三国志 き 1


季雍  朱霊の家族を死に追いやる


季雍(きよう)字は不明
冀州清河郡鄃県の人(??~??)

袁紹の臣。

「九州春秋」に曰く。
清河郡鄃県で季雍が反乱し、公孫瓚(こうそんさん)に寝返った。
同郷の朱霊(しゅれい)が攻撃を命じられたが、彼の家族は城内におり、公孫瓚は朱霊の母と弟を城壁の上へ連れ出し、降伏を誘った。
朱霊は涙を流し「男がひとたび身を投げだして仕えたからには、二度と家族のことを考慮しない」と言い、構わず城を攻め落とした。季雍を捕らえたが、家族は全員死んだ。(『徐晃伝』)



祁庚


未作成



紀玄龍  管輅の占術―火事の原因


紀玄龍(きげんりゅう)字が玄龍か
冀州平原郡の人(??~??)

魏の臣?

中書令史の紀玄龍が曰く。
管輅が故郷にいた頃、遠くの知人を訪ねた。知人は頻繁に火事が起こることに悩んでおり、管輅は「明日に南の道に角張った頭巾をかぶった書生が、黒牛に引かせた古い車に乗って現れる。彼をなんとしてでも引き止めてごちそうすれば火事はやむ」と占った。
知人が言う通りにすると、書生が本当に現れ、無理やり宿泊させられた彼は危害を加えられるのではとひどく不安がり、警戒して刀を手に門前で立ったまま眠った。ふと目を覚ますと小さな獣が手に持った火を息で吹きかけており、驚いた書生は刀で斬りつけた。倒れた獣は狐だった。それきり火事は起こらなくなった。(『管輅伝』)



紀瞻  紀陟の下の子


紀瞻(きせん)思遠(しえん)
揚州丹陽郡の人(??~??)

呉の臣。
紀陟(きちょく)の子。

「呉録」に曰く。
孫晧は父の孫和(そんか)と関係した一族(※仇なした者)をみな強制移住させたが、紀陟はかつて孫和を助けたため子の紀孚(きふ)を都亭侯に取り立てた。
弟の紀瞻は晋の驃騎将軍に上った。(『孫晧伝』)



紀陟  呉の使者として司馬昭にそつなく対応する


紀陟(きちょく)字は子上(しじょう)
揚州丹陽郡の人(??~??)

呉の臣。
紀亮(きりょう)の子。

「呉録」に曰く。
中書郎の時、孫峻(そんしゅん)の命で孫和(そんか)を詰問し、自害に追い込ませようとした。だが紀陟は密かに手を回し孫和に正々堂々と自らの弁護をさせたため、孫峻の怒りを買い蟄居した。
孫休の代に父の紀亮が尚書令、紀陟が中書令となり、朝議の際には詔勅により父子の間に屏風が立てられた。後に豫章太守に赴任した。

265年、魏の降伏勧告を受け容れた孫晧は光禄大夫の紀陟と五官中郎将の弘璆(こうきゅう)を使者に送った。

「晋紀」に曰く。
使者として儀礼に則った応対をした。
魏の王布(おうふ)が騎射を見せ「呉にもできる者がいるか」と尋ねると、紀陟は「軍人が職務としてやるもので、士大夫やちゃんとした人物はやりません」と答え、恥じ入らせた。
曹奐の質問にもそつなく答えた。
司馬昭が歓迎の席で降伏した劉禅や匈奴の単于(王)を紹介し国威を示すと、それを褒め称えた。
呉の防備を問われ、国境が5700里に渡ると答えると、司馬昭は守るのが難しいだろうと言ったが「要害は3~4つで、人間の身体に例えれば風邪を引かぬよう守るのは数ヶ所なのと同じです」と答え、感心させた。
(※裴松之は「本当に風邪から守るのは数ヶ所だけか。どんな巨城でも門は4つだけだと答えた方が適切ではないか」と反論する)

司馬昭が急逝したため同年11月、呉へ帰国した。

「呉録」に曰く。
孫晧は父の孫和と関係した一族(※仇なした者)をみな強制移住させたが、紀陟はかつて孫和を助けたため子の紀孚(きふ)を都亭侯に取り立てた。
下の子の紀瞻(きせん)は晋の驃騎将軍に上った。(『孫晧伝』)



紀孚  紀陟の上の子


紀孚(きふ)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

呉の臣。
紀陟(きちょく)の子。

「呉録」に曰く。
孫晧は父の孫和(そんか)と関係した一族(※仇なした者)をみな強制移住させたが、紀陟はかつて孫和を助けたため子の紀孚を都亭侯に取り立てた。
弟の紀瞻(きせん)は晋の驃騎将軍に上った。(『孫晧伝』)



紀亮  紀陟の父


紀亮(きりょう)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

呉の臣。
紀陟(きちょく)の父。

孫休の代に紀亮が尚書令、子の紀陟が中書令となり、朝議の際には詔勅により父子の間に屏風が立てられた。(『孫晧伝』)



紀霊  揚州袁術組の若頭


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綦毋闓  宋忠とともに「五経章句」を編集


綦毋闓(きぶがい)字は不明
出身地不明(??~??)

荊州牧の劉表(りゅうひょう)の臣。

「英雄記」に曰く。
荊州を平定した劉表は学校を開設し、広く儒者を集め綦毋闓・宋忠(そうちゅう)に「五経章句」を編集させ「後定」と名付けた。(『劉表伝』)



綦毋君  趙昱の師


綦毋君(きぶくん)字は不明
徐州東莞郡の人(??~??)

隠者。
君は名ではなく敬称か。

「謝承後漢書」に曰く。
広陵太守の趙昱(ちょういく)は若い頃、綦毋君に師事し「春秋公羊伝」を学び、多くの経典に通暁した。(『陶謙伝』)



綦毋俊


未作成



媯覧  凶悪犯


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戯志才  早すぎた天才


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曁艶  人事を壟断し処刑される


曁艶(きえん)字は子休(しきゅう)
揚州呉郡呉県の人(??~??)

