陶璜 交州の父
陶璜(とうこう)字は世英(せいえい)
揚州丹楊郡秣陵県の人(??~??)
呉・晋の臣。
陶基(とうき)の子。
陶濬(とうしゅん)・陶抗(とうこう)の兄。
計略に優れ、貧窮な者を救い、施しを好み、人心をつかんでいた。(『晋書 陶璜伝』)
263年(『孫休伝』)、交阯太守の孫諝(そんしょ)が暴政を布いたため、郡の役人の呂興(りょこう)は孫諝を殺し、魏へ鞍替えした。呂興は晋から後任の太守に任命されたが、彼も部下に殺され、その後も次々と没し安定しなかった。(『晋書 陶璜伝』)
268年(『孫晧伝』)、南中監軍の霍弋(かくよく)は、新たな交阯太守の楊稷(ようしょく)を援護するため、益州から毛炅(もうけい)らと大軍を率いて出撃し、呉の大都督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)を討ち取った。
それに対し呉は虞汜(ぐし)を監軍、薛珝(せつく)を大都督、陶璜を蒼梧太守に任じて迎撃させたが、陶璜は楊稷に敗れ二将を失った。
薛珝が激怒すると、陶璜は「私の思った通りにできず、諸軍も従わなかったため負けただけです」と言ったため、薛珝はますます怒り、撤退しようとした。
陶璜は小勢を率いて晋軍の董元(とうげん)に夜襲を掛け財宝を奪う戦果を挙げたため、薛珝は怒りを解き、陶璜を前部督に任じ交州を任せた。
再び董元と対峙すると、伏兵を見抜いて逆に罠にはめた。奪った財宝を扶厳の賊徒の梁奇(りょうき)に贈り、援軍1万を得た。
陶璜は董元配下の勇将の解系(かいけい)に手を焼いた。
そこで解系の弟の解象(かいしょう)を調略し、兄へ説得の手紙を送らせるとともに、解象を自分の車に乗せ、軍楽隊を率い行進した。それを見た董元は「解象でさえこれだけ厚遇されるなら解系は必ず裏切る」と考え、殺してしまった。(『晋書 陶璜伝』)
271年、交阯を包囲された楊稷・毛炅らは、霍弋から「包囲され百日以内に降伏したら一族もろとも誅殺する。百日を過ぎれば降伏しても罪は私が引き受ける」と言い含められていた。だがその霍弋はすでに病没し、兵糧も尽きたため楊稷は百日経たずに降伏を申し出た。
ところが陶璜は食料を渡し籠城を続けさせた。配下の者が諌めると「百日経てば彼らは罪を免れ、我らは義を立てられる。民には教訓になり、敵国も懐柔できて素晴らしいではないか」と答えた。
百日後、楊稷・毛炅は降伏した。
以上の逸話は「漢晋春秋」と「晋書」に記されている。
「華陽国志」に異聞がある。
王約(おうやく)の寝返りにより城は落ち、楊稷と毛炅は捕虜にされた。陶璜は勇猛な毛炅を解放しようとしたが、毛炅に父の脩則を殺された脩允(しゅういん)は処刑を願った。
毛炅にも恭順する意思はなく、陶璜に拷問されてもひるまず「お前たちの父親は死んだ犬だ」などと罵り続けながら殺された。
楊稷は護送中に病死した。(『孫晧伝』)
「晋書」にはさらに別の経緯が記される。
楊稷と毛炅は降伏した。脩允は毛炅の処刑を願ったが、陶璜は許可しなかった。ところが毛炅は陶璜の暗殺を企み捕まった。陶璜は拷問の末に毛炅を殺した。
楊稷は護送中に病死した。孟幹(もうかん)ら他の捕虜を孫皓は殺そうとしたが、忠臣であると反対され、取り止めた。しかし孟幹は晋へ逃亡し、その他の捕虜は結局殺された。
交阯の攻略により陶璜は交州刺史に任じられた。
(広州刺史の)滕脩(とうしゅう)ははじめ南方の賊徒に苦戦していたが、陶璜に「賊は呉の塩や鉄に依存しているから、この交易を断てば武器を壊して農具を作り始める。2年後には一戦で討伐できよう」と助言され、勝利を得た。
九真郡で李祚(りそ)が反乱し、陶璜はなかなか城を落とせなかった。配下に李祚の舅の黎晃(れいこう)がいたため、降伏勧告をさせた。だが李祚は「私は晋の、あなたは呉の臣です。ただ力を尽くし職務に従事するだけです」と拒否した。季節が変わるまで城は落ちなかった。
一連の軍功により陶璜は、使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧に任じられた。
武平・九徳・新昌を平定し、九真の異民族も服従させた。孫皓は喜び陶璜を脩允と(交州牧を?)交替させ武昌都督に任じ都に上げたが、交州からの留任を求める声が強く、元の地位に復した。(『晋書 陶璜伝』)
279年、郭馬(かくば)は父祖の代から続いていた軍団の解散に不満を抱き、広州の兵や民衆を扇動して蜂起した。
滕脩が討伐に派遣されたが足止めされたため、孫晧は徐陵督の陶濬に西から攻めさせ、交州牧の陶璜に滕脩・陶濬を援護させようとした。(『孫晧伝』)
同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始した。陶濬は武昌まで進んだところでその急報を聞き、晋軍に備えるため広州へは向かわなかった。
280年、孫皓は晋へ降伏した。直筆の書状を陶璜の息子の陶融(とうゆう)に持たせ、交州の陶璜にも降伏を命じた。陶璜は数日にわたり嘆き悲しんだ後、晋の都に印綬を返還した。司馬炎は陶璜にそのまま交州を任せ、宛陵侯に封じ、冠軍将軍に任じた。
三国統一がなり、各地の兵が削減されていくことに危機感を抱き、陶璜は「交州は国土の果てで、延々と山と海が連なっています。范熊(はんゆう)は何世代にも渡る異民族の賊徒で、王を自称し民衆を苦しめています。その他多くの異民族が険阻な土地を頼みに、従いません。私は呉の時代から十余年も統治し、何度も討伐しましたが退治しきれず、戦や疫病で7千余りいた兵は2420人まで減りました。三国統一され、武器を片付け礼節に励む時ですが、交州には義を知る者が少なく、彼らは安寧を嫌います。兵を削減し隙を見せてはいけません。
また合浦郡は土地が痩せており、民は真珠を採って生計を立てています。呉の時代には厳しい規制が敷かれ民は苦しみ、粗悪品が横行しました。上質の真珠は3分の2を、それ以下の物は3分の1を献上するようにし、10月から2月は上質の物が採れませんので、その間に商人を往来させてください」と上奏し、司馬炎は全て聞き入れた。
異民族への対策から民の保護まで、威厳と恩恵ある陶璜の統治は30年に及んだ。病没した時、交州の人々は大声で嘆き悲しみ、まるで愛情深い父親にするように喪に服した。
交州の人々は後任の交州刺史の人事に介入し、やがて陶璜の子の陶威(とうい)が就任した。
歓迎されたが3年で没すると、その弟や子らが世襲していき、陶基を皮切りに4世代で5人の交州刺史を輩出した。
その他の一族も重職を歴任する者が多々いた。(『晋書 陶璜伝』)
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