三国志 か 5


毌丘奥  益州刺史まで上った毌丘倹の孫


毌丘奥(かんきゅうおう)字は不明
司隸河東郡聞喜県の人(??~??)

晋の臣。
毌丘宗(かんきゅうそう)の子。毌丘倹(かんきゅうけん)の孫。

「世語」に曰く。
255年、毌丘倹は反乱すると毌丘宗ら4人の子を(援軍を求めるための人質として)呉へ送った。
毌丘倹は敗死したが毌丘宗らは無事で、280年の三国統一後に帰国した。
毌丘宗は名将だった父の風格があり、零陵太守に上った。毌丘奥は巴東監軍・益州刺史まで上った。(『毌丘倹伝』)



毌丘毅  丹陽郡での徴兵に劉備が同行


毌丘毅(かんきゅうき)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

大将軍の何進(かしん)は都尉の毌丘毅に揚州丹陽郡での徴兵を命じ、官を棄て流浪する劉備はそれに同行した。
徐州下邳郡で賊軍に襲われ、奮戦した功績により下密県丞になったが、またも官を棄てた。(『先主伝』)



毌丘倹  裏切りの名将


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毌丘興  毌丘倹の父


毌丘興(かんきゅうこう)字は不明
司隸河東郡聞喜県の人(??~??)

魏の臣。
毌丘倹(かんきゅうけん)の父。

214年、安定太守に赴任する際、曹操は「羌族はよしみを通じたいと考えており、向こうから使者を送ってくる。こちらから使者を送れば、使者は立場に付け込み自身が利益を得ようとするだろう」と注意を与えた。
だが毌丘興は着任すると范陵(はんりょう)を使者として送ってしまい、范陵は羌族をそそのかし自分を都尉にするよう要求させた。
曹操は「そうなるに違いないと予知していた。私が聖人だからではない。経験豊富なだけだ」と言った。(『武帝紀』)

黄初年間(220~226)に武威太守となった。(『毌丘倹伝』)

220年、曹操が没すると西平郡の麴演(きくえん)が二度にわたり反乱した。
張進(ちょうしん)・黄華(こうか)ら雍州・涼州の豪族が揃って反乱し大勢力となり、武威太守の毌丘興は前に麴演を討伐した蘇則(そそく)に救援を求めた。
蘇則は金城郡に駐屯する郝昭(かくしょう)・魏平(ぎへい)と合流し、速攻を仕掛けた。
まず武威郡を攻める三種の異民族を降伏させ、毌丘興とともに張進を攻めた。騙し討ちしようとした麴演を逆に騙して処刑し、張進を討ち取り、黄華を降伏させた。(『蘇則伝』)

雍州刺史の張既(ちょうき)は上奏し「河右は長く戦乱の中にあり、武威郡は要所に当たるうえ異民族と国境を接し、たびたび戦火にかかっていました。毌丘興は着任すると内外を平定し、張進・黄華の反乱には涙を流して憤慨し、1万人の民は感激して忠誠を誓いました。捕らえられた太守の杜通(とつう)、張睦(ちょうぼく)を救出し、張掖郡の民は彼を慕い移住しました。全ての任地で心力を尽くした国家の良吏です。恩賞を与えてください」と激賞した。

毌丘興は反逆者を討ち、河右一帯を切り拓き、蘇則に次ぐ名声を得た。張進と異民族を討伐した功績により、高陽郷侯に列侯され、都に上り将作大匠になった。

没すると子の毌丘倹が爵位を継いだが、255年に反乱し三族皆殺しとなった。(『毌丘倹伝』)



毌丘芝  何曾に救われた娘


毌丘芝(かんきゅうし)字は不明
司隷河東郡聞喜県の人(??~??)

劉子元(りゅうしげん)の妻。
毌丘甸(かんきゅうでん)と荀氏(じゅんし)の娘。

255年、反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)が討伐されると、息子の毌丘甸と、その妻の荀氏も連座させられた。族兄の荀顗(じゅんぎ)ら一族が助命嘆願したため釈放されたが、その娘の毌丘芝も、既に劉子元へ嫁いでいたが逮捕されていた。
荀氏は何曾(かそう)へ、自分が代わりに奴婢になるから娘を助けて欲しいと願い出て、同情した何曾は程咸(ていかん)に命じて審議書を作らせた。その中で「既に嫁いだ娘も連座させるのは、悪人の一族を殲滅したいからです。しかし男は他家の罪に問われないのに、女だけが嫁いだ後も実家の罪に問われるのは公平ではありません」と述べ、夫の家の罪にだけ連座するよう法改正させ毌丘芝を助けた。(『何夔伝』・『晋書 何曾伝』)



毌丘秀  呉へ亡命した毌丘倹の弟


毌丘秀(かんきゅうしゅう)字は不明
司隷河東郡聞喜県の人(??~??)

魏の臣。
毌丘興(かんきゅうこう)の子。毌丘倹(かんきゅうけん)の弟。

255年、文欽(ぶんきん)とともに反乱した毌丘倹は敗走し、弟の毌丘秀と孫の毌丘重(かんきゅうちょう)だけを連れて逃げたが、水辺の草に身を潜めていたところを民兵の張属(ちょうぞく)に射殺された。
毌丘秀と毌丘重は呉へ亡命した。(『毌丘倹伝』)

その後の事績は不明だが「世語」に呉へ(人質として)送られた毌丘倹の4人の子は三国統一後に帰国したとあり、存命なら毌丘秀と毌丘重も同行しただろう。



毌丘宗  毌丘倹の生き延びた子


毌丘宗(かんきゅうそう)字は子仁(しじん)
司隸河東郡聞喜県の人(??~??)

魏・晋の臣。
毌丘倹(かんきゅうけん)の子。

255年、毌丘倹は反乱したが敗死し、子の毌丘甸(かんきゅうでん)らも三族皆殺しとなった。

他の毌丘宗ら4人の子は(援軍を求めるための人質として)呉へ送られていたため無事だった。
280年、呉が滅亡すると兄弟は中原へ帰り、毌丘宗は名将だった父の風格があり、零陵太守に上った。
その子の毌丘奥(かんきゅうおう)は巴東監軍・益州刺史まで上った。(『毌丘倹伝』)



毌丘重  呉へ亡命した毌丘倹の孫


毌丘重(かんきゅうちょう)字は不明
司隷河東郡聞喜県の人(??~??)

