三国志 て 1


丁晏  華融とともに殺される


丁晏(ていあん)字は不明
出身地不明(??~257)

呉の臣。

242年、孫和(そんか)は前年に死去した兄に代わり太子に立てられた。
都督の劉宝(りゅうほう)が太子庶子の丁晏を告発すると、丁晏も劉宝を告発し返した。
孫和は丁晏を呼び出し「安心して事を任せられる人材は何人もいない。その人材たちが気持ちの行き違いから互いに疎んじ合い、傷つけ合って良いことがあるだろうか」とたしなめ、二人の関係を、心の籠もった交わりをさせるまでに修復させた。(『孫和伝』)

257年、呉の実権を握った孫綝(そんちん)は、意に沿わない呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)を除くため、呂拠へ討伐軍を出し、滕胤には華融(かゆう)と、中書丞の丁晏を送り、武昌に駐屯するよう命じた。
滕胤は陰謀を察知し、華融と丁晏を捕らえ、孫綝を批判する手紙を書かせた。
孫綝は手紙を無視し滕胤の城を包囲させた。滕胤は今度は孫綝討伐を命じる詔勅を偽造させようとしたが、丁晏らは従わなかったため殺してしまった。(『孫綝伝』)



丁咸  李平の罷免に連名した蜀臣D


丁咸(ていかん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

231年、李平(りへい)の罷免を求める文書に行左護軍・篤信中郎将として連名した。(『李厳伝』)

余談だがこの弾劾文書にしか登場しない蜀臣は9人もいる。



丁儀  曹丕絶対殺すマン


丁儀(ていぎ)字は正礼(せいれい)
豫州沛国の人(??~220)

魏の臣。

父の丁沖(ていちゅう)は曹操とは同郷で、厚遇された。
曹操は丁儀の評判を聞くと長女の清河長公主(せいか)を嫁がせたいと考え、曹丕に相談した。曹丕は「丁儀は隻眼で姉上は喜ばないと思います。夏侯楙(かこうぼう)がいいでしょう(※同じ隻眼なら夏侯惇の子の方がマシという皮肉である)」と勧めた。
曹操はその通りにしたが、後に丁儀と話す機会を得ると頭脳に舌を巻き「たとえ盲目でも嫁がせるべきだった」と悔やんだ。

曹丕への恨みから、丁儀は弟の丁廙(ていよく)や楊脩(ようしゅう)とともに、後継者争いのライバルの曹植(そうしょく)を守り立てた。(『陳思王植伝』)

丁儀らは曹丕派や有力者の切り崩しのため、裏工作を始める。

彼らは徐奕(じょえき)を陥れようとした。ある人が「丁儀は身分も名声も高く頭を下げるべきだ」と勧めたが、徐奕は「曹公(曹操)は聡明で、丁儀はいつまでも虚名を保てない。不正をもって主君に仕える者は私に何もできない」と意に介さなかった。
一方で傅玄(ふげん)は「丁儀によって徐奕は官位を失った」と記すが、「魏書」には官位を失った記述が見当たらない。(『徐奕伝』)

丁儀は何夔(かき)とも仲が悪かった。傅巽(ふそん)は「あなたの友人の毛玠(もうかい)も既に陥れられました。丁儀を少し立ててやりなさい」と忠告したが「道義に外れた行いをすれば我が身を損なうだけで、他人を損なうことはできない。そのうえ邪な心を抱いて高位にいれば長くはない」と何夔は聞き入れなかった。

また毛玠を陥れた者の名は「毛玠伝」に記されていないが、この記述から丁儀らだったと思われる。(『何夔伝』)

曹丕派の桓階(かんかい)は、剛直で仲間の少ない毛玠・徐奕らを弁護し、身の安全を助けてやった。(『桓階伝』)

丁儀らは司徒の衛臻(えいしん)を仲間に引き込もうとしたが、大義を盾に断られた。(『衛臻伝』)

だが結局は曹丕が太子に決まり、220年に王位につくと、曹植を追放し、丁儀兄弟に暗黙のうちに自害を命じた。丁儀は友人の夏侯尚(かこうしょう)に叩頭して助命嘆願したが、夏侯尚は涙を流しながらも何もできず、丁儀兄弟は難癖つけられ一族もろとも処刑された。(『陳思王植伝』)

陳寿は丁儀・丁廙・楊脩ら七人を、建安七子には及ばないが、当時の優れた文学的才能の持ち主と列挙した。(『王粲伝』)

劉廙(りゅうよく)と刑罰や儀礼について議論した書物は世に伝わった。(『劉廙伝』)

魚豢(ぎょかん)は「曹植は曹操が後継を考えなければ野心を抱かなかった。楊脩・丁儀は曹操の迷いから一族皆殺しの憂き目に遭ったのだ」と哀れんだ。(『任城陳蕭王伝』)

その後、陳寿が丁儀の子孫に「魏書」への立伝を持ちかけ賄賂を要求したが断られたため立伝されなかったというが、そもそも丁儀の一族は処刑されており、疑わしい話である。

「演義」での丁儀兄弟は曹操の葬儀に参列しなかったかどで処刑されており、普通に馬鹿だと思う。



丁宮  少帝の廃位に賛成した元三公


丁宮(ていきゅう)字は符雄(ふゆう)
豫州沛国の人(??~??)

後漢の臣。

交州刺史の丁宮が都に召還されると、部下の士壱(しいつ)は心を込めて送別し、感激した丁宮は「私がもし三公に上ったらあなたを招聘しよう」と約束した。(『士燮伝』)

187年、光禄勲から司空に上った。
188年、司徒に上った。
189年、罷免された。(『後漢書 霊帝紀』)

同年、董卓は少帝を廃位した。宣告に群臣が静まり返っていると、尚書の丁宮は故事を引き「どうか万歳を称させてください」と称賛した。(『董卓伝』)

丁宮は司徒になった際に言葉通りに士壱を招いたが、都に到着すると既に罷免されていた。
だが後任の司徒の黄琬(こうえん)も士壱を厚く礼遇した。(『士燮伝』)



丁君幹  杜微を慕う謎の人物B


丁君幹(ていくんかん)名は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

224年、諸葛亮は杜微(とび)を招聘した。耳の聴こえない彼のため諸葛亮は手紙を送り、その中で「丁君幹らもあなたの高邁な志に感嘆しています」と記した。(『杜微伝』)

