楽広 杯中の蛇影
楽広(がくこう)字は彦輔(げんほ)
荊州南陽郡淯陽県の人(??~??)
魏・晋の臣。
楽方(がくほう)の子。
父は征西将軍の夏侯玄(かこうげん)に仕えた。
夏侯玄は当時8歳の楽広を道で見かけて話し、楽方に「さわやかな風貌できっと名士になるだろう。君の家は貧しいが楽広を学問に励ませれば、必ず家を繁栄させる」と言った。
だが楽方は若くして没し、楽広は山陽へ移住し貧しくつましい孤独な暮らしを送った。
淡白な性格で先見の明があり、欲がなく、他人と争わなかった。言論に優れ短い言葉でわかりやすく道理を説いて人々を満足させ、知らないことには口出ししなかった。
裴楷(はいかい)は夜通し語り合い、楽広が(打ち解けても)くだけた態度を取らず丁重なままだったため「私の敵う人物ではない」と感嘆した。
王戎(おうじゅう)は荊州刺史になると、かつて夏侯玄に評価された話を聞き、楽広を秀才に推挙した。裴楷も太尉の賈充(かじゅう)に推薦し、太尉掾に招かれ、太子舎人に転任した。
朝廷の長老格の衛瓘(えいかん)は楽広と話すと「私は正始年間(240~249)に何晏(かあん)ら賢人と話したが、彼らの没後はもう微言(奥深い言葉)は途絶えてしまったのではないかと危惧していた。今日、君からまた微言を聞けるとは思わなかった」と言った。そして息子らに交友するよう命じ「楽広は人間の水鏡だ。まるで雲霧をかき分け晴天を見るかのような洞察力を持つ」と称えた。
王衍(おうえん)も「私は議論の際には簡略で周到な言葉を使うよう徹底していたが、楽広と話すと自分の言葉はなんと冗長だったのかと悟った」と言った。
元城県令、中書侍郎、太子中庶子、侍中を歴任し河南尹に任じられた。
河南尹を辞退しようとしたが議論は得意だが文章は不得手だったため、潘岳(はんがく)に代筆を依頼し、口頭で意思を伝えた。潘岳はそれを巧みに上表文に仕上げ、たちまち名文が完成した。人々は「楽広が潘岳の筆を借りず、潘岳が楽広の言葉を用いなければこの美文は完成しなかった」と称えた。(※だが辞退は退けられ赴任した)
かつて昵懇だった客が訪れなくなり、楽広は不思議に思い理由を聞くと、客は「以前お酒をいただいた時、杯の中に蛇が見え、気味が悪いが(幻だろうと思い)飲んだら病気になったのです」と答えた。
楽広は客の座った辺りを調べ、壁に造られた蛇の装飾がちょうど杯の水面に映るのを突き止めた。客は納得し病気も治った。(※疑心暗鬼を生じればつまらないことで神経を病む「杯中の蛇影」という故事になった)
河南尹の官舎では奇妙なことが多発し、前任の河南尹は恐れて官舎の外で暮らしたが、楽広は気にせず寝起きした。ある時、扉が勝手に閉まり人々は仰天したが楽広は平然としたまま、扉の方角の塀に穴があるのを見つけ、掘り起こさせると中から狸が現れた。これを殺すと怪奇現象は収まった。(『晋書 楽広伝』)
衛瓘の孫の衛玠(えいかい)が子供の頃、夢とは何か楽広に尋ねた。楽広は「想像だ」と答えたが衛玠は「考えたことも見聞きしたこともないものも夢に出る」と納得しない。楽広は「車に乗ってネズミの巣穴に入ったり、鉄の杵で食べ物をすりつぶして薬味を作り、それで杵ごと食べた夢を見たことはないだろう? つまり想像しなければ夢に出てくる原因が無い。夢に出たということは想像し、原因があるということだ」と言った。
衛玠はなおも納得せず1月あまりも悩み続けとうとう病気になった。楽広はそれを聞くと駆けつけて丁寧に説明してやり、たちまち治った。楽広は「この賢い子の胸中には手の施しようがない病気などないのだろう」と嘆息した。(『晋書 楽広伝』・『世説新語』)
地方に赴任すると在任中こそ評判は立たなかったが、任地を離れる時には必ず民から惜しまれた。
