三国志 ち 1


池陽君  董卓の母


池陽君(ちようくん)本名は不明
出身地不明(??~192?)

董卓の母。

189年、董卓が少帝を廃し献帝を立てて実権を握ると、母も池陽君に取り立てられ、家令・乗を置くことを許された。

「英雄記」に曰く。
192年、董卓が呂布に暗殺された時、一族は郿城に集まっていたが、配下によって皆殺しにされた。
90歳になる池陽君は門まで走って逃げ「どうか助けて下さい」と懇願したがすぐさま首を斬られた。(『董卓伝』)



治元多  胡族三巨頭?


治元多(ちげんた)
胡族の人(??~??)

221年、涼州で伊健妓妾(いけんぎしょう)・治元多・封賞(ほうしょう)が魏に反乱した。
「文帝紀」には伊健妓妾ではなく盧水(ろすい)という名が見えるが、「張既伝」に伊健妓妾は涼州盧水の人と記され、同一人物と思われる。(『文帝紀』・『張既伝』)

反乱を聞いた曹丕は張既(ちょうき)でなければ対処できないと考え、涼州刺史に交代させた。
張既は後詰めを待たずに強行軍で進撃し、その速さに胡族は神業と驚き後退した。
さらに張既は歩を緩めず兵を進め、胡族をおびき寄せると伏兵で叩き、大勝利を挙げた。

伊健妓妾らの消息は不明である。(『張既伝』)



治無載  羌族一のハードパンチャー


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郗慮  孔融と犬猿の仲


郗慮(ちりょ)字は鴻豫(こうよ)
兗州山陽郡高平県の人(??~??)

後漢の臣。

若い頃は鄭玄(じょうげん)に師事した。
196年頃に侍中に任じられた。(『武帝紀』)
荀彧(じゅんいく)の推挙だという。(『荀彧伝』)

ある時、献帝に郗慮の長所を尋ねられた孔融(こうゆう)は「道義に優れるが臨機応変ではありません」と答えた。郗慮は孔融がかつて北海太守だった頃の失策をあげつらい、どこが臨機応変だったのかと聞き返し、二人は不仲となったため、曹操が仲裁した。(『武帝紀』)

曹操が禁酒令を出すと、孔融は「桀王や紂王は女色で身を滅ぼしたのだから婚姻も禁じるべきでは?」とからかった。曹操は内心では不快に感じたが表に出さなかったものの、郗慮はそれを察して孔融を罷免させた。(『崔琰伝』)

208年、司徒の趙温(ちょうおん)が曹丕を招聘すると、曹操は趙温がおもねろうとしていると糾弾した。献帝は郗慮に命じて趙温に罷免を伝えさせた。(『文帝紀』)

213年、曹操が魏公に任じられた時には、郗慮が朝廷の使者を務めた。

214年、伏皇后(ふく)が曹操の非道さを父に訴えた手紙が露見し、処刑された。郗慮は皇后が捕らえられる際に献帝と同席しており、献帝は彼へ「天下にこんなことがあるのか」と嘆いた。(『武帝紀』)

御史大夫の郗慮は劉劭(りゅうしょう)を招聘しようとしたが、罷免されたため取り止められた。(『劉劭伝』)

「演義」では孔融の恨み節を曹操に密告して処刑させたり、自らも伏皇后の逮捕に踏み込んだりと、ダーティーな活躍をしている。



智鬱築鞬


未作成



置鞬落羅


未作成



中山王


未作成



仲姫  孫奮の母


仲姫(ちゅうき)名は不明
出身地不明(??~??)

孫権の側室。
孫奮(そんふん)の母。

270年、4代皇帝の孫皓は寵愛する王氏(おう)を亡くし、悲しみのあまり政務を放り出し数ヶ月の間、表に出なかった。
やがて孫皓の死亡説が流れ、孫奮か、その従兄弟の孫奉(そんほう)が即位するという噂が流れた。(※「孫皓伝」では噂が流れたのは274年と記される)
豫章太守の張俊(ちょうしゅん)はそれを真に受け、孫奮の母の仲姫の墓を掃除し恩を売ろうとした。
孫皓は噂を知ると激怒し、孫奮とその5人の子と孫奉を処刑し、張俊を車裂きにした。(『孫策伝』・『孫奮伝』)



仲長  桓範に流産させられた妻


仲長(ちゅうちょう)字は不明
出身地不明(??~249?)

魏の臣の桓範(かんはん)の妻。

桓範は自身が冀州牧に転任するという噂を聞き、以前は下位にいた呂昭(りょしょう)の部下になるのを厭い、妻の仲長に「諸卿になり三公に拝礼するならまだしも、呂昭に頭を下げるなどごめんだ」と愚痴った。
妻は「あなたは以前、部下の鄭岐(ていき)を殺そうとして、あなたの下で働くのは難しいと皆に思われました。呂昭に頭を下げるのは屈辱だと言われるなら、あなたの上で働くのも難しいということですね」とからかった。
痛い所を突かれた桓範はカッとなり刀の柄で妻の腹を突き、流産させてしまった。桓範は病と称して冀州牧を辞退した。(『曹真伝』)

存命なら249年の曹爽一派処刑の際に彼女も殺されただろう。



仲長統  高幹を諫言する


仲長統(ちゅうちょうとう)字は公理(こうり)
兗州山陽郡高平県の人(??~220)

魏の臣。
「劉劭伝」に附伝される。

若い頃から学問を好み、広く書籍を集め、文章表現は豊かだった。
20余歳で青州・徐州・并州・冀州を遊学し、多くの人物に評価された。

并州刺史で袁紹の甥の高幹(こうかん)は名家の出で名声高く、并州から離れた人士を広く呼び戻していた。名高い仲長統も彼を訪ね厚遇されたが「あなた(高幹)は雄大な志があるが雄大な才能が無い。才能ある人物を好むがそれを見分けられない」と諫言し、自信過剰な高幹は聞き入れず、結局去られてしまった。間もなく高幹は失敗し、仲長統の名声は高まった。

魏の重臣の常林(じょうりん)は繆襲(きゅうしゅう)へ「仲長統は独立不羈の人柄で勇敢に直言し、小さな節義にこだわらず、招聘されても病気と称して応じない」と語った。
一方で、沈黙しているかと思えば滔々としゃべったり、態度をころころ変えるため狂人と噂する者もいた。
荀彧は広く人材を集め、変わったことを好んだため、仲長統の名を聞くと招聘し、尚書郎に任じた。
曹操を軍事面でも助け、後に尚書郎に戻って220年に40余歳で没した。

没後、繆襲は「仲長統は常に古今にわたって世俗の事件を論説し、怒りを燃やし嘆息していました。彼の論文をまとめた「昌言」が24編あります」と上奏した。

陳寿も「昌言」を「言葉の美しさには見て味わうべきものがある」と評した。(『仲長統伝』)



注詣  反乱した焼当羌の王B


注詣(ちゅうけい)
羌族の人(??~??)

焼当羌の王。

238年、同じく焼当羌の王の芒中(ぼうちゅう)とともに反乱し、涼州刺史(※徐邈(じょばく)か)に討伐され、注詣は斬られた。(『明帝紀』)



柱天将軍  交趾刺史と合浦太守を捕らえた反乱者


柱天将軍(ちゅうてんしょうぐん)姓名は不明
交州の人(??~??)

