三国志 か 6


韓晞  劉表の長矛隊


韓晞(かんき)字は不明
荊州南陽郡の人(??~199)

劉表(りゅうひょう)の臣。

「江表伝」に曰く。
199年、袁術の旧臣は劉勲(りゅうくん)のもとへ身を寄せたが、劉勲も孫策に撃破された。
劉勲は山城へ逃げるとともに劉表へ救援要請し、黄射(こうしゃ)が5千の兵を率い出撃した。しかし間に合わず劉勲は撃破されて曹操のもとへ亡命し、黄射も慌てて逃亡した。
孫策は夏口まで追撃し、黄祖(こうそ)は派遣されていた劉虎(りゅうこ)・韓晞の長矛隊5千を先鋒に立て迎撃したが、これも撃破された。

「呉録」の孫策の上表文に曰く。
黄祖の妻と子供7人を捕虜とし、劉虎・韓晞をはじめ2万の首級を上げた。(『孫策伝』)



韓曁  発明から祭事まで


韓曁(かんき)字は公至(こうし)
荊州南陽郡堵陽県の人(??~238)

魏の臣。

「楚国先賢伝」に曰く。
韓王の子孫で祖父・父は太守を務めた。

同じ県の顔役だった陳茂(ちんぼう)が、父の韓純(かんじゅん)と兄を陥れ死に追いやった。
韓曁は表にこそ出さなかったが復讐を誓い、日雇いで資金を貯め、刺客と結び、陳茂を殺すと、首を父の墓前に供えた。
それにより名を知られ、孝廉に推挙され司空から召されたが、応じず姓名を変えて魯陽の山中に潜んだ。
山中の住民が山賊を始めようとすると、利害を説いて思いとどまらせた。
袁術や劉表(りゅうひょう)の招聘を避けて各地を転々としたが、劉表の恨みを察して宜城県長にへの就任を受けた。

208年、曹操は荊州を制圧すると韓曁を丞相士曹属に任じ、楽陵太守、監冶謁者に転じた。
当時は金属を溶かすために馬力を利用し、鉱石を一回熱するだけでも百頭の馬を必要とした。
人力に改良しても効率は悪く、韓曁は水力を利用することを思いつき、以前の3倍の利益を上げた。
在職7年で器物を充実させ、司金都尉を加えられ九卿に次ぐ官位とされた。

220年、曹丕が帝位につくと宜城亭侯に封じられた。
226年、太常に昇進し、爵位も南郷亭侯に上り領有200戸を与えられた。
当時は洛陽に遷都したばかりで機構は整わず、宗廟に祀られる位牌も旧都に残されていた。
そこで韓曁は位牌を移し、廟を建立し祀るよう上奏した。(『韓曁伝』)
229年11月、宗廟が完成し、韓曁は曹騰(そうとう)~曹丕4代の位牌を鄴から洛陽へ移し安置した。(『明帝紀』)

韓曁の後任で大鴻臚を務めた韓宣(かんせん)もよく務め、人々は2人を称え「大鴻臚と小鴻臚、前後の治績がなんと似ていることよ」という言葉が流行した。(『裴潜伝』)

他にも礼を尊重し、淫祀を撤去させ、道を正すことが多々あった。
在職に8年あり、病を理由に官を辞した。(『韓曁伝』)

237年、司徒の陳矯(ちんきょう)が亡くなり(『明帝紀』)、曹叡は後任を盧毓(ろいく)に尋ねた。
盧毓は無官の管寧(かんねい)を勧めたが曹叡は却下し、次に挙げられた韓曁、崔林(さいりん)、常林(じょうりん)の中から韓曁を選んだ。
なお盧毓は「篤実で品行に優れる」と韓曁を評した。(『盧毓伝』)

238年、曹叡は「太中大夫の韓曁は身を清く保ち徳に厚く、志節高潔である。80歳を超えながら道義を守ること堅固で、純粋にして篤実、老いてますます盛んである」と司徒に任じた。

