三国志 ち 4


張導  袁紹に一族皆殺し


張導(ちょうどう)字は景明(けいめい)
出身地不明(??~??)

袁紹の配下。

191年、張導・荀諶(じゅんしん)・高幹(こうかん)・郭図(かくと)は冀州牧の韓馥(かんふく)を説得し、袁紹へ地位を譲らせた。

また鉅鹿太守の際には堤防を修復し、水路を正した。

だがその後、朝廷に使者として赴いた際に爵位を授けられたことを袁紹に恨まれ、過失を犯すと許されず一族揃って処刑された。(『臧洪伝』)



張特  私は降伏などしない


張特(ちょうとく)字は子産(しさん)
幽州涿郡の人(??~??)

魏の臣。

牙門将軍に任命され、諸葛誕の指揮下にいたが、諸葛誕は彼を無能だと考え、後方に下げようとしていた。(『斉王紀』)
だが252年、諸葛誕は東興の戦いで諸葛恪(しょかつかく)に敗れ、毌丘倹(かんきゅうけん)と交替させられ(『毌丘倹伝』)、毌丘倹は張特を合肥新城の守将に任じた。

253年、勢いに乗る諸葛恪は合肥新城を包囲した。
張特は楽方(がくほう)とともに3千の兵を率いていたが、劣勢によりその半数は負傷者や病人となった。
張特は呉軍へ「魏の法では百日間戦い、救援がなければ降伏しても家族は罪に問われません。すでに九十日以上が経過しました。城兵の半数はまだ抗戦を望んでいますので、彼等を説得し降伏させます。明朝には城兵の名簿を作って渡しましょう」と申し出た。
呉軍は納得し攻撃を中止した。張特はその夜に家屋を壊して資材を得ると、城の補修に用いた。
そして明朝「私は死ぬまで戦う」と呉軍に宣告した。態勢を立て直した合肥新城の守りは堅く、呉軍は撤退した。

張特は激賞され、雑号将軍を付与のうえ列侯に封じ、安豊太守に栄転した。(『斉王紀』)

また張特によく似た字面の張持(ちょうじ)という将が魏におり、同じく対呉戦線で活躍している。同一人物の可能性があるかも知れない。



張敦  虞翻、陸績、張温との共通点?


張敦(ちょうとん)字は叔方(しゅくほう)
揚州呉郡の人(??~??)

呉の臣。

厚い徳と深い度量を備え、欲がなく淡白な性格で、文章に優れた。
若い頃は陸遜、卜清(ぼくせい)と並ぶ名声を博したが顧邵(こしょう)、陸績(りくせき)には及ばなかった。

209年、孫権が車騎将軍に任じられると、その幕府で西曹掾を務め、やがて主簿に転じた。
外に出て海昏県令を務め心の籠もった行政で知られたが、32歳の若さで没した。(『顧邵伝』)

子の張純(ちょうじゅん)は幼い頃から聡明で、朱拠(しゅきょ)に試され賦を作った。(『朱異伝』)
長じると孫和(そんか)の側近を務めた。(『孫和伝』)

また陸機(りくき)は「弁亡論」で「諷諫を行い主君の過ちを正した」と虞翻(ぐほん)、陸績、張温(ちょうおん)とともに、張惇の名を上げており、同一人物と思われる。(『孫皓伝』)
ただ虞翻、陸績、張温はいずれも孫権の不興を買い左遷された人物で、記録にはないが張敦の早逝に、左遷が関わっている可能性もあるだろうか。



張南  袁紹(地味)四天王D


張南(ちょうなん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁煕(えんき)の臣。

205年、曹操が袁譚(えんたん)を討ち取り冀州を制圧すると、袁煕配下の焦触(しょうしょく)・張南が反乱したため、袁煕・袁尚(えんしょう)は烏丸のもとへ逃亡した。
焦触・張南は曹操に降伏し列侯された。(『武帝紀』)

「演義」では大幅に出番が増え、同じ降将の馬延(ばえん)・張顗(ちょうぎ)・焦触と地味な四天王のようにセットで行動する。
長坂の戦いでは4人がかりで趙雲を襲うが敗北し、赤壁の戦いで周泰に討たれた。

「柴錬三国志」では4人まとめて趙雲に殺されたように書かれるが、その後も平然と登場する。

初期のSLG「三國志」では彼が登場するためか、蜀の同姓同名の張南は登場しなかった。



張南  袁紹配下じゃない方


個別ページへ



張霸  司馬懿に敗死した呉の将軍


張霸(ちょうは)字は不明
出身地不明(??~226)

呉の臣。

226年、呉は将軍の諸葛瑾(しょかつきん)・張霸に荊州襄陽郡を攻めさせたが、司馬懿に撃退され張霸は戦死した。(『明帝紀』)



張白


未作成



張白騎  白馬に乗った黒山賊


張白騎(ちょうはくき)名は不明
出身地不明(??~??)

黒山賊の頭目。

「典略」に曰く。
頭目らは気ままに異名を名乗り、白馬に乗っていたため張白騎と名乗った。(『張燕伝』)

206年、高幹(こうかん)に連動し東垣県を攻めた。河東太守の杜畿(とき)は諸県は自分に味方すると知っていたため数十騎で先行して防ぐと、数十日で4千人が集まり、曹操の援軍も到着し撃退した。(『杜畿伝』)

同時期に弘農郡を攻めた張晟(ちょうせい)と同一人物説がある。
だが「杜畿伝」で張白騎・張晟は名を書き分けられており、別人のように思える。



張伯  卜巳・梁仲寧とともに討ち取られる


張伯(ちょうはく)字は不明
出身地不明(??~184)

黄巾賊。

「続漢書」に曰く、184年、傅燮(ふしょう)・皇甫嵩(こうほすう)は卜巳(ぼくし)・張伯・梁仲寧(りょうちゅうねい)ら3人の頭目を討ち取った。(『後漢書 傅燮伝』)



張邈  判断を誤った曹操の親友


個別ページへ



張邈  張緝の反乱の連絡役の子


張邈(ちょうばく)字は不明
司隸左馮翊高陵県の人(??~254)

魏の臣。
張緝(ちょうしゅう)の子。張既(ちょうき)の孫。
名は張藐とも書かれる。

「魏略」に曰く。
張緝と李豊(りほう)の家は代々親しく近所のため、李豊が出掛けている時には張邈が(父の使者として)出向いて相談することもあった。(『張既伝』)

「王沈魏書」に曰く。
李豊は張緝とともに反乱を企み、張邈が連絡役を務めた。

254年、反乱は事前に露見し、三族皆殺しとなった。(『夏侯尚伝』)



張邈  張泰の子の方


張邈(ちょうばく)字は叔遠(しゅくえん)
冀州鉅鹿郡の人(??~??)

