三国志 こ 1


五梁  諸葛亮に徳望で抜擢される


五梁(ごりょう)字は徳山(とくざん)
益州犍為郡南安県の人(??~??)

蜀の臣。

224年、諸葛亮は益州牧となると属官に抜擢したのは全て以前から徳望の高い者だった。
五梁は功曹に任じられた。

儒学と節操で評判を取り、議郎から諫議大夫・五官中郎将に昇進した。(『杜微伝』)



五鹿  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


五鹿(ごろく)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、五鹿ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。(『張燕伝』)



古朴  夏侯簒の功曹


古朴(こぼく)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

214年、劉備が益州を制圧した後に、秦宓(しんふく)は広漢太守の夏侯簒(かこうさん)に師友祭酒に招聘され、五官掾を兼務し仲父(※管仲にちなんだ尊称)と呼ばれた。
病と称して寝込んでいると、夏侯簒は功曹の古朴・主簿の王普(おうふ)を連れて見舞いし、寝たままの秦宓の前で食事を広げ歓談した。
夏侯簒が「益州は他州を引き離すほど産出物が豊かだが、人材はどうだ」と古朴に尋ねると、彼は厳君平・揚雄・司馬相如の名を挙げた。
夏侯簒が「仲父は(彼らと比べて)どうだ」と聞くと、秦宓は割り込み「どうか私のような田舎者を仲父と呼ばないでください。あなたのために益州について論じると、肥沃な土地で、禹王が生まれ、天帝が政策を占う星座に位置し、三皇が出発した土地です。これらを他州と比べてどう思われますか」と聞き返し、夏侯簒は返す言葉もなかった。(『秦宓伝』)



伍延


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伍瓊  周毖の相方


伍瓊(ごけい)字は徳瑜(とくゆ)
豫州汝南郡の人(??~190)

後漢の臣。
同郡出身で字(徳瑜)まで同じ伍孚(ごふ)という人物がおり、裴松之は同一人物かと推測している。(『董卓伝』)
だが死の経緯が全く異なっており、別人として記す。

董卓は少帝を廃そうと考え、袁紹に相談したが逃げられた。
周毖(しゅうひ)・城門校尉の伍瓊・何顒(かぎょう)らは裏で袁紹と内通していたため「袁紹は廃位という大事に関わるのを恐れただけです。下手に賞金首にして刺激すれば、代々の名家の袁氏は多くの味方を集めて挙兵するでしょう」と警告した。
董卓は袁紹を勃海太守に任じ、列侯して恩を売った。(『袁紹伝』)

董卓に人事を任された周毖や城門校尉の伍瓊は、韓馥(かんふく)、劉岱(りゅうたい)、孔伷(こうちゅう)、張咨(ちょうし)、張邈(ちょうばく)らを各地の刺史・太守に推挙したが、190年、彼らは挙兵した袁紹に呼応した。(『董卓伝』)

長安に遷都されると荀攸(じゅんゆう)は鄭泰(ていたい)、何顒、种輯(ちゅうしゅう)、越騎校尉の伍瓊らと董卓暗殺を企んだが、直前に露見し荀攸・何顒は投獄された。(『荀攸伝』)

董卓は内通して自分を売ったと思い込み、周毖と伍瓊を処刑した。(『董卓伝』)



伍習  郭汜の首を獲る


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伍朝


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伍孚  董卓暗殺に失敗


伍孚(ごふ)字は徳瑜(とくゆ)
豫州汝南郡の人(??~190)

後漢の臣。
同郡出身で字(徳瑜)まで同じ伍瓊(ごけい)という人物がおり、裴松之は同一人物かと推測している。
だが死の経緯が全く異なっており、別人として記す。

若い頃から節操正しく、汝南郡の門下書佐になった。本籍の村の長が罪を犯したため、太守が伍孚に命令書を出させようとすると「主君が主君に値しなくとも、臣下は臣下でなければなりません。なぜ私にお命じなさるのですか」と地面にひれ伏して諌めた。太守は立派だと考え聞き入れた。
後に大将軍の何進(かしん)に招かれ、東曹の属官を皮切りに侍中・河南尹・越騎校尉と昇進して行った。

董卓が実権を握ると、伍孚は衣の下に小さな鎧を着込み、刀を隠して董卓暗殺を企んだ。
隙を見て襲ったが、武芸に優れた董卓にかわされ、捕らえられた。
董卓が「謀叛するつもりか」と言うと、伍孚は大声で「私はお前の家来ではない。どこが謀叛だ。お前は国家を混乱させ、天子をすげ替え、罪悪は限りない。今日こそ私の死ぬ日だ。お前を車裂きにして天下に謝罪できなかったのが残念だ」と叫び、殺された。(『董卓伝』)



伍隆


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呉安


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呉懿  劉備の地味なお義兄さん


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呉応  呉質の子


呉応(ごおう)字は温舒(おんじょ)
兗州済陰郡の人(??~??)

