三国志 こ 4


高岱  何者かに陥れられる


高岱(こうたい)孔文(こうぶん)
揚州呉郡の人(??~??)

後漢の臣。

生まれつき聡明で物事に通じ、無欲で信義を重んじた。才能ある人物を世に知られる前に見抜いては交友し、8人の友人はいずれも当時の英俊だった。

呉郡太守の盛憲(せいけん)に孝廉に推挙され上計となった。
許貢(きょこう)が呉郡を乗っ取ると、高岱は盛憲を許昭(きょしょう)の家に避難させ、自身は徐州刺史の陶謙(とうけん)に援軍を求めた。陶謙ははじめ断ったが、高岱が血の涙を流すほど憔悴したのを見て感動し、援軍を送るとともに許貢を説得する手紙を書いた。
許貢は母を人質に取っており、行けば殺されると誰もが危ぶんだが、高岱は「主君のためならば命は惜しくないし、母も待っている」と面会し、その弁舌に心打たれた許貢は思わず母を解放した。
許貢はすぐ我に返り追っ手を差し向けたが、高岱はそれを読み友人の張允(ちょういん)と沈䁕(しんびん)に船を用意してもらっていたため無事に逃げ切った。

その後、隠棲していたが孫策に招聘された。
孫策は「春秋左氏伝」を高岱と議論しようと考えていたが、ある人物が「高岱はあなたを侮り議論する価値は無いと思っており、質問されてもわからないと答えるでしょう」と吹き込み、高岱には「孫策は自分より優れた者を嫌うので、質問されてもわからないと答えなさい」と教えた。

陥れられた高岱は投獄された。
彼を慕う人々が赦免を訴え、数里先にまであふれているのを見ると、その人望を恐れた孫策はついに処刑してしまった。30歳あまりだった。(『孫策伝』)

後に許貢も孫策に処刑され、(一説に)許貢の食客によって孫策が暗殺されたのは不思議な因縁である。

また赦免を乞う人の多さに孫策が恐れを抱く描写は、于吉(うきつ)に良く似た逸話があり、どちらかが元ネタの可能性があるかもしれない。



高誕  高光を軽視した次兄


高誕(こうたん)字は不明
兗州陳留郡圉県の人(??~??)

魏・晋の臣。
高柔(こうじゅう)の次男。

263年に父が没すると子ではなく孫の高渾(こうこん)が後を継いだ。
260年に高柔の2人の子が列侯されており、その一人が高誕で、爵位のない孫の高渾が後を継いだのだろう。(『高柔伝』)

上官巳(じょうかんし)らに登用され徐州刺史・雍州刺史を歴任した。
奔放な性格で節度が無い上に人並み外れた荒々しい気性で、(生真面目な)弟の高光(こうこう)を「つまらない節義にこだわる奴」と常々軽視したが、高光は謹直に兄に仕えた。(『晋書 高光伝』)

「晋諸公賛」に曰く。
3州の刺史と太僕を歴任した。並外れて放埒だが決断たる態度はずば抜けていた。(『高柔伝』)



高通


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高定  棚ぼた大手柄


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高沛  劉備に暗殺された人A


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高蕃  李典に撃破された魏郡太守


高蕃(こうばん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁尚(えんしょう)の臣。

202年、黎陽の戦いで曹操は李典(りてん)・程昱(ていいく)に船で兵糧輸送を命じた。
袁尚が魏郡太守の高蕃に水路を断たせると、曹操は「船が通れなければ陸路を行け」と命じたが、李典は「高蕃の兵は軽装で、水を盾にして油断しだらけている。攻撃すれば間違いなく勝てるし、国家に利益があれば独断専行も許される」と言い、命令を無視して攻撃し、高蕃を破り水路を開いた。(『李典伝』)



高望  劉弁お気に入りの中常侍


高望(こうぼう)字は不明
司隷京兆郡の人(??~189)

後漢の宦官。

小黄門から尚薬監に上り、太子の劉弁(りゅうべん)に寵愛された。
劉弁が高望の子の高進(こうしん)を孝廉に挙げるよう蹇碩(けんせき)に頼むと、京兆尹の蓋勲(がいくん)が阻止した。
親しい者に「太子・高望・蹇碩の大きな3つの恨みを受ける」と心配されたが「(孝廉で)賢人を選ぶのは国に報じることだ。賢人でなければ推挙しない。死んでも悔いはない」と言った。
霊帝は重大事があると蓋勲に詔勅を下して意見を求め、しばしば褒美を与え、朝廷の群臣よりも信任した。(『後漢書 蓋勲伝』)

高望、張讓(ちょうじょう)ら12人が中常侍に上り権勢を振るった。(『後漢書 宦者列伝』)

189年、大将軍の何進(かしん)が宦官に暗殺されると、配下の袁紹は宮中へ突入し、宦官を皆殺しにした。
「山陽公載記」に曰く、中常侍の高望も殺された。(『後漢書 袁紹伝』)



高覧  張郃の相方


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高慮  孫怡に敗れる


高慮(こうりょ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

239年、魏から独立した公孫淵(こうそんえん)の援護のため、呉の孫怡(そんい)が魏へ攻め込み、張持(ちょうじ)・高慮を撃破し捕虜を得た。(『呉主伝』)

張持によく似た字面の張特(ちょうとく)という将が魏におり、同じく対呉戦線で活躍している。同一人物の可能性があるかも知れない。

もうひとり張時(ちょうじ)という人物もいるが、こちらは年齢が少し上のようで、また京兆尹を務めており、別人だろう。



寇婁敦  右北平の烏丸単于


寇婁敦(こうろうとん)
烏丸の人(??~??)

右北平の烏丸単于(王)。

(204年頃、)曹操に敗れた袁尚(えんしょう)に従い、護留(ごりゅう)とともに遼西へ移った

237年、幽州刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)が遼東を討伐すると、護留とともに魏へ降伏した。
その後、弟の阿羅槃(あらはん)を魏の都に派遣し朝貢させた。(『烏丸伝』)

余談だが朝貢の際に王侯に封じられた配下の人数は「毌丘倹伝」で二十余人、「烏丸伝」で三十余人と食い違っている。(『毌丘倹伝』・『烏丸伝』)



康植  北伐に呼応する?康居の指導者


康植(こうしょく)
康居の人(??~??)

