三国志 か 4


郭立  甄悳・郭建の父


郭立(かくりつ)字は不明
荊州西平郡の人(??~??)

魏の臣。
郭満(かくまん)の弟。

代々の豪族だったが、黄初年間(220~226)に起こった反乱に連座し、家は没落した。
しかしそうして後宮に入れられた郭満の娘が二代皇帝の曹叡に見初められ夫人(序列2位の側室)となったため一族は厚遇され、郭立は騎都尉に、一族の郭芝(かくし)は虎賁中郎将に上った。
さらに長男の郭悳(かくとく)が曹叡の母である甄姫の家へ養子に出て甄悳(しんとく)と改姓した。

239年には郭皇后が立てられ、曹芳の代にはすでに没していた郭満に西都定侯が追贈された。
郭満の爵位は郭立の次男の郭建(かくけん)が継ぎ、郭立も宣徳将軍に上り列侯された。

「晋諸公賛」に曰く。
甄悳が司馬師、次いで司馬昭の娘婿になり、郭建とともに厚遇され、晋代になっても家は栄え続けた。(『明元郭皇后伝』)



郭猟  郭嘉の曾孫


郭猟(かくりょう)字は不明
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭深(かくしん)の子
郭奕(かくえき)の孫。郭嘉の曾孫。

父が没すると後を継いだ。(『郭嘉伝』)



郭淮  北伐に立ちはだかった男


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楽安王  丁謐に鄴へ追い出される


楽安王(がくあんおう)名は不明
豫州沛国譙県の人?(??~??)

魏の臣。
曹氏の一族。

「魏略」に曰く。
曹爽(そうそう)は丁謐(ていひつ)を尊敬し彼の意見には必ず従った。
郭太后(かくたいこう)を宮殿から追い出し別殿に住まわせたり、楽安王を鄴へ出したり、文欽(ぶんきん)を淮南へ追いやったのは全て丁謐の画策だった。そのため司馬懿は特に丁謐を憎み、人々は何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)・丁謐を三匹の犬にたとえ、何晏・鄧颺は人に噛みつき、丁謐は曹爽の側を離れず癌になると、犬の中では丁謐が最も性質が悪いと評した。(『曹真伝』)

楽安王の素性は不明で、「ちくま版」の訳者は「燕王(※曹宇)?」と記している。
またふりがなを楽進らと異なりなぜか「らくあんおう」と振られたため索引では「ら行」にいる。

同じ「魏略」に以下の逸話がある。
丁謐が若い頃に鄴で空き家を借りていたが、そこへある王が人が住んでいると知らず内見に現れ、丁謐は誰かわからず下男を呼びつけて追い出させた。王は無礼な態度に腹を立て、曹叡に訴え出たため逮捕されたが、功臣(丁斐)の子であるとして釈放された。

これは妄想だが、あるいは楽安王とこの王は同一人物で、権力を得た丁謐に意趣返しをされたのではなかろうか。



楽隠  牽招の師匠


楽隠(がくいん)字は不明
冀州安平郡観津の人(??~189)

後漢の臣。

同郷の牽招(けんしょう)は10代で楽隠に師事した。
楽隠が車騎将軍の何苗(かびょう)の長史に招聘されると、牽招も随行し都に上った。
だが189年、何苗の義兄の何進(かしん)の暗殺を契機に宦官が一掃された際に、乱に巻き込まれ楽隠と何苗も死亡した。
牽招は門生の史路(しろ)とともに遺体を奪回し、帰郷しようとしたが、その途上で山賊に襲われた。史路ら門生が一斉に逃げる中、牽招は一人残り、見逃してくれるよう泣いて頼んだ。山賊たちはその意気に打たれて見逃してやり、以来、牽招の名は広く知られるようになり、やがて魏の重臣となった。(『牽招伝』)



楽何当  公孫瓚の義兄弟C


楽何当(がくかとう)字が何当か
出身地不明(??~??)

商人。

「英雄記」に曰く。
公孫瓚(こうそんさん)は占い師の劉緯台(りゅういだい)・絹商人の李移子(りいし)・商人の楽何当と義兄弟の契りを結び、長兄を名乗った。三人とも巨万の富を持つ大富豪だったため、娘や息子同士を結婚させて一族となり、自分達を前漢の(貧しい身分から名臣となった)酈商・灌嬰になぞらえた。(『公孫瓚伝』)



楽広  杯中の蛇影


楽広(がくこう)字は彦輔(げんほ)
荊州南陽郡淯陽県の人(??~??)

魏・晋の臣。
楽方(がくほう)の子。

父は征西将軍の夏侯玄(かこうげん)に仕えた。
夏侯玄は当時8歳の楽広を道で見かけて話し、楽方に「さわやかな風貌できっと名士になるだろう。君の家は貧しいが楽広を学問に励ませれば、必ず家を繁栄させる」と言った。
だが楽方は若くして没し、楽広は山陽へ移住し貧しくつましい孤独な暮らしを送った。
淡白な性格で先見の明があり、欲がなく、他人と争わなかった。言論に優れ短い言葉でわかりやすく道理を説いて人々を満足させ、知らないことには口出ししなかった。

裴楷(はいかい)は夜通し語り合い、楽広が(打ち解けても)くだけた態度を取らず丁重なままだったため「私の敵う人物ではない」と感嘆した。
王戎(おうじゅう)は荊州刺史になると、かつて夏侯玄に評価された話を聞き、楽広を秀才に推挙した。裴楷も太尉の賈充(かじゅう)に推薦し、太尉掾に招かれ、太子舎人に転任した。
朝廷の長老格の衛瓘(えいかん)は楽広と話すと「私は正始年間(240~249)に何晏(かあん)ら賢人と話したが、彼らの没後はもう微言(奥深い言葉)は途絶えてしまったのではないかと危惧していた。今日、君からまた微言を聞けるとは思わなかった」と言った。そして息子らに交友するよう命じ「楽広は人間の水鏡だ。まるで雲霧をかき分け晴天を見るかのような洞察力を持つ」と称えた。
王衍(おうえん)も「私は議論の際には簡略で周到な言葉を使うよう徹底していたが、楽広と話すと自分の言葉はなんと冗長だったのかと悟った」と言った。

元城県令、中書侍郎、太子中庶子、侍中を歴任し河南尹に任じられた。
河南尹を辞退しようとしたが議論は得意だが文章は不得手だったため、潘岳(はんがく)に代筆を依頼し、口頭で意思を伝えた。潘岳はそれを巧みに上表文に仕上げ、たちまち名文が完成した。人々は「楽広が潘岳の筆を借りず、潘岳が楽広の言葉を用いなければこの美文は完成しなかった」と称えた。(※だが辞退は退けられ赴任した)

かつて昵懇だった客が訪れなくなり、楽広は不思議に思い理由を聞くと、客は「以前お酒をいただいた時、杯の中に蛇が見え、気味が悪いが(幻だろうと思い)飲んだら病気になったのです」と答えた。
楽広は客の座った辺りを調べ、壁に造られた蛇の装飾がちょうど杯の水面に映るのを突き止めた。客は納得し病気も治った。(※疑心暗鬼を生じればつまらないことで神経を病む「杯中の蛇影」という故事になった)

河南尹の官舎では奇妙なことが多発し、前任の河南尹は恐れて官舎の外で暮らしたが、楽広は気にせず寝起きした。ある時、扉が勝手に閉まり人々は仰天したが楽広は平然としたまま、扉の方角の塀に穴があるのを見つけ、掘り起こさせると中から狸が現れた。これを殺すと怪奇現象は収まった。(『晋書 楽広伝』)

