三国志 ち 6


陳煒


未作成



陳禕


未作成



陳禕  魏諷の反乱を密告


陳禕(ちんい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
219年、魏諷(ぎふう)は長楽衛尉の陳禕と共謀し都で反乱を企てたが、挙兵の期日を前に陳禕は怖気づき、曹丕に密告して魏諷を処刑させた。(『武帝紀』)

ちなみに「ちくま版」の索引からは漏れている。



陳懿  辺章に殺された金城太守


陳懿(ちんい)字は不明
出身地不明(??~184)

後漢の臣。

184年、辺章(へんしょう)が反乱すると、涼州刺史の左昌(さしょう)は軍の編成にかこつけて数千万銭を盗んだ。蓋勲(がいくん)が諌めると逆恨みし、前線に飛ばし敗北させて罪に問おうとしたが、蓋勲はしばしば戦功を上げた。
辺章は金城郡を攻め、蓋勲は救援するよう言ったが左昌は無視した。金城太守の陳懿が戦死し、さらに進軍して左昌も包囲された。
左昌が救援要請を出すと、蓋勲とともに駐屯していた辛曾(しんそう)・孔常(こうじょう)らはそれをためらったが、蓋勲は故事を引いて激怒し、すぐさま救援に赴いた。
蓋勲が辺章らの罪を責めると、「左昌があなたの指示に従いすぐ兵を出していたら考えを改めたかも知れないが、ここまで罪を重ねてはもう降伏できない」と言い、辺章は撤退した。

左昌は横領の罪により断罪され、宋梟(そうきゅう)が後任の涼州刺史となった。(『後漢書 蓋勲伝』)

「献帝春秋」に異聞がある。
涼州の官吏の宋建(そうけん)・王国(おうこく)は反乱し、偽って降伏すると辺允(へんいん)・韓約(かんやく)へ面会を求めた。二人は渋ったが金城太守の陳懿が勧めて会いに行かせると、拘束され人質にされた。
金城郡は混乱し、陳懿は逃げ出したが追撃され殺された。隴西郡は辺允・韓約を罪人と断じ、賞金首としたため、二人は辺章・韓遂(かんすい)に改名し宋建・王国に協力した。(『後漢書 董卓伝』)



陳逸


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陳瑀  袁術と孫策に反抗し敗れる


陳瑀(ちんう)字は公瑋(こうい)
徐州下邳郡淮浦県の人(??~??)

後漢の臣。
陳球(ちんきゅう)の子。

「謝承後漢書」に曰く。
孝廉に挙げられ、洛陽県長となった。太尉府に招かれたが応じなかった。
189年、議郎となり呉郡太守に上ったが赴任しなかった。(『後漢書 陳球伝』)

「英雄記」に曰く。
揚州刺史の陳温(ちんおん)が病死し、袁術は袁遺(えんい)を派遣して揚州を制圧させたが、敗死した。
袁術は改めて陳瑀を揚州刺史に任じたが、曹操に敗れた袁術の受け入れを拒否した。袁術は態勢を立て直して攻撃し、おびえた陳瑀は故郷の下邳郡へ逃げた。(『袁術伝』)

「九州春秋」に異説がある。
192年、袁術は陳瑀を揚州牧に任じた。袁術が曹操に敗れると、南方の土着民が反乱し陳瑀は防戦に努めた。
袁術は下手に出て言葉巧みに陳瑀を説得したが、陳瑀は臆病で駆け引きもわからず、何もできなかった。そのうちに袁術は兵を集め攻撃を仕掛けた。陳瑀は弟の陳琮(ちんそう)を送り和睦を申し出たが、そのまま捕虜にされてしまい、故郷の下邳郡へ逃げた。(『呂範伝』)

「江表伝」に曰く。
197年、孫策は「呂布と行呉郡太守・安東将軍の陳瑀とともに袁術を討伐せよ」と詔勅を下された。
ところが陳瑀は孫策の襲撃を企て、配下の万演(ばんえん)らを送り、周辺の祖郎(そろう)・焦已(しょうい)・厳白虎(げんはくこ)ら反抗勢力に官位を約束して蜂起させようとした。
だが孫策はそれを見抜き、呂範(りょはん)・徐逸(じょいつ)に先制攻撃させ、陳瑀の兵や妻子ら4千人を捕虜にした。(『孫策伝』)

「呂範伝」に経緯が記される。
陳瑀は勝手に呉郡太守を自称し、広陵郡に駐屯し厳白虎と連携していた。孫策は厳白虎を攻めると呂範・徐逸の別働隊に陳瑀を攻撃させた。陳瑀配下の陳牧(ちんぼく)が討ち取られた。(『呂範伝』)

「山陽公載記」に曰く。
陳瑀は一人で冀州へ逃げ、袁紹に身を寄せ故安の都尉に任じられた。

「江表伝」に曰く。
200年、広陵太守の陳登(ちんとう)は陳瑀の従兄の子だったため、復讐を図り厳白虎の残党と連携した。孫策は陳登の討伐に向かい、兵糧の到着を待つ間に狩猟に行き、そこを以前に粛清した許貢(きょこう)の旧臣に襲われ負傷し、その傷がもとで急死した。(『孫策伝』)



陳永  陳延の弟


陳永(ちんえい)字は不明
揚州廬江郡松滋県の人(??~??)