呉の臣。

父が反逆者だったが、朱治(しゅち)に登用された。
同郷の張温(ちょうおん)に招かれ、選曹郎に任じられ、やがて尚書に上った。
自尊心が強く人物批評を好んだ彼は徐彪(じょひょう)とともに百官の落ち度を厳しく指摘した。当時、郎官の役職にあった者は人品芳しくなく、処分を受けずに済んだのは十人に一人もいなかった。その中でも特にがめつく品行の悪い者は、軍隊付きの役人にされ、特別に設けられた兵営に押し込まれた。
人々は恨みを抱き、曁艶は感情の赴くままに公平ではない処罰を行っていると非難した。(『張温伝』)

陸遜は軍隊付きの役人にするという建議に反対し、そうした主張をすると身の危険を招くと忠告した。(『陸遜伝』)

陸瑁(りくぼう)は手紙を送り「聖人は善を喜び愚昧を哀れみ、失敗は忘れ手柄だけを採り上げます。天下統一は半ばで、今は高祖のように欠点に目をつぶり、優秀な人材を集める時です」とたしなめたが、曁艶は聞き入れなかった。(『陸瑁伝』)

黄武年間(222~229)のはじめ頃、朱拠(しゅきょ)も陸瑁と同様の忠告をし、身の滅びを招くと心配したが、やはり曁艶は聞き入れなかった。(『朱拠伝』)

張温・曁艶は丞相の孫邵(そんしょう)まで非難し、孫邵は官を辞して罪を請うたが、孫権は復職させ慰留した。(『呉主伝』)

曁艶と徐彪は人事を壟断した罪でついに自害を命じられた。
孫権はかねてから張温が蜀を賛美しているのを苦々しく思っており、彼も罪に問い「曁艶の父は反逆者だったが、私は前科を問わず登用してやったが、彼は本性を表した。曁艶の人事は全て張温の差し金である」と糾弾し、一族もろとも罷免した。(『張温伝』)

曁艶が罪に問われると、親しくしていた人々も身を守るため態度を変え非難したが、陳表(ちんひょう)だけはそうしたことをしなかったため、士人たちに重んじられた。(『陳武伝』)

孫権の晩年に呂壱(りょいつ)が人事を壟断し、歴史は繰り返される。



魏越  幻の猛将


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魏延  反骨


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魏舒  三国一地味な司徒


魏舒(ぎじょ)字は陽元(ようげん)
兗州任城国樊県の人(209~290)

魏・晋の臣。

幼くして父を失い、母方の甯氏(ねいし)の家で養育された。
甯氏が家を建てる時、相宅者(家の相を観る者)が「異姓の甥が高貴な身分になる」と見立てた。祖母は内心で聡明な魏舒のことだと思い、魏舒も「母の実家のために予言を実現させましょう」と意気込んだ。
身長は8尺2寸(198cm)に伸び、優美な容貌で酒を1石(26リットル)飲めたが、のろまで純朴な性格のため郷里では重んじられなかった。
従叔父の魏衡(ぎこう)は名声あったが、彼も魏舒を評価せず水車の管理を任せるだけで「せめて県長になれれば言うことはない」と低く見た。

魏舒はそうした評価を気にせず、自身も他人にも節義や高潔さを求めず寛容で、相手の長所を伸ばすことを心掛け、短所を責めることは生涯にわたり無かった。
騎射を好み、なめし革の衣を着て山野に交わり、狩りや漁で生計を立てていたが、王乂(おうがい)だけが彼を評価し「君はいずれ三公に上るが、今は妻子を飢えや寒さから守ることすらできていない」と資金援助を申し出て、魏舒もそれを快く受けた。

河内郡の野王を訪れた時、宿を借りた家で子供が生まれた。その夜、車馬が現れ中から「生まれたのは男か、女か」「男だ」「15歳で死ぬ」「そこで寝ているのは誰だ」「公の魏舒だ」という会話が聞こえた。
15年後、宿を再訪しあの時生まれた子供の消息を尋ねると15歳で没しており、魏舒は自分が公に上ることを確信した。(『晋書 魏舒伝』)

「列異伝」に華歆(かきん)の逸話として酷似した話があり、裴松之は「同じようなことが二度あったとは思えない。伝聞した者が誰の逸話か取り違えたのだろう」と指摘する。(『華歆伝』)

40代でようやく孝廉に推挙されると、郷里の人々は魏舒が学問を修めていないため(落第すると思い)固辞すれば高潔さを示せると勧めたが、「落第すれば自分の責任だ。名声をかすめ取るような真似はしない」と言い、百日で一経をなんとか習得し合格した。
澠池県長、浚儀県令を歴任し、都に上り尚書郎に任じられた。だがリストラが建議されると「私こそが対象だ」と荷物をまとめ自ら辞去した。当時の尚書郎に高潔な人物はいなかったため魏舒の行為に恥じ入り、人々は称賛した。

昇進を重ね後将軍の鍾毓(しょういく)の長史となった。鍾毓は射的を好みよく大会を催したが、魏舒は得点計算するだけで参加しなかった。ある時、人が足りなくなり参加すると、上品で優雅なフォームでことごとく命中させた。鍾毓は驚愕し「君がこんなにも射撃が得意とは知らなかった。きっと私の知らない才能が他にもあるのだろう」と称えた。

(司馬昭の)相国府の参軍に上り、劇陽子(子爵)に封じられた。些末なことには発言しなかったが、人々が判断しかねるような興廃のことになると進んで意表を突く策略を述べた。司馬昭は会議が終わり退出する様を見届け「あの堂々とした様子はまさに人々の領袖たるものだ」と称えた。
宜陽太守・滎陽太守を歴任して評判を取り、散騎常侍を経て冀州刺史を3年務め、寛大で恩恵ある統治を称えられた。
都に戻り侍中となり、司馬炎が帝位につくと清廉であるとして絹100匹を賜った。尚書に上るも罪を犯し罷免されたが、司馬炎は贖罪と引き換えに罷免を取り消した。
魏舒は妻を亡くしては再婚することを繰り返し、この年に3人目の妻を亡くし葬儀のため休暇を乞うと、葬地と50万銭を下賜された。

