三国志 け 1


圭泰  曹爽に逆らい司馬岐に弁護される


圭泰(けいたい)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

魏の臣。

曹爽(そうそう)が魏の実権を握っていた頃、圭泰はその意向に逆らったため拘留された。
曹爽の取り巻きの鄧颺(とうよう)は訊問し、処刑しようとすると、廷尉正の司馬岐(しばき)は彼を「国と王を支えるべき人物が、私怨で無実の人を処罰すれば、民は不安に陥る」と非難した。
鄧颺は恥と怒りから退室し、身の危険を悟った司馬岐は病気を理由に辞職し、1年経たないうちに35歳の若さで没してしまった。(『司馬芝伝』)

圭泰のその後は不明だが頼みの綱の司馬岐が辞職した以上、無事ではあるまい。



児孝徳  許靖に曹操の台頭を教える


児孝徳(げいこうとく)字が孝徳か
出身地不明(??~??)

後漢の臣?

許靖(きょせい)が曹操へ送った手紙に曰く。
許靖は会稽太守の王朗(おうろう)に身を寄せていたが、孫策に侵攻され袁沛(えんはい)・鄧子孝(とうしこう)とともに交州へ逃げた。
南海を越え、領主の児孝徳から曹操が献帝を推戴したと聞くと、袁沛・徐元賢(じょげんけん)とともに中原へ戻ろうとしたが蒼梧郡で蛮族に襲われ徐元賢が殺された。(『許靖伝』)



児尋  華佗のカルテ―外側が強いほう


児尋(げいじん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

太尉府の役人の児尋と李延(りえん)は頭痛と熱に苦しみ、華佗(かだ)は「児尋には下剤を与え、李延には汗をかかせよ」と命じた。同じ症状なのになぜ処方が違うのか聞かれると「児尋の体質は外側が強く、李延は内側が強い」と答え、翌朝には治った。(『華佗伝』)



児禅  軻比能とともに朝貢した丁零の大人


児禅(げいぜん)
丁零の人(??~??)

丁零(モンゴル北部の遊牧民)の大人(王)。

231年、鮮卑王の軻比能(かひのう)は配下や児禅を引き連れて幽州へ向かい、魏へ名馬を献上した。(『明帝紀』)



邢挙  閻柔に殺された烏丸校尉


邢挙(けいきょ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

閻柔(えんじゅう)は若い頃に捕虜となり鮮卑・烏丸族のもとへ連行されたが(カリスマ性があり?)異民族の崇敬を集めた。
鮮卑の協力を得て烏丸校尉の邢挙を殺し、地位を奪った。
袁紹は閻柔を厚遇することで鮮卑・烏丸の安定を図った。(『烏丸伝』)



邢顒  曹植に仕えた曹丕派


邢顒(けいぎょう)字は子昂(しこう)
冀州河間郡鄚の人(??~223)

魏の臣。

孝廉に推挙され、司徒から招聘されたが応じなかった。姓と字を変えて右北平に移住し、避難民を集め中立勢力を保っていた田疇(でんちゅう)を頼った。
5年後、曹操が冀州を制圧すると、邢顒は彼こそ乱世を収める人物だと言い、率先して協力を願い出た。
冀州従事となり人々は「徳行堂々たる邢子昂」と讃えた。

だが広宗県長の時、旧主の喪に服すため官を棄てた。告発されたが曹操は「旧主に細やかな感情を持ち、終始変わらぬ節義を抱いている」と問題にしなかった。
改めて司空掾に招かれ、行唐県令として治績を上げ、丞相門下督から左馮翊の長官になったが、病気でまた官を辞した。

当時、曹操の子らは属官を選ぶにあたり「邢顒のような法を深く理解する人物を登用せよ」と命じていた。
邢顒は曹植(そうしょく)の家丞として復帰したが、礼を持って取り締まり言いなりにならなかったため、不仲だった。
劉楨(りゅうてい)は曹植へ「邢顒と比べれば私は同僚になる価値すらありません。ところがあなたは劉楨の春の花の如き華やかさを採り上げ、邢顒の秋の実りの如き誠実さを忘れています」と邢顒を重用するよう諌めた。

曹丕と曹植の間で後継者争いが起こっていた時、曹操に意見を求められると、暗に曹丕を勧めた。
曹植のもとを離れ丞相府で軍事に参与し、東曹掾を経て太子少傅、太子太傅として曹丕に仕えた。

220年、曹丕が即位すると侍中・尚書僕射となり関内侯に封じられた。司隷校尉、太常を歴任し223年に没し、子の邢友(けいゆう)が後を継いだ。
曾孫の邢喬(けいきょう)も晋の司隷校尉に上った。(『邢顒伝』)

陳寿は徐奕(じょえき)・何夔(かき)とともに「厳格さを尊重し、その時代の名士となった」と評した。

「演義」には登場しない。



邢氏  女中に殺される


邢氏(けいし)名は不明
出身地不明(??~259)

魏の三代皇帝・曹芳の側室。

254年に曹芳が廃立されると離縁された。
257年、呉の宗室の孫壱(そんいつ)が魏へ亡命すると、魏は大歓迎し車騎将軍に任じ、邢氏を妻に与えた。

邢氏は美貌だったが嫉妬深く、家人に厳しく当たったため恨まれており、259年に邢氏は夫の孫壱もろとも女中に殺されてしまった。(『邢顒伝』)



邢貞  孫権を呉王に封じた尊大な使者


邢貞(けいてい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

213年、魏が建国された後、程昱(ていいく)は衛尉となったが、中尉の邢貞と威儀を争い免職された。(『程昱伝』)

221年、太常の邢貞が節を授かり孫権の使者となり、大将軍・呉王に取り立てた。(『文帝紀』)

「呉書」に邢貞の役職は使持節・太常・高平侯と記される。(『呉主伝』)