人を論評する時にはまず長所を褒め、言わずとも短所がわかるよう計らった。人にどんな過失があっても必ず許したが、おのずと反省するようにした。
楽広・王衍はともに心を世俗の外に置き、論者たちは二人を常に非凡な人士の筆頭と評した。
若い頃から楊準(ようじゅん)と仲良く、彼は息子の楊喬(ようきょう)・楊髦(ようぼう)を評価してもらおうと思い、まず裴頠(はいき)を訪ねた。寛容実直な裴頠は上品な楊喬を気に入り「楊喬は卿の位に並び、楊髦はそれにやや劣る」と評した。
次いで楽広を訪ねると、清廉純朴な彼は節操ある楊髦を気に入り「楊喬はもちろん卿に並ぶが、楊髦も清潔で傑出している」と評した。楊準は「我が子らの優劣はそのまま裴頠と楽広の優劣を表している」と笑った。論者も楽広の評価を支持した。
当時、王澄(おうちょう)・胡毋輔之(こぼほし)らは任放(自由)を尊び、裸で暮らす者もいたが楽広はそれを聞くと「名教(儒教の規範)にも自由に楽しめる境地があるのにわざわざそんなことをする必要があるか」と笑った。才能と人を愛し、道理を保つ様は全てこのようで、世相も朝廷の秩序も乱れていたが、楽広は清潔・中立で誠心誠意を尽くし、道を外れるところを見た者はいなかった。(『晋書 楽広伝』)
裴頠と議論した時、楽広は論破しようとしたが、裴頠は多様な弁論を駆使して屈服せず、楽広は笑って諦めた。(※楽広は知らないことに口出ししない)(『晋書 裴秀伝』)
胡毋輔之が酒を飲んでいる時、馬飼いの王子博(おうしはく)が足を投げ出して座った。胡毋輔之はだらしないと叱りつけ火を焚くよう命じたが、王子博は「職務は果たしているのになぜそれ以外の指図を受けねばならないのだ」と言い返した。胡毋輔之は彼と語り合い「私が敵う人物ではない」と感嘆し河南尹の楽広に推挙した。楽広も評価し功曹に抜擢した。(『晋書 胡毋輔之伝』)
「晋諸公賛」に曰く、劉漢(りゅうかん)は清らかでわだかまりのない性格で立派な見識を具え、名声は楽広に次いだ。(『管輅伝』)
299年、太子の司馬遹(しばいつ)が廃立され都から追放されると、見送りを禁じられたが多くの旧臣が拝礼して見送った。司隷校尉の満奮(まんふん)は彼らを投獄させたが、楽広は即座に釈放し、人々は彼の身を案じた。
孫琰(そんえん)が廃立を主導した賈謐(かひつ)に「旧臣を処罰すればかえって司馬遹の人徳を際立たせてしまう」と進言し、処罰は取りやめられ楽広も無事だった。
吏部尚書、尚書左僕射、尚書右僕射、領吏部を歴任し、王戎の後任の尚書令となった。はじめ王戎に秀才に推挙されて世に出て、その後任となったことを美談だと人々は称えた。(『晋書 楽広伝』)
301年、司馬倫(しばりん)が帝位簒奪した際に満奮、崔随(さいずい)、楽広が印綬を授ける役目を担った。清潔中立だった楽広が関与したことは後世に大いに批判された。(『晋書 趙王倫伝』・『世説新語』)
娘婿の司馬穎(しばえい)が司馬乂(しばがい)と争うと、楽広が司馬穎に肩入れしていると讒言された。司馬乂に詰問されたが楽広は顔色を変えず「五人の息子の将来をふいにしてまで一人の娘に肩入れするわけがありません」と答えたが、司馬乂は納得しなかった。
楽広は不安のあまり病にかかり没した。荀藩(じゅんはん)にその死を嘆かれた。(『晋書 楽広伝』)
司馬冏(しばけい)は嵇紹(けいしょう)を重んじ、いつも階下に降りて出迎えた。劉喬(りゅうきょう)に「あなたは(高名な)楽広さえベッドから降りずに引見したのになぜ嵇紹にそんなに敬意を払うのか」と言われ取りやめた。(『晋書 劉喬伝』)
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