他の事績が無いが列挙された中には列伝される王連(おうれん)・楊洪(ようこう)がおり相当の人物だったのだろう。



丁原  呂布の最初の犠牲者


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丁固  呉末期を支えた司徒


丁固(ていこ)字は子賤(しせん)
揚州会稽郡山陰県の人(198~273)

呉の臣。
丁覧(ていらん)の子。

元の名は丁密(ていみつ)だが、滕密(とうみつ)が丁密の名を避けて滕牧(とうぼく)に改名すると、丁密も滕牧をはばかって丁固に改名した。(『孫皓伝』)

赤ん坊の頃に彼を見た闞沢(かんたく)は「この子は将来、必ずや位人臣を極めるだろう」と言った。
若くして父を失い、母に孝行した。家は貧しく、一族の中で年下で身寄りのない者を集め、生計をともにした。(※孫権は丁覧の死を惜しみ一族に特別な待遇を与えた、と書いてあるのだが…?)

虞翻(ぐほん)も丁固を「心は深く豊かで徳を好み、父の後を受け継ぎ遺漏がない。内面の立派さは見事で溢れんばかりだ」と激賞した。(『虞翻伝』)

二宮の変で孫和(そんか)を支持した。
(※闞沢・虞翻という重臣に評価された割に登場は遅く、事績が現れるのはここから。だがこの時すでに尚書を務めており、表に出ないだけで順調に昇進を重ねたと思われる)(『孫和伝』)

257年8月、鄱陽と新都で民衆が反乱を起こしたため、廷尉の丁固と、鄭胄(ていちゅう)、鍾離牧(しょうりぼく)が討伐した。(『孫亮伝』)

262年12月、丁固は孟宗(もうそう)とともに御史大夫に任じられた。

265年9月、武昌に遷都すると、丁固と諸葛靚(しょかつせい)が元の都の建業の守りに就いた。

266年10月、永安の山賊の施但(したん)が反乱し、孫皓の異母弟の孫謙(そんけん)を強引に擁立した。建業まで迫った時には1万余人にも膨れ上がっていたが、丁固と諸葛靚が撃破した。(『孫皓伝』)
丁固は捕らえた孫謙の処遇に困り、孫皓に報告すると、毒殺を命じられた。(※「孫皓伝」には自害したと記される)(『孫和伝』)

266年12月、一説には陸凱(りくがい)・丁奉とともに孫皓暗殺を企んだ。(『陸凱伝』)

268年2月、丁固は司徒に昇進した。
まだ尚書の頃に、松の木が腹の上に生える夢を見た。丁固は「松という字は「十八公」と分解できる。これは18年後に公の地位に上るという意味だ」と自ら読み解いており、的中した。

273年3月に死去した。享年76。

陸機(りくき)は「孟宗や丁固が公卿を務めた頃は、主君に問題があっても臣下は健全だった。彼等がみな世を去ってしまうと民衆の心はばらばらになり、王室はがらがらと崩れてしまいそうな弱点をはらんだ」と述べている。(『孫皓伝』)

子の丁彌(ていび)は晋の梁州刺史に上った。(『虞翻伝』)



丁厷  上っ面だけの使者


丁厷(ていこう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

223年、劉備が逝去すると諸葛亮は呉と和睦を結ぶため、鄧芝(とうし)を使者として送った。
孫権は彼を気に入り「以前の使者の丁厷は上っ面だけ華やかで、陰化(いんか)は舌足らずだった」と諸葛亮に語った。(『鄧芝伝』)



丁氏


未作成



丁諝  顧邵に見出された兵卒


丁諝(ていしょ)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~??)

呉の臣。

丁諝・張秉(ちょうへい)・吾粲(ごさん)・殷礼(いんれい)はいずれも卑賤な生まれだったが、顧邵(こしょう)は彼らを友人として遇し、評判を呼ぶように計らった。4人は後にいずれも高位に上り、人々は顧邵の眼の確かさを讃えた。

丁諝は兵卒の身分から典軍中郎将まで上った。(『顧邵伝』)



丁尊  毌丘倹・文欽と結託した反乱者D


丁尊(ていそん)字は不明
出身地不明(??~251?)

魏の臣。

毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)らの上奏に曰く。
255年、毌丘倹・文欽は安豊護軍の鄭翼(ていよく)、廬江護軍の呂宣(りょせん)、廬江太守の張休(ちょうきゅう)、淮南太守の丁尊、督守合肥護軍の王休(おうきゅう)らと結託し反乱した。(『毌丘倹伝』)

鄭翼・呂宣・張休・丁尊・王休の5人には他の事績がない。「各人累代に渡って(魏に)御恩をお受けし」とあり、あるいは著名な臣下の子弟だろうか。
最期は敗死した毌丘倹か、呉へ亡命した文欽と運命をともにしたのだろう。



丁沖  丁儀・丁廙の父


丁沖(ていちゅう)字は不明
豫州沛国の人(??~??)

後漢の臣。
丁儀(ていぎ)・丁廙(ていよく)の父

董卓残党により長安を占拠されるなか、丁沖は以前から親交のあった同郷の曹操へ「あなたは政治を正し補佐したいといつも願っていたが、今がその時ですぞ」と手紙を書いた。
これが張楊(ちょうよう)を通じて曹操のもとへ届くと、曹操は挙兵して長安を制圧し、献帝を迎え入れた。丁沖はこの功により司隷校尉に任じられた。
だが酒好きの丁沖は諸将の間を飲み歩き、ついに腸をただれさせて没した。

曹操は丁沖への感謝を忘れず、子の丁儀を引見もせずに娘婿に迎えようとした。
だが曹丕が「丁儀は隻眼で姉上にはふさわしくない」と反対し取りやめられた。
丁儀はこれを恨み、曹植(そうしょく)を担ぎ後継者争いを引き起こした。

数多くの重臣を讒言で陥れたが、結局は曹丕が太子に決まり、220年に曹操の後を継いだ彼によって丁儀・丁廙は処刑された。(『陳思王植伝』)