孫権は自ら都の外まで邢貞を出迎え、邢貞も威張りくさった。
張昭(ちょうしょう)が腹を立て、徐盛(じょせい)も憤激し「我々が身命を賭して国のために尽くし、魏や蜀を併呑できなかったから、主君に邢貞などと盟約を結ばせてしまったのだ。恥ずかしいことだ」と滂沱の涙を流した。(『徐盛伝』)

邢貞は呉の宮城の門内でも車を降りなかった。
張昭に「礼において常に敬を忘れないからこそ法が間違いなく行われるのだ。それなのにあなたは尊大に構えておられる。江南は意気地なしで一寸の刃も無いと思っているのか」と説かれ、あわてて車から降りた。(『張昭伝』)

邢貞は徐盛・張昭の反応を見聞きし「将や宰相がこんなふうでは、呉はいつまでも他人の下に付いてはおるまい」と危惧した。(『徐盛伝』)

「演義」でも徐盛・張昭に咎められ、後の災いを危惧したことが描かれる。



邢友  邢顒の子


邢友(けいゆう)字は不明
冀州河間郡鄚の人(??~??)

魏の臣。
邢顒(けいぎょう)の子。

223年に父が没すると後を継いだ。
孫の邢喬(けいきょう)は晋の司隷校尉に上った。(『邢顒伝』)



炅母  呂虔の罠に掛かった賊徒


炅母(けいぼ)字は不明
東海郡襄賁県の人(??~200)

賊徒。

200年、劉備が蜂起すると昌豨(しょうき)はそれに呼応し、東海郡で挙兵した。
付近の郡県も応じ数万の軍勢に膨れ上がったが、すぐに撃破された。(『武帝紀』・『先主伝』)

襄賁校尉の杜松(としょう)に仕える炅母も反乱した。
曹操は杜松と呂虔(りょけん)を交代させた。呂虔は炅母ら反乱の首謀者を数十人招き酒宴を催した。全員が酔ったのを確認すると、伏兵に殴り殺させた。その配下はいたわったため服従した。(『呂虔伝』)



倪顗  苛酷で著名な刺史・太守達B


倪顗(げいぎ)字は不明
豫州魯郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かった。(『梁習伝』)



倪太守  管輅の占術―雨予報


倪太守(げいたいしゅ)名は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
太守は役職で名は不明。

管輅(かんろ)は清河太守の倪太守を訪ねた時、日照りが続いておりいつ雨が降るか聞かれ「今夜です」と答えた。その日は陽射しが強く雨の降る気配は全く無く、居合わせた役人達も的中しないだろうと思った。しかし夜を告げる太鼓が鳴ると途端に激しい雨が降り出し、倪太守は管輅を手厚くもてなした。

「管輅別伝」に曰く。
管輅は時刻をはっきりと予告し、倪太守はどうしても信じられなかった。道理を説かれても納得せず、役所の丞と清河県令(※徐季龍(じょきりゅう)か)を呼び「雨が降れば200斤の牛肉をごちそうするが、振らなければ10日間逗留してもらう」と言い、管輅は「ご出費をお掛けすることになるでしょう」と言った。
日暮れになっても雲すら湧かず彼らは嘲笑ったが、管輅は雨の予兆を次々と指摘し、やがて豪雨となった。
倪太守はなおも「まぐれ当たりだ」とからかったが管輅は「まぐれでも天の変化とぴったり合ったならそれはそれで巧みではありませんか」と返した。(『管輅伝』)



奚熙  デマに踊らされた男


奚熙(けいき)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

269年、陸凱(りくがい)は遺言で、奚熙が小役人でありながら厳密(げんみつ)のように干拓を建議しているが許可しないよう求めた。(※厳密の干拓は大失敗した)(『陸凱伝』)

中書令の奚熙は賀恵(がけい)を讒言した。徐粲(じょさん)が事実か調査すると、奚熙は「徐粲は賀恵の肩を持ち裁断を引き伸ばしている」とさらに讒言した。
孫皓は激怒し徐粲を処刑させ、賀恵を投獄した。たまたま恩赦があり賀恵は解放された。

274年、会稽郡で孫奮(そんふん)が帝位につくという噂が流れた。
臨海太守の奚熙はこれを受け会稽太守の郭誕(かくたん)に手紙を送り国政を非難した。
郭誕はこの手紙を孫皓へ報告したが、流言は報告しなかったため逮捕された。
何植(かしょく)が奚熙の逮捕に向かうと、奚熙は兵を集め海路を遮断し抵抗したが、部下に裏切られ殺された。首は都に送られ、一族皆殺しにされた。(『孫皓伝』)

「江表伝」には別の経緯が記される。
孫皓は寵愛する張氏(ちょうし)が没すると豪奢な葬儀を行い、喪に服し半年も姿を見せなかった。そのため人々は孫皓の葬儀だったと思い、顔の似た甥の何都(かと)が(影武者として)即位したと噂した。
奚熙はこの噂を真に受けて何都を討とうと挙兵した。何植が討伐し、奚熙を一族皆殺しにし、デマは下火になったが払拭までは行かず、人々は心中に疑いの念を残した。

陳寿も「何氏は権勢をほしいままにし、そのため人々は呉末期に「孫皓は死んでおり何氏の子弟が皇帝に成り代わっている」というデマまで流した」と記しており、この件のことだろう。(『孫和何姫伝』)



嵆康  竹林の七賢・隠者


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恵衢  袁術に(勝手に)任命された揚州刺史


恵衢(けいく)字は不明
徐州琅邪郡の人(??~??)

