三国志 と 1


杜乂


未作成



杜会  杜襲の子


杜会(とかい)字は不明
豫州潁川郡定陵県の人(??~??)

魏の臣。
杜襲(としゅう)の子。

父が没すると後を継いだ。(『杜襲伝』)



杜寛  杜畿の学者肌の子


杜寛(とかん)字は務叔(むしゅく)
司隸京兆郡杜陵県の人(??~??)

魏の臣。
杜畿(とき)の子。杜恕(とじょ)・杜理(とり)の弟。

「杜氏新書」に曰く。
清淡・深遠な人柄で明晰な頭脳を持ち古代の教えを好んだ。
名臣の一族のため都で育ったが、目的に向かって熱意を持ち広く学問し、俗事にかまけなかった。ものの奥底にある隠れた真実を探求しようと志して名声を得たため、世に知られた人々は交友を求めた。
孝廉に推挙され郎中に任じられたが、42歳で没した。
経書について多くの議論や批判をしたが、草稿のままで完成しなかった。「礼記」と「春秋左氏伝」への注は(唐代にも)現存する。(『杜畿伝』)



杜基  杜襲の兄


杜基(とき)字は不明
豫州潁川郡定陵県の人(??~??)

魏の臣。
杜襲(としゅう)の兄。

(228年?)諸葛亮の北伐に際し、大将軍の曹真(そうしん)が迎撃し、杜襲はその軍師を務めた。
杜基は杜襲の領地から100戸を分けられ関内侯に封じられた。(『杜襲伝』)



杜祺  呂乂とともに抜擢され長く活躍


杜祺(とき)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。

214年、益州を制圧した劉備は、王連(おうれん)を司塩校尉に任じた。王連は莫大な利益を上げるとともに、呂乂(りょがい)、杜祺、劉幹(りゅうかん)らを典曹都尉に抜擢し、みな出世した。(『呂乂伝』)

231年、李厳(りげん)の罷免を求める文書に行参軍・武略中郎将として連名した。(『李厳伝』)

244年、曹爽(そうそう)が10万の兵で攻め寄せると、漢中の兵は3万足らずだったため、ある者が関城まで戦線を下げ涪城の本隊の救援を得るべきだと進言した。
しかし指揮官の王平(おうへい)は「涪城は遠く、関城が落ちれば災いの種となる。劉敏(りゅうびん)と杜祺を興勢山に立て籠もらせ、私が後方の備えに当たり、本隊の到着まで時間を稼ごう」と言った。
劉敏だけが賛成し、王平の読み通りに魏軍は撤退した。(『王平伝』)

杜祺は郡守、監軍、大将軍司馬を歴任した。
呂乂、劉幹とは親交があり、揃って高い名声を得たが、倹約・質素で法を遵守することにかけては呂乂に及ばなかった。(『呂乂伝』)



杜義  李平の罷免に連名した蜀臣G


杜義(とぎ)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

231年、李平(りへい)の罷免を求める文書に行参軍・裨将軍として連名した。(『李厳伝』)

余談だがこの弾劾文書にしか登場しない蜀臣は9人もいる。



杜畿  不惑の人


個別ページへ



杜夔  三国一の音楽家


杜夔(とき)字は公良(こうりょう)
司隷河南郡の人(??~??)

後漢・魏の臣。
音楽家。

音楽に通じ後漢に仕え雅楽郎を務めていたが、188年に病のため官を辞した。
州・郡・司徒の役所から手厚く召されたが、董卓が実権を握るなど動乱が激しくなったため、荊州に移住した。
荊州牧の劉表(りゅうひょう)に命じられ、孟曜(もうよう)とともに天子(を迎え入れる準備)のためのオーケストラを作った。完成すると劉表は庭で演奏させようとしたが、杜夔は「天子のために編成したものをあなたの庭で演奏させてよいのですか」と反対し、取りやめさせた。

208年、劉表が没し荊州が曹操の支配下に入ると朝廷に復帰した。
曹操は軍謀祭酒に任じ、太楽(宮廷音楽)を新たに制定させた。
杜夔は並外れた音感と聴覚を持ち、弦楽器や管楽器ら8種の楽器を全て演奏できたが、歌と舞は得手ではなかった。
そこで雅楽の名手の鄧静(とうせい)・尹斉(いんせい)、歌師の尹胡(いんこ)、舞師の馮粛(ふうしゅく)・服養(ふくよう)らを集めて古代からの音楽を考究し、古くは四書五経から、近代の様々な事例を参考に、芸能者を養成し、楽器を作り揃えた。古来からの音楽を復興し、後世に引き継がせたのは全て杜夔の尽力によるものである。

黄初年間(220~226)に太楽令・協律都尉となった。
鐘の鋳造の名手だった柴玉(さいぎょく)に銅鐘を作らせたが、出来栄えが悪く何度も作り直させた。
柴玉はそれを不服に思い、杜夔の音感がおかしいのだと訴えた。
そこで曹操は鐘をシャッフルさせて音感テストを行い、杜夔が正しいと裁定した。柴玉と子らは役目を解かれ、養馬士(馬飼い?)に左遷された。(※黄初年間の逸話ならば曹操ではなく曹丕の誤記か)

曹丕はかつて杜夔に命じて左𩥄(さてん)とともに笙と琴を演奏させようとしたが、不服そうな顔をされ、不快に思っていた。
後に理由をつけて杜夔を投獄すると、左𩥄らに音楽を習わせるよう迫った。だが杜夔は「自分が習得しているのは由緒正しい音楽であり、左𩥄のような俗物に教えることはできないし、彼らも楽官である以上は基礎はあるはずだ」と不満をあらわにした。
杜夔は罷免され、無官のまま没した。

弟子の邵登(しょうとう)・張泰(ちょうたい)・桑馥(そうふく)・陳頏(ちんこう)はみな楽官の高位に上った。
左延年(さえんねん)らも音楽家として優秀だったが、鄭声(俗な音楽)であり、古を好み正しい音楽の復興に尽力した点では、杜夔の右に出る者はなかった。(『杜夔伝』)