賊徒。

古くから交趾(交州)は多くの宝石や美木を産出する肥沃な土地で、歴代の交趾刺史は私腹を肥やし、誰もが赴任したがり民には恨まれた。
184年、反乱により交趾刺史と合浦太守の来達(らいたつ)が捕らえられ、首謀者は柱天将軍と自称した。霊帝は対処できる能吏を選抜させ、賈琮(かそう)が後任の交趾刺史となり1年で平定した。(『後漢書 賈琮伝』・『後漢書 霊帝紀』)

本名は不明。前漢を滅ぼした王莽と戦った劉縯が柱天大将軍を名乗っており、それにちなんだのか。
賈琮は清廉さで武を用いずに反乱を鎮圧しており、柱天将軍も帰農したのだろうか。



种輯  2度の暗殺失敗


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种劭  父と主君に合わせる顔がない


种劭(ちゅうしょう)字は申甫(しんほ)
司隷河南尹洛陽県の人(??~194)

後漢の臣。
种払(ちゅうふつ)の子。种暠(ちゅうこう)の孫。

父の种払が潁川太守を務めていた頃、同郡の黄綱(こうこう)は霊帝の側室の程夫人(ていふじん)の縁戚で、権力を笠に着て、山沢の独占を要求した。种払は「黄綱は権力者だ。断れば恨みを買い、認めれば民が苦しむ」と迷い、功曹の劉翊(りゅうよく)に相談した。劉翊は「古来より山沢は民衆のためにあるものです。もしあなたが認めれば汚名となり、令息の种劭殿は親子の縁を切り、あなたが没しても孤児になったわけではないと考えるでしょう」と進言したため、要求を拒否した。(『後漢書 劉翊伝』)

种劭も若くして名を知られ、中平年間(184~189)末期に諫議大夫となった。

189年、大将軍の何進(かしん)は朝廷を牛耳る宦官を誅殺するため、各地から兵を集め、并州牧の董卓も呼び寄せた。
だが董卓が澠池まで来たところで心変わりし、种劭を遣わし詔勅で行軍を停止させようとした。董卓はこれを無視し河南郡まで進んだ。
种劭は董卓を出迎え労をねぎらうとともに、引き上げるよう命じた。董卓はすわ変事かと疑い、兵で囲み武器で脅させた。だが种劭はひるまず「詔勅である!」と怒鳴りつけて兵を下がらせ、董卓を責めた。さしもの董卓も屈し、撤兵した。

同年、何進は宦官に先手を打たれ暗殺され、董卓は混乱に乗じて都の実権を握り、献帝を即位させた。
种劭は侍中に任じられたが、董卓は剛直な彼を疎んじ、議郎に左遷し、さらに益州・涼州刺史として外に出そうとした。
だが192年、董卓は暗殺され、その残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)と戦い父の种払が死んだため取りやめとなった。(『後漢書 种劭伝』)

ただし「献帝紀」には前益州刺史・元涼州刺史と記されており、叙任されたが种払が死んだため赴任できなかった、ということだろうか。(『後漢書 献帝紀』)

服喪を終えると少府・大鴻臚に任じられたが「父は国に殉じたが、私は子であり臣下でありながらその復讐も果たせていない。どの面下げて帝に拝謁できようか」と辞退し、馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)・劉範(りゅうはん)・馬宇(ばう)らとともに挙兵し、李傕・郭汜と戦った。

194年、郭汜に敗れ种劭らは戦死し、馬騰・韓遂は撤退した。(『後漢書 种劭伝』)

「董卓伝」には192年、馬騰・韓遂が降伏し、韓遂は涼州へ帰らされた。
後に馬宇・种劭・劉範は共謀し、馬騰の兵を招き入れ内から呼応しようとしたが、露見して馬騰は敗走し、馬宇らは樊稠(はんちゅう)に殺された、と記される。(『董卓伝』)

また「劉焉伝」には馬騰が反逆し、劉範は父の劉焉(りゅうえん)と共謀し、馬騰とともに長安を襲撃した、とあり首謀者は劉範・劉焉父子のように読める。(『劉焉伝』)



种払  大臣たる者の心得


种払(ちゅうふつ)字は穎伯(えいはく)
司隷河南尹洛陽県の人(??~192)

後漢の臣。
种暠(ちゅうこう)の子。
姓は種払(しゅふつ)とも書かれる。

はじめ司隸従事となり、荊州南陽郡宛の県令に任じられた。
当時の郡役人は頻繁に休暇を取っては娯楽に興じ、民衆に疎まれていた。そこで种払は外出中に彼等に行き合うと、馬車を降りて慇懃に礼をして、自ら恥じ入らせるように計らい、役人らはおとなしくなった。
統治が評判を取り、やがて光禄大夫に上った。(『後漢書 种払伝』)

潁川太守を務めていた頃、劉翊(りゅうよく)を功曹に招いた。それまで病と称して招聘を断っていたが、种暠の子ならばと応じたため、非常に信頼した。
同郡の黄綱(こうこう)は霊帝の側室の程夫人(ていふじん)の縁戚で、権力を笠に着て、山沢の独占を要求した。种払は「黄綱は権力者だ。断れば恨みを買い、認めれば民が苦しむ」と迷い、劉翊に相談した。劉翊は「古来より山沢は民衆のためにあるものです。もしあなたが認めれば汚名となり、令息の种劭(ちゅうしょう)殿は親子の縁を切り、あなたが没しても孤児になったわけではないと考えるでしょう」と進言したため、要求を拒否した。
劉翊を孝廉に推挙したが受けなかった。(『後漢書 劉翊伝』)

190年、病没した荀爽(じゅんそう)の後任として司空に上ったが、翌年に地震が起こったため罷免され太常になった。

192年、董卓残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが長安に攻め込むと、群臣が逃げ惑う中、种払は「大臣ともあろう者が戦を止め暴虐を除くこともできず、賊徒の兵刃を宮殿に向けさせてしまうとは。なんとしてでも止めなければ」と叫び、残党に斬り込み討ち死にした。(『後漢書 种払伝』)

兄弟の种岱(ちゅうたい)、子の种劭も列伝された。



褚貢  張曼成に殺された南陽太守


褚貢(ちょこう)字は不明
出身地不明(??~184)

後漢の臣。

184年、黄巾の乱が起こると南陽郡では張曼成(ちょうまんせい)が数万人を集めて挙兵し、太守の褚貢を殺し、宛県に100日以上駐屯した。
張曼成の死後も次々と後継を立て抗戦を続けたが朱儁(しゅしゅん)に鎮圧された。(『後漢書 朱儁伝』)



褚逢  陸遜と諸葛瑾のもとへ使いする


褚逢(ちょほう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

226年、陸遜に諫言された孫権は法令の条文を全て書き写させ、郎中の褚逢に命じて陸遜と諸葛瑾のもとへ持って行かせ、問題があると思われる箇所を添削させた。(『呉主伝』)



刁嘉  是儀に救われる


刁嘉(ちょうか)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

元江夏太守。
呂壱(りょいつ)が孫権の寵愛をかさに着て専権を振るい、諸臣に濡れ衣を着せては投獄していた折、刁嘉(ちょうか)も誹謗中傷の罪をかぶせられた。
孫権は激怒し刁嘉を獄に下し、関係者に事情聴取した。誰もが呂壱の目を恐れて刁嘉が誹謗していたと偽ったが、是儀(しぎ)だけは聞いたことがないと正直に答えた。人々が是儀の身を案じると「いま私の首には刀が当たっています。なぜ刁嘉のために嘘をつき、自ら一族皆殺しの危機を招く必要がありましょうか。諸君が本当に刁嘉が誹謗しているのを見たなら、その経緯を答えることができるでしょう」と言い、意見を変えなかった。
孫権は是儀の態度を見て考え直し、刁嘉を釈放した。(『是儀伝』)



刁玄  呉後期の助言役


刁玄(ちょうげん)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

呉の臣。

儒者として高名で、劉惇(りゅうとん)を非凡だと称賛した。(『劉惇伝』)

229年、皇太子になった孫登(そんとう)の側近の諸葛恪(しょかつかく)、張休(ちょうきゅう)、顧譚(こたん)、陳表(ちんひょう)は「四友」と呼ばれ、謝景(しゃけい)、范慎(はんしん)、刁玄、羊衜(ようどう)ら賓客(補佐)も評判を取り、多士済々と讃えられた。

241年、孫登は病没し、遺言で「刁玄は度量が広く、ひたすら道の真髄を踏み行う」と評した。(『孫登伝』)

孫亮が宦官に倉庫から蜂蜜を持ってこさせると、中に鼠の糞が入っていた。宦官は倉庫番が入れたと言い、倉庫番はそもそも宦官に蜂蜜を渡していないと言い争った。
侍中の刁玄と張邠(ちょうひん)は裁判官に委ねようと申し出たが、孫亮は糞を割らせ、中が乾いていたことから宦官が入れたばかりだと推理し、刁玄らを感心させた。

256年、五官中郎将の刁玄は蜀へ使いし、孫峻(そんしゅん)死後に頻発した反乱の経緯を知らせた。(『孫亮伝』)

258年、孫基(そんき)が皇帝の馬を盗んで乗り回した罪で投獄された。孫亮に罪の重さを尋ねられた侍中の刁玄は「死刑に値しますが、孫基の父の孫覇(そんは)も亡くなっていることですし、温情を与えてください」と述べた。
だが孫亮は「法は天下の全ての者に平等に適用される。身内(甥)だからといって特別な配慮はできない。お前は孫基を救う法的な手段を考えるべきなのに、なぜ感情論で迫るのか」と叱責した。
刁玄は「恩赦の範囲は陛下の裁量に委ねられます」と返し、納得した孫亮は宮中の者へ限定で恩赦を出し、孫基を赦した。(『孫覇伝』)

刁玄は蜀で司馬徽(しばき)と劉廙(りゅうよく)が行った国家と帝位の行く末についての議論を手に入れ、それを改竄し「最後に天下を制するのは荊州・揚州の主君だ」と記した。
孫皓はこれを読んで気を良くし、さらに中原で「呉の天子が間もなく上ってくる」という歌が流行していると聞き、一族を引き連れ洛陽に向かった。
ところが大雪に遭い、兵士たちが反乱を企てたためあわてて引き返した。(『孫皓伝』※ただしこの逸話は創作も多い「江表伝」に記されている)



長寧  余裕の費禕を諫言


長寧(ちょうねい)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣?