太康年間(280~289)のはじめに尚書右僕射となり、三国統一の祝いに衛瓘(えいかん)・山濤(さんとう)・張華(ちょうか)とともに封禅の儀式を執り行うよう何度も勧めたが司馬炎は却下した。
尚書左僕射に転じ吏部尚書を兼任した。宮女の序列を細分化するよう上言し盛んに議論されたが認められなかった。右光禄大夫・儀同三司を加えられた。
山濤が没すると司徒を兼任し、やがて正式に司徒に上った。
威厳と徳望があり、俸禄や褒美は全て親族に分け与えたため余財はなかった。周震(しゅうしん)という人物はたびたび諸公に招聘されたが、そのたびに公が急逝したため「殺公掾」とあだ名され、ついに招聘されなくなった。魏舒は司徒になると構わず招聘したがなんの障りもなく、天命を知っていると称賛された。(『晋書 魏舒伝』)

かつて任愷(じんがい)が推挙した魏舒が司徒に任じられ、任愷はその任命の使者を命じられた。
魏舒は度量が大きく鷹揚だが、国政の才では任愷に及ばないと評判だったが、魏舒が国政に携わり、任愷は卿の身分のままで、憤慨し嘆いた。(『晋書 任愷伝』)

老齢になり病と称して引退を願い出て、病床に伏したが、兗州中正を兼任すると任地に赴き、やがてまた病床に戻った。
郤詵(げきしん)は「病床にあったのに回復すると務めを果たしたのは立派です。しかし都合よく寝起きする(仮病を使う)のはあなたを仰ぎ慕う人々の心を失わせ、長年の徳望をたやすく放棄する、なんとも惜しいことです」と非難したが、魏舒は構わず病と称し続けた。

天変地異にかこつけて罷免を求めたが司馬炎は許さず、ある年に元旦の朝儀を終えるとそのまま家に帰り、印綬を返還した。
司馬炎は手ずから詔勅を記し復帰を求めたがついに諦め、引退後も地位や俸禄を据え置く特別待遇を与えた。
魏舒は常に言葉より先に行動したため、この時も電撃的な引退に誰もが驚き、晋の建国以来の三公で最も見事に終わりを迎えたと評し、司空の衛瓘は「君とはいつも引退の時機を語り合ったが、私は実行できずにいた。論語に言う「前にいたかと思えば後ろにいる(と感じるほど徳望が高い)」とはこのことだ」と称えた。

290年、82歳で没した。司馬炎は深く哀悼し「康」と諡した。
子の魏混(ぎこん)も父譲りの才智と徳行を兼ね備えていたが、27歳で父に先立っていた。
誰もが同情し、魏舒も嘆き悲しんだが「妻を亡くした時に莊子は天命を悟って嘆かず、盆を叩いて歌ったという。その深遠さには及ばないが、私も無益なことをして身を損ないはしない」と言い、服喪を終えると哭礼をやめた。
魏舒が引退すると司馬炎は「早くに息子を失った彼は孤独の苦しみに身を置いているだろう。いろいろ考えたが英気を養うため美食と牛車を与える。ごちそうを食べ、好きなところへ旅行して景色を眺望すれば、少しは憂さも晴れるかもしれない」と命じた。
庶子の子の魏融(ぎゆう)が爵位を継いだが、彼も早逝し従孫の魏晃(ぎこう)が後を継いだ。(『晋書 魏舒伝』)

「演義」には登場しない。「正史」にも華歆の逸話に酷似していることしか記されない。



魏続  侯成一味A


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魏遷  虞忠に見出される


魏遷(ぎせん)字は不明
揚州会稽郡上虞県の人(??~??)

呉の臣。

「会稽典録」に曰く。
虞忠(ぐちゅう)は人物鑑定に優れ、幼い頃の陸機(りくき)や無名の頃の魏遷を高く評価し、どちらも才能を伸ばし評判高い人物となった。(『虞翻伝』)



魏种  才能で曹操に許される


魏种(ぎちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

曹操はかつて魏种を孝廉に推挙した。
194年、呂布が兗州で反乱した時、曹操は「魏种だけは私を見捨てないだろう」と言ったが、逃亡していた。
曹操は「魏种よ、南方の越か北方の胡(※国外)まで逃げないと捕まるぞ」と激怒した。

199年、河内太守の張楊(ちょうよう)は配下の楊醜(ようしゅう)に殺され、楊醜も同僚の眭固(すいこ)に殺された。
曹操が眭固を討ち取ると、魏种が捕らえられた。曹操は才能に免じて許し、河内太守に任命した。(『武帝紀』)

「曹操は反乱者でも才能があれば許した」とよく書かれるがその具体例である。

また兗州の反乱の際に逃亡したということは、兗州の出身だろう。
後に晋の司徒となる魏舒(ぎじょ)が兗州任城郡の人であり同族の可能性がある。
さらに眭固の討伐の際に捕らえられたのは、慈善家の張楊に拾われていたからと考えると面白い。



魏騰  孫策・孫権に処刑されかける


魏騰(ぎとう)字は周林(しゅうりん)
揚州会稽郡上虞県の人(??~??)

呉の臣。
名は魏滕とも書かれる。

祖父の魏朗(ぎろう)は河内太守を務め「八俊」の一人に数えられる名士だった。
魏騰は一本気な性格で、世風に適当に合わせることはせず、たとえ切羽詰まった事態に置かれても、生き方を曲げなかった。(『呉範伝』)

孫策の功曹を務めていた時、逆鱗に触れ処刑を命じられた。
士大夫は助けようとするもなすすべも無かったが、孫策の母の呉夫人(ごふじん)はそれを聞くと、井戸にもたれ「お前(孫策)は江南を統治し始めたばかりで、今は賢者や非凡な人物を礼遇し、欠点に目をつぶり、功績を評価するべき時です。魏騰は職務に全力を尽くしているのに、彼を殺せば明日にはあらゆる人々がお前に背を向けるでしょう。私は災いがやって来る前に身を投げます」と言った。
孫策は仰天し、あわてて魏騰を釈放した。(『孫堅呉夫人伝』)