袁術の臣。

劉繇(りゅうよう)は揚州刺史に任命されたが、役所のある寿春は袁術に占拠されており勢力争いを繰り広げた。
袁術は配下の恵衢を勝手に揚州刺史に任じ対抗した。(『孫策伝』)



嵆喜


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嵆昭  嵆康の父


嵆昭(けいしょう)字は子遠(しえん)
豫州譙国銍県の人(??~??)

魏の臣?
嵇喜(けいき)・嵆康(けいこう)の父。

「嵆氏譜」に曰く。
督軍治書侍御史となった。(『王粲伝』)

嵆康は早くに父を失った。(『晋書 嵆康伝』)



嵆紹


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敬哀皇后  劉禅の皇后(姉)


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景養


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京兆長公主


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郤延登  郤詵の子


郤延登(げきえんとう)字が延登か
兗州済陰郡単父県の人(??~??)

晋の臣。
郤詵(げきしん)の子。

州の別駕まで上った。(『晋書 郤詵伝』)



郤嘉  王思とだいたい同じ


郤嘉(げきか)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

曹丕の代に同じく貧しい出自から昇進した薛悌(せつてい)・王思(おうし)とほぼ同等の官位に上り、薛悌は儒者に近く大まかな統治で評判を取り、郤嘉と王思は政治も行動もよく似ていたことから「薛悌は混じり気があり、郤嘉と王思は混じり気なしの役人である」と評され、揃って関内侯に封じられた。

なお王思は「魏略」の「苛吏伝(ブラック官吏伝)」に収録されているが、郤嘉に黒いエピソードは無い。(『梁習伝』)



郤晞  郤詵の父


郤晞(げきき)字は不明
兗州済陰郡単父県の人(??~??)

魏の臣?
郤詵(げきしん)の父。

尚書左丞を務めた。
子の郤詵も尚書左丞を経て雍州刺史に上り「晋書」に列伝された。(『晋書 郤詵伝』)



郤倹  曹植も認めた飢えない男


郤倹(げきけん)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

方術士。
出身地は「武帝紀」には(揚州廬陵郡)陽城県、「華佗伝」には潁川郡と記される。

「博物志」に曰く。
曹操は道家の養生の法に詳しく、方術士の左慈、華佗(かだ)、甘始(かんし)、郤倹らを招いた。(『武帝紀』)

曹丕の「典論」に曰く。
穀断ちができ、茯苓(キノコ)を服用した。人々は彼ら方術士を見習い、郤倹がやってくると茯苓の値段が数倍になった。李覃(りたん)は彼を見習い茯苓と冷水だけを服用し、下痢で死にかけた。

曹植(そうしょく)の「弁道論」に曰く。
「曹操は左慈・甘始・郤倹らを招き、みな300歳になると公言していた。彼らを宮廷に集めたのは人心を惑わさないようにするためで、我ら一家は父(曹操)や兄(曹丕)ともどもお笑い草だと信じていなかった。
だから甘始らの待遇には限度があり、俸禄は役人に及ばず、褒美も与えなかった。
私は郤倹を試すため百日の穀断ちをさせ、ともに起居して観察したが、普段となんら変わらなかった。不老不死かはわからないが、飢え死にはしないようだ」(『華佗伝』)



郤倹  悪政により黄巾賊に殺された郤正の祖父


郤倹(げきけん)字は不明
司隸河南尹偃師県の人(??~188)

後漢の臣。
郤揖(げきしゅう)の父。郤正(げきせい)の祖父。

188年頃、益州刺史を務めたが、でたらめな租税を課したため非難され、流言飛語が遠方まで届いていた。
劉焉(りゅうえん)はかねてから乱世の到来を予見し、地方の長官として赴任したいと考えていたが、董扶(とうふ)に「益州に天子の気がある」と勧められたこともあり、益州牧への赴任を希望し認められた。
その際に霊帝は詔勅で「前刺史の劉雋(りゅうしゅん)・郤倹はいずれも貪婪・放埒で、賄賂を受け取りでたらめを極めていた。民は頼りにするものもなく怨嗟の声が野に満ち満ちている」と語った。

劉焉は郤倹の逮捕を命じられ益州へ向かったが、道が閉ざされており荊州に留まった。
益州では馬相(ばしょう)と趙祇(ちょうし)ら賊徒が黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。
郤倹は殺害され、黄巾賊は1万を超えたが、賈龍(かりゅう)によって討伐され、劉焉が迎え入れられた。(『劉焉伝』)

その後、都では董卓が台頭し大混乱に陥ったため、子の郤揖は帰郷せず益州に留まった。
孫の郤正は「蜀書」に列伝される重臣となった。(『郤正伝』)



郤揖  孟達とともに魏へ投降した郤正の父


郤揖(げきしゅう)字は不明
司隸河南尹偃師県の人(??~??)

劉焉(りゅうえん)、後に蜀、魏の臣。
郤倹(げきけん)の子。郤正(げきせい)の父。

父は益州刺史を務めたが、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれ、188年に蜂起した馬相(ばしょう)と趙祇(ちょうし)ら黄巾賊に殺害された。(『劉焉伝』・『郤正伝』)

その後、都では董卓が台頭し大混乱に陥ったため、子の郤揖は帰郷せず益州に留まった。
益州牧の劉焉、劉璋(りゅうしょう)に仕えたと思われる。

219年、孟達(もうたつ)は関羽を見殺しにしたため劉備に恨まれ、魏へ投降した。郤揖は彼の営都督を務めていたため、ともに投降し、中書令史となった。

没年は不明だが子の郤正が若い頃に没したと記される。
郤正は益州に残り「蜀書」に列伝される重臣となった。(『郤正伝』)



郤詵  林の一枝、山の一石


郤詵(げきしん)字は広基(こうき)
兗州済陰郡単父県の人(??~??)

