三国志 こ 3


孔昱


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孔乂  曹芳を諌めた孔子の子孫


孔乂(こうがい)字は元儁(げんしゅん)
青州魯国の人(??~??)

魏の臣。

「孔氏譜」に曰く。
孔子の子孫で曾祖父は国相、祖父と父も2千石(太守)に上った。(『倉慈伝』)

247年、散騎常侍諫議大夫の孔乂は「礼では天子の宮殿に彫刻は造りますが朱丹の塗料で装飾はしません。古例に従い、天子として過怠なく務め、公正な心を働かせてください。乗馬を学ぶのを辞めて馬車にお乗りください」と曹芳へ諫言した。(『斉王紀』)

「孔氏譜」に曰く。
孔乂の官位は大鴻臚まで上った。
子の孔恂(こうじゅん)は晋の平東将軍衛尉に上った。(『倉慈伝』)



孔桂  曹操の腰巾着


孔桂(こうけい)字は叔林(しゅくりん)
涼州天水郡の人(??~220?)

魏の臣。

建安年間(196~220)のはじめ、楊秋(ようしゅう)の使者として曹操のもとへ赴き、騎都尉に任じられた。
孔桂はこびへつらって人の機嫌を取るのが上手く、博打や蹴鞠を得意としたため曹操に気に入られ、外出に付き添った。
曹操の機嫌の良い時を見計らって進言し、多くが採用され褒美をもらった。彼に取り入ろうと人々も競って贈り物をしたため豪奢な暮らしをできた。

はじめ曹丕と親しくしたが、後継者争いで曹植(そうしょく)が優位に立ったと見るや、曹丕をおろそかにしたため恨まれた。
220年、曹丕が即位すると孔桂は駙馬都尉に任じられたが、西部から賄賂を受け取り人事に口を利こうとしていたことが発覚し、処刑された。

「魏略」で孔桂は秦朗(しんろう)とともに「佞倖篇」に収められた。佞倖とは「こびへつらう」の意である。(『明帝紀』)



孔恂


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孔順  袁譚の佞臣B


孔順(こうじゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

「袁紹伝」の注に引く「九州春秋」にのみ登場。
「袁譚は華彦(かげん)、孔順ら邪悪な小人を信頼して腹心とし、王脩(おうしゅう)らは顧みられずただ官位についているだけだった」と記される。(『袁紹伝』)

ただ「王脩伝」を見る限りそこまで冷遇されてはいない。



孔常  左昌の救援を渋った従事B


孔常(こうじょう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

184年、辺章(へんしょう)が反乱すると、涼州刺史の左昌(さしょう)は軍の編成にかこつけて数千万銭を盗んだ。蓋勲(がいくん)が諌めると逆恨みし、前線に飛ばし敗北させて罪に問おうとしたが、蓋勲はしばしば戦功を上げた。
辺章は金城郡を攻め、蓋勲は救援するよう言ったが左昌は無視した。金城太守の陳懿(ちんい)が戦死し、さらに進軍して左昌も包囲された。
左昌が救援要請を出すと、蓋勲とともに駐屯していた従事の辛曾(しんそう)・孔常らはそれをためらったが、蓋勲は故事を引いて激怒し、すぐさま救援に赴いた。
蓋勲が辺章らの罪を責めると、「左昌があなたの指示に従いすぐ兵を出していたら考えを改めたかも知れないが、ここまで罪を重ねてはもう降伏できない」と言い、辺章は撤退した。

左昌は横領の罪により断罪され、宋梟(そうきゅう)が後任の涼州刺史となった。(『後漢書 蓋勲伝』)



孔信  楊阜とともに馬超を撃退した同志C


孔信(こうしん)字は不明
涼州天水郡の人(??~??)

魏の臣。

213年(※建安17年(212年)と誤記される)、馬超は張魯(ちょうろ)の援軍を得て1万の兵で冀城を陥落させた。
楊阜(ようふ)は城外にいた孔信ら同郷の同志らを密かに集めると城外で挙兵し、馬超が討伐に出た隙に冀城を奪回した。
楊阜は5ヶ所の傷を受け、一族の従弟ら7人が戦死したが撃退に成功した。(『楊阜伝』)



孔羨  孔子の末裔


孔羨(こうせん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
孔子の末裔。

221年、曹丕の詔勅により議郎の孔羨は宗聖侯に取り立てられ、百戸の領邑を与えられ、孔子の祭祀を行った。(『文帝紀』)

太和年間(227~233)頃に司隷校尉を務めた。
杜恕(とじょ)に「孔羨は司馬懿におもねろうと、弟の司馬通(しばつう)のような愚者を招聘した」と批判された。(『杜畿伝』)