同郷の親友の呉範(ごはん)は風気(風占い)の名手で「八絶」の一人に数えられた。一本気で自尊心も強かったが、親しい者とは何があっても付き合いを変えなかった。
魏騰が孫権の逆鱗に触れ処刑を命じられた時、孫権は怒り心頭で、助命を願い出た者も同罪に処すと通達した。呉範は「あなたとともに死のう」と言い、魏騰が止めるのも聞かず、髪を剃り、身体を縄で縛ると宮殿へ向かった。取り次ぎの役人が「私もとばっちりで殺されます」と止めると、呉範は「もしあなたが死んだら遺児は預かる」と説き伏せ、扉を開かせた。孫権は来訪を聞くやいなや激怒し、手戟を投げようとした。役人が逃げ出した隙に呉範は入り込み、頭から血を流すほど地面に打ち付け赦しを請うた。さすがに孫権も心打たれ、死罪を免じた。
魏騰は「両親は私を生み育ててくれたが、死からは免れさせてくれなかった。男同士が理解し合う関係はあなたのような人が一人いれば十分で、友人が何人いても益もないことだ」と感謝した。

魏騰は歴陽・鄱陽・山陰の県令を歴任し、鄱陽太守に上った。(『呉範伝』)



魏邈


未作成



魏諷  革命家の失策


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魏平  北の魏将


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魏攸  劉虞を諌める


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魏朗


未作成



魏狼  張嶷に帰順した捉馬族の指導者


魏狼(ぎろう)
捉馬族の人(??~??)

捉馬族の指導者。

捉馬族は北方の国境に割拠し、最も勇猛で蜀の統制を受けなかった。
張嶷(ちょうぎょく)は魏狼を生け捕りにしたが釈放してやり、帰順するよう説いた。
上表して魏狼を邑侯にすると3千戸の配下は落ち着き、周辺の諸部族も多くの者が降伏した。(『張嶷伝』)



麴英  郝昭に討伐された西平郡の賊徒


麴英(きくえい)字は不明
涼州西平郡の人(??~227)

賊徒。

227年、西平郡で反乱し臨羌県令と西都県長を殺した。
郝昭(かくしょう)と鹿磐(ろくばん)に討伐され戦死した。(『明帝紀』)

同郡で何度も反乱した麴演(きくえん)の一族だろう。



麴義  もし官渡に彼ありせば


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麴光  戦わずして張既に平定された賊徒


麴光(きくこう)字は不明
涼州西平郡の人(??~??)

賊徒。

西平郡の太守を殺し反乱した。
将軍らは討伐しようとしたが、涼州刺史の張既(ちょうき)は「郡民の全てが同調したわけではない。討伐すれば一致団結してしまい、虎に翼を与えるようなものだ。麴光は羌族を頼りにしているから、羌族に恩賞を約束して討伐させれば、戦わずして落ち着く」と言った。
羌族を説得し、麴光に騙されて反乱した者は赦し、隊長格の首を送れば恩賞を与えると持ちかけると、麴光は配下に殺され、すぐに平定された。(『張既伝』)

西平郡では先に麴演(きくえん)という人物が反乱しており、間違いなく同族だろう。



麴勝  辺章・韓遂の乱に乗じた金城郡の賊徒


麴勝(きくしょう)字は不明
涼州金城郡の人(??~184?)

賊徒。

184年、涼州で辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)らが反乱すると、それに乗じて武威郡祖厲県長の劉雋(りゅうしゅん)を襲って殺した。
県吏の張繡(ちょうしゅう)は隙を見て麴勝を暗殺し、義にかなった行為と称えられ、若者を集め村内の顔役となった。(『張繡伝』)



吉黄  吉茂の兄


吉黄(きつこう)字は不明
司隷馮翊郡池陽県の人(??~??)

魏の臣。
吉茂(きつぼう)の兄。「同腹の兄」と記され、異父兄弟か。

「魏略」に曰く。
家は代々の豪族で、弟の吉茂は清廉を重んじ山で暮らしていたが、兄の吉黄は先に仕官し207年に県令となった。
元の上官の趙温(ちょうおん)が没すると、県令は勝手に官を辞してはいけないという法に背き、葬儀に参列したため鍾繇(しょうよう)によって処刑された。
吉茂は兄が道義を重んじた結果、法に殺されたと考え、怒りのあまり哭礼しなかった。
同年の終わり頃、その鍾繇によって推挙された。予想に反して吉茂はそれに応じ、人々は彼が鍾繇を恐れているとも、仕官のために無理を通したとも考えた。
後に吉茂が謀叛の嫌疑を掛けられると、鍾繇は弁護し助けてやった。(『常林伝』)



吉邈  吉本の息子達


吉邈(きつばく)字は文然(ぶんぜん)
出身地不明(??~218)

吉本(きつほん)の子。

218年、父やその友人の金禕(きんい)、弟の吉穆(きつぼく)らとともに曹操の留守をつき都で反乱したが、あえなく返り討ちに遭い、処刑された。(『武帝紀』)



吉茂  潔癖(?)すぎる男


吉茂(きつぼう)字は叔暢(しゅくちょう)
司隷馮翊郡池陽の人(??~??)

魏の臣。

家は代々の豪族だが、清廉を重んじ粗末な衣服を着て、馬を使わず、野草を食べ、奴僕を雇わず、贈り物も決して受け取らなかった。学問を好み一つでも知らないことがあるのを恥と考えた。
自分が高尚であるとは言わなかったが、内心では道義を無視し富貴を得る者を嫌悪していた。

建安年間(196~220)のはじめ頃、後に魏の重臣となる同郷の蘇則(そそく)とともに、涼州安定郡の太白山に住み、数年にわたり読書に親しんだ。

兄の吉黄(きつこう)は先に仕官し207年に県令となっていたが、法に背いて上官の葬儀に参列したため鍾繇(しょうよう)によって処刑された。吉茂は兄が道義を重んじた結果、法に殺されたと考え、怒りのあまり哭礼しなかった。
同年の終わり頃、その鍾繇によって推挙された。予想に反して吉茂はそれに応じ、人々は彼が鍾繇を恐れているとも、仕官のために無理を通したとも考えた。