衛瓘の孫の衛玠(えいかい)が子供の頃、夢とは何か楽広に尋ねた。楽広は「想像だ」と答えたが衛玠は「考えたことも見聞きしたこともないものも夢に出る」と納得しない。楽広は「車に乗ってネズミの巣穴に入ったり、鉄の杵で食べ物をすりつぶして薬味を作り、それで杵ごと食べた夢を見たことはないだろう? つまり想像しなければ夢に出てくる原因が無い。夢に出たということは想像し、原因があるということだ」と言った。
衛玠はなおも納得せず1月あまりも悩み続けとうとう病気になった。楽広はそれを聞くと駆けつけて丁寧に説明してやり、たちまち治った。楽広は「この賢い子の胸中には手の施しようがない病気などないのだろう」と嘆息した。(『晋書 楽広伝』・『世説新語』)

地方に赴任すると在任中こそ評判は立たなかったが、任地を離れる時には必ず民から惜しまれた。
人を論評する時にはまず長所を褒め、言わずとも短所がわかるよう計らった。人にどんな過失があっても必ず許したが、おのずと反省するようにした。
楽広・王衍はともに心を世俗の外に置き、論者たちは二人を常に非凡な人士の筆頭と評した。
若い頃から楊準(ようじゅん)と仲良く、彼は息子の楊喬(ようきょう)・楊髦(ようぼう)を評価してもらおうと思い、まず裴頠(はいき)を訪ねた。寛容実直な裴頠は上品な楊喬を気に入り「楊喬は卿の位に並び、楊髦はそれにやや劣る」と評した。
次いで楽広を訪ねると、清廉純朴な彼は節操ある楊髦を気に入り「楊喬はもちろん卿に並ぶが、楊髦も清潔で傑出している」と評した。楊準は「我が子らの優劣はそのまま裴頠と楽広の優劣を表している」と笑った。論者も楽広の評価を支持した。
当時、王澄(おうちょう)・胡毋輔之(こぼほし)らは任放(自由)を尊び、裸で暮らす者もいたが楽広はそれを聞くと「名教(儒教の規範)にも自由に楽しめる境地があるのにわざわざそんなことをする必要があるか」と笑った。才能と人を愛し、道理を保つ様は全てこのようで、世相も朝廷の秩序も乱れていたが、楽広は清潔・中立で誠心誠意を尽くし、道を外れるところを見た者はいなかった。(『晋書 楽広伝』)

裴頠と議論した時、楽広は論破しようとしたが、裴頠は多様な弁論を駆使して屈服せず、楽広は笑って諦めた。(※楽広は知らないことに口出ししない)(『晋書 裴秀伝』)

胡毋輔之が酒を飲んでいる時、馬飼いの王子博(おうしはく)が足を投げ出して座った。胡毋輔之はだらしないと叱りつけ火を焚くよう命じたが、王子博は「職務は果たしているのになぜそれ以外の指図を受けねばならないのだ」と言い返した。胡毋輔之は彼と語り合い「私が敵う人物ではない」と感嘆し河南尹の楽広に推挙した。楽広も評価し功曹に抜擢した。(『晋書 胡毋輔之伝』)

「晋諸公賛」に曰く、劉漢(りゅうかん)は清らかでわだかまりのない性格で立派な見識を具え、名声は楽広に次いだ。(『管輅伝』)

299年、太子の司馬遹(しばいつ)が廃立され都から追放されると、見送りを禁じられたが多くの旧臣が拝礼して見送った。司隷校尉の満奮(まんふん)は彼らを投獄させたが、楽広は即座に釈放し、人々は彼の身を案じた。
孫琰(そんえん)が廃立を主導した賈謐(かひつ)に「旧臣を処罰すればかえって司馬遹の人徳を際立たせてしまう」と進言し、処罰は取りやめられ楽広も無事だった。
吏部尚書、尚書左僕射、尚書右僕射、領吏部を歴任し、王戎の後任の尚書令となった。はじめ王戎に秀才に推挙されて世に出て、その後任となったことを美談だと人々は称えた。(『晋書 楽広伝』)

301年、司馬倫(しばりん)が帝位簒奪した際に満奮、崔随(さいずい)、楽広が印綬を授ける役目を担った。清潔中立だった楽広が関与したことは後世に大いに批判された。(『晋書 趙王倫伝』・『世説新語』)

娘婿の司馬穎(しばえい)が司馬乂(しばがい)と争うと、楽広が司馬穎に肩入れしていると讒言された。司馬乂に詰問されたが楽広は顔色を変えず「五人の息子の将来をふいにしてまで一人の娘に肩入れするわけがありません」と答えたが、司馬乂は納得しなかった。
楽広は不安のあまり病にかかり没した。荀藩(じゅんはん)にその死を嘆かれた。(『晋書 楽広伝』)

司馬冏(しばけい)は嵇紹(けいしょう)を重んじ、いつも階下に降りて出迎えた。劉喬(りゅうきょう)に「あなたは(高名な)楽広さえベッドから降りずに引見したのになぜ嵇紹にそんなに敬意を払うのか」と言われ取りやめた。(『晋書 劉喬伝』)




楽就  袁術軍の重鎮?


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楽詳  杜畿に恩返しした大学者


楽詳(がくしょう)字は文載(ぶんさい)
司隸河東郡の人(??~??)

魏の臣。

若い頃から学問を好んだ。
196年頃、謝該(しゃがい)が「春秋左氏伝」に詳しいと聞き、南陽郡から許都まで徒歩で質問に出向いた。そして著した「左氏楽氏問七十二事」は(唐代にも)現存する。

河東太守の杜畿(とき)は非常に学問好きだったため、楽詳を招いて文学祭酒に任じ、若者を教育させた。当地では学問が盛んになり、多くの儒者が集まった。(『杜畿伝』)
弘農太守の令狐邵(れいこしょう)は、郡内に経書を理解する者がいなかったため、希望者を募り楽詳のもとで学ばせた。(『倉慈伝』)

黄初年間(220~226)に都に上り博士となった。太学が設立された頃、十余人いた博士はいずれも専門分野の理解すら怪しく、教鞭を執れなかったが、楽詳だけは五経の全てを教えられた。
学生に質問し答えられなくても腹を立てず、杖で地面に図示したり、たとえ話をしたりと寝食を忘れわかりやすく教えたため、名声は高まった。
そのうえ天文にも詳しく、音律や暦の制定にも関わった。

太和年間(227~232)に騎都尉に転任したが、実務能力が無いため、郡太守として赴任することはなかった。
正始年間(240~249)に引退し郷里に戻ると、一族は彼を頼って集まり、門弟は数千人もいた。

249年、かつて仕えた杜畿の子の杜恕(とじょ)は失脚し、配流先で没した。
257年、90余歳の楽詳は、杜畿の業績を改めて採り上げるよう上書し、杜恕の子の杜預(どよ)が取り立てられた。(『杜畿伝』)

「魏略」では楽詳を儒学の宗家7人の一人に挙げている。(『王朗伝』)



楽進  一番センター楽進


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楽肇  楽進の孫


楽肇(がくちょう)字は不明
兗州陽平郡衛国県の人(??~??)