同年4月に逝去し、恭侯と諡された。
子の韓肇(かんちょう)が後を継いだ。
遺言で「世間が奢侈に流れていればつつましさを示すべきだ」と粗末な葬儀を上げるよう命じ、曹叡にも同様に請願したが、曹叡はその節倹ぶりを称えながらも、慣例通りに手厚く葬らせた。

子孫も慎み深く、重職を歴任したが、司馬倫(しばりん)の反乱に巻き込まれ一族は滅びた。(『韓曁伝』)

陳寿は「家では閑静な生活で教化を行い、外では職務に責任を持ち称賛を博した。ただ80歳を過ぎてから(辞退せず)高位に就いたのは、徐邈(じょばく)・常林(じょうりん)と比べ玉に瑕である」と評した。

「演義」では史実に全くない、曹真(そうしん)へ司馬懿の忠告を伝える役目で登場。司馬懿はあくまで詔勅だと伝えるよう言い含めたが、郭淮が司馬懿の差し金だと気づき、反発した曹真は忠告を無視した。



韓莒子  烏巣レンジャー・烏巣ブラック


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韓玄  悪代官


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韓儼  楊戯に助けられた重病の幼馴染


韓儼(かんげん)字は不明
益州巴西郡の人(??~??)

蜀の臣?

持病により廃人同然となり人々から見捨てられたが、幼馴染の楊戯(ようぎ)だけは昔通りの友情を示し、暮らしに配慮し援助してやった。(『楊戯伝』)



韓呉郡  劉聖博に有能な人物を尋ねる


韓呉郡(かんごぐん)名は不明
出身地不明(??~??)

素性不明。

257年、会稽太守の濮陽興(ぼくようこう)は元旦の宴の際に「私はかつて朱寵(しゅちょう)が鄭凱(ていがい)に、韓呉郡が劉聖博(りゅうせいはく)に、王朗(おうろう)が虞翻(ぐほん)に有能な人物を尋ねたと聞いた。そのうち虞翻の話だけは知らない。賢者の答えをぜひ聞きたいが誰か知らないか」と問い、朱育(しゅいく)が名乗りを上げた。
朱育は虞翻が語った会稽郡の歴史と名だたる人材を事細かに話し、濮陽興を喜ばせた。(『虞翻伝』)

韓呉郡と劉聖博の素性は不明。呉郡は出身地か任地、聖博は字だろう。いつの時代の人物かもわからず、かの「三国志集解」すら未詳と記している。



韓公


未作成



韓洪  韓曁の孫


韓洪(かんこう)字は不明
荊州南陽郡堵陽県の人(??~??)

晋の臣。
韓繇(かんよう)の子。韓曁(かんき)の孫。

「楚国先賢伝」に曰く。
侍御史に上った。子の韓寿(かんじゅ)が河南尹となり死後に驃騎将軍を追贈され、孫の韓謐(かんひつ)が賈充(かじゅう)の後を継ぐなど子孫は重職を歴任したが、司馬倫(しばりん)の反乱に巻き込まれ一族は滅びた。(『韓曁伝』)



韓浩  「韓玄? 誰それ?」魏に屯田を行わせた能臣


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韓珩  焦触の誘いを一蹴した忠臣


韓珩(かんこう)字は子佩(しはい)
幽州代郡の人(??~??)

袁紹の臣。

「先賢行状」に曰く。
清潔純粋で度量が広かった。幼くして両親を亡くし、兄姉によく孝行し一門から称賛された。

205年、袁譚(えんたん)が曹操に敗死すると、袁尚(えんしょう)配下の焦触(しょうしょく)は曹操に寝返り、袁尚・袁煕(えんき)を撃破し、袁煕が務めていた幽州刺史を自称した。
焦触は数万の兵を得て周辺の太守や県令・県長を集め、盟約を結ぼうとし「命令に背けば殺す」と脅しつけ生贄の血をすすらせた。
誰もが恐れて従うなか、別駕の韓珩は「私は袁氏に大恩を受けた。しかし主君が滅亡したのに救う知力も、討ち死にする勇気も無く、信義に欠けている。それなのに曹操に仕えることはできない」と述べた。
一座の者は韓珩を案じて顔色を青くしたが、焦触は「大事を起こすには大義を立てなければならず、事の成就は一人だけの力ではできない。韓珩の意志を貫かせ、主君に仕える者を励ますのもいいだろう」と言い、それを認めた。

曹操は韓珩の節操を高く評価し何度も招聘したが、韓珩は固辞し無官のまま家で没した。(『袁紹伝』)



韓士元  馬良らと並び称された人物B


韓士元(かんしげん)名は不明
荊州の人(??~??)