魏・晋の臣。
呉質(ごしつ)の子。

「呉質別伝」に曰く。
230年、呉質は没した。生前は曹丕の威光を笠に着て横暴に振る舞ったため醜侯と諡された。
呉応は事実に反すると上奏し、正元年間(254~256)にようやく威侯に改められた。
呉応は晋代に尚書に上り、子の呉康(ごこう)も大官に上った。(『王粲伝』)



呉桓


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呉瓘  魏の歴史に残る太守A(※事績不明)


呉瓘(ごかん)字は不明
豫州陳国の人(??~??)

魏の臣。

魏郡太守を務めた。
陳寿は魏の歴史の中で優秀な太守5人の中に呉瓘を入れた。しかし5人の中で呉瓘と任燠(じんいく)の事績は残っていないと裴松之は記す。(『倉慈伝』)



呉祺


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呉巨  頼恭を追い出すも歩隲に暗殺される


呉巨(ごきょ)字は不明
荊州長沙郡の人(??~210?)

劉表(りゅうひょう)の臣?

交州刺史の張津(ちょうしん)が部下に殺されると、荊州牧の劉表は頼恭(らいきょう)を後任に据えた。だが同時に蒼梧太守に任じられた呉巨と仲違いし、頼恭は攻撃され零陵へ逃げた。(『士燮伝』)

薛綜(せつそう)はその経緯について「頼恭は年配で仁愛があり慎み深かったが、時事に通じていなかった。呉巨は勇猛な武人で、頼恭はその指図に従わず衝突した」と語った。(『薛綜伝』)

「江表伝」に曰く。
208年、曹操が荊州を制圧すると、それに対抗するため孫権は魯粛(ろしゅく)に劉備との同盟締結を命じた。
魯粛が探りを入れると、劉備は「昔なじみの呉巨に身を寄せるつもりだ」と語ったが、魯粛に説得され孫権と同盟した。(『先主伝』)

210年、孫権は歩隲(ほしつ)を交州刺史に任命した。
呉巨は表面的には孫権の支配下にあったが、野心を抱いていた。歩隲は丁重に礼を取って懐柔し、会談に招いて呉巨を暗殺した。これにより歩隲の威声は周辺に轟いた。(『歩隲伝』)



呉遽


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呉匡  何進の仇を取る


呉匡(ごきょう)字は不明
兗州陳留郡の人(??~??)

後漢の臣。

蜀の重臣の呉班(ごはん)の父。(『楊戯伝』)

189年、大将軍の何進(かしん)は対立する宦官によって暗殺された。部下の袁紹、呉匡は異変を悟ると宮中に突入して宦官を殺し、何進の弟の何苗(かびょう)もそれに加わった。
だが呉匡はかねてから何苗が何進に逆らうのを恨み、宦官と結託しているのではと疑っていた。
そこで何進暗殺の黒幕であると糾弾し、董卓の弟の董旻(とうびん)とともに彼を殺した。(『後漢書 何進伝』)

「演義」にも登場し史実と同じく何苗を殺した。だが「演義」ではかなり出番の多い呉班の父だとは言及されない。



呉景  孫策の叔父


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呉五


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呉康  呉質の孫


呉康(ごこう)字は子仲(しちゅう)
兗州済陰郡の人(??~??)

晋の臣。
呉応(ごおう)の子。呉質(ごしつ)の孫。

「呉質別伝」に曰く。
父の呉応は晋代に尚書に上り、呉康も名声あり大官に上った。(『王粲伝』)



呉綱  諸葛靚とともに呉へ赴く


呉綱(ごこう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
226年、呉芮(ごぜい 前202年没)の墓を発掘し、敷瓦を孫堅の廟に再利用した。呉芮の遺体は400年経っているのにまるで生きているようで、衣服も崩れていなかった。
後に発掘に参加した者が呉綱に会い「君はなんと呉芮に似ているのだ。少し背が低いだけだ」と驚いた。呉綱もなぜそれを知っているのかと驚き、自分は呉芮の16代目の子孫であり、改葬したかと尋ねたが既に改葬され見ることはできなかった。(『毌丘倹伝』)

257年、諸葛誕は反乱すると長史の呉綱に末子の諸葛靚(しょかつせい)や側近の子弟を人質として預け、呉への救援要請の使者を命じた。(『毌丘倹伝』・『孫亮伝』)

翌年に諸葛誕は敗死した。諸葛靚は呉の滅亡に際して抗戦し、晋朝でも厚遇された。呉綱も存命ならそれを補佐していただろう。

「演義」では諸葛靚を送り届けた後に諸葛誕のもとへ戻ったため、ともに敗死したと思われる。



呉粲


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呉纂


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呉子卿  袁紹の(素性不明の)親友


呉子卿(ごしきょう)字が子卿
出身地不明(??~??)