魏の臣。
張泰(ちょうたい)の子。張貔(ちょうひ)の父。

邴原(へいげん)以後では張泰・龐迪(ほうてき)が清潔賢明さで評判を上げ、張閣(ちょうかく)が簡素質朴さで有名だった。
張泰は大鴻臚に上った。

「冀州記」に曰く。
張邈は遼東太守に上った。子の張貔は「自然好学論」の著述で知られた。(『邴原伝』)



張汎  張遼の兄


張汎(ちょうはん)字は不明
并州雁門郡馬邑県の人(??~??)

魏の臣。
張遼の兄。

220年、曹丕は王位につくと張遼を前将軍に転任させ、兄の張汎と子を列侯した。(『張遼伝』)



張磐  陶謙に疎まれた先輩


張磐(ちょうばん)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

後漢の臣。

「呉書」に曰く。
廬江太守の張磐は陶謙(とうけん)と同郷の先輩で、父とも友人だったため親しくしたが、陶謙は彼に頭を下げるのを良しとしなかった。県長の陶謙が報告のため訪れると張磐は酒席に誘ったが拒絶されることもあった。
ある時、酒席で張磐は舞をし陶謙にも続くよう言ったが立ち上がりもしなかった。しつこく無理強いされやむなく始めても、陶謙は旋回すべきところでしなかった。理由を聞かれると「回れば他人を抑えてしまいます」と答えた。二人は不和になった。
(※前漢の故事で劉発が「私の領地は狭すぎて回れません」と言った自虐ネタにちなむ。張磐の領地が狭い、やりたくない舞でも張磐より上手いという意味だろう)(『陶謙伝』)



張範  邴原を目指し邴原に並ぶ


張範(ちょうはん)字は公儀(こうぎ)
司隷河内郡修武県の人(??~212)

魏の臣。
張延(ちょうえん)の子。

祖父は司徒、父は太尉を務めた名家の出で、落ち着いた静かな性格で、老荘に親しみ、営利に無関心で朝廷からの招聘にも応じなかった。
太傅の袁隗(えんかい)は娘婿に迎えようとしたが、それも固辞した。

董卓が実権を握ると、後漢に仕えていた弟の張承(ちょうしょう)は討伐しようと蜂起を企んだ。だが下の弟の張昭(ちょうしょう ※呉の重臣とは別人)に無謀だとたしなめられ、官を辞すと兄弟は揚州へ避難した。
揚州を支配する袁術は礼を尽くして招聘したが、張範は病気と称して行かず、代わりに張承が出向いた。袁術は帝位につこうと考えていると相談すると、張承は「強さではなく徳義が問題です」と率直に反対し、袁術を不機嫌にさせた。
さらに曹操が袁紹と戦い始めると、袁術は兵力差で負けると言ったが、張承は「曹操は天子を擁しています。漢の徳は衰えたとはいえ天命は定まらず、百万の軍勢が相手でも勝つでしょう」と正論を言った。袁術は顔色を変え、張承は危険を悟り辞去した。

袁術・袁紹を討伐した曹操は張範を招聘した。
張範は病のため張承を代わりに行かせた。
折しも張範の子の張陵(ちょうりょう)と、張承の子の張戩(ちょうせん)が山賊に捕らわれた。
張範はすぐさま交渉に向かい、山賊は張陵を解放した。だが張範は「息子を返してくれたのはかたじけないし、人情では我が子がかわいいが、張戩は幼くて不憫だ。張陵と交換してもらいたい」と申し出た。山賊は感動し二人とも返した。

208年、曹操が荊州を制圧し帰還すると、張範はようやく目通りし議郎・参丞相軍事に任命され、非常に尊敬され重んじられた。
曹操は遠征に出る時、張範と邴原(へいげん)を留守に残し、曹丕には必ず二人に相談するよう言い置き、曹丕は子や孫として礼を尽くした。(『張範伝』)

東曹掾の崔琰(さいえん)は官を辞すにあたり邴原と張範を後任に推薦した。

曹操は邴原と敬愛しあっている張範へ「邴原は名も徳も高く、清らかな規範は社会をも超越し、私の思い通りにもならない。あなたも邴原に学ぼうとし、彼の域にまで到達すれば富むが、追随する者は貧しくなるだろう」と行く末を懸念した。(『邴原伝』)

張範は施しを好み窮乏した者を助けたため、都の内外から孤児ややもめが彼を頼った。贈り物は受け取るが全く使わず、折を見て全て返却し、家に余財は無かった。
212年に亡くなった。

220年、曹丕は帝位につくと、子の張参(ちょうさん)を郎中に任じた。(『張範伝』)
同時期に功臣の子弟で不遇な者を一斉に取り立てており、その一環だろうか。(『文帝紀』)

陳寿は同伝に記した袁渙(えんかん)・邴原・張範を「清潔な生き方を実践し、出処進退は道義に基づいていた。貢禹・龔勝・龔舎(※春秋・前漢の高潔な名士)の仲間である」と称え、張承も兄に次ぐと評した。

「演義」には登場しない。



張璠


未作成



張弥  公孫淵に殺された呉の使者


張弥(ちょうび)字は不明
出身地不明(??~233)

呉の臣。

持節を預かり、太常を務めた。
232年、呉は海路から遼東の公孫淵(こうそんえん)のもとへ張弥、許晏(きょあん)、賀達(がたつ)ら1万の兵を送り、燕王の位を授けようとした。(『呉主伝』)