呉の臣。
陳脩(ちんしゅう)の子。
陳武(ちんぶ)の孫。

叔父の陳表(ちんひょう)は昇進し兄の陳脩の爵位(都亭侯)を継ぐことになると、それを辞退し、陳脩の子の陳延(ちんえん)に継がせたいと願い出たが、孫権は却下した。

陳表も34歳で没し、家に余財はなく、妻子は路頭に迷う程だった。
陳表の子の陳敖(ちんごう)が没すると、陳延が別部司馬を継いだ。
弟の陳永は将軍となり列侯された。(『陳武伝』)



陳延  常林に一族を守られる


陳延(ちんえん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

かつて河間太守を務めた。
常林(じょうりん)は王匡(おうきょう)の報復を恐れて上党郡へ逃げ、山奥で耕作して暮らした。旱害や蝗害が起こったが豊作だったため、近隣の人々を集め米を配った。
馮氏(ふうし)と並ぶ当地の豪族の陳延の家を頼ったが、上党太守の張楊(ちょうよう)は陳氏の娘を見初め、財産を奪おうとした。常林は陳氏の一族を引き連れて戦い、60日に渡り包囲されたが策略で守りきった。(『常林伝』)



陳延  陳武の孫


陳延(ちんえん)字は不明
揚州廬江郡松滋県の人(??~??)

呉の臣。
陳脩(ちんしゅう)の子。
陳武(ちんぶ)の孫。

叔父の陳表(ちんひょう)は昇進し兄の陳脩の爵位(都亭侯)を継ぐことになると、それを辞退し、陳脩の子の陳延に継がせたいと願い出たが、孫権は却下した。

陳表も34歳で没し、家に余財はなく、妻子は路頭に迷う程だった。
陳表の子の陳敖(ちんごう)が没すると、陳延が別部司馬を継いだ。
弟の陳永(ちんえい)は将軍となり列侯された。(『陳武伝』)



陳応  袁術に人質に取られた陳珪の子


陳応(ちんおう)字は不明
徐州下邳郡淮浦県の人(??~??)

陳珪(ちんけい)の次男。
陳登(ちんとう)の兄弟。

袁術は自身と同じく名家の子弟の陳珪と若い頃から親しく、腹心に招こうと考え、陳応を脅して人質に取った。
だが陳珪は「あなたは漢王室を守ってくれると思っていたのに、道ならぬ企みを抱き、自ら災いを招こうとは痛ましいことです。(息子を人質に取られ)私情に目がくらむことを望まれても、死んでもそんなことはできません」と拒絶した。(『袁術伝』)

陳応のその後は不明である。

ちなみに「演義」に趙雲に一騎打ちで敗れた同姓同名のモブキャラがいる。



陳温  曹操を援助し袁術に殺される


陳温(ちんおん)字は元悌(げんてい)
豫州汝南郡の人(??~193)

後漢の臣。

190年、曹操は挙兵したが董卓軍に敗れて兵を失い、夏侯惇らとともに揚州へ向かい募兵した。
揚州刺史の陳温と丹陽太守の周昕(しゅうきん)は4千の兵を与えたが、大半が反乱し、1千まで減った。(『武帝紀』)

曹洪(そうこう)はかねてから陳温と親しかったため(協力を仰ぎ)、廬江郡で2千、丹陽郡で数千人を募兵した。(『曹洪伝』)

袁術は陳留郡を攻撃したが曹操・袁紹に大敗した。九江郡に逃げ、陳温を殺して揚州を制圧した。(『袁術伝』・『後漢書 袁術伝』)

一方で「英雄記」には「陳温は病死し、袁術は袁遺(えんい)を派遣して揚州を制圧させた」とあり食い違っている。(『袁術伝』)

「献帝紀」には「193年3月、袁術が陳温を殺害した」と年月まで明記される。(『後漢書 献帝紀』)



陳温  陳泰の後継ぎ


陳温(ちんおん)字は不明
豫州潁川郡許昌県の人(??~??)

魏・晋の臣。
陳泰(ちんたい)の子。陳羣(ちんぐん)の孫。

260年、父が没すると兄の陳恂(ちんじゅん)が後を継いだ。
陳恂も没すると継嗣が無かったため弟の陳温が領地を継いだ。
咸熙年間(264~265)、五等級の爵位制度が置かれると陳泰の功績を採り上げ慎子に取り立てられた。(『陳羣伝』)



陳化  曹丕の皮肉を巧みに論破する


陳化(ちんか)字は元燿(げんよう)
豫州汝南郡の人(??~??)

呉の臣。

以下「呉書」に曰く。
広く書物を読み心意気と才幹あり物怖じしない性格だった。身長7尺9寸で平素から威風あった。
郎中令として魏に使いした時、酔った曹丕は「呉と魏が対峙しているがどちらが勝つだろうか」と嘲笑気味に問うた。陳化は「易」を引き「運勢は東南(呉)にあります」と答えた。曹丕が「周の文王は西から来たと思ったがあれも東だったか」とからかうと「周が西で勢力を伸ばせたのは東に太伯(文王の伯父。呉の始祖ともされる)がいたからです」と応じ、曹丕は笑って反論せず弁舌に感心した。帰国時には鄭重に送り出した。
孫権は立派に使者を務め呉の名誉を守ったと称え犍為太守に任じた。

225年、尚書令から太常となり尚書令も兼ねた。
厳正な態度で朝廷に臨み、子弟には利殖を禁じ俸禄だけで暮らさせた。早くに妻を亡くしたものの古例にならって再婚しなかったが、まだ30歳ほどだったため孫権は一族の娘をめとらせようとした。だが陳化は病を理由に固辞し、孫権も無理強いしなかった。
70歳を過ぎると引退を願い出て、会稽郡章安県に引きこもり家で没した。

長男の陳熾(ちんし)も才能あり、全琮(ぜんそう)に大将軍の資質ありと見込まれ招請されたが仕官前に没した。(『呉主伝』)



陳紀  陳羣の父の大徳


陳紀(ちんき)字は元方(げんほう)
豫州潁川郡許昌県の人(??~??)