晋の臣。
郤晞(げきき)の子。

博学多才で並外れて優れ、、細かいことにとらわれなかった。州や郡からの招聘に応じなかった。
268年、司馬炎が賢良直言の士を推挙せよと詔勅を下し、済陰太守の文立(ぶんりつ)が郤詵を推挙した。
対策(論文)が上級と評価され議郎に任じられたが、母が没し喪に服すため官を辞した。(※晋書にはその対策が収録される)

母は棺を乗せる車は不要だと遺言したが、生前は家に車が無いことを嘆いていたため、郤詵は3年の服喪の間に鶏やニンニクの育成法を極め尽くして金を貯め、馬8頭立ての車を用意した。
そして自ら土を運び墳墓を造っていたが、完成しないうちに征東参軍に招聘された。さらに尚書郎、車騎従事中郎と昇進していった。

崔洪(さいこう)の推挙で父の郤晞と同じ尚書左丞に上った。だが崔洪が職務で罪を犯すと遠慮なく訴えたためはじめは恨まれたが、郤詵は私心無く正しいことをしただけだと言い、崔洪も恥じ入った。(『晋書 郤詵伝』)

司徒の魏舒(ぎじょ)は老齢になり病と称して引退を願い出て、病床に伏したが、兗州中正を兼任すると任地に赴き、やがてまた病床に戻った。
尚書左丞の郤詵は「病床にあったのに回復すると務めを果たしたのは立派です。しかし都合よく寝起きする(仮病を使う)のはあなたを仰ぎ慕う人々の心を失わせ、長年の徳望をたやすく放棄する、なんとも惜しいことです」と非難したが、魏舒は構わず病と称し続けた。(『晋書 魏舒伝』)

昇進を重ね雍州刺史に上った。
送別会の席で司馬炎が「栄転になりどう思う」と問うと「私は試験で主席でした。それと比べれば林の一枝、山の一石(と同じありふれた無価値なもの)です」と答え、司馬炎は笑うしかなかった。
不敬だとして罷免を求める声も上がったが、司馬炎は「二人でたわむれただけだ」と問題にしなかった。

雍州刺史として威厳あり明確な判断をし、なかなかの名声を得た。在職のまま没した。
子の郤延登(げきえんとう)は州の別駕まで上った。(『晋書 郤詵伝』)



郤正  劉禅晩年のお守役


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闕機  弥加・素利らとともに厚遇された鮮卑の大人


闕機(けつき)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の大人(指導者)。
厥機(けつき)とも書かれる。

鮮卑の王の檀石槐(だんせきかい)は支配地を中東西の3部に分け、東部は弥加(びか)・闕機・素利(そり)・槐頭(かいとう)ら大人が支配した。
彼らの支配域は長城の外で遠く離れていたため国境を荒らすことは全く無かったが、軻比能(かひのう)よりも配下は多かった。
建安年間(196~220)、閻柔(えんじゅう)を通じて中原に交易を求め、曹操は王位を与えるなど厚遇した。
闕機が没すると子の沙末汗(さまつかん)が立てられ親漢王に封じられた。(『鮮卑伝』)



闕宣  天子を自称した下邳の賊徒


闕宣(けつせん)字は不明
徐州下邳郡の人(??~??)

賊徒。
「後漢書 陶謙伝」では姓を閻宣(えんせん)と書かれるが誤記である。

193年、数千人の軍勢を集め、天子を自称した。
徐州牧の陶謙(とうけん)は闕宣と手を結んで挙兵し、泰山郡・任城国へ侵攻した。
曹操は反撃し徐州へ侵攻し、翌年に撤退したが、間もなく父の曹嵩(そうすう)を陶謙に殺され、復讐に乗り出すことになる。(『武帝紀』)

陶謙ははじめ闕宣と手を組んで略奪を働いたが、後に殺して軍勢を奪った。(『陶謙伝』)



阮瑀  建安七子にして阮籍の父


阮瑀(げんう)字は元瑜(げんゆ)
兗州陳留郡尉氏県の人(??~212)

魏の臣。
阮籍(げんせき)の父。建安七子の一人。
「王粲伝」に附伝される。

若い頃に蔡邕(さいよう)に師事した。
建安年間(196~220)のはじめ、曹洪(そうこう)が書記に招いたが病と称しどうしても応じなかった。
曹操に陳琳(ちんりん)とともに司空軍謀祭酒に任命され、記室を担当した。軍事・国政に関する文書や檄文はこの二人が多くを作った。
陳琳は門下督に、阮瑀は倉曹掾属に移った。

「文士伝」に曰く、阮瑀は曹操の招きに応じず、山中に逃げた。曹操は山に火を放ち、阮瑀を捕まえさせた。その時、曹操は長安を討伐し宴会を開いていたが、阮瑀に腹を立てていたため、芸人の中に入れさせた。阮瑀は琴が得意だったため即興で作曲し、朗々と歌い上げて曹操を喜ばせた。

だが裴松之は「阮瑀は曹洪の招きは仮病で断ったが、曹操の招聘には杖を捨てて即座に応じたとある。山を焼かれてやっと出てきたわけがない。また208年の荊州討伐の際に劉備に与えた文書や、関中討伐で韓遂(かんすい)に与えた文書は阮瑀が記したもので、今も残っている。それなのに211年に曹操が長安に入った時に阮瑀を初めて捕まえたといい、これも矛盾である。さらに212年に没した阮瑀が、即興の歌の中で213年に建国した魏の名を出していて、いよいよでたらめである」と論理的に矛盾を指摘している。

212年に没し、他の建安七子も217年までに全員が亡くなった。
彼らと親しかった曹丕は、呉質(ごしつ)に宛てた手紙の中で彼らを評し「阮瑀の書(書簡)や記(命令書)は見事で充分楽しめるものだった。彼らは過去の文人に及ばないというだけで、一時代の俊才である」と振り返った。(『阮瑀伝』)
先に亡くなった阮瑀については「常に一途な追慕の念が湧いてくる。いつになったら語り合えるだろうか」としのんだ。(『王粲伝』)
また曹丕は「典論」の中でも「現在、文学者と呼べるのは孔融(こうゆう)ら(建安七子の)七人である。陳琳と阮瑀の章・表・書・記は現在の傑作である」と称えた。(『阮瑀伝』)