県令を務め、清廉潔白で官民は彼に嘘を言うのもためらわれるほどだった。
曹叡の庶子(官名)に上ったが217年、一族の吉本(きつほん)が反乱に失敗し、吉茂も逮捕された。
吉茂は長らく付き合いがなかったので、まさか連座されたとは思わず、禁書を所持しているのがばれたのだと思った。鍾繇が彼らの縁はとっくに切れていると証明したため罪を免れた。(『常林伝』)

やがて蘇則は侍中に上ったが、吉茂は県令止まりで、しかも(吉本の反乱の影響か)閑職に甘んじていた。
久々に顔を合わせると、吉茂は「執虎子になるのが望みだったのか?」と、侍中の俗称(おまる係の意。侍中は帝のお世話をし便器を管理した)で呼びからかった。
蘇則は「君のように小さな馬車でひょこひょこ走り回る苦労はしたくないからな」と笑い返した。(『蘇則伝』)

220年、九品官人法が制定されると、王嘉(おうか)は、同郷の吉茂を「人品は上級に当たるが容姿は劣る。徳に優れるが能に乏しい」と評した。
吉茂は「私はお前たち父子のように権威を笠に着ない」と言い返した。

武陵太守、酂国相に任じられたがいずれも就任せず、議郎に上り景初年間(237~239)に病没した。

「魏略」で吉茂は常林(じょうりん)、沐並(もくへい)、時苗(じびょう)とともに「清介伝」に収録されている。
清介は「潔癖すぎて度量が狭い」の意である。(『常林伝』)



吉穆  吉本の息子達


吉穆(きつぼく)字は思然(しぜん)
出身地不明(??~218)

吉本(きつほん)の息子。

218年、父やその友人の金禕(きんい)、兄の吉邈(きつばく)らとともに曹操の留守をつき都で反乱したが、あえなく返り討ちに遭い、処刑された。(『武帝紀』)



吉本  吉平の元ネタ


吉本(きつほん)字は不明
出身地不明(??~218)

後漢の臣。

太医令を務めた。
218年、息子らや友人の金禕(きんい)とともに曹操の留守をつき都で反乱した。
だが留守をあずかる王必(おうひつ)の殺害に失敗し、さらに金禕の家人の勘違いにより首謀者が金禕だと露見してしまい、あえなく反撃に遭い一網打尽となった。(『武帝紀』)

「演義」では董承(とうじょう)の曹操暗殺に加担し返り討ちになった架空の人物である吉平(きっぺい)と同一人物に設定され、息子達が反乱するが、謀叛により三族皆殺しとなったはずの吉平の子が生き延びてそれなりの地位に就いている意味が全くわからない。
太医令の吉本から逆算して侍医の吉平が創作されたと思われる。



弓遵  濊・韓と戦った帯方太守


弓遵(きゅうじゅん)字は不明
出身地不明(??~247?)

魏の臣。

240年、帯方太守の弓遵は梯儁(ていしゅん)に詔書と印綬を預け倭へ送った。

245年、楽浪太守の劉茂(りゅうぼう)は帯方太守の弓遵とともに、高句麗に寝返った濊を討伐した。
濊王の不耐侯(ふたいこう)は降伏した。
247年、不耐侯は朝貢し不耐濊王(ふたいわいおう)の位を授けられた。

呉林(ごりん)は楽浪郡がもともと韓を統治していたため、辰韓(※韓の3つの国の1つ)を分割して楽浪郡へ併合しようとしたが、意見が紛糾してまとまらず、ついには韓の指導者が煽り立てて帯方郡へ侵攻した。
弓遵・劉茂が迎撃し、弓遵は戦死したもののそのまま討伐し韓を滅ぼした。

弓遵の後任の帯方太守の王頎(おうき)は247年に赴任しており、その年のことだろうか。(『東夷伝』)



仇昭儀  曹霖の母


仇昭儀(きゅうしょうぎ)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。
昭儀は后妃の位で夫人に次ぐ第2位。(『后妃伝』)

曹霖(そうりん)を生んだ。(『武文世王公伝』)

4代皇帝の曹髦は曹霖の子である。(『東海定王霖伝』)



牛金  牛金は二度甦る


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牛亶  幻の牛タン


牛亶(ぎゅうたん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「漢献帝春秋」に曰く。
朝廷は益州で内乱が起こっているのを知ると、五官中郎将の牛亶を後任の益州刺史にしようと考え、刺史の劉璋(りゅうしょう)を卿に任命し都へ呼ぼうとしたが、劉璋は応じなかった。(『劉焉伝』)



牛輔  みんなが俺を狙ってる


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丘建  鍾会討伐のきっかけになる


丘建(きゅうけん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

264年、蜀を制圧した鍾会は前月に崩じた郭太后(かくたいこう)の遺詔と偽り、司馬昭の討伐を宣言して挙兵し、魏軍の地位の高い者と蜀の旧臣を幽閉した。
胡烈(これつ)の旧臣で司馬昭に推薦され、鍾会に目を掛けられ随行していた帳下督の丘建が、幽閉された胡烈を哀れみ、獄中に世話係の従卒を一人入れることを許可してもらい、他の将にも同様に許可された。
胡烈は従卒を通じて「丘建が教えてくれたのだが、鍾会は大きな穴を掘って数千の棒を用意しており、魏軍全員を殴り殺して埋めるつもりだ」と子の胡淵(こえん)に嘘を伝えさせ、他の将の従卒もそれにならい、一夜にして全軍に知れ渡った。
鍾会に「幽閉した者を皆殺しにすればいい」と進言する者もいたが決断できずにいるうち、胡淵が軍鼓を鳴らしつつ出撃すると、諸軍の兵もそれに応じ、誰も指揮していないのに一斉に鍾会への攻撃が始まった。
鍾会は仰天して姜維に「どうすればよいか」と聞き、姜維は「戦うだけです」と答えた。幽閉した将を殺そうとしたが、将らは机で門を封鎖して抵抗し、諸軍は城壁を突破し、幽閉された将も脱出してそれに合流した。
姜維は手ずから5~6人を斬ったが討ち取られ、鍾会も兵に殺到されて斬られた。
蜀の旧臣を含む数百人の将兵が殺された。(『鍾会伝』)

「演義」でも同様の役割を果たした。なお鍾会は本当に皆殺ししようとしていた。



丘力居  烏桓の王


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繆胤  繆襲の孫D


繆胤(きゅういん)字は不明
徐州東海郡蘭陵県の人(??~??)