一方で公孫淵は魏とも通じており、遠方の呉は当てにならないと考え、233年、呉の使者の張弥、許晏らを殺し、魏へ首を送り恭順の意を示した。(『公孫淵伝』)



張美人  郭太后に殺された曹芳の側室A


張美人(ちょうびじん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹芳の側室。

「王沈魏書」に曰く。
司馬師らは曹芳の廃位を求める上奏の中で「郭懐(かくかい)・袁信(えんしん)らつまらぬ役者を宮殿に引き入れ、全裸で保林の女尚(じょしょう)らと乱交させた。妖婦の恰好をさせて悪ふざけさせたり、親族の女性と酒席で乱交させた。
保林の李華(りか)・劉勲(りゅうくん)ともいちゃつき、清商令(※女官長)の令狐景(れいこけい)が叱りつけると、李華・劉勲は曹芳に言いつけ、曹芳はハジキ(※弾棊に使うスティック?)で令狐景の頭や目を殴り、なおもひるまず諫言されると鉄を熱して全身を焼いた。
(251年、)甄皇后(しんこうごう)が没すると曹芳は寵愛する王貴人(おうきじん)を立后しようとしたが、郭太后は外部から探そうとしたため、曹芳は令狐景に「魏の王室(※曹操・曹丕・曹叡)は全て愛情で皇后を選んだではないか」と立腹し、郭太后が選んだ張皇后(ちょうこうごう)を疎んじた。
郃陽君(こうようくん ※郭太后の母の杜氏)が没しても喪に服さず、清商丞の龐煕(ほうき)が「郭太后は飲み物も喉を通らないほど悲しまれており、陛下は慰めに行くべきなのに遊び呆けているのはよろしくありません」と諫言したが「私は自然に振る舞っているだけで誰にもどうこうできない」と聞かなかったため郭太后が怒って曹芳のお気に入りの張美人と禺婉(ぐえん)を殺すと「母子の縁を切る」と宣言した。
令狐景・龐煕は迫害された末に恐れからこびへつらうようになった」と弾劾した。(『斉王紀』)



張飛  燕人張飛ここにあり


個別ページへ



張微  張翼の子


張微  張翼の子
張微(ちょうび)字は不明
益州犍為郡武陽県の人(??~??)

蜀の臣。
張翼(ちょうよく)の子。

「華陽国志」に曰く。
学問に熱心に励み広漢太守まで上った。(『張翼伝』)



張貔  「自然好学論」の著者


張貔(ちょうひ)字は邵虎(しょうこ)
冀州鉅鹿郡の人(??~??)

魏の臣。
張邈(ちょうばく)の子。張泰(ちょうたい)の孫。

邴原(へいげん)以後では張泰・龐迪(ほうてき)が清潔賢明さで評判を上げ、張閣(ちょうかく)が簡素質朴さで有名だった。
張泰は大鴻臚に上った。

「冀州記」に曰く。
張邈は遼東太守に上った。子の張貔は「自然好学論」の著述で知られた。
人柄は深遠で将来を見通す見識を具えていた。底知れぬ大きな器で、彼に教えを乞う者にも心中を推し測れないほどだった。
天子と東宮の役所を歴任し、元康年間(291~299)のはじめに城陽太守に任じられたが、赴任前に没した。(『邴原伝』)

「自然好学論」は「嵆康集」に載せられ現存する。



張表  楊戯に匹敵する友人


張表(ちょうひょう)字は伯達(はくたつ)
益州蜀郡の人(??~??)

蜀の臣。
「益部耆旧伝」によると張粛(ちょうしゅく)の子。
「華陽国志」によると張粛の弟の張松(ちょうしょう)の子。
裴松之もどちらが正しいかわからないと記す。(『馬忠伝』)

礼儀正しい態度と立派な風貌を備えていた。
若い頃は楊戯(ようぎ)、程祁(ていき)、楊汰(ようたい)と並び称された。楊戯はいつも程祁を筆頭と推していたが、諸葛亮は楊戯を評価していた。(『楊戯伝』)

当時の名士で、高尚な人物であると馬忠(ばちゅう)よりも評価された。
閻宇(えんう)も馬忠の後任を次々と務め業績を上げたが、どちらも威厳に満ちた風格と称賛されるべき功績では馬忠に及ばなかった。(『馬忠伝』)

はじめは名声も官位も楊戯と並び、後に尚書に上った。
庲降都督・後将軍となったが楊戯(※261年没)よりも早くに没した。(『楊戯伝』)

楊戯は庲降都督の副将を務めたことがあり、その時の都督は張表の可能性がある。



張邠  孫亮の推理に感心


張邠(ちょうひん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

孫亮が宦官に倉庫から蜂蜜を持ってこさせると、中に鼠の糞が入っていた。宦官は倉庫番が入れたと言い、倉庫番はそもそも宦官に蜂蜜を渡していないと言い争った。
侍中の刁玄(ちょうげん)と張邠は裁判官に委ねようと申し出たが、孫亮は糞を割らせ、中が乾いていたことから宦官が入れたばかりだと推理し、刁玄らを感心させた。(『孫亮伝』)



張旻


未作成



張布  地位を得た腰巾着


個別ページへ



張富  張魯の子


張富(ちょうふ)字は不明
豫州沛国豊県の人(??~??)

魏の臣。
張魯(ちょうろ)の子。

215年、張魯が降伏すると5人の子も列侯された。
父が没すると後を継いだ。

裴松之は「張魯は善良だったが、敗れた後に降伏したのに過ぎない。1万戸を与え、5人の子を列侯したのは行き過ぎである」と指摘する。(『張魯伝』)



張奮  張昭の武闘派の甥


張奮(ちょうふん)字は不明
徐州彭城郡の人(??~??)