陳寿は医師の華佗(かだ)、占い師の管輅(かんろ)らとともに「方技伝」に入れ「まことに奥深く隔絶した巧みであり、非凡な優れた技術であった」と評した。

「演義」には登場しない。



杜瓊  譙周の心の師


杜瓊(とけい)字は伯瑜(はくゆ)
益州蜀郡成都県の人(??~250)

蜀の臣。

静かで控えめな人柄で口数少なく、門を閉ざし世間と関わらなかった。
若い頃に任安(じんあん)に図讖(予言)を学び、技術に精通した。(『杜瓊伝』)
名声では同門の何宗(かそう)の方が勝った。(『楊戯伝』)

益州牧の劉璋(りゅうしょう)に召し出され従事となり、214年に劉備が益州を制圧すると議曹従事に任じられた。(『杜瓊伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に議曹従事として連名した。(『先主伝』)

223年、劉禅が即位すると諫議大夫となり、左中郎将・大鴻臚・太常と昇進して行った。(『杜瓊伝』)

234年、諸葛亮が没すると、劉禅は使持節左中郎将の杜瓊を使者とし、丞相武郷侯の印綬を贈った。(『諸葛亮伝』)

蔣琬(しょうえん)・費禕(ひい)に高く評価され、学問の深奥を極めていたが、図讖の術は用いなかった。
譙周(しょうしゅう)に理由を聞かれると「この術は非常に困難で、自身で全てを見分けねばならない。朝も晩も働いてようやくわかったら、今度はそれが他人に洩れないか心配になる。それならやらない方がマシなのだ」と言った。
さらに譙周は、同じく図讖に優れた周舒(しゅうじょ)が、かつて予言書の記述を「当塗高とは魏なり」と読み解いたことの解説を求めた。杜瓊は「魏とは宮城の門の名称だ。塗(道)に当たって高くそびえている」と言い、また「漢になって初めて官職を曹と呼ぶようになった。官吏は属曹、下役人は侍曹と呼ぶ。曹氏に属し、侍るという意味だ。漢が魏の曹氏に取って代わられたのは、ほとんど天の意志だ」と話した。

250年に80余歳で没した。
「韓詩章句」10余万言を遺した一方で、図讖や讖緯(神秘学)は子らに伝授しなかった。
だが譙周は杜瓊の言葉を基として様々な予言を的中させ「これは私が推論したものだが、杜瓊の言葉を基に押し広げただけだ。独自に到達したものなど全く無い」と語った。(『杜瓊伝』)

陳寿は「沈黙を守って慎み深く、純粋な学者だった」と評した。

「演義」では意外と出番が多く、なぜか北伐にも従軍し魏軍と戦った。



杜濩  巴郡の異民族B


杜濩(とこ)
益州巴郡の人(??~??)

異民族。

215年、曹操は漢中を討伐した。陽平関が陥落すると、張魯(ちょうろ)は降伏しようとしたが、閻圃(えんほ)は「追い詰められてすぐ降伏すれば低く評価されますが、朴胡(ふこ)か杜濩に協力を頼み、抵抗した後に降伏すれば高評価されます」と進言した。
張魯はそれに従い、さらに宝物庫を焼こうとする配下に「これは国家のものである」と言い、封印して撤退した。曹操はいたく感心し、降伏した張魯を厚遇した。(『張魯伝』)

215年、巴郡の7豪族のうち、蛮王の朴胡と賨邑侯の杜濩が住民をこぞって魏へ帰順した。
巴郡を分割し、朴胡を巴東太守、杜濩を巴西太守とし、ともに列侯した。(『武帝紀』)

巴西郡の王平(おうへい)は朴胡・杜濩とともに洛陽へ朝貢し校尉の官位を与えられた。
後に漢中で蜀軍と戦い、劉備へ降伏した。(『王平伝』)

黄権(こうけん)は張魯が撤退した時、劉備へ「漢中が落ちれば巴郡の力は弱まり、蜀の手足をもぎ取られるようなものです」と言い、救援するよう進言したが、張魯はすぐに魏へ降伏してしまった。
だが後に朴胡・杜濩を撃破し、夏侯淵を討ち取り漢中を制圧できたのは、全て黄権の計略によるものである。(『黄権伝』)



杜氏  NTR妻


杜氏(とし)名は不明
出身地不明(??~??)

秦宜禄(しんぎろく)、後に曹操の妻。

198年、呂布は下邳城を曹操に包囲されると、袁術(えんじゅつ)のもとに秦宜禄を送り救援要請した。
秦宜禄は王族の娘と強引に縁組させられ、援軍も結局送られず呂布は滅亡した。
秦宜禄は曹操に仕え、下邳城に残してきた妻の杜氏は、はじめ当時は曹操陣営にいた関羽が側室にしたいと願い出て許可されたものの、彼女の美貌を知った曹操に横取りされた。

翌年、劉備が曹操に反旗を翻すと、秦宜禄は張飛に「妻を奪った男に仕えるのは愚かだ」とけしかけられ、それに加担しようとした。
だがすぐに後悔し離脱しようとしたため張飛に殺された。(『明帝紀』)

その後、杜氏は曹操に寵愛され、王后に次ぐ夫人の地位に上り、曹林(そうりん)・曹袞(そうこん)・金郷公主(きんきょう)ら3人の子をもうけた。
232年、曹林が沛王になると沛王太妃(はいおうたいひ)と称され、秦宜禄との子の秦朗(しんろう)も我が子同然に可愛がられ、高位に上った。(『武文世王公伝』・『曹真伝』)

没年は不明だが235年に病に倒れた曹袞を見舞った記録が見られる。(『中山恭王袞伝』)



杜氏  郭皇后(曹叡)の母


杜氏(とし)名は不明
出身地不明(??~??)