孔伷  枯れ木も花を咲かす


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孔宙


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孔忠  呉征伐で撃破された牙門将


孔忠(こうちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

280年、晋の大軍が呉へ侵攻した。王渾(おうこん)は参軍の陳慎(ちんしん)と都尉の張喬(ちょうきょう)に尋陽郡瀬郷を攻めさせ、さらに呉の牙門将の孔忠を撃破し、周興(しゅうこう)ら五将を捕虜にした。(『晋書 王渾伝』)



孔襃


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孔融  儒学の権化


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句安  魏に降り蜀滅亡に寄与した元蜀将


句安(こうあん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀、後に魏の臣。

249年(『郭淮伝』・『後主伝』)、姜維は麴山を利用して2城を築き、それを牙門将軍の句安・李歆(りきん)に守らせ、羌族とともに諸郡を攻めた。
陳泰(ちんたい)は「2城は堅固だが突出しており、羌族はしぶしぶ従っている。包囲して孤立させれば戦うことなく落とせる」と言い、包囲して補給路を断ち切った。句安らは戦いを挑んだが魏軍は応じず、やむなく兵糧を節約し雪を溶かして水を作って耐えた。
姜維も退路を断たれて撤退し、句安・李歆は魏へ降伏した。(『陳羣伝』)

263年、将軍として蜀討伐に従い、爰倩(えんせい)とともに姜維の本隊を追撃した。(『鍾会伝』)

「演義」では李歆は姜維のもとまで援軍要請に走り降伏しなかった。蜀討伐にも従軍する。
「横山三国志」では蜀討伐には登場しなかった。



句扶  王平の相棒


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弘璆  紀陟の相方


弘璆(こうきゅう)字は不明
揚州会稽郡曲阿県の人(??~??)

呉の臣。
弘咨(こうし)の孫。
孫権の母方の甥にあたる。

265年、魏の降伏勧告を受け容れた孫晧は光禄大夫の紀陟(きちょく)と五官中郎将の弘璆を使者に送った。
同年11月、司馬昭が急逝したため呉へ帰国した。

「呉録」に曰く、後に中書令、太子少傅まで上った。(『孫晧伝』)



弘咨  諸葛瑾を推挙した孫権の姉婿


弘咨(こうし)字は不明
揚州会稽郡曲阿県の人(??~??)

呉の臣。
孫権の姉婿。
弘璆(こうきゅう)の祖父。

200年頃、江東に移住した諸葛瑾(しょかつきん)に会い、その非凡さを高く評価して孫権に推挙した。(『諸葛瑾伝』)

「呉録」に曰く、弘璆は孫権の母方の甥にあたる。(※弘咨の孫なら又甥のはずである)(『孫晧伝』)



江宮  李通に敗れた陽安郡の賊徒B


江宮(こうきゅう)字は不明
豫州陽安郡の人?(??~200)

賊徒。

200年、曹操は豫州汝南郡の2県を割き、陽安郡を設置すると李通(りつう)を都尉(太守代行)に任じた。
李通は郡内の賊徒の瞿恭(くきょう)・江宮・沈成(しんせい)を撃破し首を曹操へ送った。(『李通伝』)



侯音  関羽に連動し宛城で反乱


侯音(こうおん)字は不明
出身地不明(??~219)

魏の臣。

218年10月、南陽郡宛県の守将の侯音が反乱し、南陽太守の東里袞(とうりこん)を捕らえ、籠城した。
樊城で関羽に備えていた曹仁が討伐し、翌219年1月に陥落させ侯音を斬った。(『武帝紀』)

侯音は近隣の県を荒らし数千人の官民を捕らえたが曹仁に討伐され、この功により征南将軍に上った。(『曹仁伝』)

侯音・衛開(えいかい)が反乱し、曹仁・龐悳に討伐された。(『龐悳伝』)

「曹瞞伝」に曰く。
この頃、南陽周辺で官民は役務に苦しみ、侯音の反乱に従い東里袞を捕らえ、関羽と同盟した。
南陽郡の功曹の宗子卿(そうしけい)は「あなたが民心に従い決起したことは誰もが支持します。しかし東里袞を捕らえたことは道理に反します。私が協力するから彼を釈放してください」と進言した。
侯音が同意し釈放すると、宗子卿は夜に城を抜け出し、東里袞とともに兵を集めて城を包囲し、曹仁の援軍を得て侯音を討ち取った。(『武帝紀』)