袁紹の友人。

「英雄記」に曰く。
袁紹は張邈(ちょうばく)・何顒(かぎょう)・呉子卿・許攸(きょゆう)・伍瓊(ごけい)(※もしくは伍孚(ごふ))と奔走の友(親友)となった。(『袁紹伝』)

呉子卿だけが素性不明。呉匡(ごきょう)、呉巨(ごきょ)、呉碩(ごせき)のいずれかか。



呉子蘭  董承一味で一番地味


呉子蘭(ごしらん)字が子蘭か
出身地不明(??~200)

後漢の臣。

200年、董承(とうじょう)の曹操暗殺計画に加担し返り討ちになった。

一味の中で最も情報の少ない人物で、なんらかの将軍位にあったことしかわからない。(『先主伝』)

一味の一人である呉碩(ごせき)の字が子蘭で、同一人物とする説もある。



呉氏


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呉資  曹操から定陶県を一時守る


呉資(ごし)字は不明
出身地不明(??~??)

呂布の臣?

195年、曹操は済陰郡定陶県を攻めたが、済陰太守の呉資が南城に籠もって防戦し、呂布の到着まで持ちこたえた。
だが呂布の本隊は連破され、定陶県も陥落した。(『武帝紀』)

「魏書」に列伝される呉質(ごしつ)は済陰郡定陶県の人であり、同族だろうか。



呉質  醜い腰巾着


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呉脩  胡母班とともに殺される


呉脩(ごしゅう)字は不明
出身地不明(??~190)

後漢の臣。
「後漢書 袁紹伝」では名を呉循(ごじゅん)と記される。

190年、袁紹・王匡(おうきょう)らが董卓討伐のため挙兵すると、董卓は執金吾の胡母班(こぼはん)と将作大匠の呉脩に詔勅を持たせ、袁紹に服従を命じたが、袁紹は王匡に命じて彼らを殺させた。(『袁紹伝』)



呉述  郭馬の乱に加担し南海太守を僭称


呉述(ごじゅつ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

279年、合浦太守の脩允(しゅういん)は桂林太守に転任となったが、病気のため広州に留まり、先に私兵隊長の郭馬(かくば)に500の兵を預けて桂林郡へ行かせ、異民族の慰撫に当たらせた。
ところが脩允はそのまま没し、兵は分割され各地へ転属させられることになった。郭馬らは父祖の代から同じ軍団に属しており、分かれることを望まなかった。
折しも孫晧は課税のため広州の戸籍を正確に調べようとしており、民衆は不安を抱いていた。郭馬は軍団の将の何典(かてん)、王族(おうぞく)、呉述、殷興(いんこう)らと共謀し、兵や民衆を扇動して蜂起した。

広州督の虞授(ぐじゅ)を殺し、郭馬が都督交広二州諸軍事・安南将軍を、呉述が南海太守を名乗るなど官位を僭称し、反乱軍は何典が蒼梧郡へ、王族が始興郡へ侵攻した。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始し、内外から攻められた呉は翌年に滅亡した。
その影響か郭馬の反乱の顛末は不明である。(『孫晧伝』)



呉穣  255年の広陵太守


呉穣(ごじょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

255年秋、衛尉の馮朝(ふうちょう)は広陵に城を築いた。呉穣が広陵太守に、留略(りゅうりゃく)が東海太守に任じられた。(『孫皓伝』)



呉碩  董承一味で二番目に地味


呉碩(ごせき)字は不明
出身地不明(??~200)

後漢の臣。
200年、董承(とうじょう)の曹操暗殺計画に加担し返り討ちになった。

一味の中で呉子蘭(ごしらん)と並び情報の少ない人物で、議郎の地位にあったことと、董承には种輯(ちゅうしゅう)とともに「信頼が置け仕事のできる腹心」と高評価されていることくらいしか記されていない。(『先主伝』)

呉碩の字が子蘭(しらん)で、呉子蘭と同一人物とする説もある。



呉碩


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呉達  卞太后の手先


呉達(ごたつ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の宦官。

曹叡の代に、曹洪(そうこう)の乳母の当(とう)が臨汾公主(りんふんこうしゅ)の侍女とともに無澗山の神に仕えたため、淫祠邪教を崇めた罪で河南尹の司馬芝(しばし)に逮捕された。
卞太后(べんたいこう)は宦官の呉達を派遣し釈放させようとしたが、司馬芝は無視してさっさと処刑を命じた。
そして曹叡に独断で処罰したことを謝罪したが、曹叡は正しさを認め、今後また宦官が派遣されても取り合わなくていいと許可を与えた。(『司馬芝伝』)