魏の臣。
楽綝(がくちん)の子。楽進(がくしん)の孫。

257年、父が反乱した諸葛誕に殺されると後を継いだ。(『楽進伝』)



楽綝  楽進の不憫な子


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楽敦  李豊に加担した宦官達


楽敦(がくとん)字は不明
出身地不明(??~254)

魏の宦官。
蘇鑠(そしゃく)は黄門監、楽敦は永寧署令、劉賢(りゅうけん)は宂従僕射と記される。

254年、李豊(りほう)は行事で皇帝が宮殿から出てくるのを利して、近衛兵に司馬師を暗殺させる計画を立てた。蘇鑠ら3人の宦官を「諸君の不法行為を司馬師は問題にしている。張当(ちょうとう)が曹爽(そうそう)とともに殺されたことを思い出せ」と脅して一味に引き入れたが、あっさり計画は露見し一網打尽にされ、全員が殺された。(『夏侯尚伝』)

なぜか蘇鑠だけ処刑されたと書かれていないがただの書き忘れだろう。



楽方  張特とともに合肥新城を守る


楽方(がくほう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

253年、呉の諸葛恪(しょかつかく)は合肥新城を包囲した。
将軍の楽方は張特(ちょうとく)とともに3千の兵を率いていたが、劣勢によりその半数は負傷者や病人となった。
張特は呉軍へ「魏の法では百日間戦い、救援がなければ降伏しても家族は罪に問われません。すでに九十日以上が経過しました。城兵の半数はまだ抗戦を望んでいますので、彼等を説得し降伏させます。明朝には城兵の名簿を作って渡しましょう」と申し出た。
呉軍は納得し攻撃を中止した。張特はその夜に家屋を壊して資材を得ると、城の補修に用いた。
そして明朝「私は死ぬまで戦う」と呉軍に宣告した。態勢を立て直した合肥新城の守りは堅く、呉軍は撤退した。

張特は激賞され、雑号将軍を付与のうえ列侯に封じ、安豊太守に栄転した。(『斉王紀』)



霍峻  益州制圧の陰の立役者


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霍性  曹丕を諌めて殺される


霍性(かくせい)字は不明
司隸新平郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
220年、曹丕が南方へ出征しようとすると、度支中郎将の霍性は故事を引き「先王(曹操)の功績は比類ないものなのに、戦争に明け暮れたため政治を称揚されません。私は先王に引き立てられ、大王(曹丕)にさらに重い任務を与えられました。発言すれば逆鱗に触れ、阿諛すれば福禄を得られると知っていますが、危険を承知で申し上げます」と反対した。
曹丕は激怒し、処刑させた。すぐに後悔して赦免させようとしたが間に合わなかった。(『文帝紀』)



霍奴  幽州刺史と涿郡太守を殺した賊徒B


霍奴(かくど)字は不明
幽州涿郡故安県の人(??~205)

賊徒?

205年、趙犢(ちょうとく)・霍奴は反乱し、幽州刺史と涿郡太守を殺した。
同年8月、曹操が討伐し2人を斬った。(『武帝紀』)



霍篤  霍峻の兄


霍篤(かくとく)字は不明
荊州南郡枝江県の人(??~??)

霍峻(かくしゅん)の兄。

郷里で数百人の私兵を集めた。没すると荊州牧の劉表(りゅうひょう)の命で霍峻が兵を受け継いだ。(『霍峻伝』)



霍彪  霍弋の孫


霍彪(かくひょう)字は不明
荊州南郡枝江県の人(??~??)

晋の臣。
霍弋(かくよく)の孫。
霍峻(かくしゅん)の曾孫。

「漢晋春秋」に曰く。
晋に仕え越雋太守となった。(『霍峻伝』)



霍弋  霍峻の子も良将


霍弋(かくよく)字は紹先(しょうせん)
荊州南郡枝江県の人(??~271?)

蜀、後に晋の臣。
霍峻(かくしゅん)の子。
「霍峻伝」に附伝される。

223年、太子舎人となり、同年に劉禅が即位すると謁者に登用された。(『霍弋伝』)
227年(『諸葛亮伝』)、諸葛亮が漢中に駐屯すると、記室に招かれ、養子の諸葛喬(しょかつきょう)とともに各地を巡遊した。
234年、諸葛亮が没すると黄門侍郎となり、太子の劉璿(りゅうせん)の中庶子として傅役を務め、武芸を好み節度のない彼を、古例を引き合いに言葉を尽くして諌め、人格を磨いた。
後に参軍として庲降の副弐都督や護軍に転任したが、傅役は務め続けた。

その後、永昌郡の獠族が反乱すると太守として赴任し、たちまち鎮圧した。監軍・翊軍将軍に昇進し、建寧太守を兼務し益州南部の軍権を担った。

263年、安南将軍に上るが魏が益州討伐の兵を起こした。
霍弋は援軍を出そうとしたが劉禅に断られ、なすすべもなく蜀は滅亡した。
霍弋は3日間の喪に服し、周囲の者はすぐ魏に降るよう勧めたが、「主君(劉禅)の安否がわかるまでは我が身の進退を気にすべきではない。主君がきちんと礼遇されていれば降伏するが、危険な目や辱めに遭っていたら、死を覚悟して抵抗する」と動かず、劉禅が洛陽へ護送されたと聞くとようやく南中6郡の太守と兵を率いて降伏した。
司馬昭は喜び、南中都督に任じ、名目だけではなく実際の統治を任せた。(『霍弋伝』)

後世の孫盛は譙周(しょうしゅう)が劉禅に降伏を勧めたことを「成都を捨てても、羅憲(らけん)や霍弋が精鋭を保っており、険しい地形を盾にすれば、まだ勝利することはできた。劉禅は暗愚な君主で、譙周はどうしようもない臣下だった」と非難した。(『譙周伝』)

同年、交趾郡で呂興(りょこう)が反乱し、霍弋へ上表文を送り魏に寝返った。(『陳留王紀』)
霍弋はその救援に向かい、混乱に乗じて交阯・九真・日南郡を制圧した。この功により列侯に封じられた。(『霍弋伝』)

268年(『孫晧伝』)、南中監軍の霍弋は、新たな交阯太守の楊稷(ようしょく)を援護するため、益州から毛炅(もうけい)らと大軍を率いて出撃し、呉の大都督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)を討ち取った。

それに対し呉は陶璜(とうこう)らが反撃した。楊稷に敗れ二将を失ったものの(『晋書 陶璜伝』)、態勢を立て直し271年、交阯を包囲した。
楊稷・毛炅らは、霍弋から「包囲され百日以内に降伏したら一族もろとも誅殺する。百日を過ぎれば降伏しても罪は私が引き受ける」と言い含められていた。だがその霍弋はすでに病没し、兵糧も尽きたため楊稷は百日経たずに降伏を申し出た。
ところが陶璜は食料を渡し籠城を続けさせた。配下の者が諌めると「百日経てば彼らは罪を免れ、我らは義を立てられる。民には教訓になり、敵国も懐柔できて素晴らしいではないか」と答えた。
百日後、楊稷・毛炅は降伏した。(『孫晧伝』)

孫の霍彪(かくひょう)は晋の越雋太守に上った。(『霍弋伝』)



夏侯威  夏侯淵の四男


夏侯威(かこうい)字は季権(きけん)
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯淵の四男。

男気があり、荊州・兗州刺史を歴任した。(『夏侯淵伝』)

泰山太守に赴任した時、当地の豪族の子の羊祜(ようこ)に会い、只者ではないと見抜き姪(兄の夏侯覇の娘)を嫁がせ縁戚を結んだ。
はたして羊祜は長じると対呉の総司令官の地位にまで上った。(『晋書 羊祜伝』)

