三国志 き 2


許汜  劉備にやり込められる


許汜(きょし)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操→呂布→劉表(りゅうひょう)に仕えた。

はじめは曹操に仕え従事中郎を務めたが194年、曹操が徐州に遠征した隙に陳宮(ちんきゅう)、張邈(ちょうばく)、王楷(おうかい)らと共謀し、呂布を迎え入れ反乱した。
一時は兗州の大半を制圧したが、反転してきた曹操に撃破され、以降、陳宮・許汜・王楷は呂布に仕えた。

198年、呂布は下邳城を曹操に包囲されると、袁術(えんじゅつ)のもとに許汜・王楷らを送り救援要請した。
渋る袁術を「呂布が滅びれば次はあなたの番です」と説き伏せ、呂布の娘を袁術の息子とめあわせる条件で承諾を得た。
だが呂布は娘を引き渡さなければ援軍が得られないのではと懸念し、自ら連れ出そうとしたが、包囲された城から娘を脱出させるのは難しく、結局援軍も間に合わず、呂布は滅亡した。

許汜は以前に裏切った曹操に降伏することもできず、荊州の劉表のもとへ落ち延びた。
数年後、同じく曹操に反乱し、落ち延びてきた劉備と同席し、劉表ら3人で人物評を論じ合った。
許汜は陳登(ちんとう)を傲慢と非難した。劉表は「許汜は立派な人で嘘は言わないだろうが、陳登の名声も天下に鳴り響いている」と判断に困った。劉備になぜ傲慢と思うのかその理由を聞かれ「ろくに口を利かず、自分は寝台で寝て、私は床に寝かされた」と許汜は言った。
すると劉備は「君は国家的な人物だと名声がありながら、天子や国のことを憂えず、富貴を求めるだけで、言葉にはなんの取り柄もない。それは陳登が最も嫌うところで、だから話すことなど無かっただけだ。私なら寝台どころか百尺の楼上に寝て、君は地べたに寝かせるだろう」とやり込め、劉表は大笑いした。(『呂布伝』)

ちなみに陳登は許汜だけではなく多くの人物に横暴・傲慢と非難されており、彼を弁護する人物は非常に少ない。

「演義」に許汜は袁術への救援要請の場面にしか登場しない。



許芝  禅譲ハ正当ナリ


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許慈  古代の制度に詳しい頑固爺


許慈(きょじ)字は仁篤(じんとく)
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。

若い頃は劉熙(りゅうき)に師事し、鄭玄(じょうげん)の学問をよくした。
戦乱を避けて交州に疎開していたが、建安年間(196~220)に許靖(きょせい)とともに益州へ移住した。

214年、劉備が益州を制圧すると麾下に入り、胡潜(こせん)とともに学士に任命され、孟光(もうこう)・来敏(らいびん)らとともに古代の慣例制度の復興を担当した。(『許慈伝』)
宮中制度の制定にもあたった。(『孟光伝』)

しかし胡潜とはきわめて仲が悪く、書物の貸し借りはせず(職務に支障をきたし)、感情をむき出しにして罵り合い、鞭で脅しつけるほどだった。
見かねた劉備は宴席で、役者たちに許慈と胡潜の争いをオーバーに再現させ、彼らを反省させた。(『許慈伝』)

ちなみに孟光と来敏も同じく険悪でいつも大声で言い合いをしたという。(『孟光伝』)

221年、劉備が帝位につくにあたり、許慈と孟光を中心に即位の儀式を取り定めた。(『先主伝』)

胡潜が先に没し、許慈は劉禅の代に大長秋まで上った。
死後は子の許勛(きょくん)が学業を継ぎ、父と同じく博士になった。

後世の孫盛は「蜀は人材が乏しかったので史書に許慈と胡潜が記された」と述べている。(『許慈伝』)

陳寿は許慈・孟光・来敏・李譔(りせん)を「博学多識で、徳行の点で称賛を受けることはなかったが、まことにみな一代の学者である」と評した。



許叔龍  董允・費禕と並び称された


許叔龍(きょしゅくりゅう)字が叔龍か
豫州汝南郡の人(??~??)

