三国志 と 3


鄧展  曹丕に手合わせで完敗する


鄧展(とうてん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「典論」に曰く。
曹丕は「奮威将軍の鄧展らと酒を飲んでいた時、剣術の話になった。鄧展は5種の武器に精通し、徒手空拳で白刃の中に入れると言われていた。私は鄧展の剣術は間違っていると言い、ちょうど酒が回り酔いざましにサトウキビを食べていたので、サトウキビを剣代わりにして手合わせした。
私はあっという間に彼の肘を3回叩き、私の剣は速すぎて顔には当たりにくいと言った。鄧展がもう一戦したいと願ったので、彼が突きを狙っていると察知し、応じると不用意に前へ出る素振りで突きを誘い、私はそれをかわしつつ彼の額を叩いた。
私は笑いながら、鄧将軍は今までの剣術を捨て去り、改めて立派な教えを受けるべきでしょうと言った」と語った。(『文帝紀』)



鄧当


未作成



鄧銅  後出師表の謎メンバーF


鄧銅(とうどう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

「漢晋春秋」のいわゆる「後出師表」に曰く。
諸葛亮が漢中に駐屯してからわずか1年で趙雲・陽羣(ようぐん)・馬玉(ばぎょく)・閻芝(えんし)・丁立(ていりゅう)・白寿(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)・鄧銅らの将を失った。(『諸葛亮伝』)

「後出師表」は偽作を疑われており、その根拠としてまだ存命のはずの趙雲が死亡したと記されていること、陽羣以下の将が(閻芝を除き)他の史書に一切見えないことが挙げられる。



鄧輔


未作成



鄧方  李恢の前任の庲降都督


鄧方(とうほう)字は孔山(こうざん)
荊州南郡の人(??~222?)

蜀の臣。

荊州従事として劉備の益州侵攻に随行した。
214年、益州が制圧されると犍為郡の属国都尉となり、属国が朱提郡になると朱提太守に任命された。

その後、安遠将軍・庲降都督に上り、南昌県に駐留した。

222年に没した。(『楊戯伝』)

劉備が庲降都督の後任に誰がふさわしいか李恢(りかい)に尋ねると、彼は故事を引き自薦した。劉備も「わしの本心と同じだ」と言い任命した。(※なお鄧方の死はここでは221年と記される)(『李恢伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「強い意志を持ち、まことに立派で厳しく、財を軽んじ果断で、難局に直面してうろたえず、小勢で多勢を防ぎ、異域で鎮撫の仕事を無事に務めた」と評した。

陳寿は事績が残っていないため伝を立てなかったとその注に記した。(『楊戯伝』)



鄧由  王基に偽装投降を見抜かれるA


鄧由(とうゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

261年、呉の鄧由が内応を申し出て、王基(おうき)は進撃するよう命じられたが、疑念を抱き応じないよう進言し、司馬昭もそれに従った。結局、内応しなかった。

「戦略」に詳細が記される。
襄陽太守の胡烈(これつ)は「呉の鄧由・李光(りこう)が内応を申し出て、将の張呉(ちょうご)・鄧生(とうせい)らとともに人質を送ってきました。期日を決めて進撃し協力して呉の屯営を落としたいと存じます」と上奏した。
司馬昭は王基・胡烈に1万の兵を与え許可しようとしたが、王基は地勢を分析し「道は狭く伏兵に襲われればひとたまりもありません。曹爽(そうそう)が蜀を、姜維が魏を攻め、文欽(ぶんきん)が反乱したが全て失敗しました。これらは戒めとすべき最近の出来事です。反乱が相次ぐ今は内を安定させるべきで、外に利益を求めるべきではありません」と反対した。何度も文書をもらい司馬昭も疑念を生じ、進軍を止めさせた。
はたして鄧由らは内応しなかった。(『王基伝』)



鄧颺  曹爽の取り巻き


鄧颺(とうよう)字は玄茂(げんぼう)
荊州南陽郡の人(??~249)

魏の臣。
「曹真伝」に附伝される。

後漢の功臣の末裔。
若くして名声高く、曹叡の代に尚書郎となり洛陽県令に任じられたが、罪を犯し免職された。
後に中郎となり、宮中に入り中書侍郎を兼任した。だが李勝(りしょう)らとともに軽薄に振る舞ったため排斥され二度と登用されなかった。(『鄧颺伝』)

何晏(かあん)・鄧颺・李勝・丁謐(ていひつ)・畢軌(ひつき)らは名声高かったが、曹叡は彼らが上辺だけ華やかで内実は乏しいと見抜き、抑えつけて退けた。(『曹真伝』)

諸葛誕・夏侯玄(かこうげん)・鄧颺らは「四聡八達」を自称し、虚名を嫌う曹叡に憎まれ、後に揃って罷免された。(『盧毓伝』・『諸葛誕伝』)