呉の臣。
張昭(ちょうしょう)の甥(弟の子)。
「張昭伝」に附伝される。

20歳の時、城攻めに用いる大攻車を考案し、歩騭(ほしつ)に推薦された。
張昭はそれを喜ばず「年若いのになぜ進んで軍隊に入るのだ」と言うと、張奮は若年ながら軍で活躍した古人の例を引き「私は確かに不才ですが、年齢の点では不足していません」と答えた。

兵を預かる将軍となり、続けざまに手柄を立て、平州都督まで上り、楽郷亭侯に封じられた。(『張奮伝』)



張奮  任峻とともに曹操に仕える


張奮(ちょうふん)字は不明
司隷河南郡の人(??~??)

曹操の臣。

董卓が都を席巻する混乱の中、任峻(じんしゅん)は河南尹を代行する策を立て、兵を集めた。
ちょうど曹操の軍が県境に入ってきたため、張奮と相談して協力を決め、郡を挙げて合流した。

任峻はその後、曹操に仕え重職を歴任したが、張奮の消息は不明である。(『任峻伝』)



張秉  顧邵に見出された庶民


張秉(ちょうへい)字は不明
揚州呉郡陽羨県の人(??~??)

呉の臣。

丁諝(ていしょ)・張秉・吾粲(ごさん)・殷礼(いんれい)はいずれも卑賤な生まれだったが、顧邵(こしょう)は彼らを友人として遇し、評判を呼ぶように計らった。張秉の父が亡くなった時には自ら喪服を作ってやり、衣装を整えた。4人は後にいずれも高位に上り、人々は顧邵の眼の確かさを讃えた。

顧邵が豫章太守に赴任する出立の日、張秉が病に倒れたという知らせが届いた。顧邵は見送りに集まった数百人の賓客へ「彼に会わずに出立するのは心残りだから、少しお待ちいただきたい」と断りを入れ、見舞いに行った。彼が人物の長所だけを見て、身分を気にしなかった好例である。

張秉は庶民から雲陽太守まで上った。(『顧邵伝』)



張慕  張嶷に騙し討ちされた山賊


張慕(ちょうぼ)字は不明
益州広漢郡綿竹県の人(??~227)

山賊。

227年、軍需物資を略奪し官民を無理やり配下にした。
張嶷(ちょうぎょく)は都尉として討伐に向かったが、攻めると鳥が飛び立つように四散してしまい捕らえられなかった。
そこで偽って和睦し、酒宴を催してそのさなかに自ら側近とともに張慕ら主力50数人を殺した。残党を追撃し10日ほどで制圧した。(『張嶷伝』)



張方  張燕の子


張方(ちょうほう)字は不明
冀州常山郡真定県の人(??~??)

魏の臣。
張燕(ちょうえん)の子。

父が没すると後を継いだ。(『張燕伝』)



張奉  張顥の兄


張奉(ちょうほう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の中常侍(宦官)。
張顥(ちょうこう)の兄。

「傅子」に曰く、宦官のおかげで官位を得た張顥らは、金で官位を買った者よりなお悪い輩である。(『董卓伝』)

wiki等に張奉は張譲(ちょうじょう)の養子で、妻は何皇后(かこうごう)の妹だと記されるが、出典がまだ確認できないのでいったん保留する。



張奉  王脩に看病される


張奉(ちょうほう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

庶民?

王脩(おうしゅう)は20歳の時、荊州南陽郡に遊学し、張奉の家に宿を借りた。ところが張奉の一家が揃って病に倒れてしまい、王脩は彼らが治るまで介抱した。(『王脩伝』)



張奉


未作成



張宝  黄色い幻術家


個別ページへ



張苞  満寵に摘発された汚職官吏


張苞(ちょうほう)字は不明
兗州山陽郡高平県の人(??~??)

後漢の臣。

満寵(まんちょう)が高平県令を代行した時、郡の督郵(監査官)の張苞は貪欲で贈収賄を行い、行政を大いに混乱させた。
満寵は彼が宿舎に帰ったところを狙い逮捕すると、罪を問いただして取調べし、督郵に歯向かった責任を取り官を辞して帰郷した。(『満寵伝』)



張苞  黄巾賊と呼ばないで


個別ページへ



張茂  曹叡を諫言するがスルーされる


張茂(ちょうぼう)字は彦林(げんりん)
豫州沛国の人(186~??)

魏の臣。

235年、曹叡は宮殿造営を始め、民に多大な労役を強いた。

「魏略」に曰く。
張茂はかつて著作の「要言」を評価され太子舎人に取り立てられた。
曹叡が呉・蜀がたびたび侵攻している中で宮殿造営に血道を上げ、さらに官民のもとに嫁いだ兵士の娘を無理やり召し上げ、再び兵士に嫁がせ奴隷と交換で身請けさせたり、その中から美女を後宮へ奪っていることを激しく非難した。
曹叡は「張茂は私と同郷だから大目に見てくれると思っているのだ」と言い、処置を配下に任せただけだった。(『明帝紀』)



張某  張当から曹爽に贈られた女官A


張某(ちょうぼう)名は不明
出身地不明(??~??)

魏の才人(女官)。
某は名ではなく不明の意味。

宦官の張当(ちょうとう)に選ばれ、何某(かぼう ※同じく名は不明)とともに曹爽(そうそう)に贈られた。

249年、朝廷はそこに何か不正があるのでは疑い取り調べると、曹爽・何晏(かあん)と結託して謀叛を企んでいたと判明し、曹爽・何晏・張当らは処刑された。(『曹真伝』)

たまたま別件で逮捕された張当が謀叛を白状したという、どう見ても司馬懿の策略にしか思えない経緯であり、後に謀叛を企んだ李豊(りほう)も張当は陰謀に利用されたと述べている。(『夏侯尚伝』)

姓からして張某は張当の、何某は何晏の一族だろうか。ちなみに二人とも「ちくま版」の索引に載っていない。

「演義」では女官は亡き曹叡の妾に変更され、曹爽一派の非道さと傲慢さが強調された。また張当は本当に謀叛に関与している。



張毣  張裔の子


張毣(ちょうぼく)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。
張裔(ちょうえい)の子。

230年、父が没すると後を継ぎ、後に三郡の守監軍を歴任した。
弟の張郁(ちょういく)は太子中庶子に上った。(『張裔伝』)