曹叡の皇后の郭皇后(かくこうごう)の母。

239年、曹叡が没し三代皇帝の曹芳が即位すると、郭皇太后となり、すでに亡くなっていた父の郭満(かくまん)には西都定侯が追贈された。
母の杜氏は存命で、領地が与えられ郃陽君(こうようくん)とされた。(『明元郭皇后伝』)

「王沈魏書」に曰く。
254年、曹芳廃位の上奏に「郃陽君が亡くなり郭太后は喪に服したが、曹芳は常と変わらず、私をどうこうできる者はいないとうそぶいた。郭太后は(怒り?)曹芳の側室を2人殺した」と記され、254年までに没したことがわかる。(『斉王紀』)



杜摯  毌丘倹に推挙を断られる


杜摯(とし)字は徳魯(とくろ)
司隸河東郡の人(??~??)

魏の臣。

郎中令を務めた。
文章や賦の名手5人に韋誕(いたん)らとともに挙げられる。

はじめ「茄の賦」が評判を取り、司徒軍謀祭酒に任命され、後に孝廉に推挙され昇進を重ねた。
同郷の毌丘倹(かんきゅうけん)と親しく、彼に仙薬を求める詩に託して推挙を求めたが、答詩で断られた。
秘書の官で終わり、没した。(『劉劭伝』)



杜襲  司馬懿の軍師


個別ページへ



杜恕  自由に生きた男


杜恕(とじょ)字は務伯(むはく)
司隸京兆尹杜陵県の人(198~252)

魏の臣。
杜畿(とき)の長男。杜預(とよ)の父。
「杜畿伝」に附伝される。

「杜氏新書」に曰く。
馮翊郡の李豊(りほう)とは幼馴染だったが、先に李豊が名声を得て出世すると、杜恕の自由闊達さを引き合いに出して批判する者が増えたため、李豊は杜恕をよく思わなくなり、杜恕も成り行きに任せてますます名声を求めず、平民のままだった。
曹丕の代に父が事故死したため後を継ぎ、曹叡に抜擢され太和年間(227~233)に散騎黄門侍郎に上った。

誠実で表面を飾らず、若い頃は名声を得られなかった。
派閥にくみさず、政治に乱れがあれば正論で諌めたため辛毗(しんぴ)らに高く評価された。

「杜氏新書」に曰く。
同僚となった李豊と関係修復し、袁侃(えんかん)、荀俁(じゅんぐ)らと親しく付き合った。(『杜恕伝』)

「魏臣名奏」に曰く。
韓観(かんかん)・王昶(おうちょう)を「多くの才能を備え、高位と重任にふさわしく、三州の刺史に留まる人物ではない」と推薦した。(『徐邈伝』)

杜恕は刺史が軍権を握ることに反対し、鎮北将軍の呂昭(りょしょう)が冀州刺史を兼任することに異を唱えた。
また官吏の勤務評定を「才能があっても能力を十分に引き出せないならば役に立たない」と批判し、取り止めさせた。
さらに廉昭(れんしょう)が弾劾を頻発するとそれを用いた曹叡もろとも批判したりと、8年間の在職中、常に正論を唱え続けた。
だがそのため周囲としばしば衝突したため、外に出され弘農太守、趙国相、河東太守などを歴任した。
任地での統治は大筋を捉えるだけに留まり、絶大な治績を挙げた父には及ばなかった。(『杜恕伝』)

「高士伝」に曰く。
河東太守の時、隠者の焦先(しょうせん)を招聘しようと、裸で暮らす彼に衣服を贈ろうとしたが、一言も話せなかった。(『管寧伝』)

248年頃、幽州刺史として赴任した。(『杜恕伝』)
この頃、多くの重臣が高名な隠者の胡昭(こしょう)を招聘したが応じなかった。
「高士伝」に曰く、杜恕も自ら草庵を訪ね、胡昭の道理を論ずる言葉に謙虚さと敬意を感じ、大いに尊敬したという。(『管寧伝』)

友人の袁侃は征北将軍に任じられた程喜(ていき)が、かつて敵対した田豫(でんよ)を讒言で陥れたことから、交友を結ぶよう忠告したが、杜恕は気にもとめなかった。
249年、鮮卑からの使者が関所を通らなかったため、杜恕は独断で使者の子供を斬って処罰し、朝廷へ報告しなかった。
程喜はすかさず配下の宋権(そうけん)を送り、見逃す代わりに謝罪するよう持ちかけたが、杜恕はそれを断ったため、程喜の弾劾により危うく処刑されるところだったが、父の功績により死罪は免れ、幽州刺史を罷免のうえ配流となり平民に落とされた。

その後、復帰は叶わず、阮武(げんぶ)に「あなたは公正な道に進めるのにそうせず、高位にいる才能があるのに求め方を知らない。過去から現在を語る学識があるが集中できない」と、かつて自身が批判したように、才能を持ちながら引き出す能力がないことを指摘され、「時間ができたのだからじっくり思索し独創的な見解をまとめなさい」と勧められて配所で書を著し、252年に55歳で没した。
陳寿は「自由な精神で思い通りに振舞い、災難を顧みなかった結果、失敗を招いた」としつつも「その意見や論は全て立派なものである」と評し、伝においても多く引用している。

257年、楽詳(がくしょう)の上奏で子の杜預が、祖父の杜畿の功績により豊楽亭侯に取り立てられた。(『杜恕伝』)
杜預は司馬懿の娘婿であり、次第に頭角を現していき、279年からの呉征伐では指揮官として活躍した。また現代にも残る「破竹の勢い」は杜預の言葉である。



杜松  呂虔と交代させられた襄賁校尉


杜松(としょう)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

200年、劉備が蜂起すると昌豨(しょうき)はそれに呼応し、東海郡で挙兵した。
付近の郡県も応じ数万の軍勢に膨れ上がったが、すぐに撃破された。(『武帝紀』・『先主伝』)

襄賁校尉の杜松に仕える炅母(けいぼ)も反乱した。
曹操は杜松と呂虔(りょけん)を交代させた。呂虔は炅母ら反乱の首謀者を数十人招き酒宴を催した。全員が酔ったのを確認すると、伏兵に殴り殺させた。その配下はいたわったため服従した。(『呂虔伝』)



杜軫


未作成



杜錫


未作成



杜長  公孫瓚に加勢した黒山賊


杜長(とちょう)字は不明
出身地不明(??~??)

