趙昱 王朗、張昭の旧友
趙昱(ちょういく)字は元達(げんたつ)
徐州琅邪郡の人(??~193?)
後漢の臣。
13歳の時、母が3ヶ月あまり床に臥せった。趙昱は憔悴しやせ衰え、まばたきさえ忘れて生死を占い、血の涙を流し平癒を祈ったため孝行を称賛された。
綦毋君(きぶくん)に師事し、外をのぞくことすらせず部屋に閉じこもって学問に没頭し、両親にも朝夕の挨拶でしか顔を見せなかった。
高潔かつ廉直な人柄で礼儀を身に着け、清らかな精気と威厳に満ちた慎み深さのため、何者も彼の志を損なえなかった。
善行を讃えて教化し、悪行を糾弾して風俗を正した。州や郡から招聘されたが病気と称して断り、琅邪国相からの招きも固辞した。断られたことに激怒し脅す者もいたが意に介さなかった。(『陶謙伝』)
その潔癖さを「耳は邪を聞かず、目は妄を見ず」とうたわれた。种払(ちゅうふつ)によって方正に推挙された。(『後漢書 陶謙伝』)
孝廉に推挙され出仕し(『陶謙伝』)、当時、三署(五官中郎将ら)の郎から県長を選ぶならわしで、劉繇(りゅうよう)、王朗(おうろう)、臧洪(ぞうこう)らとともに推挙され、莒県長に任命された。(『臧洪伝』)
その政治は琅邪国の模範となり、黄巾の乱に際しての徴兵の処置も第一等と評価された。
徐州刺史の巴祇(はぎ)は最高の功績があると上奏し昇進を約束されたが、趙昱はそれを恥じ官を辞して郷里へ帰った。
徐州牧の陶謙(とうけん)が別駕従事に招聘したが、病と称し断った。陶謙は呉範(ごはん)を通じてさらに招聘し、それも断られると脅して強引に仕官させた。
だが陶謙は道義に背き感情に任せて動く性格のため、忠義で正直な趙昱を疎んじた。(『陶謙伝』)
徐州出身の張昭(ちょうしょう)、趙昱、王朗は並んで名声を馳せ、互いに親しく交流していた。
陶謙は張昭を茂才に推挙したが、断られると激怒し彼を捕らえた。趙昱が全力を上げて救出を図り、やっとのことで釈放された。(『張昭伝』)
王朗も陶謙に茂才に推挙され、治中となった。別駕の趙昱とともに、朝貢するよう勧め、趙昱が使者を務めた。
献帝は喜び、陶謙を安東将軍、趙昱を広陵太守、王朗を会稽太守に任じた。(※「陶謙伝」には茂才に推挙され広陵太守になったとある)(『王朗伝』)
陳登(ちんとう)は自分が驕慢だと噂されていると聞くと「品性が清潔で整い、悪を憎み、見識で義心がある趙昱を尊敬している」と尊敬している名士たちを列挙し、そんな自分が驕慢なわけがないと否定した。(『陳矯伝』)
賊徒の笮融(さくゆう)が討伐され、広陵郡の境に逃げ込んだ。趙昱は兵を出してそれを防ごうとしたが、敗北し戦死した。(『陶謙伝』)
「劉繇伝」に異聞がある。
曹操が陶謙を攻めると、笮融は男女1万人と馬3千頭を連れ広陵郡に避難した。趙昱は歓迎したが、笮融は豊かさに目をつけ、宴席で趙昱を殺害し、大略奪して去った。(『劉繇伝』)
趙昱は広陵太守の時に張紘(ちょうこう)を孝廉に推挙していた。
張紘はその死を聞くと悲憤慷慨したが、仇討ちする力は無かった。
後に(孫策・孫権に仕え)会稽東部都尉に就くと、役人を琅邪国に派遣し、趙昱のために祭祀を行わせるとともに、後継ぎとなる一族を探させた。
自身も琅邪国相の臧覇(ぞうは ※臧宣と誤記される)に手紙を送って依頼し、臧覇は趙昱の一族の5歳の男子を見つけ、祭祀を継がせた。
経緯を聞いた孫権も喜んだ。(『張紘伝』)
|