「楚国先賢伝」に曰く。
侯音が反乱した時、功曹の応余(おうよ)は東里袞を助けて逃走した。
追っ手に追いつかれると応余は東里袞をかばい7つの矢傷を受けながら「侯音は理性を失い反乱したが、間もなく討伐される。君たちはもともと善人なのになぜ侯音に従うのか。私が死んで主君(東里袞)が助かるなら悔いはない」と説得し、血と涙を流した。追っ手は心打たれて撤退し、応余は絶命した。
侯音の討伐後、曹仁は応余を手厚く弔い、報告を受けた曹操も感嘆し(故郷の)村の門に業績を記させ、穀物を下賜した。

258年、改めて功績を採り上げられ、孫の応倫(おうりん)を官吏に取り立て、褒美を与えた。(『高貴郷公紀』)

東里袞は反乱に加担した500人を捕らえ、死刑にするよう上奏したが、後任の南陽太守の田豫(でんよ)は彼ら一人一人を説得し、全員を改心させた。(『田豫伝』)



侯諧  呂布配下の彭城国相


侯諧(こうかい)字は不明
出身地不明(??~??)

呂布の臣?

198年、曹操は呂布の討伐に乗り出し、彭城国を落とし、彭城国相の侯諧を捕らえた。(『武帝紀』)



侯成  呂布を負かせた男


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侯声  棗祗の案に反対


侯声(こうせい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

軍祭酒を務めた。
棗祗(そうし)は屯田制を建言し実施に移された。
はじめ牛の数を計算し輸送していたが、棗祗は豊作や凶作の時には不都合だと反対した。曹操は改める必要は無いと考えたが、棗祗が主張を曲げないため、荀彧(じゅんいく)と議論させた。
さらに侯声が「棗祗の案は官に都合が良いが、民には不都合だ」と意見を述べた。
曹操は迷った末に棗祗の案を採用し、屯田都尉に取り立てた。結果、大豊作を招き田地は増大し、国庫は満たされた。(『任峻伝』)



侯選  旗本八旗ダンディ担当


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侯太守  公孫瓚の岳父


侯太守(こうたいしゅ)名は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
太守は役職で名は不明。

公孫瓚(こうそんさん)ははじめ遼西郡の門下書佐となった。容姿美しく大声で目立ち、侯太守に見込まれ、娘をめとり廬植(ろしょく)のもとで経書を学んだ。(『公孫瓚伝』)



侯武陽  焦先を助ける


侯武陽(こうぶよう)字が武陽か
司隸河東郡の人(??~??)

庶民?

190年、白波黄巾軍を避けて、同郷で年長の焦先(しょうせん)と母親を連れ、揚州へ疎開した。
196年、河東郡へ帰り侯武陽は大陽県に家を構えたが、焦先は境に留まった。
211年、馬超らの蜂起により関中は大混乱に陥り、焦先は家族を失い、黄河の河原で草をはみ、衣服さえない暮らしを始めた。
大陽県長の朱南(しゅなん)は彼を見かけると逃亡者だと思い逮捕しようとしたが、侯武陽は狂人だと弁護し、穀物が支給されるように取り計らってやった。

河東郡の董経(とうけい)は奇矯な人物を好んだため、焦先に会いに行き「先ちゃん久しぶりだな。白波黄巾軍から逃げたことを覚えているかい」と旧友のように振る舞った。董経は侯武陽が彼を助けた逸話を知っていたため、黙ったままの焦先に「武陽を覚えているか」とさらに尋ねた。焦先は「もう彼には恩を返した」とだけ答え、それきり黙った。(『管寧伝』)




侯覧


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洪詳


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洪進


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洪明


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皇象  八絶・書


皇象(こうしょう)字は休明(きゅうめい)
徐州広陵郡江都県の人(??~??)

書家。

幼い頃から書に巧みだった。
当時、張超(ちょうちょう ※張邈の弟とは別人)と陳梁甫(ちんりょうほ)が特に書に優れていたが、張超は厳しすぎ、陳梁甫は奔放すぎる欠点があった。
そこで皇象は二人の書風を上手く取捨選択し、独自の書法を確立し、中原に並ぶ者が無いと言われるまでになった。

やがて皇象ら囲碁や絵画の技を究めた8人は、その技術の絶妙さから「八絶」と呼ばれた。(『趙達伝』)

張温(ちょうおん)は、皇象のもとで学問するにあたり、住まいを探し、「立派な志を持つ若者がいる」と華融(かゆう)を紹介された。張温は華融の家に間借りし、朝夕にわたり論談を交わした。
後に二人とも呉の重臣となった。(『孫綝伝』)



浩周  東里袞の噛ませ犬


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浩詳  星と空気を読み王淩を喜ばせる


浩詳(こうしょう)字は不明
兗州東平郡の人(??~??)