黒山賊。

袁紹と公孫瓚(こうそんさん)が冀州の領土を争った時、張燕(ちょうえん)は将軍の杜長を送り公孫瓚に味方させたが、敗北し黒山賊の勢力はだんだんと衰えていった。(『張燕伝』)



杜通  張進に捕らえられた張掖太守


杜通(とつう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

220年、曹操が没すると西平郡の麴演(きくえん)が二度にわたり反乱した。
張進(ちょうしん)・黄華(こうか)も呼応し、張進は張掖太守の杜通を捕らえ、太守を名乗った。(『蘇則伝』)

蘇則(そそく)や毌丘興(かんきゅうこう)によって反乱は鎮圧された。

雍州刺史の張既(ちょうき)は上奏し「河右は長く戦乱の中にあり、武威郡は要所に当たるうえ異民族と国境を接し、たびたび戦火にかかっていました。毌丘興は着任すると内外を平定し、張進・黄華の反乱には涙を流して憤慨し、1万人の民は感激して忠誠を誓いました。捕らえられた太守の杜通、張睦(ちょうぼく)を救出し、張掖郡の民は彼を慕い移住しました。全ての任地で心力を尽くした国家の良吏です。恩賞を与えてください」と激賞した。(『毌丘倹伝』)



杜徳  遼東から決死の脱出に成功した呉臣C


杜徳(ととく)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「呉書」に曰く。
233年、孫権は遼東の公孫淵(こうそんえん)へ友好の使者を送った。
だが公孫淵は使者の張弥(ちょうび)・許晏(きょあん)を殺し兵や物資を奪おうと企て、随行していた配下らを各地へ分散して幽閉した。
中使の秦旦(しんたん)・張羣(ちょうぐん)・杜徳・黄彊(こうきょう)ら60人は玄菟郡に移され、民家に住み食事を提供された。
40日余り経ち、秦旦は「我々は使者の任も果たせず死んだも同然だ。太守の王賛(おうさん)には400ほどの兵しかなく、決起してこれを打ち破ればたとえ殺されても心残りはない。今よりはよほどマシだ」と挙兵を誘った。
8月19日夜に挙兵を決めたが、決起日の昼に部下の張松(ちょうしょう)が裏切り、挙兵を知った王賛は門を封鎖した。
秦旦らは城壁を乗り越え脱出したが、張羣は膝が腫れており、杜徳が肩を貸していたものの6~700里逃げた山中でついに倒れ伏した。仲間らは涙し、張羣は自分を見捨てて逃げるよう勧めたが、杜徳は「祖国から万里も離れた土地で生死を共にした仲間をどうして見捨てられるか」と自分は看病のため残ると決断した。杜徳は山菜や木の実を採ってしのぎ、秦旦・黄彊は数日後に高句麗にたどり着いた。
句麗王の位宮(いきゅう)は事情を聞くと喜んで兵を出し、張羣・杜徳を助け、4人を呉へ送り届けるとともに朝貢した。
孫権に目通りした秦旦らは感極まり、孫権は称えて4人を校尉に任じた。(『呉主伝』)



杜微  諸葛亮に筆談で詰められる


杜微(とび)字は国輔(こくほ)
益州梓潼郡涪県の人(??~??)

蜀の臣。

若い頃は任安(じんあん)に師事した。
益州牧の劉璋(りゅうしょう)に従事に招かれたが、病気で官を辞した。
214年、劉備が益州を制圧すると、聾と称して隠棲した。

224年、諸葛亮が益州牧を兼務すると、以前から徳望の高い者を属官に抜擢した。杜微も主簿に任じられ、固辞したものの諸葛亮は車で迎えに行かせた。
接見してもなお断り続けたが、諸葛亮は耳の聴こえない彼のためにその場で手紙を書き、「多くの名声高い人物があなたの高邁な志に感嘆していますから、私も会う前からあなたを旧知のごとくに感じていました。ともに朝廷(劉禅)を助けたいと思っています。賢者と愚者は相談しない、と言われていますからあなたは隠棲したのでしょう」と話した。
杜微がなおも老齢と病を理由に辞去しようとすると、諸葛亮はさらに手紙を書き、「曹丕は帝位を簒奪し、呉や荊州を制圧しようとしています。私は曹丕を賢者とともに滅ぼしたいと願っているのに、なぜ断られるのか不可解です。あなたはただ徳義によって補佐してくれるだけで十分で、軍事に関する責任は負わせません。どうしてそんなに帰りたがるのですか」と懇願した。
杜微は(名目だけの?)諫議大夫に任じられ、家に帰った。(『杜微伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「表立った言動はしなかったが、陰陽の変化を広く指し示した」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「品行を整え、隠棲して静かな暮らしを楽しみ、時代の拘束を受けなかった」と評した。

「演義」では尚書に任じられ内政にあたる。



杜夫人


未作成



杜普  楽進に撃破された劉備配下の県長A


杜普(とふ)字は不明
出身地不明(??~??)

劉備の臣。

208年、赤壁の戦いに敗れた曹操は楽進(がくしん)に襄陽を守らせた。(『楽進伝』・『呉主伝』)

楽進は関羽・蘇非(そひ ※蘇飛と同一人物か)を撃破し、南郡の蛮族を降伏させ、臨沮県長の杜普や旌陽県長の梁大(りょうだい)も撃破した。(『楽進伝』)



杜密


未作成



杜黙  杜友の子


杜黙(ともく)字は世玄(せいげん)
青州東郡の人(??~??)

晋の臣。
杜友(とゆう)の子。

若い頃から裴楷(はいかい)・王戎(おうじゅう)・荀寓(じゅんぐう)らと都で名を馳せた。(『荀彧伝』)

吏部郎・衛尉を歴任した。(『毌丘倹伝』)



杜友  毌丘倹の配下を裁く


杜友(とゆう)字は季子(きし)
青州東郡の人(??~??)