丁忠  弔問がてらの密偵


丁忠(ていちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

266年、呉は晋と和睦を結び、司馬昭の弔問の使者として五官中郎将の丁忠らを送った。
丁忠は帰国すると「晋の守りは薄く、奇襲を掛ければ弋陽郡を落とせます」と説いた。孫晧が群臣に意見を求めると、陸凱(りくがい)は「晋は和睦を求めてきましたが、呉に助けを求めているわけではありません。蜀を併合し優勢な相手に、まぐれ当たりで勝とうと思うのは間違いです」と反対し、劉纂(りゅうさん)は「敵に隙があるなら見過ごすべきではなく、間諜を送って情勢を探りましょう」と賛成した。
孫晧は内心では侵攻したかったが、制圧されたばかりの蜀の様子を見ているうちに取りやめとなった。(『孫晧伝』)

また帰国の宴席のさなかに酔いつぶれた王蕃(おうはん)が、目を覚まして席に戻ると、孫晧は俺の酒が飲めず酔ったふりをしたと激怒し、殺してしまった。(『王蕃伝』)



丁蕃


未作成



丁弥


未作成



丁斐  曹操を救った小悪党


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丁謐  丁斐の不肖の子


丁謐(ていひつ)字は彦靖(げんせい)
豫州沛国の人(??~249)

魏の臣。
丁斐(ていひ)の子。
「曹真伝」に附伝される。

父は曹操と同郷で寵愛された。
丁謐は若い頃は人と交わらず、ひたすら書物を読みあさった。沈着かつ剛毅な性格で才略があった。

太和年間(227~232)、鄴で空き家を借りていたが、そこへある王が人が住んでいると知らず内見に現れ、丁謐は誰かわからず下男を呼びつけて追い出させた。王は無礼な態度に腹を立て、曹叡に訴え出たため逮捕されたが、功臣(丁斐)の子であるとして釈放された。
その後、父の面影があるとして曹叡に召し出され、度支郎中に任じられた。曹爽(そうそう)とはかねてから親しく、たびたび推薦された。(『丁謐伝』)

何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)・李勝(りしょう)・丁謐・畢軌(ひつき)らは名声高かったが、曹叡は彼らが上辺だけ華やかで内実は乏しいと見抜き、抑えつけて退けた。(『曹真伝』)

239年、曹叡が没し、曹爽が実権を握ると、散騎常侍に抜擢され、さらに尚書に栄転した。(『丁謐伝』)
何晏・鄧颺・李勝・畢軌らも曹爽の腹心として返り咲いた。
曹爽ははじめ司馬懿に敬意を払ったが、丁謐・畢軌が「司馬懿は大きな野心を抱き、非常によく人心をつかんでいます。本心から信用してはいけません」と吹き込んだため、冷遇するようになり、危険を察した司馬懿は隠退したように見せかけた。(『曹真伝』)

丁謐は外は鷹揚に見えて内は猜疑心が強く、しばしば人を弾劾し非難したため、省内の悩みの種となり、何事もはかどらなかった。
また貴族の家柄を嫌って粗略に扱い、位階では並んでいても何晏や鄧颺ら名家の出の者らを侮っていたが、曹爽にだけはへりくだり、曹爽も丁謐を尊敬し彼の意見には必ず従った。
郭太后(かくたいこう)を宮殿から追い出し別殿に住まわせたり、楽安王(がくあんおう)を鄴へ出したり、文欽(ぶんきん)を淮南へ追いやったのは全て丁謐の画策だった。そのため司馬懿は特に丁謐を憎み、人々は何晏・鄧颺・丁謐を三匹の犬にたとえ、何晏・鄧颺は人に噛みつき、丁謐は曹爽の側を離れず癌になると、犬の中では丁謐が最も性質が悪いと評した。(『丁謐伝』)

丁謐・鄧颺らは法律・制度を軽視し改変した。日食が起こると蔣済(しょうせい)は「国家の法律制度を作るのは大才の持ち主だけで、中才・小才の役人が改変すれば、全く政治に利益はなく、民の期待を損なうだけです。各自の職責を守らせれば天変地異を招きません」と上奏した。(『蔣済伝』)

正始年間(240~249)、黄門侍郎に欠員が生じ、何晏は王弼(おうひつ)を推薦したが、何晏と対立する丁謐が王黎(おうれい)を推薦したため尚書郎に任じられるに留まった。(『鍾会伝』)

249年、司馬懿は決起し曹爽・何晏・鄧颺・李勝・丁謐・畢軌らを一網打尽にし三族皆殺しにした。(『曹真伝』)

「漢晋春秋」に曰く、王淩(おうりょう)が曹芳の廃位を企み、子の王広(おうこう)に話すと、「曹爽は驕慢と奢侈で人心を失い、何晏は虚無の説を好んで政治を顧みず、鄧颺・丁謐・畢軌らは人望はあるが世間に張り合うことしか考えていませんでした。彼らは人心を失い、一網打尽にされても誰も哀悼を捧げません。だが司馬懿父子は人心を得ており、簡単には滅ぼせません」と反対されたが、王淩は従わなかった。(※裴松之は他の史書に見えない発言であると創作を疑っている)(『王淩伝』)

「演義」でも曹爽一派として暗躍するが、渭水の戦いでの活躍が描かれる丁斐の子とは言及されない。



丁夫人  曹操の正室


丁夫人(ていふじん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の正室。

劉夫人(りゅうふじん)が早くに没したため、その子の曹昂(そうこう)らを養育した。

197年、宛城の戦いで曹昂が戦死すると、丁夫人は曹操と顔を合わせるたびに「私の子を殺しておいてなぜ平然としているのか」となじっては号泣した。
曹操は腹を立て、彼女の頭を冷やさせようと郷里に帰らせた。 しばらく経ってから迎えに行ったが、丁夫人は機織りしながら曹操を完全に無視したためついに離縁された。
郷里の者は再婚させようとしたが、二の足を踏んだ。

代わって正室となった卞氏(べんし)は、かつて丁夫人に冷遇されていたが、それを恨みに思わず、曹操の目を盗んでは贈り物をしたり、家に招いた。そこでは以前のように丁夫人を上座につけて、卞氏は下座につき接待した。やがて丁夫人も「離婚され追われた私に、なぜこんなに丁重にしてくれるのですか」と感謝した。

後年、丁夫人が没すると卞氏は曹操の許可を得て葬った。
曹操は晩年、「私はずっと思い通りに振る舞い、心に背いたことはなかった。だがあの世で曹昂に母の墓はどこか聞かれたらなんと答えたものか」と嘆息した。(『武宣卞皇后伝』)