蜀の臣?

214年、劉備が益州を制圧した頃、董允(とういん)は費禕(ひい)・許叔龍と並び称された。
董允の父の董和(とうか)は息子と費禕の器を測り、費禕に軍配を上げた。(『費禕伝』)

董允と費禕の器量を測る逸話は許靖(きょせい)の子の葬儀での出来事だが、あるいは許叔龍はその時に没した許靖の子だろうか。



許劭  当代一の人物批評家


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許昌  孫堅に踏み台にされる


許昌(きょしょう)字は不明
揚州会稽郡の人?(??~??)

会稽で反乱した妖賊(宗教的反乱者)。

自身は陽明皇帝を、父は越王を自称し、息子の許韶(きょしょう)とともに反乱した。
周囲の県を扇動し数万人にも膨れ上がったが、172年に郡司馬を務めていた孫堅が千余人の精鋭を集めて討伐に赴き、州や郡の官軍と協力して撃破した。
これにより孫堅は名を知られ、県丞へと推挙されるのだった。(『孫堅伝』)



許昭  主君と旧友をかばう


許昭(きょしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

呉郡太守の盛憲(せいけん)に仕えていた。

許貢(きょこう)が呉郡を乗っ取ると、高岱(こうたい)は盛憲を許昭の家に避難させ、徐州刺史の陶謙(とうけん)に救援を求め、事態を収拾した。

その後、厳白虎(げんはくこ)は孫策に敗れると旧友の許昭に身を寄せた。
程普(ていふ)は許昭を討つよう進言したが、孫策は「主君と旧友をかばう大丈夫である」と讃え、許可しなかった。(『孫策伝』)

「正史」の記述は以上だが、唐代の「建康実録」には孫策を暗殺した刺客こそが許昭だと記される。
孫策が義人だと見逃した相手に殺されたのはドラマティックだが、「建康実録」の作者は許氏であり、脚色にも見える。

余談だが裴松之は「盛憲を助けた逸話は孫韶伝の注に記した」と言っているが、実際には孫策伝の注である。「ちくま版」の誤記でなければ裴松之の珍しいミスである。

また許昭は会稽で反乱し、孫堅に討伐された許昌(きょしょう)の子と同姓同名だが、会稽に近い呉郡に割拠した厳白虎と親しく、「ちくま版」も同一人物としており、可能性はあるかも知れない。もっとも謀叛人の息子が後漢の太守(盛憲)に仕えていたのは無理がありそうだが。



許相  宦官に媚びへつらった許劭の一族


許相(きょしょう)字は不明
豫州汝南郡平輿県の人(??~189)

後漢の臣。
許訓(きょくん)の子。

許劭(きょしょう)の従祖父の孫にあたる。
宦官に媚びへつらい、官位や爵位を買った。しばしば許劭を招いたが、軽薄な人柄を嫌われ一度も目通りしなかった。(『後漢書 許劭伝』)

少府を務めた。
189年、大将軍の何進(かしん)は宦官に暗殺され、宦官は袁紹・王允(おういん)に代わって樊陵(はんりょう)・許相を司隷校尉・河南尹にするよう詔勅を下した。尚書(担当官)が疑い「大将軍(何進)と協議します」と言うと、何進の首を彼に投げつけ「謀叛し既に誅殺された」と言った。
何進配下の袁紹は叔父で太傅の袁隗(えんかい)と共謀し、偽の詔勅で樊陵・許相をおびき寄せて殺し、宮中へ突入し宦官を皆殺しにした。(『後漢書 何進伝』)



許章


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許韶  父・祖父と反乱


許韶(きょしょう)字は不明
揚州会稽の人?(??~??)