虞喜(ぐき)の「志林」に曰く。
「費禕(ひい)は総司令官でありながら来敏(らいびん)と悠然と碁に興じ、余裕と準備万端さを称えられたが、長寧は彼を「君子たるもの事に臨んでは心に恐れを抱き、十分に計略を練って成し遂げねばならない」と非難した。そもそも小国の蜀にそんな余裕は無い。費禕が大まかな性格で細かなことに気を配らないことを示している逸話で、郭脩(かくしゅう)に殺される前兆だった。
長寧の費禕への諫言と、呂岱(りょたい)の諸葛恪(しょかつかく)への諫言は根本において同じであり、ここに併記して後世への戒めとする」(『諸葛恪伝』)



張怡  孫儀とともに暗殺未遂


張怡(ちょうい)字は不明
出身地不明(??~255)

呉の臣。

255年、蜀の使者が訪れると、孫儀(そんぎ)は会見の場で張怡・林恂(りんしゅん)とともに専権を振るう孫峻(そんしゅん)を暗殺しようと企てたが露見し、自害した。張怡・林恂は処刑された。(『孫亮伝』・『孫峻伝』)

孫魯班(そんろはん)はこれに乗じて妹の孫魯育(そんろいく)も計画に加担したと讒言し、処刑させた。(『孫休朱夫人伝』)



張倚  張脩の弟


張倚(ちょうい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

264年、鍾会が蜀の制圧後に反乱すると、兄の張脩(ちょうしゅう)は馬で諸陣営の間を駆け巡って反乱を知らせ、殺された。
265年、その功により弟の張倚が関内侯に封じられた。(『陳留王紀』)



張尉  苻健を出迎える


張尉(ちょうい)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

236年、氐族の王の苻健(ふけん)は400戸の民とともに広都県へ移住した。(『後主伝』)

「張嶷伝」に異聞がある。
武都郡の氐族の王の苻健は蜀へ降伏を願い出た。将軍の張尉を迎えに出したが期日を過ぎても現れず、蔣琬(しょうえん)はたいそう心配した。
張嶷(ちょうぎょく)は「苻健の言葉には真心が籠もっていましたから偽りではありません。しかし苻健の弟はずる賢く、降伏に同調しない者もいたので内部分裂を起こし、遅れているのでしょう」となだめた。
はたして苻健の弟が400戸を率いて魏へ降り、苻健は単身で現れた。(『張嶷伝』)

「ちくま版」は「張嶷伝」での苻健の降伏を延煕14年(251年)と記すが、建興14年(236年)の誤りである。



張異


未作成



張懿  反乱軍に殺された并州刺史


張懿(ちょうい)字は不明
出身地不明(??~187?)

後漢の臣。
司馬懿の諱を避け張壱(ちょういつ)とも書かれる。

野心深い劉焉(りゅうえん)は州牧制度の復活を提言し、自ら益州牧への赴任を希望した。
当時、益州刺史の郤倹(げきけん)が悪政で知られ、并州刺史の張懿・涼州刺史の耿鄙(こうひ)が戦死するなど刺史の失政が相次いでいたため認められた。(『後漢書 劉焉伝』)



張郁  張裔を逆恨みさせた下の子


張郁(ちょういく)字は不明
益州蜀郡成都県の人(??~??)

蜀の臣。
張裔(ちょうえい)の子。

父は益州太守の時、当地の豪族の雍闓(ようがい)に捕らえられ、呉へ送還された。(『張裔伝』)

張郁は父の友人で蜀郡太守の楊洪(ようこう)のもとで郡吏を務めたが、過失を犯し処罰された。
223年、蜀と呉が同盟し、帰国した張裔はこの話を聞き、弁護しなかった楊洪を恨んだ。

227年、諸葛亮は北伐を前に張裔か向朗(しょうろう)のどちらかを留府長史にさせたいと考え楊洪に相談した。
楊洪は「張裔は天性の明晰な判断力を持ち、激務の処理を得意としますが、公平ではありません。裏表の少ない向朗の下につければ一挙両得でしょう」と進言した。
楊洪は諸葛亮にした進言を張裔に伝えたが「公(諸葛亮)は私を長史に選ぶ。君には止められない」と言われた。(『楊洪伝』)

結局、向朗が長史に選ばれた。(『向朗伝』)

人々は楊洪は自身が長史になりたいから張裔の足を引っ張ったのではと勘ぐったが、後に張裔が別の者と諍いを起こすと、楊洪の眼力の確かさを称えた。(『楊洪伝』)

230年、父が没すると兄の張毣(ちょうぼく)が後を継ぎ、後に三郡の守監軍を歴任した。
張郁は太子中庶子に上った。(『張裔伝』)



張逸  劉虞に殉じた掾A


張逸(ちょういつ)字は不明
出身地不明(??~193)

後漢の臣。

「英雄記」に曰く。
193年、劉虞(りゅうぐ)が公孫瓚(こうそんさん)に処刑される時、元の常山国相の孫瑾(そんきん)と掾の張逸・張瓚(ちょうさん)は忠義の心に燃えて駆けつけ、公孫瓚を罵倒しともに殺された。(『公孫瓚伝』)



張允  蔡瑁の相方


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張允  張温(呉)の父


張允(ちょういん)字は不明
揚州呉郡呉県の人(??~??)

呉の臣。
張温(ちょうおん)の父。

荊州牧の劉表(りゅうひょう)に仕えた張允とは別人。
余談だが荊州の張允は、後漢の太尉の張温の孫の可能性が高く、何重にも紛らわしい。

物惜しみをせず立派な人物を丁重に遇したため、州や郡で評判を取った。(『張温伝』)

許貢(きょこう)が呉郡を乗っ取ると、高岱(こうたい)は太守の盛憲(せいけん)を許昭(きょしょう)の家に避難させ、自身は徐州刺史の陶謙(とうけん)に援軍を求めた。陶謙ははじめ断ったが、高岱が血の涙を流すほど憔悴したのを見て感動し、援軍を送るとともに許貢を説得する手紙を書いた。
許貢は母を人質に取っており、行けば殺されると誰もが危ぶんだが、高岱は「主君のためならば命は惜しくないし、母も待っている」と面会し、その弁舌に心打たれた許貢は思わず母を解放した。
許貢はすぐ我に返り追っ手を差し向けたが、高岱はそれを読み友人の張允と沈䁕(しんびん)に船を用意してもらっていたため無事に逃げ切った。(『孫策伝』)

張允は孫権に仕え東曹掾となり、死去した。
孫権は子の張温の評判を聞き、誰に匹敵するか尋ねると、劉基(りゅうき)は「全琮(ぜんそう)に肩を並べます」と言った。
すると顧雍(こよう)は「劉基はわかっていない。肩を並べられる者などいません」と言い、孫権は「言う通りなら張允は死んでいないのと同じことだ」と喜び、張温を招聘した。

張温は高位に上ったが孫権の逆鱗に触れ、後に一族もろとも失脚した。(『張温伝』)



張隠  八交の一人


張隠(ちょういん)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

後漢の臣?

「漢紀」に曰く。
劉表(りゅうひょう)と同郡出身の張隠・薛郁(せついく)・王訪(おうほう)・宣靖(せんせい)・公緒恭(こうしょきょう)・劉祗(りゅうし)・田林(でんりん)ら8人は名高く、「八交」あるいは「八顧」と呼ばれた。(『劉表伝』)

劉表以外の7人はそれ以外の事績がない。
また「八顧」は前代に郭泰(かくたい)が属する八顧の方が著名である。



張英  劉繇軍の重鎮


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張瑛  張嶷の長男


張瑛(ちょうえい)字は不明
益州巴西郡宕渠県の人(??~??)

