三国志 く


禺婉  郭太后に殺された曹芳の側室B


禺婉(ぐえん)字は不明
出身地不明(??~??)

曹芳の側室。

「王沈魏書」に曰く。
司馬師らは曹芳の廃位を求める上奏の中で「郭懐(かくかい)・袁信(えんしん)らつまらぬ役者を宮殿に引き入れ、全裸で保林の女尚(じょしょう)らと乱交させた。妖婦の恰好をさせて悪ふざけさせたり、親族の女性と酒席で乱交させた。
保林の李華(りか)・劉勲(りゅうくん)ともいちゃつき、清商令(※女官長)の令狐景(れいこけい)が叱りつけると、李華・劉勲は曹芳に言いつけ、曹芳はハジキ(※弾棊に使うスティック?)で令狐景の頭や目を殴り、なおもひるまず諫言されると鉄を熱して全身を焼いた。
(251年、)甄皇后(しんこうごう)が没すると曹芳は寵愛する王貴人(おうきじん)を立后しようとしたが、郭太后は外部から探そうとしたため、曹芳は令狐景に「魏の王室(※曹操・曹丕・曹叡)は全て愛情で皇后を選んだではないか」と立腹し、郭太后が選んだ張皇后(ちょうこうごう)を疎んじた。
郃陽君(こうようくん ※郭太后の母の杜氏)が没しても喪に服さず、清商丞の龐煕(ほうき)が「郭太后は飲み物も喉を通らないほど悲しまれており、陛下は慰めに行くべきなのに遊び呆けているのはよろしくありません」と諫言したが「私は自然に振る舞っているだけで誰にもどうこうできない」と聞かなかったため郭太后が怒って曹芳のお気に入りの張美人(ちょうびじん)と禺婉を殺すと「母子の縁を切る」と宣言した。
令狐景・龐煕は迫害された末に恐れからこびへつらうようになった」と弾劾した。(『斉王紀』)



苦蝤  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


苦蝤(くしゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、苦蝤ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。(『張燕伝』)



虞偉高  何顒に父の仇討ちを託した友人


虞偉高(ぐいこう)字が偉高か
出身地不明(??~??)

何顒(かぎょう)の友人。

父の仇を討てないまま病で危篤になり、何顒に代わりに仇討ちをしてくれるよう泣いて訴えた。何顒はその義に感じ入って仇を殺し、その首を虞偉高の墓に供えた。(『後漢書 何顒伝』)

「漢末名士録」に曰く。
何顒が袁術に「貧窮した者を無視し、肥えた馬に乗り道を練り歩いている」と非難されると、陶丘洪(とうきゅうこう)は「何顒は虞偉高のために仇討ちした義士だが、その仇は巨万の富を蓄える名士だった。もし何顒が痩せ馬にのって道で引っくり返っていれば、たちまちその仇の配下に殺されるだろう」と反論した。(『荀攸伝』)



虞永賢  許劭に推挙された6人の賢者B


虞永賢(ぐえいけん)字が永賢か
豫州汝南郡の人?(??~??)

素性不明。

「汝南先賢伝」に曰く。
牧童をしていた。
許劭(きょしょう)は樊子昭(はんししょう)・虞永賢・李淑才(りしゅくさい)・郭子瑜(かくしゆ)・楊孝祖(ようこうそ)・和洽(かこう)ら6人の賢者を推挙した。6人には及ばないが、伸び悩んでいたり子供の頃に許劭に評価されて名を上げた者は数え切れないほど多かった。
見せかけの品行を暴き、虚偽の名声を抑えつけたのは周の単襄公さえ問題にならないほどだった。(『和洽伝』)



虞喜


未作成



虞欽  孫権暗殺を企んだ馬茂の一味B


虞欽(ぐきん)字は不明
出身地不明(??~245)

呉の臣。

「呉歴」に曰く。
魏の鍾離県長だった馬茂(ばぼう)は王淩(おうりょう)に反目し呉へ寝返った。征西将軍・九江太守・外部督に任じるとともに列侯され1千の兵を与えられた。
だが245年、兼符節令の朱貞(しゅてい)・無難督の虞欽・牙門将の朱志(しゅし)らと結託し、孫権を暗殺し魏へ復帰しようと企んだ。
射的の大会に際し孫権が御苑に入ったところで門を封鎖し、朱貞が詔勅と称して参加者を捕らえる。そして馬茂が孫権を殺し、宮中と砦に分かれて立て籠もり、魏へ報告して援軍を待つ作戦だったが、事前に露見し関わった者は全て一族皆殺しとなった。(『呉主伝』)



虞歆


未作成



虞察  虞聳にぼやかれる


虞察(ぐさつ)字は不明
揚州会稽郡余姚県の人(??~??)