呉碭


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呉敦  臧覇の配下から利城太守へ


呉敦(ごとん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
別名は黯奴(あんど)。

黄巾の乱が起こると臧覇(ぞうは)は孫観(そんかん)とともに挙兵し、徐州刺史の陶謙(とうけん)に従い、騎都尉に任命された。
呉敦は孫観・尹礼(いんれい)・昌豨(しょうき)らとともに臧覇を首領に仰ぎ、開陽に駐屯した。(『臧覇伝』・『武帝紀』)

198年、曹操が呂布を攻めると救援したが、呂布が討たれたため逃亡し、臧覇は捕らえられた。だが曹操は彼を気に入り、臧覇を通じて孫観兄弟・呉敦・尹礼が招聘され、呉敦は利城太守に任じられた。

以降は徐州・青州の統治を任された臧覇のもとで反乱鎮圧に尽力したと思われる。(『臧覇伝』)

「演義」では臧覇配下の泰山の山賊として登場。尹礼とともに許褚と戦い惨敗した。曹操に降伏後は出番がない。



呉覇  李通に敗れた黄巾賊


呉覇(ごは)字は不明
出身地不明(??~??)

黄巾賊。

大物指導者だったが李通(りつう)に生け捕りにされ兵を奪われた。(『李通伝』)

李通は汝南郡で活動しており、呉覇は同地に割拠した劉辟(りゅうへき)らと共闘していたのだろうか。



呉班  なにげに皇族


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呉範  八絶・風気の呉範


呉範(ごはん)字は文則(ぶんそく)
揚州会稽郡上虞県の人(??~226)

呉の臣。

風気(風占い)の名手で「八絶」の一人に数えられる。
暦法と風気を修め郡内で名を知られた。(『呉範伝』)

徐州牧の陶謙(とうけん)は趙昱(ちょういく)を招聘したが、病と称し断られた。陶謙は揚州従事の呉範を通じてさらに招聘し、それも断られると脅して強引に仕官させた。(『陶謙伝』)

呉範は有道に推挙されたが動乱のため都に向かえず、孫権に仕えた。
予言をたびたび的中させ広く名を知られた。

207年、孫権は荊州牧の劉表(りゅうひょう)麾下で、江夏を守る黄祖(こうそ)を攻めようとした。呉範は「今年は利が少なく、来年になれば劉表が死に、国が滅びます」と反対した。孫権はそれを容れず江夏を攻めたが攻略できなかった。

翌年、改めて江夏を攻めると、呉範は風を見て勝利は疑いないと先に祝賀を述べ、その通りに孫権は勝利した。だが黄祖を逃してしまい悔しがっていると、呉範は「必ず生け捕りにできます」と言った。はたして夜明け前に黄祖は捕らえられた。
また予言通りに劉表は同年のうちに没し、後を継いだ息子は曹操に降伏した。

212年、劉備が益州に侵攻すると「2年後に制圧する」と占った。
益州へ行っていた呂岱(りょたい)は劉備と話し、「配下は散り散りになり、兵も半数を失っており失敗するでしょう」と孫権へ報告した。
孫権が呉範を難詰すると「私は天道について話しましたが、呂岱は人事を見てきただけです」と言った。
はたして214年に劉備は益州を制圧した。

219年、孫権は関羽の攻撃を企て、群臣に諮ると多くが反対する中、呉範は賛成した。
呉軍の攻撃で関羽は敗走し、麦城に籠もった。
降伏するという文書が届き、孫権は真偽に迷い呉範に占わせた。「逃げようとする気が出ています。我々を騙すつもりでしょう」と聞き、潘璋(はんしょう)に命じて退路を封鎖させた。
はたして関羽は城を抜け出し、呉範はさらに「明日の日中には捕らえられます」と占った。
孫権は日時計と水時計を用意させて時刻を計った。正午になっても捕まらなかったが呉範は「正確にはまだ正午になっていません」と慌てず、やがて風がカーテンを揺らすと手を叩き「関羽が来ました」と言った。間もなく遠くで万歳の声が上がり捕縛の一報が届いた。

この頃、「220~221年に大きな喜びがある」と占い、孫権はそれが叶ったらあなたを列侯しようと言った。
220年、孫権は魏から呉王に封じられた。呉範が先の約束を持ち出すと、孫権は侯の印綬を渡そうとしたが、形だけで済ませようとしていると察し、固辞した。

「魏は表面は親しく見せながら、内には企みを秘めています。備えを怠りませんように」と占い、劉備が夷陵へ侵攻すると「後に呉と蜀は親しくなります」と言い、ともに的中した。

孫権は呉範を騎都尉・太史令に任じると、しばしば風気の秘術を教えるよう迫ったが、呉範は自分が重用されるのは誰にも秘術を明かしていないからだと自覚し、決して教えなかった。
孫権は密かにそれを恨んでおり、正式に呉範の列侯が建議された時も、発布する直前に名前を削り、取り止めさせた。

