虞松 司馬師の懐刀
虞松(ぐしょう)字は叔茂(しゅくぼう)
豫州陳留郡の人(219?~??)
魏の臣。
辺譲(へんじょう)の孫。
20歳の時、司馬懿に才能を認められ、遼東征伐(238年)に従軍した。檄文や布告を作成し、帰国すると20歳で掾に招かれた。
やがて中書郎に上り、郡太守も務めた。(『鍾会伝』)
鄭黙(ていもく)は古典を研究し、原典と後世に加筆された部分を仕分けし、虞松に評価された。(『晋書 鄭黙伝』)
「世語」に曰く。
虞松は司馬師に命じられ上奏文を書いたが、2度ボツを出された。まだ無名の頃の鍾会は疲弊した様子に気づき、話を聞くと5字を修正してやった。
司馬師は満足するとともに誰かが修正したと気づき、これほどの人物なら大事を任せられると言い、虞松は鍾会を推挙した。
※ただし裴松之は「鍾会は名家の子弟で20歳で出仕しており、無名なわけがないし、たった5字の修正を見て何がわかるのか」と全否定している。(『鍾会伝』)
252年、司馬師は大将軍になった。
当時、謀略は傅嘏(ふか)と虞松が担当した。(『晋書 景帝紀』)
253年、呉・蜀が同時に魏へ攻め寄せた。司馬師が対策を尋ねると「事の強弱をよく観察して確かめます。呉の諸葛恪(しょかつかく)は精鋭を連れているのに、城を包囲したまま動きません。これは我々を引き寄せて決戦に持ち込もうと考えているのです。城を落とせず決戦もできなければ疲弊していきます。
蜀の姜維は兵站が弱く、我々から奪おうと考え、また呉軍に総力を注いでいると思っています。不意を突けば崩せます」と虞松は答えた。
司馬師は郭淮・陳泰(ちんたい)に蜀軍を襲わせ、毌丘倹(かんきゅうけん)に呉軍の防衛を命じた。姜維は魏軍が迫ると兵站の不安から撤退し、諸葛恪も城を落とせず撤退し、全て虞松の言う通りになった。(『斉王紀』)
256年2月、曹髦は中書令の虞松らを宴に招き、古代の帝王らの優劣について議論した。曹髦は夏王朝の少康は過小評価されていると言い、その功績を挙げ、人々を納得させた。
虞松は酒の席の話だけではなく、文章に残すべきだと勧めた。曹髦は謙遜し遠慮したが結局、鍾会がまとめ上げた。(『高貴郷公紀』)
子の虞濬(ぐしゅん)は晋の廷尉に上った。(『鍾会伝』)
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