魚豢(ぎょかん)は王粲(おうさん)らが才能に比してあまり出世しなかったことを疑問に思い、韋誕(いたん)に質問した。韋誕は「阮瑀は病弱だった」など彼らの欠点を一言で表すとともに「出世しなかった理由はあるが、君子は一人の身に完全さを要求しない。朱の漆のようなもので、どっしりとしてはいないが、その光沢はやはり見事だ」と評した。(『王粲伝』)

「魏略」では王粲・陳琳・阮瑀・路粋(ろすい)の四人が当時の代表的な文学者として並び称される。(『楊俊伝』)

子の阮籍は竹林の七賢として知られる。(『阮瑀伝』)



阮柯  阮武の慎み深い後継ぎの甥


阮柯(げんか)字は士度(しど)
兗州陳留郡の人(??~??)

晋の臣。
阮炳(げんへい)の子。

「兗州記」に曰く。
伯父の阮武(げんぶ)が没すると子が無かったのか、兄の阮坦(げんたん)が後を継いだ。
阮坦も没すると通常なら次弟が後を継ぐはずだが、父は下の子の阮柯を寵愛したため、幼少ながら後を継がせた。
長じると阮柯はそれを悔やみ、隠者の頭巾をかぶって暮らし、生涯に渡り脱がなかった。
篤実にして静寂上品な人柄で、礼を好み決して外れず、経典の研究に専念し広い学識を持っていた。
濮陽王(ぼくようおう)の文学に選ばれ、領軍長史に上り、没した。
領軍将軍の王衍(おうえん)は哭礼の際に心から泣いたという。(『杜畿伝』)



阮咸  竹林の七賢・放蕩な甥


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阮氏  許允の聡明な妻


阮氏(げんし)名は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣の許允(きょいん)の妻。

聡明だが容貌は醜く、それを知らずに結婚した許允は愕然とし、妻の部屋に入ろうともしなかった。
ある時、許允のもとを桓範(かんはん)が訪ねると、彼なら招き入れてくれるだろうと考え、夫の部屋に押しかけた。
許允はすぐに出て行こうとし、引き止める阮氏に「お前は妻が持つ4つの徳をいくつ持っている」と問答を仕掛けた。
阮氏は「婦容(容姿)が欠けているだけです。あなたは男の持つ百行をいくつお持ちですか」と返し、全て持っているとうそぶく夫を「百行の筆頭は徳です。しかしあなたは色(美人)を好み徳は好みません」とやり込めた。
妻の聡明さに気付いた許允は恥じ入り、仲睦まじく尊敬し合う間柄となった。

許允が郡太守の任命権を司っていた時、皇帝の曹叡は公平ではないと疑念を抱き彼を呼び寄せた。
一報を聞いた阮氏は裸足で飛び出し、夫に「名君には情にすがっても無駄だから道理で説き伏せるように」と助言を与えた。
許允は書類の届く順序が前後しただけだと弁明し、納得した曹叡は怒りを収め、許允の服が破れているのに気付くと「清廉である」と褒め新しい服を与えた。

254年、夫の友人の李豊(りほう)・夏侯玄(かこうげん)が司馬師の暗殺に失敗し処刑されたが、許允には鎮北将軍への昇進が知らされた。
許允は助かったと喜んだが、阮氏や彼の甥は「災難が目に見えている」と憂えた。
はたして許允は逮捕され流刑が決まった。悲報が届いても阮氏は顔色一つ変えず、配下が子供達を逃がすよう勧めても必要はないと聞かなかった。

夫は流刑先に赴く途中に没し、墓前に引っ越した遺族を、司馬師は鍾会に命じて偵察させた。
阮氏は二人の息子へ「お前たちは才能豊かというほどではない。思ったままに話し、あまり悲しまず、余計なことは言わず、少し朝廷の様子を質問すればいい」と助言した。
司馬師は息子らが優秀なら逮捕するよう命じていたが、鍾会の報告を聞くと殺すまでもないと考え、放置した。

母の叡智で難を逃れ、元康年間(291~299)に長男の許奇(きょき)は司隷校尉に、次男の許猛(きょもう)は幽州刺史にまで上った。(『夏侯尚伝』)



阮諶  阮武の父


阮諶(げんしん)字は士信(ししん)
兗州陳留郡の人(??~??)

隠者。

生涯に渡り出仕せず、天子や高官の招聘にも応じなかった。
「三礼図(礼書の衣冠や施設等を図示したもの)」を著し世間に伝わった。

子の阮武(げんぶ)は魏に仕え清河太守まで上った。(『杜畿伝』)



阮籍  竹林の七賢・泥酔


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阮坦  阮武の後を継いだ甥


阮坦(げんたん)字は弘舒(こうじょ)
兗州陳留郡の人(??~??)

魏の臣。
阮炳(げんへい)の子。

伯父の阮武(げんぶ)が没すると子が無かったのか、甥の阮坦が後を継いだ。
晋代に太子少傅・平東将軍に上った。

阮坦も没すると通常なら次弟が後を継ぐはずだが、父は下の子の阮柯(げんか)を寵愛したため、幼少ながら後を継がせた。
長じると阮柯はそれを悔やみ、隠者の頭巾をかぶって暮らし、生涯に渡り脱がなかったという。(『杜畿伝』)



阮武  杜恕に執筆を勧める


阮武(げんぶ)字は文業(ぶんぎょう)
兗州陳留郡の人(??~??)