「演義」では曹操が王位につくと子がなかったため正室から廃された、という曹操の非道さの強調に使われる。



丁孚  史官の才能なかった史官B


丁孚(ていふ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

華覈(かかく)の上疏に曰く。
252年(孫権の末年)、太史令の丁孚と郎中の項峻(こうしゅん)が初めて呉の史書の編纂を命じられた。だが丁孚・項峻には史官の才能なく記録する価値もない物しかできなかった。
そのため孫亮は新たに華覈ら5人に編纂を命じたが、うち3人が没し薛瑩(せつえい)も投獄された。私(華覈)一人では丁孚・項峻の二の舞になってしまうのでどうか薛瑩を赦免して欲しいと嘆願した。(『薛綜伝』)

「志林」に曰く。
著者の虞喜(ぐき)はなぜ史書に呉の初代丞相である孫邵(そんしょう)が列伝されていないのか疑問に思い、博学な劉声叔(りゅうせいしゅく)に尋ねた。彼は「孫邵は名声や官位からいって当然、列伝されるべきだった。項峻・丁孚も採り上げたが、孫邵は張温(ちょうおん)と険悪だったと記している。後に「呉書」を編纂した韋昭(いしょう)が張温の派閥に属していたから、孫邵は外され(呉書を参考にした陳寿の正史でも)列伝されなかったのだろう」と述べた。(『呉主伝』)



丁奉  太く長く呉を支えた宿将


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丁封  丁奉の弟


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丁廙  丁儀の弟


丁廙(ていよく)字は敬礼(けいれい)
豫州沛国の人(??~220)

魏の臣。

父の丁沖(ていちゅう)は曹操とは同郷で、厚遇された。

兄の丁儀(ていぎ)は隻眼で容貌に優れなかったが、丁廙は容姿端麗で、広い学識と見聞があった。
建安年間(196~220)に黄門侍郎となり、曹植(そうしょく)の才を絶賛し太子にするよう勧め、曹操の心を大きく動かした。
(※先に丁儀は隻眼を理由に、曹丕によって曹操の娘との婚姻を潰され、曹丕への恨みから曹植を守り立てており、丁廙の進言はその援護射撃であろう)

丁儀らは曹丕派や有力者の切り崩しのため、裏工作を進め多くの重臣を陥れたが、結局は曹丕が太子に決まり、220年に王位につくと、曹植を追放し、丁儀兄弟は難癖つけられ一族もろとも処刑された。(『陳思王植伝』)

陳寿は丁儀・丁廙・楊脩(ようしゅう)ら七人を、建安七子には及ばないが、当時の優れた文学的才能の持ち主と列挙した。(『王粲伝』)

曹植はかつて、丁廙に作品の修飾を頼まれたが、自分の才能はあなたに及ばないと断った。丁廙は「後世の誰もあなたが関わったとわからないのに、なぜ拒まれるのですか」と訝しみ、曹植はその悟りきった態度に感心した。(『陳思王植伝』)

その後、陳寿が丁儀の子孫に魏書への立伝を持ちかけ賄賂を要求したが断られたため立伝されなかったというが、そもそも丁儀の一族は処刑されており、疑わしい話である。

「演義」での丁儀兄弟は曹操の葬儀に参列しなかったかどで処刑されており、普通に馬鹿だと思う。




丁覧  丁固の父


丁覧(ていらん)字は孝連(こうれん)
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)

呉の臣。

8歳で父を失い、後ろ盾のない家柄だが、清廉を心がけ常に熟考してから行動に移した。
財産を従弟に譲り、道義を守り欲がないと称賛された。
郡の功曹に出世し、始平県長に任じられた。細かく気配りのできる彼を訪ねる者は、みな一角の人物だった。
中でも虞翻(ぐほん)は丁覧の才をすぐに見抜き、友人として交際するとともにその名を知らしめるように取り計らった。

孫権にも丁重に遇されたが、抜擢される前に病没した。
孫権はその死を惜しみ、一族を厚遇した。

子の丁固(ていこ)は若くして父を失い貧窮したが(※孫権は厚遇したのではなかったのか?)、呉末期の司徒を務めるまでに大成した。

徐陵(じょりょう)が没した時にも、駱統(らくとう)は「丁覧や卜清(ぼくせい)のように遺族を厚遇して欲しい」と訴えており(『虞翻伝』)、丁固の家が貧しかったのは、たとえば父と同じく財産放棄したとか、何か事情があるのかも知れない。



丁立  後出師表の謎メンバーC


丁立(ていりゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

「漢晋春秋」のいわゆる「後出師表」に曰く。
諸葛亮が漢中に駐屯してからわずか1年で趙雲・陽羣(ようぐん)・馬玉(ばぎょく)・閻芝(えんし)・丁立・白寿(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)・鄧銅(とうどう)らの将を失った。(『諸葛亮伝』)

「後出師表」は偽作を疑われており、その根拠としてまだ存命のはずの趙雲が死亡したと記されていること、陽羣以下の将が(閻芝を除き)他の史書に一切見えないことが挙げられる。



梯儁  倭への返礼の使者


梯儁(ていしゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

238年、倭王の卑弥呼は使者を帯方郡へ送り、魏へ朝貢したいと申し出た。
曹叡は喜び官位や褒美と卑弥呼を親魏倭王に任じる印綬を与えた。

(曹叡の逝去による遅延もあり?)240年、帯方太守の弓遵(きゅうじゅん)は建中校尉の梯儁に詔書と印綬を預け倭へ送った。(『東夷伝』)



程威  任嘏の業績と文書を集めた下役A


程威(ていい)字は不明
兗州東郡の人(??~??)

魏の臣。

「別伝」に曰く。
任嘏(じんか)は4万字に及ぶ38篇の著書を遺し、没すると元の下役だった程威・劉固(りゅうこ)・上官崇(じょうかんすう)らが業績と文書を集めて上奏し、時の皇帝はそれを編集するよう詔勅した。(『王昶伝』)



程昱  ダーティーノッポさん


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程郁  程畿の子


程郁(ていいく)字は不明
益州梓潼郡涪県の人(??~??)