陳寔(ちんしょく)の子。
陳羣(ちんぐん)の父。

6人の子の中で陳紀、陳諶(ちんしん)が最も賢く、名声高かった。
兄弟はみな徳高く孝養で、後進の者は誰もがその気風を慕った。

党錮の禁により父が投獄されると、発奮して数万言の書を著し、陳子と号した。
禁が解けると四府から揃って招聘されたが応じなかった。(『後漢書 陳紀伝』・『後漢書 陳寔伝』)

世間では陳寔・陳紀・陳諶を合わせて「三君」と呼び、大臣から招聘が掛かる時はほとんど三人同時で、礼物と使者がひっきりなしに行き来した。

陳寔は陳紀の子の陳羣に特に目を掛け「この子は必ずや一族を栄えさせる」と一族の長老たちに語った。
孔融(こうゆう)は陳紀と陳羣の間の年齢で、先に陳紀の友人となったが、後に陳羣と知り合うと、彼の才能を祝い陳紀に挨拶し、これにより陳羣の名も知られた。(『陳羣伝』)

王烈(おうれつ)は陳寔に師事し、陳紀・陳諶を友とした。荀爽(じゅんそう)、賈彪(かひょう)、李膺(りよう)、韓融(かんゆう)ら名だたる人物が同門だったが、王烈の器量と学業は並外れており、彼らは感服し親しく付き合い、王烈の名は四海に轟いた。(『管寧伝』)

187年、父が没すると血を吐き気絶するほどに悲しんだ。
喪が開けても喪服のままで、半ば死んでいるように憔悴した。豫州刺史はその孝行ぶりを上奏し、陳紀ら三君の肖像を掲げる地域は百を超えた。(『後漢書 陳紀伝』)

189年、董卓は実権を握ると許靖(きょせい)と周毖(しゅうひ)に人事を任せた。荀爽・韓融・陳紀らが公・卿・郡守に取り立てられた。
許靖はかつて陳紀に兄事し、陳羣とは蜀・魏の敵味方に分かれてからも手紙を送り合った。(『許靖伝』)

五官中郎将、侍中、平原相に次々と転任した。
袁紹率いる討伐軍が迫ると董卓は堅固な長安への遷都を考えたが陳紀は反対した。董卓は内心では憤りながらも名高い陳紀には手出しできず、二度と相談せず結局は遷都した。
司徒への昇進を断り太僕、尚書令となった。(『後漢書 陳紀伝』)

陳羣ははじめ豫州刺史の劉備に仕えたが、劉備が陶謙(とうけん)から徐州刺史を譲られるのに反対した。茂才に推挙されたが県令への赴任を辞退し、陳紀とともに徐州へ移り、後に曹操に招聘された。(『陳羣伝』)

陳登(ちんとう)は功曹の陳矯(ちんきょう)を都に行かせた時、自分の評判を聞いてくるよう命じた。
「驕慢でうぬぼれている」と聞かされた陳登は「私は奥向きがなごやかで睦まじく、徳を持ち品行優れる陳紀・陳諶を尊敬している」など名士たちを例えに自画自賛した。(『陳矯伝』)

建安年間(196~220)のはじめ、袁紹が太尉になると、陳紀に譲ろうとしたが固辞し、大鴻臚を拝命した。71歳で在官のまま没した。(『後漢書 陳紀伝』)

魏で肉刑の復活(※死刑の下に肉刑(身体切断等)を設け、死刑を減らすのが目的)が議論されると、陳羣は陳紀が過去にした「漢王朝は肉刑を廃止し鞭打ちを採用したが、結局はそれにより死亡する者が多かった。殺人の罪を死刑で償うのは当然だが、暴行の罪を償うはずの鞭打ちで殺されては道理に合わない。肉刑ならば死ぬことは無く、それを恐れ悪事も無くなる」という論説を具申するよう求められ、自分も同意であると述べた。(※だが採用されなかった)(『陳羣伝』)

諸葛亮は恩赦に積極的ではないと批判された際に「先帝(劉備)は陳紀や鄭玄(じょうげん)に学び治乱の道を知り尽くしていたが、一度も恩赦について話したことはない」と反論した。(『後主伝』)

張華(ちょうか)は「博物誌」で「陳寔・陳紀・陳羣・陳泰(ちんたい ※陳羣の子)は漢・魏王朝でいずれも高い名声を得た。しかし徳は次第に減少していったため人々は「公(陳羣・陳泰)は卿(陳紀)に劣り、卿は長(陳寔)に劣る」と言った」と評している。(『陳羣伝』)



陳紀  袁術配下の九江太守


陳紀(ちんき)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

袁術の臣。

袁術は孫策を九江太守に任じると約束していたが、それを反故にし陳紀を任命した。徐州を攻めるため廬江太守の陸康(りくこう)に兵糧を供出するよう求め断られると、「この前は間違って陳紀を任命してしまい、私も残念に思っていた。廬江を落としたら君の物だ」とたきつけ陥落させたが、またも反故にし劉勲(りゅうくん)を太守にし、孫策を失望させた。(『孫策伝』)

「演義」では呂布と戦う際に「第三軍上将」として登場。しかし曹操に敗れ処刑された。
SLG「三國志シリーズ」では同姓同名ではるかに高名な陳羣(ちんぐん)の父をさしおきほとんど皆勤賞である。



陳宮  主従ともに裏切り人生


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陳宮


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陳球


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陳恭  李通とともに挙兵する


陳恭(ちんきょう)字は不明
荊州江夏郡の人(??~??)