魏の臣。
阮諶(げんしん)の子。

闊達で落ち着きがあって奥ゆかしく、広い学識を持っていた。(『杜畿伝』)

侍中の盧毓(ろいく)が昇進する際、曹叡(そうえい)は自ら後任を選ばせた。盧毓は鄭沖(ていちゅう)を推挙したが曹叡は「聞いたこともない者を選べ」と言い、改めて孫邕(そんよう)と阮武を推挙し、孫邕が選ばれた。(『盧毓伝』)

249年、失脚した杜恕(とじょ)の欠点を指摘し「時間ができたのだからじっくり思索し独創的な見解をまとめなさい」と助言した。
その際に阮武も召喚されて廷尉に出頭したとあり、何か罪を得ていたらしい。官位はその時の清河太守が最高位と記され、杜恕と同じく復帰は叶わなかったのだろうか。

没すると子が無かったのか、甥の阮坦(げんたん)が後を継いだ。(『杜畿伝』)



阮炳  阮武の弟


阮炳(げんへい)字は叔文(しゅくぶん)
兗州陳留郡の人(??~??)

魏の臣。
阮諶(げんしん)の子。

河南尹に上った。
医術に熱心で「薬方」を著した。

兄の阮武(げんぶ)が没すると子が無かったのか、阮炳の子の阮坦(げんたん)が後を継いだ。

阮坦も没すると通常なら次弟が後を継ぐはずだが、阮炳は下の子の阮柯(げんか)を寵愛したため、幼少ながら後を継がせた。
長じると阮柯はそれを悔やみ、隠者の頭巾をかぶって暮らし、生涯に渡り脱がなかったという。(『杜畿伝』)



圏文生  衛茲のケチな友人


圏文生(けんぶんせい)字が文生か
兗州陳留郡の人(??~??)

後漢の臣?

衛茲(えいじ)は20歳の頃、同郷の圏文生とともに盛徳を称えられた。
郭泰(かくたい)が二人と市場に行った時、衛茲は商品を値段通りに買い、圏文生はケチを付けて値切らせた。
郭泰は「この二人は兄弟というよりも親子だ」と語り、後に圏文生は金銭欲で名声を損ない、衛茲は節義によって名を残した。(『武帝紀』)



牽嘉  牽招の子


牽嘉(けんか)字は不明
冀州安平郡観津県の人(??~??)

魏の臣。
牽招(けんしょう)の子。

母は「晋書」に列伝される李胤(りいん)と同じで、李胤を生んだ後に離縁され、牽招に嫁いだ。(『公孫度伝』・『牽招伝』)

「晋陽秋」に曰く。
李敏(りびん)の子ははぐれた父を探して20年以上も放浪し、妻もめとらなかった。同郷の徐邈(じょばく)は「後継ぎが無いことほど親不孝なことはない」とさとし結婚させたが、彼は息子の李胤が生まれるとすぐに妻を離縁し、まるで服喪中のように暮らし数年で亡くなった。
李胤に両親の記憶はなく、物心つくと粗衣粗食をし、父と同じく服喪中のように3年暮らした。(『公孫度伝』)

牽嘉は父が没すると後を継いだが早くに亡くなった。
子の牽秀(けんしゅう)は「晋書」に列伝された。(『牽招伝』)



牽弘  禿髪樹機能に殺される


牽弘(けんこう)字は不明
冀州安平郡観津県の人(??~271)

魏の臣。
「魏書」に列伝される牽招(けんしょう)の次男。

勇猛果敢で父の風格を受け継ぎ、父と同じく隴西太守を務めた。(『牽招伝』)

263年、鄧艾・鍾会の蜀征伐に従った。
鄧艾は王頎(おうき)に姜維を攻撃させ、牽弘に待ち伏せさせた。姜維は鍾会が漢中に向かったと聞き撤退したが、牽弘らは追撃し敗走させた。
蜀を制圧した鄧艾は勝手に人事を取り仕切り、牽弘らに益州の諸郡の太守を兼任させた。(『鄧艾伝』)

その直前、蜀の杜軫(としん)は蜀郡太守へ「制圧されれば必ず魏の臣が後任となり、あなたは排除されます。今すぐ逃げてください」と言い、太守を逃した。はたして牽弘が蜀郡に現れ、杜軫が「前の太守はあなたを受け入れるために進んで官舎を出ました」と言うと、牽弘は喜び追おうとしなかった。杜軫も評価され功曹に任じられたが、辞退した。(『晋書 杜軫伝』)

その後、鍾会が反乱し鄧艾・姜維と共倒れした。(『鄧艾伝』)

牽弘は生き延び、咸熙年間(264~265)に振威将軍となった。(『牽招伝』)

やがて揚州刺史に上った。
陳騫(ちんけん)は牽弘と秦州刺史の胡烈(これつ)を評し「勇猛だが思慮分別に欠け、自信過剰で辺境を安定させられる人材ではない。やがて国の恥となる失敗を犯すでしょう」と司馬炎に進言した。
司馬炎はそれを牽弘と陳騫が不仲で、お互いにそしっているのだろうと考え、牽弘を涼州刺史に異動させるだけで済ませた。
陳騫は必ず災いを招くと嘆息し、271年に鮮卑の禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)の反乱で牽弘・胡烈が戦死するという最悪の形で危惧は的中した。司馬炎は陳騫の話を真剣に聞くべきだったと大いに後悔した。(『晋書 陳騫伝』・『晋書 胡奮伝』)

「演義」には父は登場しないが牽弘は登場。蜀征伐で諸葛瞻(しょかつせん)を破り綿竹関を陥落させた。



牽秀


未作成



牽招  鮮卑対策は俺に任せろ


牽招(けんしょう)字は子経(しけい)
冀州安平郡観津県の人(??~??)