蜀の臣。
張嶷(ちょうぎょく)の長男。

254年、父が戦死すると西郷侯に封じられた。
弟の張護雄(ちょうごゆう)は父の爵位を継いだ。(『張嶷伝』)



張詠  車浚とともに処刑された湘東太守


張詠(ちょうえい)字は不明
出身地不明(??~276)

呉の臣。

276年、会稽太守の車浚(しゃしゅん)は干魃による飢饉に襲われたため、民に食料を貸し与えて欲しいと上表した。ところが孫晧は車浚が民に恩を売ろうとしていると邪推し、彼と湘東太守の張詠を納税していないと罪を着せ処刑し、首を諸郡で回覧させた。
また尚書の熊睦(ゆうぼく)は暴虐をいささか諌めようとしたところ、刀の柄で撲殺された。(『孫晧伝』)



張裔  公平ではないが有能


張裔(ちょうえい)字は君嗣(くんし)
益州蜀郡成都県の人(166~230)

蜀の臣。

「春秋公羊伝」を学び、広く「史記」と「漢書」を読んだ。
許靖(きょせい)は彼と知り合うと、実務の才があり頭の回転が早いと、友人の鍾繇(しょうよう)になぞらえた。
益州牧の劉璋(りゅうしょう)に孝廉に推挙され、魚腹県長、益州従事・帳下司馬を歴任した。

213年、益州に侵攻した張飛と戦うも敗北した。
翌年、劉璋が降伏する際には使者を務め、巴郡太守・司金中郎将に任じられ、農具と武器の製造を司った。(『張裔伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に偏将軍として連名した。(『先主伝』)

先に益州郡では反乱が起こり、太守の正昴(せいこう)が殺害された。当地の豪族の雍闓(ようがい)が呉と通じ勢力を広げていたため、張裔は後任の益州太守として赴任したが、捕らえられた。
雍闓は神託を信じ「張裔は外見は光沢があるが、中身は粗雑で殺すまでもない」と言い、呉へ送還した。

223年、蜀と呉が同盟締結する際に、諸葛亮は使者の鄧芝(とうし)に、張裔の身柄を引き取ってくるよう命じた。
張裔は呉に送還されてから各地を転々としており、孫権はまだ引見していなかったので快諾し、帰国させる前に会った。
孫権が蜀の故事を引きからかうと、張裔は呉の故事を引いて言い返した。さらに孫権が「君は蜀で登用されるだろうが、私にはどんな恩返しをしてくれるのか」と問うと「私は罪人として帰るのですから役人に命を預けます。もし生きながらえたら、これまでの58年間は父母にもらいましたから、以後は大王(孫権)にもらったと思います」と返した。
孫権は上機嫌で送り出したが、内心では張裔の頭脳に舌を巻き、ただで帰すのは惜しいと考えた。
張裔も愚者のふりをすれば良かったと後悔しつつも、全速力で逃げた。はたして孫権は追跡させたが追いつけなかった。

帰国後、諸葛亮は張裔を参軍に任じ軍府の事務を任せ益州治中従事を兼務させた。(『張裔伝』)

227年、諸葛亮は北伐を前に張裔か向朗(しょうろう)のどちらかを留府長史にさせたいと考え楊洪(ようこう)に相談した。
楊洪は「張裔は天性の明晰な判断力を持ち、激務の処理を得意としますが、公平ではありません。裏表の少ない向朗の下につければ一挙両得でしょう」と進言した。
若い頃から張裔と楊洪は親しかったが、張裔が呉の捕虜になっていた時、過失を犯した子の張郁(ちょういく)を弁護してやらず、帰国後にそれを聞いた張裔は恨みに思っていた。
楊洪は諸葛亮にした進言を張裔に伝えたが「公(諸葛亮)は私を長史に選ぶ。君には止められない」と言われた。(『楊洪伝』)

結局、向朗が長史に選ばれた。(『向朗伝』)

人々は楊洪が長史になりたがっていて、張裔の就任を邪魔したのではないかと疑った。
だが後に張裔は岑述(しんじゅつ)とも諍いを起こした。
非は張裔にあり、諸葛亮は彼へ「益州侵攻の際、あなたが張飛に敗れた時に私は心配して食事の味もしなかった。呉に送還された時も眠れなかった。あなたとは金石のような堅い友情を結んだつもりなのに、私が岑述へ期待を掛けただけのことを、なぜ我慢できないのだ」と苦言を呈した。
人々は楊洪に私心は無いと悟った。(『楊洪伝』)

(228年、街亭の戦い後?)向朗は馬謖をかばったかどで免官された。(『向朗伝』)
張裔は射声校尉・留府長史を務めた。(※向朗の後任だろう)(『張裔伝』)
同年、姜維が魏から降伏すると、諸葛亮は張裔と蔣琬(しょうえん)へ「李邵(りしょう)や馬良(ばりょう)も及ばない逸材だ。主上(劉禅)へお目通りさせてもらいたい」と頼んだ。(『姜維伝』)

また頼広(らいこう)が若くして没した時は、二人へ「頼広と楊顒(ようぎょう)を失い朝廷の損失は多大だ」と嘆いた。(『楊戯伝』)

諸葛亮を「恩賞を与える際は遠くの者を忘れず、刑罰を与える際は身分を問わない。だから賢者も愚者も我を忘れて努力するのだ」と称えた。
翌年、諸葛亮に合流する際には見送りが数百人いた。張裔はいつもユーモアある言葉がすらすら出て、この時も親しい人へ「旅行に出ましたが接待で息つく暇もありません。人々は丞相長史を尊敬なさるが、私はそのお付きで疲労のあまり息も絶え絶えです」と話した。
後に輔漢将軍を加官されたが、長史は兼務し続けた。

若い頃の友人の楊恭(ようきょう)が亡くなると、幼い遺児を養育し、自分の母のように楊恭の母に仕えた。遺児が成長すると嫁を探し、田畑と家を買い与えた。他にも没落した親類を援助してやるなど善行に励んだ。

230年に没した。享年65。(『張裔伝』)
同年、張裔の同僚として丞相府の事務を仕切っていた蔣琬が後任の長史となった。(『蔣琬伝』)

子の張毣(ちょうぼく)が後を継ぎ、後に三郡の守監軍を歴任した。
下の子の張郁は太子中庶子に上った。(『張裔伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「聡明で機敏さと慈愛を併せ持ち、将来への理想を語り、身近の疑問にもきちんと答え、立派な時代の一翼を担い、我が国を和合させた」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「明敏にして場面に応じて見事に対応した。記録に値する人物である」と評した。

「演義」にも登場するがほぼ名前のみである。



張衛  教祖の弟


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張穎  合肥新城を孫権から守り抜く


張穎(ちょうえい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

234年、孫権は合肥新城を包囲し、陸遜・孫韶(そんしょう)が淮水へ侵攻した。
満寵(まんちょう)は合肥新城の放棄を唱えたが曹叡は却下し、自ら迎撃に赴いた。
将軍の張穎は力を尽くして合肥新城を守り、孫権は曹叡が出撃したと聞くと、まだ数百里の彼方にいるにも関わらず撤退を決断した。(『明帝紀』)



張嬰  石亭の戦い直前に魏に寝返った将A


張嬰(ちょうえい)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

226~227年頃、王崇(おうすう)とともに軍勢を引き連れて魏へ降伏した。(『賈逵伝』)

228年に周魴(しゅうほう)が偽装投降で曹休(そうきゅう)を騙した石亭の戦いが起こる直前であり、あるいは魏を信用させるための謀略の一環だろうか。



張奕  張嶷の孫


張奕(ちょうえき)字は不明
益州巴西郡宕渠県の人(??~??)

