虞溥 「江表伝」の著者
虞溥(ぐふ)字は允源(いんげん) 兗州高平郡昌邑県の人(??~??)
晋の臣。
父の虞秘(ぐひ)は偏将軍として隴西に赴任し、虞溥もその官舎に住み典籍を学んだ。
国境ではたびたび軍の訓練が行われ、人々は争うように見物したが虞溥は一度も関心を持たなかった。
郡に孝廉に推挙され、尚書都令史となった。衛瓘(えいかん)・褚䂮(ちょけい)に器量を認められた。衛瓘に五等爵の制度の復活を訴え、衛瓘も「歴代に渡りそれを嘆いてきたがいまだ実現しない」と言った。(※265年に実現した)
公車司馬令に移り、鄱陽内史に任じられた。学校を整備し生徒を招き、属県に学問を奨励した。
細かく学校制度を作り700人の学生を集めた。以下、学生への訓戒に曰く。
「学問は大業を成し徳を立てることの基礎である。聖人の道は淡白ではじめは好まれないが、年月を重ねると視野が広がり知識が増え、毎日のように新たな見聞を得られる。やがて心が開かれて思考が明らかとなり、学業を敬って教え合い、薫陶を受けた自覚がなくとも道の極致に至る。ゆえに学問は絵の具よりも人を染める。絵の具は時が経てば色褪せるが学問が抜けることはない。
職人が布を染める時にはまず下地を整えてから色を塗る。学問にも下地はあり孝悌忠信がこれにあたる。君子は内面で心を正しくし、外面で適切に行う。そうして下地が整ったら文章を学び、華やかさと質朴さが釣り合えば徳となる。学問とは本来、才能が及ばないことではなく志が立たないことを心配するものだ。ゆえに駿馬になりたいと思った馬は既に駿馬であり、顔回(孔子の高弟)になりたいと思った者は既に顔回のともがらである。切るのをやめれば朽木さえ倒せないが、切り続ければ金も石も欠けさせられる。これが学問の力である。
学生らは典籍を口ずさみ、体は学校になじんでいる。3年も経てば一定の成果が出るだろう。そして名が広く伝わり声望が日々上がるだろう。朋友は喜んで交際を求め、朝廷の士は敬って感服する。やがて州府から次々と召されて仕官することになる。素晴らしいことだ。美を隠して飾り付け、筆を振るってさすらい、政務について記し、真理を探求すれば楊雄・班固も筆を片付け、董仲舒(いずれも古代の大学者)も口ごもる。ただしこれは才能ある者にだけ可能で凡人にはできない。しかし水をすくい続ければ河となり、塵を積み重ねれば山となる。志も努力もなく達成することはできない。学生らは世俗から離れ、学問にだけ専心し、一つずつ着実に重ね、少しずつ進めていけば、早い遅い、先か後かの違いはあっても、道は遠くとも必ず届くはずだ」
祭酒のために儀礼場を建てるべきだと議論されたが、虞溥は故事を引き「君子が行うために定まった場所はない。ゆえに孔子は野原や樹の下で弟子に教えた。まして学校は広く大きく新たに立てる必要はない」と反対した。
虞溥の政治は厳格だったが苛烈ではなく、教化が大いに行われ白鳥(清い政治の象徴)が庭に集まるほどだった。
「春秋」に注釈を付け、「江表伝」ら数十篇を著した。 洛陽で没した。享年62。
子の虞勃(ぐぼつ)は(西晋の滅亡後に)「江表伝」を司馬睿に献上し収蔵された。
「江表伝」は裴松之も非常に多く引用している。(『晋書 虞溥伝』)
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