ある時、曹丕は優れた人相見として知られる朱建平(しゅけんぺい)に自身や居合わせた者の寿命を占わせた。
夏侯威は「49歳で州牧になるが災難に見舞われる。それを乗り越えれば70歳まで生き、天子の後見役になる」と占われた。
49歳で兗州刺史となり、12月に大病を患うとすでに曹丕や荀攸(じゅんゆう)らの寿命が的中していたこともあり覚悟を決めたが、快方に向かった。すっかり安心し大晦日に祝宴を開いたが、その夜のうちに再発し没してしまった。(『朱建平伝』)

長男の夏侯駿(かこうしゅん)は并州刺史に、次男の夏侯荘(かこうそう)は淮南太守に上った。
夏侯荘は景陽皇后(けいようこうごう)の姉をめとったため、一門は羽振りを利かせた。(『夏侯淵伝』)

景陽皇后は羊徽瑜(ようきゆ)といい、羊祜の同母姉である。(『晋書 羊祜伝』)

「演義」には夏侯淵の遺児の優れた四兄弟として登場こそするが、特に目立った活躍はしない。



夏侯栄  夏侯淵に殉じた五男


夏侯栄(かこうえい)字は幼権(ようけん)
豫州沛国譙県の人(207~219)

魏の臣。
夏侯淵の五男。

幼い時から聡明で、7歳で文章を書けた。一日に千字を読みひと目で全て覚えた。
評判を聞いた曹丕が招き、百人以上の賓客に挨拶させた。差し出した名刺をちらっと見ただけで、夏侯栄は顔と名前と出身地を全て覚えてみせ、曹丕に高く評価された。
219年、定軍山の戦いで父が戦死した時、13歳で陣中にいた。
側近は彼を逃がそうとしたが「主君や肉親の危機に自分だけ助かることができるか」と言い、剣を振り回して戦い討ち死にした。(『夏侯淵伝』)



夏侯淵  三日で五百里、六日で一千里


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夏侯和  夏侯淵の七男


夏侯和(かこうか)字は義権(ぎけん)
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏・晋の臣。
夏侯淵の七男?

太和年間(227~232)、夏侯覇の4人の弟が関内侯に封じられたとありその一人か。

「世語」に曰く。
弁舌さわやかで才気に満ちた議論をした。晋代に河南尹・太常を歴任した。(『夏侯淵伝』)

鍾会自ら記した母の伝記に曰く。
249年、司馬懿が挙兵し曹爽(そうそう)一派を討伐すると、人々は恐れおののいたが鍾会の母は泰然としており、夏侯和らの家族は不思議に思った。彼女は論理的に不安に思うことはないと説明し、その通りになり称えられた。(『鍾会伝』)

264年、蜀を滅亡させた鍾会は成都で反乱し討伐された。
その時、相国左司馬の夏侯和と騎士曹属の朱撫(しゅぶ)は相国(司馬昭)の使者として成都に滞在していた。鍾会は夏侯和・朱撫や、配下の賈輔(かほ)・羊琇(ようしゅう)に反乱に加担するよう迫ったが、4人は危険を顧みず拒絶した。
賈輔は王起(おうき)に「鍾会は凶暴で将兵をことごとく殺そうとしているが、司馬昭が30万の兵を率い既に討伐に向かっている」と誇張して話し、人々を奮い立たせようとした。王起から将兵にこの言葉が伝わったため士気が上がり鍾会は速やかに討伐された。
曹奐は詔勅を下して称え、夏侯和・賈輔を郷侯に、朱撫・羊琇を関内侯に封じた。王起も部曲の将に昇進した。(『陳留王紀』)

司馬炎が重病にかかった時、朝廷は太子の司馬衷よりも司馬攸(しばゆう)が後を継ぐべきだと心を寄せた。
河南尹の夏侯和は賈充(かじゅう)へ「あなたの二人の娘は司馬衷・司馬攸に嫁いでいるのだから徳のある方につくべきです」と司馬攸を推戴するよう勧めたが、賈充は何も答えなかった。
司馬炎は回復しこの話を聞くと警戒し夏侯和を光禄勲へ左遷し、賈充から兵権を奪ったが、賈充への厚遇は変わらなかった。(『晋書 賈充伝』)

「演義」では夏侯淵の四男として登場するが特に活躍しない。



夏侯咸  蜀征伐で四方を包囲


夏侯咸(かこうかん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

263年、魏は蜀を滅ぼした。
鍾会は上奏し「姜維らが成都へ救援に向かおうとしたため司馬の夏侯咸と護軍の胡烈(これつ)に阻止させ、さらに夏侯咸・皇甫闓(こうほがい)に命じて四方を包囲させ退路を封じました」と報告した。(『鍾会伝』)



夏侯姫  いわゆる夏侯姫


夏侯姫(かこうき)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

張飛の妻。
敬哀皇后(けいあいこうごう)・張皇后(ちょうこうごう)の母。
夏侯淵の姪。夏侯覇の従妹。

「魏略」に曰く。
200年、13~14歳の時に沛国でたきぎを採っていたところ張飛に捕まり、良家の子女と知った彼の妻にされた。
後に娘が劉禅の皇后となった。

219年、夏侯淵が定軍山の戦いで戦死すると埋葬を願い出た。

249年、夏侯覇が蜀へ亡命すると、劉禅は「君の父(夏侯淵)は戦陣で命を落としたのであり、私の父(劉備)が手に掛けたわけではない」と弁解し、自分の息子を指差し「この子は君の甥だ」と紹介した。(※原文は「夏侯氏の甥」。当時の従兄弟は兄弟に準ずる扱いを受けたため夏侯姫の子は夏侯覇の甥と呼ばれる)
血縁から夏侯覇は蜀で厚遇された。(『夏侯淵伝』)

「ちくま版」の索引にはいない。夏侯淵の姉妹の娘ならば姓は異なる可能性があるが、便宜上「真・三國無双」から拝借し夏侯姫と呼んだ。

 


夏侯徽  司馬師に毒殺された正室


夏侯徽(かこうき)字は媛容(えんよう)
豫州沛国譙県の人(221~234)

司馬師の最初の正室。
夏侯尚(かこうしょう)と徳陽郷主(とくようきょうしゅ)の娘。

判断力と度量があり、司馬師が行動する時には計画段階から相談に乗った。五女を生んだ。
曹叡の代(226~239)に司馬懿は重臣で司馬師らも才略あり、夏侯徽は司馬師が魏へ忠誠を誓っていないと見抜き、司馬師も彼女が魏王室に連なることから深く忌み嫌った。

234年、とうとう鴆毒により毒殺された。享年24。

265年、司馬炎が即位しても諡号は与えられなかったが、司馬師の3人目の正室の羊徽瑜(ようきゆ)が盛んに口添えしたため266年にようやく「懐」と諡された。(『晋書 景懐夏侯皇后伝』)



夏侯恵  夏侯淵の学識高い六男


夏侯恵(かこうけい)字は稚権(ちけん)
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯淵の六男。
「劉劭伝」に附伝される。(※だが事績の大半は「夏侯淵伝」に記される)

幼い頃から才能と学問を称賛され、奏議を作るのが得意だった。(『夏侯淵伝』)

蘇林(そりん)・韋誕(いたん)らとともに文章は広く伝わった。(『夏侯恵伝』)

太和年間(227~232)、兄弟とともに関内侯に封じられた。

散騎侍郎・黄門侍郎を務め、鍾毓(しょういく)としばしば議論を戦わせ、多くの場合は彼の意見が採用された。(『夏侯淵伝』)

散騎侍郎の時、人材推挙を求める詔勅に応じ、劉劭(りゅうしょう)を推薦した。
(※裴松之は「仲間うちで推薦し合う時には褒め過ぎになりがちで、この推薦文も持ち上げ過ぎである」と批判している)(『劉劭伝』)