蜀の臣。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「折り目正しい言葉を吐いた」と評した。

姓と字だけが伝わっているが、馬良(ばりょう)らと並び称され「楚(荊州)の地の優れた人物」とあることから荊州出身と思われる。(『楊戯伝』)



韓術  韓曁の祖父


韓術(かんじゅつ)字は不明
荊州南陽郡堵陽県の人(??~??)

後漢の臣。
韓曁(かんき)の祖父。

「楚国先賢伝」に曰く。
韓王の子孫で韓術は河東太守、子の韓純(かんじゅん)は南郡太守を務めた。

孫の韓曁は「正史」に列伝された。(『韓曁伝』)



韓純  韓曁の父


韓純(かんじゅん)字は不明
荊州南陽郡堵陽県の人(??~??)

後漢の臣。
韓曁(かんき)の父。

「楚国先賢伝」に曰く。
韓王の子孫で父の韓術(かんじゅつ)は河東太守、韓純は南郡太守を務めた。

堵陽県の顔役の陳茂(ちんぼう)は韓純と韓曁の兄を陥れ死に追いやった。
韓曁は表にこそ出さなかったが復讐を誓い、日雇いで資金を貯め、刺客と結び、陳茂を殺すと、首を父の墓前に供えた。それにより名を知られた。(『韓曁伝』)



韓遂  西涼のバイキング


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韓嵩  裏切ったのはあなたです


韓嵩(かんすう)字は徳高(とくこう)
荊州南陽郡の人(??~??)

劉表(りゅうひょう)の臣。
「後漢書」には南陽郡の人、注に引く「先賢行状」には義陽郡の人と記される。(『後漢書 劉表伝』)

若い頃から学問を好み、貧乏にもめげなかった。(『劉表伝』)
向朗(しょうろう)は司馬徽(しばき)に師事し、徐庶(じょしょ)、韓嵩、龐統と親しかった。(『向朗伝』)

乱世の到来を悟り、三公からの招聘に応じず山中に隠れ住み、黄巾の乱が起こると南方へ疎開した。
荊州牧の劉表に迫られて別駕となり、従事中郎に転じた。
劉表が天子にのみ許される、天地を祀る儀式を行った時、それを諌めたため疎まれるようになった。

200年、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、劉表はどちらにも与せず中立を決め込んだ。韓嵩は劉先(りゅうせん)とともに「両雄が対峙していますが、趨勢を決するのはあなたです。決起して双方を攻めるか、どちらに与するか態度をはっきりしてください。中立のままでは、勝者に恨まれます。我々の見たところ曹操が勝ちます。そして荊州に攻め寄せてきたら防げません。急ぎよしみを通じるべきです」と進言した。
蒯越(かいえつ)も同意すると劉表は重い腰を上げ、韓嵩を都に使者として送り、情報収集させた。
韓嵩は出立前に「私は主君のために命を懸けますが、もし天子から官位を与えられれば、主君は天子に変わります。そうなればあなた(劉表)のために死ねません。どうかそれを忘れ私を裏切らないでください」と念を押した。韓嵩は案の定、侍中・零陵太守に任じられた。
帰国した韓嵩は朝廷と曹操を讃え、人質を送るよう進言したため、劉表は「よくも裏切ったな」と激怒し彼を殺そうとした。
韓嵩は全く動じず「裏切ったのはあなたです」と言い、出立前の約束を繰り返した。
劉表の怒りは収まらなかったが、妻の蔡氏(さいし)が「韓嵩は名声高く、彼の言葉も正しい」と擁護したため、処刑せず拘禁に留められた。