康居の指導者。

「諸葛亮集」に曰く。
227年、劉禅は詔勅を下しその中で「呉の孫権と同盟し、さらに涼州の諸王は月支・康居の蛮侯の支富(しふ)・康植ら20数名を蜀へ派遣して連絡を取り合っており、諸葛亮の北伐に応じて出撃する」と述べた。(『後主伝』)



黄猗  袁術の娘婿


黄猗(こうい)字は不明
出身地不明(??~??)

袁術(えんじゅつ)の娘婿。

199年、袁術が没すると、その従弟の袁胤(えんいん)とともに袁術の妻子を連れ、かつて袁術に仕えた劉勲(りゅうくん)に身を寄せた。
だが劉勲が遠征した隙に城を孫策に攻め落とされ、妻子と残党を奪われた。

その後、袁術の息子は孫権に仕え、娘は側室となったが袁胤・黄猗の消息は不明である。(『孫策伝』)



黄衍  傅燮の説得に失敗


黄衍(こうえん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣、後に賊徒。

涼州刺史の耿鄙(こうひ)に信頼された治中の程球が私腹を肥やし人々に恨まれていた。
187年、耿鄙が韓遂(かんすい)・王国(おうこく)の反乱鎮圧に向かうと、傅燮は「あなたは着任して日が浅く、配下はまだ指揮を理解していません。先に地盤を固めるべきです」と諫言したが、耿鄙は却下して出陣し、間もなく反乱により程球とともに殺された。韓遂らは反撃し傅燮の守る漢陽郡を包囲した。

兵糧は尽き、包囲する胡族はかねてから傅燮を慕っていたため、土下座して降伏するよう懇願した。
傅燮の子の傅幹(ふかん)は剛毅な父が玉砕することを恐れ「国家は父上を受け入れなかったために混乱し、兵は不足しています。胡族も望んでいるのですから、郷里に帰って道義を守り、天下を救いましょう」と言ったが、その言葉が終わらないうちに傅燮は激昂し、息子を幼名の別成(べつせい)と呼び「お前にも私の覚悟がわかるだろう。殷の紂王は暴虐だったが、伯夷は殷に殉じた。漢王朝は殷ほど酷くないが、私の徳は伯夷に劣りはしない。お前には才知がある。努力せよ」と告げた。
王国は傅燮を惜しみ、元の酒泉太守の黄衍に説得させたが、傅燮は「貴様は朝廷に仕えながら逆賊に従うのか」と激怒し、突撃して玉砕を遂げた。

傅幹は扶風太守まで上った。(『後漢書 傅燮伝』)



黄琬


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黄淵


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黄華  酒泉郡で反乱し後に兗州刺史に?


黄華(こうか)字は不明
涼州酒泉郡の人(??~??)

賊徒→魏の臣。

建安年間(196~220)、酒泉太守の徐揖(じょゆう)が豪族の黄一族を処刑した。
黄昴(こうこう)は脱出し、兵を集め城を包囲した。仇討ちを生業とする侠客の楊豊(ようほう)は黄昴に非があると思い、徐揖を助けようとしたが、間に合わず徐揖は殺され、黄昴に恨まれた。
武威太守の張猛(ちょうもう)が楊豊を援助し、楊豊は黄昴を殺した。

だが東方にいた黄華が帰ってきて酒泉郡を支配したため、楊豊は敦煌郡へ逃げた。(『閻温伝』)

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。(『倉慈伝』)

太守の馬艾(ばがい)の死後、丞(副官)すらいなくなり、郡民は学問があり品行高い、功曹の張恭(ちょうきょう)を長史代行として統治させていた。
張恭は子の張就(ちょうしゅう)を曹操のもとへ派遣し新太守の任命を要請した。
豪族の黄華が酒泉郡を、張進(ちょうしん)が張掖郡を占拠しており、帰途の張就を捕らえると、父に敦煌郡を明け渡すよう脅した。
張就はひるまず、密かに父へ手紙を送り、魏の大軍が迫っていることを教え、故事を引き自分の命など顧みないよう訴えた。

張恭は従弟の張華(ちょうか)に酒泉郡を攻撃させ、赴任してきた新太守の尹奉(いんほう)の軍を出迎えた。
黄華は張進の救援に向かおうとしたが、張恭に背後を襲われることを危惧し、あえなく金城太守の蘇則(そそく)に降伏した。張就も無事で、尹奉も着任できた。(『閻温伝』)

だが尹奉も旧習に従うだけで、敦煌郡にのさばる豪族には手出しできなかった。
その後、倉慈(そうじ)が太守に赴任すると、道理に沿って強きをくじき弱きを助け復興を遂げた。(『倉慈伝』)

220年、曹操が没すると西平郡の麴演(きくえん)が二度にわたり反乱した。
張進・黄華も呼応し、黄華は太守の辛機(しんき)を追放し、太守を名乗った。
雍州・涼州の豪族が揃って反乱し大勢力となり、毌丘興(かんきゅうこう)は前に麴演を討伐した蘇則に救援を求めた。
蘇則は金城に駐屯する郝昭(かくしょう)・魏平(ぎへい)と合流し、速攻を仕掛けた。騙し討ちしようとした麴演を逆に騙して処刑し、張進を討ち取り、黄華を降伏させた。(『蘇則伝』)

251年、王淩(おうりょう)は反乱を企て、楊弘(ようこう)を派遣して兗州刺史の黄華に協力させようとした。楊弘・黄華はすぐさま司馬懿に密告し、王淩は捕らえられ、自害した。
楊弘・黄華は郷侯に封じられた。(『王淩伝』)

