鄧颺 曹爽の取り巻き
鄧颺(とうよう)字は玄茂(げんぼう)
荊州南陽郡の人(??~249)
魏の臣。
「曹真伝」に附伝される。
後漢の功臣の末裔。
若くして名声高く、曹叡の代に尚書郎となり洛陽県令に任じられたが、罪を犯し免職された。
後に中郎となり、宮中に入り中書侍郎を兼任した。だが李勝(りしょう)らとともに軽薄に振る舞ったため排斥され二度と登用されなかった。(『鄧颺伝』)
何晏(かあん)・鄧颺・李勝・丁謐(ていひつ)・畢軌(ひつき)らは名声高かったが、曹叡は彼らが上辺だけ華やかで内実は乏しいと見抜き、抑えつけて退けた。(『曹真伝』)
諸葛誕・夏侯玄(かこうげん)・鄧颺らは「四聡八達」を自称し、虚名を嫌う曹叡に憎まれ、後に揃って罷免された。(『盧毓伝』・『諸葛誕伝』)
董昭(とうしょう)は諸葛誕・鄧颺らを「徒党を組んで風紀を乱し、謀叛人よりも罪深い」と上奏したため、曹叡は彼らを罷免した。(『董昭伝』)
だが曹叡が没し曹爽(そうそう)が実権を握ると、彼らは腹心として登用された。
鄧颺らは曹爽の権威と名声を高めるため蜀征伐を唱え、244年、曹爽は蜀に侵攻した。
蜀軍は山を利用し防備を固めていたため攻めあぐね、参軍の楊偉(ようい)は撤退を進言し、鄧颺と口論になり「鄧颺と李勝は国家の大事を担えないから斬るべきだ」と言った。取り巻きを罵倒され曹爽は不快に感じたが結局撤退した。(『曹真伝』)
正始年間(240~249)のはじめに潁川太守に赴任し、大将軍長史、侍中尚書と昇進した。
賄賂を好み、朝廷にいた頃に臧艾(ぞうがい)は、父の妾を鄧颺に差し出して官位を得たため都の人々は「官位を種に女を取り引きした鄧玄茂」と蔑んだ。
鄧颺の推薦する人物はこのような者ばかりで、何晏の官吏選抜が失敗したのも鄧颺に原因があり、彼と付き合った結果の自業自得だった。(『鄧颺伝』)
丁謐は貴族の家柄を嫌って粗略に扱い、位階では並んでいても何晏や鄧颺ら名家の出の者らを侮っていたが、曹爽にだけはへりくだり、曹爽も丁謐を尊敬し彼の意見には必ず従った。人々は何晏・鄧颺・丁謐を三匹の犬にたとえ、何晏・鄧颺は人に噛みつき、丁謐は曹爽の側を離れず癌になると、犬の中では丁謐が最も性質が悪いと評した。(『曹真伝』)
袁亮(えんりょう)は何晏・鄧颺らの人柄を憎み、論説を書いて激しく批判した。(『袁渙伝』)
ある時、圭泰(けいたい)が曹爽に逆らい拘留された。訊問した鄧颺が処刑しようとすると、廷尉の司馬岐(しばき)は彼を「国と王を支えるべき人物が、私怨で無実の人を処罰すれば、民は不安に陥る」と非難した。
鄧颺は恥と怒りから退室し、身の危険を悟った司馬岐は病気を理由に辞職し、1年経たないうちに35歳の若さで没してしまった。(『司馬芝伝』)
王粛は蔣済(しょうせい)・桓範(かんはん)と議論している時、曹爽一派の話になると「こいつら(何晏・鄧颺)は弘恭・石顕(前漢の佞臣)の仲間です。これ以上の説明がいりますか」と激昂した。
曹爽は何晏らに「慎重にあらねばならない。王粛ら高官は諸君を前代の悪人と並べていたぞ」と戒めた。後に理由をつけて王粛は免職させられた。(『王朗伝』)
丁謐・鄧颺らは法律・制度を軽視し改変した。日食が起こると蔣済は「国家の法律制度を作るのは大才の持ち主だけで、中才・小才の役人が改変すれば、全く政治に利益はなく、民の期待を損なうだけです。各自の職責を守らせれば天変地異を招きません」と上奏した。(『蔣済伝』)
傅嘏(ふか)は鄧颺を「仕事はできるが最後までやり通せない。外に名誉と利益を求めるが内にけじめがなく、イエスマンを好み、優れて目立つ人物に嫉妬する」と評し親交を結ばなかった。(『傅嘏伝』)
249年、司馬懿によって曹爽一派が粛清され、鄧颺らも連座して処刑された。(『斉王紀』)
裴徽(はいき)は管輅(かんろ)が都に上ることになると「何晏・鄧颺は国を治める才略を持ち、物事の道理にも精通している。易について質問されるだろうから対策しておくとよい」と勧めたが、管輅は自分の相手にもならないと意に介さなかった。
248年の末、管輅は何晏・鄧颺に招かれ、夢占いをし、謙虚に努めるよう言った。鄧颺は「年寄りの言い草と同じだ」と文句を付け、管輅は「年寄りは生を超えた物を見られ、言い草の中には言葉を超えた深い意味が表れます」と答えた。
管輅が帰ってこのことを話すと、おじは言葉があけすけに過ぎると怒ったが、管輅は「死人と話しているのに何を恐れることがありましょうか」と言った。
10日余り経ち、年明けに曹爽一派は粛清された。
「管輅別伝」には、「鄧颺は筋と骨が離れ、肉を制御できない歩きぶりで、立った姿も手足が無いようで、これを鬼躁(死者の錯乱)という」と死相を見て取っていたことが詳しく記されるが、一方で何晏・鄧颺は管輅の天賦の才を認め、管輅も彼らと語ると精神が活発化し夜も眠くならないと言っており、親密ぶりが記されている。(『管輅伝』)
劉陶(りゅうとう)はかつて鄧颺にもてはやされ、夏侯玄へ「孔子は聖人ではない。なぜなら智者は天下を切り回すもので、(そうしない孔子のような)愚者は球遊びをしているようなもので、天下は取れないのです」と言った。
夏侯玄はあまりに見当外れな言葉に細かく反論する気も起きず「天下の実態は変転して常ならぬ。今に窮地に立った君が見られよう」とだけ言った。
後に曹爽一派が粛清されると劉陶は村の宿舎に引っ込み、失言を謝罪した。(『劉曄伝』)
「漢晋春秋」に曰く、王淩(おうりょう)が曹芳の廃位を企み、子の王広(おうこう)に話すと、「曹爽は驕慢と奢侈で人心を失い、何晏は虚無の説を好んで政治を顧みず、鄧颺・丁謐・畢軌らは人望はあるが世間に張り合うことしか考えていませんでした。彼らは人心を失い、一網打尽にされても誰も哀悼を捧げません。だが司馬懿父子は人心を得ており、簡単には滅ぼせません」と反対されたが、王淩は従わなかった。(※裴松之は他の史書に見えない発言であると創作を疑っている)(『王淩伝』)
257年、反乱した諸葛誕は、夏侯玄・鄧颺ら若い頃から親しくした人物の粛清や、毌丘倹(かんきゅうけん)・王淩らが反乱し滅亡したことに恐怖を抱いていた。(『諸葛誕伝』)
「演義」でも管輅に死相を見抜かれた。
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