魏の臣。
毌丘倹(かんきゅうけん)の孫。

255年、文欽(ぶんきん)とともに反乱した毌丘倹は敗走し、弟の毌丘秀(かんきゅうしゅう)と孫の毌丘重だけを連れて逃げたが、水辺の草に身を潜めていたところを民兵の張属(ちょうぞく)に射殺された。
毌丘秀と毌丘重は呉へ亡命した。(『毌丘倹伝』)

その後の事績は不明だが「世語」に呉へ(人質として)送られた毌丘倹の4人の子は三国統一後に帰国したとあり、存命なら毌丘秀と毌丘重も同行しただろう。



毌丘甸  父の反乱をそそのかす


毌丘甸(かんきゅうでん)字は子邦(しほう)
司隸河東郡聞喜県の人(??~255)

魏の臣。
毌丘倹(かんきゅうけん)の子。

都で名声があり治書侍御史を務めた。
254年、曹芳が廃位されると、父に「あなたは一方面の司令官として重きを置かれています。国家が傾き引っくり返っている時に、落ち着き払ってじっとしていたら、四海の人々から責められるでしょう」と暗に挙兵をそそのかした。

翌255年、毌丘倹が反乱すると、かねてから毌丘甸を憎んでいた司馬師は屈𩑺(くつぜん)がどこにいるか尋ね、「彼が行かなければ何もできまい」と言った。
反乱は失敗し毌丘倹は討たれた。

毌丘甸は挙兵前に家族を連れて新安霊山へ逃げていたが、司馬師に攻撃されて陥落し、三族皆殺しとなった。(『毌丘倹伝』)

捕らえられた毌丘甸と妻の荀氏(じゅんし)は処刑を命じられた。族兄の荀顗(じゅんぎ)ら一族が助命嘆願したため荀氏は離縁を認められ釈放されたが、その娘の毌丘芝(かんきゅうし)も、既に他家へ嫁いでいたが逮捕されていた。
荀氏は何曾(かそう)へ、自分が代わりに奴婢になるから娘を助けて欲しいと願い出て、同情した何曾は程咸(ていかん)に命じて審議書を作らせた。その中で「既に嫁いだ娘も連座させるのは、悪人の一族を殲滅したいからです。しかし男は他家の罪に問われないのに、女だけが嫁いだ後も実家の罪に問われるのは公平ではありません」と述べ、夫の家の罪にだけ連座するよう法改正させ毌丘芝を助けた。(『何夔伝』・『晋書 何曾伝』)

他の毌丘宗(かんきゅうそう)ら4人の子は(援軍を求めるための人質として)呉へ送られていたため無事だった。
280年、呉が滅亡すると兄弟は中原へ帰り、毌丘宗は零陵太守に上った。(『毌丘倹伝』)

「演義」でも同様に父をそそのかした。



甘瓌


未作成



甘公  陶謙の大成を見抜いた岳父


甘公(かんこう)字は不明
揚州丹陽郡余姚県の人(??~??)

後漢の臣。
公は名ではなく敬称か。

「呉書」に曰く。
陶謙(とうけん)は14歳になっても村中の子供を引き連れ遊んでいた。
元の蒼梧太守で同郷の甘公は通りがかった陶謙の容貌を見ると、馬車を止めて語り合い大いに気に入り、娘をめとらせると約束した。甘公の妻は「陶謙はけじめがなく、気ままに遊び呆けているのに娘をやれない」と激怒したが、甘公は「陶謙は人並み外れた容貌で、成長すれば必ず大成する」と言い、約束通り嫁に出した。

やがて陶謙は徐州牧に上った。(『陶謙伝』)



甘皇后  劉備の古女房


甘皇后(かんこうごう)名は不明
豫州沛国の人(??~??)

劉備の側室。
劉禅の母。
「夔州府志」によると名は甘梅(かんばい)。

194年、劉備が豫州刺史として小沛に赴任すると側室に迎えられた。
劉備はたびたび正室を失っており、甘夫人は正室に昇格することこそ無かったが、奥向きのことは彼女が取り仕切った。(『甘皇后伝』)

207年、劉禅が生まれた。(『後主伝』)
翌208年、長坂の戦いで劉備は曹操に撃破され、甘夫人と劉禅は置き去りにされたが、趙雲に守られ無事だった。

没年は不明だが荊州南郡に埋葬された。
222年に皇思夫人(こうしふじん)と諡して益州へ移葬が決まった。しかしその途上で劉備が没してしまった。
諸葛亮は頼恭(らいきょう)らと討議し「夫人は品行うるわしく仁徳を修め、その身を慎まれるしとやかな方でした。皇帝(劉備)は移葬を命じたが到着前に崩御された。昭烈皇后(しょうれつこうごう)と諡し皇帝とともに葬りましょう」と上奏し、その通りに詔勅が下された。(『甘皇后伝』)

なお「昭烈」は劉備の諡号で、甘夫人の諡号は無く、単に甘皇后と記される。

「演義」では出番が多く、劉備が呂布や曹操に本拠地を奪われるたびに捕虜にされる。いわゆる関羽千里行で護衛されていた夫人も彼女である。

余談だがwiki等で没年は209年頃と書かれるが、その根拠として「劉備は夫人をすべて失ったため孫夫人(孫尚香)を正室に迎えた」とされることが多い。しかし正史に夫人を全て亡くした記述はなく、そもそも甘夫人は側室なので、存命でも孫夫人を正室に迎えられる。
「演義」は甘夫人の没年を209年頃、「吉川三国志」は甘夫人を正室と設定しており、それを誤認したのではなかろうか。
従って甘夫人の没年は長坂の戦いの208年から、埋葬された荊州南郡が劉備の支配下にあった219年まで(※214年の益州制圧後なら益州に埋葬されるだろうから214年までが妥当だが、劉備と不仲ならありえなくない)幅広く取れる。
一つ気になったのが甘夫人の移葬が決まった222年はすでに南郡は呉に奪われていたはず。
もしや夷陵の戦いで劉備はいったん南郡までは奪回し、甘夫人の遺体を取り戻して移葬を命じたということか?