魏・晋の臣。

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱の末に戦死すると、その配下700余人が侍御史の杜友のもとへ送られ裁きを受けた。
その他の者は上奏し釈放させた。

晋代に冀州刺史・河南尹に上った。
子の杜黙(ともく)も衛尉に上った。(『毌丘倹伝』)

晋代になると賈充らは新たな法律を制定した。司馬炎から諮問を受けると、廷尉の杜友らとともに回答した。(『晋書 賈充伝』)

任愷(じんがい)は賈充の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
だが讒言により劣勢となり、尚書の杜友・廷尉の劉良(りゅうりょう)ら誠実な士大夫は助けようと上奏を試みたが、賈充は罪を犯した劉友(りゅうゆう)と関わりがあるなど追撃の手を緩めず、任愷・杜友・劉良は揃って罷免された。

政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)



杜祐  陰脩に推挙された潁川郡の人C


杜祐(とゆう)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

後漢の臣。

「謝承後漢書」に曰く。
陰脩(いんしゅう)は潁川太守に赴任すると賢人を顕彰し英俊を抜擢することに努力し、張仲(ちょうちゅう)を方正に推挙し、鍾繇(しょうよう)、荀彧、張礼(ちょうれい)、賊曹掾の杜祐、荀攸(じゅんゆう)、郭図(かくと)を見出して朝廷を光り輝かせた。(『鍾繇伝』)



杜預  破竹の勢い


個別ページへ



杜陽  韓浩の舅


杜陽(とよう)字は不明
出身地不明(??~190?)

後漢の臣。
韓浩(かんこう)の舅。

「王沈魏書」に曰く。
190年、河内太守の王匡(おうきょう)は韓浩に董卓を攻撃させた。
董卓は河陰県令を務めていた杜陽を人質に取り寝返らせようとしたが、韓浩は応じなかった。これを聞いた袁術は感心して騎都尉に任命し、さらに夏侯惇に迎え入れられた。

杜陽の消息は不明だが殺されたのだろう。(『夏侯惇伝』)



杜理  杜畿の早逝した子


杜理(とり)字は務仲(むちゅう)
司隸京兆郡杜陵県の人(??~??)

魏の臣?
杜畿(とき)の子。杜恕(とじょ)の弟。

「杜氏新書」に曰く。
幼くしてものの精髄を素早く見抜いたため、杜畿は見どころがあると思い「理」と名付けた。
21歳で没した。(『杜畿伝』)



杜路  武陵蛮にあらず


個別ページへ



度尚  八廚の一人


度尚(どしょう)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

後漢の臣。

「漢末名士録」に曰く。
胡母班(こぼはん)、張邈(ちょうばく)、度尚ら8人は「八廚」と並び称された。(『袁紹伝』)

(173年以前)会稽郡上虞県長の度尚は朱儁(しゅしゅん)を引見して高く評価し、会稽太守の韋毅(いき)に推挙した。(『後漢書 朱儁伝』)



冬逢  張嶷に誅殺された蘇祁族の族長


冬逢(とうほう)
蘇祁族の人(??~??)

蘇祁族の族長。

蜀に降伏していたが弟の隗渠(かいきょ)とともに再び反乱した。
張嶷(ちょうぎょく)は冬逢を誅殺したが、その妻は旄牛族の王女だったため、処罰しなかった。
隗渠は西方の国境地帯へ逃げた。剛毅かつ精悍で諸部族から恐れられており、張嶷に側近2人を偽って降伏させ情報を得てもいた。
張嶷はそれを見抜くと側近を買収して寝返らせ、彼らに隗渠を殺させた。諸部族も帰順した。

後に冬逢の義理の甥の狼路(ろうろ)が、仇討ちのため反乱した。叔父の離(り)に冬逢の残党を率いさせたが、離は冬逢の妻の弟だったため、張嶷は姉と贈り物を与え懐柔した。姉弟は大いに喜び、配下の部族を率いて帰順した。旄牛族は以後反乱することはなかった。
狼路も冬逢の妻を通じて説得され降伏した。(『張嶷伝』)



当  処刑された曹洪の乳母


当(とう)名が当か
出身地不明(??~??)

曹洪(そうこう)の乳母。

曹叡の代に、その娘の臨汾公主(りんふんこうしゅ)の侍女とともに無澗山の神に仕えたため、淫祠邪教を崇めた罪で河南尹の司馬芝(しばし)に逮捕された。
卞太后(べんたいこう)は宦官の呉達(ごたつ)を派遣し釈放させようとしたが、司馬芝は無視してさっさと処刑を命じた。
そして曹叡に独断で処罰したことを謝罪したが、曹叡は正しさを認め、今後また宦官が派遣されても取り合わなくていいと許可を与えた。(『司馬芝伝』)



宕蕈  廖化と戦った守善羌侯


宕蕈(とうしん)
羌族の人(??~??)

羌族の人。
守善羌侯と記される。

「魏書」に曰く。
238年、蜀の廖化(りょうか)が宕蕈を攻撃した。雍州刺史の郭淮は広魏太守の王贇(おういん)と南安太守の游奕(ゆうえき)に救援させたが、挟み撃ちを狙っていると聞いた曹叡は不利を悟り游奕を移動させるよう命じた。
しかし勅命が届く前に游奕は廖化に撃破され、王贇も流れ矢に当たり戦死した。(『明帝紀』)

なお宕蕈は羌族の部族名で、個人名ではないともいうが、資料が無いのでここでは人名としておく。



東郷公主  曹丕と甄姫の娘


東郷公主(とうきょうこうしゅ)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹丕と甄姫の娘。
曹叡の姉妹。

「王沈魏書」に曰く。
216年、曹操が孫権の征伐に赴くと、卞皇后(べんこうごう)・曹丕・曹叡・東郷公主はそれにお供したが、甄姫は病のため都に留まった。
217年、軍が帰還すると甄姫は顔色優れた様子で出迎えた。卞皇后の側近らが「二人の子と長い間離れていたのに心労は無かったのですか」といぶかると「お母様(卞皇后)がついていたのに何を心配することがありましょう」と答えた。
甄姫が礼によって己を律するのは全てこのようだった。
(※裴松之は「魏書は曹丕が甄姫を殺したことを隠しておいて、その善行を称えている。陳寿が採用しなかったこの逸話も信用し難い」と指摘する)(『文昭甄皇后伝』)



東平王


未作成



東方安世  弾棊の名手B


東方安世(とうほうあんせい)本名は不明
出身地不明(??~??)