晋の臣。
繆襲(きゅうしゅう)の孫。
繆悦(きゅうえつ)の子か。

「文章志」に曰く。
繆悦は晋代に光禄大夫に上り、繆襲の孫の繆紹(きゅうしょう)・繆播(きゅうは)・繆徴(きゅうちょう)・繆胤らもみな出世した。(『劉劭伝』)

4人は「繆襲の孫」と記され、繆悦の子かは定かではない。



繆悦  繆襲の子


繆悦(きゅうえつ)字は孔懌(こうえき)
徐州東海郡蘭陵県の人(??~??)

魏・晋の臣。
繆襲(きゅうしゅう)の子。

「文章志」に曰く。
245年、父が没すると後を継いだと思われる。
晋代に光禄大夫に上り、繆紹(きゅうしょう)・繆播(きゅうは)・繆徴(きゅうちょう)・繆胤(きゅういん)ら4人の子もみな出世した。(『劉劭伝』)



繆襲  魏4代に仕えた詩人


繆襲(きゅうしゅう)字は煕伯(きはく)
徐州東海郡蘭陵県の人(186~245)

魏の臣。
繆斐(きゅうひ)の子。

父は学問と孝行で名高く、三公から6度も招聘されたが仕官しなかった。
繆襲も才能と学問に秀で多数の著作があり、同時代では劉劭(りゅうしょう)とともに名高かった。
御史大夫の役所に召され、曹操~曹芳の魏4代に仕えた。

220年、友人の仲長統(ちゅうちょうとう)が40歳の若さで没すると、遺作の「昌言」を代わりに上表した。(『劉劭伝』)

曹丕が著述を命じた「皇覧」の著者は王象(おうしょう)・繆襲と記される。(『隋書経籍志』)

「皇覧」の制作には桓範(かんはん)らも関わった。(『曹真伝』)

曹叡の代に高堂隆(こうどうりゅう)が「魏は舜の子孫である」と意見すると、蔣済(しょうせい)は反論した。その際に尚書の繆襲と交わした文書には理論的根拠がある、と裴松之は評している。(『蔣済伝』)

曹叡は華歆(かきん)を太尉に任じたが、病を理由に辞退された。曹叡は散騎常侍の繆襲に復帰を命じる詔勅を届けさせ、その中で「朕は席を立ち君が来るのを待つ。君が到着したら朕も席につこう」と言い、繆襲にも「間違いなく床から立ち上がるのを見るまで帰るな」と命じ、やむなく華歆は復帰した。(『華歆伝』)

官位は尚書・光禄勲にまで至り、245年に60歳で没した。
子の繆悦(きゅうえつ)は晋代に光禄大夫に上り、4人の孫もみな出世したと記される。(『劉劭伝』)

他に「文選」にも多数の詩が載っているという。



繆尚  薛洪とともに曹操に降伏


繆尚(きゅうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

199年、河内太守の張楊(ちょうよう)は配下の楊醜(ようしゅう)に殺され、楊醜も同僚の眭固(すいこ)に殺された。

眭固は袁紹の傘下に入り射犬に駐屯した。曹操に攻められると張楊の旧臣の薛洪(せつこう)・後任の河内太守の繆尚に守らせ、袁紹に救援を求めようとしたが、史渙(しかん)・曹仁に出くわし戦死した。
薛洪・繆尚は曹操に降伏し、列侯された。
河内太守には新たに魏种(ぎちゅう)が任命された。(『武帝紀』)

董昭(とうしょう)が説得し降伏させた。(『董昭伝』)

その後、薛洪は曹操へ魏公即位を勧める書状に名前が見えるが、繆尚の消息は不明である。(『武帝紀』)



繆紹  繆襲の孫A


繆紹(きゅうしょう)字は不明
徐州東海郡蘭陵県の人(??~??)

晋の臣。
繆襲(きゅうしゅう)の孫。
繆悦(きゅうえつ)の子か。

「文章志」に曰く。
繆悦は晋代に光禄大夫に上り、繆襲の孫の繆紹・繆播(きゅうは)・繆徴(きゅうちょう)・繆胤(きゅういん)らもみな出世した。(『劉劭伝』)

4人は「繆襲の孫」と記され、繆悦の子かは定かではない。



繆徴  繆襲の孫C


繆徴(きゅうちょう)字は不明
徐州東海郡蘭陵県の人(??~??)

晋の臣。
繆襲(きゅうしゅう)の孫。
繆悦(きゅうえつ)の子か。

「文章志」に曰く。
繆悦は晋代に光禄大夫に上り、繆襲の孫の繆紹(きゅうしょう)・繆播(きゅうは)・繆徴・繆胤(きゅういん)らもみな出世した。(『劉劭伝』)

4人は「繆襲の孫」と記され、繆悦の子かは定かではない。



繆播  繆襲の孫B


繆播(きゅうは)字は不明
徐州東海郡蘭陵県の人(??~??)

晋の臣。
繆襲(きゅうしゅう)の孫。
繆悦(きゅうえつ)の子か。

「文章志」に曰く。
繆悦は晋代に光禄大夫に上り、繆襲の孫の繆紹(きゅうしょう)・繆播・繆徴(きゅうちょう)・繆胤(きゅういん)らもみな出世した。(『劉劭伝』)

4人は「繆襲の孫」と記され、繆悦の子かは定かではない。



繆斐  繆襲の父


繆斐(きゅうひ)字は文雅(ぶんが)
徐州東海郡蘭陵県の人(??~??)

後漢末の儒学者。

経書を広く修め、孝行で名高く、三公から6度も招聘されたが、当時は董卓やその残党によって権力を握られていたこともあり、結局仕官しなかった。

だが子の繆襲(きゅうしゅう)は儒学と詩の才で魏に仕え、官位は尚書・光禄勲にまで至った。(『劉劭伝』)



去卑  呼廚泉に代わり南匈奴を率いる


去卑(きょひ)
匈奴の人(??~??)

