亡後も留任され統治し続け、288年に没し声侯と諡された。

後に子の滕並が「父は呉で主君の手綱を取り、晋でも(司馬炎の)顔を拝す前に南方守備を任されましたが、それも陛下の耳に父の功績が届いていたためです。ところが博士たちは声侯(※亡国の臣という意味がある)と諡しました。これではただ名を広めただけで、行いと実績は称賛されていません」と抗議し、忠侯と改められた。

滕並の子の滕含(とうがん)も広州刺史を務め、威厳と恩恵を示し列侯された。(『晋書 滕脩伝』)



滕牧  滕夫人の父


滕牧(とうぼく)字は不明
青州北海国劇県の人?(??~??)

呉の臣。

元の名は滕密(とうみつ)だが、丁密(ていみつ)の名を避けて滕牧に改名した。すると丁密も滕牧をはばかって丁固(ていこ)に改名した。(『孫晧伝』)

257年、一族の滕胤(とういん)が謀叛を企てたとして処刑され、遠縁の滕牧は死罪は免れたが配流された。
258年、孫休が3代皇帝に即位すると大赦が出され、滕牧は都に戻り五官中郎将に任じられた。(『孫晧滕夫人伝』)

264年、孫晧が4代皇帝に即位し、娘が皇后(滕夫人)に立てられると、滕牧は高密侯に封じられ衛将軍・録尚書事を授かり、母の兄弟の何洪(かこう)ら三人も列侯された。(『孫晧伝』・『孫晧滕夫人伝』)

266年、丁忠(ていちゅう)が晋への遣いから帰国すると、祝宴が開かれた。その席上でかねてから孫晧に恨まれていた王蕃(おうばん)が、怒りを買って処刑を命じられた。滕牧と留平(りゅうへい)が助命嘆願したが聞き入れられず、王蕃は殺された。(『王蕃伝』)

同年12月、孫晧は都を建業に戻し、元の都の武昌は衛将軍の滕牧が守りに当たった。(『孫晧伝』)

孫晧の暴虐が募ると、朝臣たちは外戚の滕牧を押し立てて諫言したが、滕夫人への寵愛が冷めかけており、孫晧は不快に思った。孫晧の母の何姫(かき)が弁護したため廃后や死罪は免れたが、滕牧は爵位はそのままで交州蒼梧郡へと強制移住させられ、その途上で心労から没した。(『孫晧滕夫人伝』)



鄧艾  蜀に引導を渡した文武両道の名将


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鄧凱


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鄧義  劉表に諫言を退けられ隠棲する


鄧義(とうぎ)字は不明
荊州章陵郡の人(??~??)

劉表(りゅうひょう)の臣。

196年、曹操が献帝を許昌へ迎え入れると、荊州牧の劉表は朝貢したが、袁紹と同盟し続けた。
治中の鄧義が諌めたが聞き入れられず、鄧義は病気と称して官を辞し、劉表が没するまで隠棲した。

「漢晋春秋」に曰く、劉表は「朝廷には貢物を怠らず、盟主(袁紹)は裏切らない。筋の通った天下の道義なのに、治中(鄧義)一人がどうしておかしいと思うのだ」と言った。

208年、劉表が没し曹操が荊州を制圧すると、鄧義は召し出され侍中に任じられた。(『劉表伝』)

「演義」では曹操軍が攻め寄せるといち早く降伏した。



鄧玄之  郝普の友人


鄧玄之(とうげんし)字が玄之か
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣?

214年、劉備が益州を制圧すると、呂蒙は手薄になった荊州へ出兵し、長沙・桂陽の二郡を降伏させたが、零陵太守の郝普(かくふ)は降伏勧告に応じず籠城した。
劉備と関羽の援軍が迫ると、孫権は撤退を命じたが、呂蒙はそれを秘匿すると、同行していた鄧玄之に「我々は優勢で、あなたの友人の郝普は風前の灯だ。関羽が孫規(そんき)に打ち破られたのはあなたもその目で見ただろう。城が落ちたら郝普も、百歳近い彼の母も殺される。どうか郝普に戦況を伝えて降伏させて欲しい」と頼んだ。
鄧玄之に説得され郝普は零陵の城を出た。呂蒙は潜ませていた兵にすぐさま城を確保させ、郝普を迎えると、孫権からの撤退命令を見せ大笑いした。郝普は敵軍が優勢どころか撤退寸前だったと知り、床に突っ伏して後悔した。
間もなく劉備と孫権は和睦し、郝普と零陵は返還された。(『呂蒙伝』)