魏の臣。

10代で同郷の楽隠(がくいん)に師事し、彼に従い都に出仕した。
189年、何進(かしん)の暗殺を契機に宦官が一掃された際に、乱に巻き込まれ楽隠も死亡した。
牽招は棺を連れて帰郷しようとしたが、その途上で山賊に襲われた。門下の者が一斉に逃げる中、牽招は一人残り、見逃してくれるよう泣いて頼んだ。山賊たちはその意気に打たれて見逃してやり、以来、牽招の名は広く知られるようになった。

袁紹に招かれ督軍従事・烏丸突騎となった。袁紹の配下が罪を犯した時、牽招は先に処刑してから報告したが、袁紹はそれを評価した。
袁紹没後は子の袁尚(えんしょう)に仕えた。
204年、曹操に鄴が包囲されると牽招は兵糧を届けたが、帰還中に袁尚軍が撃破された。袁紹の甥の高幹(こうかん)に救援要請に向かったところ、曹操への降伏を考えていた高幹は邪魔な牽招を殺そうとしたため逃亡し、道も遮断され袁尚に合流できず、やむなく曹操に降った。曹操は冀州刺史を兼任すると、牽招を従事に任じた。

袁譚(えんたん)に与する烏丸の蘇僕延(そぼくえん)の説得のため、かつて烏丸突騎を務めた経験から牽招が派遣されると、たまたま公孫康(こうそんこう)も蘇僕延を懐柔しようと狙い韓忠(かんちゅう)を派遣しており、論戦となった。牽招は腹を立て韓忠を斬り捨てようとしたが、蘇僕延が仲裁に入り、曹操方につくことで場を収めた。
この強硬な姿勢が功を奏したのか、後に公孫康も曹操に降伏している。

牽招は軍謀掾となり(結局反乱した)烏丸征伐に従軍し、護烏丸校尉に任じられた。
(207年、公孫康によって)袁尚とその兄の袁煕(えんき)が殺され、首級が送られてくると、かつての主君として牽招は祭祀を行った。曹操は事前に弔う者は処罰するとうたっていたが、牽招の義理堅さを認め、かえって茂才に推挙するなど重用した。

漢中征伐でも活躍し、戦後には中護軍として防衛の任を担った。
後に都に上り平虜校尉になり、都督青徐州諸軍事として東方を任され、東來の反乱を鎮圧した。

曹丕の代になると使持節護鮮卑となり、鮮卑の監督を任された。当時、辺境の住民は山を流亡したり、鮮卑の支配下に入ったりし、その居住地は4桁に上っていたが、牽招は恩愛と信義をもって統治したため、彼を慕い鮮卑の十数万もの部落が帰順した。

曹丕は呉征伐のため牽招を召還したが、取りやめて右中郎将に任命し、雁門太守へ赴任させた。(『牽招伝』)

田豫(でんよ)が持節護烏丸校尉となり、牽招・解儁(かいしゅん)とともに鮮卑を監督した。(『田豫伝』)

雁門郡は異民族に国境を侵されていたが、牽招は住民に戦闘訓練を施し、当地の烏丸の租税を免除して味方につけ、鮮卑に離間策を仕掛け同士討ちさせた。
鮮卑の歩度根(ほどこん)・泄帰泥(せつきでい)らが3万もの部落を引き連れ帰順したため、彼らを指揮し、従わない軻比能(かひのう)らを撃破した。
そして民に学問を受けさせ教化し、治水を行いインフラを整えた。

曹叡の代に関内侯に封じられた。
228年、田豫が軻比能の大軍に包囲されると、規定を無視し自ら兵を率いて救出した。
かねてから軻比能が蜀軍と連携しており、それに備えるよう上奏したが、都の人々は信じなかった。
だが諸葛亮は軻比能と同盟して動き出し、朝廷はあわてて牽招に討伐を命じたが、すでに軻比能は撤退していた。

牽招は并州刺史の畢軌(ひつき)と相談し「鮮卑は住居を定めないから動きが早く、逃げられれば追いつけない。奇襲しようにも道が険阻で、秘密裏に兵站を行えない。そこで国境の外に兵を置き、屯田させて連携して戦おう」と策を練ったが、そのさなかに病没した。

12年にわたり雁門太守を務め、辺境統治では田豫に次ぐ評価を得た。
後任の傅容(ふよう)は牽招の統治を見習い、後に遼東へ転任した時も経験を活かし治績を上げた。

子の牽嘉(けんか)が後を継ぎ、その子の牽秀(けんしゅう)は「晋書」に列伝された。(『牽招伝』)
次男の牽弘(けんこう)は勇猛で涼州刺史として鮮卑と戦ったが、271年に敗死した。(『晋書 陳騫伝』)

陳寿は田豫とともに列伝し「道義を守ること壮烈で、威光と功績は顕著だったが、田豫は刺史、牽招は太守どまりだったのは、その働きを充分に役立てられなかったと言えよう」と評した。

「演義」に牽招は登場しないが、子の牽弘は蜀征伐で活躍している。



厳維


未作成



厳凱


未作成



厳幹  鍾繇に言い負かされる


厳幹(げんかん)字は公仲(こうちゅう)
司隷左馮翊郡東県の人(??~??)