208年、劉表が病没し、曹操の大軍が荊州に迫った。
後を継いだ劉琮(りゅうそう)へ、韓嵩は蒯越・傅巽(ふそん)とともに降伏を勧めた。劉琮はなおも逡巡したが、傅巽に説得され降伏した。(『劉表伝』)
曹操は韓嵩を牢獄から解放させ、配下ではなく交友の礼をもって迎えた。荊州の人材の評価を聞き、それを参考に登用した。(『後漢書 劉表伝』)
韓嵩は(獄中生活の影響か)床から起き上がれず、病床で大鴻臚に任じられた。(『劉表伝』)



韓世雄  甘始の師匠


韓世雄(かんせゆう)字が世雄
冀州安平郡の人(??~??)

方術士。

「博物志」に曰く。
曹操は道家の養生の法に詳しく、方術士の左慈、華佗(かだ)、甘始(かんし)、郤倹(げきけん)らを招いた。(『武帝紀』)

曹植(そうしょく)の「弁道論」に曰く。
「曹操は左慈・甘始・郤倹らを招き、みな300歳になると公言していた。彼らを宮廷に集めたのは人心を惑わさないようにするためで、我ら一家は父(曹操)や兄(曹丕)ともどもお笑い草だと信じていなかった。
だから甘始らの待遇には限度があり、俸禄は役人に及ばず、褒美も与えなかった。
甘始は若々しく他の方術士も心服していたが、話すことの裏付けはなく、時に怪しいことも言った。
私と二人きりで話すと、自分の師は韓世雄といい、南海郡でともに錬金術でこさえた数万斤の黄金を海に捨てたとか、梁冀に献上した宝物は惜しかったとか、西国では子供が生まれると健康のため脾臓を取り除くとか、高温の油の中でも鯉をフライにさせない薬があるなどという話を披露した。
私がその薬を見たいと言うと、1万里の彼方に置いてあるから無理だと断られた。他にも色々話したが特に怪しげな話だけをこうして紹介する。
もし秦や前漢の時代に甘始が生まれていれば、徐市(徐福)や欒大(※皇帝をたぶらかした方術士)の仲間入りしただろう」(『華佗伝』)



韓冉  曹丕に殺された(?)弔問の使者


韓冉(かんぜん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

「王沈魏書」に曰く。
220年、曹操が没すると劉備は掾の韓冉を弔問の使者として送った。
曹丕は喪にかこつけて誼を通じるやり方に怒り、荊州刺史に命じて韓冉を殺させた。

「典略」に異聞がある。
軍謀掾の韓冉は弔問の使者として魏へ向かったが、病気と称して上庸郡に留まり、郡の役人に文書を託した。
ちょうど魏では曹丕が帝位についたところで、詔勅によって韓冉も都へ招かれ、無事に蜀へ帰った。(『先主伝』)



韓宣  曹植を論破する


韓宣(かんせん)字は景然(けいぜん)
冀州渤海郡の人(??~??)

魏の臣。

小柄な体格だった。
建安年間(196~220)に曹操に召されて丞相軍謀掾となるが、仕事が無く鄴にいた。
ある時、道で曹植(そうしょく)の馬車と行き合った。道を譲ろうとしたが雨上がりで大きな水たまりがあって身動きできず、扇で顔を隠してじっとしていた。
曹植はどかない上に礼も取らない彼に腹を立て、素性を尋ね「諸侯の邪魔をしていいと思っているのか」と怒った。
韓宣は「王の直臣は諸侯の上に位置します。丞相の属官が田舎の諸侯に礼を取るとは聞いたこともありません」と反論した。
曹植がさらに「たとえそうでも私の父に仕えているのだから、息子に礼はするべきじゃないか」と言うと、韓宣は「礼においては臣と子は同等です。それに私のほうが年上です」と言い返した。
曹植は言い負かせないと悟るとその場を去り、兄の曹丕へ弁舌の立つ奴がいると話した。