甘始  曹植に一刀両断された方術士


甘始(かんし)字は不明
冀州甘陵郡の人(??~??)

方術士。

「博物志」に曰く。
曹操は道家の養生の法に詳しく、方術士の左慈、華佗(かだ)、甘始、郤倹(げきけん)らを招いた。(『武帝紀』)

曹丕の「典論」に曰く。
行気(呼吸術)に巧みで年を取っても若々しい顔だった。人々は彼ら方術士を見習い、甘始がやってくると体操や行気が流行し、董芬(とうふん)はやりすぎて窒息し死にかけた。

曹植(そうしょく)の「弁道論」に曰く。
「曹操は左慈・甘始・郤倹らを招き、みな300歳になると公言していた。彼らを宮廷に集めたのは人心を惑わさないようにするためで、我ら一家は父(曹操)や兄(曹丕)ともどもお笑い草だと信じていなかった。
だから甘始らの待遇には限度があり、俸禄は役人に及ばず、褒美も与えなかった。
甘始は若々しく他の方術士も心服していたが、話すことの裏付けはなく、時に怪しいことも言った。
私と二人きりで話すと、自分の師は韓世雄(かんせゆう)といい、ともに錬金術でこさえた数万斤の黄金を海に捨てたとか、梁冀に献上した宝物は惜しかったとか、西国では子供が生まれると健康のため脾臓を取り除くとか、高温の油の中でも鯉をフライにさせない薬があるなどという話を披露した。
私がその薬を見たいと言うと、1万里の彼方に置いてあるから無理だと断られた。他にも色々話したが特に怪しげな話だけをこうして紹介する。
もし秦や前漢の時代に甘始が生まれていれば、徐市(徐福)や欒大(※皇帝をたぶらかした方術士)の仲間入りしただろう」(『華佗伝』)



甘寧  鈴が鳴る ヤツが来る


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甘醴  士燮の残党


甘醴(かんれい)字は不明
交州交趾郡の人(??~??)

士燮(ししょう)の臣。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、抵抗した士燮の子の士徽(しき)は敗北し、士氏の勢力は一掃された。
残党の甘醴・桓治(かんち)はなおも抵抗したが、呂岱に打ち破られ南方は平定された。(『呂岱伝』)



邯鄲淳  魏で初めて古文を伝える


邯鄲淳(かんたんじゅん)字は子叔(ししゅく)
豫州潁川郡の人(131~??)

魏の臣。
別名は邯鄲竺(かんたんじく)。

143年、曹娥(そうが)は溺死した父の遺体を探し、見つからず長江へ身を投げた。
県令の度尚(どしょう)は孝行に感心し、曹娥を葬り魏朗(ぎろう)と13歳の邯鄲淳に碑文を書かせた。魏朗は邯鄲淳の碑文を見ると自分の作品を破り捨てた。(『後漢書 列女伝』)

後に蔡邕(さいよう)が碑文を読み「黄絹幼婦 外孫韲臼」と記した。
曹操が楊脩(ようしゅう)にその意味を尋ねると、「絶妙」の暗号だと解読した。(『世説新語』)

「魏略」に曰く。
広く学問を修め文章の才能があり、特に古字に詳しかった。
初平年間(190~193)、三輔から荊州へ移住した。
208年、曹操が荊州を制圧すると、かねてから名を聞いていた邯鄲淳と会見し、大いに敬意を払った。
当時、曹丕は優れた儒学者を集めており、邯鄲淳を文学掾(配下)にしようとしたが、弟の曹植(そうしょく)も同時に招き、曹操は邯鄲淳を曹植のもとへ行かせた。
曹植は大いに喜び、身体を清めると半裸になり、異国風に踊りつつお手玉し、剣を振るいながら小話を口ずさみ「いかがかな」と言った。
そして衣服を整え威儀を正すと、森羅万象から歴史、文学、政治、軍事をとうとうと語り、一座の者は黙ったまま何も対抗できず、邯鄲淳は夕暮れになって帰ると知り合いへ曹植は天人だと言った。
曹操の後継者争いが起こると、曹植の才能をしばしば称揚したため、曹丕はいささか不機嫌になった。
220年、曹丕は帝位につくと博士給事中に任じた。邯鄲淳は「投壺賦」を作って献上し、曹丕は出来栄えを褒め絹1千匹を与えた。(『王粲伝』)

「魏略」は邯鄲淳を儒学の宗家7人の一人に挙げている。(『王朗伝』)

邯鄲淳・楊脩らも文学的才能に優れたが、建安七子には及ばない。(『王粲伝』)

胡昭(こしょう)は隷書に巧みで鍾繇(しょうよう)・邯鄲淳・衛覬(えいき)・韋誕(いたん)と並ぶ名声があり、よく手本とされた。(『管寧伝』)

「四体書勢」の著者の衛恒(えいこう)も能書家で、「魏で初めて邯鄲淳が古文を伝えた。衛覬が邯鄲淳の書を真似ると、あまりに上手く本人にも区別が付かなかった。
正始年間(240~249)にはその書法は失われたが、当時の書法は結局は邯鄲淳を真似たものである。
曹喜(そうき)に書を学び、ほぼその妙技を究めた。韋誕は邯鄲淳に学んだが及ばず、蔡邕も古今の書法を取り入れ巧みだったが、精密にしてのびのびと条理があるところは邯鄲淳に及ばなかった。
梁鵠(りょうこく)は大字を書き、邯鄲淳は小字を書いた。梁鵠は、邯鄲淳は王次仲(おうじちゅう)の書法をものにしたのだと言った。しかし梁鵠の筆使いも充分に筆勢を尽くしている」と記した。
また後漢末の書家の左子邑(さしゆう)も、名声こそ梁鵠・邯鄲淳に少し及ばないが、やはり有名だった。(『晋書 衛瓘伝』)