燕国相や楽安太守を歴任し、37歳で没した。(『夏侯淵伝』)

「演義」では夏侯淵の三男として登場するが特に活躍しない。



夏侯玄  夏侯一族の貴公子


夏侯玄(かこうげん)字は太初(たいしょ)
魏の人(209~254)

魏の臣。
夏侯尚(かこうしょう)の子。
「夏侯尚伝」に附伝される。

215年に父が没し、後を継いだ。(『夏侯尚伝』)

太和年間(227~232)頃、荀粲(じゅんさん)・傅嘏(ふか)と親しかった。荀粲は「君達は世俗的な出世や功業名誉では必ず私に勝つが、識見では私に劣る」と言った。傅嘏は「識見があるから功業名誉を立てるのだ」と反論したが、荀粲は「功業名誉は意志と状況も大事で、識見だけでは足りない。あなた方は偉いお人だと尊敬するが、私は必ずしも同じことはしません」と言い返した。(『荀彧伝』)

「傅子」に異聞がある。
夏侯玄・何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)が席巻していた頃、傅嘏は彼らから交際を求められたが断った。荀粲が「夏侯玄は一時代を風靡する英傑で、交際を断れば恨みを招く。二人の優れた人物が仲良くしないのは国家の利益に反する」と言うと、傅嘏は「夏侯玄は器量よりも大きい野心を持ち、虚名を集めることはできるが、現実に通用する才能はない」と評し「三人とも道徳に外れており、遠くでも災難が降りかかる恐れがあるのに、昵懇になどできない」と言った。
裴松之は「傅嘏は夏侯玄の失敗を見抜いたが、鍾会とは親しくしたという。夏侯玄は重い名声のため外から災難を招いたが、鍾会は反乱し自ら災いを招いた。ならば鍾会の失敗も見抜けたはずなのに予見できず、しかも片方とだけ親しくしたのは正しい態度ではない。この逸話は傅嘏にとってプラスにならない」と批判している。

また傅嘏は李豊(りほう)とも不仲で、後の災難を予見したと「傅子」は記している。(※家伝だけありどうも傅嘏の美化が甚だしい)(『傅嘏伝』)

若い頃から名声高く、20歳で散騎黄門侍郎になった。
曹叡に目通りした際、毛皇后(もうこうごう)の弟だが、元の身分の低い毛曾(もうそう)と同席させられたことに嫌悪感を露わにし、激怒した曹叡に羽林監に左遷させられた。(『夏侯玄伝』)

諸葛誕ら名士の子弟と「四聡八達」と呼称し合い名声を集めたが、曹叡は軽佻浮薄な彼らを嫌い全員を免職した。(『諸葛誕伝』)

正始年間(240~249)はじめ、魏の実権を握った曹爽(そうそう)の、おばの子にあたる夏侯玄は恩恵に浴し、散騎常侍・中護軍へと昇進した。
人物鑑定に優れた夏侯玄は俊英や豪傑ばかりを抜擢し、多くの州や郡を治め、その統治は後世の手本にされた。
だが司馬懿に意見を求められ、人事の整理等を進言した時は、あまり評価されなかった。
また中護軍は賄賂を取る習わしで、夏侯玄の代にも付け届けはやめさせられず、後任の司馬師の代でようやく取りやめられた。

その後、征西将軍・仮節都督雍涼州諸軍事として二州を預かるが、244年に曹爽とともに蜀を攻め(大敗し)大いに批判された。(『夏侯玄伝』)

「漢晋春秋」に曰く、司馬懿が夏侯玄を「曹操でさえ漢中侵攻では大敗しかけた。蜀は要害を占拠しており、進んでも戦えず、退こうとしても退路がなければ全滅間違いない。どうやって責任を取るつもりですか」と脅したため、夏侯玄はおじけづき撤退を進言した。

「魏略」に曰く、李勝(りしょう)は夏侯玄の長史を務め、かねてから親しく、蜀征伐も彼の発案だった。それゆえ司馬懿は彼を憎んでいた。

「魏氏春秋」に曰く、夏侯玄・司馬師・何晏は親しく付き合い、何晏は「表面に現れない道理を極めることはひたすら深い。だから天下の人々の意志に通暁する」と夏侯玄を評した。(『曹真伝』)

応貞(おうてい)は談論の名手で、五言詩を披露し夏侯玄に絶賛された。(『王粲伝』)

曹爽は夏侯玄を通じて衛臻(えいしん)を朝廷に招こうとしたが固辞された。(『衛臻伝』)

和嶠(かきょう)は舅の夏侯玄を模範とし自らを持して、世俗から抜きん出ていた。(『和洽伝』)

249年、曹爽・何晏・鄧颺・李勝らが司馬懿に粛清されると、軍権を解かれて都に戻され、大鴻臚になり、数年後には太常となった。
同249年、夏侯覇は蜀へ亡命しようとし、夏侯玄にも声を掛けたが「敵国の居候にはなれない」と断られた。
都に戻ってからの夏侯玄は人事に関わらず、側室も取らず慎ましく振る舞った。(『夏侯玄伝』)

劉陶(りゅうとう)はかつて鄧颺にもてはやされ、夏侯玄へ「孔子は聖人ではない。なぜなら智者は天下を切り回すもので、(そうしない孔子のような)愚者は球遊びをしているようなもので、天下は取れないのです」と言った。
夏侯玄はあまりに見当外れな言葉に細かく反論する気も起きず「天下の実態は変転して常ならぬ。今に窮地に立った君が見られよう」とだけ言った。
後に曹爽一派が粛清されると劉陶は村の宿舎に引っ込み、失言を謝罪した。(『劉曄伝』)

251年、司馬懿が没すると友人の許允(きょいん)はこれで安心だと喜んだが、夏侯玄は「あなたはなんて見通しが甘いのだ。司馬懿はまだ私を親交ある一家の後輩として扱ってくれたが、その子らは大目に見るわけがない」と先行きの暗さを見抜いていた。

曹爽との血縁から冷遇されるのに不満を抱き、それに目をつけた李豊は、張緝(ちょうしゅう)とともに夏侯玄を擁立しようと企て、254年に司馬師の暗殺を狙った。
だがあっさり露見し、李豊は殺され、夏侯玄・張緝は逮捕された。三族皆殺しとなり、他の親族も楽浪郡に流された。夏侯玄は泰然自若とし顔色一つ変えずに処刑された。享年46。

許允も李豊らの陰謀を知っていたと疑われ、やはり楽浪郡に流された。

「世語」に曰く、李豊が息子を送り夏侯玄に計画を伝えた時、彼は詳しく話してくれと言っただけで興味を示さず、そのため李豊は何も告げずに計画を実行したという。
逮捕された時も供述せず、廷尉の鍾毓(しょういく)が自ら取り調べにあたろうとすると「話すことなどない。君が供述書を作りたまえ」と言った。鍾毓は誇り高い彼を屈服させることはできないと思い、供述書を作って泣きながら見せたが、夏侯玄はただうなずくだけだった。
鍾毓の弟の鍾会は以前から親しくされなかったので、立場につけ込んでなれなれしく口を利いたため夏侯玄は「どうしてそんなに押し付けがましいのだ」と怒った。

また司馬昭は夏侯玄の文才を惜しみ、兄の司馬師に命乞いしたが、司馬師は「趙儼(ちょうげん)の葬儀の際、出席した夏侯玄のもとに参列者が数百人も挨拶に出向いたのを忘れたか」とその恐るべき名声を処刑の理由として挙げ、弟を叱りつけたとされる逸話が知られるが、裴松之は「趙儼が没したのは245年で、関中に赴任していた夏侯玄は葬儀に参列できない」と矛盾点を指摘しでたらめと断じている。