呉範は一本気で自尊心も強かったが、親しい者とは何があっても付き合いを変えなかった。
同郷の親友の魏騰(ぎとう)が処刑を命じられた時、孫権は怒り心頭で、助命を願い出た者も同罪に処すと通達した。呉範は「あなたとともに死のう」と言い、魏騰が止めるのも聞かず、髪を剃り、身体を縄で縛ると宮殿へ向かった。取り次ぎの役人が「私もとばっちりで殺されます」と止めると、呉範は「もしあなたが死んだら遺児は預かる」と説き伏せ、扉を開かせた。孫権は来訪を聞くやいなや激怒し、手戟を投げようとした。役人が逃げ出した隙に呉範は入り込み、頭から血を流すほど地面に打ち付け赦しを請うた。さすがに孫権も心打たれ、死罪を免じた。
魏騰は「両親は私を生み育ててくれたが、死からは免れさせてくれなかった。男同士が理解し合う関係はあなたのような人が一人いれば十分で、友人が何人いても益もないことだ」と感謝した。

226年、呉範は自分の死期を占うと、孫権へ「あなたはこの日に軍師を失うでしょう」と言った。孫権が自分には軍師はいないといぶかると「あなたは兵を動かす前に私の占いを聞きました。私は軍師と同じです」と言った。予言通りの日に病没した。
長男もすでに亡く、末子は幼かったため風気の秘術は伝授されなかった。孫権は「呉範や趙達(ちょうたつ)のような占術師を推挙すれば千戸を与え列侯する」と支配下の三州に布告したが、誰も見つからなかった。(『呉範伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「孫権の代には呉範・趙達が天の示す吉凶を占い、主君の行いをそれにふさわしいものとした」と評した。(『孫皓伝』)

朱育(しゅいく)は「事物の根源を探りその意味を知る、不思議な方法を極め、言葉が神明の意志と合致していた」と評した。(『虞翻伝』)

陳寿は呉範・劉惇(りゅうとん)・趙達を同じ巻に収録し「秘術に精通し、彼らがめぐらせた心の働きは精妙だった。しかし君子がその心を用いるのは大きく広いものに対してであるべきで、それゆえ立派な見識を備えた人物は、神秘的な事柄には心を向けず、現実をもっぱら問題とするのである」と三者の技術は讃えながらも、そうした占術を重用した孫権を非難している。



呉夫人  孫策・孫権を陰から支えた賢母


呉夫人(ごふじん)名は不明
揚州呉郡呉県の人(??~202?)

孫堅の妻。
孫策・孫権・孫夫人(孫尚香)らの母。

銭唐県へ移住し、早くに両親を失って弟の呉景(ごけい)と暮らしていた。
孫堅は彼女が才色兼備だと聞いて妻にめとりたいと申し出たが、呉夫人の一族は軽薄な彼を嫌い断ろうとし、恨まれた。
呉夫人は「なぜ一人の娘を惜しんで災いを招こうとするのか。私が嫁入り先で不幸になってもそれは運命です」と言い、進んで婚姻を結んだ。四男一女に恵まれた。(『孫堅呉夫人伝』)

孫堅は出仕すると家族を寿春に住まわせていたが、(董卓打倒のため)挙兵すると長男の孫策は呉夫人を連れて廬江郡舒県に移住し、周瑜と友情を結んだ。(『孫策伝』)

呉夫人は孫権に周瑜には兄として仕えるよう命じた。周瑜も率先して孫権に臣下の礼を取ったため、若く侮られていた孫権に対し、他の者も礼節を守るようになった。(『周瑜伝』)

孫堅は191~192年に戦死した。(『孫堅伝』)

孫策は江都にいた呉夫人を呂範(りょはん)に迎えに行かせた。この頃、呂範と孫河(そんか)だけが常に孫策に従い、苦楽をともにした。孫策は呂範を身内として遇し、奥座敷に通し呉夫人とともに酒食を振る舞った。(『呂範伝』)

孫策が袁術の命で揚州刺史の劉繇(りゅうよう)を攻撃した時、一族はみな揚州にいた。朱治(しゅち)は曲阿県へ人をやって呉夫人や孫権らを保護し、孫策のもとへ送り届けた。(『朱治伝』)

孫策は王晟(おうせい)ら呉郡の勢力を討伐した。呉夫人は「王晟は孫堅と親しかったが、今や一族は誅滅され彼だけが残りました。老人一人を恐れることはありません」と助命嘆願し、孫策は王晟だけを見逃した。(『孫策伝』)

「会稽典録」に曰く、魏騰(ぎとう)は孫策の逆鱗に触れ処刑を命じられた。
士大夫は助けようとするもなすすべも無かったが、呉夫人はそれを聞くと、井戸にもたれ「お前(孫策)は江南を統治し始めたばかりで、今は賢者や非凡な人物を礼遇し、欠点に目をつぶり、功績を評価するべき時です。魏騰は職務に全力を尽くしているのに、彼を殺せば明日にはあらゆる人々がお前に背を向けるでしょう。私は災いがやって来る前に身を投げます」と言った。
孫策は仰天し、あわてて魏騰を釈放した。(『孫堅呉夫人伝』)