呉・晋の臣。
虞翻(ぐほん)の一族。

「会稽典録」に曰く。
虞聳(ぐしょう)は無名で後ろ盾のない身分の低い者を推挙するのを好んだ。
王岐(おうき)は「優れた人物は必ず人々に抜きん出て異彩を放つから、無名の者に有能な者などいない」と批判した。
虞聳は一族の後輩の虞察に「今の世は無名の人材を発掘せず、人々が称賛するのはすでに高く評価された者だけ、けなすのは悪評を得た者だけでつくづく残念だ」とぼやいた。
(※王岐も低い身分だったが、虞聳の兄に立場を超えて親しくされた経緯があるのに、完全に自分を棚に上げたしょうもない批判である)(『虞翻伝』)



虞氏  曹叡の正室(初代)


虞氏(ぐし)名は不明
司隷河内郡の人(??~??)

魏の二代皇帝・曹叡の最初の正室。

黄初年間(220~226)に後の毛皇后(もうこうごう)が曹叡の側室となると、虞氏は冷遇され、皇后にも立てられなかった。
義母の卞太后(べんたいこう)がそれを慰めると、虞氏は「曹氏の男は身分の卑しい女ばかり皇后に立て、道理を重んじない。皇后が内を、皇帝が外を取り仕切り王業を成就させるのに、皇后も立てず最初をおろそかにして、結末が良かった試しはない。必ずや国を滅ぼすでしょう」と暴言を吐いた。
曹叡の耳に届くと当然ながら正室から廃され、毛皇后が立てられた。(『明悼毛皇后伝』)

曹操は歌妓の卞氏を、曹丕と曹叡は身分の低い郭皇后(かくこうごう)、毛氏らを皇后にしており、それをあてこすったことから虞氏は名家のお嬢様と思われる。
他ならぬ卞太后に直接こんな暴言を吐く虞氏の性格にこそ、冷遇された理由があるだろう。



虞汜  交阯を攻略した虞翻の四男


虞汜(ぐし)字は世洪(せいこう)
揚州会稽郡余姚県の人(218~271?)

呉の臣。
虞翻(ぐほん)の四男。
「虞翻伝」に附伝される。

十一人兄弟の中で最も名を知られた。
父は孫権の勘気に触れ交州に流されたため、南海郡で生まれた。
233年、16歳の時に父が没すると帰郷を許された。

258年、専権を振るう孫綝(そんちん)は孫亮を廃位し、次期皇帝に孫休を招いておきながら、到着前に自ら帝位につこうとし、百官に意見を求めた。誰もが孫綝を恐れて同意するなか、虞汜は「あなたが御威光をもって主君の廃位・即位を決めるのは、上は祖先の、下は万民のためであり、全ての人々は古の名宰相が再び生まれたのだと考えています。しかし孫休様を招いておきながら自ら帝位につけば、臣下は動揺しあらぬ誤解が広まります」と反対した。
孫綝は不愉快そうだったが、結局は孫休が即位した。
虞汜は選曹郎から散騎中常侍となった。(『虞翻伝』)
駙馬都尉も加官され、王蕃(おうはん)・賀邵(がしょう)・薛瑩(せつえい)も同様に任命されたこの人選は大いに称賛された。(『王蕃伝』)

268年、呉の前部督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
南中監軍の霍弋(かくよく)は、益州から毛炅(もうけい)らと大軍を率いて迎撃し、脩則と劉俊を討ち取った。(『晋書 陶璜伝』)

翌269年、呉は監軍の虞汜や薛珝(せつく)、陶璜(とうこう)に荊州から、李勗(りきょく)、徐存(じょそん)に海路から交阯を攻めさせた。

271年、虞汜と陶璜は交阯を陥落させ、晋に奪われた九真・日南郡も奪回した。
虞汜は監軍使者として扶厳を討伐し、その功により交州刺史に任じられ、冠軍将軍・余姚侯となったが間もなく病没した。(『孫晧伝』・『虞翻伝』)



虞咨  賀達とともに使者を護衛


虞咨(ぐし)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

232年、呉は海路から遼東の公孫淵(こうそんえん)のもとへ張弥(ちょうび)、許晏(きょあん)、賀達(がたつ)ら1万の兵を送り、燕王の位を授けようとした。(『呉主伝』)