平民。

都督の王淩(おうりょう)は甥で兗州刺史の令狐愚(れいこぐ)と結託し、曹芳を帝位から退け曹彪(そうひょう)を擁立する計画を立てた。
249年、令狐愚が病死したが王淩は単独でも計画を進めた。
250年、天文を見て「急に高貴になる者が現れるはずだ」と読み、それが曹彪のことだと考えた。

「魏略」に曰く。
王淩は星占いに優れた浩詳を呼び寄せ意見を求めた。浩詳は呉に死者が出る(※孫権が252年に没する)と読んだが、王淩に何か思惑があるのだろうと空気も読み、喜ばせようとそれを伏せて「王者が勃興する」と言った。そのため王淩は計画を実行したのである。

251年、密告により露見し、王淩は逮捕され自害した。(『王淩伝』)



耿紀  はぶられた男


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耿祉  於夫羅に撃破された度遼将軍


耿祉(こうし)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

於夫羅(おふら)は袁紹・張楊(ちょうよう)を反乱に誘ったが二人とも応じなかったため、張楊を連れ去った。
袁紹は麹義(きくぎ)に追撃させ打ち破ったが、於夫羅は黎陽郡まで逃げ、度遼将軍の耿祉の軍を奪って勢力を盛り返した。
董卓が張楊を河内太守に任命し、解放させた。(『張楊伝』)



耿鄙  悪政で反乱を招いた涼州刺史


耿鄙(こうひ)字は不明
出身地不明(??~187)

後漢の臣。

涼州刺史の耿鄙に信頼された程球(ていきゅう)が私腹を肥やし人々に恨まれていた。
187年、耿鄙が韓遂(かんすい)・王国(おうこく)の反乱鎮圧に向かうと、傅燮(ふしょう)は「あなたは着任して日が浅く、配下はまだ指揮を理解していません。先に地盤を固めるべきです」と諫言したが、耿鄙は却下して出陣し、間もなく反乱により程球とともに殺された。
韓遂らは反撃し傅燮の守る漢陽郡を包囲し、降伏を拒否した傅燮も戦死した。(『後漢書 傅燮伝』)

隴西太守の李相如(りしょうじょ)は反乱して韓遂に合流し、ともに耿鄙を殺した。(『後漢書 董卓伝』)

野心深い劉焉(りゅうえん)は州牧制度の復活を提言し、自ら益州牧への赴任を希望した。
当時、益州刺史の郤倹(げきけん)が悪政で知られ、并州刺史の張懿(ちょうい)・涼州刺史の耿鄙が戦死するなど刺史の失政が相次いでいたため認められた。(『後漢書 劉焉伝』)



耿武  忠烈の士


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耿黼  初代梁州刺史


耿黼(こうほ)字は不明
冀州中山郡の人(??~??)

魏・晋の臣。

264年、益州を分割し梁州が新設されると相国参軍の耿黼が梁州刺史に任じられた。(『華陽国志』)

「魏略」に曰く。
耿黼は焦先(しょうせん)を仙人だと考え、傅玄(ふげん)は「性質は鳥獣と同じだ」と評し、どちらも伝記を書いたが、彼を理解することはできなかった。(『管寧伝』)



耿苞  袁紹に観測気球にされ殺される


耿苞(こうほう)字は不明
出身地不明(??~199?)

袁紹の臣。

「典略」に曰く。
199年、袁紹は易京の戦いで公孫瓚(こうそんさん)を滅ぼすと増長し、朝貢を怠るようになった。そして主簿の耿苞に内密に命じて「漢の徳は衰えた。袁氏が天意に従い後を継ぐべきだ」と建白させた。
(袁紹の)大将軍府の将や官吏にその書を見せると、論者はみな「耿苞はでたらめな妄説を吐いている。処刑すべきだ」と非難した。袁紹は耿苞を殺し嫌疑を晴らした。(『袁紹伝』)



耿臨


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高焉  袁紹に弾劾され亡命した男A


高焉(こうえん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「魏略」に曰く。
公孫瓚(こうそんさん)は袁紹を非難する上表の中で「袁紹は元の上谷太守の高焉と、元の甘陵国相の姚貢(ようこう)を弾劾して理不尽に金を取り立て、金を用意できなかった二人は亡命した」と述べた。(『公孫瓚伝』)



高雅


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高艾  素利に討伐された山賊


高艾(こうがい)字は不明
出身地不明(??~??)