張睦  黄華らに捕らえられた西海太守


張睦(ちょうぼく)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

西海太守を務めた。

220年、曹操が没すると西平郡の麴演(きくえん)が二度にわたり反乱した。
張進(ちょうしん)・黄華(こうか)も呼応し、各地の太守を捕らえ、自ら太守を名乗った。(『蘇則伝』)

蘇則(そそく)や毌丘興(かんきゅうこう)によって反乱は鎮圧された。

雍州刺史の張既(ちょうき)は上奏し「河右は長く戦乱の中にあり、武威郡は要所に当たるうえ異民族と国境を接し、たびたび戦火にかかっていました。毌丘興は着任すると内外を平定し、張進・黄華の反乱には涙を流して憤慨し、1万人の民は感激して忠誠を誓いました。捕らえられた太守の杜通(とつう)、張睦を救出し、張掖郡の民は彼を慕い移住しました。全ての任地で心力を尽くした国家の良吏です。恩賞を与えてください」と激賞した。(『毌丘倹伝』)



張曼成  超マンセー


個別ページへ



張猛  二つの伏線回収


張猛(ちょうもう)叔威(しゅくい)
涼州敦煌郡の人(??~210)

魏の臣。
「後漢書」に列伝される張奐(ちょうかん)の子。

建安年間(196~220)のはじめ、郡の功曹となった。
当時、敦煌を含む黄河西岸の四郡は涼州の支配域から遠く、水賊が跋扈していたため、張猛は新たに州を設置し管轄下に置くよう上書した。
209年、朝廷(曹操)はそれを容れ、新たに雍州を設けると邯鄲商(かんたんしょう)を刺史に任じ、かつて張奐が同地で名声を博したことから、欠員となった武威太守に張猛を任命した。

張猛と邯鄲商は同い年で、いつもふざけて馬鹿にし合っていたが、ともに任地に向かう途中に険悪となった。到着すると邯鄲商は張猛を殺そうとしたため、それを察知した張猛は先手を打って攻撃した。
邯鄲商は屋根の上に逃げ「死んでも知覚があればお前の一族を皆殺しにするぞ」と脅した。
邯鄲商は捕縛されたが、逃亡を企てたため殺された。

張猛は「弔う者は処刑する」と布告したが、龐淯(ほういく)は構わず邯鄲商を弔うと、張猛を訪ね暗殺しようとした。
失敗したが張猛は「私は刺史を殺して罪を犯し、彼は至忠で名声を得る。彼を殺せば州の道義ある人々は誰も従わない」と嘆息し、義士であると讃え、殺さないよう命令し、龐淯は忠烈さで名声を博した。(『龐淯伝』)

酒泉太守の徐揖(じょゆう)は豪族の黄一族を処刑した。
黄昴(こうこう)は脱出し、兵を集め城を包囲した。(『閻温伝』)

龐淯はそれを助けようとしたが間に合わず、殺された徐揖の遺体を引き取り、故郷に送り届け、3年の喪に服した。(『龐淯伝』)

一方、仇討ちを生業とする侠客の楊豊(ようほう)は黄昴に非があると思い、徐揖を助けようとしたが、間に合わず徐揖は殺され、黄昴に恨まれた。
黄昴は楊豊に高い懸賞金を掛け、生け捕りにするよう命じた。
張猛は楊豊を助けるため仮の都尉に取り立て、復讐を許可する布告を出した。
楊豊は兵を集めて黄昴を殺した。(『閻温伝』)

210年、韓遂(かんすい)が上書し、張猛を討伐した。官民はその勢いを恐れこぞって寝返った。
かつて父の張奐が武威太守の頃、張猛は母の腹の中にいた。母は夫の印綬を持ち二階に登り、歌っている夢を見た。夢占い師に尋ねると「男子が生まれて武威に戻り、必ず在官のまま死ぬでしょう」と言われた。
張猛は邯鄲商の言葉と母の夢を思い出すと「死者に知覚がなければそれまでだが、もしあるのならば父祖の墓に参ろう」と言い、二階に登り火を放って自害した。(『龐淯伝』)



張約  諸葛恪の腹心


張約(ちょうやく)字は不明
出身地不明(??~253)

呉の臣。

253年、孫峻(そんしゅん)は専権を振るう諸葛恪(しょかつかく)の暗殺を図り、宴会へ招いた。
孫峻は自ら出迎え、体調を気遣うふりをして、陰謀を察知しているか探った。散騎常侍を務める張約と朱恩(しゅおん)は異変を察知し、諸葛恪へ警戒するようメモで伝え、いったんは引き返したものの、舅の滕胤(とういん)に出会った。
滕胤は陰謀を知らず、せっかく招かれたのだから参内するよう勧め、舅の言葉を無下にできず諸葛恪は出席した。

その席上で諸葛恪は暗殺された。張約は阻止しようと孫峻に斬りつけたが左腕を傷つけただけで、反撃により右腕を両断され(ともに殺され)た。
朱恩も一族皆殺しになった。(『諸葛恪伝』)
滕胤は辞職を申し出たが孫峻に説得され留任した。(『滕胤伝』)

「呉歴」には、諸葛恪が朱恩らに渡されたメモを滕胤に見せ、滕胤は帰宅を勧めたが「孫峻のこわっぱに何ができる。毒殺だけは心配だが」と諸葛恪は毒対策の薬酒を持って出席し、暗殺されたという異聞が記される。
後世の孫盛(そんせい)は「諸葛恪が滕胤に相談するのは自然であり、彼は孫峻を侮っていた。滕胤のせいで殺されたとする正史より呉歴の記述のほうが優れている」と評した。(『諸葛恪伝』)



張裕  自身の死相を観る


張裕(ちょうゆう)字は南和(なんか)
益州蜀郡の人(??~219?)