晋の臣。
張嶷(ちょうぎょく)の孫。

「蜀世譜」に曰く、晋代に梁州刺史となった。

張嶷には張瑛(ちょうえい)・張護雄(ちょうごゆう)ら男子がいるがいずれの子かは不明。(『張嶷伝』)



張奕  楼玄が殺せない


張奕(ちょうえき)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

楼玄(ろうげん)は讒言と孫皓の勘気を蒙ったことにより交州へ配流された。
交趾郡の将の張奕の配下に付けられ、武功を立てるよう命じられた。
一方で張奕には楼玄の殺害が命じられていたが、立派な彼の言動を見るにつけ実行できず、先に張奕が病没してしまった。
遺品の中から自分の殺害命令を見つけた楼玄は驚き、張奕の心中を慮り自害した。

「江表伝」には次の異説が記される。
孫皓は張奕に命じて楼玄へ毒薬を届けさせようとしたが、立派な彼を慕い張奕は何も言えなかった。楼玄は心中を察すると自ら催促し、毒をあおいだ。

裴松之は「楼玄は命を惜しんで態度を変えはしない」と珍しく江表伝が道理に合うと裁定を下している。(『楼玄伝』)



張懌  張羨の子


張懌(ちょうえき)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

後漢の臣。
張羨(ちょうせん)の子。

200年、官渡の戦いが始まると劉表は袁紹に味方した。桓階(かんかい)は長沙太守の張羨に「道義に基づかない行動は失敗します。袁紹に道義は無く、それに呼応した劉表は災難を招きます。あなたは道義を明らかにし災禍を免れたいと願うなら、劉表に同調してはいけません。対する曹操には道義があります。4郡と3江を保持して味方すべきです」と進言した。
張羨はそれに従い、長沙と隣3郡とともに劉表の傘下から離脱し、曹操によしみを通じた。(『桓階伝』)

劉表は張羨を包囲したが何年も陥落させられなかった。(『劉表伝』)

しかし官渡の戦いから続く袁紹勢力との戦いは長引き、抗戦中に張羨は病没した。長沙郡の人々は子の張懌を太守に立て抵抗を続けたがついに城は陥落し、零陵・桂陽も劉表の支配下に入った。(『劉表伝』・『桓階伝』)

桓階は劉表の招きを断り隠棲したが208年、劉表没後の荊州を制圧した曹操は、張羨の下での桓階の働きを知り丞相掾主簿とし、趙郡太守に任じた。(『桓階伝』)

なお「後漢書」には張羨の反乱は官渡の戦いより2年も前の198年のことで、それも簡単に鎮圧されたように記される。(『後漢書 劉表伝』)

張懌の消息は不明だが間違いなく殺されただろう。



張延


未作成



張琰  弘農郡の賊徒


張琰(ちょうえん)字は不明
司隸弘農郡の人(??~202)

弘農郡の賊徒。

河内郡の賊徒の張晟(ちょうせい)は1万の軍勢を集め、誰にも従属せず周辺を荒らし回った。
河東郡の衛固(えいこ)、弘農郡の張琰も呼応して反乱したが、鍾繇(しょうよう)・張既(ちょうき)らによって討伐され、衛固・張琰は斬られた。(『張既伝』)

「賈逵伝」に詳細が記される。
澠池県令の賈逵(かき)は反乱を知らずに張琰に会い、身を守るため同調したふりをし、策略を立ててやって信用させた。
澠池県の行政府のある城は防備が薄かったため、賈逵は援助を求め、裏では反乱者の情報を集めた。
城が改修されると挙兵し、反乱者を一気に処刑した。張琰の攻撃を防ぎ切り、討伐軍によって張琰は討たれた。(『賈逵伝』)



張燕  暗躍する黒き燕


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張翁帰  張既の末子


張翁帰(ちょうおうき)字が翁帰か
司隸左馮翊高陵県の人(??~??)

魏の臣。
張既(ちょうき)の末子。

223年、父が没すると関内侯に封じられた。

兄の張緝(ちょうしゅう)が後を継いだが、254年に反乱に加担し三族皆殺しとなった。
存命なら張翁帰も連座しただろう。(『張既伝』)



張横  旗本八旗チビ担当


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張音  曹丕に帝位禅譲の使者


張音(ちょうおん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

220年、献帝は兼御史大夫の張音に節を持たせ、曹丕に帝位を譲った。

「献帝伝」に曰く。
官位は使持節行御史大夫事太常と記される。
曹丕は(形式上)何度も辞退したため、張音は間を盛んに行き来した。(『文帝紀』)



張温  内弁慶


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張温  蜀への遣いが運命の岐路


張温(ちょうおん)字は恵恕(けいじょ)
揚州呉郡呉県の人(193~230)

呉の臣。
張允(ちょういん)の子。

後漢の太尉に同姓同名がおり、彼の父の張允も劉表(りゅうひょう)麾下に同姓同名がいて紛らわしい。(しかも荊州の張允は後漢の張温の孫らしい)

若くして節操正しく、容貌は優れ立派だった。(『張温伝』)

張温は皇象(こうしょう)のもとで学問するにあたり、住まいを探し、「立派な志を持つ若者がいる」と華融(かゆう)を紹介された。
華融の家に間借りし、朝夕にわたり論談を交わした。(『孫綝伝』)

はじめ父が孫権に仕えたが早くに亡くなった。
子の張温の評判を聞いた孫権が周囲に尋ねると、劉基(りゅうき)は「全琮(ぜんそう)に肩を並べる」と言い、顧雍(こよう)は「肩を並べる者などいない」と絶賛した。孫権は「もし本当なら張允は死んでいないのと同じだ」と喜び、引見した。
張温の弁舌に群臣は思わず聞き惚れ、張昭(ちょうしょう)は彼の手を握り「このおいぼれがあなたに希望を寄せていることを、よく覚えておいていただきたい」と感嘆した。
議郎・選曹尚書に任じられ、後に太子大傅となり深く信任された。(『張温伝』)

選部尚書になった張温は、華融を太子庶子に抜擢し、これにより華融の名は知られるようになった。(『孫綝伝』)

張温は「太子中庶子は太子の最も近くに仕え、質問に答える立場ですから、秀でて徳高い者を用いなければいけません」と言い、陳表(ちんひょう)が任じられた。(『孫登伝』)

呉景(ごけい)の子の呉祺(ごき)は張温・顧譚(こたん)と親しかった。(『呉景伝』)

唐固(とうこ)は学者として名高く、陸遜・張温・駱統(らくとう)らにも丁重に遇された。(『闞沢伝』)

224年(『呉主伝』)、輔義中郎将として蜀への使者を務めた。
孫権は出立前に「本来ならあなたは遠方への使者を務める立場ではない。私は今は魏に服従しているが、山越を除くことができれば、すぐさま敵対しようと考えている。それを諸葛亮にわかってもらえないことを心配し、代わりに説明してもらいたいのだ。外交使節は基本方針の命令は受けるが、実際の交渉の一言一句まで指示を受けるものではない。あなたの判断に任せる」と言った。
張温は謙遜しつつも「諸葛亮は計略に通じていますから、必ずや理解してくれるでしょう」と答えた。
立派に使者の任を勤め上げ、蜀の人々に才能を称えられた。(『張温伝』)

秦宓(しんふく)と蜀・呉の優劣をめぐり問答し、当意即妙の答えに敬服した。(『秦宓伝』)

同行した殷礼(いんれい)を、諸葛亮は口をきわめて称賛した。(『顧邵伝』)

張温は何度も願い出て殷礼を蜀へ同行させ、帰国後は元の職務に戻るところを、尚書戸曹郎へ昇進させてやった。(『張温伝』)

「神仙伝」に曰く、仙人の介象(かいしょう)は孫権のために宮殿の池からボラを釣り上げた。孫権が刺身を作らせながら「蜀のミョウガと合いそうだが手元にない」と言うと、介象は使者に呪符を貼った杖を渡し、目を閉じてまたがらせた。使者が目を開くと、蜀に着いていた。ちょうど蜀に来ていた張温は彼に会って驚き、手紙を言付けた。ミョウガを買い、杖にまたがって呉へ戻ると、ちょうど刺身ができたところだった。(『趙達伝』)

帰還後、豫章郡で徴兵を命じられたが、上手く行かなかった。孫権は張温が蜀を賛美したことを不快に思っており、また名声が高すぎて思いのままにならなくなると疑い、排斥する機会をうかがっていた。(『張温伝』)

張温が推挙した曁艶(きえん)が、張温とともに丞相の孫邵(そんしょう)を讒言し、孫邵は官を辞して罪を請うたが、孫権は復職させ慰留した。
このように曁艶が人事を壟断したため、孫権はその黒幕として張温を糾弾した。(『張温伝』・『呉主伝』)