魏の臣。

出身地には名家が無かったが、同郷の李義(りぎ)とともに重厚な人柄をうたわれ名を上げた。厳幹は剣術を、李義は葬儀の仕切りを好んだ。
戦乱を避けて人々が移住して行く中、二人は薪を採って生活し、やがて馮翊郡が分割されると、李義の提案で出身の西部ではなく東部の郡に仕えた。
はじめ司隷校尉に招聘されたが断り、郡に孝廉で推挙され県令となり、病気で官を辞したがやがて議郎として州に仕えた。

206年、反乱した高幹(こうかん)を捕らえる策を出し、郭援(かくえん)の討伐にも功績があったため武郷侯・弘農太守となった。
211年、馬超が反乱すると弘農郡は前線に近かったため民衆は逃げ散ったが、鎮圧されると漢陽太守に転じた。
ついに益州刺史に上ったが、劉備に制圧されたため赴任できず、黄初年間(220~226)に五官中郎将となった。

曹叡(そうえい)の代に永安宮(皇太后の宮殿)の太僕となり、数年後に没した。
生没年は不明だが190年頃に20余歳だったと記される。

司隸が戦乱に揺れた頃、厳幹は学問を志し「春秋公羊伝」を愛好した。鍾繇(しょうよう)は「春秋左氏伝」を愛好し「左氏が宮廷のコックなら公羊は町の餅売りだ」とこき下ろしたためしばしば二人は論戦となった。
鍾繇は頭の回転が速く、論陣を張るのが上手かったが、厳幹は弁舌に優れず言い負かされてばかりだった。
鍾繇が「公羊はついに左氏に屈服した」と喜ぶと、厳幹は「元の部下が上司に負けただけで、公羊はまだ頭を下げていません」と返したという。

厳幹は「魏略」で李義ら十人で列伝された。裴松之は高潔さでは徐庶(じょしょ)と厳幹がこの時代を代表する人物だとし、龍の如き意志を持っていたわけではないだろうに、どうしてこの境地にまで達したのだろうかと称賛している。(『裴潜伝』)



厳顔  頑固一徹


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厳匡  王必とともに戦う


厳匡(げんきょう)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

魏の臣。

218年、金禕(きんい)や吉本(きつほん)らは曹操の留守をつき都で反乱した。
だが留守をあずかる王必(おうひつ)の殺害に失敗し、さらに金禕の家人の勘違いにより首謀者が金禕だと露見してしまうと、王必は典農中郎将の厳匡とともに反撃に乗り出し、謀叛人を一網打尽にした。

王必はその際の傷がたたり間もなく没したが、厳匡のその後は不明である。(『武帝紀』)



厳昕  華佗のカルテ―急病が起こる顔


厳昕(げんきん)字は不明
徐州広陵郡塩瀆県の人(??~??)

素性不明。

厳昕が訪ねてくると華佗(かだ)は顔を見るなり「身体が悪くないか」と聞いた。厳昕は何も変わらないと言ったが「急病が起こると顔に出ている。酒を多く飲まないように」と忠告した。帰り道で厳昕は目眩を起こして車から落ち、その晩のうちに亡くなった。(『華佗伝』)



厳圭  常雕を討ち取る


厳圭(げんけい)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

223年(※朱桓伝には222年と記される。222年に始まり223年に終戦か)、曹仁は常雕(じょうちょう)・曹泰(そうたい)・王双(おうそう)・諸葛虔(しょかつけん)を率い濡須を攻めた。
守る朱桓(しゅかん)は曹泰と対陣して焼き討ちを掛け、駱統(らくとう)・厳圭の別働隊に常雕を攻撃させ、常雕を討ち取り王双を捕らえ、撤退させた。(『呉主伝』・『朱桓伝』・『駱統伝』)

「演義」では朱桓が自ら常雕を討ち取るため登場しない。



厳敬  楽進に討ち取られる


厳敬(げんけい)字は不明
出身地不明(??~202?)

袁紹の臣。

202年頃、黎陽の戦いで楽進(がくしん)に敗れ戦死した。(『楽進伝』)

「袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)との戦で大将の厳敬を斬り」と記されるが他に事績がなく袁譚・袁尚のどちらの配下なのかは不明である。



厳綱  貴重な公孫瓚配下


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厳綱  廖式に殺された臨賀太守


厳綱(げんこう)字は不明
出身地不明(??~239)

呉の臣。

239年、将軍の蔣秘(しょうひ)は南方の異民族を討伐した。
蔣秘配下の都督の廖式(りょうしょく)は、臨賀太守の厳綱を殺して勝手に平南将軍を名乗り、弟の廖潜(りょうせん)とともに零陵・桂陽郡を攻めた。交州・蒼梧・鬱林郡にも波及し数万人の勢力に膨れ上がったが、呂岱(りょたい)・唐咨(とうし)らに討伐され1年余りで全て撃破された。(『呉主伝』)

「呂岱伝」に詳細が記される。
廖式の反乱は零陵・蒼梧・鬱林郡の情勢を不穏にした。呂岱は上表して自ら出陣を求め、許可を待たずに討伐に向かった。孫権は追認して交州牧を与えるとともに唐咨らを後詰めに送った。
1年余りで全て討伐し、廖式が勝手に任命した臨賀太守の費楊(ひよう)も斬り、配下を自軍に組み入れて都へ帰還した。(『呂岱伝』)



厳才  王脩を引き立てる反乱


厳才(げんさい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣?

都で数十人で反乱を起こした。王脩(おうしゅう)は変事を聞き車馬を用意させたが、待ち切れず徒歩で宮門に駆けつけた。曹操は遠くからそれを見て「あれは王脩に違いない」と言った。
鍾繇(しょうよう)は「しきたりでは宮城に変事があれば九卿は役所にいることになっている」と苦言を呈したが、王脩は「しきたりは危難に駆けつける道義に反します」と意に介さなかった。(『王脩伝』)

他に記述がなく反乱の顛末は不明だがおそらく処刑されただろう。



厳峻  房中術を学ぶ宦官


厳峻(げんしゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の?宦官。

曹丕の「典論」に曰く。
仙人の左慈は房中術に優れ、人々は争って教えを請い、宦官の厳峻さえ必要もないのに学んだ。
曹丕は「流行を追う人々はこんな風にまでなるのだ」と皮肉った。(『華佗伝』)



厳畯  分をわきまえた男


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