李通(りつう)の友人。

李通は同郷の陳恭とともに豫州汝南郡朗陵県で挙兵した。
周直(しゅうちょく)も2千余家を集め、表面上は李通らと親しくしたが、内実は反りが合わず、李通は暗殺を企んだ。陳恭は反対したが、李通は彼に決断力がないことを知っていたため、独力で計画を立て、酒宴の席で周直を殺した。
大騒動となったが李通・陳恭は周直の一党の指導者らを殺し、兵を全て奪った。

その後、陳恭の義弟(妻の弟)の陳郃(ちんこう)が、陳恭を殺し兵を奪った。李通は報復し、陳郃の首を陳恭の墓に供えた。(『李通伝』)



陳矯  ミスター正論


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陳勤


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陳羣  これぞ長者の振る舞い


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陳勲  大工事を行った校尉


陳勲(ちんくん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

245年、校尉の陳勲は屯田兵と工兵3万人を率い、句容中道に運河を掘り、小其から雲陽西域を結び、そこへ交易所を作り兵糧庫を建てた。(『呉主伝』)



陳珪  曲者父子・父


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陳珪


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陳騫  陳矯の軍人気質の次男


陳騫(ちんけん)字は休淵(きゅうえん)
徐州広陵郡東陽県の人(201~281)

魏・晋の臣。
陳矯(ちんきょう)の次男。
「晋書」には280年に設置された臨淮郡の出身と記される。

思慮深く智謀を備えていた。
曹叡に寵愛される劉曄(りゅうよう)が陳矯を讒言すると、陳矯は恐れを抱き陳騫へ相談した。陳騫は「帝は聡明で、あなたは既に大臣です。ただ三公になれないだけです」と父を励ました。はたして曹叡はすぐに考えを改め陳矯を重用した。(『晋書 陳騫伝』)

「世語」に曰く、陳矯は長男の陳本(ちんほん)に相談したが、彼はただうろたえるだけで、陳騫に「帝は聡明で、あなたは既に大臣です。ただ三公になれないだけです」と励まされた。数日後、曹叡への目通りを許されると、陳騫は「陛下のお気持ちがほぐれたのです」と言い、はたして曹叡は讒言があったため調べたが疑いは晴れたと詫び、金の延べ板を与えた。(『陳矯伝』)

陳本と母が夏侯玄(かこうげん)とともに酒宴を開いていたところに陳騫が加わろうとすると、夏侯玄は席を立ち「同席は構わないが礼は乱すなよ」と念押しした。(『世説新語』)
若い頃、夏侯玄に侮辱されたが全く動じず、かえって非凡な人物と認められた。(『晋書 陳騫伝』)

招聘されて尚書郎となり、中山太守・安平太守を歴任して治績を上げ、都に戻り相国司馬・相国長史や御史中丞になり、尚書となって安国亭侯に封じられた。
蜀軍が隴右を攻めると、尚書のまま持節・行征蜀将軍に任じられ、撃退した。(『晋書 陳騫伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に尚書として連名した。(『斉王紀』)

257年5月、曹髦は群臣に詩を作るよう命じたが、和逌(かゆう)や陳騫は不得手でなかなか出来上がらず、担当官吏は罷免するよう上奏した。
しかし曹髦は「私は文学を愛し、詩賦で政治の得失を認識している。このような揉め事は意図していない。係官は群臣が昔の正しい道理を深く味わい学び、経典を習得できるようせよ」と詔勅を下し、二人を許した。(『高貴郷公紀』)

257年、諸葛誕が反乱すると、再び尚書のまま行安東将軍となり、制圧に当たった。制圧後、使持節・都督淮北諸軍事・安東将軍に任じられ、広陵侯に進んだ。都督豫州諸軍事・豫州刺史に転任し、持節・将軍の位は元のままとされた。
さらに都督江南諸軍事に転任し、後に都督荊州諸軍事・征南大将軍となり、郯侯に封じられた。(『晋書 陳騫伝』)

司馬昭に唐彬(とうひん)の資質を問われた時、孔顒(こうぎょう)は唐彬の才能をねたみ無言を通したが、陳騫は「私にはるかに勝ります」と答えた。司馬昭は「陳騫ほどの人材も容易に得られないのに、陳騫に勝るなら考えるまでもない」と笑い、唐彬を召し出して質問した。司馬昭はその弁舌に驚き「名声は伊達ではなかった」と言い、後日に孔顒を「賢人を埋もれさせようとした責めを受けるべきだ」と叱責した。(『晋書 唐彬伝』)

264年、蜀が滅亡したが旧臣の羅憲(らけん)は魏へ降伏せず、侵攻してきた呉軍を相手に孤軍奮闘していた。羅憲は楊宗(ようそう)に包囲を破らせて陳騫へ救援を求めた。籠城戦は半年を超えたが、陳騫が司馬昭へ言上し、荊州刺史の胡烈(これつ)が援軍として派遣され呉軍を撃退した。(『霍峻伝』)

265年、司馬炎が即位すると建国の功臣として車騎将軍に上り、高平郡公に封じられた。侍中・大将軍になり、都督揚州諸軍事に赴任したが官位は元のままとされ、仮黄鉞となった。
呉の枳里城を攻め落とし、駐屯軍を破ったため、甥(兄の子)の陳悝(ちんかい)が関中侯に封じられた。(『晋書 陳騫伝』)

咸寧年間(275~280)のはじめに太尉になり、大司馬に転じた。
揚州刺史の牽弘(けんこう)と秦州刺史の胡烈を評し「勇猛だが思慮分別に欠け、自信過剰で辺境を安定させられる人材ではない。やがて国の恥となる失敗を犯すでしょう」と司馬炎に進言した。
司馬炎はそれを牽弘と陳騫が不仲で、お互いにそしっているのだろうと考え、牽弘を涼州刺史に異動させるだけで済ませた。
陳騫は必ず災いを招くと嘆息し、271年に鮮卑の禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)の反乱で牽弘・胡烈が戦死するという最悪の形で危惧は的中した。司馬炎は陳騫の話を真剣に聞くべきだったと大いに後悔した。(『晋書 陳騫伝』・『晋書 胡奮伝』)

賈充(かじゅう)、石苞(せきほう)、裴秀(はいしゅう)らと司馬炎の股肱の臣となったが、陳騫は若い頃から度量が広く、些細なことを気に掛けず、智恵と度量では敵わないと賈充らも思っていた。
地方に赴任しては常に治績を上げ、下々の者にも慕われた。位人臣を極め、70歳を超えたため277年に引退を願い出た。
しかし司馬炎は地方への赴任を免じただけで引退は認めず、前漢の蕭何のように厚遇せよと命じた。
その後も何度も願い出たが認められず、とうとう詔勅を無視して家に帰り、司馬炎もようやく引退を認めた。待遇は元のままとし、祖父の代からの功臣で徳望も高いため丁重に礼遇した。