南匈奴の右賢王。

195年、李傕(りかく)・郭汜(かくし)らの手を逃れ、献帝は長安を脱出すると、白波黄巾軍や匈奴に救援を求め、右賢王の去卑が兵を率いてそれに応じ、追撃する李傕・郭汜を撃退し数千の首級をあげた。だが執拗な追撃により後に多大な被害を受けた。(『後漢書 董卓伝』)

「後漢書 献帝紀」には左賢王と記されるが、当時の左賢王は劉豹(りゅうひょう)であり誤記と思われる。(『晋書 劉元海伝』)

196年、献帝は曹操の庇護を受けて許昌へ遷都し、去卑は帰国した。(『後漢書 南匈奴列伝』)

216年、南匈奴の単于(王)呼廚泉(こちゅうせん)は朝貢し、そのまま都へ留め置かれたため、去卑が南匈奴を率いた。(『武帝紀』)

「後漢書」には去卑も来朝し、去卑だけが帰国させられたと記される。(『後漢書 南匈奴列伝』)

249年頃、鄧艾は「右賢王の劉豹(りゅうひょう)は野心深く、侵攻に備えるべきです。前代に顕著な功績を上げた去卑の子孫は冷遇されていますから、高い称号を授けて(魏の勢力圏へ)移住させてください。匈奴内に反乱を扇動し、昔の勲功に恩賞を与えることは、国境を守る長期的戦略です」と上奏し、司馬師はほとんど採用した。(『鄧艾伝』)

「北史」には去卑は呼廚泉の兄の於夫羅(おふら)の叔父と、「新唐書」には劉猛(りゅうもう)の兄と記されるが、劉猛は271年に反乱した人物であり年齢が離れすぎている。時代の下ったこの2つの記述にどこまで信憑性があるのか疑わしいと個人的には思う。



許晏  張弥の相棒


許晏(きょあん)字は不明
出身地不明(??~233)

呉の臣。

張温(ちょうおん)が失脚した時、豫章で反乱鎮圧を任され、5千の兵を預けられたが魏軍の侵攻に際し、静観したことが罪に数えられた。
駱統(らくとう)はそれを弁護し「張温は反乱軍を兵として編入しようとし上手く行きませんでした。しかし彼が徴兵した兵は、数も質も許晏が以前に行った徴兵に劣りません」と言った。(『張温伝』)

232年、呉は海路から遼東の公孫淵(こうそんえん)のもとへ張弥(ちょうび)、執金吾の許晏、賀達(がたつ)ら1万の兵を送り、燕王の位を授けようとした。(『呉主伝』)

一方で公孫淵は魏とも通じており、遠方の呉は当てにならないと考え、233年、呉の使者の張弥、許晏らを殺し、魏へ首を送り恭順の意を示した。(『公孫淵伝』)

「演義」では許宴(きょえん)と誤記(もしくはアレンジ)されている。



許允  李平の罷免に連名した蜀臣C


許允(きょいん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

231年、李平(りへい)の罷免を求める文書に行前護軍・偏将軍・漢成亭侯として連名した。(『李厳伝』)

余談だがこの弾劾文書にしか登場しない蜀臣は9人もいる。



許允  司馬師に弄ばれる


許允(きょいん)字は士宗(しそう)
冀州涿郡高陽県の人(??~254)

魏の臣。
許拠(きょきょ)の子。

名家の出で早くから同郡の崔賛(さいさん)、同州の王経(おうけい)とともに名を知られた。

曹叡の代に袁侃(えんかん)とともに尚書選曹郎となったが、揃って罪を犯し主犯が処刑される見通しとなった。
許允は「私は確実に死罪だが、あなたは功臣の袁渙(えんかん)の子だから殺されはしないだろう」と頼み込み、袁侃が主犯を引き受けた。
許允も投獄されたが死罪は免れ、やがて郡太守から昇進を重ね、侍中・尚書・中領軍に返り咲いた。

妻の阮氏(げんし)は聡明だが容貌は醜く、それを知らずに結婚した許允は愕然とし、妻の部屋に入ろうともしなかった。
ある時、許允のもとを桓範(かんはん)が訪ねると、彼なら招き入れてくれるだろうと考え、夫の部屋に押しかけた。
許允はすぐに出て行こうとし、引き止める阮氏に「お前は妻が持つ4つの徳をいくつ持っている」と問答を仕掛けた。
阮氏は「婦容(容姿)が欠けているだけです。あなたは男の持つ百行をいくつお持ちですか」と返し、全て持っているとうそぶく夫を「百行の筆頭は徳です。しかしあなたは色(美人)を好み徳は好みません」とやり込めた。

許允が郡太守の任命権を司っていた時、曹叡は公平ではないと疑念を抱き彼を呼び寄せた。
一報を聞いた阮氏は裸足で飛び出し、夫に「名君には情にすがっても無駄だから道理で説き伏せるように」と助言を与えた。
許允は書類の届く順序が前後しただけだと弁明し、納得した曹叡は怒りを収め、許允の服が破れているのに気付くと「清廉である」と褒め新しい服を与えた。(『夏侯尚伝』)

249年、権勢を振るった曹爽(そうそう)一派が司馬懿に粛清された時、侍中の許允と陳泰(ちんたい)は曹爽へ降伏を勧め、その使者を務めた。
「世語」には司馬懿は曹爽を懐柔するため許允と陳泰を送った、と記される。(『曹真伝』)

251年、司馬懿が没すると友人の夏侯玄(かこうげん)へこれで安心だと喜んだが、夏侯玄は「あなたはなんて見通しが甘いのだ。司馬懿はまだ私を親交ある一家の後輩として扱ってくれたが、その子らは大目に見るわけがない」と先行きの暗さを見抜いていた。(『夏侯尚伝』)

王基(おうき)は実権を握った司馬師へ政治の心得を説くとともに、許允・傅嘏(ふか)・袁侃・崔賛を「現代の正直の士で正しい気質を持ち、浮ついた心がない」と評し、政治に携わらせるよう推薦した。(『王基伝』)