また「笑林」という笑い話集を著している。

「演義」では13歳の時に曹娥の碑文を書いた逸話のみ記される。



邯鄲商  張猛に殺された初代雍州刺史


邯鄲商(かんたんしょう)字は子異(しい)
兗州陳留郡の人(??~209)

魏の臣。

黄河西岸の四郡は涼州の支配域から遠く、水賊が跋扈していたため、張猛(ちょうもう)は新たに州を設置し管轄下に置くよう上書した。
209年、朝廷(曹操)はそれを容れ、新たに雍州を設けると邯鄲商を刺史に任じ、かつて張猛の父の張奐(ちょうかん)が同地で名声を博したことから、欠員となった武威太守に張猛を任命した。

張猛と邯鄲商は同い年で、いつもふざけて馬鹿にし合っていたが、ともに任地に向かう途中に険悪となった。到着すると邯鄲商は張猛を殺そうとしたため、それを察知した張猛は先手を打って攻撃した。
邯鄲商は屋根の上に逃げ「死んでも知覚があればお前の一族を皆殺しにするぞ」と脅した。
邯鄲商は捕縛されたが、逃亡を企てたため殺された。

張猛は「弔う者は処刑する」と布告したが、龐淯(ほういく)は構わず邯鄲商を弔うと、張猛を訪ね暗殺しようとした。
失敗したが張猛は「私は刺史を殺して罪を犯し、彼は至忠で名声を得る。彼を殺せば州の道義ある人々は誰も従わない」と嘆息し、義士であると讃え、殺さないよう命令し、龐淯は忠烈さで名声を博した。

210年、韓遂(かんすい)が上書し、張猛を討伐した。官民はその勢いを恐れこぞって寝返った。
かつて父の張奐が武威太守の頃、張猛は母の腹の中にいた。母は夫の印綬を持ち二階に登り、歌っている夢を見た。夢占い師に尋ねると「男子が生まれて武威に戻り、必ず在官のまま死ぬでしょう」と言われた。
張猛は邯鄲商の言葉と母の夢を思い出すと「死者に知覚がなければそれまでだが、もしあるのならば父祖の墓に参ろう」と言い、二階に登り火を放って自害した。(『龐淯伝』)



桓威  「渾輿経」を著す


桓威(かんい)字は不明
徐州下邳郡の人(??~??)

魏の臣。
「王粲伝」に附伝される。

縁故のない低い身分だったが、景初年間(237~239)に18歳で「渾輿経」を著し、道家の教えに沿いつつ意見を示し名を上げた。
青州で門下書佐・司徒署吏を経て、安成県令を務めた。(『桓威伝』)



桓彝


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桓嘉  東興の戦いで戦死した桓階の子


桓嘉(かんか)字は不明
荊州長沙郡臨湘県の人(??~252)

魏の臣。
桓階(かんかい)の子。

黄初年間(220~226)、桓階が重病にかかると爵位を進められ、3人の子も関内侯に封じた。桓嘉もそのうちの一人だろう。
父が没すると兄の桓祐(かんゆう)は早逝していたため桓嘉が後を継いだ。
升遷亭公主(しょうせんていこうしゅ)を娶った。(『桓階伝』)

楽安太守を務めたが252年、東興の戦いで戦死した。
壮侯と諡され、子の桓翊(かんよく)が後を継いだ。(『桓階伝』・『諸葛恪伝』)

「演義」では丁奉に討ち取られたが桓階の子とは記されない。



桓階  事の成否をわきまえる


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桓禺


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桓元将  許靖の友人D


桓元将(かんげんしょう)字が元将か
出身地不明(??~??)

素性不明。

「魏略」に曰く。
223年、王朗(おうろう)は許靖(きょせい)へ手紙を送り「以前に従軍した時(※208年赤壁の戦いか)に荊州で鄧子孝(とうしこう)・桓元将に会い一晩中あなたの話をしました」と旧交を温めた。(※許靖は222年に没したがその知らせは届いていなかったようだ)(『許靖伝』)



桓儼


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桓簒  桓階の弟


桓簒(かんさん)字は不明
荊州長沙郡臨湘県の人(??~??)

魏の臣。
桓階(かんかい)の弟。桓勝(かんしょう)の子。

黄初年間(220~226)、桓階が没すると散騎侍郎となり関内侯に封じられた。(『桓階伝』)



桓隰  諸葛亮を批判した司馬駿の長史


桓隰(かんしゅう)字は不明
司隷滎陽郡の人(??~??)

晋の臣。

晋代の初め頃、司馬駿(しばしゅん)は関中に赴任すると司馬の劉宝(りゅうほう)、長史の桓隰らと諸葛亮について議論した。
多くの者が魏に降らなかったこと、蜀の民を疲弊させたこと、力量に見合わない計画を立てたこと、己の徳や力を図り損ねたことを非難した。
だが郭沖(かくちゅう)は成功しなかったから正当に判断できないだけで、智略は管中・晏嬰にも勝ると言い、世に知られていない五箇条の事績を明かした。劉宝らは批判をやめ、司馬駿も感動して同意した。

しかし裴松之は(よほど腹が立ったのか)五箇条全てに事細かに反論し与太話だと一蹴している。(『諸葛亮伝』)



桓邵  曹操を非難し殺された男B(※出典:曹瞞伝)


桓邵(かんしょう)字は不明
豫州沛国の人(??~??)

後漢の臣?

「曹瞞伝」に曰く。
沛国相の袁忠(えんちゅう)は法を犯した曹操を処罰しようとし、同国の桓邵も曹操を軽侮した。
後に曹操が権力を得ると袁忠・桓邵は交州へ避難したが、曹操は交趾太守の士燮(ししょう)へ使者を送り、一家を皆殺しにした。
桓邵は出頭しひざまずいて謝罪したが、曹操は「ひざまずいて死を逃れられるものか」と言い殺した。(『武帝紀』)



桓勝


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桓治  桓鄰の兄


桓治(かんち)字は不明
交州交趾郡の人(??~??)