山賊。

数千人を集め幽州・冀州を荒らしたが、田豫(でんよ)の命を受けた鮮卑の大人(指導者)の素利(そり)に討伐され討ち取られた。(『田豫伝』)



高幹  袁紹の野心深い甥


高幹(こうかん)字は元才(げんさい)
兗州陳留郡圉県の人(??~206)

袁紹の甥(妹の子)。

大きな才能と野心を持ち、文武ともに傑出していた。(『高柔伝』)

191年、荀諶(じゅんしん)・郭図(かくと)・張導(ちょうどう)らとともに冀州牧の韓馥(かんふく)を脅し、袁紹に地位を譲らせた。(『袁紹伝』・『臧洪伝』)

199年、并州刺史(并州牧とも)に任じられた。袁紹の長男の袁譚(えんたん)は青州刺史、次男の袁煕(えんき)は幽州刺史の地位にあり、高幹が袁紹から我が子同然に信頼されていたことがうかがえる。(『袁紹伝』)

高名な学者の張臶(ちょうせん)を楽平県令に任じるよう上奏したが、張臶は断り常山へ隠れ住んだ。(『管寧伝』)

高幹は名家の出で名声高く、并州から離れた人士を広く呼び戻していた。名高い仲長統(ちゅうちょうとう)も彼を訪ね厚遇されたが「あなた(高幹)は雄大な志があるが雄大な才能が無い。才能ある人物を好むがそれを見分けられない」と諫言し、自信過剰な高幹は聞き入れず、結局去られてしまった。間もなく高幹は失敗し、仲長統の名声は高まった。(『劉劭伝』)

常林(じょうりん)も上奏で騎都尉に任じられたが断った。(『常林伝』)

従弟(従子?)の高柔(こうじゅう)は招きに応じ、一族を上げて高幹を頼った。(『高柔伝』)

200年、官渡の戦いに際しては并州の兵を率い太行山を超えた、と陳琳(ちんりん)の檄文に見える。(『袁紹伝』)

202年、袁紹が没すると曹操は北上した。袁紹の三男の袁尚(えんしょう)は高幹・郭援(かくえん)に命じて、匈奴の単于(王)とともに河東へ侵攻させた。
馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)もそれに加わろうとしたが、鍾繇(しょうよう)は張既(ちょうき)を派遣して説得させ、馬騰配下の傅幹(ふかん)も説得し、馬騰・韓遂は曹操側に寝返った。郭援は斬られ、匈奴は降伏した。(『鍾繇伝』)

204年、曹操に鄴が包囲されると袁尚配下の牽招(けんしょう)は兵糧を届けたが、帰還中に袁尚軍が撃破された。高幹に救援要請に向かったところ、曹操への降伏を考えていた高幹は邪魔な牽招を殺そうとしたため逃亡し、道も遮断され袁尚に合流できず、やむなく曹操に降った。(『牽招伝』)

鄴が陥落すると高幹は曹操へ降伏した。
曹操は并州刺史としてそのまま高幹に統治させたが翌205年、曹操が袁尚の討伐に向かった隙に反旗を翻した。
上党太守を捕らえ、壺関に籠もり、楽進(がくしん)・李典(りてん)が攻撃したが落とせなかった。(『袁紹伝』)
「武帝紀」には高幹は関の前に陣取ったが楽進・李典に撃破され籠城した、と記される。(『武帝紀』)

河内郡の張晟(ちょうせい)、弘農郡の張琰(ちょうえん)、河東郡の衛固(えいこ)らもそれに呼応して蜂起したが、張既・馬騰・韓遂・賈逵(かき)・杜畿(とき)らによって鎮圧された。(『張既伝』・『賈逵伝』・『杜畿伝』)

また鄴へ奇襲を掛けたが、守る荀衍(じゅんえん)によって返り討ちにされた。(『荀彧伝』)

翌206年、曹操の本隊が迫ると夏昭(かしょう)・鄧升(とうしょう)を残して匈奴へ自ら救援を求めたが失敗した。壺関も3ヶ月の包囲の末に陥落し、高幹は数人の従者とともに荊州へ落ち延びる途上で、都尉の王琰(おうえん)によって首を取られた。(『武帝紀』・『袁紹伝』)

厳幹(げんかん)は高幹を捕らえる策を立て、郭援の討伐にも功績があった。(『裴潜伝』)

梁習(りょうしゅう)が并州刺史に就任した時、并州は高幹による荒廃・混乱の影響で匈奴が州境を荒らし、罪人は匈奴へ逃げ込んでいた。(『梁習伝』)

「演義」でも史実とほぼ同様の事績をたどるが、曹操には降伏せず、并州に逃げ帰ってはしつこく反撃する。



高軌  羅憲に推挙された蜀の旧臣C


高軌(こうき)字は不明
荊州南郡の人(??~??)