正元年間(254~256)、夏侯尚の功績を惜しみ、その従孫の夏侯本(かこうほん)が列侯され、後を継いだ。(『夏侯玄伝』)

毌丘倹(かんきゅうけん)は夏侯玄・李豊と親しく、文欽(ぶんきん)は曹爽と同じ村の出身だった。
255年、毌丘倹と文欽は反乱したが、曹爽・夏侯玄・李豊らの末路に危機感を抱いたのも理由の一つであろう。(『毌丘倹伝』)

257年、やはり反乱した諸葛誕も、夏侯玄・鄧颺ら若い頃から親しくした人物の粛清や、毌丘倹・王凌(おうりょう)らが反乱し滅亡したことに恐怖を抱いていた。(『諸葛誕伝』)

263年、蜀を制圧した鍾会は姜維を評価し、杜預(とよ)へ「中原の名士と比較すると諸葛誕や夏侯玄でも彼には及ばない」と言った。(『姜維伝』)

陳寿は「厳格で度量が大きく世間ではその名を称えられたが、驕り高ぶる曹爽と内外に渡って深く結びつき、立派な地位にありながら曹爽の誤りを矯正せず、優れた人材を一人も招かなかった。悲運の最期を免れなかったのも当然である」と評した。

「演義」では曹芳の廃位に反対し司馬師に処刑された。その後、司馬師が病床に伏すと、霊魂として現れ祟った。



夏侯献  曹肇の相方


夏侯献(かこうけん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。他の夏侯姓の人物との血縁は不明。

曹叡(そうえい)の代に遼東の公孫淵(こうそんえん)が呉と接近し、その対処をめぐり意見が分かれた。夏侯献は公孫淵の父の時と同じように、使者を送り利害を説くべきだと主張し、実績のある鬷弘(そうこう)を使者に推薦した。(『公孫康伝』)

239年、曹叡は病に倒れると、曹宇(そうう)を大将軍に任じ、曹爽(そうそう)・曹肇(そうちょう)・夏侯献・秦朗(しんろう)ら親族に補佐させようと考えた。
ところが謙虚な曹宇は固辞し、側近の劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)は曹肇・夏侯献と敵対していたため猛反対し、曹爽と司馬懿を推薦した。
結局、劉放・孫資の意見が通り、曹宇・曹肇らは都から出され要職から退けられた。(『明帝紀』・『劉放伝』)

「世語」に曰く。
劉放・孫資と対立する夏侯献は(後事を託させまいと)先手を打って回り道するよう司馬懿に命じていたが、直筆の詔勅が届いたため司馬懿は急いで都へ帰った。

その後の展開も正史と食い違うことを裴松之は指摘する。(『劉放伝』)



夏侯衡  夏侯淵の長男


夏侯衡(かこうこう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯淵の長男。
母は曹操の義妹(妻の妹)。

曹操の弟の海陽哀侯(かいようあいこう)の娘をめとり、特に恩寵を受けた。
(219年、父が没すると)爵位を継ぎ、安寧亭侯に移封された。

没すると子の夏侯績(かこうせき)が後を継いだ。(『夏侯淵伝』)

「演義」では史実では夏侯惇の子である夏侯楙(かこうぼう)が、夏侯淵から養子に出された夏侯惇の後継ぎに設定され、定軍山の戦いのリベンジを挑み、大敗する。



夏侯佐  夏侯惇の後継ぎ


夏侯佐(かこうさ)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~266)

魏・晋の臣。
夏侯惇の孫。

「晋陽秋」に曰く。
266年、夏侯惇の孫で高安郷公の夏侯佐(かこうさ)が没し、後継ぎが絶えてしまった。
司馬炎は詔勅を下し「夏侯惇は魏の元勲であり、晋は魏から禅譲を受けたのだから、魏の功臣を粗略にはできない。夏侯惇の近親の夏侯劭(かこうしょう)に後を継がせよ」と命じた。

「正史」には「夏侯惇の孫の夏侯廙(かこうよく)が没すると、その子の夏侯劭が後を継いだ」と記され、夏侯佐は登場しない。(『夏侯惇伝』)



夏侯簒  秦宓を招聘するもやり込められる


夏侯簒(かこうさん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

214年、劉備が益州を制圧した後に、秦宓(しんふく)は広漢太守の夏侯簒に師友祭酒に招聘され、五官掾を兼務し仲父(※管仲にちなんだ尊称)と呼ばれた。
病と称して寝込んでいると、夏侯簒は配下の古朴(こぼく)・王普(おうふ)を連れて見舞いし、寝たままの秦宓の前で食事を広げ歓談した。
夏侯簒が「益州は他州を引き離すほど産出物が豊かだが、人材はどうだ」と古朴に尋ねると、彼は厳君平・揚雄・司馬相如の名を挙げた。
夏侯簒が「仲父は(彼らと比べて)どうだ」と聞くと、秦宓は割り込み「どうか私のような田舎者を仲父と呼ばないでください。あなたのために益州について論じると、肥沃な土地で、禹王が生まれ、天帝が政策を占う星座に位置し、三皇が出発した土地です。これらを他州と比べてどう思われますか」と聞き返し、夏侯簒は返す言葉もなかった。(『秦宓伝』)



夏侯子江  夏侯楙の弟達


夏侯子江(かこうしこう)名は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
夏侯惇の息子。

父が没すると7人の息子と2人の孫は関内侯に封じられた。

次兄の夏侯楙(かこうぼう)は曹操の長女の清河長公主(せいかちょうこうしゅ)をめとったが、好色な彼は多数の愛妾を抱えたため妻に恨まれた。
夏侯子臧(かこうしぞう)と夏侯子江は失態を演じて兄に叱責され、このままでは処罰されると恐れ、義姉の清河長公主とともに夏侯楙を陥れようと企んだ。
罪をでっち上げて皇帝の曹叡に上奏すると、曹叡も夏侯楙をかねてから憎んでいたため同調した。
夏侯楙は冤罪で処刑されかかったが、段黙(だんもく)が夫婦仲の悪さから真相を見抜き、慎重な裁定を求めたため、改めて調査し陰謀が発覚し、事なきを得た。(『夏侯惇伝』)

その後、清河長公主や夏侯子江らが処罰を受けたか否かは記されていない。



夏侯子臧  夏侯楙の弟達


夏侯子臧(かこうしぞう)名は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
夏侯惇の息子。

父が没すると7人の息子と2人の孫は関内侯に封じられた。

次兄の夏侯楙(かこうぼう)は曹操の長女の清河長公主(せいかちょうこうしゅ)をめとったが、好色な彼は多数の愛妾を抱えたため妻に恨まれた。
夏侯子臧と夏侯子江(かこうしこう)は失態を演じて兄に叱責され、このままでは処罰されると恐れ、義姉の清河長公主とともに夏侯楙を陥れようと企んだ。
罪をでっち上げて皇帝の曹叡に上奏すると、曹叡も夏侯楙をかねてから憎んでいたため同調した。
夏侯楙は冤罪で処刑されかかったが、段黙(だんもく)が夫婦仲の悪さから真相を見抜き、慎重な裁定を求めたため、改めて調査し陰謀が発覚し、事なきを得た。(『夏侯惇伝』)

その後、清河長公主や夏侯子臧らが処罰を受けたか否かは記されていない。



夏侯氏  単固の母


夏侯氏(かこうし)名は不明
出身地不明(??~??)