士燮(ししょう)の臣。
桓鄰(かんりん)の兄。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士燮の子の士徽(しき)は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
士燮に取り立てられた古参の桓鄰は、不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。
士徽は観念し、兄弟らとともに降伏したが、処刑された。(『士燮伝』)

残党の甘醴(かんれい)・桓治はなおも抵抗したが、呂岱に打ち破られ南方は平定された。(『呂岱伝』)



桓超


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桓発  桓鄰の子


桓発(かんはつ)字は不明
交州交趾郡の人(??~??)

士燮(ししょう)の臣。
桓鄰(かんりん)の子。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士燮の子の士徽(しき)は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
士燮に取り立てられた古参の桓鄰は、不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。
士徽は観念し、兄弟らとともに降伏したが、処刑された。(『士燮伝』)

残党の甘醴(かんれい)・桓治はなおも抵抗したが、呂岱に打ち破られ南方は平定された。(『呂岱伝』)



桓範  智嚢(?)


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桓祐  桓階の早逝した嗣子


桓祐(かんゆう)字は不明
荊州長沙郡臨湘県の人(??~??)

魏の臣。
桓階(かんかい)の子。

黄初年間(220~226)、桓階が重病にかかると爵位を進められ、3人の子も関内侯に封じた。
桓祐は嗣子だったがその前に病没していたため、関内侯を追贈された。(『桓階伝』)



桓翊  桓嘉の子


桓翊(かんよく)字は不明
荊州長沙郡臨湘県の人(??~??)

魏の臣。
桓嘉(かんか)の子。桓階(かんかい)の孫。

252年、東興の戦いで桓嘉が戦死すると後を継いだ。
桓嘉は升遷亭公主(しょうせんていこうしゅ)を娶っており、母ならば曹丕の孫にあたるか。(『桓階伝』)



桓慮  孫英を勝手に擁立し誅殺される


桓慮(かんりょ)字は不明
出身地不明(??~254)

呉の臣。

253年、孫峻(そんしゅん)は専権を振るう諸葛恪(しょかつかく)が孫和(そんか)を復権させるのを警戒し、諸葛恪を誅殺し孫和を自害させた。(『孫和伝』)

254年、孫英(そんえい)は孫峻の暗殺を企てたが、露見し自害した。

「呉歴」に曰く。
孫和の死には民衆も嘆いた。前の司馬の桓慮はそれに乗じて不穏分子を糾合し、孫英を擁立しようとしたが露見し殺された。孫英は何も知らなかった。(『孫登伝』)

「孫峻伝」にも孫英は非業の死を遂げたと記され、企てに関与していなかったことが示唆される。(『孫峻伝』)



桓陵  桓階の孫


桓陵  桓階の孫
桓陵(かんりょう)字は元徽(げんき)
荊州長沙郡臨湘県の人(??~??)

晋の臣。
桓階(かんかい)の孫。

「世語」に曰く。
司馬炎の代に名声があり、滎陽太守まで上った。(『桓階伝』)



桓鄰  士徽に殺された古参


桓鄰(かんりん)字は不明
交州交趾郡の人(??~226?)

士燮(ししょう)の臣。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士燮の子の士徽(しき)は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
士燮に取り立てられた古参の桓鄰は、不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。
士徽は観念し、兄弟らとともに降伏したが、処刑された。(『士燮伝』)

残党の甘醴(かんれい)・桓治はなおも抵抗したが、呂岱に打ち破られ南方は平定された。(『呂岱伝』)



管亥  太史慈に敗れる


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管季儒  管輅の弟


管季儒(かんきじゅ)字が季儒か
冀州平原郡の人(??~??)

管輅(かんろ)の弟。

管輅は冀州刺史の裴徽(はいき)に招聘された。
その道中で将来を占い、同行する弟の管季儒へ「古城を通る時に3匹の野良猫に会えば出世する」と言った。古城の隅に3匹の野良猫を見つけ、兄弟は喜んだ。
248年、秀才に推薦された。(『管輅伝』)



管彦  王襃に息子の結婚を反故にされる


管彦(かんげん)字は不明
青州北海郡営陵の人(??~??)

晋の臣。

王襃(おうほう)は同郷の管彦が若く無名のうちから評価し、娘と管彦の息子を結婚させる約束をした。
管彦は西夷校尉まで上ったが没し、王襃は娘を別の相手に嫁がせた。
管彦の弟の管馥(かんふく)が約束が違うと問いただすと、王襃は「私のわずかな念願は自然の中で暮らすことです。姉妹は遠くに嫁ぎ冠婚葬祭も途絶えています。ところが管彦の子は彼を洛陽に葬りました。洛陽の人には嫁がせられません」と答えた。
管馥は「兄嫁は故郷に帰るでしょう」と言ったが「父を洛陽に葬り、母が帰ることがありえましょうか」と王襃は納得しなかった。(『王脩伝』)



管孝国  管輅の族兄


管孝国(かんこうこく)字が孝国か
冀州平原郡の人(??~??)

管輅(かんろ)の族兄。

管輅が族兄の管孝国を訪ねた時、2人の客が来ていた。2人が帰ると「凶兆が出ており一緒に間もなく死ぬでしょう」と見立てた。数十日後、牛車が河に落ち溺死した。(『管輅伝』)



管貢  管寧の隣人


管貢(かんこう)字は不明
青州北海郡朱虚県の人?(??~??)

魏の臣。
隠者の管寧(かんねい)の親族。

州の役人を務めた。
管寧は誰からの招聘にも応じず、父・祖父と三代に渡って固辞された曹叡(そうえい)は業を煮やし「管寧は本当に高潔で、老いと病で出仕できないのか」と青州刺史の程喜(ていき)に問うた。
程喜は「私は管寧の隣家に住む親族の管貢をたびたび訪ね様子を聞いています」と言い、服装や普段の暮らしぶりを語り「管寧は年老い知恵も衰えたため、慎み深くなっており、高潔さを貫こうとしているわけではないでしょう」と弁護した。(『管寧伝』)




管承  長広の海賊


管承(かんしょう)字は不明
青州長広郡長広の人(??~??)

