橋蕤 袁術配下の大将軍
橋蕤(きょうずい)字は不明
出身地不明(??~197)
袁術の臣。
姓は喬蕤とも記される。
193年(『後漢書 献帝紀』)、袁術は揚州を制圧すると張勲(ちょうくん)・橋蕤を大将軍に任命した。(『袁術伝』)
張勲・橋蕤は心から孫策を尊敬し、袁術も「孫策のような息子がいれば死んでも思い残すことが無いのだが」と嘆息した。(『孫策伝』)
197年、袁術は帝位を僭称すると呂布に従うよう命じたが、使者を捕らえられ朝廷へ送られた。
激怒し張勲・橋蕤に攻めさせたが大敗した。(『後漢書 袁術伝』)
呂布配下の陳珪(ちんけい)が袁術配下の韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)を寝返らせ、橋蕤を捕縛した。(※捕虜交換でもしたのかすぐ袁術のもとに戻っている)(『後漢書 呂布伝』)
同年、袁術は陳国へ侵攻した。(『武帝紀』・『後漢書 袁術伝』)
橋蕤らが蘄陽県を攻めると、陳国出身の何夔(かき)を脅して降伏勧告させようとしたが、逃亡された。
袁術は何夔が縁戚にあたるため(※何夔の叔母が袁術と同族の袁遺(えんい)の母)恨みはしたが危害は加えず、計画を取りやめた。(『何夔伝』)
曹操は討伐に赴いた。
袁術は撤退し、橋蕤・李豊(りほう)・梁綱(りょうこう)・楽就(がくしゅう)を守備に残したが、敗北し全員が首を打たれた。(『武帝紀』)
張勲も残されたが撤退に成功した。(『後漢書 袁術伝』)
陳国苦県での戦いで楽進(がくしん)が一番乗りだった。(『楽進伝』)
于禁(うきん)も苦県での包囲戦で活躍した。(『于禁伝』)
213年、曹操が魏公に任命された時に「橋蕤を討ち」と功績の一つに数えられる。(『武帝紀』)
「演義」では夏侯惇に討ち取られた。
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