単固(ぜんこ)の母。単伯龍(ぜんはくりゅう)の妻。

正始年間(240~249)、兗州刺史の令狐愚(れいこぐ)は単伯龍と親しかったため、単固を別駕に招いたが、病を理由に断られた。ますます礼遇するようになったが、単固は喜ばなかった。
だが母の夏侯氏に「父と親しくし、お前にも目を掛けてくれるのだから仕官するのが当然です」とたしなめられ、楊康(ようこう)と並ぶ腹心となった。

後に令狐愚は王凌(おうりょう)とともに謀叛を企み、単固と楊康もその計画を知っていた。
251年、令狐愚は決行前に重病に倒れてすぐに亡く、楊康が密告したため王凌は捕らえられた。
単固は令狐愚の名誉を守るため計画を知らないと言い張って処刑された。密告した楊康も単固との論戦により多くの嘘が明るみになり、ともに処刑された。

処刑前、慣例で家族との面談が許可されており、単固は母と会ったが恥じ入って顔も上げられなかった。
夏侯氏は「お前は仕官したくなかったのに、私が無理強いしたせいです。仕官したのだから(主君の名誉を守るために)こうするしかありませんでした。これで一門は衰えるでしょうが、残念には思いません。本当の気持ちを話しておくれ」と語りかけたが、単固は顔を上げず、何も言わず処刑された。(『王凌伝』)



夏侯儒  夏侯尚の賛否両論の弟


夏侯儒(かこうじゅ)字は俊林(しゅんりん)
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯尚(かこうしょう)の弟。
夏侯淵の従子。

221年、涼州で胡族の伊健妓妾(いけんぎしょう)らが魏に反乱した。
曹丕は張既(ちょうき)でなければ対処できないと考え、涼州刺史に交代させ独断で動くことを許可した。
護軍の夏侯儒や費曜(ひよう)らが後詰めで送られたが、張既はそれを待たずに強行軍で進撃し、その速さに胡族は神業と驚き後退した。
武威郡を占拠してから費曜が合流し、夏侯儒はまだ着いていなかった。
さらに張既は歩を緩めず兵を進め、胡族をおびき寄せると伏兵で叩き、大勝利を挙げた。

酒泉郡で蘇衡(そこう)が反乱し、羌族や異民族とともに国境を攻めた。
張既は夏侯儒とともに撃破し、全て降伏させた。上奏して城を修理し、防備を整えると西羌族は2万の民を引き連れ降伏した。

「魏略」に曰く。
はじめ曹彰(そうしょう)の驍騎司馬となり、後に征南将軍・都督荊豫州諸軍事となった。(※夏侯尚とほぼ同じ経歴である)

241年、朱然が樊城を包囲し、守将の乙修(いつしゅう)は窮地に陥った。
夏侯儒は救援に赴いたが兵が少なかったため戦いを挑まず、距離をおいて太鼓や笛を鳴らし牽制した。1月余りし司馬懿が到着するとともに進撃し朱然を撃退したが、夏侯儒は臆病だとも策士だとも言われ賛否両論となり、結局前線から召還され太僕となった。(『張既伝』)

正始年間(240~249)、夏侯覇が代わって征蜀護軍となった。(『夏侯淵伝』)



夏侯充  夏侯惇の子


夏侯充(かこうじゅう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯惇の子。

220年、父が没すると後を継いだ。
曹丕は夏侯惇の功績を思い起こし、子を全て列侯してやりたいと考え、夏侯惇の領邑から1千戸を7人の息子と2人の孫へ分け関内侯に封じた。

夏侯充も没すると子の夏侯廙(かこうよく)が後を継いだ。(『夏侯惇伝』)



夏侯駿  夏侯威の長男


夏侯駿(かこうしゅん)字は長容(ちょうよう)
豫州沛国譙県の人(??~??)

晋の臣。
夏侯威(かこうい)の長男。夏侯淵の孫。

何劭(かしょう)は同郷の王詮(おうせん)に「私の名誉や地位は不相応に高いが、若い頃に記録に残るようなことは何もなかった。夏侯駿とともに博士をやり込めた(?)くらいだ」と語った。(『晋書 何曾伝』)

并州刺史に上った。(『夏侯淵伝』)

296年、安西将軍の夏侯駿と周処(しゅうしょ)が、反乱した氐族の斉万年(せいばんねん)を討伐した。(『晋書 恵帝紀』)



夏侯劭  夏侯惇の末裔


夏侯劭(かこうしょう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏・晋の臣。
夏侯廙(かこうよく)の子。夏侯惇の曾孫。

父が没すると後を継いだ。

「晋陽秋」に曰く。
266年、夏侯惇の孫で高安郷公の夏侯佐(かこうさ)が没し、後継ぎが絶えてしまった。
司馬炎は詔勅を下し「夏侯惇は魏の元勲であり、晋は魏から禅譲を受けたのだから、魏の功臣を粗略にはできない。夏侯惇の近親の夏侯劭に後を継がせよ」と命じた。(『夏侯惇伝』)



夏侯尚  閲覧注意


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夏侯承


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夏侯称  夏侯淵の早逝した三男


夏侯称(かこうしょう)字は叔権(しゅくけん)
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯淵の三男。

従孫の夏侯湛(かこうたん)の序文に曰く。
夏侯称は幼い頃から子供を集めガキ大将となり、戦争ごっこに興じた。規律は厳しく破った者を鞭打ったが誰も逆らわなかった。
夏侯淵は見どころがあると思い兵法を学ばせようとしたが「できることがあれば自分勝手にやる。人から学ぶことなどない」と従わなかった。
16歳の時、狩猟に行き逃げる虎に出くわした。夏侯淵は制止したが追いかけて一矢で仕留めた。
名声は曹操に届き、夏侯称の手を握り「お前を手に入れたぞ」と喜んだ。
曹丕とは身分を超えて対等に付き合い、宴会でその意気は人々を圧倒し、弁舌では誰も敵わず、名声ある者はみな交際を求めた。
しかし18歳で没した。(『夏侯淵伝』)



夏侯績  夏侯淵の孫


夏侯績(かこうせき)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

夏侯衡(かこうこう)の子。
夏侯淵の孫。

父が没すると後を継ぎ、虎賁中郎将まで上った。

夏侯績も没すると子の夏侯褒(かこうほう)が後を継いだ。(『夏侯淵伝』)



夏侯荘  夏侯湛の父


夏侯荘(かこうそう)字は仲容(ちゅうよう)
豫州沛国譙県の人(??~??)

晋の臣。
夏侯威(かこうい)の次男。
夏侯淵の孫。

「世語」に曰く。
淮南太守に上った。
景陽皇后(けいようこうごう)の姉をめとり、子の夏侯湛(かこうたん)も多才で文学に優れたため一門は羽振りを利かせた。(『夏侯淵伝』)

清明亭侯に封じられた。
娘の夏侯光姫(かこうこうき)は司馬覲(しばきん)に嫁ぎ司馬睿(東晋の初代皇帝)を生んだ。(『晋書 元夏侯太妃伝』)

ちなみに景陽皇后という諡は存在せず、景献皇后(けいけんこうごう)の羊徽瑜(ようきゆ)と推測される。
ただし「辛毗伝」の注に引く「世語」に夏侯湛は辛憲英(しんけんえい)の外孫(娘の子)、つまり羊耽(ようたん)の孫と記され、羊徽瑜は羊耽の姪であり、景陽皇后(羊徽瑜)の姉とは父が異なることとなる。
当時は従姉妹も姉妹に準ずる扱いを受けたため、姉と呼ばれたのだろうか。



夏侯惇  曹操の友にして右腕


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夏侯覇  数奇な人生


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夏侯博  劉備配下の夏侯氏


夏侯博(かこうはく)字は不明
出身地不明(??~??)