蜀の臣。
程畿(ていき)の子。

巴西太守の龐羲(ほうぎ)は異民族や反乱に備えて私兵を集め、劉璋(りゅうしょう)に謀叛を疑われた。討伐を恐れてさらに兵を集めようとし、程郁を使者に立て程畿に救援を求めた。
しかし程畿は「叛意が無いなら誠意を尽くし弁解すべきで、もし異心を抱くなら私は関与しません」と断り、さらに程郁を「私は州の官吏で、お前は郡の官吏だからそれぞれの上官に尽くすのが当然で、私を助けようとしてはならぬ」と戒めた。
龐羲は程郁に災いが及ぶと脅したが、程畿は故事を引き「息子を殺してスープにされたら飲みましょう」と意に介さなかった。
龐羲は程畿が協力することはないと観念し、劉璋に陳謝した。劉璋は程畿を江陽太守に昇進させた。(『楊戯伝』)



程延  程昱の下の子


程延(ていえん)字は不明
兗州東郡東阿県の人(??~??)

魏の臣。
程昱(ていいく)の子。

220年、曹丕が帝位につくと程昱は300戸を加増され、さらに下の子の程延、孫の程暁(ていぎょう)も領地を分けられ列侯された。(『程昱伝』)



程咸  何曾の主簿


程咸(ていかん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

255年、反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)が討伐されると、息子とその妻の荀氏(じゅんし)も連座させられた。族兄の荀顗(じゅんぎ)ら一族が助命嘆願したため離縁を認められ釈放されたが、その娘の毌丘芝(かんきゅうし)も、既に他家へ嫁いでいたが逮捕されていた。
荀氏は何曾(かそう)へ、自分が代わりに奴婢になるから娘を助けて欲しいと願い出て、同情した何曾は主簿の程咸に命じて審議書を作らせた。その中で「既に嫁いだ娘も連座させるのは、悪人の一族を殲滅したいからです。しかし男は他家の罪に問われないのに、女だけが嫁いだ後も実家の罪に問われるのは公平ではありません」と述べ、夫の家の罪にだけ連座するよう法改正させ毌丘芝を助けた。(『何夔伝』・『晋書 何曾伝』)



程奐  袁紹迎撃を却下された韓馥の臣B


程奐(ていかん)字は不明
出身地不明(??~??)

冀州牧の韓馥(かんふく)の臣。

191年、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)の侵攻から守る名目で冀州牧の座を譲るよう韓馥に迫った。
臆病な韓馥は同意したが、長史の耿武(こうぶ)、別駕の閔純(びんじゅん)、治中の李歴(りれき)らは「冀州には百万の兵と十年分の兵糧があり、袁紹は本拠地を持たず困窮しており、膝の上の赤ん坊のようなものです。乳を与えなければ餓死するのになぜ明け渡すのか」と諌め、従事の趙浮(ちょうふ)・程奐は迎撃したいと願い出たが、韓馥は却下して冀州牧を袁紹へ譲った。

「九州春秋」に曰く。
韓馥は都督従事の趙浮・程奐に強弩隊1万を率いさせ河陽に駐屯させていた。譲位の話を聞くと趙浮・程奐は夜間に数百艘の船と1万の兵で軍鼓を打ち鳴らしながら袁紹の陣営のそばを通過し威嚇した。袁紹は甚だ不快に思った。
趙浮・程奐は韓馥に「袁紹軍には兵糧がなく兵も離散し始めています。新たに味方についた張楊(ちょうよう)・於夫羅(おふら)もまだ頼れず、我らが攻撃すれば10日で壊滅させられます。あなたは戸を開け放し枕を高くして寝ていれば結構です」と進言したが、退けられた。(『袁紹伝』)

その後の事績は不明。袁紹に殺されたのだろう。



程祁  程畿の夭折した子


程祁(ていき)字は公弘(こうこう)
益州巴西郡閬中県の人(??~??)

蜀の臣?
程畿(ていき)の子。

楊戯(ようぎ)、楊汰(ようたい)、張表(ちょうひょう)と並び称された。楊戯はいつも程祁を筆頭と推していたが、諸葛亮は楊戯を評価していた。
20歳で没した。

楊戯は「季漢輔臣賛」で「若輩ながら抜きん出た精神の持ち主だった。夭折し花開かなかったのを哀悼する」と評した。(『楊戯伝』)



程喜  讒言名人


程喜(ていき)字は申伯(しんはく)
出身地不明(??~??)

魏の臣。

印鑑職人の宗養(そうよう)に師事し、印相(印鑑の吉凶)鑑定術を伝授され、そこから十二家の鑑定法が生まれたという。(『夏侯尚伝』)

232年、軍才に優れた田豫(でんよ)が汝南太守のまま青州都督になり、青州刺史の程喜は下位でしかも他州の太守に軍権を奪われ不快に思った。
そこで田豫が戦利品の兵器や真珠を献上していないと讒言し、皇帝の曹叡(そうえい)は真珠を愛好していたため、田豫は武功を認められず昇進も止められた。(『田豫伝』)

隠者の管寧(かんねい)は誰からの招聘にも応じず、父・祖父と三代に渡って固辞された曹叡は業を煮やし「管寧は本当に高潔で、老いと病で出仕できないのか」と程喜に問うた。
程喜は「私は管寧の隣家に住む親族の管貢(かんこう)をたびたび訪ね様子を聞いています。管寧は年老い知恵も衰えたため、慎み深くなっており、高潔さを貫こうとしているわけではないでしょう」と弁護した。(『管寧伝』)

248年頃、征北将軍に任じられた。
同時期に幽州刺史として赴任した杜恕(とじょ)に、友人の袁侃(えんかん)は、程喜がかつて敵対した田豫を讒言で陥れたことから、交友を結ぶよう忠告したが、杜恕は気にもとめなかった。
249年、鮮卑からの使者が関所を通らなかったため、杜恕は独断で使者の子供を斬って処罰し、朝廷へ報告しなかった。
程喜はすかさず配下の宋権(そうけん)を送り、見逃す代わりに謝罪するよう持ちかけたが、杜恕は断ったため、程喜に弾劾された。
杜恕は危うく処刑されるところだったが、父の功績により死罪は免れ、幽州刺史を罷免のうえ配流となり平民に落とされた。(『杜畿伝』)

程喜の生没年は不明だが、三国屈指の占術師として知られる朱建平(しゅけんぺい)が寿命を占った人物の中で、程喜は的中しなかった珍しい例として挙げられている。(『朱建平伝』)



程畿  退かぬ媚びぬ


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程休  鄭渾に討伐された賊Bの被害者


程休(ていきゅう)字は不明
司隸左内史の人(??~??)