董昭(とうしょう)は諸葛誕・鄧颺らを「徒党を組んで風紀を乱し、謀叛人よりも罪深い」と上奏したため、曹叡は彼らを罷免した。(『董昭伝』)

だが曹叡が没し曹爽(そうそう)が実権を握ると、彼らは腹心として登用された。

鄧颺らは曹爽の権威と名声を高めるため蜀征伐を唱え、244年、曹爽は蜀に侵攻した。
蜀軍は山を利用し防備を固めていたため攻めあぐね、参軍の楊偉(ようい)は撤退を進言し、鄧颺と口論になり「鄧颺と李勝は国家の大事を担えないから斬るべきだ」と言った。取り巻きを罵倒され曹爽は不快に感じたが結局撤退した。(『曹真伝』)

正始年間(240~249)のはじめに潁川太守に赴任し、大将軍長史、侍中尚書と昇進した。
賄賂を好み、朝廷にいた頃に臧艾(ぞうがい)は、父の妾を鄧颺に差し出して官位を得たため都の人々は「官位を種に女を取り引きした鄧玄茂」と蔑んだ。
鄧颺の推薦する人物はこのような者ばかりで、何晏の官吏選抜が失敗したのも鄧颺に原因があり、彼と付き合った結果の自業自得だった。(『鄧颺伝』)

丁謐は貴族の家柄を嫌って粗略に扱い、位階では並んでいても何晏や鄧颺ら名家の出の者らを侮っていたが、曹爽にだけはへりくだり、曹爽も丁謐を尊敬し彼の意見には必ず従った。人々は何晏・鄧颺・丁謐を三匹の犬にたとえ、何晏・鄧颺は人に噛みつき、丁謐は曹爽の側を離れず癌になると、犬の中では丁謐が最も性質が悪いと評した。(『曹真伝』)

袁亮(えんりょう)は何晏・鄧颺らの人柄を憎み、論説を書いて激しく批判した。(『袁渙伝』)

ある時、圭泰(けいたい)が曹爽に逆らい拘留された。訊問した鄧颺が処刑しようとすると、廷尉の司馬岐(しばき)は彼を「国と王を支えるべき人物が、私怨で無実の人を処罰すれば、民は不安に陥る」と非難した。
鄧颺は恥と怒りから退室し、身の危険を悟った司馬岐は病気を理由に辞職し、1年経たないうちに35歳の若さで没してしまった。(『司馬芝伝』)

王粛は蔣済(しょうせい)・桓範(かんはん)と議論している時、曹爽一派の話になると「こいつら(何晏・鄧颺)は弘恭・石顕(前漢の佞臣)の仲間です。これ以上の説明がいりますか」と激昂した。
曹爽は何晏らに「慎重にあらねばならない。王粛ら高官は諸君を前代の悪人と並べていたぞ」と戒めた。後に理由をつけて王粛は免職させられた。(『王朗伝』)

丁謐・鄧颺らは法律・制度を軽視し改変した。日食が起こると蔣済は「国家の法律制度を作るのは大才の持ち主だけで、中才・小才の役人が改変すれば、全く政治に利益はなく、民の期待を損なうだけです。各自の職責を守らせれば天変地異を招きません」と上奏した。(『蔣済伝』)

傅嘏(ふか)は鄧颺を「仕事はできるが最後までやり通せない。外に名誉と利益を求めるが内にけじめがなく、イエスマンを好み、優れて目立つ人物に嫉妬する」と評し親交を結ばなかった。(『傅嘏伝』)

249年、司馬懿によって曹爽一派が粛清され、鄧颺らも連座して処刑された。(『斉王紀』)

裴徽(はいき)は管輅(かんろ)が都に上ることになると「何晏・鄧颺は国を治める才略を持ち、物事の道理にも精通している。易について質問されるだろうから対策しておくとよい」と勧めたが、管輅は自分の相手にもならないと意に介さなかった。
248年の末、管輅は何晏・鄧颺に招かれ、夢占いをし、謙虚に努めるよう言った。鄧颺は「年寄りの言い草と同じだ」と文句を付け、管輅は「年寄りは生を超えた物を見られ、言い草の中には言葉を超えた深い意味が表れます」と答えた。
管輅が帰ってこのことを話すと、おじは言葉があけすけに過ぎると怒ったが、管輅は「死人と話しているのに何を恐れることがありましょうか」と言った。
10日余り経ち、年明けに曹爽一派は粛清された。

「管輅別伝」には、「鄧颺は筋と骨が離れ、肉を制御できない歩きぶりで、立った姿も手足が無いようで、これを鬼躁(死者の錯乱)という」と死相を見て取っていたことが詳しく記されるが、一方で何晏・鄧颺は管輅の天賦の才を認め、管輅も彼らと語ると精神が活発化し夜も眠くならないと言っており、親密ぶりが記されている。(『管輅伝』)