だがあまり直言はしなかったが、司馬炎には傲慢に口を利き、逆に太子(司馬衷)を丁重に敬ったため、人々はこれをへつらいと捉えた。
さらに弟の陳稚(ちんち)が陳騫の子の陳輿(ちんよ)と争い、子らの淫行を告発すると、陳騫は陳稚を流刑にするよう上表し、醜い骨肉の争いと批判され、名声は落ちていった。

281年に没した。享年81。
太傅を追贈され、武公と諡された。司馬炎は棺を見て涙を流し、先に没した石苞と同等に葬った。
子の陳輿が爵位を継いだ。

420年、宋の時代に国を除かれるまで子孫は栄え続けた。(『晋書 陳騫伝』)

「演義」でも呉との戦いで活躍し、晋代には車騎将軍に任じられた。



陳郃  義兄を殺し李通に報復される


陳郃(ちんこう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒?
陳恭(ちんきょう)の義弟(妻の弟)。

李通(りつう)は同郷の陳恭とともに豫州汝南郡朗陵県で挙兵した。
その後、陳郃が陳恭を殺し兵を奪った。李通は報復し、陳郃の首を陳恭の墓に供えた。(『李通伝』)



陳敖  陳表の子


陳敖(ちんごう)字は不明
揚州廬江郡松滋県の人(??~??)

呉の臣。
陳表(ちんひょう)の子。
陳武(ちんぶ)の孫。

父が没した時、財産は全て兵に分け与えられており、妻子は路頭に迷う程だった。
太子の孫登(そんとう)が遺族のために家を建ててやった。

陳敖は17歳で別部司馬に任じられ、兵400人を預けられた。
陳敖が没すると、伯父の子の陳延(ちんえん)が別部司馬を継いだ。
その弟の陳永(ちんえい)は将軍となり列侯された。(『陳武伝』)



陳頏  杜夔の同郷ではない弟子


陳頏(ちんこう)字は不明
徐州下邳郡の人(??~??)

魏の臣。音楽家。

魏の音楽家の杜夔(とき)の弟子で、同郷の邵登(しょうとう)・張泰(ちょうたい)・桑馥(そうふく)はみな太楽丞まで上り、陳頏は司律中郎将となった。(『杜夔伝』)



陳曶  黄元の反乱を鎮圧


陳曶(ちんこつ)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

222年12月、劉備が重病になったと聞いた漢嘉太守の黄元(こうげん)は反乱した。
223年3月、臨邛県へ侵攻したが将軍の陳曶に撃破され、長江を下って逃げた。道中で部下に裏切られて捕縛され、成都へ送られ処刑された。(『先主伝』)

「楊洪伝」に詳細が記される。
黄元はかねてから諸葛亮と険悪で、劉備が没し諸葛亮が実権を握れば排斥されると恐れ反乱し臨邛城を焼き払った。
この時、諸葛亮は劉備の見舞いに行っており成都の防備は手薄で、黄元は制圧を企んだ。
楊洪(ようこう)は劉禅に言上して親衛隊を討伐に出し、陳曶・鄭綽(ていしゃく)に指揮させた。人々は黄元は成都の制圧に失敗したら南中へ逃げて抵抗を続けると危惧したが、楊洪は「黄元は凶暴で人心を得られないからそんな心配はいりません。せいぜい長江に沿って逃げ、主上(劉備)が健在なら降伏し、異変あれば(劉備が死ねば)呉へ亡命するだけです。陳曶・鄭綽に南中への道を遮断させればたちまち捕らえられます」と言い、その通りになった。(『楊洪伝』)



陳佐  陳羣に代わり一族が台頭


陳佐(ちんさ)字は不明
豫州潁川郡許昌県の人(??~??)

魏・晋の臣。
陳諶(ちんしん)の孫。

「陳氏譜」に曰く。
青州刺史まで上った。弟の陳坦(ちんたん)は廷尉に、子の陳準(ちんじゅん)は太尉になり、他の子らも大官に上った。
一族では陳羣(ちんぐん)がはじめに台頭したが子孫は衰退し、陳佐の一族が代わって栄えた。(『陳羣伝』)



陳策  劉曄の読み通りに撃破された山賊


陳策(ちんさく)字は不明
揚州廬江郡の人?(??~??)

山賊。

廬江郡の郡境で数万人を集め要害に立て籠もっていた。
曹操も攻めあぐね、諸将は「険阻な土地で攻略は難しく、討伐しても利益も少ない」と撤退を進言したが、劉曄(りゅうよう)は「以前はまだ天下は平定されず部隊長を差し向けたから抵抗し、天下が定まった今になって降伏すれば処罰されると恐れているのです。勇将を差し向け降伏を呼びかければその日のうちに自壊します」と言い、曹操も「君の発言は適切だ」と同意し、はたしてその通りに撃破された。(『劉曄伝』)

時期は不明だが「天下が平定された」が袁紹の討伐を指すならばかなりの長期間に渡って抵抗していたと思われる。



陳粲  陳矯の孫


陳粲(ちんさん)字は不明
徐州広陵郡東陽県の人(??~??)

晋の臣。
陳本(ちんほん)の子。陳矯(ちんきょう)の孫。

父が没すると後を継いだ。(『陳矯伝』)



陳燦  陳祗の長男


陳燦(ちんさん)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

蜀の臣。
陳祗(ちんし)の長男。

258年、父が没すると関内侯に封じられた。
弟の陳裕(ちんゆう)は黄門侍郎に抜擢された。(『陳祗伝』)



陳氏  曹幹の生母


陳氏(ちんし)名は不明
出身地不明(??~217?)