魏の臣?

212年過ぎ、趙青龍(ちょうせいりゅう)は反乱し、程休を殺害したが、左馮翊太守の鄭渾(ていこん)は壮士を派遣し、その首を挙げた。(『鄭渾伝』)

「左内史の程休」と記され、役職と勘違いされがちだが、左馮翊郡を東西に分割し、西側を左内史、東側を左馮翊としたため、地名である。



程球  耿鄙のもとで私腹を肥やす


程球(ていきゅう)字は不明
出身地不明(??~187)

後漢の臣。

涼州刺史の耿鄙(こうひ)に信頼された治中の程球が私腹を肥やし人々に恨まれていた。
187年、耿鄙が韓遂(かんすい)・王国(おうこく)の反乱鎮圧に向かうと、傅燮(ふしょう)は「あなたは着任して日が浅く、配下はまだ指揮を理解していません。先に地盤を固めるべきです」と諫言したが、耿鄙は却下して出陣し、間もなく反乱により程球とともに殺された。
韓遂らは反撃し傅燮の守る漢陽郡を包囲し、降伏を拒否した傅燮も戦死した。(『後漢書 傅燮伝』)



程暁  程昱の孫


程暁(ていぎょう)字は季明(きめい)
兗州東郡東阿県の人(??~??)

魏の臣。
程昱(ていいく)の孫。
「程昱伝」に附伝される。

220年、曹丕が帝位につくと程昱は300戸を加増され、さらに子の程延(ていえん)、孫の程暁も領地を分けられ列侯された。(『程昱伝』)

嘉平年間(249~254)に黄門侍郎となった。当時、校事(監察官)が勝手気ままに振る舞っていたため、上奏し廃止させた。

汝南太守に上り、40余歳で没した。

見識を持ち、多くの文章を著したが大半が散逸し、十分の一も残らなかった。(『程暁伝』)



程銀  旗本八旗クール担当


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程瓊  文立があえて推挙しなかった親友


程瓊(ていけい)字は不明
益州犍為郡の人(??~??)

蜀の臣。

蜀の滅亡後、文立(ぶんりつ)は蜀の旧臣を多数推挙したが、蜀で尚書を務めた程瓊は品行と徳に優れ文立とも深く親交があったが推挙されなかったため、司馬炎は理由を尋ねた。
文立は「彼のことはよく知っていますが、80歳近く謙虚な人柄なのでもう栄誉は求めないと思いました」と答えた。話を伝え聞いた程瓊は「文立はへつらわない。だから私は称賛するのだ」と言った。(『晋書 文立伝』)



程昴  反乱し朱霊に秒殺される


程昴(ていこう)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

「王沈魏書」に曰く。
曹操は冀州を制圧すると、新たに編成した兵5千と騎馬1千を朱霊(しゅれい)に任せ、許南を守らせた。
曹操は「冀州で新たに得た兵はこれまで勝手気ままを許されてきた。しばらく締め付けたからまた不満を抱いているようだ。あなたはとにかく威厳があるから、道義に従い寛大に扱わなければ、変事が起こるぞ」と戒めた。
はたして朱霊が赴任するや中郎将の程昴が反乱した。即座に斬り、謝罪の報告をすると、曹操は自筆の手紙を返し「あなたの責任ではない」と罪に問わなかった。(『朱霊伝』)



程克  程昱の孫


程克(ていこく)字は不明
兗州東郡東阿県の人(??~??)

魏の臣。
程武(ていぶ)の子。程昱(ていいく)の孫。

父が没すると後を継いだ。
その後は子の程良(ていりょう)が順に後を継いでいった。(『程昱伝』)



程咨


未作成



程他  胡質の事件簿1の被害者


程他(ていた)字は不明
冀州陽平郡頓丘県の人?(??~??)

平民?

冀州陽平郡頓丘県民の郭政(かくせい)は従妹と密通し、その夫の程他を殺害した。
郡吏の馮諒(ふうりょう)が疑われ、郭政・従妹・馮諒らは投獄されて鞭打ちの拷問を受け、郭政と従妹は耐えたが馮諒は偽りの自白をした。
頓丘県令に着任した胡質(こしつ)は彼らの態度から真相を見抜き、詳しく取り調べ罪を暴いた。(『胡質伝』)



程夫人  崔烈にとどめを刺した霊帝の側室


程夫人(ていふじん)名は不明
出身地不明(??~??)

霊帝の側室。

程夫人の縁戚の黄綱(こうこう)は権力を笠に着て、潁川太守の种払(ちゅうふつ)に山沢の独占を要求した。种払は「黄綱は貴族で霊帝の左右にはべっている。断れば恨みを買い、認めれば民が苦しむ」と迷い、功曹の劉翊(りゅうよく)に相談した。劉翊は「古来より山沢は民衆のためにあるものです。もしあなたが認めれば汚名となり、令息の种劭(ちゅうしょう)殿は親子の縁を切り、あなたが没しても孤児になったわけではないと考えるでしょう」と進言したため、要求を拒否した。(『後漢書 劉翊伝』)

185年、崔烈(さいれつ)は500万銭で司徒の位を買った。
叙任式で、霊帝が「粘れば1000万銭にもできたかもしれない」と残念がると、程夫人は「崔烈は冀州の名士なのにどうして金で官位を買うでしょう。私に頼んだのです。彼が美男子なのを知らないのですか?」と軽口を返した。百官の前でからかわれた崔烈の名声は地に落ちた。(『後漢書 崔烈伝』)



程武  程昱の子


程武(ていぶ)字は不明
兗州東郡東阿県の人(??~??)

魏の臣。
程昱(ていいく)の子。

父が没すると後を継いだ。
その後は子の程克(ていこく)、孫の程良(ていりょう)が順に後を継いでいった。(『程昱伝』)

「演義」では夏侯楙(かこうぼう)の軍師として登場。珍しく功を急いだ趙雲を包囲する策を立て、あわや討ち取りかけた。
そのためSLGでは知力が高めに設定されがちである。



程普  呉の宿老


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程秉  不遇の大学者


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程良  程昱の曾孫


程良(ていりょう)字は不明
兗州東郡東阿県の人(??~??)