「江表伝」に曰く、孫策は道士の于吉(うきつ)を捕らえた。信者たちは呉夫人に泣きつき、呉夫人は孫策へ「于先生は軍に幸運をもたらし、将兵の健康を祈っています」と助命嘆願したが、孫策は聞き入れず処刑させた。

200年、孫策は急逝した。(『孫策伝』)

後を継いだ孫権は19歳と若く、呉夫人は張昭(ちょうしょう)・董襲(とうしゅう)らを招き、守り切れるのかと尋ねた。董襲は「江東は地の利に恵まれ、孫策様は民に慕われていました。孫権様はそれを引き継ぎ、張昭が諸事を取りまとめ、私が軍を率い、地の利と人の和を得られ、万に一つの心配もございません」と答えた。(『董襲伝』)

まだ年若い孫権に軍事・政治の両面で助言を与え、統治に甚だしく貢献した。(『孫堅呉夫人伝』)

「江表伝」に曰く、202年、袁紹を撃破した曹操は、孫権に息子を人質に出すよう要求した。張昭や秦松(しんしょう)らも結論を出せず、孫権は周瑜を連れて呉夫人と相談した。
周瑜は曹操にも勝てる軍備はあり、情勢を見極めてからでも遅くはないと意見し、呉夫人も「もっともな言葉です。私は周瑜を我が子のように思っています。お前も兄として仕えなさい」と同意し、人質を送らなかった。(『周瑜伝』)

謝夫人(しゃふじん)は呉夫人の働きかけで孫権の正室に迎えられたが、後に徐夫人(じょふじん)を新たにめとることになり、孫権は謝夫人に徐夫人を目上として仕えるよう頼んだ。
だが謝夫人はそれを受け入れられず、孫権の寵愛も薄れてしまい、やがて早逝した。(『孫権謝夫人伝』)

202年、臨終の床に張昭らを招き、後事を託した。
高陵(孫堅の墓)に合葬された。

ただし裴松之は「207~208年に会稽郡は太守(孫権)が喪に服し、人材推挙を行わなかったと記録にあり、逆に202~203年は推挙がされている。呉夫人が逝去したのは207年だ」と指摘している。(『孫堅呉夫人伝』)

229年、孫権は帝位につくと孫堅に武烈皇帝、呉夫人に武烈皇后を追贈した。(『孫権伝』)

張昭は忌憚のない意見を述べたため出禁にされたことがあった。
そこへ蜀の使者が訪れ、蜀の素晴らしさを吹聴したが、群臣はそれに対抗できず、孫権は「張公(張昭)がいれば黙らせたのに」と後悔し、出禁を解いた。
張昭は「呉夫人と孫策様は逝去の際に、私をあなたに預けたのではなく、あなたを私に預けました。されば臣下としての本分を尽くし、ご機嫌取りなどしないのです」と言い、孫権は謝罪した。

その後、公孫淵(こうそんえん)が臣従を申し出ると、孫権は喜び爵位を授けようとしたが、張昭は本心ではないと反対し、孫権は刀をつかんで激昂した。
張昭は「私が真心を尽くすのは、呉夫人が臨終の床に私を呼び、後事を託したからです」と言い号泣した。孫権は刀を投げ捨てて張昭とともに泣いたが、結局意見は容れず、しかも張昭の予想通りに事は進んだため喧嘩は続いた。(『張昭伝』)

「演義」には呉太夫人(ごたいふじん)の名で登場。于吉の助命嘆願や、曹操へ人質を送る議論などが同様に描かれる。
妹で同じく孫堅の妻の呉国太(ごこくたい)という架空の人物の方がより目立つ。

「横山三国志」では呉太夫人と呉国太は同一人物にされるが、于吉の助命嘆願から10年後の孫夫人(孫尚香)の結婚に登場した際にはとても同一人物に見えないほど老けて縮んでいる。



呉普  華佗の一番弟子


呉普(ごふ)字は不明
徐州広陵郡の人(??~??)