父の許昌(きょしょう)は会稽で反乱した妖賊(宗教的反乱者)。

許昌は陽明皇帝を、その父は越王を自称し、息子の許韶とともに反乱した。
周囲の県を扇動し数万人にも膨れ上がったが、172年に郡司馬を務めていた孫堅が千余人の精鋭を集めて討伐に赴き、州や郡の官軍と協力して撃破した。
これにより孫堅は名を知られ、県丞へと推挙されるのだった。(『孫堅伝』)

「ちくま版」ではこの許韶と、呉郡太守の盛憲(せいけん)に仕えた許昭(きょしょう)を同一人物としているが、謀叛人が後漢に仕官しているのはさすがに間違いで、別人と考えるべきだろう。



許靖  鑑定士は苦労人


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許綜  許楮の孫


許綜(きょそう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
許儀(きょぎ)の子。許楮(きょちょ)の孫。

263年、許儀は蜀征伐に従軍し、先行して道を整備したが、指揮官の鍾会は橋に穴が空き馬が足を取られたため、許儀を処刑した。功臣(許褚)の子を容赦せず殺したことに将兵は戦慄した。(『鍾会伝』)

泰始年間(265~275)のはじめ、子の許綜が後を継いだ。(『許楮伝』)



許耽  呂布に内応した丹陽兵


許耽(きょたん)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

劉備の臣。

「英雄記」に曰く。
196年、劉備が袁術の討伐に出た隙をつき、呂布は徐州を制圧しようとした。
劉備の中郎将の許耽は司馬の章誑(しょうきょう)を派遣して、留守居役の張飛が曹豹(そうひょう)を殺したため城内が混乱していることを伝え、内応を約束した。成功し呂布は徐州を制圧した。(『呂布伝』)



許楮  虎痴


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許定  許楮の兄


許定(きょてい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
許楮(きょちょ)の兄。

戦功により振威将軍となり行幸の道を巡視する近衛兵を率いた。(『許楮伝』)



許瑒  許靖の従兄


許瑒(きょとう)字は不明
豫州汝南郡平輿県の人(??~??)

後漢の臣。
許靖(きょせい)の従兄。

董卓は後漢の実権を握ったが、人事を任せた許靖・周毖(しゅうひ)の任命した刺史や太守は次々と董卓に挙兵した。
董卓は怒って周毖を殺し、許靖も従兄で陳国相の許瑒が、同じく挙兵した豫州刺史の孔伷(こうちゅう)に協力していたため、連座を恐れて孔伷のもとへ逃げた。(『法正伝』)



許旻  王昶に討ち取られた呉将B


許旻(きょびん)字は不明
出身地不明(??~250)

呉の臣。

250年、王昶(おうちょう)は三方から呉を攻める策を立て、自ら江陵郡を攻めた。
施績(しせき)を撃破し、敵将の鍾離茂(しょうりぼう)、許旻を討ち取り、大量の戦利品を奪った。(『王昶伝』)



許攸  別人の方も傲慢


許攸(きょゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
官渡の戦いで袁紹から寝返った許攸とは別人。

将軍の許攸は独自に部下を持ち、曹操に従わず不遜な言葉を吐いていた。曹操は立腹し殺そうと考え、帰服させるべきだという意見に耳も貸さず、膝に刀を乗せて威嚇した。
杜襲(としゅう)が諫言しようとすると、曹操は先に「何も言うな」と言った。杜襲はひるまず「殿下(曹操)の計画が正しければお助けしますが、誤っていたら改めてもらわねばいけません。それなのに先手を打って発言を禁じられるとはなんと気の小さいことでしょう」と言い、曹操は激怒した。
しかし許攸が凡人だという言質を取ると「凡人には非凡を理解できません。(劉備や孫権より先に)許攸を殺せば凡人らは強者を避けて弱者を攻めたと非難するでしょう。鼠に強弩を撃たず、鐘を草の撞木で突かないように、取るに足らない許攸に武威を示す価値はありません」と説得し、曹操も納得して許攸を厚遇し、帰服させた。(『杜襲伝』)



許攸  驕れる者は久しからず


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許游  許靖の孫


許游(きょゆう)字は不明
豫州汝南郡平輿県の人(??~??)