賊徒。

長広郡は豪族の力が強く、袁譚(えんたん)は彼らに官位を与えて援助していた。
管承は3千軒を率いて暴れまわり、誰もが討伐を願い出たが、太守の何夔(かき)は「彼らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、道徳を知らないから善に戻れないだけだ。討伐すれば全滅を恐れて激しく抵抗し、勝っても大きな被害を受ける。恩愛道徳を教えて自ら反省させれば、兵を用いる必要はない」と言い、黄珍(こうちん)を派遣し利害を説かせると、管承は降伏した。(『何夔伝』)

しかしその後、再び反乱し海賊として荒らし回った。
206年、曹操は楽進(がくしん)、李典(『武帝紀』)、張郃(『張郃伝』)を派遣し撃破させた。
管承は海中の島へ逃げ込み、その後の消息は不明である。(『武帝紀』)



管辰  管輅の事績を伝えた弟


管辰(かんしん)字は不明
冀州平原郡の人(??~280)

管輅(かんろ)の弟。
晋の臣。

255年、弟の管辰が「司馬昭様が目を掛けてくださるから富貴な身分になるでしょう」と言うと、管輅は長いため息をつき「私にはその資質があると知っている。だが天は才能と聡明さは与えてくれたが寿命はくれなかった。47~8歳で娘が嫁に行き、息子が嫁を取るのを見ずに死ぬだろう。もしそれを超えられれば洛陽県令となり、落とし物を着服したり、盗賊が現れたという太鼓が鳴らないような政治をしたいものだが、おそらく太山(冥界)で死者を治めることになり、生者は治められないだろう。仕方のないことだ」と言った。
管辰がなぜそんなことを言うのかと尋ねると、自身の人相に現れた寿命のしるしを次々と告げ「私はこれまで人相を占い、もうすぐ死ぬと見立てた者が百人を超えるが、ほとんど外れなかった」と言った。
8月に少府の丞となり、翌256年2月に没した。享年48。

裴松之は「管輅は自分の運勢は寅にあると言っており、210年生まれのはずだ。しかし管辰は248年に管輅は36歳だったと記す。享年も47のはずが48と記している」と指摘する。

「管輅別伝」に曰く。
管辰は占術を教えて欲しいと頼んだことがあったが、管輅は「最大限に心を働かせなければ道理は解けない。孝経・詩経・論語を習えば三公まで上れるのだから必要のないものだ」とさとし、諦めさせた。占術を受け継いだ者はなかった。
管辰は後に管輅の生涯を振り返り「人々はあまりに良く当たるので管輅だけが持つ書物を読んでいるのだろうと考えたが、私の見る限りどこにでもある書物が30巻ほどあるだけだった。しかも死後に不埒な者が盗んでいき3冊だけ残った。占術の流派は数百もおり、書物は何千巻もあるのに管輅しか著名でないのは、彼らに才能が無いからで書物が無いからではないのだ。
裴徽(はいき)・何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)・劉寔(りゅうしょく)・劉智(りゅうち)らは管輅の才を認め、管輅も「彼らと語っていると精神が活発化し夜も眠くならないが、他の者と話していると昼でも眠くなる」と言っていた。
兄弟で議論もよくしたが、管輅は人物鑑定や身近な道理を説いて教え諭すことは不得手だった。
前漢の京房も著名な占術師だが彼は自分の死を予見できずしかも自滅したが、管輅は現実社会には関わらず、しかし人々に忘れられることはなかった(※自分の死も予見した)。両者には格段の差があるのに、管輅・京房が同列に論じられるのは承服できない。
管輅は東方朔・許負・唐挙ら古代の占術師にも勝り、もし出世を望み宰相に上れば広くその才を知られただろう。寿命に恵まれなかったため不肖の弟によって事績を記されることになってしまった。
私は才能なく今やはるか過去のことで、事績の2割ほどしか集められず、時代の変化を判断した例は1割にも満たない。哀しみ恥じるばかりだ」と記した。

西晋の閻纘(えんさん)が曰く。
管輅の不思議な逸話は劉寔ら立派な人物や賢者から聞いたものであり虚偽ではない。劉寔は管輅のこうした話を無数に知っており、管辰が収録したのはその十分の一か二に過ぎないという。また劉寔は管辰を(自身は非才と卑下していたが)「孝廉に推挙されるだけの才能がある」と評した。

陳承祐(ちんしょうゆう)が曰く。
華廙(かよく)は「管輅は年齢が近く同郷でもあり親密で事績をよく知っている。管辰が事績を著したが、重要なものだけでもその3倍はある。管辰は文才がなく、年齢もずっと離れ田舎に長く住んでいたからよく知らないのだ。
管辰は州の主簿・部従事まで上り280年に没した」と語った。(『管輅伝』)



管統  袁譚の忠臣


管統(かんとう)字は不明
出身地不明(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

東莱太守を務めた。
202年、袁紹が没すると袁譚は弟の袁尚(えんしょう)と後継者争いを起こし、武勇に優れた袁尚に連敗した。
劉詢(りゅうじゅん)は漯陰で反乱し、諸城も全て呼応した。袁譚は自分の不徳のせいで州を上げて背かれたのだろうかと嘆いたが、王脩(おうしゅう)は「管統(かんとう)は背きません。きっと来ます」と言った。
10日余り後、管統は妻子を捨てて駆けつけた。袁譚は改めて楽安太守に任じたが、残された妻子は反乱軍に殺害された。

205年、袁譚は曹操に敗れて戦死し、王脩ら残党はこぞって降伏したが、管統だけは楽安に籠城した。曹操は首を持ってくるよう命じたが、王脩は彼は亡国の忠臣であると応じず、説得して出頭させた。曹操は上機嫌で赦免した。(『王脩伝』)



管篤  遼東への使者B


管篤(かんとく)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

229年、校尉の張剛(ちょうごう)と管篤は使者として遼東へ赴いた。(『呉主伝』)

この前月に孫権は皇帝に即位しており、それに関連した使者だろうか。



管寧  三国一有名な隠者


管寧(かんねい)字は幼安(ようあん)
青州北海郡朱虚の人(158~241)