弾棊(おはじき)の名手。

「典論」に曰く。
曹丕は「私は弓・馬・剣以外の趣味は少ないが、弾棊は技術を極め、若い頃には賦も作った。
都で昔、馬合郷侯(ばごうきょうこう)・東方安世・張公子(ちょうこうし)らが名手として知られたが、対戦できず残念だ」と語った。(『文帝紀』)



唐固  闞沢と同郷のまことの学者


唐固(とうこ)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~225)

呉の臣。
「闞沢伝」に附伝される。

闞沢と同郷の先輩で、身を修め学問を積み、まことの学者だと評判を取った。
「国語」・「春秋公羊伝」・「穀梁伝」の注釈をし、門弟は常に数十人いた。

220年、孫権が呉王に封じられると議郎に任じられ、陸遜・張温(ちょうおん)・駱統(らくとう)ら重臣も彼に丁重な礼をとった。

225年、尚書僕射となり70余歳で没した。(『唐固伝』)



唐衡


未作成



唐咨  魏と呉を渡り歩く


個別ページへ



唐盛  築城を却下する


唐盛(とうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

西陵の守備を命じられた鍾離徇(しょうりしゅん)は、宜城と信陵は建平郡の後ろ盾であり、そこに築城すべきだと訴えた。
だが監軍使者の唐盛は「施績(しせき)や留平(りゅうへい)ら智略を備えた名将もしばしばそこを通ったが、築城しようとは言わなかった」として却下した。
わずか半年後、晋軍は信陵を占領し城を築いてしまった。(『鍾離牧伝』)



唐珍  唐衡の七光かそれとも…?


唐珍(とうちん)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

後漢の臣。
中常侍(宦官)の唐衡(とうこう)の弟。

173年、太常から司空に上った。
174年、辞任した。(『後漢書 霊帝紀』)

「傅子」に曰く、宦官のおかげで官位を得た唐珍らは、金で官位を買った者よりなお悪い輩である。(『董卓伝』)

「広東通志」・「百越先賢志」に曰く。
字は恵伯(けいはく)、荊州桂陽郡の人である。
祖先は潁川郡の出身だが、祖父から桂陽郡に移住したという。

生まれつき落ち着いて欲がなく、講義されるとすぐ暗誦できたため神童と呼ばれた。容貌に優れ、親孝行だった。
荊州刺史の度尚(どしょう)に重用され、やがて太常に上り、173年、司空になった。
海沿いに物見櫓や砦を築くようたびたび上奏したが却下された。
当時、一族の唐衡ら宦官が実権を握り、唐珍は弟と呼ばれていたが、「彼には本物の弟がいるのになぜさらに弟が必要なのか」とそれを恥としていた。
声が出ない病気を装い、司空になってわずか1ヶ月で罷免された。帰郷し、仙人の成武丁(せいぶてい)に師事し養生の術を会得した。
179年に没したが、その後も山や川でたびたび目撃されたため、廟に祀られ唐司空廟と呼ばれた。(『広東通志』・『百越先賢志』)

ただし唐衡は164年に没しており時系列は矛盾する。
少なくとも孫賓碩(そんひんせき)こと孫嵩(そんすう)の逸話に登場する唐衡の弟とは別人のようだ。



唐蹏  郭淮に撃破された羌族の名家


唐蹏(とうてい)
涼州隴西郡の人(??~??)

羌族の名家。

228年、雍州刺史の郭淮は、枹罕で唐蹏を撃破し建威将軍を加官された。(『郭淮伝』)



唐彬  心を攻める名将


個別ページへ



唐譜  呂興の都尉


唐譜(とうふ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉、後に魏(晋?)の臣。

263年、交阯郡役人の呂興(りょこう)は反乱し魏に寝返った。(『孫休伝』)

曹奐は詔勅で「呂興は唐譜を霍弋(かくよく)のもとへ派遣し、魏への服従を明らかにした」と述べた。(『陳留王紀』)

ちくま版には「都府の唐譜」と記されるが「都尉の唐譜」の誤記のようだ。



堂谿典


未作成



陶応  陶謙の子B


陶応(とうおう)字は不明
揚州丹陽郡余姚県の人(??~??)

陶謙(とうけん)の子。

陶謙には陶商(とうしょう)・陶応の2人の子がいたがともに出仕しなかった。(『陶謙伝』)

「演義」にも名のみ登場。陶謙は「2人の子には任せられない」と劉備に徐州刺史を譲った。



陶基  陶璜・陶濬の父


陶基(とうき)字は不明
揚州丹楊郡秣陵県の人(??~??)

呉の臣。
陶璜(とうこう)、陶濬(とうしゅん)、陶抗(とうこう)の父。

交州刺史を務めた。

子孫はいずれも高名で、陶基から曾孫の陶綏(とうすい)までの4代で5人の交州刺史を輩出した。(『晋書 陶璜伝』)



陶謙  いいおじいさん? わるいおじいさん?


個別ページへ



陶抗  陶璜・陶濬の弟


陶抗(とうこう)字は不明
揚州丹楊郡秣陵県の人(??~??)

呉の臣。
陶基(とうき)の子。
陶璜(とうこう)、陶濬(とうしゅん)の弟。

太子中庶子に上った。

子の陶回(とうかい)は晋書に列伝された。(『晋書 陶璜伝』)



陶璜  交州の父


陶璜(とうこう)字は世英(せいえい)
揚州丹楊郡秣陵県の人(??~??)