許欽(きょきん)の子。
許靖(きょせい)の孫。

許靖は222年に没した。
子の許欽には先立たれていた。孫の許游は景耀年間(258~263)に蜀の尚書に上った。(『許靖伝』)



魚豢


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匡琦


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姜  女賊コンビ


姜(きょう)名と字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

劉楨(りゅうてい)が、四本足の蛇が門の中に穴を掘って住み着く夢を見た。
夢占いの名手の周宣(しゅうせん)に相談すると「これはあなたではなく国家についての予知夢です。蛇は女を表し、足は蛇にあるべきではありません。女が反乱し誅殺されるでしょう」と見立てられた。
その後、女賊の鄭(てい)と姜が反乱し討伐された。(『周宣伝』)



姜維  蜀漢最後の賭け


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姜隠  楊阜とともに馬超を撃退した同志A


姜隠(きょういん)字は不明
涼州天水郡の人(??~??)

魏の臣。

213年(※建安17年(212年)と誤記される)、馬超は張魯(ちょうろ)の援軍を得て1万の兵で冀城を陥落させた。
楊阜(ようふ)は城外にいた姜隠ら同郷の同志らを密かに集めると城外で挙兵し、馬超が討伐に出た隙に冀城を奪回した。
楊阜は5ヶ所の傷を受け、一族の従弟ら7人が戦死したが撃退に成功した。(『楊阜伝』)

母子揃って同じく貢献した姜叙(きょうじょ)の一族で、姜維の血縁でもあるだろう。



姜冏


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姜合  曹丕の即位を予言


姜合(きょうごう)字は不明
涼州武都郡の人?(??~??)

張魯(ちょうろ)、後に魏の臣。

「献帝伝」に曰く。
220年、献帝は曹丕に帝位を譲ろうとした。
李伏(りふく)は上書し「かつて先王(曹操)が魏公になった時、(※当時張魯に仕えていた我ら)国外には詳細が伝わらず、魏王になったのだと思っていた。だが李庶(りしょ)や姜合は「まだ魏公になっただけで、天下を平定するのは曹丕だと予言書にある」と言った。
張魯に報告すると根拠を問われ、姜合は孔子だと答えた。一月後に魏から亡命者が来て姜合の言った通りだと明らかになった。

姜合は関中で名の知られた予言者で、それを聞き目を覚ました張魯は私とともに魏へ降伏しようと議論したが、劉備に降伏すべきだと者もおり、張魯は「魏の奴隷となっても劉備の上客にはならない」と怒っていた。
姜合は先に立って魏軍を出迎え降伏したが、既に鄴で没してしまった。私はこの予言を伝えたいと思っていたが、魏に仕えて日も浅く、かえって罪を招くのではと発言を控えていた。しかし帝位禅譲の話が出た今こそ伝えるべきである」と述べた。
曹丕は喜び、重臣らもこれこそ天意であると大いに同意した。(『文帝紀』)



姜叙  姜叙の母とその息子


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姜夫人  姜叙の母


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姜翊


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強端  呉蘭を斬った異民族


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橋公


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橋蕤  袁術配下の大将軍


橋蕤(きょうずい)字は不明
出身地不明(??~197)

袁術の臣。
姓は喬蕤とも記される。

193年(『後漢書 献帝紀』)、袁術は揚州を制圧すると張勲(ちょうくん)・橋蕤を大将軍に任命した。(『袁術伝』)

張勲・橋蕤は心から孫策を尊敬し、袁術も「孫策のような息子がいれば死んでも思い残すことが無いのだが」と嘆息した。(『孫策伝』)

197年、袁術は帝位を僭称すると呂布に従うよう命じたが、使者を捕らえられ朝廷へ送られた。
激怒し張勲・橋蕤に攻めさせたが大敗した。(『後漢書 袁術伝』)

呂布配下の陳珪(ちんけい)が袁術配下の韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)を寝返らせ、橋蕤を捕縛した。(※捕虜交換でもしたのかすぐ袁術のもとに戻っている)(『後漢書 呂布伝』)

同年、袁術は陳国へ侵攻した。(『武帝紀』・『後漢書 袁術伝』)

