陳寔 陳羣の祖父の大徳
陳寔(ちんしょく)字は仲弓(ちゅうきゅう)
豫州潁川郡許昌県の人(104~187)
隠者。
貧しい出自ながら幼少期から仲間に慕われた。若くして県吏となり、志高く学問に励んだ。県令の鄧邵(とうしょう)が彼の才能に気づいて推薦してやり、太学で学んだ。
官を辞して山に隠棲したが、殺人を疑われ逮捕された。無実とわかり釈放され、後に督郵に就任すると、自分を逮捕した役人を抜擢し、人々は寛大さに感服した。(『後漢書 陳寔伝』)
鍾繇(しょうよう)の曾祖父の鍾皓(しょうこう)は陳寔より17歳上だが、彼を心の底から尊敬し友人として礼を尽くした。
郡の功曹を務める鍾皓が司徒の役所に招聘されると、太守は後任を尋ねた。陳寔が推挙され「鍾皓は人物観察に気を遣わないようだ。どうして私を認めてくれるのか」と訝しんだ。(『鍾繇伝』)
中常侍の侯覧(こうらん)が太守の高倫(こうりん)に命じて、ある人を官吏に推挙させようとした。陳寔はそれを知ると高倫へ「官吏に相応しくない人物ですが、侯覧の意向は蔑ろにできません。あなたの名声が傷つきますから、実務を担当する私の推薦ということにしてください」と申し出た。人々は不正を疑ったが、陳寔は弁解しなかった。
後に高倫は尚書に昇進すると、見送りの者たちへ事実を明かし「陳寔こそ善事は主君の功績とし、過ちは自分の咎とする人物である」と称賛した。
司空の黃瓊(こうけい)は陳寔を聞喜県長とし、次いで太丘県長となった。(※このため陳太丘と書かれることもある)
陳寔を慕い隣県から移住しようとし、越境を咎められ帰される者が多く、監察官は訴訟を恐れ、訴訟自体を禁じようとしたが「正しきことを求めて訴えるのにそれを禁じるとは何事だ」と陳寔は怒った。
訴え出る者はいなかった。
その後、沛国相の不正に憤り官を辞した。
党錮の禁が起こると投獄された。周囲の者は逃亡を勧めたが「私が逃げたら人々は誰を信じればいいのだ」と自ら出頭した。(『後漢書 陳寔伝』)
太丘県の県長の時、党錮の禁が起こり、山に隠れ住んだが、人々は彼を師として仰いだ。と「陳羣伝」にはあり矛盾が見られる。(『陳羣伝』)
大赦により釈放され、霊帝の代には大将軍の竇武(とうぶ)に招聘された。
その頃、十常侍の張譲(ちょうじょう)が権勢を振るい、嫌悪されていた。彼の父が没しても故郷の潁川郡の人は誰も弔問に来なかった。そこへ陳寔だけが現れた。
張譲は感謝し、第二次党錮の禁では殺される者が少なかった。
人々は訴訟を起こすと陳寔のいかなる判決にも不服を唱えなかった。刑罰は恐れないが、陳寔に謗られることを恐れた。
ある時、陳寔の家に泥棒が入り、梁の上に隠れた。陳寔はそれに気づくと子や孫を集め訓示を垂れた。「人間は勉めなければならない。生まれつきの悪人はいない。誰かにそう教えられただけだ。梁上の君子もその一人だろう」と言い、驚いた泥棒は飛び降りて陳謝した。
陳寔は反省するようさとし絹を与えた。話が広まり村から泥棒は絶えた。(※また「梁上の君子」は泥棒を指す故事成語となった)
陳寔の名は轟き、太尉の楊賜(ようし)、司徒の陳耽(ちんたん)は昇進するたび陳寔より高位にあることを恥じた。(『後漢書 陳寔伝』)
やがて徳義は当世で第一とうたわれ、二人の子の陳紀(ちんき)、陳諶(ちんしん)はいずれも名声高かった。
世間では三人を合わせて「三君」と呼び、大臣から招聘が掛かる時はほとんど三人同時で、礼物と使者がひっきりなしに行き来した。豫州の人々は三人の肖像を掲げたという。
陳寔は陳紀の子の陳羣(ちんぐん)に特に目を掛け「この子は必ずや一族を栄えさせる」と一族の長老たちに語った。(『陳羣伝』)
管寧(かんねい)は若い頃、邴原(へいげん)とともに陳寔のもとで学んだ。
王烈(おうれつ)は陳寔に師事し、その二人の子を友とした。荀爽(じゅんそう)、賈彪(かひょう)、李膺(りよう)、韓融(かんゆう)ら名だたる人物が同門だったが、王烈の器量と学業は並外れており、彼らは感服し親しく付き合い、王烈の名は四海に轟いた。(『管寧伝』)
大将軍の何進(かしん)、司徒の袁隗(えんかい)もたびたび招聘したが老齢と病気を理由に断った。
187年、84歳で没した。(『後漢書 陳寔伝』)
(※『陳羣伝』には霊帝(189年没)の死後に招聘されたとあるが誤記か)
子弟だった荀爽、韓融らはすでに後漢の高位にあったが3ヶ月の喪に服した。弔問の車は数千台に上り、郭泰(かくたい)をはじめ来ない者は無かった。葬儀に集った者は3万人、最も重い3年の喪に服した者が百人を超えた。
何進も弔問の使者を送り「文範先生」と諡した。(『陳羣伝』)
若い頃の鄧艾は陳寔に対する「文は世の範たり、行いは士の則たり」という碑文を読み、名を範、字を士則と改名した。(『鄧艾伝』)
張華(ちょうか)は「博物誌」で「陳寔・陳紀・陳羣・陳泰(ちんたい ※陳羣の子)は漢・魏王朝でいずれも高い名声を得た。しかし徳は次第に減少していったため人々は「公(陳羣・陳泰)は卿(陳紀)に劣り、卿は長(陳寔)に劣る」と言った」と評している。(『陳泰伝』)
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