曹操の側室。

曹幹(そうかん)を生んだが3歳の時に没したため、曹操の側室の王昭儀(おうしょうぎ)が育てた。
曹幹が5歳の時に曹操(220年没)は危篤になっており、陳氏の没年はそこから推測した。(『趙王幹伝』)



陳氏  孫権の姉


陳氏(ちんし)名は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

孫権の姉。

娘が潘濬(はんしゅん)の子の潘秘(はんひ)に嫁いだ。(『潘濬伝』)



陳氏  衛瓘の母


陳氏(ちんし)名は不明
出身地不明(??~??)

魏の重臣の衛覬(えいき)の妻。

230年に夫が没し、11歳の長男の衛瓘(えいかん)は母へ孝行を尽くした。
240年、衛瓘は尚書郎に任じられたが、当時の魏は法が厳しく陳氏が心配したため、通事郎へ転属を願い出て、後に中書郎へ移り10年の長きに渡り活躍した。
そして魏・晋の重鎮へと昇進して行くが、陳氏のその後は不明である。(『晋書 衛瓘伝』)



陳時  士燮の後任の交趾太守


陳時(ちんじ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

226年、士燮(ししょう)が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時を士燮の後任の交趾太守に任命した。
戴良は陳時とともに合浦郡まで来たが、士燮の子の士徽(しき)は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
配下の桓鄰(かんりん)は不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。
士徽は観念し、兄弟らとともに降伏したが、処刑された。(『士燮伝』)

「呂岱伝」には別の経緯が描かれる。
士燮が没すると士徽は安遠将軍・九真太守に、陳時は士燮の後任の交趾太守に任命された。呂岱は上表し広州・交州の設置と呂岱・戴良の刺史就任の認可を得た。
だが士徽はそれを拒絶し着任を阻止しようとした。
呂岱は3千の兵を率い、昼夜兼行で海上から交趾郡へ迫った。士氏は長く周辺を治めているから慎重にすべきだと進言する者がいたが、呂岱は「こんなに早く急襲されるとは思っていない。時間を掛ければ防備を固められ、7つの郡から異民族の兵が集まる」と却下し、道を急がせた。
はたして士徽は呂岱の出現に恐慌をきたし、兄弟6人を引き連れて降伏したが、揃って処刑された。(『呂岱伝』)



陳祗  劉禅に媚びへつらう


陳祗(ちんし)字は奉宗(ほうそう)
豫州汝南郡の人(??~258)

蜀の臣。
「董允伝」に附伝される。

慎み深く厳そかで、威厳のある容貌だった。
幼くして家族を失い、許靖(きょせい)の家で育てられた。(『陳祗伝』)

20歳で名を知られ、選曹郎まで昇進した。多芸で天文・暦・占いまで習得していたため費禕(ひい)に評価され、序列を飛び越え、246年に没した董允(とういん)の後任として侍中となった。
董允の死後、陳祗が媚びへつらい、宦官の黄皓(こうこう)が讒言を吹き込んだため、劉禅は厳格だった生前の董允を恨むようになった。(『董允伝』・『陳祗伝』)

また龐統の子の龐宏(ほうこう)は、陳祗を軽んじ不遜な態度を取ったため、昇進を邪魔され涪陵太守までしか上れなかった。(『龐統伝』)

251年、呂乂(りょがい)が没すると後任の尚書令に上り、侍中に加え鎮軍将軍に任じられた。
大将軍の姜維は官位では陳祗の上にあったが、北伐のため常に外地にいたため、朝政に関わることは少なかった。
陳祗は天子から宦官まで広く顔が利き、実権は姜維より大きかった。(『陳祗伝』)

譙周(しょうしゅう)は姜維の度重なる北伐の利害を陳祗とともに論じ、「仇国論」を著した。(『譙周伝』)

258年に没した。
劉禅は痛惜し、口を開くたびに涙した。
「陳祗は12年に渡り侍中を務め、柔和さと善良さは世の手本で、仕事の能力と厳しさには節度があった。功績はまことに顕著であり、忠侯と諡する」と詔勅を下した。(『陳祗伝』)

劉禅に寵愛され格別の沙汰を受けたため諡号を贈られたのである。(『趙雲伝』)

長男の陳燦(ちんさん)は関内侯に封じられ、次男の陳裕(ちんゆう)は黄門侍郎に抜擢された。(『陳祗伝』)

董厥(とうけつ)が後任の尚書令となった。(『諸葛亮伝』)

「演義」には登場しない。



陳熾  陳化の子


陳熾(ちんし)字は公煕(こうき)
豫州汝南郡の人(??~??)

呉の臣。
陳化(ちんか)の長男。

「呉書」に曰く。
陳化は厳正な態度で朝廷に臨み、子弟には利殖を禁じ俸禄だけで暮らさせた。早くに妻を亡くしたものの古例にならって再婚しなかったが、まだ30歳ほどだったため孫権は一族の娘をめとらせようとした。だが陳化は病を理由に固辞し、孫権も無理強いしなかった。
長男の陳熾も若い頃から志と行いを正しく持ち、事を見通す才能あり、全琮(ぜんそう)に大将軍の資質ありと見込まれ招請されたが仕官前に没した。(『呉主伝』)



陳寿


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陳脩  陳武の風格ある子


陳脩(ちんしゅう)字は不明
揚州廬江郡松滋県の人(??~230)

呉の臣。
陳武(ちんぶ)の子。
「陳武伝」に附伝される。

父の風格があった。
19歳の時、孫権は正式に目通りすると、激励し別部司馬に任じ500の兵を預けた。
当時、新入りの兵士は逃亡する者が多かったが、陳脩は彼らを大切に扱い心をつかみ、一人の逃亡者も出さなかった。孫権は高く評価し、校尉に上らせた。

220年、陳武ら功臣の事績が改めて採り上げられ、陳脩は都亭侯に封じられ、解煩督(特殊部隊長)に任ぜられた。

230年に没した。
弟の陳表(ちんひょう)は妾腹で、陳脩が没すると、陳表の母は正室である陳脩の母に従わなくなった。
陳表は「兄上は不幸にして早逝し、私はその母に仕えることになりました。あなたが陳脩の母に従わないなら、家を出て別居していただきます」と実母に迫った。
二人の母は心動かされ、仲睦まじくなった。

陳表は昇進し兄の爵位(都亭侯)を継ぐことになると、それを辞退し、陳脩の子の陳延(ちんえん)に継がせたいと願い出たが、孫権は却下した。

陳表も34歳で没し、家に余財はなく、妻子は路頭に迷う程だった。
陳表の子の陳敖(ちんごう)が没すると、陳延が後を継いだ。(『陳脩伝』)



陳就


未作成



陳叔山  華佗のカルテ―母乳に栄養がない


陳叔山(ちんしゅくざん)字が叔山か
徐州広陵郡東陽県の人(??~??)