蜀・晋の臣。

「襄陽記」に曰く。
蜀滅亡後の268年、蜀の旧臣の羅憲(らけん)は司馬炎に下問され、任用すべき蜀の旧臣として陳寿や高軌らの名を挙げ、即刻みな登用されいずれも名声を博した。(『霍峻伝』)



高躬  高幹の父


高躬(こうきゅう)字は不明
兗州陳留郡圉県の人(??~??)

後漢の臣。
高幹(こうかん)の父。
妻は袁紹の妹。

「謝承後漢書」に曰く、蜀郡太守を務めた。

そのつてか、従兄弟または従子の高靖(こうせい)が蜀郡都尉に赴任している。(『高柔伝』)



高元呂  曹丕の寿命を当てる


高元呂(こうげんりょ)字が元呂か
出身地不明(??~??)

魏の臣?

「魏略」に曰く。
曹操がすぐには太子を立てなかったため、曹丕は疑念を抱き、人相見の巧みな高元呂に占ってもらった。
高元呂は「あなたの高貴さは言葉に表せないほどです。寿命は40歳の時に小さな苦難がありますが、それを過ぎれば心配ありません」と言い、間もなく曹丕は太子に立てられたが、40歳で病没した。(『文帝紀』)



高弘  高柔の祖父


高弘(こうこう)字は不明
兗州陳留郡圉県の人(??~??)

後漢の臣。
高靖(こうせい)の父。高柔(こうじゅう)の祖父。

「陳留耆旧伝」に曰く、孝廉に推挙された。(『高柔伝』)

 


高光  高柔の血を受け継いだ三男


高光(こうこう)字は宣茂(せんぼう)
兗州陳留郡圉県の人(??~308)

晋の臣。
高柔(こうじゅう)の三男。

263年に父が没すると子ではなく孫の高渾(こうこん)が後を継いだ。
260年に高柔の2人の子が列侯されており、爵位のない孫の高渾が後を継いだのだろう。(『高柔伝』)

若くして家業(廷尉)を学び、刑法を熟知した。
はじめ太子舎人となり、昇進を重ねて尚書郎、幽州刺史、頴川太守を歴任した。司馬炎は黄沙獄を設け詔囚(勅命で逮捕された罪人)を管理させていたが、高光の家が代々法に明るいのを見込み、御史中丞と同格の黄沙御史に任じた。後に(高柔と同じく)廷尉に上った。

子の高韜(こうとう)は放埒で節操がなく、高光が廷尉の時に収賄の罪に問われ、高光は気づかず防げなかったことを批判されたが、平生から注意深かったため処罰されなかった。

元康年間(291~299)、列曹尚書に任じられ三公曹を管轄した。
当時は司馬倫(しばりん)が帝位を簒奪し混乱を極めたが、道を守り貞節を保った。
301年、司馬倫が誅殺されると廷尉に復帰し、列曹尚書に移り、奉車都尉を加えられた。
司馬穎(しばえい)の討伐に功績あり延陵県公に封じられ1800戸を与えられた。朝廷の人々は法に明るい高光をこぞって推挙し司法職を歴任した。

304年、司馬衷が都を追われ長安へ移送されると朝臣は逃げ散ったが高光だけが随行した。(『晋書 高光伝』)

略奪により魏・晋で蓄えられた富は全て無くなった。寒さが酷く、司馬衷は落馬して足を痛めた。高光が面衣(顔を覆う絹)を献上し喜ばれた。(『晋書 恵帝紀』)

尚書左僕射に移り、散騎常侍を加えられた。
次兄の高誕(こうたん)は奔放な性格で節度が無い上に人並み外れた荒々しい気性で、(生真面目な)高光を「つまらない節義にこだわる奴」と常々軽視したが、高光は謹直に兄に仕えた。

306年、司馬衷は洛陽に帰還し、高光は司馬熾の少傅となり、光禄大夫を加えられ散騎常侍は元のまま務めた。
307年、司馬熾が即位すると金紫光禄大夫を加えられ、傅祗(ふし)と同等に敬われた。(『晋書 高光伝』)

308年(『晋書 懐帝紀』)、兼任のまま尚書令を務めたが病没し司空・侍中を追贈された。
311年、永嘉の乱により洛陽が陥落した混乱から諡号は与えられなかった。

高韜は父のコネで兼右衛将軍とにり宮殿の小人物と交流あったため、父の死後も往来は絶えなかった。
だが司馬越(しばえつ)の誅殺を企んだのが露見し処刑された。(『晋書 高光伝』)



高渾  高柔の後継ぎの孫


高渾(こうこん)字は不明
兗州陳留郡圉県の人(??~??)