蜀の臣。
「周羣伝」に附伝される。

益州では周羣(しゅうぐん)が自然現象をもとにした予言術に優れていたが、天賦の才では張裕の方が上回っていた。(『張裕伝』)

鄧芝(とうし)は若い頃なかなか評価されなかった。張裕に人相を観てもらうと「70歳を越えてから大将軍に上り列侯されるだろう」と予言された。後に的中した。(『鄧芝伝』)

益州牧の劉璋(りゅうしょう)のもとで従事を務めていた時、当時は賓客だった劉備と会見した。劉備が張裕の豊かな髭をからかうと、張裕は劉備が髭を生やしていないことと出身地の涿郡を絡め「潞涿君(髭の無い男)」とやり返し、劉備は不快に感じた。

214年、劉備は益州を制圧すると漢中への侵攻を考え、周羣に諮問すると「土地は手に入りますが、民は手に入りません。一部隊だけを出せば必ず負けます。それを警戒し慎重を期してください」と答えた。
張裕は「漢中を攻めれば必ず負けます」と予言した。

劉備は漢中を制圧したが、民は魏へ接収された。一部隊で侵攻した呉蘭(ごらん)・雷銅(らいどう)は全滅し、全て周羣の予言通りになった。

また張裕は「220年に後漢は滅びる。主君(劉備)は益州を手に入れてから9年後、つまり222~223年の間に亡くなるだろう」と予言し、密かにひとに話していた。
これが劉備に密告され、逆鱗に触れた。張裕は漢中侵攻の予言が外れた罪で投獄され、処刑を命じられた。
諸葛亮が助命嘆願したが、劉備は「かぐわしい蘭の花も、門に生えれば刈り取らないわけにはいかない」と言い、市場で公開処刑させた。
張裕は人相学にも通じており、鏡を見るたびに自分が刑死する相を観てしまい、地面に叩きつけていたという。

死後、後漢の滅亡や劉備の死の予言は的中した。(『張裕伝』)



張雄  張郃の子


張雄(ちょうゆう)字は不明
冀州河間郡鄚県の人(??~??)

魏の臣。
張郃の子。

231年、父が蜀軍との戦いで討ち死にすると後を継いだ。
張郃の領地を分割し、4人の兄弟が列侯され、末子も関内侯に封じられた。(『張郃伝』)



張融  張燕の孫


張融(ちょうゆう)字は不明
冀州常山郡真定県の人(??~??)

魏の臣。
張方(ちょうほう)の子
張燕(ちょうえん)の孫。

父が没すると後を継いだ。(『張燕伝』)



張楊  瞳をとじて 帝を守るよ


個別ページへ



張翼  細く長く蜀を支えた名将


個別ページへ



張雷公  大声


個別ページへ



張梁  兄さえ死ななけりゃ


個別ページへ



張梁


未作成



張陵  誘拐された張範の子


張陵(ちょうりょう)字は不明
司隷河内郡修武県の人(??~??)

張範(ちょうはん)の子。

張陵と、張範の甥の張戩(ちょうせん)が山賊に捕らわれた。
張範はすぐさま交渉に向かい、山賊は張陵を解放した。だが張範は「息子を返してくれたのはかたじけないし、人情では我が子がかわいいが、張戩は幼くて不憫だ。張陵と交換してもらいたい」と申し出た。山賊は感動し二人とも返した。

父の死後に兄弟の張参(ちょうさん)が取り立てられており、張陵は早逝したか下の子だったと思われる。(『張範伝』)



張遼  泣く子も黙る遼来来


個別ページへ



張林


未作成



張礼  陰脩に推挙された潁川郡の人B


張礼(ちょうれい)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

後漢の臣。

「謝承後漢書」に曰く。
陰脩(いんしゅう)は潁川太守に赴任すると賢人を顕彰し英俊を抜擢することに努力し、張仲(ちょうちゅう)を方正に推挙し、鍾繇(しょうよう)、荀彧、主記掾の張礼、杜祐(とゆう)、荀攸(じゅんゆう)、郭図(かくと)を見出して朝廷を光り輝かせた。(『鍾繇伝』)



張魯  カリスマ教祖様


個別ページへ



萇奴  董承とともに曹操の迎えを拒否


萇奴(ちょうど)字は不明
出身地不明(??~??)

袁術の臣。

195年、曹操は董卓残党の支配する長安を脱出した献帝を迎え入れるため曹洪(そうこう)に兵を与え向かわせたが、董承(とうじょう)と袁術配下の萇奴が要害に籠もって抵抗したため、進めなかった。(『武帝紀』)



徴崇


未作成



趙安  龐娥の父


趙安(ちょうあん)字は不明
涼州酒泉郡禄福県の人(??~??)

龐娥(ほうが)の父。
龐淯(ほういく)の祖父。
「烈女伝」では趙君安と書かれる。

同県の李寿(りじゅ)に殺された。
3人の息子も亡くなり李寿は報復を逃れたと安堵したが、娘の龐娥は帳のある車に乗り袖に剣を隠し、白昼に李寿を刺殺した。そしてゆっくりと役所に赴き、顔色も変えず「父の仇討ちをしましたので死刑を受けたいと思います」と報告した。
県長の尹嘉(いんか)は感嘆し印綬の紐を解き辞任の意を示すと、罪に問わず無理やり龐娥を車に乗せ家へ帰した。ちょうど恩赦があり罪を免れた。
州郡も感嘆し龐娥の事績を石に刻み村の門に建てた。(『龐淯伝』)



趙威孫  司馬朗の親類


趙威孫(ちょういそん)字が威孫か
冀州黎陽郡の人(??~??)

後漢の臣。
司馬朗(しばろう)の親類。

189年、董卓が実権を握ると、司馬朗は彼の滅亡を察知し、賄賂を使い郷里へ帰った。そして一族の長老たちへ「董卓追討軍が立てば、ここは必ず戦場となります。今のうちに古い親戚の趙威孫のいる黎陽へ避難しましょう。趙威孫は監営謁者として兵を統率し頼りがいがあります」と言ったが、故郷から離れがたいと誰も従わなかった。
結局、司馬朗と同郷の趙咨(ちょうし)だけが黎陽へ逃げ、数ヶ月後には読み通りに河内に追討軍が集結した。(『司馬朗伝』)



趙韙  劉璋排除を企み返り討ちに


趙韙(ちょうい)字は不明
益州巴西郡の人(??~??)

