三国志 こ 5


公孫方  崔琰の友人A


公孫方(こうそんほう)字は不明
出身地不明(??~??)

素性不明。

191年、崔琰(さいえん)とともに鄭玄(じょうげん)に師事した。1年も経たない内に黄巾賊が北海郡へ攻め寄せ、師弟は山へ逃げた。食料が不足したため鄭玄は弟子を断り、退学した。

公孫方と宋階(そうかい)は早逝したが、崔琰は彼らの遺児を我が子のようにかわいがった。(『崔琰伝』)



公孫陽  濡須口の戦いで捕虜になった都督


公孫陽(こうそんよう)字は不明
出身地不明(??~??)

孫権の臣。

213年、都督として濡須口の戦いで曹操軍に敗れ、捕虜になった。(『武帝紀』)



公孫琙  公孫度を息子同然にかわいがる


公孫琙(こうそんよく)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

玄菟太守の公孫琙は子の公孫豹(こうそんひょう)を18歳で亡くし、公孫度(こうそんど)が同い年で、幼名も豹(ひょう)だったため亡き息子同然にかわいがり、師につけて学問させ、嫁も探してやった。(『公孫度伝』)



高堂琛  高堂隆の子


高堂琛(こうどうちん)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(??~??)

魏の臣。
高堂隆(こうどうりゅう)の子。

景初年間(237~239)に父が没すると後を継いだ。(『高堂隆伝』)



高堂隆  魏の小言爺


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皇甫晏


未作成



皇甫闓  蜀征伐で姜維を横から襲い包囲もする


皇甫闓(こうほがい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

263年、魏は蜀を滅ぼした。
鍾会は上奏し「姜維らが成都へ救援に向かおうとしたため参軍の皇甫闓と将軍の王買(おうばい)に横から襲わせ、さらに夏侯咸(かこうかん)・皇甫闓(こうほがい)に命じて四方を包囲させ退路を封じました」と報告した。(『鍾会伝』)



皇甫嵩  天下をつかみそこねた男


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皇甫陶  司馬炎と言い争う


皇甫陶(こうほとう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

泰始年間(265~275)のはじめ、侯史光(こうしこう)は皇甫陶・荀廙(じゅんよく)とともに天子の使者として各地を巡察し、上奏が眼鏡にかない昇進した。(『晋書 侯史光伝』)

266年、司馬炎は服喪の期間を終えたにも関わらず、その後も喪に服しているかのように振る舞い続けた。
散騎常侍の皇甫陶と傅玄(ふげん)はそれを諌めた。

272年、右将軍の皇甫陶は司馬炎と政治を議論したところ、言い争いになった。鄭徽(ていき)が処罰を求めると、司馬炎は「私はへつらいの無い直言を望んでいる。へつらいは害であり、言い争う臣は害ではない。職分を超える鄭徽こそ私の意にかなわない」と鄭徽を罷免した。(『晋書 武帝紀』)



皇甫謐


未作成



皇甫酈  李傕を脅し返した忠臣


皇甫酈(こうほり)字は不明
涼州安定郡朝那県の人(??~??)