孫権は「曁艶の人事壟断、豫章郡の鎮圧の際に魏の侵攻に対処しなかった、殷礼を厚遇した、賈原(かげん)と蔣康(しょうこう)に官位をちらつかせ勢力拡大を図った」ことを張温の罪に数え上げた。
駱統が弁護し、孫権の列挙した罪に事細かに反論したが、聞き入れられず、曁艶は自害を命じられ、張温は追放された。
二人の弟も罷免され、三人の姉妹も離縁させられ、奴婢の身分に落とされた。
中の妹は再嫁を許されたが、それを拒否して自害し、節操を称えられた。(『張温伝』)

陸績(りくせき)の娘の陸鬱生(りくうつせい)は、張温の弟の張白(ちょうはく)に嫁いだが、3ヶ月も経たぬうちに夫は配流され、没した。陸鬱生はまだ13歳だったが再嫁の勧めを拒否して操を貫き、夫の姉妹と苦楽をともにし、称賛された。(『陸績伝』)

「会稽典録」に曰く、虞俊(ぐしゅん)はかつて「張温は才は豊かだが智に欠け、華やかだが実が伴わない。やがて人々の恨みを集め、家を滅亡させるだろう」と予見していた。諸葛亮はそれを聞いても信じなかったが、張温が失脚すると驚き、何が原因か数日考え「彼は清濁併せ呑めず、善悪の区別を付けすぎたのだ」と言い、虞俊の先見の明を讃えた。

失脚から6年後に病没した。享年38。(『張温伝』)

後に孫権は指揮官たちの不甲斐なさを嘆き、呂蒙や張温の手腕を懐かしみ、朱拠(しゅきょ)ならばその後を受け継げると見込んで期待をかけた(が、彼も失脚した)。(『朱拠伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「虞翻(ぐほん)・陸績・張温・張惇(ちょうとん)は諷諌を行い主君の過ちを正した」と記した。(『孫晧伝』)

後世の劉声叔は「孫邵は名声や官位からいって当然、列伝されるべきだった。しかし「呉書」を編纂した韋昭(いしょう)が張温の派閥に属していたから、(呉書を参考にした陳寿の正史でも)列伝されなかったのだろう」と述べている。(『呉主伝』)

裴松之は「名声が高すぎて徳を上回ってしまった。人々から抜きん出たら、自らの働きをなるべく目立たなくしなければならないのを忘れていた。そして孫権が良からず思っていたところに、駱統がせっかちに彼を立派だと言いはやしたのは、火に油を注ぐようなものだった」と評した。(『張温伝』)

陳寿は「優れて豊かな才華を備えていたが、身を守るための配慮が周到ではなく、災いを招いた」と評した。

「演義」では赤壁の戦いに際し諸葛亮へ論戦を挑もうとしたが、黄蓋に阻まれた。後に蜀への使者を務め、秦宓に言い負かされたが、その後は登場せず失脚はしなかった。



張華  多才な名臣


張華(ちょうか)字は茂先(ぼうせん)
幽州范陽郡方城県の人(232~300)

魏・晋の臣。

魏の漁陽太守を務めた父の張平(ちょうへい)を若い頃に亡くし、羊飼いをして暮らしていたが、同郡の盧欽(ろきん)と劉放(りゅうほう)に才を見込まれ劉放の娘婿にも迎えられた。
学業は広く詩才もあり、図緯と方技の書で読み込んでいないものはなかった。身を修めて慎み突然のことにも礼節を失わず、勇敢で義に厚く人助けをした。見識の広大さは同代の人々に計り知れなかった。
「鷦鷯賦」で想いを語り(いわゆる竹林の七賢の)阮籍(げんせき)に「王佐の才」と評価され、初めて名声を得た。

太守の鮮于嗣(せんうし)に推薦され太常博士となり、盧欽に紹介されて司馬昭に通じ河南尹丞となり、赴任前に佐著作郎となった。
後に長史に移り中書郎を兼ねた。上表や上奏を多く採用され正式に中書郎となった。
265年、晋代になると黄門侍郎となり関内侯に封じられた。記憶力と知識は四海の全てを手のひらを指すように知り尽くしているようで、司馬炎に漢代の宮廷制度や宮殿の門戸の位置を尋ねられると流れるように回答し、地面に図示して見せると、誰もが目を離せなくなるほどだった。高く評価され人々には春秋時代の子産にたとえられた。
数年後に中書令となり散騎常侍を加えられた。母の喪に服すと礼を超えて悲しみ体調を崩したが、詔勅を受ければ命令通りに執務をした。

司馬炎は羊祜(ようこ)とともに呉征伐を計画したが群臣は反対し、張華だけが賛成した。羊祜が重病に陥ると張華を送り計画を詰めさせた。
(羊祜没後の)279年、呉征伐が始まり張華を度支尚書として兵站と軍略を任せた。戦が長引くと賈充(かじゅう)らは張華の誅殺と撤退を求めたが、司馬炎は「これは私の考えに張華が同意しただけだ」と退けた。群臣は急戦を危ぶんだが張華のみが支持し必ず勝つと言った。
280年、呉を降伏させると司馬炎は亡き羊祜とともに張華を称え、爵位は広武県侯に進み1万戸を加えられ、一子も列侯され1千500戸を与えられた。

張華の名声は抜きん出て高くなり群臣から敬服され、史書や儀礼に自由に加筆修正し、詔勅の草稿を全て手掛けた。
しかし荀勗(じゅんきょく)は嫉妬して憎悪し、追い落とそうと隙をうかがった。司馬炎が後継者を相談した時に張華は太子の司馬衷ではなく弟の司馬攸(しばゆう)を勧めたことでいささか機嫌を損ねたところへ、賈充の口添えにより持節・都督幽州諸軍事・領護烏桓校尉・安北将軍として都から外へ出された。
だが任地で治績を挙げこれまで中原の王朝へ朝貢したことのない遠方の異民族の国家20数国を帰服させた。
朝廷は張華を宰相・儀同三司として呼び戻すことを建議したが、佞臣の馮紞(ふうたん)は以前に弟を張華に批判されたことを恨んでおり、「鍾会の反乱は(司馬炎の父の)司馬昭の責任です」と大胆な発言で司馬炎の気を引き、張華にも反乱の懸念があると讒言した。
都に戻ったが太常に留められ、宗廟の棟が折れたことにより罷免された。司馬炎の代の終わりに、列侯としてようやく朝廷に出仕できた。

290年、司馬衷が即位し太子少傅となったが、実権を握る楊駿(ようしゅん)は張華・王戎(おうじゅう)・裴楷(はいかい)・和嶠(かきょう)ら名声ある重臣を朝廷から閉め出した。
291年、楊駿が誅殺されると娘で太后の楊芷(ようし)も廃しようと建議された。張華だけは故事に則り皇后に位を落とすだけでよいと反対したが、楊芷は庶民の身分へ落とされた。

同290年、皇后の賈南風(かなんぷう)は司馬瑋(しばい)と結託し、司馬亮(しばりょう)・衛瓘(えいかん)を殺し実権を奪おうとした。
張華は「司馬瑋は詔勅を偽造し、将兵は陛下の命令と思って従っただけです」と司馬瑋一人にのみ責任を問うよう献策し、司馬瑋の配下は離れ誅殺された。
この功により右光禄大夫・儀同三司・侍中・中書監となったが開府は固辞した。
賈南風は甥の賈謐(かひつ)と話し合い、張華は策略に秀でるが野心は持たず貧しい出自であり、反乱の懸念が無いから政治を委ねようと考えた。相談された姻戚の裴頠(はいき)は元より張華を重んじていたため深く同意し、かくして暗愚な司馬衷と残虐な賈南風を擁しながら張華が治めたために国内は落ち着いた。
張華は皇后の一族が専横するのを恐れ遠回しに諌め、凶悪で嫉妬深い賈南風も彼には敬意を払って尊重した。
爵位を壮武郡公に進められ、張華は十回あまり辞退したが、念入りで篤実に勧められやむなく受諾した。数年で司馬晃(しばこう)に代わって司空となり、著作の官を領した。

賈南風は実子ではない太子の司馬遹(しばいつ)の廃位を企んだ。司馬遹も賈謐の専横を憎みしばしば態度に表したので険悪となった。
司馬遹の側近の劉卞(りゅうべん)が廃位の計画を張華へ伝えると「私は聞いていない」と信じなかった。劉卞は「自分はあなたに抜擢され恩人と思っているのに疑うのか」と詰め寄り、張華の命令さえあれば賈南風をすぐにも拘束できると請け負った。だが張華は「君主と太子の父(司馬衷)に背き成功しても罪は免れず、皇后の一族は朝廷に満ちており簡単なことではない」と反対した。
劉卞は後に左遷されると賈南風に誅殺されることを恐れ自害した。(『晋書 張華伝』)