劉陶(りゅうとう)はかつて鄧颺にもてはやされ、夏侯玄へ「孔子は聖人ではない。なぜなら智者は天下を切り回すもので、(そうしない孔子のような)愚者は球遊びをしているようなもので、天下は取れないのです」と言った。
夏侯玄はあまりに見当外れな言葉に細かく反論する気も起きず「天下の実態は変転して常ならぬ。今に窮地に立った君が見られよう」とだけ言った。
後に曹爽一派が粛清されると劉陶は村の宿舎に引っ込み、失言を謝罪した。(『劉曄伝』)

「漢晋春秋」に曰く、王淩(おうりょう)が曹芳の廃位を企み、子の王広(おうこう)に話すと、「曹爽は驕慢と奢侈で人心を失い、何晏は虚無の説を好んで政治を顧みず、鄧颺・丁謐・畢軌らは人望はあるが世間に張り合うことしか考えていませんでした。彼らは人心を失い、一網打尽にされても誰も哀悼を捧げません。だが司馬懿父子は人心を得ており、簡単には滅ぼせません」と反対されたが、王淩は従わなかった。(※裴松之は他の史書に見えない発言であると創作を疑っている)(『王淩伝』)

257年、反乱した諸葛誕は、夏侯玄・鄧颺ら若い頃から親しくした人物の粛清や、毌丘倹(かんきゅうけん)・王淩らが反乱し滅亡したことに恐怖を抱いていた。(『諸葛誕伝』)

「演義」でも管輅に死相を見抜かれた。



鄧良  鄧芝の子


鄧良(とうりょう)字は不明
荊州義陽郡新野県の人(??~??)

蜀・晋の臣。
鄧芝(とうし)の子。

鄧芝は衣食は支給品だけで済ませ、しかし質素・倹約は考えもせず利殖も図らなかったため妻子は飢えと寒さに苦しんだ。

251年、父が没すると後を継いだ。家には少しの財産もなかった。
景耀年間(258~263)、尚書左選郎となった。(『鄧芝伝』)

263年、魏軍が成都へ迫ると張紹(ちょうしょう)・譙周(しょうしゅう)とともに駙馬都尉の鄧良が降伏の使者を務めた。(『後主伝』)

晋に仕え広漢太守となった。(『鄧芝伝』)



鄧龍


未作成



鄧朗  鄧艾の報われない嫡孫


鄧朗(とうろう)字は不明
荊州義陽郡棘陽県の人(??~??)

晋の臣。
鄧艾の嫡孫。

鄧艾は264年、反乱者の汚名を着せられ処刑され、子も全て連座で殺され妻と孫は西方へ配流された。

267年、段灼(だんしゃく)が名誉回復を願い、273年に鄧朗は郎中に取り立てられた。

「世語」に曰く。
咸寧年間(275~280)、樊震(はんしん)はかつて(※263年)鄧艾のもとで蜀征伐に従軍したことを明かし、鄧艾の忠節を訴え涙を流した。
感じ入った司馬炎は丹水県令に任じられていた鄧朗を定陵県令へ昇進させた。
永嘉年間(307~313)、新都太守に昇進したが、赴任前に襄陽で火事に遭い、母・妻・子・甥とともに焼死した。2人の子だけが無事だった。(『鄧艾伝』)



蹋頓  命を捨て祖国を救う


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竇武


未作成



竇茂  漢中征伐で張郃に敗れた興和の氐王


竇茂(とうぼう)
氐族の人(??~215?)

氐族の王。

215年、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)の征伐に乗り出すと、氐族は抵抗した。
竇茂は1万の兵と険阻な土地を頼みに戦ったが、1月で陥落した。(『武帝紀』)

曹操は漢中攻略にあたり、まず張郃に諸軍を指揮させ、興和の竇茂を討伐させた。(『張郃伝』)



竇礼  高柔が失踪事件の謎を解く


竇礼(とうれい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

曹芳の代、護軍将軍に仕える兵卒の竇礼が外出したまま帰らず、逃亡とみなされ妻の盈(えい)ら家族は奴隷の身分に落とされた。
盈は冤罪を訴えたが聞く耳持たれず、高柔(こうじゅう)に泣きつき「夫は身寄りがなく、世話になった老婆を母として養い、子供をよくかわいがった人で、軽はずみに家族を捨てたりしません」と言った。
高柔は竇礼が誰かに金を貸したか尋ね、同僚の焦子文(しょうしぶん)が借りたまま返さないと聞くと、たまたま別の事件で投獄されていた焦子文を尋問した。
話のついでに「前にも金を奪ったそうだな」と聞くと焦子文は否定したが顔色が変わったのを見逃さず「竇礼から奪ったのに嘘をつくな」と問い詰めると焦子文はしどろもどろになった。高柔は「竇礼を殺したのを白状しろ」と迫り、犯行の一部始終と遺体を埋めた場所を自白させた。
盈ら家族の身分は元に戻り、この事件を戒めとするよう(※安易に決めつけないよう)公布された。(『高柔伝』)



