張華 多才な名臣
張華(ちょうか)字は茂先(ぼうせん) 幽州范陽郡方城県の人(232~300)
魏・晋の臣。
魏の漁陽太守を務めた父の張平(ちょうへい)を若い頃に亡くし、羊飼いをして暮らしていたが、同郡の盧欽(ろきん)と劉放(りゅうほう)に才を見込まれ劉放の娘婿にも迎えられた。
学業は広く詩才もあり、図緯と方技の書で読み込んでいないものはなかった。身を修めて慎み突然のことにも礼節を失わず、勇敢で義に厚く人助けをした。見識の広大さは同代の人々に計り知れなかった。
「鷦鷯賦」で想いを語り(いわゆる竹林の七賢の)阮籍(げんせき)に「王佐の才」と評価され、初めて名声を得た。
太守の鮮于嗣(せんうし)に推薦され太常博士となり、盧欽に紹介されて司馬昭に通じ河南尹丞となり、赴任前に佐著作郎となった。
後に長史に移り中書郎を兼ねた。上表や上奏を多く採用され正式に中書郎となった。
265年、晋代になると黄門侍郎となり関内侯に封じられた。記憶力と知識は四海の全てを手のひらを指すように知り尽くしているようで、司馬炎に漢代の宮廷制度や宮殿の門戸の位置を尋ねられると流れるように回答し、地面に図示して見せると、誰もが目を離せなくなるほどだった。高く評価され人々には春秋時代の子産にたとえられた。
数年後に中書令となり散騎常侍を加えられた。母の喪に服すと礼を超えて悲しみ体調を崩したが、詔勅を受ければ命令通りに執務をした。
司馬炎は羊祜(ようこ)とともに呉征伐を計画したが群臣は反対し、張華だけが賛成した。羊祜が重病に陥ると張華を送り計画を詰めさせた。
(羊祜没後の)279年、呉征伐が始まり張華を度支尚書として兵站と軍略を任せた。戦が長引くと賈充(かじゅう)らは張華の誅殺と撤退を求めたが、司馬炎は「これは私の考えに張華が同意しただけだ」と退けた。群臣は急戦を危ぶんだが張華のみが支持し必ず勝つと言った。
280年、呉を降伏させると司馬炎は亡き羊祜とともに張華を称え、爵位は広武県侯に進み1万戸を加えられ、一子も列侯され1千500戸を与えられた。
張華の名声は抜きん出て高くなり群臣から敬服され、史書や儀礼に自由に加筆修正し、詔勅の草稿を全て手掛けた。
しかし荀勗(じゅんきょく)は嫉妬して憎悪し、追い落とそうと隙をうかがった。司馬炎が後継者を相談した時に張華は太子の司馬衷ではなく弟の司馬攸(しばゆう)を勧めたことでいささか機嫌を損ねたところへ、賈充の口添えにより持節・都督幽州諸軍事・領護烏桓校尉・安北将軍として都から外へ出された。
だが任地で治績を挙げこれまで中原の王朝へ朝貢したことのない遠方の異民族の国家20数国を帰服させた。
朝廷は張華を宰相・儀同三司として呼び戻すことを建議したが、佞臣の馮紞(ふうたん)は以前に弟を張華に批判されたことを恨んでおり、「鍾会の反乱は(司馬炎の父の)司馬昭の責任です」と大胆な発言で司馬炎の気を引き、張華にも反乱の懸念があると讒言した。
都に戻ったが太常に留められ、宗廟の棟が折れたことにより罷免された。司馬炎の代の終わりに、列侯としてようやく朝廷に出仕できた。
290年、司馬衷が即位し太子少傅となったが、実権を握る楊駿(ようしゅん)は張華・王戎(おうじゅう)・裴楷(はいかい)・和嶠(かきょう)ら名声ある重臣を朝廷から閉め出した。
291年、楊駿が誅殺されると娘で太后の楊芷(ようし)も廃しようと建議された。張華だけは故事に則り皇后に位を落とすだけでよいと反対したが、楊芷は庶民の身分へ落とされた。
同290年、皇后の賈南風(かなんぷう)は司馬瑋(しばい)と結託し、司馬亮(しばりょう)・衛瓘(えいかん)を殺し実権を奪おうとした。
張華は「司馬瑋は詔勅を偽造し、将兵は陛下の命令と思って従っただけです」と司馬瑋一人にのみ責任を問うよう献策し、司馬瑋の配下は離れ誅殺された。