鄧賢  二人の鄧賢


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鄧句  呂興に殺された孫休の使者


鄧句(とうこう)字は不明
出身地不明(??~263)

呉の臣。

263年、交阯郡役人の呂興(りょこう)は反乱し魏に寝返った。(『孫休伝』)

その経緯はいくつかあり、「魏書」に曰く。
曹奐は詔勅で「孫休は鄧句を遣わして交阯太守に命じ、住民を鎖につないで連行し徴兵した。大将の呂興は民の怒りを利用して挙兵し、鄧句を殺し、太守を追放した」と述べた。(『陳留王紀』)

「晋書」に曰く。
交阯太守の孫諝(そんしょ)は欲が深く暴虐で、民衆に憎まれていた。察戦の鄧荀(とうじゅん)が訪れ孔雀3千羽を徴発させた。労役に苦しむ民を扇動し、郡役人の呂興が反乱し孫諝と鄧荀を殺した。(『晋書 陶璜伝』)

鄧荀は鄧句の誤記か別名だろう。



鄧子孝  許靖の友人B


鄧子孝(とうしこう)字が子孝か
出身地不明(??~??)

素性不明。

許靖(きょせい)が曹操へ送った手紙に曰く。
許靖は会稽太守の王朗(おうろう)に身を寄せていたが、孫策に侵攻され袁沛(えんはい)・鄧子孝とともに交州へ逃げた。
曹操が献帝を推戴したと聞くと、袁沛・徐元賢(じょげんけん)とともに中原へ戻ろうとしたが蒼梧郡で蛮族に襲われ徐元賢が殺された。

「魏略」に曰く。
223年、王朗は許靖へ手紙を送り「以前に従軍した時(※208年赤壁の戦いか)に荊州で鄧子孝・桓元将(かんげんしょう)に会い一晩中あなたの話をしました」と旧交を温めた。(※許靖は222年に没したがその知らせは届いていなかったようだ)(『許靖伝』)



鄧芝  蜀と呉を結んだ交渉人


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鄧升  壺口関を守った高幹配下B


鄧升(とうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

高幹(こうかん)の臣。

206年、曹操に攻められた高幹は壺口関の守りを夏昭(かしょう)・鄧升に任せ、自身は匈奴へ救援を求めに向かった。
しかし失敗し、数人の従者とともに荊州へ亡命を図ったが途上で捕らえられ殺された。(『袁紹伝』)

夏昭・鄧升のその後は不明である。



鄧生  王基に偽装投降を見抜かれるD


鄧生(とうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

261年、呉の鄧由が内応を申し出て、王基(おうき)は進撃するよう命じられたが、疑念を抱き応じないよう進言し、司馬昭もそれに従った。結局、内応しなかった。

「戦略」に詳細が記される。
襄陽太守の胡烈(これつ)は「呉の鄧由(とうゆう)・李光(りこう)が内応を申し出て、将の張呉(ちょうご)・鄧生らとともに人質を送ってきました。期日を決めて進撃し協力して呉の屯営を落としたいと存じます」と上奏した。
司馬昭は王基・胡烈に1万の兵を与え許可しようとしたが、王基は地勢を分析し「道は狭く伏兵に襲われればひとたまりもありません。曹爽(そうそう)が蜀を、姜維が魏を攻め、文欽(ぶんきん)が反乱したが全て失敗しました。これらは戒めとすべき最近の出来事です。反乱が相次ぐ今は内を安定させるべきで、外に利益を求めるべきではありません」と反対した。何度も文書をもらい司馬昭も疑念を生じ、進軍を止めさせた。
はたして鄧由らは内応しなかった。(『王基伝』)

姓が同じで鄧由の一族だろうか。



鄧済  湖陽県を守る劉表配下


鄧済(とうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

劉表(りゅうひょう)の臣。

197年11月、曹操は自ら荊州南陽郡宛県まで進出し、劉表の将で南陽郡湖陽県を根拠地とする鄧済を攻撃し、生け捕りにした。(『武帝紀』)