陶丘一  管寧を招聘するも間に合わずA


陶丘一(とうきゅういつ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

241年、太僕の陶丘一や孟観(もうかん)・孫邕(そんよう)・王基(おうき)らの連名で管寧(かんねい)を招聘したが、ちょうどその時に死去した。(『管寧伝』)



陶丘洪  孔融・辺譲と並び称される


陶丘洪(とうきゅうこう)字は不明
青州平原郡の人(??~??)

後漢の臣?

「続漢書」に曰く。
孔融(こうゆう)は陶丘洪・辺譲(へんじょう)と三人並んで俊秀と評価され、若手の代表格だった。見識と政治の才では陶丘洪・辺譲に及ばなかったが、才知と博識さでは上回った。(『崔琰伝』)

同郡の華歆(かきん)も名高く、陶丘洪は華歆より見識があると自認していた。
王芬(おうふん)は霊帝の廃位を計画し、華歆と陶丘洪を抱き込もうとしたが、華歆は「天子の廃位は古の名臣ですら苦労した。王芬は大雑把で武勇がなく、失敗し一族にも災難が降りかかる」と陶丘洪を説得した。予測通りに王芬は失敗し、ようやく陶丘洪は華歆に恐れ入った。(『華歆伝』)

「漢末名士録」に曰く。
袁術は大勢のいる席上で何顒(かぎょう)を批判し「識見ある大先輩で高名明徳な王徳弥(おうとくび)を無視している。貪婪放蕩で不純な許攸(きょゆう)と親しくしている。郭泰(かくたい)・賈彪(かひょう)が貧窮しているのに肥えた馬に乗り道を練り歩いている」と3つの罪を数え上げた。
陶丘洪が「王徳弥は賢者だが世の難事を救う才は無い。許攸は不純だが危難に立ち向かい泥をかぶることを厭わない。何顒は善人の筆頭に王徳弥、危難を救う人物の筆頭に許攸を挙げている。そのうえ何顒は虞偉高(ぐいこう)のために仇討ちした義士だが、その仇は巨万の富を蓄える名士だった。もし何顒が痩せ馬にのって道で引っくり返っていれば、たちまちその仇の配下に殺されるだろう」と反論したが袁術は納得しなかった。
後年、袁術は宗承(そうしょう)に会った時も何顒を殺すと息巻いたが「あなたは英傑を厚遇して評判を天下に轟かせるべきだ」とたしなめられ、ようやく思い留まった。(『荀攸伝』)

劉繇(りゅうよう)を茂才に推挙すると、青州刺史は前年にその兄の劉岱(りゅうたい)を推挙したばかりだといぶかった。
陶丘洪は「もし兄弟を登用すれば、龍や名馬に乗ってはるか遠くまで行くような素晴らしいことです」と答えた。(『劉繇伝』)



東里袞  孫権の野望を見抜く


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禿瑰来


未作成



禿髪樹機能  秦州活性化


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得来  位宮に諫言を受け入れられずハンスト死


得来(とくらい)
高句麗の人(??~??)

高句麗の臣。

正始年間(240~249)、毌丘倹(かんきゅうけん)は1万の兵で高句麗を討伐した。句麗王の位宮(いきゅう)は2万の兵で迎撃したが連敗し、毌丘倹は都を破壊し4桁の捕虜と首級を得た。
沛者(※官位)の得来はたびたび位宮を諌めたが聞き入れられず「この地にはたちまちよもぎが生える(ほど荒廃する)だろう」と言い食事を取らず死に至った。民はこぞって優れた人物と称えた。毌丘倹は得来の墓を荒らさず妻子を捕らえても釈放するよう命じた。
位宮はただひとり妻子を連れて逃亡し、毌丘倹は凱旋した。(『毌丘倹伝』)



徳陽郷主  夏侯尚の不憫な妻


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頓子献  華佗のカルテ―腹上死にご注意


頓子献(とんしけん)字が子献か
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

督郵を務めた頓子献は病気が治り、華佗(かだ)に予後を診てもらうと「まだ精がついておらず本復していない。たとえば奥様と励まれるような疲れの出ることをすれば、舌を数寸出した姿で死ぬでしょう」と忠告された。頓子献はそれを聞かず久々に会った妻と励み、3日後に舌を数寸出した姿で死んだ。(『華佗伝』)

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