王淩と共謀していた令狐愚(れいこぐ)が前任の兗州刺史であり、黄華は反乱の計画を知っていたのかもしれない。(『王淩伝』)

張恭の討伐は麴演の反乱の際の出来事なのかはっきりしないが、いちおう別件と判断した。
また何度も反乱したのに兗州刺史になっているのは信じ難く、同姓同名の別人の気もするが、裴松之は同一人物としており、他に文献があるのだろうか。



黄蓋  苦肉の計


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黄蓋


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黄休  胡昭を推挙した尚書A


黄休(こうきゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

正始年間(240~249)、尚書の黄休・郭彝(かくい)、荀顗(じゅんぎ)や庾嶷(ゆぎ)ら多くの重臣が隠者の胡昭(こしょう)を推挙した。

「高士伝」に曰く。
戦が続いていたため胡昭の招聘はしばらく後回しにされたが、荀顗・黄休・庾嶷が再び建議した。まず人物評価に掛けられようとしたが、韋誕(いたん)が「疑う理由はない。特例で招聘すべきだ」と意見したため、特例で召し出そうとしたが、ちょうど亡くなった。(『管寧伝』)



黄彊  遼東から決死の脱出に成功した呉臣D


黄彊(こうきょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「呉書」に曰く。
233年、孫権は遼東の公孫淵(こうそんえん)へ友好の使者を送った。
だが公孫淵は使者の張弥(ちょうび)・許晏(きょあん)を殺し兵や物資を奪おうと企て、随行していた配下らを各地へ分散して幽閉した。
中使の秦旦(しんたん)・張羣(ちょうぐん)・杜徳(ととく)・黄彊ら60人は玄菟郡に移され、民家に住み食事を提供された。
40日余り経ち、秦旦は「我々は使者の任も果たせず死んだも同然だ。太守の王賛(おうさん)には400ほどの兵しかなく、決起してこれを打ち破ればたとえ殺されても心残りはない。今よりはよほどマシだ」と挙兵を誘った。
8月19日夜に挙兵を決めたが、決起日の昼に部下の張松(ちょうしょう)が裏切り、挙兵を知った王賛は門を封鎖した。
秦旦らは城壁を乗り越え脱出したが、張羣は膝が腫れており、杜徳が肩を貸していたものの6~700里逃げた山中でついに倒れ伏した。仲間らは涙し、張羣は自分を見捨てて逃げるよう勧めたが、杜徳は「祖国から万里も離れた土地で生死を共にした仲間をどうして見捨てられるか」と自分は看病のため残ると決断した。杜徳は山菜や木の実を採ってしのぎ、秦旦・黄彊は数日後に高句麗にたどり着いた。
句麗王の位宮(いきゅう)は事情を聞くと喜んで兵を出し、張羣・杜徳を助け、4人を呉へ送り届けるとともに朝貢した。
孫権に目通りした秦旦らは感極まり、孫権は称えて4人を校尉に任じた。(『呉主伝』)



黄元  劉備の重病に乗じて反乱した漢嘉太守


黄元(こうげん)字は不明
出身地不明(??~223)

蜀の臣。

222年12月、劉備が重病になったと聞いた漢嘉太守の黄元は反乱した。
223年3月、臨邛県へ侵攻したが陳曶(ちんこつ)に撃破され、長江を下って逃げた。道中で部下に裏切られて捕縛され、成都へ送られ処刑された。(『先主伝』)

「楊洪伝」に詳細が記される。
黄元はかねてから諸葛亮と険悪で、劉備が没し諸葛亮が実権を握れば排斥されると恐れ反乱し臨邛城を焼き払った。
この時、諸葛亮は劉備の見舞いに行っており成都の防備は手薄で、黄元は制圧を企んだ。
楊洪(ようこう)は劉禅に言上して親衛隊を討伐に出し、陳曶・鄭綽(ていしゃく)に指揮させた。人々は黄元は成都の制圧に失敗したら南中へ逃げて抵抗を続けると危惧したが、楊洪は「黄元は凶暴で人心を得られないからそんな心配はいりません。せいぜい長江に沿って逃げ、主上(劉備)が健在なら降伏し、異変あれば(劉備が死ねば)呉へ亡命するだけです。陳曶・鄭綽に南中への道を遮断させればたちまち捕らえられます」と言い、その通りになった。(『楊洪伝』)



黄権  快男児


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黄呉  高涼の大頭目


黄呉(こうご)字は不明
交州高涼郡の人(??~??)

賊徒の大頭目。

248年、異民族が反乱し交州全体が混乱に陥った。そこで陸胤(りくいん)を交州刺史・安南校尉に任じた。
陸胤は国家の恩恵と誠実さを説き聞かせて帰順を呼びかけ、高涼の大頭目の黄呉ら3千余家を降伏させた。さらに南に進み、決して約束を破らないと呼びかけ財貨を施すと、これまで奥地に隠れて支配を受けなかった頭目ら百余人と5万家の民衆も帰順し、陸胤は安南将軍に上った。
さらに蒼梧や建陵の反乱軍も討伐し、これまでの降伏者から8千の兵を選抜し正式に軍へ編入させた。(『陸胤伝』)



黄昴  徐揖に復讐し楊豊に復讐される


黄昴(こうこう)字は不明
涼州酒泉郡の人(??~210?)