黄初年間(220~226)に尚書郎となったが、罪を犯し杖打ちを受けることになった。
そこへ皇帝となった曹丕が通りかかり、側近に素性を尋ねた。
名を聞くと「こいつが曹植の言っていた韓宣か」と思い出し、赦免してやった。
杖打ちされるため下着姿だった韓宣はそのまま走り去り、曹丕は「(曹植の話と違い)従順でものわかりのいい奴だ」と笑った。

後に清河・東郡太守を歴任し、曹叡の代に尚書大鴻臚となった。
有能でも無能でもなかったが自分を律し寛大で、前任の大鴻臚の韓曁(かんき)とともに人々は称え「大鴻臚と小鴻臚(※小柄だからだろう)、前後の治績がなんと似ていることよ」という言葉が流行した。

数年後に没した。

「魏略」では正史に列伝された張既(ちょうき)・梁習(りょうしゅう)・趙儼(ちょうげん)・裴潜(はいせん)とともに同じ巻で列伝され、「世語」でも名臣に数えられるが、正史には登場せず、裴松之の注で紹介されている。(『裴潜伝』)



韓暹  楊奉の相方


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韓宗


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韓琮  魏に寝返った韓当の子


韓琮(かんそう)字は不明
幽州遼西郡令支県の人(??~252)

呉、後に魏の臣。
韓当(かんとう)の子。

226年、父が没すると爵位と兵を継いだ。

同年、石陽の戦いに韓琮は父の喪に服すため従軍しなかった。韓琮はかねてから淫乱かつ無法で、孫権は父に免じて咎めなかったものの、韓当が没したため処罰を恐れていた。(『韓当伝』)

227年、審悳(しんとく)が曹休(そうきゅう)に敗死すると、それを機に魏へ降伏した。(『曹休伝』)

父の棺を車に乗せ、母や一族・兵ら男女数千人を率いて亡命し、魏は喜び将軍に任じて広陽侯に封じた。

「呉書」に曰く。
韓琮は兵が従わないことを恐れ、わざと兵に強盗を奨励した。そして処罰されると偽って亡命を促し、父の葬儀を名目に集めた姉妹や一族のおば、自分の妾を腹心の妻に与え、結束を強めた。

魏軍としてしばしば国境を侵し孫権を歯噛みさせた。(『韓当伝』)

252年、東興の戦いで前軍督を務めたが敗死し、諸葛恪(しょかつかく)は首を孫権の廟に供えた。(『韓当伝』・『諸葛恪伝』)

「演義」でははじめから魏の将として登場し、韓当の子だとは記されない。



韓卓


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韓忠  公孫康の使者


韓忠(かんちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

遼東太守の公孫康(こうそんこう)の臣。
黄巾賊に同姓同名がいるが無関係。

曹操は官渡の戦いで袁紹を破ると、袁氏に味方する烏桓を説得するため、烏桓単于(王)の蘇僕延(そぼくえん)のもとへ牽招(けんしょう)を派遣した。
たまたま公孫康も蘇僕延を懐柔しようと狙い韓忠を派遣しており、両者は論戦となった。

蘇僕延は「以前、袁紹が私を単于に任じる詔勅(※偽物)をくれた。ところが曹操が今また単于にするよう天子に働きかけると言い、公孫康も印綬を持ってきた。誰を信じればよいのだ」と尋ねる。
牽招は曹操が正統な天子の使者だと言い、公孫康ごときにそんな権限は無いと切り捨てた。
韓忠が遼東のバックには夫余ら異民族があり百万の軍勢を擁すると大言壮語を吐くと、牽招は、遠方の土地を頼みに王命を無視する逆賊と罵り、韓忠の頭をつかんで地面に叩きつけ、刀を抜いて殺そうとした。
あわてて蘇僕延は仲裁に入り、牽招の説得を受け入れ、韓忠は帰国した。

だが結局、蘇僕延ら烏桓は袁氏を助けて曹操に敗退した。
公孫康のもとへ落ち延びたが、袁紹の子らとともに処刑され、首級を曹操のもとへ送られた。(『牽招伝』)
論戦に敗れはしたものの、韓忠の報告により公孫康は曹操の強硬姿勢を知り、帰順を決めたのかも知れない。



韓忠  張角討伐のキーキャラ


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韓肇  韓曁の子


韓肇(かんちょう)字は不明
荊州南陽郡堵陽県の人(??~??)