299年、賈南風は司馬遹を呼び出し酒を飲ませて泥酔させた。名文家の潘岳(はんがく)にあらかじめ用意させた、天への祈りにも司馬遹の野心にも読める文章を前後不覚の司馬遹に無理やり書き写させた。酔って文字は半分も形になっていなかったが賈南風が修正した。
後日、朝廷でその文書を示し司馬遹の処刑を訴えた。張華は慎重論を唱え、裴頠が筆跡が司馬遹のものか疑うと、賈南風は司馬遹の普段の文書を10通ほど取り出し、見比べさせると一致していた。
夕刻を過ぎても議論は終わらず、賈南風らは張華は意思を曲げないと処刑を諦め、司馬遹の廃位で話を収めた。(『晋書 張華伝』・『晋書 愍懐太子伝』)

以前、関中に赴任した司馬倫(しばりん)が失策を犯し司馬肜(しばよう)と交代されたことがあり、張華は司馬倫の腹心の孫秀(そんしゅう)の処刑を命じたが、司馬肜に取りなしてもらい孫秀は危うく死を免れた。
都に戻された司馬倫は賈南風に取り入って官位を求めたが張華・裴頠に猛反対されて叶わず、かくして司馬倫・孫秀は張華を大いに恨んだ。
武器庫で火災があり、それに乗じた反乱を恐れた張華は兵を集め、そのせいで消火が遅れたため多くの宝物が失われた。張華は劉邦の剣が屋根を突き破って飛んでいくのを目撃した。
さらに張華の封地の壮武郡で桑が柏に変化し、家と役所にはたびたび妖怪が現れた。末子の張韙(ちょうい)は流星が起きたのを理由に官を辞すよう勧めたが張華は「天命を待つのみだ」と断った。

300年、司馬倫・孫秀は賈南風の廃位を企み、司馬雅(しばが)を送り張華に協力を求めたが実権を簒奪する気だろうと考え固辞した。司馬雅は「刃が首に突きつけられているのに悠長なことを言うのか」と怒って帰った。
張華は昼に屋敷が壊れる夢を見て、その夜に司馬倫・孫秀が挙兵した。詔勅と偽って呼び出された張華・裴頠は捕らえられた。司馬倫の側近の張林(ちょうりん)へ「忠臣を殺すのか」と問うと張林は「あなたは宰相として天下を託されたのに、なぜ太子(司馬遹)が廃位された時に死んで忠節を尽くさなかったのか」と言い返された。張華は「諫言を出したが受け入れられなかった」と言い、張林は「却下されたなら官を辞すべきだった」と返し、張華はそれ以上答えられなかった。
処刑の詔勅が届き「私は先帝(司馬炎)の老臣で忠心は疑いない。死を恐れないが王室は危うく災禍は予測できない」と言い遺し斬られた。三族皆殺しとなった。享年69。

301年、司馬倫・孫秀は誅殺され司馬冏(しばけい)が実権を握った。
摯虞(しぐ)は「張華の役所から草稿が見つかりました。司馬炎に後継者を問われ司馬攸を勧めたものです。忠節は明らかです。人々は張華が司馬遹の廃位に抵抗しなかったことを責めますが、抵抗した者は必ず殺されました」と名誉回復を願い、司馬冏も同意し張華・裴頠らの名誉回復を上奏した。
多くの群臣が賛成したが反対意見も根強く、303年にようやく認められた。
孫の張輿(ちょうよ)が爵位を継いだ。
かつて陸機(りくき)・陸雲(りくうん)兄弟は呉の出身だったため中原の人士には歓迎されなかったが、張華はまるで旧知の仲のように受け入れてくれ、兄弟は敬い師匠のように礼遇した。張華のために詩賦を作り死を悼んだ。
張華の著した「博物志」10編は広く世に伝わった。(※現存する)

人材登用に熱心で貧しい門番だろうと見所があれば評価し称えた。書物を愛し、死後に家を検められると財産はなく書物があふれ返っていた。かつて引っ越す時には馬車30台分の蔵書があり、摯虞は張華の蔵書だけで公文書の編纂ができたほどで、天下の稀覯本の全てが所蔵されており、そのため張華の知識は広大で並ぶ者がなかった。

その知識の広さを示す数々の逸話がある。
3丈もの長さの羽毛を見せられると「これは海鳧(うみかもめ)の毛で現れると天下が乱れる」と嘆いた。
陸機に贈られた漬魚を「龍の肉だ。苦酒ですすげば異変が起こる」と言い、試してみると五色の光が現れた。陸機が驚き漬魚の持ち主に質問すると、美しい奇異な魚だったと言われた。
閉鎖した武器庫からキジが現れ、張華は「蛇の変化したものだ」と言った。開けると蛇の抜け殻があった。
叩いても鳴らない石鼓が見つかり「蜀で調達した桐の木材で魚を作り、それで叩けば鳴る」と言い、その通りになった。
呉征伐の前に(呉を示す)星座に紫気が出ており、呉が強く攻略できないという意味だと占術師は言ったが、張華だけは違うと見立てた。はたして呉の降伏後も紫気に変化はなかった。

讖緯(予言)に精通した雷煥(らいかん)を訪ね一緒に天文を見た。雷煥は「宝剣の精が天に昇っている」と言い、張華も「若い頃に人相見に60歳を過ぎて三公となり宝剣を身に着けるだろうと言われた。このことかもしれない」と同意した。
雷煥はこの豫章郡の豊城県に宝剣があると読み、張華は県令に任じて捜索させた。はたして龍泉・太阿と名の刻まれた二振りの宝剣が見つかり、南昌の山の土で拭うと光り輝いた。その夜には天文から宝剣の精が消えていた。
雷煥は一本だけ張華へ贈り、片方は自ら身に着けた。張華が気付かないかと聞かれると「朝廷は今にも乱れ張華はきっと災禍に巻き込まれる。こうした霊異の物は長くは人間の物とはならず消えてしまう」と言った。
張華は剣に刻まれた文を読んでもう一本あることに気づき「もう一振りはなぜ届かないのか。人間が剣を別れさせても天はいずれ一対に戻すだろう」と手紙を送り、華陰の山の土を添付した。その土で拭うと剣の輝きは倍になった。
やがて張華は処刑され、宝剣は行方知れずとなった。雷煥も没し、子の雷華(らいか)が剣を受け継いだが、ひとりでに腰から外れ川に落ちた。潜って探させると剣ではなく2頭の龍が絡み合い、体には銘文が刻まれていた。雷華は「父は剣はいずれ消えてしまうと言っていた。予言の帰結だろうか」と嘆息した。

張華はこうした神秘的な話を「博物志」に無数に記したが、多すぎて(晋書には)載せ切れない。(『晋書 張華伝』)



張華  張恭の従弟


張華(ちょうか)字は不明
涼州敦煌郡の人(??~??)

魏の臣。
張恭(ちょうきょう)の従弟。
「晋書」に列伝される張華とは別人。

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。(『倉慈伝』)

太守の馬艾(ばがい)の死後、丞(副官)すらいなくなり、郡民は学問があり品行高い、功曹の張恭を長史代行として統治させていた。
張恭は子の張就(ちょうしゅう)を曹操のもとへ派遣し新太守の任命を要請した。
豪族の黄華(こうか)が酒泉郡を、張進(ちょうしん)が張掖郡を占拠しており、帰途の張就を捕らえると、父に敦煌郡を明け渡すよう脅した。
張就はひるまず、密かに父へ手紙を送り、魏の大軍が迫っていることを教え、故事を引き自分の命など顧みないよう訴えた。

張恭は従弟の張華に酒泉郡を攻撃させ、赴任してきた新太守の尹奉(いんほう)の軍を出迎えた。
黄華は降伏し、張就も無事で、尹奉も着任できた。(『閻温伝』)



張雅


未作成



張嘉  玉璽を拾った庶民A


張嘉(ちょうか)字は不明
荊州襄陽郡の人(??~??)

庶民。

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏の中で「樊城の戦いの際に襄陽郡の張嘉・王休(おうきゅう)が水中から玉璽を見つけ劉備へ献上した」と記される。(『先主伝』)

「演義」さえ拾わなかったこの話を「吉川三国志」は採用し張嘉も漁師として登場する。
しかし玉璽は袁術が病死した際に曹操へ渡ったはずで矛盾してしまっている。



張闓  曹操の父を殺した小悪党


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張角  黄色いカリスマ


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張閣  杜恕に人柄を称揚される


張閣(ちょうかく)字は子台(しだい)
兗州東郡の人(??~??)