魏・晋の臣。
高柔(こうじゅう)の孫。

263年、祖父が没すると後を継いだ。
咸熙年間(264~265)に五等級の爵位制度が設けられると、改めて功績を採り上げられ高渾も昌陸子に取り立てられた。(『高柔伝』)

260年に高柔の2人の子が列侯されており、爵位のない孫の高渾が後を継いだのだろう。



高賜


未作成



高寿  夜襲で曹丕に肉薄する


高寿(こうじゅ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「呉録」に曰く。
225年、曹丕は10万の兵で広陵郡まで出兵したが、冬で長江が凍り軍船を入れられず撤退した。
孫韶(そんしょう)は高寿に兵500で待ち伏せさせ、夜襲を仕掛けた。曹丕は大いに取り乱し、皇帝の副車(2号車)と羽蓋(馬車の傘)を奪われた。(『呉主伝』)



高柔  魏の最長老


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高順  硬骨漢


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高儁  高柔の長男


高儁(こうしゅん)字は不明
兗州陳留郡圉県の人(??~??)

魏の臣。
高柔(こうじゅう)の長男。

「晋諸公賛」に曰く、大将軍掾になった。
弟の高誕(こうたん)、高光(こうこう)も高位に上り高光は「晋書」に列伝される。

263年に父が没すると子ではなく孫の高渾(こうこん)が後を継いだ。
260年に高柔の2人の子が列侯されており、その一人が高儁で、爵位のない孫の高渾が後を継いだのだろう。(『高柔伝』)



高尚


未作成



高承  孫策の朝貢の使者B


高承(こうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

孫策の臣。

「江表伝」に曰く。
孫策は江南を制圧すると奉正都尉の劉由(りゅうゆう)と五官掾の高承を使者に立て朝貢した。(『孫策伝』)



高昌


未作成



高祥  高翔・高詳と同一人物?


高祥(こうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

「魏略」に収録された曹叡の布告に曰く、(228年の街亭の戦いで)馬謖(ばしょく)・高祥は魏軍の旗を見ただけで戦意喪失し敗北した。(『明帝紀』)

「郭淮伝」に街亭の戦いで郭淮に撃破された高詳(こうしょう)という人物がおり、同一人物だろう。
高翔(こうしょう)とも同一人物と推測されることが多いが、「蜀書」に2ヶ所で登場する高翔には街亭の戦いに参加した記録が無く曖昧である。
いちおう高翔・高祥・高詳の項は分ける。



高勝  李厳に討伐された賊徒B


高勝(こうしょう)字は不明
出身地不明(??~218)

賊徒。

218年、盗賊の馬秦(ばしん)・高勝は反乱し、数万の兵を集め犍為郡資中県へ侵攻した。
この時、劉備は漢中で曹操と戦っており、犍為太守の李厳(りげん)は援軍を要請せず郡管轄の5千の兵だけで討伐し、馬秦・高勝を討ち取った。残党は四散し配下はことごとく民に戻った。(『李厳伝』)



高翔  蜀の裏方将軍


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高詳  高翔・高祥と同一人物?


高詳(こうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

219年、夏侯淵が漢中郡陽平で戦死すると、曹操は曹真(そうしん)に徐晃らを指揮させて攻撃し、陽平を守る高詳を撃破した。(『曹真伝』)

228年、馬謖(ばしょく)が街亭に、高詳が列柳城に駐屯したがともに張郃に撃破された。(『郭淮伝』)

「明帝紀」に引かれる「魏略」に街亭の戦いで敗北した高祥(こうしょう)という人物がおり、同一人物だろう。
高翔(こうしょう)とも同一人物と推測されることが多く、「演義」では列柳城に駐屯するのは高翔だが、「蜀書」に2ヶ所で登場する高翔には街亭の戦いに参加した記録が無く曖昧である。

いちおう高翔・高祥・高詳の項は分ける。



高進  高望の子


高進(こうしん)字は不明
司隷京兆郡の人(??~??)