隠者。
終生誰にも仕えなかったが「魏書」に列伝されている。

春秋時代の名宰相・管仲の末裔で、八尺の長身で美しい髭と眉を蓄えていた。
早くに母を、16歳の時に父を亡くすと、孤児の彼を哀れみ親族は香典を贈ったが、それを固辞し相応の葬儀を上げた。(『管寧伝』)

後に魏の重臣となる華歆(かきん)、邴原(へいげん)とともに留学して陳寔(ちんしょく)に師事し、三人は人々に「一龍」と呼ばれ、華歆が龍の頭、邴原が腹、管寧が尾とされた。
(※裴松之はそれぞれの優秀さを挙げ、この譬えで優劣を決めるべきではないと言う)(『華歆伝』)

邴原とともに品行高潔で名高く、州から招聘されたが応じなかった。(『邴原伝』)
邴原・王烈(おうれつ)と並び称され、当時は王烈の名声が勝った。
やがて戦乱を避け、管寧・邴原・王烈・国淵(こくえん)らは善政を布いているという遼東太守の公孫度(こうそんど)を頼った。
屋敷を用意されたが四人は山中に庵を結び隠棲した。疎開してきた人々は多くが南部に住んでいたが、管寧は長く留まる意志を示し北部に住むも、次第に南下して結局は合流した。(『管寧伝』・『国淵伝』)

管寧は公孫度に経典の話をするだけで世俗的な話題を出さず、彼を慕い避難民らが集まり10ヶ月も経つと町ができるほどだったが、講義し学者としか面会しなかったため、野心が無いと思い公孫度は安心した。
一方で剛直な邴原は公孫度としばしば衝突したため、管寧は危険を説き故郷へ帰らせた。

公孫度が没し後を継いだ公孫康(こうそんこう)は野心深く、内心では管寧を登用し補佐させたいと思ったが、畏敬を払うあまり言い出せなかった。曹操が管寧を招聘すると、公孫康はそれを拒み伝えもしなかった。

管寧の住む村落では井戸水をめぐって争いが絶えなかった。そこで容器を買い集めあらかじめ水を汲んでおいてやった。人々は管寧がやっていると知ると争いを辞めた。
牛が管寧の田を荒らした時には、涼しい場所に連れて行って落ち着かせた。駆けつけた飼い主は重罪を犯したように陳謝した。
民衆は感化され、近隣からは争いが絶え、礼儀と謙譲が中原から遼東へ伝わった。
曹操の台頭により中原が落ち着くと疎開民は帰っていったが、管寧と王烈だけは遼東に残った。

223年、魏の司徒となっていた華歆は、賢人を求める詔勅により旧友の管寧を推挙した。
さすがに詔勅は断れず、管寧は都に上ることにした。当時の遼東太守の公孫恭(こうそんきょう)へ、管寧は甥の公孫淵(こうそんえん)の野心に注意するよう伝えた。後に公孫淵は公孫恭を幽閉して反乱するも、魏に大敗し遼東に甚大な被害をもたらした。
管寧は公孫氏三代からの贈り物を手付かずで保管しており、全てを返還した。
帰路の海は荒れ、船が次々と沈む中、管寧の乗る船だけは無傷で、光に導かれ島へ難を逃れると、そこには灯りになるものは無く、神の助けだったと人々は考えた。
都に着く前に病に倒れ、療養先に使者が訪れ太中大夫に任命されたが、辞退して故郷へ帰った。

226年、曹叡が即位すると太尉の華歆は引退し官位を管寧に譲ろうとし、司空の陳羣(ちんぐん)も推薦した。曹叡は(太尉ではなく)光禄勲に任じたがこれも辞退した。
青龍年間(233~237)まで招聘され続け、毎年8月には牛と酒が下賜された。
曹氏三代にわたり断られ続けた曹叡は業を煮やし青州刺史の程喜(ていき)へ「管寧は高潔な生き方を貫こうとしているのか。本当に老いと病で出仕できないのか」と質問した。
程喜は管寧の親族と常に連絡を取っていると言い「長く隠遁を続け知力も衰えたため控えめな態度なのでしょう。高潔さを貫くためではありますまい」と弁護した。(『管寧伝』)
ちなみに程喜は田豫(でんよ)や杜恕(とじょ)ら多くの同僚を讒言で陥れた陰険な人物だが、彼にすら管寧は慕われていたのだ。(『杜恕伝』)

237年、司徒の陳矯(ちんきょう)が亡くなり(『明帝紀』)、曹叡は後任を盧毓(ろいく)に尋ねた。
盧毓は無官の管寧を勧めたが曹叡は却下し、次に挙げられた韓曁(かんき)、崔林(さいりん)、常林(じょうりん)の中から韓曁を選んだ。(『盧毓伝』)

241年、陶丘一(とうきゅういつ)・孟観(もうかん)・孫邕(そんよう)・王基(おうき)らの連名でまたも招聘されたが、ちょうどその時に死去した。享年84。

妻に先立たれ再婚を勧められたが、後妻を持たなかった古人を振り返り「昔から彼らを立派だと思っていた。同じ境遇になっても心は変わらない」と断った。
子の管邈(かんばく)が郎中に任じられ、後に博士となった。(『管寧伝』)

嵆康(けいこう)は天地開闢から管寧に至るまで119人の聖人・賢者の評論を著した。(『嵆康伝』)

陳寿は「温雅高尚、断固として自己の生き方を守り抜いた」と評した。

「演義」にも登場するが、劣悪な人物として描かれる華歆を、高潔な管寧は嫌い、華歆の仕える魏の招聘に応じなかったとアレンジされた。



管邈  管寧の子


管邈(かんばく)字は不明
青州北海郡朱虚の人(??~??)

魏の臣。
管寧(かんねい)の子。

241年、父が没すると子の管邈が郎中に任じられ、後に博士となった。(『管寧伝』)



管馥  王襃に猛抗議


管馥(かんふく)字は不明
青州北海郡営陵の人(??~??)

