高幹 袁紹の野心深い甥
高幹(こうかん)字は元才(げんさい)
兗州陳留郡圉県の人(??~206)
袁紹の甥(妹の子)。
大きな才能と野心を持ち、文武ともに傑出していた。(『高柔伝』)
191年、荀諶(じゅんしん)・郭図(かくと)・張導(ちょうどう)らとともに冀州牧の韓馥(かんふく)を脅し、袁紹に地位を譲らせた。(『袁紹伝』・『臧洪伝』)
199年、并州刺史(并州牧とも)に任じられた。袁紹の長男の袁譚(えんたん)は青州刺史、次男の袁煕(えんき)は幽州刺史の地位にあり、高幹が袁紹から我が子同然に信頼されていたことがうかがえる。(『袁紹伝』)
高名な学者の張臶(ちょうせん)を楽平県令に任じるよう上奏したが、張臶は断り常山へ隠れ住んだ。(『管寧伝』)
高幹は名家の出で名声高く、并州から離れた人士を広く呼び戻していた。名高い仲長統(ちゅうちょうとう)も彼を訪ね厚遇されたが「あなた(高幹)は雄大な志があるが雄大な才能が無い。才能ある人物を好むがそれを見分けられない」と諫言し、自信過剰な高幹は聞き入れず、結局去られてしまった。間もなく高幹は失敗し、仲長統の名声は高まった。(『劉劭伝』)
常林(じょうりん)も上奏で騎都尉に任じられたが断った。(『常林伝』)
従弟(従子?)の高柔(こうじゅう)は招きに応じ、一族を上げて高幹を頼った。(『高柔伝』)
200年、官渡の戦いに際しては并州の兵を率い太行山を超えた、と陳琳(ちんりん)の檄文に見える。(『袁紹伝』)
202年、袁紹が没すると曹操は北上した。袁紹の三男の袁尚(えんしょう)は高幹・郭援(かくえん)に命じて、匈奴の単于(王)とともに河東へ侵攻させた。
馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)もそれに加わろうとしたが、鍾繇(しょうよう)は張既(ちょうき)を派遣して説得させ、馬騰配下の傅幹(ふかん)も説得し、馬騰・韓遂は曹操側に寝返った。郭援は斬られ、匈奴は降伏した。(『鍾繇伝』)
204年、曹操に鄴が包囲されると袁尚配下の牽招(けんしょう)は兵糧を届けたが、帰還中に袁尚軍が撃破された。高幹に救援要請に向かったところ、曹操への降伏を考えていた高幹は邪魔な牽招を殺そうとしたため逃亡し、道も遮断され袁尚に合流できず、やむなく曹操に降った。(『牽招伝』)
鄴が陥落すると高幹は曹操へ降伏した。
曹操は并州刺史としてそのまま高幹に統治させたが翌205年、曹操が袁尚の討伐に向かった隙に反旗を翻した。
上党太守を捕らえ、壺関に籠もり、楽進(がくしん)・李典(りてん)が攻撃したが落とせなかった。(『袁紹伝』)
「武帝紀」には高幹は関の前に陣取ったが楽進・李典に撃破され籠城した、と記される。(『武帝紀』)
河内郡の張晟(ちょうせい)、弘農郡の張琰(ちょうえん)、河東郡の衛固(えいこ)らもそれに呼応して蜂起したが、張既・馬騰・韓遂・賈逵(かき)・杜畿(とき)らによって鎮圧された。(『張既伝』・『賈逵伝』・『杜畿伝』)
また鄴へ奇襲を掛けたが、守る荀衍(じゅんえん)によって返り討ちにされた。(『荀彧伝』)
翌206年、曹操の本隊が迫ると夏昭(かしょう)・鄧升(とうしょう)を残して匈奴へ自ら救援を求めたが失敗した。壺関も3ヶ月の包囲の末に陥落し、高幹は数人の従者とともに荊州へ落ち延びる途上で、都尉の王琰(おうえん)によって首を取られた。(『武帝紀』・『袁紹伝』)
厳幹(げんかん)は高幹を捕らえる策を立て、郭援の討伐にも功績があった。(『裴潜伝』)
梁習(りょうしゅう)が并州刺史に就任した時、并州は高幹による荒廃・混乱の影響で匈奴が州境を荒らし、罪人は匈奴へ逃げ込んでいた。(『梁習伝』)
「演義」でも史実とほぼ同様の事績をたどるが、曹操には降伏せず、并州に逃げ帰ってはしつこく反撃する。
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