呉・晋の臣。
陶基(とうき)の子。
陶濬(とうしゅん)・陶抗(とうこう)の兄。

計略に優れ、貧窮な者を救い、施しを好み、人心をつかんでいた。(『晋書 陶璜伝』)

263年(『孫休伝』)、交阯太守の孫諝(そんしょ)が暴政を布いたため、郡の役人の呂興(りょこう)は孫諝を殺し、魏へ鞍替えした。呂興は晋から後任の太守に任命されたが、彼も部下に殺され、その後も次々と没し安定しなかった。(『晋書 陶璜伝』)

268年(『孫晧伝』)、南中監軍の霍弋(かくよく)は、新たな交阯太守の楊稷(ようしょく)を援護するため、益州から毛炅(もうけい)らと大軍を率いて出撃し、呉の大都督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)を討ち取った。
それに対し呉は虞汜(ぐし)を監軍、薛珝(せつく)を大都督、陶璜を蒼梧太守に任じて迎撃させたが、陶璜は楊稷に敗れ二将を失った。
薛珝が激怒すると、陶璜は「私の思った通りにできず、諸軍も従わなかったため負けただけです」と言ったため、薛珝はますます怒り、撤退しようとした。
陶璜は小勢を率いて晋軍の董元(とうげん)に夜襲を掛け財宝を奪う戦果を挙げたため、薛珝は怒りを解き、陶璜を前部督に任じ交州を任せた。

再び董元と対峙すると、伏兵を見抜いて逆に罠にはめた。奪った財宝を扶厳の賊徒の梁奇(りょうき)に贈り、援軍1万を得た。

陶璜は董元配下の勇将の解系(かいけい)に手を焼いた。
そこで解系の弟の解象(かいしょう)を調略し、兄へ説得の手紙を送らせるとともに、解象を自分の車に乗せ、軍楽隊を率い行進した。それを見た董元は「解象でさえこれだけ厚遇されるなら解系は必ず裏切る」と考え、殺してしまった。(『晋書 陶璜伝』)

271年、交阯を包囲された楊稷・毛炅らは、霍弋から「包囲され百日以内に降伏したら一族もろとも誅殺する。百日を過ぎれば降伏しても罪は私が引き受ける」と言い含められていた。だがその霍弋はすでに病没し、兵糧も尽きたため楊稷は百日経たずに降伏を申し出た。
ところが陶璜は食料を渡し籠城を続けさせた。配下の者が諌めると「百日経てば彼らは罪を免れ、我らは義を立てられる。民には教訓になり、敵国も懐柔できて素晴らしいではないか」と答えた。
百日後、楊稷・毛炅は降伏した。
以上の逸話は「漢晋春秋」と「晋書」に記されている。

「華陽国志」に異聞がある。
王約(おうやく)の寝返りにより城は落ち、楊稷と毛炅は捕虜にされた。陶璜は勇猛な毛炅を解放しようとしたが、毛炅に父の脩則を殺された脩允(しゅういん)は処刑を願った。
毛炅にも恭順する意思はなく、陶璜に拷問されてもひるまず「お前たちの父親は死んだ犬だ」などと罵り続けながら殺された。
楊稷は護送中に病死した。(『孫晧伝』)

「晋書」にはさらに別の経緯が記される。
楊稷と毛炅は降伏した。脩允は毛炅の処刑を願ったが、陶璜は許可しなかった。ところが毛炅は陶璜の暗殺を企み捕まった。陶璜は拷問の末に毛炅を殺した。
楊稷は護送中に病死した。孟幹(もうかん)ら他の捕虜を孫皓は殺そうとしたが、忠臣であると反対され、取り止めた。しかし孟幹は晋へ逃亡し、その他の捕虜は結局殺された。

交阯の攻略により陶璜は交州刺史に任じられた。

(広州刺史の)滕脩(とうしゅう)ははじめ南方の賊徒に苦戦していたが、陶璜に「賊は呉の塩や鉄に依存しているから、この交易を断てば武器を壊して農具を作り始める。2年後には一戦で討伐できよう」と助言され、勝利を得た。

九真郡で李祚(りそ)が反乱し、陶璜はなかなか城を落とせなかった。配下に李祚の舅の黎晃(れいこう)がいたため、降伏勧告をさせた。だが李祚は「私は晋の、あなたは呉の臣です。ただ力を尽くし職務に従事するだけです」と拒否した。季節が変わるまで城は落ちなかった。
一連の軍功により陶璜は、使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧に任じられた。

武平・九徳・新昌を平定し、九真の異民族も服従させた。孫皓は喜び陶璜を脩允と(交州牧を?)交替させ武昌都督に任じ都に上げたが、交州からの留任を求める声が強く、元の地位に復した。(『晋書 陶璜伝』)

279年、郭馬(かくば)は父祖の代から続いていた軍団の解散に不満を抱き、広州の兵や民衆を扇動して蜂起した。
滕脩が討伐に派遣されたが足止めされたため、孫晧は徐陵督の陶濬に西から攻めさせ、交州牧の陶璜に滕脩・陶濬を援護させようとした。(『孫晧伝』)

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始した。陶濬は武昌まで進んだところでその急報を聞き、晋軍に備えるため広州へは向かわなかった。

280年、孫皓は晋へ降伏した。直筆の書状を陶璜の息子の陶融(とうゆう)に持たせ、交州の陶璜にも降伏を命じた。陶璜は数日にわたり嘆き悲しんだ後、晋の都に印綬を返還した。司馬炎は陶璜にそのまま交州を任せ、宛陵侯に封じ、冠軍将軍に任じた。