魏の臣。
韓曁(かんき)の子。

238年、父が没すると後を継いだ。

韓肇も没すると子の韓邦(かんほう)が後を継いだ。

弟の韓繇(かんよう)が高陽太守になるなど韓曁の子孫は慎み深く、重職を歴任したが、司馬倫(しばりん)の反乱に巻き込まれ一族は滅びた。(『韓曁伝』)



韓当  長江を股にかける男


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韓範  曹操に一時抵抗した易陽県令


韓範(かんはん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁尚(えんしょう)の臣。

204年、袁尚は袁譚(えんたん)の攻撃に向かい、その隙に曹操は袁尚の本拠地の鄴を攻めた。
易陽県令の韓範と渉県長の梁岐(りょうき)は県をあげて降伏し、関内侯に封じられた。(『武帝紀』)

韓範は降伏すると偽り、籠城して抵抗した。
討伐を命じられた徐晃は矢文を送って利害を説き、降伏させた。そして曹操へ「袁譚・袁尚は健在で、諸城は行く末を見守っています。易陽県を滅ぼせば諸城は必死に抵抗し、河北は安定しません」と助言し、降伏を認めさせた。(『徐晃伝』)



韓斌  鍾繇とともに献帝を守った尚書郎


韓斌(かんひん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

鍾繇(しょうよう)は尚書郎の韓斌とともに策略をめぐらせ献帝を守り、長安からの脱出に貢献した。(『鍾繇伝』)



韓馥  三国一の臆病者


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韓扁


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韓邦  法と司馬炎の逆鱗に触れた韓曁の孫


韓邦(かんほう)字は長林(ちょうりん)
荊州南陽郡堵陽県の人(??~??)

魏の臣。
韓肇(かんちょう)の子。韓曁(かんき)の孫。

若い頃から才能・学問があった。
父が没すると後を継いだ。

司馬炎の代に野王令を務め評判と業績を上げた。
だが新城太守に転じると、野王令の時の部下を官吏に取り立てたことで法に触れ、激怒した司馬炎に処刑された。

韓曁の子孫は慎み深く、重職を歴任したが、司馬倫(しばりん)の反乱に巻き込まれ一族は滅びた。(『韓曁伝』)



韓猛  4つの名を持つ男


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韓融  李傕・郭汜と交渉


韓融(かんゆう)字は元長(げんちょう)
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
韓韶(かんしょう)の子。

若い頃から弁舌と学問に優れた。声名は甚だ盛んで、五府から揃って招聘された。(『後漢書 韓韶伝』)

陳寔(ちんしょく)に師事し、王烈(おうれつ)、荀爽(じゅんそう)、賈彪(かひょう)、李膺(りよう)ら名だたる人物が同門だったが、王烈の器量と学業は並外れており、彼らは感服し親しく付き合い、王烈の名は四海に轟いた。(『管寧伝』)

189年、陳寔が没すると太僕令の韓融や荀爽らはすでに後漢の高位にあったが3ヶ月の喪に服した。(『陳羣伝』)

董卓は実権を握ると許靖(きょせい)と周毖(しゅうひ)に人事を任せた。荀爽・韓融・陳紀(ちんき)らが昇進し公・卿・郡守に取り立てられた。(『許靖伝』)

190年、袁紹が挙兵すると董卓は都にいたその家族を皆殺しにした。そして大鴻臚の韓融らに命じて袁紹の兵を収拾させようとしたが、袁紹の命を受けた王匡(おうきょう)によってみな殺され、韓融だけが名声により難を逃れた。(『後漢書 袁紹伝』)

196年、献帝は李傕(りかく)・郭汜(かくし)らの占拠する長安を脱出し洛陽へ向かった。
安邑に着いた時、付き従う者は太僕の韓融ら10人余りだけだった。
韓融は李傕・郭汜と交渉し、略奪された宮女や公卿、車馬を返還させた。(『李傕・郭汜伝』)

70歳で没した。(『後漢書 韓韶伝』)



韓繇  韓曁の次男


韓繇(かんよう)字は不明
荊州南陽郡堵陽県の人(??~??)