橋蕤らが蘄陽県を攻めると、陳国出身の何夔(かき)を脅して降伏勧告させようとしたが、逃亡された。
袁術は何夔が縁戚にあたるため(※何夔の叔母が袁術と同族の袁遺(えんい)の母)恨みはしたが危害は加えず、計画を取りやめた。(『何夔伝』)

曹操は討伐に赴いた。
袁術は撤退し、橋蕤・李豊(りほう)・梁綱(りょうこう)・楽就(がくしゅう)を守備に残したが、敗北し全員が首を打たれた。(『武帝紀』)

張勲も残されたが撤退に成功した。(『後漢書 袁術伝』)

陳国苦県での戦いで楽進(がくしん)が一番乗りだった。(『楽進伝』)

于禁(うきん)も苦県での包囲戦で活躍した。(『于禁伝』)

213年、曹操が魏公に任命された時に「橋蕤を討ち」と功績の一つに数えられる。(『武帝紀』)

「演義」では夏侯惇に討ち取られた。



橋瑁  三国志の里見家


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龔衡  龔禄の弟


龔衡(きょうこう)字は不明
益州巴西郡安漢県の人(??~??)

蜀の臣。
龔禄(きょうろく)の弟。

225年、越雋太守の龔禄は諸葛亮の南征に従軍し、異民族と戦い討ち死にした。享年31。

弟の龔衡は景耀年間(258~263)に領軍に上った。(『楊戯伝』)



龔都  劉辟の相方


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龔禄  張嶷の友人の越雋太守


龔禄(きょうろく)字は徳緒(とくしょ)
益州巴西郡安漢県の人(195~225)

蜀の臣。

214年、劉備に益州が制圧されると郡従事・牙門将に任命された。

225年、越雋太守に上った。(『楊戯伝』)

当時、巴西郡では2千石(太守)の官位の龔禄や姚伷(ようちゅう)らが名声高く、みな(官位は低いが)張嶷(ちょうぎょく)と親しく交わった。(『張嶷伝』)

同年、諸葛亮の南征に従軍し、異民族と戦い討ち死にした。享年31。(『楊戯伝』)

「張嶷伝」によると叟族の反乱により李求承(りきゅうしょう)に殺された。
次の太守の焦璜(しょうこう)も殺されると後任は尻込みして郡に入らず、800余里も離れた安上県に住んだ。
そこで勇猛な張嶷が太守に赴任し、3年で平定した。
李球承も懸賞金を出されて捕まり、処刑された。(『張嶷伝』)

弟の龔衡(きょうこう)は景耀年間(258~263)に領軍に上った。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で王士(おうし)とともに「志気勇壮」と評した。(『楊戯伝』)



金瑋  金尚の子


金瑋(きんい)字は不明
司隷京兆郡の人?(??~??)

後漢の臣。
金尚(きんしょう)の子。

197年頃、金尚は帝位を僭称した袁術のもとから逃亡を図るも、失敗して殺害された。
遺体が都へ届けられると献帝は金尚の忠義を称賛し、その霊を祀り子の金瑋を郎中に取り立てた。(『孫策伝』)

218年に反乱し曹操に殺された金禕(きんい)に似た名前だが、あちらは金旋(きんせん)の子で関係はない。
しかし同郷であり一族の可能性はあるか。



金禕  他力本願クーデター


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金奇


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金郷公主  曹林・曹袞の姉妹


金郷公主(きんきょうこうしゅ)名は不明
豫州沛国譙の人(??~??)