後漢の臣。
皇甫嵩(こうほすう)の甥。

「献帝起居注」に曰く。
献帝は謁者僕射の皇甫酈が(李傕(りかく)・郭汜(かくし)出身の)涼州の名門で弁舌に長けたため、李傕・郭汜を和睦させようとした。郭汜は承諾したが、李傕は「私は呂布を討伐し、政治を補佐すること4年で三輔は平穏になった。ただの馬泥棒の郭汜がなぜ私と同等になろうとするのだ。そのうえ公卿を人質にしている。あくまで殺すつもりだ。君は同郷だから私の参謀を務めろ。承知しなければわかっているな」と脅した。
皇甫酈は「あれだけ強大だった董卓があっさり滅びたのをあなたも見たでしょう。武勇があっても智謀が無かったからです。公卿を脅す郭汜と天子を脅すあなたのどちらの罪が重いと考えますか。張済(ちょうせい)は郭汜・楊定(ようてい)と結託し朝廷にも支持者がいます。簡単には勝てません。白波黄巾賊の楊奉(ようほう)もあなたが正しくないと思っています」と脅し返した。
李傕は怒鳴りつけて退出させた。
侍中の胡邈(こばく)は李傕に目を掛けられていたため、皇甫酈の報告を粉飾し、「李傕将軍はあなたを粗末に扱わないし、皇甫嵩様が太尉に取り立てられたのも李傕のおかげです」と脅した。
皇甫酈は「あなたは国家の重臣で天子をおそばで補佐する身なのに、そんなことを言って何の役に立つのか」と言い返し、胡邈がなおも「李傕に危害を加えられないかと心配して忠告したのに」と言うと「私は代々、天子の御恩をこうむり側近く仕えてきた。主君が恥辱を受ければ家臣は命を投げ出すものだ。李傕に殺されても天命だ」と言い切った。
献帝はただちに皇甫酈を外へ逃がした。李傕は王昌(おうしょう)に追撃させたが、王昌は皇甫酈が忠義で正しい人物だと知っていたためわざと見逃し、追いつけなかったと報告した。
献帝は李傕を三公の上の大司馬に任命して機嫌を取り、李傕は信仰する鬼神のおかげと喜び巫女に褒美をやった。(『董卓伝』)

「演義」でも同様に李傕と舌戦を繰り広げ、献帝に逃がされる前には李傕配下に「謀叛人に味方すれば巻き添えを食うぞ」と言いふらし士気を落とした。



皇甫隆  倉慈に次ぐ敦煌太守


皇甫隆(こうほりゅう)字は不明
涼州安定郡の人(??~??)

魏の臣。

敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。
倉慈(そうじ)は太守に赴任すると、道理に沿って強きをくじき弱きを助け復興を遂げた。

後任の太守の王遷(おうせん)は倉慈の統治を見習ったが及ばず、その次の太守の趙基(ちょうき)は王遷にも及ばなかった。

当地では田作りの知識が少なく、灌漑は不効率で、種まき器も無かった。趙基の後を受け着任した皇甫隆は、最新鋭の農具や灌漑技術を持ち込み、労力を半分に抑え、収穫を5倍に増やした。
また習俗で婦人の袴の裾が非常に長く、一着で綿布一匹を使用していたため、それを禁止させたところ、節約された費用は計り知れなかった。

人々は剛毅で決断力に富む点では倉慈に及ばないが、勤勉で愛情と恩恵があり、下民のために利益をもたらしたことでは倉慈に次ぐと皇甫隆を評価した。(『倉慈伝』)



広楽郷君  甄皇后(曹芳)の母


広楽郷君(こうらくきょうくん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹芳の最初の皇后である甄皇后の母。

243年に娘が立后されると、夫の甄像(しんぞう)は既に死去していたため、母に広楽郷君の位が授けられた。(『甄皇后伝』)



谷利  孫権を二度救った側近


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国淵  岩の上にも数年


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国泰  国淵の子


国泰(こくたい)字は不明
青州楽安国蓋県の人(??~??)

魏の臣。
国淵(こくえん)の子。

「王沈魏書」に曰く。
国淵の没後、曹操は子の国泰を郎に任じた。(『国淵伝』)

「王沈魏書」に曰く。
220年、曹丕はすでに没していた国淵らの功績を改めて採り上げ、遺児を郎中に登用させた。(『文帝紀』)



骨進  田豫に不意打ちで粛清された烏丸王


骨進(こつしん)
烏丸の人(??~??)

烏丸の王。

凶暴狡猾で魏に恭順しなかった。
田豫(でんよ)は国境外の巡察中に100騎ほどで集落に立ち寄り、骨進は拝伏して出迎えたが、田豫はすぐさま斬り殺させた。そして罪悪を数え上げると配下らは恐れおののき誰も抵抗できず、骨進の弟が代行にされた。異民族は肝をつぶし田豫の名は砂漠に轟き渡った。(『田豫伝』)

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