韓曁 発明から祭事まで
韓曁(かんき)字は公至(こうし)
荊州南陽郡堵陽県の人(??~238)
魏の臣。
「楚国先賢伝」に曰く。 韓王の子孫で祖父・父は太守を務めた。
同じ県の顔役だった陳茂(ちんぼう)が、父の韓純(かんじゅん)と兄を陥れ死に追いやった。
韓曁は表にこそ出さなかったが復讐を誓い、日雇いで資金を貯め、刺客と結び、陳茂を殺すと、首を父の墓前に供えた。
それにより名を知られ、孝廉に推挙され司空から召されたが、応じず姓名を変えて魯陽の山中に潜んだ。
山中の住民が山賊を始めようとすると、利害を説いて思いとどまらせた。
袁術や劉表(りゅうひょう)の招聘を避けて各地を転々としたが、劉表の恨みを察して宜城県長にへの就任を受けた。
208年、曹操は荊州を制圧すると韓曁を丞相士曹属に任じ、楽陵太守、監冶謁者に転じた。
当時は金属を溶かすために馬力を利用し、鉱石を一回熱するだけでも百頭の馬を必要とした。
人力に改良しても効率は悪く、韓曁は水力を利用することを思いつき、以前の3倍の利益を上げた。
在職7年で器物を充実させ、司金都尉を加えられ九卿に次ぐ官位とされた。
220年、曹丕が帝位につくと宜城亭侯に封じられた。
226年、太常に昇進し、爵位も南郷亭侯に上り領有200戸を与えられた。
当時は洛陽に遷都したばかりで機構は整わず、宗廟に祀られる位牌も旧都に残されていた。
そこで韓曁は位牌を移し、廟を建立し祀るよう上奏した。(『韓曁伝』)
229年11月、宗廟が完成し、韓曁は曹騰(そうとう)~曹丕4代の位牌を鄴から洛陽へ移し安置した。(『明帝紀』)
韓曁の後任で大鴻臚を務めた韓宣(かんせん)もよく務め、人々は2人を称え「大鴻臚と小鴻臚、前後の治績がなんと似ていることよ」という言葉が流行した。(『裴潜伝』)
他にも礼を尊重し、淫祀を撤去させ、道を正すことが多々あった。
在職に8年あり、病を理由に官を辞した。(『韓曁伝』)
237年、司徒の陳矯(ちんきょう)が亡くなり(『明帝紀』)、曹叡は後任を盧毓(ろいく)に尋ねた。
盧毓は無官の管寧(かんねい)を勧めたが曹叡は却下し、次に挙げられた韓曁、崔林(さいりん)、常林(じょうりん)の中から韓曁を選んだ。
なお盧毓は「篤実で品行に優れる」と韓曁を評した。(『盧毓伝』)
238年、曹叡は「太中大夫の韓曁は身を清く保ち徳に厚く、志節高潔である。80歳を超えながら道義を守ること堅固で、純粋にして篤実、老いてますます盛んである」と司徒に任じた。
同年4月に逝去し、恭侯と諡された。
子の韓肇(かんちょう)が後を継いだ。
遺言で「世間が奢侈に流れていればつつましさを示すべきだ」と粗末な葬儀を上げるよう命じ、曹叡にも同様に請願したが、曹叡はその節倹ぶりを称えながらも、慣例通りに手厚く葬らせた。
子孫も慎み深く、重職を歴任したが、司馬倫(しばりん)の反乱に巻き込まれ一族は滅びた。(『韓曁伝』)
陳寿は「家では閑静な生活で教化を行い、外では職務に責任を持ち称賛を博した。ただ80歳を過ぎてから(辞退せず)高位に就いたのは、徐邈(じょばく)・常林(じょうりん)と比べ玉に瑕である」と評した。
「演義」では史実に全くない、曹真(そうしん)へ司馬懿の忠告を伝える役目で登場。司馬懿はあくまで詔勅だと伝えるよう言い含めたが、郭淮が司馬懿の差し金だと気づき、反発した曹真は忠告を無視した。
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