一方で公孫淵は魏とも通じており、遠方の呉は当てにならないと考え、233年、呉の使者の張弥、許晏らを殺し、魏へ首を送り恭順の意を示した。

虞咨(ぐし)は賀達とともに船を守っていたため無事だった。
公孫淵は伏兵を潜ませ、柳遠(りゅうえん)に出迎えさせ、交易をしようと持ちかけた。賀達らは異変を察知し、商人だけを船から下ろそうとしたが、伏兵の韓起(かんき)に襲われ、被害を受けた。(『公孫淵伝』)

その後の消息は不明だが、少なくとも賀達は無事に帰国したようである。(『賀斉伝』)



虞授  郭馬の乱で殺された広州督


虞授(ぐじゅ)字は不明
出身地不明(??~279)

呉の臣。

279年、郭馬(かくば)は父祖の代から続いていた軍団の解散に不満を抱き、広州の兵や民衆を扇動して蜂起し、広州督の虞授を殺し、各地へ侵攻した。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始し、内外から攻められた呉は翌年に滅亡した。(『孫晧伝』)



虞俊


未作成



虞濬  虞松の子


虞濬(ぐしゅん)字は顕弘(けんこう)
豫州陳留郡の人(??~??)

晋の臣。
虞松(ぐしょう)の子。

「世語」に曰く、廷尉に上った。(『鍾会伝』)



虞松  司馬師の懐刀


虞松(ぐしょう)字は叔茂(しゅくぼう)
豫州陳留郡の人(219?~??)

魏の臣。
辺譲(へんじょう)の孫。

20歳の時、司馬懿に才能を認められ、遼東征伐(238年)に従軍した。檄文や布告を作成し、帰国すると20歳で掾に招かれた。
やがて中書郎に上り、郡太守も務めた。(『鍾会伝』)

鄭黙(ていもく)は古典を研究し、原典と後世に加筆された部分を仕分けし、虞松に評価された。(『晋書 鄭黙伝』)

「世語」に曰く。
虞松は司馬師に命じられ上奏文を書いたが、2度ボツを出された。まだ無名の頃の鍾会は疲弊した様子に気づき、話を聞くと5字を修正してやった。
司馬師は満足するとともに誰かが修正したと気づき、これほどの人物なら大事を任せられると言い、虞松は鍾会を推挙した。
※ただし裴松之は「鍾会は名家の子弟で20歳で出仕しており、無名なわけがないし、たった5字の修正を見て何がわかるのか」と全否定している。(『鍾会伝』)

252年、司馬師は大将軍になった。
当時、謀略は傅嘏(ふか)と虞松が担当した。(『晋書 景帝紀』)

253年、呉・蜀が同時に魏へ攻め寄せた。司馬師が対策を尋ねると「事の強弱をよく観察して確かめます。呉の諸葛恪(しょかつかく)は精鋭を連れているのに、城を包囲したまま動きません。これは我々を引き寄せて決戦に持ち込もうと考えているのです。城を落とせず決戦もできなければ疲弊していきます。
蜀の姜維は兵站が弱く、我々から奪おうと考え、また呉軍に総力を注いでいると思っています。不意を突けば崩せます」と虞松は答えた。
司馬師は郭淮・陳泰(ちんたい)に蜀軍を襲わせ、毌丘倹(かんきゅうけん)に呉軍の防衛を命じた。姜維は魏軍が迫ると兵站の不安から撤退し、諸葛恪も城を落とせず撤退し、全て虞松の言う通りになった。(『斉王紀』)

256年2月、曹髦は中書令の虞松らを宴に招き、古代の帝王らの優劣について議論した。曹髦は夏王朝の少康は過小評価されていると言い、その功績を挙げ、人々を納得させた。
虞松は酒の席の話だけではなく、文章に残すべきだと勧めた。曹髦は謙遜し遠慮したが結局、鍾会がまとめ上げた。(『高貴郷公紀』)

子の虞濬(ぐしゅん)は晋の廷尉に上った。(『鍾会伝』)



虞翔


未作成



虞聳  虞翻の六男


虞聳(ぐしょう)字は世龍(せいりょう)
揚州会稽郡余姚県の人(??~??)