医師。
「華佗伝」に附伝される。

樊阿(はんあ)とともに華佗(かだ)に師事した。
華佗のやり方に従って治療し、多くの人々を快癒させた。

華佗は彼へ「人の身体は働かせるのが肝要だが、極度に疲労させてはならない。身体を動かせば穀物の気は消化され、血流はスムーズになり、病気も生じようがない。戸の枢は回り続けているから腐らないのと同じだ。
だから仙人たちは導引(体操)を行い老化を防ごうとした。私も「五禽の戯」という5種の動物を真似た導引を考案した。調子が悪い時にはどれでもいいから一つ行えば汗をかく。そして具合の悪いところに薬を塗れば、身体は軽々とし食欲も湧く」と健康法を語った。

呉普はこれを実行したため、90歳を過ぎても目や耳は少しも衰えず、歯も全て揃っていた。(『呉普伝』)



呉奮


未作成



呉平


未作成



呉免


未作成



呉蘭  力の呉蘭


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呉林  辰韓の併合に失敗


呉林(ごりん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

部従事の呉林は楽浪郡がもともと韓を統治していたため、辰韓(※韓の3つの国の1つ)を分割して楽浪郡へ併合しようとしたが、意見が紛糾してまとまらず、ついには韓の指導者が煽り立てて帯方郡へ侵攻した。
帯方太守の弓遵(きゅうじゅん)・楽浪太守の劉茂(りゅうぼう)が迎撃し、弓遵は戦死したもののそのまま討伐し韓を滅ぼした。

弓遵の後任の帯方太守の王頎(おうき)は248年に赴任しており、その年のことだろうか。(『東夷伝』)



吾彦  公平無私


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吾粲  熱き人格者


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呼廚泉  匈奴最後の単于


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狐忠  李平を諌めた参軍


狐忠(こちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

231年、諸葛亮は北伐の兵を挙げたが、兵站を担当する李平(りへい)は長雨で輸送に苦慮し、参軍の狐忠と督軍の成藩(せいはん)を諸葛亮のもとへ送り撤退させた。
ところが李平は兵站に問題はなかったと主張して責任を諸葛亮に押し付け、劉禅へは魏軍をおびき寄せるために撤退したと偽った。
諸葛亮は前後関係を整理して李平の主張を崩し、罷免させた。

諸葛亮が上奏した李平弾劾の文書には「李平は病気と偽って西へ逃げ、軍が迫るとさらに逃げようとしたが狐忠に諫言されて思い留まった」と記される。(『李厳伝』)

馬忠(ばちゅう)の旧名が狐篤(ことく)と言い同一人物とする説もある。
当時の馬忠は丞相参軍として留守の事務を取り仕切っていたが、231年に諸葛亮のもとへ出向いたと記され、狐忠の役職・動向と確かに符合する。(『馬忠伝』)



胡威  胡質の清廉な後継ぎ


胡威(こい)字は伯虎(はくこ)
揚州九江郡寿春県の人(??~??)

魏・晋の臣。
別に名は胡貔(こひ)、字は伯武(はくぶ)ともいう。
胡質(こしつ)の子。
「胡質伝」に附伝され、「晋書」に列伝される。

早くから高尚な志を抱いていた。
「礼記」にのっとり、荊州刺史を務める父を訪ねた。清貧を重んじたため家に蓄えはなく、胡威は一人でロバを連れてやって来た。厩に10日ほど泊まり、帰り際に胡質が路銀として絹を渡そうとすると「清廉な父上がどこでこれを手に入れたのですか」と不思議がったが、胡質は「俸禄の余りだ」と言い、納得し受け取った。
胡質の部下は休暇を取り、胡威を追うと旅人のふりをして数百里も同行し助けてやった。胡威は親切過ぎる彼を不審に思い、誘導尋問して父の部下だと白状させた。そこで父からもらった絹を謝礼に渡して別れた。
胡威から報告を受けた胡質は怒り、部下を百叩きさせ罷免した。
父子の清廉さはこれにより広く知れ渡った。(『晋書 胡威伝』)

250年に父が没した時、家には下賜された衣服と書物の箱があるだけだった。
部下がそれを上聞し、陽陵亭侯を追贈され、貞侯と諡され領邑100戸を与えられた。
子の胡威が後を継いだ。(『胡質伝』)

254年、胡質は亡き徐邈(じょばく)・田豫(でんよ)とともに改めて清貧さを採り上げられ、遺族に穀物2千石と銭30万が下賜された。(『徐邈伝』

胡威はやがて侍御史に任ぜられ、南郷侯に進み、安豊太守を務め、徐州刺史に昇進した。政務に励み、徳による教化は大いに広まった。

晋代に入朝すると、司馬炎は胡威に父子のどちらが清廉さでは勝るかと尋ねた。胡威は「父には及びません。父の清廉さは他人に知られることを恐れていましたが、私の清廉さは他人が知らないことを恐れています」と答えた。
司馬炎はまっすぐで素直な、へりくだった慎み深い言葉であると評価した。

監豫州諸軍事・右将軍・豫州刺史となり、都に戻ると尚書になり、奉車都尉を加えられた。
胡威は司馬炎へ寛容すぎると諫言した。司馬炎が「尚書郎以下の者を大目に見てやったことはない」といぶかると、胡威は「尚書郎以下の者ではなく、私のような尚書に対しての話です。尚書以上の高位の者に厳しくして初めて教化を整え法をはっきりとさせることができるのです」と答えた。