酒泉郡の豪族。

建安年間(196~220)、酒泉太守の徐揖(じょゆう)は豪族の黄一族を処刑した。
黄昴(こうこう)は脱出し、兵を集め城を包囲した。(『閻温伝』)

徐揖配下の龐淯(ほういく)は妻子を捨てて城を抜け出し、近くの二郡に救援を求めた。二郡ははじめ信じなかったが、龐淯が自害しようとするとその義心に打たれ兵を出した。だが間に合わず徐揖は殺された。
龐淯は遺体を引き取り、故郷に送り届け、3年の喪に服した。
曹操はそれを聞き、掾属に招いた。(『龐淯伝』)

一方、仇討ちを生業とする侠客の楊豊(ようほう)は黄昴に非があると思い、徐揖を助けようとしたが、間に合わず徐揖は殺され、黄昴に恨まれた。
黄昴は楊豊に高い懸賞金を掛け、生け捕りにするよう命じた。(『閻温伝』)
武威太守の張猛(ちょうもう)は先に龐淯に暗殺されかかったが義士であると許した人物で(『龐淯伝』)、この時も楊豊を仮の都尉に取り立て、復讐を許可する布告を出した。

楊豊は羌族から1千騎を得て酒泉郡に迫った。30里手前で止まり、馬に柴を引きずらせ、砂埃を立てさせた。黄昴軍はそれを見て大軍が迫っていると恐慌をきたし、散り散りとなった。
黄昴は捕らえられ、楊豊は「私を賞金首にしたが逆に捕らえられた今どんな気持ちだ?」と挑発し、命乞いする彼を殺した。

だが東方にいた黄華(こうか)が帰ってきて酒泉郡を支配したため、楊豊は敦煌郡へ逃げた。(『閻温伝』)

張猛が龐淯を許した件が209年の出来事で、張猛は翌年に没しているので、この件もその間に起こったと考えられる。



黄耇


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黄皓  蜀を滅ぼした小悪党


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黄綱  种払へ山沢の独占を要求


黄綱(こうこう)字は不明
豫州潁川郡陽翟県の人(??~??)

後漢の臣。
霊帝の側室の程夫人(ていふじん)の縁戚。

権力を笠に着て、潁川太守の种払(ちゅうふつ)に山沢の独占を要求した。种払は「黄綱は貴族で霊帝の左右にはべっている。断れば恨みを買い、認めれば民が苦しむ」と迷い、功曹の劉翊(りゅうよく)に相談した。劉翊は「古来より山沢は民衆のためにあるものです。もしあなたが認めれば汚名となり、令息の种劭(ちゅうしょう)殿は親子の縁を切り、あなたが没しても孤児になったわけではないと考えるでしょう」と進言したため、要求を拒否した。(『後漢書 劉翊伝』)



黄射  黄祖の子


黄射(こうしゃ)字は不明
出身地不明(??~208?)

劉表(りゅうひょう)の臣。
黄祖(こうそ)の子。

「平原禰衡伝」に曰く。
禰衡(でいこう)は黄射と親しく、父の黄祖も高く評価しいつも同席させ、客に引き合わせた。
だが禰衡は(生来の)傲慢で頑なな態度を取るようになり、芸人のような饒舌さで黄祖を怒らせた。黄祖は配下に命じて全身を締め砕いて殺させた。(『荀彧伝』)

「江表伝」に曰く。
199年、袁術の旧臣は劉勲(りゅうくん)のもとへ身を寄せたが、劉勲も孫策に撃破された。
劉勲は山城へ逃げるとともに劉表へ救援要請し、黄射が5千の兵を率い出撃した。しかし間に合わず劉勲は撃破されて曹操のもとへ亡命し、黄射も慌てて逃亡した。
孫策は夏口まで追撃し、黄祖は派遣されていた劉虎(りゅうこ)・韓晞(かんき)の長矛隊5千を先鋒に立て迎撃したが、これも撃破された。

「呉録」の孫策の上表文に曰く。
黄祖の妻と子供7人を捕虜とし、劉虎・韓晞をはじめ2万の首級を上げた。(『孫策伝』)

200年、孫策が急逝し孫権が後を継ぐと、徐盛(じょせい)は柴桑県長として黄祖の侵攻を食い止めた。
黄射は数千の兵で攻め寄せたが、徐盛は2百の手勢で大勝し、1千人を死傷させ、追撃でさらに大打撃を与えた。黄射は恐れをなし、二度と侵攻しなかった。(『徐盛伝』)

黄祖は208年に孫権に敗れて討ち死にしており、黄射も存命なら同じく殺されただろう。



黄襲  街亭の戦いの責任で兵を奪われる


黄襲(こうしゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

228年、街亭の戦いに敗れた馬謖(ばしょく)は、配下の将軍の張休(ちょうきゅう)・李盛(りせい)とともに処刑された。
さらに将軍の黄襲は兵を奪われたが、馬謖を諌め無事に撤退した王平(おうへい)は昇進した。(『王平伝』)



黄叙  黄忠の早逝した子


黄叙(こうじょ)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

黄忠の子。

220年、父が没した時には早逝しており、後継ぎはいなかった。(『黄忠伝』)

「反三国志」では存命で少し活躍する。



黄承彦  黄月英の父


黄承彦(こうしょうげん)字が承彦か
出身地不明(??~??)

いわゆる黄月英の父。
諸葛亮の舅。

「襄陽記」に曰く。
高邁にして爽快であけっぴろげな気性の名士だった。
諸葛亮が妻を探していると聞き「私の娘は赤毛で色黒で醜いが才智は君とお似合いだ」と勧めた。諸葛亮が承知するとすぐさま車に乗せて送り届けた。
人々は「孔明の嫁選びを真似するな。承彦の醜い娘をもらう羽目になる」と囃し立てた。(『諸葛亮伝』)

「演義」では三顧の礼の2回目の際に劉備に会い、諸葛亮と間違われた。その後、夷陵の戦いで石兵八陣の罠にはまった陸遜を諸葛亮の言葉に逆らい助けてやった。
「吉川三国志」では黄月英は「黄承彦をもう少し可愛らしくした程度の不美人」と記される。また陸孫を救ったのは黄承彦の友人とされ、黄承彦に悪いから助けたのは黙っているよう言い含める。



黄邵  何儀、何曼ともう一人


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黄穰  陸康に討伐された賊徒


黄穰(こうじょう)字は不明
揚州廬江郡の人(??~??)