魏の臣。
韓曁(かんき)の次男。

父が没すると兄の韓肇(かんちょう)が後を継いだ。

韓繇は高陽太守に上った。
子の韓洪(かんこう)が侍御史に、孫の韓寿(かんじゅ)が河南尹となり死後に驃騎将軍を追贈され、曾孫の韓謐(かんひつ)が賈充(かじゅう)の後を継ぐなど子孫は重職を歴任したが、司馬倫(しばりん)の反乱に巻き込まれ一族は滅びた。(『韓曁伝』)



韓龍  軻比能を暗殺した刺客


韓龍(かんりょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

233年、鮮卑の大人(長)の軻比能(かひのう)が反乱した。

235年、幽州刺史の王雄(おうゆう)の進言により、曹叡は軻比能へ勇猛な刺客の韓龍を送り暗殺した。
代わって軻比能の弟が王に立てられた。(『烏丸伝』・『鮮卑伝』)



簡位居  夫余の王たち


簡位居(かんいきょ)
夫余の人(??~??)

夫余の単于(王)たち。

尉仇台(いきゅうだい)が没すると簡位居が後を継ぎ単于となった。
尉仇台との関係は記されていないが、息子ならば公孫度(こうそんど)が一族の娘を尉仇台に嫁がせたとも記されており、簡位居の母の可能性がある。

簡位居が没すると嫡子が無かったため、重臣たちは協議し庶子の麻余(まよ)に後を継がせた。
麻余の甥(兄の子)の位居(いきょ)が信望を集め、魏へよしみを通じるなど大いに貢献した。

麻余も没すると6歳の子の依慮(いりょ)が後を継いだ。(『夫余伝』)

ただし尉仇台~依慮の即位まで記述に混乱が見られると、ちくま版の訳者(今鷹真・小南一郎)は指摘している。



簡  劉禅を養父?から引き取る


簡(かん)名は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

以下「魏略」に曰く。
劉備が徐州刺史の頃、曹操の奇襲を受けてあわてて逃げたため家族は取り残された。当時5~6歳の劉禅は漢中へ流れ、売り飛ばされた。

211年、劉括(りゅうかつ)は戦乱を避けて漢中へ移住し、買い取った劉禅が良家の子と知り、養子にして妻をめとらせ子にも恵まれた。
214年、益州を制圧した劉備が舎人だった簡を将軍の簡とし漢中へ派遣すると、劉禅は父の字を玄徳だと覚えていたため、簡に会い事情を話した。劉備の子だとわかり、漢中太守の張魯(ちょうろ)に話して身柄を引き取り、かくして劉禅は太子となった。
劉備は諸葛亮を太子太傅に任じ「政治は諸葛亮に、祭祀は私が行う」と言い、諸葛亮はまだ政治に不慣れな劉禅に代わり国政を取り仕切った。

裴松之は劉禅の年齢の矛盾を細々と指摘し「こんな妄説を200字に渡り述べているとはなんと奇体なことか」と皮肉り「諸葛亮が太子太傅になった事実もない」ととどめを刺す。(『後主伝』)



簡雍  諫言はユーモアにくるんで


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顔俊  魏を利用しようとしガン無視された賊徒


顔俊(がんしゅん)字は不明
涼州武威郡の人(??~??)