三国統一がなり、各地の兵が削減されていくことに危機感を抱き、陶璜は「交州は国土の果てで、延々と山と海が連なっています。范熊(はんゆう)は何世代にも渡る異民族の賊徒で、王を自称し民衆を苦しめています。その他多くの異民族が険阻な土地を頼みに、従いません。私は呉の時代から十余年も統治し、何度も討伐しましたが退治しきれず、戦や疫病で7千余りいた兵は2420人まで減りました。三国統一され、武器を片付け礼節に励む時ですが、交州には義を知る者が少なく、彼らは安寧を嫌います。兵を削減し隙を見せてはいけません。
また合浦郡は土地が痩せており、民は真珠を採って生計を立てています。呉の時代には厳しい規制が敷かれ民は苦しみ、粗悪品が横行しました。上質の真珠は3分の2を、それ以下の物は3分の1を献上するようにし、10月から2月は上質の物が採れませんので、その間に商人を往来させてください」と上奏し、司馬炎は全て聞き入れた。

異民族への対策から民の保護まで、威厳と恩恵ある陶璜の統治は30年に及んだ。病没した時、交州の人々は大声で嘆き悲しみ、まるで愛情深い父親にするように喪に服した。

交州の人々は後任の交州刺史の人事に介入し、やがて陶璜の子の陶威(とうい)が就任した。
歓迎されたが3年で没すると、その弟や子らが世襲していき、陶基を皮切りに4世代で5人の交州刺史を輩出した。
その他の一族も重職を歴任する者が多々いた。(『晋書 陶璜伝』)



陶濬  陶璜の荊州牧の弟


陶濬(とうしゅん)字は不明
揚州丹楊郡秣陵県の人(??~??)

呉の臣。
陶基(とうき)の子。
陶璜(とうこう)の弟。陶抗(とうこう)の兄。

鎮南大将軍・荊州牧に上った。(『晋書 陶璜伝』)

279年、郭馬(かくば)は父祖の代から続いていた軍団の解散に不満を抱き、広州の兵や民衆を扇動して蜂起した。
滕脩(とうしゅう)が討伐に派遣されたが足止めされたため、孫晧は徐陵督の陶濬に西から攻めさせ、交州牧の陶璜に滕脩・陶濬を援護させようとした。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始した。陶濬は武昌まで進んだところでその急報を聞き、晋軍に備えるため広州へは向かわなかった。

280年(2月?)、陶濬は都に戻り「益州から攻めてきた水軍は小船ばかりで、2万の兵と大船をいただければ打ち破れます」と報告した。
節と鉞を授けられ出撃しようとしたが、夜のうちに兵はみな逃亡してしまった。
益州から王濬(おうしゅん)の水軍が迫り、孫皓は弱気にかられ叔父の何植(かしょく)に善後策を求める手紙を送った。その中で「陶濬からの報告では、武昌より西ではもう戦う者もいない。それは物資の不足でも、城の守りが弱いからでもなく、将兵が戦いを放棄してしまったからです。これは私の罪です。天が呉を滅ぼすのではなく私が自ら招いたことです」と述べている。

孫晧は降伏し、呉は滅亡した。(『孫皓伝』)

子の陶湮(とうえん)・陶猷(とうけん)は揃って有名で晋の高位に上った。(『晋書 陶璜伝』)

「演義」でも兵が逃亡してしまい、同僚と数十人の兵だけが残されたとあり、戦死した可能性がある。



陶升  平漢と同一人物?


陶升(とうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

「英雄記」に曰く。
193年(『後漢書 袁紹伝』)、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を破り祝勝会を開いていたが、魏郡で反乱が起き、黒山賊の于毒(うどく)らによって太守の栗成(りつせい)が殺され鄴が陥落したという急報が届き、鄴に家族がいる人々は動揺したが、袁紹は泰然自若としていた。
賊の陶升はもともと魏郡内黄県の下役人を務めていた善良な人物で、城壁を乗り越えて役所に入り込み、袁紹らの家族や官吏を保護して逃走した。袁紹は陶升と合流し建義中郎将に任じ、于毒を包囲し討ち取った。(『袁紹伝』)

陶升は平漢将軍を自称していた。(『後漢書 袁紹伝』)

「ちくま版」は「九州春秋」に記された黄巾の乱に呼応して挙兵した賊の平漢(へいかん)と同一人物としている。(『張燕伝』)



陶商  陶謙の子A


陶商(とうしょう)字は不明
揚州丹陽郡余姚県の人(??~??)

陶謙(とうけん)の子。

陶謙には陶商・陶応(とうおう)の2人の子がいたがともに出仕しなかった。(『陶謙伝』)

「演義」にも名のみ登場。陶謙は「2人の子には任せられない」と劉備に徐州刺史を譲った。



陶融  陶璜に呉の滅亡を知らせた息子


陶融(とうゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。
陶璜(とうこう)の子。

280年、孫皓は晋へ降伏した。直筆の書状を陶融に持たせ、交州の陶璜にも降伏を命じた。陶璜は数日にわたり嘆き悲しんだ後、晋の都に印綬を返還した。司馬炎は陶璜にそのまま交州を任せ、宛陵侯に封じ、冠軍将軍に任じた。

父の没後、兄弟の陶威(とうい)、陶淑(とうしゅく)が相次いで、かつて父が務めた交州刺史に任じられた。(『晋書 陶璜伝』)



董安于


未作成



董允  蜀のご意見番


個別ページへ



董栄  譙周の肖像と頌辞を書かせる


董栄(とうえい)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

「益部耆旧伝」に曰く。
270年、譙周(しょうしゅう)が没すると益州刺史の董栄は肖像を州の学校に描かせ、従事の李通(りつう)に次の頌辞を書かせた。
「礼儀正しき譙侯は古を好み儒学を祖述し、道理を宝とし真実を胸に抱き、世の盛衰を見抜いた。優雅な名声と誉れ高き足跡を全てここに書き記す。我が主君(董栄)は賢者を敬い常に称賛し、過去の賢人を慕い、丹青(赤と青の絵の具)で肖像を描かせた。汝よ後世にてこの鮮やかな肖像を見よ」(『譙周伝』)

「ちくま版」は李密(りみつ)を秀才に推挙した姓不明の刺史・栄を同一人物として索引に載せている。(『楊戯伝』)

  ち1  ち2  ち3  ち4  ち5  ち6  ち7
て1  て2  と1  と2  と3