廬江の賊徒。

霊帝の代に、廬江郡で江夏蛮と結び10数万と号する大軍で挙兵したが、廬江太守として派遣された陸康(りくこう)に速やかに鎮圧された。(『後漢書 陸康伝』)



黄崇  黄権の子


黄崇(こうすう)字は不明
益州巴西郡閬中県の人(??~263)

蜀の臣。
黄権(こうけん)の子。
「黄権伝」に附伝される。

222年、父の黄権は夷陵の戦いで魏の動きに備えていたが、劉備が敗走したため孤立し、やむなく魏へ降伏した。
法を盾に黄権の妻子を処刑すべきだと進言されたが、劉備は「私が黄権を裏切ったのだ。黄権が私を裏切ったのではない」と却下した。
黄権のもとにも妻子が処刑されたという情報が入ったが、黄権もそれを信じず、喪に服さなかった。後に誤報だとわかった。

「漢魏春秋」に曰く、曹丕は喪に服すよう詔勅を下したが、黄権は「私と劉備・諸葛亮は誠実をもって信頼し合った仲ですから、私の本心を承知のはず。処刑が事実と決まったわけではありません。続報を待たせてください」と断った。

黄権は魏で車騎将軍・儀同三司まで上り、没すると子の黄邕(こうよう)が後を継いだ。(『黄権伝』)

蜀に残された黄崇は尚書郎に上った。
263年、魏軍が侵攻すると諸葛瞻(しょかつせん)に従い迎撃に出たが、諸葛瞻は躊躇して進軍を止めた。
黄崇は速やかに要害を占拠すべきだと繰り返し説いたが、諸葛瞻は応じず、ついに黄崇は涙を流した。
魏の鄧艾に先制され、蜀軍は綿竹関まで退いた。必死に防戦したが黄崇・諸葛瞻はともに戦死した。(『黄崇伝』)

「演義」でも劉備は黄権の妻子を処刑せず、黄権も処刑を誤報だと信じなかった。
黄崇も蜀の滅亡時に同じく戦死するが、諸葛瞻は無能に描かれない。



黄祖  江夏の守護神


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黄他


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黄忠  老いてますます盛ん


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黄柱  劉備を皇帝に推挙した光禄勲


黄柱(こうちゅう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。

219年、劉備は漢中王に即位すると荊州の名族の頼恭(らいきょう)・黄柱・王謀(おうぼう)を高位に起用した。
黄柱は光禄勲となった。(『楊戯伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に光禄勲として連名した。(『先主伝』)

陳寿は頼恭・黄柱・王謀は事績が残っていないため伝を立てなかったと「季漢輔臣賛」の注に記した。(『楊戯伝』)

ちなみに皇帝に推挙する上奏に頼恭・黄柱・王謀は許靖(きょせい)・糜竺(びじく)・諸葛亮ら筆頭級の重臣と名を連ねている。

「演義」では頼恭・王謀は劉備に皇帝即位を勧めた一人として名前のみ登場するが、黄柱は(おそらく黄忠と紛らわしいため)登場しない。



黄珍  長広郡の郡丞


黄珍(こうちん)字は不明
青州長広郡の人?(??~??)

曹操の臣。

長広郡は豪族の力が強く、袁譚(えんたん)は彼らに官位を与えて援助していた。
管承(かんしょう)は3千軒を率いて暴れまわり、誰もが討伐を願い出たが、太守の何夔(かき)は「彼らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、道徳を知らないから善に戻れないだけだ。討伐すれば全滅を恐れて激しく抵抗し、勝っても大きな被害を受ける。恩愛道徳を教えて自ら反省させれば、兵を用いる必要はない」と言い、郡丞の黄珍を派遣し利害を説かせると、管承は降伏した。(『何夔伝』)



黄定


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黄柄


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黄邕  黄権の後継ぎ


黄邕(こうよう)字は不明
益州巴西郡閬中県の人(??~??)

魏の臣。
黄権(こうけん)の子。

222年、父の黄権は夷陵の戦いで魏の動きに備えていたが、劉備が敗走したため孤立し、やむなく魏へ降伏した。
黄権は魏で車騎将軍・儀同三司まで上り、没すると子の黄邕が後を継いだ。

黄邕も没すると子が無かったため爵位は断絶した。

また兄弟の黄崇(こうすう)は蜀に残り、263年の蜀の滅亡時に鄧艾と戦い討ち死にした。(『黄権伝』)

黄邕は黄崇よりも年長で夷陵の戦いにも従軍し、父とともに魏へ降ったのか、それとも魏で黄権がめとった妻との間にもうけた子なのかはわからない。
後継ぎがいないまま没したという記述からは後者の可能性が高く思える。



黄乱


未作成



黄龍  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


黄龍(こうりゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、黄龍、左校(さこう)、張牛角(ちょうぎゅうかく)、于氐根(うていこん)、劉石(りゅうせき)、平漢(へいかん)、張燕(ちょうえん)、于毒(うどく)ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。

「漢紀」に曰く。
左校、郭大賢(かくたいけん)、左髭丈八(さしじょうはち)ら3人が他に大きな徒党を率いていた。(『張燕伝』)

「英雄記」に曰く。
193年(『後漢書 袁紹伝』)、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を破り祝勝会を開いていたが、魏郡で反乱が起き、黒山賊の于毒らによって太守の栗成(りつせい)が殺され鄴が陥落したという急報が届き、鄴に家族がいる人々は動揺したが、袁紹は泰然自若としていた。
賊の陶升(とうしょう)はもともと魏郡内黄県の下役人を務めていた善良な人物で、城壁を乗り越えて役所に入り込み、袁紹らの家族や官吏を保護して逃走した。袁紹は陶升と合流し、于毒を討ち取った。
さらに左髭丈八も殺し、劉石・張牛角・黄龍・左校・郭大賢・李大目(りたいもく)・于氐根らの砦を破壊し、頭目の彼らは逃走したが数万の首級を上げた。(『袁紹伝』)