呉・晋の臣。
虞翻(ぐほん)の六男。
「虞翻伝」に附伝される。

越騎校尉から廷尉に上り、湘東太守・河間太守を務めた。(『虞翻伝』)

「会稽典録」に曰く。
淡泊で物事に執着せず、行動は礼にかなっていた。

呉の朝廷で清官(名誉職)を歴任し、滅亡後は晋の朝廷に仕え、河間国相に任じられた。
河間王はかねてから虞聳の名声を聞き及んでおり、厚遇した。

無名で後ろ盾のない身分の低い者を推挙するのを好んだ。
王岐(おうき)は「優れた人物は必ず人々に抜きん出て異彩を放つから、無名の者に有能な者などいない」と批判した。
虞聳は一族の後輩の虞察(ぐさつ)に「今の世は無名の人材を発掘せず、人々が称賛するのはすでに高く評価された者だけ、けなすのは悪評を得た者だけでつくづく残念だ」とぼやいた。
(※王岐も低い身分だったが、虞聳の兄に立場を超えて親しくされた経緯があるのに、完全に自分を棚に上げたしょうもない批判である)

また葬儀や祭祀が際限なく盛大になっていくのを苦々しく思っていたため、弟の虞昺(ぐへい)が没すると、肉と酒と飯を捧げただけで済ませた。一族は模範とし以後それにならった。(『虞聳伝』)



虞譚  虞忠の子


虞譚(ぐたん)字は思奥(しおう)
揚州会稽郡余姚県の人(??~??)

呉・晋の臣。
虞忠(ぐちゅう)の子。
虞翻(ぐほん)の孫。

「晋陽秋」に曰く。
清廉で正しい道を貫き節操があり、人の下手に出て弱々しく見えるが、心中には正しい道を守り通す気概があり、事をやり遂げる胆力と才幹があった。

父は呉に仕え、280年に晋の侵攻により戦死した。
虞譚は晋に仕え、中央や地方の官を歴任し、衛将軍まで上った。
死後に侍中・左光禄大夫・開府儀同三司を追贈された。(『虞翻伝』)



虞忠  虞翻の五男


虞忠(ぐちゅう)字は世方(せいほう)
揚州会稽郡余姚県の人(??~280)

呉の臣。
虞翻(ぐほん)の五男。
「虞翻伝」に附伝される。

「会稽典録」に曰く。
節操と実行力があり、人物鑑定に優れ、幼い頃の陸機(りくき)や無名の頃の魏遷(ぎせん)を高く評価した。
同県出身の王岐(おうき)は家柄が低かったが、虞忠は親しく付き合い、先に王岐が宜都太守となり、虞忠がその後任となった。

280年、晋が呉へ侵攻すると、陸晏(りくあん)・陸景(りくけい)兄弟とともに宜都城を守り、降伏せず城と運命をともにし戦死した。(『虞忠伝』)

一方で「晋書」には、「王濬(おうしゅん)は西陵で勝利し虞忠を、荊門城・夷道城を落とし陸晏を、楽郷で勝利し陸景を捕虜にした」とあり経緯が異なる。(『晋書 王濬伝』)

子の虞譚(ぐたん)は晋に仕え衛将軍まで上った。(『虞忠伝』)



虞昺  虞翻の八男


虞昺(ぐへい)字は世文(せいぶん)
揚州会稽郡余姚県の人(??~??)

呉・晋の臣。
虞翻(ぐほん)の八男。
「虞翻伝」に附伝される。

廷尉尚書、済陰太守を務めた。(『虞翻伝』)

「会稽典録」に曰く。
若い頃から俗事にかまけず、大きな気概を備えていた。
呉の朝廷に仕えて黄門郎となり、主君の下問に的確に応答して才を認められ、抜群の昇進で尚書侍郎に上った。

280年、晋が呉へ侵攻すると、持節を授かり武昌から上流地域の軍を指揮した。
しかし戦線は崩壊し、預かった節と蓋(傘)と印綬を朝廷へ返還した後に晋へ降伏した。

晋では済陰太守に任じられ、当地の権力者の横暴を抑え、弱い者の後ろ盾となり、威風は知れ渡った。

没すると兄の虞聳(ぐしょう)は葬儀や祭祀が際限なく盛大になっていくのを苦々しく思っていたため、虞昺の葬儀を肉と酒と飯を捧げただけで済ませた。一族は模範とし以後それにならった。(『虞昺伝』)



虞溥


未作成



虞褒  朱符のお友達A


虞褒(ぐほう)字は不明
揚州会稽郡の人(??~??)