晋の臣?
管彦(かんげん)の弟。

王襃(おうほう)は同郷の管彦が若く無名のうちから評価し、娘と管彦の息子を結婚させる約束をした。
管彦は西夷校尉まで上ったが没し、王襃は娘を別の相手に嫁がせた。
弟の管馥が約束が違うと問いただすと、王襃は「私のわずかな念願は自然の中で暮らすことです。姉妹は遠くに嫁ぎ冠婚葬祭も途絶えています。ところが管彦の子は彼を洛陽に葬りました。洛陽の人には嫁がせられません」と答えた。
管馥は「兄嫁は故郷に帰るでしょう」と言ったが「父を洛陽に葬り、母が帰ることがありえましょうか」と王襃は納得しなかった。(『王脩伝』)



管輅  当代一の占術師


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関彝  関羽の孫B


関彝(かんい)字は不明
司隷河東郡解良県の人(??~??)

蜀の臣。
関興(かんこう)の庶子。関羽の孫。

父が没すると(正室の子の)関統(かんとう)が後を継いだ。
関統も没すると子が無かったため庶兄弟の関彝が爵位を継いだ。(『関羽伝』)

「蜀記」に曰く。
蜀が滅亡すると関羽に処刑された龐悳の子の龐会(ほうかい)は関羽の子孫をことごとく滅ぼした。(『鍾会伝』)

同じく「蜀記」に曰く。
鍾会は蜀にあった龐悳の遺体を引き取り鄴へ送った。遺体はまるで生きているかのようだった。

裴松之は「龐悳は樊城の戦いで死に、曹丕が墓所に使者を送っているのだから遺体が蜀にあるはずがない」と指摘しており、龐会が関羽の子孫を滅ぼした話も眉唾ものである。(『龐悳伝』)



関羽  美髯公


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関興  一騎打ちの天才


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関靖  小物なりの意地


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関統  関羽の孫A


関統(かんとう)字は不明
司隷河東郡解良県の人(??~??)

蜀の臣。
関興(かんこう)の子。関羽の孫。

父が没すると後を継いだ。
公主をめとり虎賁中郎将まで上った。
没すると子が無かったため庶兄弟の関彝(かんい)が爵位を継いだ。(『関羽伝』)

「蜀記」に曰く。
蜀が滅亡すると関羽に処刑された龐悳の子の龐会(ほうかい)は関羽の子孫をことごとく滅ぼした。(『鍾会伝』)

同じく「蜀記」に曰く。
鍾会は蜀にあった龐悳の遺体を引き取り鄴へ送った。遺体はまるで生きているかのようだった。

裴松之は「龐悳は樊城の戦いで死に、曹丕が墓所に使者を送っているのだから遺体が蜀にあるはずがない」と指摘しており、龐会が関羽の子孫を滅ぼした話も眉唾ものである。(『龐悳伝』)



関平  関羽ジュニア


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環夫人  曹沖・曹據・曹宇の母


環夫人(かんふじん)名は不明
徐州彭城郡の人(??~??)

曹操の側室。
曹沖(そうちゅう)・曹據(そうきょ)・曹宇(そうう)の三人の男子を生んだ。

徐州出身で、長男の曹沖が196年生まれなことから、194年の曹操による徐州侵攻の際に見初められたと思われる。
本人の事績はほとんど不明だが、220年の曹丕即位後に太妃になっており、夫よりは長生きした模様。(『鄧哀王沖伝』・『彭城王拠伝』)

曹沖は一時は後継者の候補に挙げられるほど優秀だったが、13歳で早逝した。(『鄧哀王沖伝』)

「魏略」に曰く。
次男の曹據も三代皇帝の曹芳が廃位された際に、司馬師の傀儡として目を付けられただけとはいえ、皇帝の候補に挙がった。(『斉王紀』)

三男の曹宇の子が魏の五代皇帝にしてラストエンペラーの曹奐である。(『燕王宇伝』)

三人の子がいずれも様々な形で皇帝の候補に絡んでおり、優秀な母親像が垣間見える。



韓晏


未作成



韓胤  袁術軍きっての頭脳派


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韓栄  韓浩の養子


韓栄(かんえい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
韓浩(かんこう)の養子。

韓浩が没すると子が無かったため養子の韓栄が後を継いだ。(『夏侯惇伝』)



韓観  三公に匹敵した豫州刺史


韓観(かんかん)字は曼遊(まんゆう)
幽州広陽郡の人(??~??)

魏の臣。

見識と才幹があり、同郡の徐邈(じょばく)と同等の名声を博し、後に三公に上る孫礼(そんれい)、盧毓(ろいく)よりも上に評価されていた。

「魏臣名奏」に曰く。
杜恕(とじょ)は韓観・王昶(おうちょう)を「多くの才能を備え、高位と重任にふさわしく、三州の刺史に留まる人物ではない」と推薦した。

豫州刺史となり大いに治績をあげたが、在職のまま没した。(『徐邈伝』)

王昶も三公に上った人物で、徐邈も三公に推されながら老齢で辞退しており、韓観は比較された人物が全て三公相当に達しており、もし長寿を得ていれば彼も三公に至ったことだろう。



韓起  賀達を不意打ち


韓起(かんき)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫淵(こうそんえん)の将。

232年、呉は海路から遼東の公孫淵のもとへ張弥(ちょうび)、許晏(きょあん)、賀達(がたつ)ら1万の兵を送り、燕王の位を授けようとした。(『呉主伝』)

一方で公孫淵は魏とも通じており、遠方の呉は当てにならないと考え、233年、呉の使者の張弥、許晏らを殺し、魏へ首を送り恭順の意を示した。

賀達は虞咨(ぐし)とともに船を守っていたため無事だった。
公孫淵は伏兵を潜ませ、柳遠(りゅうえん)に出迎えさせ、交易をしようと持ちかけた。賀達らは異変を察知し、商人だけを船から下ろそうとしたが、伏兵の韓起に襲われ、被害を受けた。(『公孫淵伝』)

ここでは活躍したが、司馬懿の遼東討伐の際には登場しない。

か1  か2  か3  か4  か5  か6  き1  き2
  け1  け2  こ1  こ2  こ3  こ4  こ5