陶升は平漢将軍を自称しており(『後漢書 袁紹伝』)、「ちくま版」は平漢と陶升を同一人物としている。



黄龍羅


未作成



黄朗  父に発奮し父を想う


黄朗(こうろう)字は文達(ぶんたつ)
豫州沛国の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
広く世事に通じ実のある人物だった。父は県の小使をしており、それに発奮して留学し各地の士大夫に認められ礼遇された。
特に東平郡の名族の王恵陽(おうけいよう)とは固い交わりを結び、黄朗の母の寝室に招かれ拝礼するほど親しかった。
黄初年間(220~226)に初めて出仕し県令・県長を務め、長安県令に昇進したが母が亡くなり赴任しなかった。
はじめ県令・県長となった時、小使だった父を想い、小使を常に姓と字で呼び、怒った時も決して小使とは呼ばなかった。
後に魏県令となり、襄城郡の典農中郎将、涿郡太守へと昇進し、曹叡の代(227~239)に病没した。
王恵陽も酒泉太守まで上り、黄朗の出自の貧しさを気にかけず、その母へも実母のように仕えたことを闊達な度量だと称えられた。

「魏略」の著者の魚豢(ぎょかん)は「賤しい身分からよく抜きん出た。容易なことではない」と評し、張既(ちょうき)・梁習(りょうしゅう)・趙儼(ちょうげん)・裴潜(はいせん)らと同伝に収めた。(『裴潜伝』)



項峻  史官の才能なかった史官A


項峻(こうしゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。
名は項竣とも書かれる。

華覈(かかく)の上疏に曰く。
252年(孫権の末年)、太史令の丁孚(ていふ)と郎中の項峻が初めて呉の史書の編纂を命じられた。だが丁孚・項峻には史官の才能なく記録する価値もない物しかできなかった。
そのため孫亮は新たに華覈ら5人に編纂を命じたが、うち3人が没し薛瑩(せつえい)も投獄された。私(華覈)一人では丁孚・項峻の二の舞になってしまうのでどうか薛瑩を赦免して欲しいと嘆願した。(『薛綜伝』)

「志林」に曰く。
著者の虞喜(ぐき)はなぜ史書に呉の初代丞相である孫邵(そんしょう)が列伝されていないのか疑問に思い、博学な劉声叔(りゅうせいしゅく)に尋ねた。彼は「孫邵は名声や官位からいって当然、列伝されるべきだった。項峻・丁孚も採り上げたが、孫邵は張温(ちょうおん)と険悪だったと記している。後に「呉書」を編纂した韋昭(いしょう)が張温の派閥に属していたから、孫邵は外され(呉書を参考にした陳寿の正史でも)列伝されなかったのだろう」と述べた。(『呉主伝』)



公仇称  送別会のさなかに奇襲される


公仇称(こうきゅうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

孫堅の臣。

190年、董卓を討伐するため孫堅は洛陽へ迫った。長史の公仇称を荊州に戻らせ兵糧を督促させようとしたが、その送別会のさなかに董卓の騎兵数十人に奇襲された。談笑していた孫堅は配下に動かないよう命じ、敵が増えてくるとおもむろに酒宴をやめて城内へ戻った。
孫堅は「私があわててすぐ立ち上がれば、配下は浮足立って混乱し無事に城内へ戻れないと思った」と解説し、董卓軍は動揺しないのを警戒し攻撃せず撤退した。(『孫堅伝』)



公沙盧  王脩に斬られた兄弟


公沙盧(こうさろ)字が沙盧か
青州北海郡膠東の人(??~??)

庶民。

北海太守の孔融(こうゆう)は膠東県が乱れていたため王脩(おうしゅう)に県令を代行させた。
王脩は有力豪族で私兵を雇い、陣営を築いて納税に応じない公沙盧兄弟を数人で訪ね、度肝を抜かれた彼らを斬り捨てた。
これにより当地で乱暴は少し減った。(『王脩伝』)



侯史玄  侯史光の長男


侯史玄(こうしげん)字は不明
青州東萊郡掖県の人(??~??)

晋の臣。
侯史光(こうしこう)の長男。

父が没すると後を継ぎ、玄兎太守まで上った。
子の侯史施(こうしし)は東莞太守になった。(『晋書 侯史光伝』)



侯史光  王祥らの罷免を却下される


侯史光(こうしこう)字は孝明(こうめい)
青州東萊郡掖県の人(??~??)

魏・晋の臣。

幼少より才能あり物分りがよく、同郷の劉夏(りゅうか)のもとで学問を修めた。(『晋書 侯史光伝』)

陸機(りくき)・陸雲(りくうん)兄弟は、以前に父の陸抗(りくこう)を吾彦(ごげん)に「従兄弟の陸喜(りくき)に及ばない」と評されたのを恨み、「吾彦は極めて貧しい身分の出で交際する必要はない」と非難していた。その際に尹虞(いんぐ)が「何楨(かてい)・侯史光・唐彬(とうひん)・張義允(ちょうぎいん)も低い身分から身を起こした」とたしなめており、侯史光も名家の出では無いとわかる。(『晋書 吾彦伝』)

孝廉に推挙され、州から別駕に招聘された。
咸熙年間(264~265)のはじめ、洛陽典農中郎将となり、関中侯に封じられた。

泰始年間(265~275)のはじめ、散騎常侍・侍中に上った。皇甫陶(こうほとう)・荀廙(じゅんよく)とともに天子の使者として各地を巡察し、上奏が眼鏡にかない城門校尉に転じ臨海侯に進んだ。
司馬炎は「誠意を持って政務を補佐し誠実で純朴であり、正義に従う心を持って職務に忠実に励んだ。序列に従っていないが、彼の政務補佐の才能を伸ばすためである」と御史中丞に任じた。
職務においては公正で思うままに振る舞うことはなかった。
儒学は昔のことに広く通じ、官職を歴任して功績を顕し、上奏は全て道理があった。

王祥(おうしょう)が(引退を望み)病気のため長く朝廷に参内しなかったため、罷免することを上奏したが却下された。(『晋書 侯史光伝』)

李憙(りき)と侯史光は鄭沖(ていちゅう)・何曾(かそう)・荀顗(じゅんぎ)らも病を理由に罷免するよう求めたが却下された。(『晋書 鄭沖伝』)

後に少府へ転じ、没した。
司馬炎は「志を励まし約束を守り、清らかな忠義の心があった」と詔勅を下し、貧窮した家に香典と別に銭を下賜した。
子の侯史玄(こうしげん)が後を継ぎ、玄兎太守まで上った。(『晋書 侯史光伝』)



公緒恭  八交の一人


公緒恭(こうしょきょう)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

後漢の臣?