劉焉(りゅうえん)・劉璋(りゅうしょう)の臣。

後漢の太倉令をしていたが官を捨て、益州牧に赴任する劉焉に付き従った。

194年、劉焉が没すると、おとなしい四男の劉璋を傀儡にしようと企み、上奏して益州牧に据えた。趙韙も征東中郎将に任命され、荊州牧の劉表(りゅうひょう)への攻撃を命じられた。

「英雄記」に曰く。
劉璋が益州刺史を継ぐと、朝廷(を牛耳る李傕(りかく)ら)は扈瑁(こぼう)を益州刺史に任じ、漢中に入らせた。
荊州別駕の劉闔(りゅうこう)や、益州の甘寧ら不穏分子はそれに呼応し劉璋を攻撃したが、敗北し荊州へ逃げた。劉璋は趙韙に追撃させた。(『劉焉伝』)

董卓の台頭により南陽郡や三輔から流民が数万家も益州に移り、そこから徴兵し「東州兵」と名付けていた。劉璋は優柔不断で威厳がなく、東州兵が元の住民を侵害しても対処できなかった。民の不満も募ったため、劉璋は人心をつかんでいた趙韙にこの問題を任せた。
趙韙はそれを利用し謀叛を企み、荊州に賄賂を贈ってよしみを通じ、益州の豪族と手を結び挙兵した。蜀郡・広漢郡・犍為郡が呼応し、劉璋は成都に籠城を強いられた。だが東州兵は趙韙を恐れて劉璋に味方し、返り討ちにした。
趙韙は配下の龐楽(ほうがく)・李異(りい)に裏切られ、殺された。(『劉璋伝』)



趙昱  王朗、張昭の旧友


趙昱(ちょういく)字は元達(げんたつ)
徐州琅邪郡の人(??~193?)

後漢の臣。

13歳の時、母が3ヶ月あまり床に臥せった。趙昱は憔悴しやせ衰え、まばたきさえ忘れて生死を占い、血の涙を流し平癒を祈ったため孝行を称賛された。
綦毋君(きぶくん)に師事し、外をのぞくことすらせず部屋に閉じこもって学問に没頭し、両親にも朝夕の挨拶でしか顔を見せなかった。
高潔かつ廉直な人柄で礼儀を身に着け、清らかな精気と威厳に満ちた慎み深さのため、何者も彼の志を損なえなかった。
善行を讃えて教化し、悪行を糾弾して風俗を正した。州や郡から招聘されたが病気と称して断り、琅邪国相からの招きも固辞した。断られたことに激怒し脅す者もいたが意に介さなかった。(『陶謙伝』)

その潔癖さを「耳は邪を聞かず、目は妄を見ず」とうたわれた。种払(ちゅうふつ)によって方正に推挙された。(『後漢書 陶謙伝』)

孝廉に推挙され出仕し(『陶謙伝』)、当時、三署(五官中郎将ら)の郎から県長を選ぶならわしで、劉繇(りゅうよう)、王朗(おうろう)、臧洪(ぞうこう)らとともに推挙され、莒県長に任命された。(『臧洪伝』)

その政治は琅邪国の模範となり、黄巾の乱に際しての徴兵の処置も第一等と評価された。
徐州刺史の巴祇(はぎ)は最高の功績があると上奏し昇進を約束されたが、趙昱はそれを恥じ官を辞して郷里へ帰った。

徐州牧の陶謙(とうけん)が別駕従事に招聘したが、病と称し断った。陶謙は呉範(ごはん)を通じてさらに招聘し、それも断られると脅して強引に仕官させた。
だが陶謙は道義に背き感情に任せて動く性格のため、忠義で正直な趙昱を疎んじた。(『陶謙伝』)

徐州出身の張昭(ちょうしょう)、趙昱、王朗は並んで名声を馳せ、互いに親しく交流していた。
陶謙は張昭を茂才に推挙したが、断られると激怒し彼を捕らえた。趙昱が全力を上げて救出を図り、やっとのことで釈放された。(『張昭伝』)

王朗も陶謙に茂才に推挙され、治中となった。別駕の趙昱とともに、朝貢するよう勧め、趙昱が使者を務めた。
献帝は喜び、陶謙を安東将軍、趙昱を広陵太守、王朗を会稽太守に任じた。(※「陶謙伝」には茂才に推挙され広陵太守になったとある)(『王朗伝』)

陳登(ちんとう)は自分が驕慢だと噂されていると聞くと「品性が清潔で整い、悪を憎み、見識で義心がある趙昱を尊敬している」と尊敬している名士たちを列挙し、そんな自分が驕慢なわけがないと否定した。(『陳矯伝』)

賊徒の笮融(さくゆう)が討伐され、広陵郡の境に逃げ込んだ。趙昱は兵を出してそれを防ごうとしたが、敗北し戦死した。(『陶謙伝』)

「劉繇伝」に異聞がある。
曹操が陶謙を攻めると、笮融は男女1万人と馬3千頭を連れ広陵郡に避難した。趙昱は歓迎したが、笮融は豊かさに目をつけ、宴席で趙昱を殺害し、大略奪して去った。(『劉繇伝』)

趙昱は広陵太守の時に張紘(ちょうこう)を孝廉に推挙していた。
張紘はその死を聞くと悲憤慷慨したが、仇討ちする力は無かった。
後に(孫策・孫権に仕え)会稽東部都尉に就くと、役人を琅邪国に派遣し、趙昱のために祭祀を行わせるとともに、後継ぎとなる一族を探させた。
自身も琅邪国相の臧覇(ぞうは ※臧宣と誤記される)に手紙を送って依頼し、臧覇は趙昱の一族の5歳の男子を見つけ、祭祀を継がせた。
経緯を聞いた孫権も喜んだ。(『張紘伝』)



趙雲  子龍は一身これ胆なり


個別ページへ



趙英  王異の娘


趙英(ちょうえい)字は不明
涼州天水郡の人(??~??)