素性不明。

陳叔山の2歳の子は下痢が止まらず衰弱していた。華佗(かだ)は「母親が妊娠し、精気をお腹の子に取られているから母乳に栄養がない」と診立て、丸薬を与えると10日で治った。(『華佗伝』)



陳粛  陳登の子


陳粛(ちんしゅく)字は不明
徐州下邳国淮浦県の人(??~??)

魏の臣。
陳登(ちんとう)の子。陳珪(ちんけい)の孫。

曹丕は帝位につくと陳登の功績を改めて採り上げ、子の陳粛を郎中に任命した。(『呂布伝』)



陳術  益部耆旧伝の原著者


陳術(ちんじゅつ)字は申伯(しんはく)
益州建寧郡の人(??~??)

魏の臣。

李譔(りせん)と同時期に博学多識で知られ「釈問」・「益部耆旧伝」・「益部耆旧志」を著し3郡の太守を歴任した。(『李譔伝』)

「華陽国志」に曰く。
新城・魏興・上庸太守を歴任したが他の事績は残っていない。
鄭厪(ていきん)、趙謙(ちょうけん)、陳術、祝亀(しゅくき)、王商(おうしょう)ら博学な人々によって「益部耆旧伝」が書かれたが、陳寿は内容が不十分だと感じ、加筆修正した。(『華陽国志』)

陳寿の「益部耆旧伝」は裴松之にも多く引用されている。



陳恂  陳泰の子


陳恂(ちんじゅん)字は不明
豫州潁川郡許昌県の人(??~??)

魏の臣。
陳泰(ちんたい)の子。陳羣(ちんぐん)の孫。

260年、父が没すると後を継いだ。
陳恂も没すると継嗣が無かったため弟の陳温(ちんおん)が領地を継いだ。(『陳羣伝』)



陳恂  張休・顧承とともに讒言される


陳恂(ちんじゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「呉書」に曰く。
234年、呉は謝宏(しゃこう)と中書の陳恂を使者として句麗王の位宮(いきゅう)に単于(王)の称号や宝物を下賜しようとした。
だが先行した陳奉(ちんほう)は先に魏の使者が訪れ、位宮に呉の使者を始末するよう命令していたことを聞きつけた。
位宮が送った笮咨(さくし)・帯固(たいこ)ら30人を謝宏は捕縛して人質に取り、位宮は魏への鞍替えをやめ、謝罪し数百匹の馬を贈った。
謝宏は笮咨・帯固を解放して予定通りに詔勅と下賜品を与え、船が大きくなかったため馬80匹だけを積み帰還した。(『呉主伝』)

二宮の変が起こると孫覇(そんは)らは張休(ちょうきゅう)・顧承(こしょう)が典軍の陳恂と共謀し、芍陂の役(※241年)の論功行賞で戦功を水増ししたと讒言した。
張休・顧承・陳恂は交州へ配流された。(『張昭伝』)

「呉録」に曰く。
讒言したのは全琮(ぜんそう)父子である。(『顧雍伝』)

張休・顧承は交州で没した。陳恂も同じだろう。



陳遵  趙昱を招聘した琅琊国相B


陳遵(ちんじゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「謝承後漢書」に曰く。
趙昱(ちょういく)は琅琊国相の檀謨(だんぼ)・陳遵に招聘されたが応じず、激怒する者もいたが意に介さなかった。(『陶謙伝』)



陳承  曹沖に爵位を追贈した使者


陳承(ちんしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「王沈魏書」に曰く。
221年、曹丕は亡き弟の曹沖(そうちゅう)に鄧哀王の諡号を贈り、使持節兼謁者僕射郎中の陳承を使者とし公爵を追贈した。(『鄧哀王沖伝』)



陳承祐  華廙から管輅の逸話を聞く


陳承祐(ちんしょうゆう)字が承祐か
出身地不明(??~??)

魏の臣。

長広太守を務めた。
華廙(かよく)から父と親交のあった管輅(かんろ)の逸話を聞かされた。(『管輅伝』)



陳邵  襄陽を一時占拠した呉の臣


陳邵(ちんしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

220年頃、陳邵が襄陽を占拠すると曹仁・徐晃は攻撃を命じられ、奪還した。(『曹仁伝』)



陳翔


未作成



陳焦


未作成



陳象  二宮の変に抗議し処刑された五営督


陳象(ちんしょう)字は不明
出身地不明(??~250)

呉の臣。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と屈晃(くつこう)は孫権へ考え直すよう訴えた。
それに五営督の陳象や陳正(ちんせい)らも加わると、孫権は酷く立腹し、陳象・陳正を一族皆殺しにし、朱拠・屈晃を追放した。(『孫和伝』)

陳象・陳正の関係は記されないが同族だろうか。



陳式  不運な猛将


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陳寔  陳羣の祖父の大徳


陳寔(ちんしょく)字は仲弓(ちゅうきゅう)
豫州潁川郡許昌県の人(104~187)

隠者。

貧しい出自ながら幼少期から仲間に慕われた。若くして県吏となり、志高く学問に励んだ。県令の鄧邵(とうしょう)が彼の才能に気づいて推薦してやり、太学で学んだ。
官を辞して山に隠棲したが、殺人を疑われ逮捕された。無実とわかり釈放され、後に督郵に就任すると、自分を逮捕した役人を抜擢し、人々は寛大さに感服した。(『後漢書 陳寔伝』)