この功により右光禄大夫・儀同三司・侍中・中書監となったが開府は固辞した。
賈南風は甥の賈謐(かひつ)と話し合い、張華は策略に秀でるが野心は持たず貧しい出自であり、反乱の懸念が無いから政治を委ねようと考えた。相談された姻戚の裴頠(はいき)は元より張華を重んじていたため深く同意し、かくして暗愚な司馬衷と残虐な賈南風を擁しながら張華が治めたために国内は落ち着いた。
張華は皇后の一族が専横するのを恐れ遠回しに諌め、凶悪で嫉妬深い賈南風も彼には敬意を払って尊重した。
爵位を壮武郡公に進められ、張華は十回あまり辞退したが、念入りで篤実に勧められやむなく受諾した。数年で司馬晃(しばこう)に代わって司空となり、著作の官を領した。
賈南風は実子ではない太子の司馬遹(しばいつ)の廃位を企んだ。司馬遹も賈謐の専横を憎みしばしば態度に表したので険悪となった。
司馬遹の側近の劉卞(りゅうべん)が廃位の計画を張華へ伝えると「私は聞いていない」と信じなかった。劉卞は「自分はあなたに抜擢され恩人と思っているのに疑うのか」と詰め寄り、張華の命令さえあれば賈南風をすぐにも拘束できると請け負った。だが張華は「君主と太子の父(司馬衷)に背き成功しても罪は免れず、皇后の一族は朝廷に満ちており簡単なことではない」と反対した。
劉卞は後に左遷されると賈南風に誅殺されることを恐れ自害した。(『晋書 張華伝』)
299年、賈南風は司馬遹を呼び出し酒を飲ませて泥酔させた。名文家の潘岳(はんがく)にあらかじめ用意させた、天への祈りにも司馬遹の野心にも読める文章を前後不覚の司馬遹に無理やり書き写させた。酔って文字は半分も形になっていなかったが賈南風が修正した。
後日、朝廷でその文書を示し司馬遹の処刑を訴えた。張華は慎重論を唱え、裴頠が筆跡が司馬遹のものか疑うと、賈南風は司馬遹の普段の文書を10通ほど取り出し、見比べさせると一致していた。
夕刻を過ぎても議論は終わらず、賈南風らは張華は意思を曲げないと処刑を諦め、司馬遹の廃位で話を収めた。(『晋書 張華伝』・『晋書
愍懐太子伝』)
以前、関中に赴任した司馬倫(しばりん)が失策を犯し司馬肜(しばよう)と交代されたことがあり、張華は司馬倫の腹心の孫秀(そんしゅう)の処刑を命じたが、司馬肜に取りなしてもらい孫秀は危うく死を免れた。
都に戻された司馬倫は賈南風に取り入って官位を求めたが張華・裴頠に猛反対されて叶わず、かくして司馬倫・孫秀は張華を大いに恨んだ。
武器庫で火災があり、それに乗じた反乱を恐れた張華は兵を集め、そのせいで消火が遅れたため多くの宝物が失われた。張華は劉邦の剣が屋根を突き破って飛んでいくのを目撃した。
さらに張華の封地の壮武郡で桑が柏に変化し、家と役所にはたびたび妖怪が現れた。末子の張韙(ちょうい)は流星が起きたのを理由に官を辞すよう勧めたが張華は「天命を待つのみだ」と断った。
300年、司馬倫・孫秀は賈南風の廃位を企み、司馬雅(しばが)を送り張華に協力を求めたが実権を簒奪する気だろうと考え固辞した。司馬雅は「刃が首に突きつけられているのに悠長なことを言うのか」と怒って帰った。
張華は昼に屋敷が壊れる夢を見て、その夜に司馬倫・孫秀が挙兵した。詔勅と偽って呼び出された張華・裴頠は捕らえられた。司馬倫の側近の張林(ちょうりん)へ「忠臣を殺すのか」と問うと張林は「あなたは宰相として天下を託されたのに、なぜ太子(司馬遹)が廃位された時に死んで忠節を尽くさなかったのか」と言い返された。張華は「諫言を出したが受け入れられなかった」と言い、張林は「却下されたなら官を辞すべきだった」と返し、張華はそれ以上答えられなかった。