「漢紀」に曰く。
劉表(りゅうひょう)と同郡出身の張隠(ちょういん)・薛郁(せついく)・王訪(おうほう)・宣靖(せんせい)・公緒恭・劉祗(りゅうし)・田林(でんりん)ら8人は名高く、「八交」あるいは「八顧」と呼ばれた。(『劉表伝』)

劉表以外の7人はそれ以外の事績がない。
また「八顧」は前代に郭泰(かくたい)が属する八顧の方が著名である。



公孫越  ハリネズミにされた公孫瓚の従弟


公孫越(こうそんえつ)字は不明
幽州遼西郡令支県の人(??~191)

公孫瓚(こうそんさん)の従弟。

董卓によって長安に遷都させられた献帝は、洛陽への帰還を望み、劉和(りゅうか)を脱走させ、父の劉虞(りゅうぐ)に援軍を借り迎えに来るよう命じた。
だが劉和は途中で、劉虞の兵を利用しようと目論む袁術に引き止められた。公孫瓚は袁術の魂胆を見抜き、劉虞を止めようとしたが聞き入れられず、袁術の恨みを買わないため従弟の公孫越に千騎を預け、劉虞の兵とともに行かせた。しかし密かに劉和を捕らえ、兵を奪うよう命じていたため、公孫瓚と劉虞の仲はますます険悪になった。
劉和は結局逃亡し、その先で袁紹に引き止められた。

191年、袁術は孫堅を陽城に駐屯させ、董卓に警戒させていたが、袁紹は周昴(しゅうこう)に命じて陣地を奪わせた。
袁術は孫堅と公孫越に奪回させようとしたが、公孫越は流れ矢に当たって戦死した。公孫瓚は袁紹を恨み、報復のため進撃した。(『公孫瓚伝』)

「後漢書」に異聞がある。
公孫瓚は袁術によしみを通じようと、従弟の公孫越に1千の兵を与えて協力させた。
袁術は孫堅と公孫越に命じて、袁紹配下の周昕(しゅうきん)を攻撃させたが、公孫越は戦死し、公孫瓚は袁紹を激しく恨んだ。(『後漢書 公孫瓚伝』)

後に袁紹は公孫瓚へ「私はあなたと友情を結び、厚遇もしたのに、豫州を荒らされた。私は悔い改めるよう申し上げたが、あなたは天罰など呑み込んでしまえ、英雄は討ち滅ぼせると言っておられた。だが公孫越は戦死し、あなたはそれを全く反省しない」と挑発の手紙を送った。(『公孫瓚伝』)

「演義」では公孫瓚の弟に変更。領土分割を相談する使者として袁紹を訪ねたが暗殺された。
「横山三国志」では矢の雨でハリネズミにされて息絶えた。
わざわざ弟を殺して怒らせるより公孫瓚を暗殺したほうが話が早かったと思う。



公孫延  公孫度の父


公孫延(こうそんえん)字は不明
幽州遼東郡襄平県の人(??~??)

後漢の臣?
公孫度(こうそんど)の父。

公孫延は罪を得ると逃亡し玄菟郡へ移住し、公孫度は郡吏を務めた。

公孫度は遼東太守に上り、漢王朝に取って代わろうと野心を抱いた。
襄平県の延里で奇石が発見され、下に3つの石があり、大きな石を支えていた。ある人が「これは前漢で起こった瑞祥と同じで、延里は公孫延の名前とも符合します。あなたが天子の位につき、三公がそれを支える徴候です」と言い、公孫度は大いに喜んだ。

ついに独立すると亡き公孫延に建義侯を追贈した。(『公孫度伝』)



公孫淵  自称・燕王


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公孫恭  気の毒な叔父


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公孫晃  公孫淵の巻き添えを食った兄


公孫晃(こうそんこう)字は不明
幽州遼東郡襄平県の人(??~238)

公孫康(こうそんこう)の子。
公孫度(こうそんど)の孫。

父が没すると子の公孫晃・公孫淵(こうそんえん)は幼かったため叔父の公孫恭(こうそんきょう)が擁立され遼東太守となった。

228年、公孫淵は公孫恭を幽閉し地位を奪った。(『公孫度伝』)

237年、公孫淵が反乱すると、人質として都にいた兄の公孫晃が連座で捕らえられた。
曹叡は公開処刑するにはしのびなく獄中で殺そうとしたが、高柔(こうじゅう)は「処刑は当然ですが、公孫晃は以前から公孫淵に反乱の兆しがあると述べていたといいます。それが事実ならば釈放を考えるべきで、事実を明らかにする前に始末しては疑念を残します」と反対した。
曹叡は聞き入れず、公孫晃と妻子を自害させ、手厚く葬った。(※孫盛はそもそも人質制度がおかしく高柔はそれを批判すべきだったと言い、裴松之は判決を迫られている時に机上の空論をしている場合かと反駁する)(『高柔伝』)

「魏略」に異説がある。
公孫晃は公孫恭の人質として朝廷に仕官していたが、公孫淵が地位を奪ったと聞くと、破滅を察して討伐を何度も願い出たが、公孫淵が既に権力を掌握していたため却下された。
反乱すると拘留され、以前からそれを危惧していたから助命して欲しいと嘆願したが、内心では連座で罪が及ぶと覚悟していた。
238年、公孫淵は司馬懿に敗れ殺された。首が届けられると公孫晃はいよいよ進退窮まったと息子と抱き合って号泣した、
曹叡は助命するつもりだったが役人の反対により連座で処刑された。(『公孫度伝』)



公孫珩  魏へ恭順の意を示すための使者


公孫珩(こうそんこう)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫淵(こうそんえん)の臣。

「魏略」に曰く。
233年、公孫淵(こうそんえん)は呉の使者を殺して断交し、西曹掾の公孫珩を魏へ送り、呉からの貢物と使者の首を献上した。(『公孫度伝』)



公孫康  遼東の二代目


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公孫瓚  白馬将軍


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公孫脩  公孫淵の子


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公孫集  牽招に帰順した建義中郎将


公孫集(こうそんしゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒?