趙昂(ちょうこう)と王異の娘。

「列女伝」に曰く。
趙昂が羌道県令になったとき、王異は子供たちとともに西県に住んでいた。
しかし梁双(りょうそう)が反乱を起こし、2人の息子を殺してしまった。
王異は乱暴される前に自害しようとしたが、まだ6歳の娘の趙英を一人残せないと思いとどまり「西施(古代の絶世の美女)とて不潔にしていれば誰もが鼻をつまむと聞きます。ましてや私は西施のような美人ではない」と言うと、衣服に汚物をなすりつけ、食事を断ってやせ衰え、醜く装った。
やがて反乱は治まり、趙昂から迎えの使者が訪れた。夫の待つ羌道へ向かう途上、王異は趙英に「歴史に名を残す女性たちは、たとえ部屋に火をかけられ焼け死んだとしても貞節を守るためには逃げなかったといいます。しかし私は騒乱に遭いながらも死ぬことができませんでした。こうして生き恥をさらしているのも、全てはあなたを助けるためです。あなたが無事に父のもとにたどり着けるのだから、私はもう必要ないでしょう」と言うや、毒をあおった。
さいわい解毒剤があったため、口をこじ開けて飲ませ、なんとか助けることができた。(『楊阜伝』)



趙叡  烏巣レンジャー・烏巣ピンク


個別ページへ



趙延  趙忠の弟


趙延(ちょうえん)字は不明
冀州安平郡の人(??~??)

後漢の臣。
趙忠(ちょうちゅう)の弟。

兄の趙忠は宦官で、霊帝に重用され「我が母」とまで呼ばれた。(『後漢書 宦者列伝』)

趙忠は以前、傅燮(ふしょう)に非難されたことを恨み、列侯の話を握りつぶしたことがあった。
趙忠が車騎将軍に上ると、黄巾の乱の功績を改めて論じるよう命じられ、甄挙(しんきょ)らは傅燮を列侯するよう推した。
趙忠は弟で城門校尉の趙延を使者に立て、慇懃な態度で「受ければ領邑は1万戸を超えるでしょう」と言うと傅燮は顔色を変え「厚遇と不遇は天命で、功績を採り上げられないのは時勢である。(先に列侯を握りつぶされておいて今さら)私的に賞賜など望むものか」と拒絶した。
趙忠はいよいよ恨みを深くしたが、傅燮の名声は高く手出しできなかった。だが多くの権力者に睨まれ、傅燮は難を避けるため漢陽太守に赴任した。(『後漢書 傅燮伝』)

184年、趙忠らは大将軍の何進(かしん)を暗殺し、報復として宦官は皆殺しにされた。
弟の趙延も無事ではあるまい。



趙温  雄飛・雌伏の語源


趙温(ちょうおん)字は子柔(しじゅう)
益州蜀郡成都県の人(137~208)

後漢の臣。
趙典(ちょうてん)の甥(兄の子)。趙謙(ちょうけん)の弟。
「後漢書 趙典伝」に附伝される。

はじめ京兆尹の丞に任じられたが、「大丈夫は雄飛すべきであって、どうして雌伏しておれようか」と嘆息し官を辞した。(※雄飛・雌伏の語源である)
同年に大飢饉が起こると、家が裕福だったため人々に食糧を全て分け与え、1万余人を助けた。

献帝が長安へ遷都すると、侍中に任じられそれに同行し、江南亭侯に封じられた。
楊彪(ようひょう)の後任の司空となり、免職されると司徒・録尚書事となった。(『後漢書 趙温伝』)

「三輔決録注」に曰く、趙温・楊彪らは三公に任じられると、まず士孫瑞(しそんずい)に譲ろうとしたが固辞された。(『董卓伝』)

董卓が討たれ残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)が激しく争い、李傕は献帝を幽閉しようとした。李傕は趙温が従わないとわかっていたため、先に幽閉した。
趙温は恐れずこんこんと李傕をさとし激怒されたが、従弟の李応(りおう)がかつて趙温に仕えていたため数日にわたり弁護し、処刑は免れた。(『後漢書 趙温伝』)

「献帝起居注」に曰く、献帝は趙温が李傕を諌めたと聞くと「李傕には善悪を判断する力がない。趙温の言葉は厳しすぎるから、心が凍りつくほど心配だ」と案じたが、常洽(じょうこう)が「李応がもうなだめました」と伝え安心させた。(『董卓伝』)

「献帝紀」に曰く、李傕は趙温らを嫌悪していたため殺そうとしたが、賈詡に「天子の大臣をなぜ殺そうとするのか」と諌められ思いとどまった。(『賈詡伝』)

李傕は献帝を幽閉しようとしたが趙温に説得され取りやめた。(『後漢書 董卓伝』)

196年、献帝は曹操に庇護され許昌へ遷都し、趙温も随行した。(『後漢書 趙温伝』)

199年、曹操に撃破された袁術が病没すると、袁術に拘束されていた徐璆(じょきゅう)は彼が盗み持っていた玉璽を取り戻し、任地の印綬とともに朝廷へ返還した。趙温が「大難に遭いながらよくもここまで来られたものだ」と感心すると、「蘇武は匈奴に追い詰められながら七尺の節を失いませんでした。この印綬は一寸四方に過ぎません」とうそぶいた。(『後漢書 徐璆伝』)

208年、曹丕を掾に招くと、曹操は趙温がおもねろうとしていると糾弾し罷免させた。
同年に72歳で没した。(『後漢書 趙温伝』)

かつて趙温に仕えた吉黄(きつこう)は県令は勝手に官を辞してはいけないという法に背き、葬儀に参列したため鍾繇(しょうよう)によって処刑された。
弟の吉茂(きつぼう)は兄が道義を重んじた結果、法に殺されたと考え、怒りのあまり哭礼しなかった。
同年の終わり頃、その鍾繇によって推挙された。予想に反して吉茂はそれに応じ、人々は彼が鍾繇を恐れているとも、仕官のために無理を通したとも考えた。

後に吉茂が謀叛の嫌疑を掛けられると、鍾繇は弁護し助けてやった。(『常林伝』)

「演義」には趙謙・趙温ともに登場しない。

  ち1  ち2  ち3  ち4  ち5  ち6  ち7
て1  て2  と1  と2  と3