鄧静  雅楽の名手の散郎A


鄧静(とうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢・魏の臣。

曹操は音楽家の杜夔(とき)を軍謀祭酒に任じ、太楽(宮廷音楽)を新たに制定させた。
杜夔は並外れた音感と聴覚を持ち、弦楽器や管楽器ら8種の楽器を全て演奏できたが、歌と舞は得手ではなかった。
そこで散郎(特に任務のない役職)で雅楽を詠ずるのに長じた鄧静・尹斉(いんせい)や歌師の尹胡(いんこ)と、舞師の馮粛(ふうしゅく)・服養(ふくよう)らを集めて古代からの音楽を考究し、古くは四書五経から、近代の様々な事例を参考に、芸能者を養成し、楽器を作り揃えた。古来からの音楽を復興し、後世に引き継がせたのは全て杜夔の尽力によるものである。(『杜夔伝』)



鄧千秋  鄧艾の報われない孫


鄧千秋(とうせんしゅう)字が千秋か
荊州義陽郡棘陽県の人(??~??)

晋の臣。
鄧艾の孫。

鄧艾は264年、反乱者の汚名を着せられ処刑され、子も全て連座で殺され妻と孫は西方へ配流された。

267年、段灼(だんしゃく)が名誉回復を願い、273年に嫡孫の鄧朗(とうろう)は郎中に取り立てられた。

「世語」に曰く。
2番目の孫の鄧千秋は人望があり、光緑大夫の王戎(おうじゅう)の掾に招かれた。
永嘉年間(307~313)、鄧朗は新都太守に昇進したが、赴任前に襄陽で火事に遭い、母・妻・子とともに焼死した。2人の子だけが無事だった。
鄧千秋は既に没していたが、彼の2人の子も焼死した。(『鄧艾伝』)



鄧忠  鄧艾の子


鄧忠(とうちゅう)字は不明
荊州義陽郡棘陽県の人(??~264)

魏の臣。
鄧艾の子。

256年、蜀との戦いでの武功により鄧艾の爵位が進められ、500戸を分割し鄧忠も恵唐亭侯に封じられた。

263年、鄧艾の指揮下で蜀征伐に従軍した。
綿竹関に籠城する諸葛瞻(しょかつせん)を師簒(しさん)とともに攻めたが敗走し「敵を破ることはまだ不可能です」と報告すると、鄧艾は「この一戦に存亡が掛かっているのに不可能とは何事だ」と二人を怒鳴りつけ、殺そうとした。
鄧忠・師簒はすぐさま戻って再攻撃し、陥落させ諸葛瞻を討ち取った。
鄧艾軍は成都へ迫り、劉禅は降伏し蜀は滅亡した。

増長した鄧艾は独断で人事を決め、司馬昭に勢いに乗って呉を攻めるよう進言し、戒められても勝手に軍を動かそうとさえした。
鍾会・師簒らは鄧艾が反乱を企んでいると告発し、鄧艾・鄧忠は捕らえられ檻車に乗せられた。(『鄧艾伝』)

鍾会は自身が反乱を企んでおり、鄧艾が専断しているのに付け込んで告発し陥れたのである。
逮捕を命じられた衛瓘(えいかん)は鄧艾の配下を説得して武装解除させた。(『鍾会伝』)

264年、反乱した鍾会は速やかに鎮圧され殺された。
鄧艾の配下は檻車を追いかけて助け出した。だが報復を恐れた衛瓘は田続(でんしょく)に鄧艾父子を殺させた。
「漢晋春秋」に曰く、田続は進軍をためらったため鄧艾に処刑されかけたのを恨んでいた。
「世語」に曰く、師簒も鄧艾とともに殺された。

洛陽にいた他の子らも連座で処刑され、妻と孫は西域へ配流された。

273年、鄧艾の名誉が回復され、嫡孫の鄧朗(とうろう)が取り立てられた。鄧忠の子だろうか。(『鄧艾伝』)

「演義」では蜀征伐の際に20歳ほどの美青年と設定され、鄧艾と勘違いした姜維と互角に戦った。史実の鄧艾は70歳近いが姜維の目は節穴なのだろうか。

  ち1  ち2  ち3  ち4  ち5  ち6  ち7
て1  て2  と1  と2  と3