曹操と杜氏(とし)の子。(『武文世王公伝』)
何晏(かあん)の妻。(『曹真伝』)

母はもともと呂布配下の秦宜禄(しんぎろく)の妻だったが、紆余曲折あり198年に曹操の側室となり、寵愛され金郷公主ら3人の子に恵まれた。(『明帝紀』)

兄弟の曹林(そうりん)、曹袞(そうこん)は魏書に列伝されるが、彼女の事績は特に無い。

「曹真伝」の註に引かれる「魏末伝」には、何晏は同母兄と記されるが、裴松之は「口に出すのも恥ずかしい」、「下等な書物」と罵倒し、そもそも何晏の母は尹氏(いんし)であると指摘しており事実ではない。
ただし尹氏は曹操の側室となっており、連れ子の何晏は金郷公主と義兄妹である。(『曹真伝』)

「蒼天航路」には名無しで登場し、何晏とデキ婚する。



金尚  三休筆頭


金尚(きんしょう)字は元休(げんきゅう)
司隷京兆郡の人(??~197?)

後漢の臣。

若い頃から声望高く、同郷の韋休甫(いきゅうほ)・第五文休(だいごぶんきゅう)と合わせ「三休」と並び称された。

192年、(戦死した劉岱(りゅうたい)に代わり)兗州刺史に任じられ赴任しようとしたが、すでに曹操が支配していたため、袁術を頼った。
兵を借り受け攻撃したが曹操に大敗を喫し、袁術の身も危うくなったが、呂布が兗州で蜂起したため難を逃れた。

197年、袁術が帝位を僭称すると金尚を太尉に任じようとした。金尚は人を通じてそのつもりが無いことをほのめかし、それを察した袁術も無理強いしなかったが、間もなく金尚は逃亡を図り、失敗して殺害された。

遺体は先に袁術に協力させられ憤死した馬日磾(ばじつてい)の遺体とともに都へ届けられた。
献帝は金尚の忠義を称賛し、その霊を祀らせると子の金瑋(きんい)を取り立てた。(『呂布伝』)
だが馬日磾の遺族は孔融(こうゆう)の猛反対により恩恵に浴せなかった。(『後漢書 孔融伝』)



金旋  チョイ役太守


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禽堅  王商に親孝行を顕彰される


禽堅(きんけん)字は不明
益州蜀郡成都県の人(??~??)

素性不明。

「益州耆旧伝」に曰く。
王商(おうしょう)は蜀郡太守となり、亡き禽堅の親孝行を称えて墓に碑を建て孝廉を追贈した。また厳君平・李弘の祠を建て先賢として表彰した。(『許靖伝』)



靳允  程昱に説得され范県を守る


靳允(きんいん)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

194年、曹操が遠征した隙に張邈(ちょうばく)・陳宮(ちんきゅう)が反乱し、兗州を制圧し呂布を迎え入れた。
鄄城・東阿・范の3県だけが従わなかったが、呂布軍からの降伏者が「陳宮は東阿を攻め、氾嶷(はんぎょく)に范を攻撃させるつもりだ」と伝えると官民は恐慌をきたした。
荀彧は人望ある程昱(ていいく)に3県を説得して動揺させないよう命じ、程昱は范県令の靳允を「君は母・弟・妻子を人質にされたが、従う主君を間違えれば一家揃って滅亡する。呂布と曹操を比べればどちらに付くべきか明らかだ。よく考慮せよ」と説き伏せた。
靳允は涙を流し「二心は抱きません」と誓い、既に県に入っていた氾嶷を刺客に殺させ、守りを固めた。
程昱は水路を断って陳宮の侵攻も防ぎ、曹操が帰還するまで3県を守り抜いた。

後世の徐衆(じょしゅう)は「靳允は曹操にまだ仕えていたとは言えず、道義から言って母を助けるべきだった。徐庶が母を人質に取られた時、劉備は徐庶を帰らせた。曹操もそうすべきだった」と批判するが、曹操の預かり知らぬところであり例によっていちゃもんだろう。
また徐衆の言葉から察するにやはり人質は殺されたと思われる。(『程昱伝』)



靳詳  郝昭の旧友


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靳富  鄭渾に討伐された賊A


靳富(きんふ)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

212年過ぎ、夏陽県長と邵陵県令を脅迫して蜂起し、官民を連れて磑山に立て籠もった。
左馮翊太守の鄭渾(ていこん)はそれを討伐し、2県の高官を捕らえ、官民を連れ帰った。(『鄭渾伝』)

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