後漢の臣。

朱符(しゅふ)は交州刺史に赴任すると、同郷の虞褒・劉彦(りゅうげん)らを各地の長官に任じ、民を迫害して重税を課し私腹を肥やした。
民は怒って蜂起し、山越とともに役所を攻撃した。朱符は船で海へ逃げたが、逃亡中に没した。(『薛綜伝』)

虞褒・劉彦のその後は不明だが無事では済まなかったろう。
また虞褒は間違いなく虞翻(ぐほん)の一族と思われる。



虞翻  正直すぎた男


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瞿恭  李通に敗れた陽安郡の賊徒A


瞿恭(くきょう)字は不明
豫州陽安郡の人?(??~200)

賊徒。

200年、曹操は豫州汝南郡の2県を割き、陽安郡を設置すると李通(りつう)を都尉(太守代行)に任じた。
李通は郡内の賊徒の瞿恭・江宮(こうきゅう)・沈成(しんせい)を撃破し首を曹操へ送った。(『李通伝』)



屈幹  屈晃の弟A


屈幹(くつかん)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

呉の臣。
屈晃(くつこう)の弟。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と屈晃は、顔に泥を塗り自らを縛って、宮門の前で孫権へ考え直すよう訴えた。
孫権はそれを酷く不快に思い、軽率な真似をするなと戒めたが彼らは諫言をやめず、孫権はいよいよ激昂し、屈晃を百叩きの上追放し郷里に帰らせた。

264年、孫和の子の孫皓が即位すると「屈晃は社稷を正そうと真心から諫言したゆえに身を滅ぼした」と賞し、子の屈緒(くつしょ)を列侯し、弟の屈幹、屈恭(くつきょう)らを立義都尉に任じた。(『孫和伝』)



屈恭  屈晃の弟B


屈恭(くつきょう)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

呉の臣。
屈晃(くつこう)の弟。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と屈晃は、顔に泥を塗り自らを縛って、宮門の前で孫権へ考え直すよう訴えた。
孫権はそれを酷く不快に思い、軽率な真似をするなと戒めたが彼らは諫言をやめず、孫権はいよいよ激昂し、屈晃を百叩きの上追放し郷里に帰らせた。

264年、孫和の子の孫皓が即位すると「屈晃は社稷を正そうと真心から諫言したゆえに身を滅ぼした」と賞し、子の屈緒(くつしょ)を列侯し、弟の屈幹(くつかん)、屈恭らを立義都尉に任じた。(『孫和伝』)



屈晃  二宮の変に猛抗議


屈晃(くつこう)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

呉の臣。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と尚書僕射の屈晃は、顔に泥を塗り自らを縛って、宮門の前で孫権へ考え直すよう訴えた。
孫権はそれを酷く不快に思い、軽率な真似をするなと戒めたが彼らは諫言をやめず、孫権はいよいよ激昂し、諫言する陳正(ちんせい)、陳象(ちんしょう)、張純(ちょうじゅん)らを処刑し、朱拠と屈晃を殿中に引きずり込ませた。
屈晃の気迫はいささかも衰えず「太子(孫和)が仁愛にして聡明なことは誰もが知っています。三国鼎立した今、太子を変えて人心に疑惑や動揺を与えるようなことは決してなさらないでください。そうしていただければ私は死んでも何も思い残すことはありません」と直接諌めたが、孫権は聞き入れず、百叩きさせ、追放し郷里に帰らせた。(『孫和伝』)
朱拠も左遷され、詔勅を偽造した孫弘(そんこう)によって殺された。(『朱拠伝』)

264年、孫和の子の孫皓が即位すると「屈晃は社稷を正そうと真心から諫言したゆえに身を滅ぼした」と賞し、子の屈緒(くつしょ)を列侯し、弟の屈幹(くつかん)、屈恭(くつきょう)らを任官させた。
屈緒は父と同じ尚書僕射にまで上った。

同郷の胡沖(こちゅう)は「問答」を著し、その中に屈晃の事績が見えるという。(『孫和伝』)



屈緒


未作成



屈𩑺  毌丘倹の謀臣?


屈𩑺(くつぜん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣?

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱すると、司馬師は屈𩑺がどこにいるか尋ね、「彼が行かなければ何もできまい」と言った。
反乱は失敗し毌丘倹は討たれた。(『毌丘倹伝』)

記述はそれだけで何者なのかわからない。文意からは毌丘倹の子の毌丘甸(かんきゅうでん)を指しているようにも読める。毌丘甸の別名か、現代には名の伝わらなかった前代の謀臣が比喩に出されたのだろうか。

か1  か2  か3  か4  か5  か6  き1  き2
く  け1  け2  こ1  こ2  こ3  こ4  こ5