曹丕の代になると牽招(けんしょう)は使持節護鮮卑となり、鮮卑の監督を任された。当時、辺境の住民は山を流亡したり、鮮卑の支配下に入ったりし、その居住地は4桁に上っていたが、牽招は恩愛と信義をもって統治したため、彼を慕い鮮卑の十数万もの部落が帰順した。
(反乱していた?)建義中郎将の公孫集も配下を引き連れて帰順し、本郡に帰された。(『牽招伝』)



公孫昭  公孫度に殴り殺された襄平県令


公孫昭(こうそんしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

玄菟郡の役人上がりの公孫度(こうそんど)は軽視され、子の公孫康(こうそんこう)も襄平県令の公孫昭(こうそんしょう)の下で下役に甘んじていたが、遼東太守に赴任した公孫度は公孫昭を逮捕し、鞭打って殺した。(『公孫度伝』)



公孫続  公孫瓚の子


公孫続(こうそんしょく)字は不明
幽州遼西郡令支県の人(??~199)

公孫瓚(こうそんさん)の子。

199年、易京を包囲された公孫瓚は使者の文則(ぶんそく)を息子の公孫続のもとへ送り「袁紹の攻撃は神か鬼のようで私は日に日に追い詰められている。お前は(黒山賊の)張燕(ちょうえん)に頭が砕けるほど土下座して頼み込み、速やかに援軍を送れ。そうしなければ私が死んだ後、天下広しといえどもお前に安住の地はない」と命じた。
その手紙を袁紹の斥候が手に入れた。袁紹は手紙に書かれた通りの合図で公孫瓚をおびき寄せ、伏兵で大破した。

「献帝春秋」に曰く。
袁紹は陳琳(ちんりん)に命じて弱音を吐く内容に書き換えさせた。(『公孫瓚伝』)

ちなみに「後漢書」でははじめからその弱音が書かれている。

公孫瓚は敗れて自害し、公孫続も屠各(胡族)に殺された。(『後漢書 公孫瓚伝』)



公孫度  遼東王


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公孫滕  趙達に約束を反故にされた弟子


公孫滕(こうそんとう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

太史丞を務めた。
九宮一算の術(占術)の名手で「八絶」の一人に数えられる趙達(ちょうたつ)を若い頃から師事し、いつか伝授すると約束されたがそれから何年も経過した。
ある日、機嫌が良い時に懇願すると趙達は「先人はこの術を会得すると、帝王の師になろうとしたが、三代経っても太史郎にしかなれなかった。だからもう伝授する気は無かった。それにこの術は、父子の間でも言葉で伝えることができないほど極めて難解だ。しかしあなたは怠らずに学んできた。伝授して差し上げよう」と言い、指ほどの大きさの巻物を2つ持って来た。
そして「ここに秘伝が書かれている。だがしばらく読んでいないので、久々に私もよく検討してから数日後に渡してやろう」と言った。
しかし公孫滕が約束の日に訪れると、趙達はその巻物が無くなったと言い、探すふりをして「娘婿が昨日訪ねてきたから、盗まれたのだろう」ととぼけ、結局伝授しなかった。(『趙達伝』)



公孫犢  泰山郡の山賊


公孫犢(こうそんとく)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

曹操は呂虔(りょけん)に泰山太守を兼任させた。泰山郡は山海に接し、各地からの流民が隠れ住んでいた。袁紹は郭祖(かくそ)・公孫犢らを中郎将に任じ、山に潜み暗躍させていたが、呂虔の恩愛と信義ある統治により郭祖らは降伏し、流民たちも山を降りた。
呂虔は彼らから屈強の者を徴兵し、泰山郡は兗州の筆頭格の精鋭となった。(『呂虔伝』)



公孫範  渤海太守をごっつぁんした公孫瓚の従弟


公孫範(こうそんはん)字は不明
幽州遼西郡令支県の人?(??~??)

公孫瓚(こうそんさん)の従弟。

袁術の傘下につけていた従弟の公孫越(こうそんえつ)が、袁紹と戦い討ち死にしてしまい、公孫瓚は報復のため出撃した。
袁紹は配下にいた公孫瓚の従弟の公孫範に渤海太守の印綬を与え和睦しようとしたが、公孫範はそれを利用し渤海郡の兵を引き連れ公孫瓚に降った。
界橋の戦いで袁紹は勝利し、公孫瓚・公孫範は撤退した。

「漢晋春秋」に曰く。
袁紹は「渤海太守の座を譲ったのは私の真心である」と非難した。(『公孫瓚伝』)



公孫豹  公孫琙の早逝した子


公孫豹(こうそんひょう)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫琙(こうそんよく)の子。

玄菟太守の公孫琙は子の公孫豹を18歳で亡くし、公孫度(こうそんど)が同い年で、幼名も豹(ひょう)だったため亡き息子同然にかわいがり、師につけて学問させ、嫁も探してやった。(『公孫度伝』)



公孫模  韓濊を討伐した公孫康配下A


公孫模(こうそんも)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫康(こうそんこう)の臣。

後漢末(147~189)に掛けて韓濊の力が盛んになり、(統治する)楽浪郡では制しきれず、多くの民が韓へ移住した。
建安年間(196~220)、遼東太守の公孫康は帯方郡を設置し、公孫模・張敞(ちょうしょう)を送って移住民を結集させ、韓濊を討伐した。それにより韓から少しずつ民が中華へ戻り、以後は帯方郡が倭・韓を統治した。(『東夷伝』)

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