魏の臣。
程克(ていこく)の子。
程武(ていぶ)の孫。程昱(ていいく)の曾孫。

父が没すると後を継いだ。(『程昱伝』)



鄭  女賊コンビ


鄭(てい)名と字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

劉楨(りゅうてい)が、四本足の蛇が門の中に穴を掘って住み着く夢を見た。
夢占いの名手の周宣(しゅうせん)に相談すると「これはあなたではなく国家についての予知夢です。蛇は女を表し、足は蛇にあるべきではありません。女が反乱し誅殺されるでしょう」と見立てられた。
その後、女賊の鄭と姜(きょう)が反乱し討伐された。(『周宣伝』)



鄭嫗  八絶・人相見の鄭嫗


鄭嫗(ていう)字は不明
揚州呉郡菰城県の人(??~??)

呉の臣?
人相見の名手で「八絶」の一人に数えられる。

人相見に巧みだった。(『趙達伝』)



鄭雲


未作成



鄭凱


未作成



鄭甘  即堕ち2コマ


鄭甘(ていかん)字は不明
司隸馮翊郡の人(??~??)

山賊。

220年、馮翊郡の山賊の鄭甘・王照(おうしょう)が降伏し、列侯された。

「王沈の魏書」に曰く。
鄭甘・王照は廬水の蛮族とともに投降した。曹丕は「鮮卑も廬水も討伐せよと言われたが、私は聞き入れなかったが、手を下さずとも降伏してきた。春秋時代の武侯は策略が一つ当たっただけで得意げになり諫言された。私がこうして話すのは誇りたいのではなく、いながらにして降伏させるのは軍を動かすよりも大きな功績だからだ」と自画自賛した。

221年、鄭甘は反逆し曹仁に斬られた。(『文帝紀』)

郭淮は張郃・楊秋(ようしゅう)を監督し、鄭甘や廬水の蛮族を討伐した。(『郭淮伝』)

鄭甘どころか廬水も結局反乱しており即堕ち2コマなのだろうか。



鄭岐  桓範を失職させた徐州刺史


鄭岐(ていき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

曹叡の代に徐州刺史を務めた。
徐州・青州の都督を務める桓範(かんはん)と家を奪い合い、短気な桓範は職権乱用し鄭岐を殺そうとした。
鄭岐は上奏して裁定を仰ぎ、桓範に非があるとして免職となった。

その後、桓範は兗州刺史として復職したが、前職に及ばず気が晴れなかった。さらに冀州牧に転任するという噂を聞き、冀州は昔の部下の呂昭(りょしょう)に管轄されていたため、妻に愚痴った。
妻は「あなたは以前、部下の鄭岐を殺そうとして、あなたの下で働くのは難しいと皆に思われました。呂昭に頭を下げるのは屈辱だと言われるなら、あなたの上で働くのも難しいということですね」とからかった。
痛い所を突かれた桓範はカッとなり刀の柄で妻の腹を突き、流産させてしまった。桓範は病と称して冀州牧を辞退した。(『曹真伝』)



鄭熙  反乱で殺され亡骸を郷里まで運ばれる


鄭熙(ていき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

257年、玄菟郡高顕県で反乱が起き、県長の鄭熙が殺されると平民の王簡(おうかん)はその亡骸を背負い、郷里まで運んでやった。
曹髦は詔勅を下して称賛し、王簡を忠義都尉に任命し表彰した。(『高貴郷公紀』)



鄭球


未作成



鄭詡  鄭袤の四男


鄭詡(ていく)字は不明
司隷滎陽郡開封県の人(??~??)

晋の臣。
鄭袤(ていほう)の子。四男? 鄭泰(ていたい)の孫。

兄の鄭黙(ていもく)・鄭質(ていしつ)・鄭舒(ていじょ)らとともに卿の位に上った。(『鄭渾伝』)

温顒(おんぎょう)・荀寓(じゅんぐう)・張華(ちょうか)・鄒湛(すうたん)・鄭詡・劉許(りゅうきょ)ら6人は文章が立派で論理的であると称えられた。(『劉放伝』)



鄭玄  後漢末の大学者


鄭玄(じょうげん)字は康成(こうせい)
青州北海郡高密県の人(127~200)

後漢末の大学者。
日本で中国名は基本的に音読みされるが、古来から著名な鄭玄は「ていげん」ではなく、本来の読みに近い「じょうげん」と読まれることが多い。

当時の儒学の書籍のほぼ全てに注(解説)を付け、自身も無数の弟子と著作を残した。きわめて高名な彼の著作や思想は現代にまで伝わり、後世に絶大な影響を与えた。
門弟の中で著名な者として崔琰(さいえん)、王基(おうき)、郗慮(ちりょ)らが挙げられ、劉備や孫乾(そんけん)も教えを請うている。
8尺の長身で眉目秀麗、一斗の酒を飲んでも酔わなかったと伝わる。

身分は小役人に過ぎなかったが、職務に支障をきたすほど勉学に励み、22歳で太学(都に置かれた最高学府)に進んだ。
第五元先(だいごげんせん)、張恭祖(ちょうきょうそ)らに学んだが、それに飽き足らず当時最高の儒学者とうたわれた馬融(ばゆう)のもとに盧植(ろしょく)とともに留学した。
だが多くの門弟を抱える馬融には目通り叶わず、3年にわたりその弟子に指導を受けるに甘んじた。
後に馬融に直接指導を受けると、質問に当意即妙に答えたため感心され、10数年の勉学の末に帰郷する時には、馬融に別れを惜しまれるほどになった。

郷里に帰った鄭玄は弟子をとって学問を教えた。生活は清貧のままだったが、畑を耕しに出かけると数百から数千人の学生が後をついてきたという。
しかし党錮の禁により多くの清流派が追放されると、門を閉ざして引き籠もるようになった。

霊帝の末期、党錮の禁が解かれると、大将軍の何進(かしん)は鄭玄を都に招いた。
兵に脅されしぶしぶ出仕し、何進はそれをうやうやしく迎えたものの、鄭玄はその夜のうちに逃走した。この時、彼の身を案じて数千人の弟子が駆けつけたとされる。その後も官途に誘われては辞退した。