254年、かねてより司馬氏に不満を抱いていた李豊(りほう)は、夏侯玄を担ぎ上げ司馬師を暗殺する密議を凝らした。
それより以前、ある人が「(司馬師を討ち)夏侯玄を大将軍に、許允を太尉に任じる」偽の詔勅を作り、許允の家に届けた。許允はそれをすぐさま焼き捨て、司馬師にも報告しなかった。

陰謀を察知した司馬師が夏侯玄・李豊の逮捕に動くと、許允は弁明に向かおうとしたが、着替えを取りに戻ったりまごついているうちに両名は逮捕されてしまった。許允が二人と親しく、陰謀も知っていたと司馬師は思い「なぜ諸君が動揺しているのだ」と言い、この時動揺した者は他にも大勢いたが、みな許允のことを言っているのだと思った。

許允は印相(印鑑の吉凶鑑定)の名手で、この頃に自分の印を作らせたが、納得せず3度作り直させた。新調した印を見るや「作らせたばかりなのに汚れている」と言い、届けた者を問いただすと、はたして途中で便所に落としていた。

同年、劉靖(りゅうせい)が死去し、許允が後任の鎮北将軍・仮節督河北諸軍事に決まった。司馬師は「故郷に錦を飾ることになる」と祝福し、許允は大喜びで凱旋に備えて旗や楽器を新調しようとした。甥はさっさと出立すべきだと危惧し、阮氏も「災難が目に見えている」と憂いたが、許允は「お前は物を知らない」と意に介さなかった。
やはり全ては罠であり、厨房の資金横領の罪でたちまち逮捕され、辺境への配流が決まり、その途上で没した。(『夏侯尚伝』)

死の経緯について裴松之は「楽浪郡へ流され、追手に殺された」と記し(『斉王紀』)、255年に反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)は「司馬師は許允に厨房の金を与えておきながらそれを弾劾した。さらに流刑と言いながら餓死させた。天下の人々はそれを聞きみな悲しみ悼んだ」と述べている。(『毌丘倹伝』)

「世語」や「魏氏春秋」には次の異説がある。
許允は曹芳とともに司馬昭の暗殺を企んだ。司馬昭が現れると、役者の雲午(うんご)らが「青い頭の鶏」と繰り返し歌った。鴨=押=暗殺許諾の押印と察した曹芳はおじけづき、実行できなかった。
非常にわかりづらいし、裴松之は「この時点で許允はもう配流されている」ともっともなツッコミを入れている。(『斉王紀』)

夫の悲報が届いても阮氏は顔色一つ変えず、配下が子供達を逃がすよう勧めても必要はないと聞かなかった。

許允は流刑先に赴く途中に没し、墓前に引っ越した遺族を、司馬師は鍾会に命じて偵察させた。
阮氏は二人の息子へ「お前たちは才能豊かというほどではない。思ったままに話し、あまり悲しまず、余計なことは言わず、少し朝廷の様子を質問すればいい」と助言した。
司馬師は息子らが優秀なら逮捕するよう命じていたが、鍾会の報告を聞くと殺すまでもないと考え、放置した。

母の叡智で難を逃れ、元康年間(291~299)に長男の許奇(きょき)は司隷校尉に、次男の許猛(きょもう)は幽州刺史にまで上った。(『夏侯尚伝』)



許儀  鍾会に殺された許楮の子


許儀(きょぎ)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~263)

魏の臣。
許楮(きょちょ)の子。

父が没すると後を継いだ。(『許楮伝』)

263年、牙門将軍として蜀征伐に従軍し、先行して道を整備したが、指揮官の鍾会は橋に穴が空き馬が足を取られたため、許儀を処刑した。功臣(許褚)の子を容赦せず殺したことに将兵は戦慄した。(『鍾会伝』)

泰始年間(265~275)のはじめ、子の許綜(きょそう)が後を継いだ。(『許楮伝』)

「演義」では鍾会は足を取られた隙に蜀軍に殺されそうになったためより激怒している。



許拠  許允の父


許拠(きょきょ)字は不明
冀州涿郡高陽の人(??~??)

魏の臣。

名家の出で典農校尉や各地の郡太守を歴任した。

彼のその後は不明だが254年、息子の許允(きょいん)は友人の李豊(りほう)、夏侯玄(かこうげん)らの反乱に巻き込まれ、配流されて流刑先に赴く途中で没する悲惨な最期を迎えた。(『夏侯尚伝』)



許欽  許靖の子


許欽(きょきん)字は不明
豫州汝南郡平輿県の人(??~??)

許靖(きょせい)の子。

許靖は222年に没した。
子の許欽には先立たれていた。孫の許游(きょゆう)は蜀の尚書に上った。(『許靖伝』)



許栩


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許勛  許慈の子


許勛(きょくん)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
許慈(きょじ)の子。

父は博識で、古代の慣例制度の復興や、宮中制度の制定に携わった。
父が没すると学業を継ぎ、父と同じく博士になった。(『許慈伝』)



許乾  揚州の賊徒たち


許乾(きょけん)字は不明
揚州の人?(??~??)

揚州の賊徒。

揚州では鄭宝(ていほう)・張多(ちょうた)・許乾といった荒くれが跋扈した。
その中で鄭宝が最も大きな勢力を持っていたが、首領に担ごうとした劉曄(りゅうよう)に暗殺された。

劉曄は鄭宝の軍勢を手なづけたが、持て余して廬江太守の劉勲(りゅうくん)に引き渡した。張多・許乾の消息は不明だが、その際に従った可能性もある。
だが劉勲はせっかくもらった軍勢をすぐに孫策に奪われており、張多・許乾の行方はますますわからなくなった。(『劉曄伝』)



許貢  孫策暗殺の黒幕?


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許国  羅憲に推挙された蜀の旧臣D


許国(きょこく)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀・晋の臣。

「襄陽記」に曰く。
蜀滅亡後の268年、蜀の旧臣の羅憲(らけん)は司馬炎に下問され、任用すべき蜀の旧臣として陳寿や許国らの名を挙げ、即刻みな登用されいずれも名声を博した。(『霍峻伝』)



許混


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