前将軍・監青州諸軍事・青州刺史に上り、平春侯に封じられた。
280年に在官のまま没すると、使持節・都督青州諸軍事・鎮東将軍を追贈され、烈侯と諡された。
子の胡奕(こえき)が後を継いだ。

胡奕は平東将軍まで上り、また弟の胡羆(こひ)は益州刺史まで上った。(『晋書 胡威伝』)

胡奕・胡羆も清廉さで名声を得た。(『胡威伝』)

「演義」には登場しない。



胡衛  位宮に殺された呉の使者


胡衛(こえい)字は不明
出身地不明(??~236)

呉の臣。

236年、呉の使者として高句麗王の位宮(いきゅう)のもとへ赴いたが、殺されて首級を魏へ送られた。(『明帝紀』)



胡奕  胡質の清廉な後継ぎ


胡奕(こえき)字は次孫(じそん)
揚州九江郡寿春県の人(??~??)

晋の臣。
胡威(こい)の子。胡質(こしつ)の孫。

280年、父が没すると後を継いだ。
平東将軍まで上った。(『晋書 胡威伝』)

父・祖父・叔父の胡羆(こひ)らとともに清廉さで名声を得た。(『胡質伝』)



胡淵  胡烈を救出し名声を博した子


胡淵(こえん)字は世元(せいげん)
涼州安定郡の人(247~301)

魏・晋の臣。
胡烈(これつ)の子。胡遵(こじゅん)の孫。

264年、蜀を制圧した鍾会は前月に崩じた郭太后(かくたいこう)の遺詔と偽り、司馬昭の討伐を宣言して挙兵し、魏軍の地位の高い者と蜀の旧臣を幽閉した。
胡烈(これつ)の旧臣で鍾会に目を掛けられ随行していた丘建(きゅうけん)が、幽閉された胡烈を哀れみ、獄中に世話係の従卒を一人入れることを許可してもらい、他の将にも同様に許可された。
胡烈は従卒を通じて「丘建が教えてくれたのだが、鍾会は大きな穴を掘って数千の棒を用意しており、魏軍全員を殴り殺して埋めるつもりだ」と子の胡淵に嘘を伝えさせ、他の将の従卒もそれにならい、一夜にして全軍に知れ渡った。
鍾会に「幽閉した者を皆殺しにすればいい」と進言する者もいたが決断できずにいるうち、胡淵が軍鼓を鳴らしつつ出撃すると、諸軍の兵もそれに応じ、誰も指揮していないのに一斉に鍾会への攻撃が始まった。
鍾会は仰天して姜維に「どうすればよいか」と聞き、姜維は「戦うだけです」と答えた。幽閉した将を殺そうとしたが、将らは机で門を封鎖して抵抗し、諸軍は城壁を突破し、幽閉された将も脱出してそれに合流した。
姜維は手ずから5~6人を斬ったが討ち取られ、鍾会も兵に殺到されて斬られた。
蜀の旧臣を含む数百人の将兵が殺された。

「晋諸公賛」に曰く。
幼名は鷂鴟(ようし)。鍾会を討ち取った時に18歳で、名声が広く轟いた。
後に司馬倫(しばりん)が帝位を簒奪し、司馬冏(しばけい)らに討伐されると胡淵・張泓(ちょうこう)が迎撃したびたび勝利したが301年、司馬倫が司馬穎(しばえい)に敗れたため降伏し、処刑された。(『鍾会伝』)

「演義」でも父を救出した。なお鍾会は本当に皆殺ししようとしていた。



胡岐  胡遵の并州刺史の四男


胡岐(こき)字は玄嶷(げんぎょく)
涼州安定郡の人(??~??)

魏の臣。
胡遵(こじゅん)の子。

并州刺史に上った。

兄の胡奮(こふん)・胡広(ここう)・胡烈(これつ)らも高位に上った。(『鍾会伝』)



胡喜  胡広の涼州刺史の子


胡喜(こき)字は不明
涼州安定郡の人(??~??)

晋の臣。
胡広(ここう)の子。胡遵(こじゅん)の孫。

涼州刺史に上った。(『鍾会伝』)



胡業  苛酷で著名な刺史・太守達C


胡業(こぎょう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗(げいぎ)、胡業らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かった。(『梁習伝』)



胡玉  孫堅のデビュー戦を飾った海賊


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胡広  胡遵の少府の次男


胡広(ここう)字は宣祖(せんそ)
涼州安定郡の人(??~??)

魏の臣。
胡遵(こじゅん)の子。

少府に上った。
子の胡喜(こき)は涼州刺史に上った。

兄の胡奮(こふん)、弟の胡烈(これつ)・胡岐(こき)らも高位に上った。(『鍾会伝』)

「ちくま版」は119年に存命の同姓同名の胡広を同一人物として索引に載せている。

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