北海太守の孔融(こうゆう)には深く敬愛され、鄭玄のために屋敷を造り、布告を出して高密県の一郷を譲ったが、黄巾賊の残党が蜂起したため徐州へ避難した。
196年、高密に帰ろうとする道々に黄巾賊が現れたが、彼らはこぞって鄭玄に拝礼し、高密には侵攻しないよう申し合わせたとされる。

晩年には急速に勢力を拡大する袁紹の推薦を固辞しきれず朝廷に仕えたが、職務にはつかず学問に勤み、間もなく病を理由に官を退いた。
200年、夢枕に孔子が現れたため、寿命の近いことを悟り、病の床に伏した。
ちょうど曹操と官渡で対峙していた袁紹は、鄭玄を担ぎ出そうとしたが、同年6月に没した。享年74。

「演義」には袁術(えんじゅつ)を討伐した劉備が袁紹に救援を求める際、仲介を頼まれるチョイ役で出ている。



鄭渾  任地を必ず栄えさせる


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鄭札  鄭胄の父


鄭札(ていさつ)字は不明
豫州沛国の人(??~??)

呉の臣。

才能と学問があり万事に通じた。
219年、従事中郎に任じられ、221年には張昭(ちょうしょう)・孫邵(そんしょう)とともに朝廷の儀礼制度を定めた。

末子の鄭胄(ていちゅう)は主に軍事面で活躍した。(『呉主伝』)

「張昭伝」の註に引かれる「呉録」では、儀礼制度を制定したのは張昭・孫紹(そんしょう)・滕胤(とういん)・鄭礼(ていれい)と記される。
鄭礼はここにしか現れない人物で、単純に鄭札の誤記と思われる。
また孫紹は孫策の子と同名だが、これも孫邵の誤記と考えるべきだろう。(『張昭伝』)



鄭質  鄭袤の次男


鄭質(ていしつ)字は不明
司隷滎陽郡開封県の人(??~??)

晋の臣。
鄭袤(ていほう)の子。次男? 鄭泰(ていたい)の孫。

兄弟の鄭黙(ていもく)・鄭舒(ていじょ)・鄭詡(ていく)らとともに卿の位に上った。(『鄭渾伝』)



鄭綽  陳曶とともに黄元の反乱を鎮圧


鄭綽(ていしゃく)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

222年12月、劉備が重病になったと聞いた漢嘉太守の黄元(こうげん)は反乱した。
223年3月、臨邛県へ侵攻したが将軍の陳曶(ちんこつ)に撃破され、長江を下って逃げた。道中で部下に裏切られて捕縛され、成都へ送られ処刑された。(『先主伝』)

「楊洪伝」に詳細が記される。
黄元はかねてから諸葛亮と険悪で、劉備が没し諸葛亮が実権を握れば排斥されると恐れ反乱し臨邛城を焼き払った。
この時、諸葛亮は劉備の見舞いに行っており成都の防備は手薄で、黄元は制圧を企んだ。
楊洪(ようこう)は劉禅に言上して親衛隊を討伐に出し、将軍の陳曶・鄭綽に指揮させた。人々は黄元は成都の制圧に失敗したら南中へ逃げて抵抗を続けると危惧したが、楊洪は「黄元は凶暴で人心を得られないからそんな心配はいりません。せいぜい長江に沿って逃げ、主上(劉備)が健在なら降伏し、異変あれば(劉備が死ねば)呉へ亡命するだけです。陳曶・鄭綽に南中への道を遮断させればたちまち捕らえられます」と言い、その通りになった。(『楊洪伝』)

「反三国志」では陳曶を差し置き楊洪の配下で登場。
諸葛亮が黄忠を援護する役を募ると、自ら名乗り出て橋頭堡を築き、さらに郭淮・毛玠(もうかい)の軍を引きつけて勝利に貢献した。
活躍はそこまでで函谷関の留守番を命じられると、それきり再登場せず、作者にも忘れられたのか蜀が三国統一しても列侯されなかった。



鄭舒  鄭袤の三男


鄭舒(ていじょ)字は不明
司隷滎陽郡開封県の人(??~??)

晋の臣。
鄭袤(ていほう)の子。三男? 鄭泰(ていたい)の孫。

兄弟の鄭黙(ていもく)・鄭質(ていしつ)・鄭詡(ていく)らとともに卿の位に上った。(『鄭渾伝』)



鄭小同  鄭玄の孫


鄭小同(ていしょうどう)字は子真(ししん)
冀州北海国高密県の人(??~??)

魏の臣。
鄭玄(じょうげん)の孫。

父の鄭益恩(ていえきおん)が没した時、まだ生まれていなかった。
祖父の鄭玄は丁卯の年に生まれ、鄭小同は丁卯の日に生まれた。また手相も祖父とそっくりだったため、鄭玄は彼を「小同」と名付けた。(『後漢書 鄭玄伝』)

「魏臣名奏」の華歆(かきん)の上表に曰く。
「文帝(曹丕)は先代の優れた人物を顕彰し、鄭玄の孫の鄭小同を郎中に任じ、長期休暇を与え故郷で過ごさせました。
彼は30歳を過ぎ学問・品行に優れながら名声を求めない任用すべき人物です」と推挙した。(『高貴郷公紀』)

254年、三代皇帝・曹芳(そうほう)の廃位を求める上奏に、侍中として連名した。(『斉王紀』)

255年、学問を好んだ曹髦(そうぼう)に鄭沖(ていちゅう)とともに手ずから経書を教え褒美を下賜された。

258年、曹髦は詔勅を下し「関内侯の鄭小同は温良かつ恭順で、親孝行で友情に厚く、礼法から外れない」と顕彰し五更(引退した官吏を、皇帝が父兄の礼で待遇すること)とされた。(『高貴郷公紀』)

「魏氏春秋」に曰く。
ある時、司馬昭は機密文書を書いている最中に厠に立ち、戻ってくると鄭小同が訪ねてきていた。盗み読みしたか問うと鄭小同は否定したが、司馬昭は「私が君に背いても、君は私に背かせない」と(呂伯奢(りょはくしゃ)殺害事件の曹操のようなことを)言い、なおも疑いを捨てず、鴆毒を飲ませ毒殺した。(『後漢書 鄭玄伝』)

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