鍾繇(しょうよう)の曾祖父の鍾皓(しょうこう)は陳寔より17歳上だが、彼を心の底から尊敬し友人として礼を尽くした。
郡の功曹を務める鍾皓が司徒の役所に招聘されると、太守は後任を尋ねた。陳寔が推挙され「鍾皓は人物観察に気を遣わないようだ。どうして私を認めてくれるのか」と訝しんだ。(『鍾繇伝』)

中常侍の侯覧(こうらん)が太守の高倫(こうりん)に命じて、ある人を官吏に推挙させようとした。陳寔はそれを知ると高倫へ「官吏に相応しくない人物ですが、侯覧の意向は蔑ろにできません。あなたの名声が傷つきますから、実務を担当する私の推薦ということにしてください」と申し出た。人々は不正を疑ったが、陳寔は弁解しなかった。
後に高倫は尚書に昇進すると、見送りの者たちへ事実を明かし「陳寔こそ善事は主君の功績とし、過ちは自分の咎とする人物である」と称賛した。

司空の黃瓊(こうけい)は陳寔を聞喜県長とし、次いで太丘県長となった。(※このため陳太丘と書かれることもある)
陳寔を慕い隣県から移住しようとし、越境を咎められ帰される者が多く、監察官は訴訟を恐れ、訴訟自体を禁じようとしたが「正しきことを求めて訴えるのにそれを禁じるとは何事だ」と陳寔は怒った。
訴え出る者はいなかった。
その後、沛国相の不正に憤り官を辞した。

党錮の禁が起こると投獄された。周囲の者は逃亡を勧めたが「私が逃げたら人々は誰を信じればいいのだ」と自ら出頭した。(『後漢書 陳寔伝』)

太丘県の県長の時、党錮の禁が起こり、山に隠れ住んだが、人々は彼を師として仰いだ。と「陳羣伝」にはあり矛盾が見られる。(『陳羣伝』)

大赦により釈放され、霊帝の代には大将軍の竇武(とうぶ)に招聘された。
その頃、十常侍の張譲(ちょうじょう)が権勢を振るい、嫌悪されていた。彼の父が没しても故郷の潁川郡の人は誰も弔問に来なかった。そこへ陳寔だけが現れた。
張譲は感謝し、第二次党錮の禁では殺される者が少なかった。

人々は訴訟を起こすと陳寔のいかなる判決にも不服を唱えなかった。刑罰は恐れないが、陳寔に謗られることを恐れた。
ある時、陳寔の家に泥棒が入り、梁の上に隠れた。陳寔はそれに気づくと子や孫を集め訓示を垂れた。「人間は勉めなければならない。生まれつきの悪人はいない。誰かにそう教えられただけだ。梁上の君子もその一人だろう」と言い、驚いた泥棒は飛び降りて陳謝した。
陳寔は反省するようさとし絹を与えた。話が広まり村から泥棒は絶えた。(※また「梁上の君子」は泥棒を指す故事成語となった)

陳寔の名は轟き、太尉の楊賜(ようし)、司徒の陳耽(ちんたん)は昇進するたび陳寔より高位にあることを恥じた。(『後漢書 陳寔伝』)

やがて徳義は当世で第一とうたわれ、二人の子の陳紀(ちんき)、陳諶(ちんしん)はいずれも名声高かった。
世間では三人を合わせて「三君」と呼び、大臣から招聘が掛かる時はほとんど三人同時で、礼物と使者がひっきりなしに行き来した。豫州の人々は三人の肖像を掲げたという。

陳寔は陳紀の子の陳羣(ちんぐん)に特に目を掛け「この子は必ずや一族を栄えさせる」と一族の長老たちに語った。(『陳羣伝』)

管寧(かんねい)は若い頃、邴原(へいげん)とともに陳寔のもとで学んだ。

王烈(おうれつ)は陳寔に師事し、その二人の子を友とした。荀爽(じゅんそう)、賈彪(かひょう)、李膺(りよう)、韓融(かんゆう)ら名だたる人物が同門だったが、王烈の器量と学業は並外れており、彼らは感服し親しく付き合い、王烈の名は四海に轟いた。(『管寧伝』)

大将軍の何進(かしん)、司徒の袁隗(えんかい)もたびたび招聘したが老齢と病気を理由に断った。
187年、84歳で没した。(『後漢書 陳寔伝』)
(※『陳羣伝』には霊帝(189年没)の死後に招聘されたとあるが誤記か)

子弟だった荀爽、韓融らはすでに後漢の高位にあったが3ヶ月の喪に服した。弔問の車は数千台に上り、郭泰(かくたい)をはじめ来ない者は無かった。葬儀に集った者は3万人、最も重い3年の喪に服した者が百人を超えた。
何進も弔問の使者を送り「文範先生」と諡した。(『陳羣伝』)

若い頃の鄧艾は陳寔に対する「文は世の範たり、行いは士の則たり」という碑文を読み、名を範、字を士則と改名した。(『鄧艾伝』)

張華(ちょうか)は「博物誌」で「陳寔・陳紀・陳羣・陳泰(ちんたい ※陳羣の子)は漢・魏王朝でいずれも高い名声を得た。しかし徳は次第に減少していったため人々は「公(陳羣・陳泰)は卿(陳紀)に劣り、卿は長(陳寔)に劣る」と言った」と評している。(『陳泰伝』)



陳慎  呉征伐に従軍した参軍


陳慎(ちんしん)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

280年、晋の大軍が呉へ侵攻した。王渾(おうこん)は参軍の陳慎と都尉の張喬(ちょうきょう)に尋陽郡瀬郷を攻めさせ、さらに呉の孔忠(こうちゅう)を撃破し、周興(しゅうこう)ら五将を捕虜にした。(『晋書 王渾伝』)

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