賊徒。

張既(ちょうき)が雍州刺史を務めた頃(219年頃)、涼州では武威郡の顔俊、張掖郡の和鸞(からん)、酒泉郡の黄華(こうか)、西平郡の麴演(きくえん)らが反乱し、勝手に将軍を名乗って争いあった。
顔俊が母と子を人質に出して魏に援軍を求めると、張既は「顔俊は不遜と逆心を抱いており、(力を貸して)勢いを得れば即座に背きます。我々は蜀との戦いに集中すべき時ですから、介入せず共倒れを待つべきです」と言い、曹操も同意した。
1年余り経ち、顔俊は和鸞に殺され、和鸞も武威郡の王秘(おうひ)に殺された。(『張既伝』)



顔斐  京兆郡を愛し愛された太守


顔斐(がんひ)字は文林(ぶんりん)
兗州済北郡の人(??~??)

魏の臣。

以下「魏略」に曰く。
才能学識があった。丞相(曹操)に召し出され太子洗馬に取り立てられた。
黄初年間(220~226)はじめ、黄門侍郎に転任し、後に京兆太守となった。
211年の馬超の反乱以来、京兆郡は荒れて民は農業に専念せず、3~4人の太守が赴任したが一時的な解決を図るだけで民のために恒久的な計画を立てなかった。
顔斐は着任するや管轄の県に命じて田を整えさせ、樹を植えさせた。車や牛を持つ民が少なかったため、農閑期に車の材料を集めさせ、互いに造り方を教え合うよう義務化した。牛を持たない民には豚や犬を育てさせ、それを売った金で牛を買わせた。民もはじめは面倒がったが、1~2年も経つと各家が車と牛を持てるようになった。
また学問を勧め、志のある役人や民の小さな役務を免じて学問させた。公用の菜園を仕事の無い役人に耕させ、民には米の支給の際に薪を持ってこさせ、火をつけて凍った筆や硯を暖めさせた。
教化は大いに行き渡り、役人も民も問題を起こさなくなった。
馮翊・扶風郡と隣接していたが、2郡の道路は荒廃し田畑も放置され、民は飢え凍えていたが、京兆郡は全てが整って明るく、雍州10郡の中で最も優れた治績を上げた。
顔斐も潔癖で俸禄の他に報酬を求めず、官民は彼が転任することを恐れた。

青龍年間(233~237)、司馬懿は長安に駐屯し軍の市場を設立した。
兵が郡民を侮り略奪すると顔斐はそれを訴え、司馬懿は市場の見守り役を呼び顔斐の前で百叩きさせた。その時、長安の典農が顔斐も詫びるべきだと勧めると、顔斐は「殿(司馬懿)は統治の責任を持たれているからには、民を一つにまとめたいと願い、絶対に他人に惑わされないと拝察しています。ところが典農はこっそりと私に詫びさせようとしました。私が詫びればそれこそ殿のお気持ちに沿わないと存じます」と述べた。司馬懿は同意し、配下を厳しく取り締まった。
これにより以後、軍営と郡県は互いの(職分を侵さず)権限を維持できた。

数年後、顔斐は平原太守に転任することとなり、官民は声を上げて泣きながら道を塞いだ。車は進めず一歩ごとに立ち止まり、郡を出るまで十数日かかった。顔斐も京兆郡を愛しており、道中で病にかかり家族や従者が「平原(太守)様どうかお丈夫に」と励ますと、「私の心は平原郡を希望していないのに、なぜ京兆(太守)と呼ばないのだ」と嘆いた。
そのまま没し、遺体は平原郡に送られた。
京兆郡の民はそれを聞くと誰もが悲しみ、石碑を立てて弔った。現在(晋代)も顔斐は称えられている。

陳寿は魏の歴史の中で優秀な太守5人の中に顔斐を入れた。(『倉慈伝』)



顔良  関羽に真っ二つ


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闞沢  記憶力で世に出る


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灌均  曹丕に迎合し曹植を弾劾する


灌均(かんきん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

221年、監国謁者の灌均は曹丕に迎合し「曹植(そうしょく)は酒に酔うと粗暴傲慢になり使者を脅迫した」と弾劾した。
処刑を建議されたが母の卞太后(べんたいこう)への遠慮から侯への格下げ処分に留められた。(『陳思王植伝』)

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