処刑の詔勅が届き「私は先帝(司馬炎)の老臣で忠心は疑いない。死を恐れないが王室は危うく災禍は予測できない」と言い遺し斬られた。三族皆殺しとなった。享年69。
301年、司馬倫・孫秀は誅殺され司馬冏(しばけい)が実権を握った。
摯虞(しぐ)は「張華の役所から草稿が見つかりました。司馬炎に後継者を問われ司馬攸を勧めたものです。忠節は明らかです。人々は張華が司馬遹の廃位に抵抗しなかったことを責めますが、抵抗した者は必ず殺されました」と名誉回復を願い、司馬冏も同意し張華・裴頠らの名誉回復を上奏した。
多くの群臣が賛成したが反対意見も根強く、303年にようやく認められた。 孫の張輿(ちょうよ)が爵位を継いだ。
かつて陸機(りくき)・陸雲(りくうん)兄弟は呉の出身だったため中原の人士には歓迎されなかったが、張華はまるで旧知の仲のように受け入れてくれ、兄弟は敬い師匠のように礼遇した。張華のために詩賦を作り死を悼んだ。
張華の著した「博物志」10編は広く世に伝わった。(※現存する)
人材登用に熱心で貧しい門番だろうと見所があれば評価し称えた。書物を愛し、死後に家を検められると財産はなく書物があふれ返っていた。かつて引っ越す時には馬車30台分の蔵書があり、摯虞は張華の蔵書だけで公文書の編纂ができたほどで、天下の稀覯本の全てが所蔵されており、そのため張華の知識は広大で並ぶ者がなかった。
その知識の広さを示す数々の逸話がある。
3丈もの長さの羽毛を見せられると「これは海鳧(うみかもめ)の毛で現れると天下が乱れる」と嘆いた。
陸機に贈られた漬魚を「龍の肉だ。苦酒ですすげば異変が起こる」と言い、試してみると五色の光が現れた。陸機が驚き漬魚の持ち主に質問すると、美しい奇異な魚だったと言われた。
閉鎖した武器庫からキジが現れ、張華は「蛇の変化したものだ」と言った。開けると蛇の抜け殻があった。
叩いても鳴らない石鼓が見つかり「蜀で調達した桐の木材で魚を作り、それで叩けば鳴る」と言い、その通りになった。
呉征伐の前に(呉を示す)星座に紫気が出ており、呉が強く攻略できないという意味だと占術師は言ったが、張華だけは違うと見立てた。はたして呉の降伏後も紫気に変化はなかった。
讖緯(予言)に精通した雷煥(らいかん)を訪ね一緒に天文を見た。雷煥は「宝剣の精が天に昇っている」と言い、張華も「若い頃に人相見に60歳を過ぎて三公となり宝剣を身に着けるだろうと言われた。このことかもしれない」と同意した。
雷煥はこの豫章郡の豊城県に宝剣があると読み、張華は県令に任じて捜索させた。はたして龍泉・太阿と名の刻まれた二振りの宝剣が見つかり、南昌の山の土で拭うと光り輝いた。その夜には天文から宝剣の精が消えていた。
雷煥は一本だけ張華へ贈り、片方は自ら身に着けた。張華が気付かないかと聞かれると「朝廷は今にも乱れ張華はきっと災禍に巻き込まれる。こうした霊異の物は長くは人間の物とはならず消えてしまう」と言った。
張華は剣に刻まれた文を読んでもう一本あることに気づき「もう一振りはなぜ届かないのか。人間が剣を別れさせても天はいずれ一対に戻すだろう」と手紙を送り、華陰の山の土を添付した。その土で拭うと剣の輝きは倍になった。
やがて張華は処刑され、宝剣は行方知れずとなった。雷煥も没し、子の雷華(らいか)が剣を受け継いだが、ひとりでに腰から外れ川に落ちた。潜って探させると剣ではなく2頭の龍が絡み合い、体には銘文が刻まれていた。雷華は「父は剣はいずれ消えてしまうと言っていた。予言の帰結だろうか」と嘆息した。
張華はこうした神秘的な話を「博物志」に無数に記したが、多すぎて(晋書には)載せ切れない。(『晋書 張華伝』)
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