劉備の臣。

200年、官渡の戦いを前に曹操は劉備を攻撃し、その配下の夏侯博を生け捕りにした。(『武帝紀』)

記述はこれだけで他の夏侯氏との関係は不明。



夏侯文寧  夏侯令女の父


夏侯文寧(かこうぶんねい)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯令女(かこうれいじょ)の父。

「列女伝」に曰く。
娘は曹文叔(そうぶんしゅく)に嫁いだが早くに先立たれた。
夏侯令女は年若く子も無かったため再婚させられてしまうと考え、喪が明けると髪を切り、操を貫く覚悟を示した。しかし実家は再婚させようとし、夏侯令女はすぐさま両耳を自分で切り落とした。
亡夫の従弟の曹爽(そうそう)に身を寄せて暮らしていたが、249年、専権を振るう曹爽は司馬懿に粛清され、一族がことごとく殺された。
夏侯令女の叔父は曹氏との姻戚関係を解消し、無理やり身柄を引き取った。梁国相を務める父の夏侯文寧は不憫に思い、また再婚を勧めると夏侯令女は悲嘆に暮れながら承知した。
そうして父と叔父を油断させた彼女は鼻も削ぎ落としてしまった。ある人が「そもそも人間の一生は塵が草の上に乗っているような(はかなく辛い)ものなのに、どうして自ら辛い目に遭うのか。御主人の一族も皆殺しにされたのに誰に操を立てているのか」と尋ねると「仁者は盛衰によって節義を改めず、義人は存亡によって心を変えません。曹氏が隆盛だった頃さえ節操を貫こうと願っていたのに、ましてや滅亡した今どうして平気で見捨てられるでしょう。獣のようなことはできません」と答えた。
司馬懿はこれを聞いて感動し、夏侯令女に養子を取り亡夫の家を継がせることを認めた。彼女の名声は天下に鳴り響いた。(『曹真伝』)

「演義」でもこの逸話は描かれたが、夏侯令女は夏侯令の女(むすめ)と読み間違えられ、夏侯文寧は夏侯令(かこうれい)と記される。



夏侯奉  夏侯尚の甥


夏侯奉(かこうほう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯尚(かこうしょう)の甥(弟の子)。

225年、夏侯尚が没すると子の夏侯玄(かこうげん)が後を継ぎ、甥の夏侯奉は夏侯尚の領邑から300戸分割され関内侯に封じられた。(『夏侯尚伝』)

夏侯尚には夏侯儒(かこうじゅ)という弟がいるが、自身も重職を歴任しており、その子が夏侯尚の逝去に合わせて列侯されたのも不自然で、早逝した別の弟の子が夏侯奉なのだろうか。



夏侯楙  三国志ナンバーワンの無能


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夏侯褒  夏侯淵の曾孫


夏侯褒(かこうほう)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

夏侯績(かこうせき)の子。
夏侯淵の曾孫。

父が没すると後を継いだ。(『夏侯淵伝』)



夏侯本  夏侯尚の従孫


夏侯本(かこうほん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯尚(かこうしょう)の従孫。

254年、夏侯尚の子の夏侯玄(かこうげん)が謀叛に加担し処刑されて家名が断絶したため、正元年間(254~256)に夏侯本が昌陵亭侯に封じられ、領邑300戸を与えられ夏侯尚の後を継いだ。(『夏侯尚伝』)



夏侯廙  夏侯惇の孫


夏侯廙(かこうよく)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯充(かこうじゅう)の子。夏侯惇の孫。

父が没すると後を継いだ。
夏侯廙も没すると子の夏侯劭(かこうしょう)が後を継いだ。

「晋陽秋」に曰く。
266年、夏侯惇の孫で高安郷公の夏侯佐(かこうさ)が没し、後継ぎが絶えてしまった。
司馬炎は詔勅を下し「夏侯惇は魏の元勲であり、晋は魏から禅譲を受けたのだから、魏の功臣を粗略にはできない。夏侯惇の近親の夏侯劭に後を継がせよ」と命じた。(『夏侯惇伝』)



夏侯蘭  趙雲に助けられた幼馴染


夏侯蘭(かこうらん)字は不明
冀州常山郡の人(??~??)

曹操、後に劉備の臣。

「趙雲別伝」に曰く。
203年、博望の戦いで劉備の捕虜となった。
趙雲と同郷で幼少からの知り合いであり、助命嘆願し法に詳しいと推挙して軍正に任命させた。だがその後は分をわきまえて趙雲から接近することはなかった。(『趙雲伝』)

「演義」では張飛に殺された。

趙雲の幼馴染で夏侯姓で魏からの降将という非常においしい立ち位置なのに創作では不思議なほど顧みられない。名前からしていっそ女性武将として登場させてもいいのではと個人的には思う。



夏侯令女  曹文叔の貞淑すぎる妻


夏侯令女(かこうれいじょ)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹文叔(そうぶんしゅく)の妻。
夏侯文寧(かこうぶんねい)の娘。

「列女伝」に曰く。
夫の曹文叔は早逝した。
夏侯令女は年若く子も無かったため再婚させられてしまうと考え、喪が明けると髪を切り、操を貫く覚悟を示した。しかし実家は再婚させようとし、夏侯令女はすぐさま両耳を自分で切り落とした。
亡夫の従弟の曹爽(そうそう)に身を寄せて暮らしていたが、249年、専権を振るう曹爽は司馬懿に粛清され、一族がことごとく殺された。
夏侯令女の叔父は曹氏との姻戚関係を解消し、無理やり身柄を引き取った。父の夏侯文寧は不憫に思い、また再婚を勧めると夏侯令女は悲嘆に暮れながら承知した。
そうして父と叔父を油断させた彼女は鼻も削ぎ落としてしまった。ある人が「そもそも人間の一生は塵が草の上に乗っているような(はかなく辛い)ものなのに、どうして自ら辛い目に遭うのか。御主人の一族も皆殺しにされたのに誰に操を立てているのか」と尋ねると「仁者は盛衰によって節義を改めず、義人は存亡によって心を変えません。曹氏が隆盛だった頃さえ節操を貫こうと願っていたのに、ましてや滅亡した今どうして平気で見捨てられるでしょう。獣のようなことはできません」と答えた。
司馬懿はこれを聞いて感動し、夏侯令女に養子を取り亡夫の家を継がせることを認めた。彼女の名声は天下に鳴り響いた。(『曹真伝』)

「演義」でもこの逸話は描かれたが、夏侯令女は夏侯令の女(むすめ)と読み間違えられ、曹文叔の妻とのみ記される。



夏侯廉  夏侯惇の弟


夏侯廉(かこうれん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
夏侯惇の弟。

220年、夏侯惇が没すると曹丕は功績を思い起こし、子を全て列侯してやりたいと考え、夏侯惇の領邑から1千戸を7人の息子と2人の孫へ分け関内侯に封じた。
弟の夏侯廉と子の夏侯楙(かこうぼう)はもともと列侯されていた。(『夏侯惇伝』)



合肥侯


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葛奚


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葛玄  左慈の一番弟子


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葛光


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葛衡


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葛都尉  呉の都尉


葛都尉(かつとい)名は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

都尉は役職名。
遼東の公孫淵(こうそんえん)のもとへ裴潜(はいせん)とともに赴いた。(『公孫淵伝』)

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