後漢の臣。
高望(こうぼう)の子。

父は宦官で、太子の劉弁(りゅうべん)に寵愛された。
劉弁が高望の子の高進を孝廉に挙げるよう蹇碩(けんせき)に頼むと、京兆尹の蓋勲(がいくん)が阻止した。
親しい者に「太子・高望・蹇碩の大きな3つの恨みを受ける」と心配されたが「(孝廉で)賢人を選ぶのは国に報じることだ。賢人でなければ推挙しない。死んでも悔いはない」と言った。
霊帝は重大事があると蓋勲に詔勅を下して意見を求め、しばしば褒美を与え、朝廷の群臣よりも信任した。(『後漢書 蓋勲伝』)

189年、大将軍の何進(かしん)が宦官に暗殺されると、配下の袁紹は宮中へ突入し、宦官を皆殺しにした。
「山陽公載記」に曰く、中常侍の高望も殺された。(『後漢書 袁紹伝』)

高進の消息は不明だが無事ではあるまい。



高靖  高柔の父


高靖(こうせい)字は不明
兗州陳留郡圉県の人(??~??)

後漢の臣。
高柔(こうじゅう)の父。

高靖は益州蜀郡の都尉に赴任し、留守を預かる高柔は郷里の人々へ「陳留郡は四方から攻撃にさらされる土地で、兗州刺史の曹操も逆に四方への進撃を目論み、陳留太守の張邈(ちょうばく)はその隙を狙っている」と対策を講じるよう呼び掛けた。しかし曹操と張邈は親しく、高柔も年少だったため誰も耳を貸さなかった。
(※194年、張邈は曹操の留守をついて挙兵し、高柔の懸念は的中する)

「謝承後漢書」に曰く、一族の高躬(こうきゅう)が蜀郡太守を務めていた。(『高柔伝』)



高遷  地味に二ヶ所に登場


高遷(こうせん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

220年、呉の陳邵(ちんしょう)が襄陽を占拠すると曹仁・徐晃は攻撃を命じられ、奪還した。
曹仁は高遷に命じて新たに従属した漢水南部の住民を北部へ移住させた。(『曹仁伝』)

222年、江陵城の攻撃にあたり夏侯尚(かこうしょう)は中洲に布陣し、浮き橋を作ろうとした。
董昭(とうしょう)は「武帝(曹操)は智勇ともに人並み外れながら敵を侮りませんでした。夏侯尚は敵を侮って退路を考えず兵を狭い浮き橋に集めようとしています。孤立すれば中洲の兵は全て寝返るでしょう。また長江の水も増水し氾濫の危険があります」と上奏した。
曹丕は即座に撤退を指示したが、危惧通りに退路が一本しかなかったため追撃で痛手を被り、石建(せきけん)・高遷は自力でなんとか撤退した。10日後には長江も突如として増水し、曹丕は「なんと明晰な判断か。張良・陳平が対処したとしてもこれ以上ではない」と董昭を激賞した。(『董昭伝』)



高祚  漢中征伐でラッキーパンチを喰らわせた(?)将B


高祚(こうそ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

215年、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)の征伐に乗り出すと、張魯の弟の張衛(ちょうえい)らは陽平関に籠城した。十余里に渡る山城が築かれており、攻略できず曹操は兵を引いた。
それを見た張衛が警戒を解くと、曹操は解𢢼(かいひょう)・高祚に山越えをさせ、夜襲を仕掛けさんざんに打ち破った。(『武帝紀』)

次の異説がある。

「世語」に曰く。
兵糧が尽きたため曹操は撤退しようとし、郭諶(かくしん)が「張魯は(内心では)降伏しており、魏の使者を引き止めています。張衛だけが抵抗し孤立しており、このまま戦いを続ければ必ず勝てますが、敵中深くから撤退すれば絶対に敗北します」と反対したが、なおもためらっていた。
夜、野生の鹿が数千頭、たまたま張衛の陣地に侵入し、さらに高祚の軍が誤って張衛軍に出くわした。高祚が軍鼓を鳴らして味方を呼ぶと、張衛は大軍に急襲されたと思い込み、降伏した。

「魏臣名奏」の董昭(とうしょう)の上表に曰く。
「武帝(曹操)は撤退しようとし、夏侯惇・許褚に命じて山上の部隊を収容させようとしました。ところが兵は道に迷い、誤って張魯の陣営に入り込み、急襲されたと思い込んだ張魯軍は撤退しました。報告を受けた夏侯惇・許褚は信じられなかったが、自分の目で確かめ、制圧しました」

「魏臣名奏」の楊曁(ようき)の上表に曰く。
「武帝(曹操)は自ら十万の軍勢を率い、張衛の守備など問題にならないと考えていた。ところが漢中は天然の要害で、いくら精鋭や勇猛な将がいても手の打ちようがなかった。対峙すること3日間、ついに「挙兵して30年になるが、初めて人に(勝利を)くれてやるのはどうかな」と弱音を吐き撤退を決めたが、天運が味方し、張魯が自壊した隙をつき漢中を平定しました」(『張魯伝』)

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