魏の臣。

邴原(へいげん)以後では張泰(ちょうたい)・龐迪(ほうてき)が清潔賢明さで評判を上げ、張閣が簡素質朴さで有名だった。

杜恕(とじょ)は「家戒」を著しその中で「張閣は見た目は素朴な田舎者のようだが、心中では天地の事物の何が美しく、何を良しと考えているかわからず、混然として陰陽と生き方を合致させているようだ。このような人柄では富貴は得られないが、いかなる災難も降りかからない。彼のような気高さを持ち、人柄を慕い努力する者もいるが、その生き方を体得することはできない」と称揚した。(『邴原伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に永寧太僕として連名した。(『斉王紀』)



張斅  張恭の堅物の孫


張斅(ちょうがく)字は祖文(そぶん)
涼州敦煌郡の人(??~??)

魏の臣。
張就(ちょうしゅう)の子。張恭(ちょうきょう)の孫。
名は張勃(ちょうぼつ)と書かれることも。

度量が大きく意志は強く、折り目正しい人物だった。

司馬炎の代に広漢太守となった。
益州刺史の王濬(おうしゅん)が呉討伐のため都から徴兵を命じられたが、虎符(徴兵の際に用いる身分証)が無かったため、張斅は(広漢郡に徴兵に来た)王濬の配下を逮捕した。
張斅は都に召還され、司馬炎は「なぜ内密に報告せず逮捕したのだ」と咎めた。
張斅は「益州は都から遠く離れ、かつて劉備が割拠していた土地です。(些細なことでも油断は禁物で)すぐに逮捕しましたが、私はそれでも甘かったと思っています」と答えた。
司馬炎は称賛した。

後に匈奴中郎将まで上った。
子の張固(ちょうこ)も父の風格を受け継ぎ、黄門侍郎まで上ったが早逝した。(『閻温伝』)



張咸  西陵の戦いで活躍した江陵督


張咸(ちょうかん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
歩闡を援護するため晋の羊祜(ようこ)が江陵に迫ると、呉の諸将は討伐軍を率いる陸抗(りくこう)に救援を求めたが、「江陵の防備は固く、たとえ落とされても維持はできない。西陵へ晋軍が入られたら、異民族の反乱も招き、対処のしようがない。江陵を捨ててでも西陵を包囲すべきだ」と反対した。
そして江陵督の張咸に命じて平地にある江陵に水を流し、水で囲んで守らせた。羊祜は水を利用して船で兵糧を輸送しようと考え、逆に晋軍は堰を切ろうとしていると偽報を流した。だが陸抗は羊祜の考えを見抜くとすぐさま張咸に堰を切らせた。羊祜は陸路での輸送を強いられ晋軍の兵力は割かれた。

晋が徐胤(じょいん)、楊肇(ようちょう)ら援軍を送ると陸抗は張咸に江陵を固く守らせた。
その後、陸抗の読みは次々と当たり晋軍を撃退し、降伏した歩闡は処刑された。(『陸抗伝』)



張奐


未作成



張翰


未作成



張岐  劉虞に叱責された使者


張岐(ちょうき)字は不明
冀州甘陵郡の人(??~??)

後漢の臣。

「九州春秋」に曰く。
袁紹・韓馥(かんふく)は元の楽浪太守の張岐を使者とし、劉虞(りゅうぐ)を皇帝に擁立しようとした。
しかし劉虞は厳しい口調で「お前はよくもそんなことをぬかしおったな。忠孝の道はそれでおしまいになるのだぞ。私は国家から御恩を受けている。天下動乱の今、命を尽くして国家の恥辱をすすぐことができずにいるが、いずれ忠義の士と力を合わせ天子を救おうと考えているのだ。それなのに反逆の企みを起こし、忠臣の顔に泥を塗るつもりか」と叱責した。(『公孫瓚伝』)



張季礼  劉翊に馬車を譲られる


張季礼(ちょうきれい)字が季礼か
出身地不明(??~??)

素性は不明。

劉翊(りゅうよく)は代々の資産家で、惜しみなく施しを好んだ。
汝南郡の境まで出掛けた時、張季礼(ちょうきれい)という人物が師の葬儀に向かう途中で馬車が壊れ、立ち往生しているところに行き合った。
劉翊は「道義を全うするために急ぎなさい」と言い、乗っていた馬車を譲ると、裸馬に乗って去っていった。
名乗られなかったが張季礼は噂に聞く劉翊だと察し、後日わざわざ潁川郡の家を訪ね馬車を返そうとしたが、門を閉ざしたまま別れを告げ、会わなかった。(『後漢書 劉翊伝』)



張姫  曹貢の母


張姫(ちょうき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。
曹貢(そうこう)の母。

曹貢は222年に清河王に立てられ、224年に没し、子が無かったため国は没収された。(『清河悼王貢伝』)



張既  タフ・ネゴシエーター


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張喜  赤壁の戦いで合肥を救援


張喜(ちょうき)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。
名は「武帝紀」のみ張熹で、他は張喜と記される。

208年、孫権は劉備と同盟し合肥を攻撃した。曹操は劉備の討伐に向かい、合肥には張熹を向かわせた。孫権は張熹が来ると聞き撤退した。
曹操軍は赤壁へ進み敗北した。
(※裴松之は「呉書」では合肥の戦いの前に赤壁の戦いがあったと記され、そちらが正しいと指摘する)(『武帝紀』)

曹操の本隊は多くの兵が疫病にかかっていたため、張喜に1千騎だけ預け、途中で汝南郡を通過する際に徴兵させたが、そちらも多数が疫病にかかった。
合肥を守る蔣済(しょうせい)は、張喜が4万の兵を率いて現れたとする偽の報告書を作り、使者をわざと孫権に捕まえさせた。孫権はそれを信じ撤退した。(『蔣済伝』)

赤壁の戦い後、孫権は合肥を包囲したが1ヶ月経っても落とせなかった。態勢を立て直した曹操が張喜を援軍に送ったため撤退した。(『呉主伝』)

「ちくま版」は注で張熹と張喜を同一人物と指摘しておきながら、索引では別人にしている。
それにならい項は分けたが内容は同じにした。



張義允  低い身分から身を起こした


張義允(ちょうぎいん)字が義允か
出身地不明(??~??)

晋の臣?

陸機(りくき)・陸雲(りくうん)兄弟は、以前に父の陸抗(りくこう)を吾彦(ごげん)に「従兄弟の陸喜(りくき)に及ばない」と評されたのを恨み、「吾彦は極めて貧しい身分の出で交際する必要はない」と非難した。
尹虞(いんぐ)が「何楨(かてい)・侯史光(こうしこう)・唐彬(とうひん)・張義允も低い身分から身を起こした」とたしなめ、兄弟は非難をやめた。(『晋書 吾彦伝』)

尹虞が列挙したうち張義允だけが他の事績がわからない。



張熹  赤壁の戦いで合肥を救援


張熹(ちょうき)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。
名は「武帝紀」のみ張熹で、他は張喜と記される。

208年、孫権は劉備と同盟し合肥を攻撃した。曹操は劉備の討伐に向かい、合肥には張熹を向かわせた。孫権は張熹が来ると聞き撤退した。
曹操軍は赤壁へ進み敗北した。
(※裴松之は「呉書」では合肥の戦いの前に赤壁の戦いがあったと記され、そちらが正しいと指摘する)(『武帝紀』)

曹操の本隊は多くの兵が疫病にかかっていたため、張喜に1千騎だけ預け、途中で汝南郡を通過する際に徴兵させたが、そちらも多数が疫病にかかった。
合肥を守る蔣済(しょうせい)は、張喜が4万の兵を率いて現れたとする偽の報告書を作り、使者をわざと孫権に捕まえさせた。孫権はそれを信じ撤退した。(『蔣済伝』)

赤壁の戦い後、孫権は合肥を包囲したが1ヶ月経っても落とせなかった。態勢を立て直した曹操が張喜を援軍に送ったため撤退した。(『呉主伝』)

「ちくま版」は注で張熹と張喜を同一人物と指摘しておきながら、索引では別人にしている。
それにならい項は分けたが内容は同じにした。

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