三国志 か 2


華緝  華歆の弟


華緝(かしゅう)字は不明
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

魏の臣。
華歆(かきん)の弟。

黄初年間(220~226)、華歆の領邑から分割し列侯された。(『華歆伝』)



華諝  父の華融とともに殺される


華諝(かしょ)字は不明
徐州広陵郡江都の人(??~257)

呉の臣。
華融(かゆう)の子。

257年、呉の実権を握った孫綝(そんちん)は、意に沿わない呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)を除くため、呂拠へ討伐軍を出し、滕胤には華融と丁晏(ていあん)を送り、武昌に駐屯するよう命じた。
滕胤は陰謀を察知し、華融と丁晏を捕らえ、孫綝を批判する手紙を書かせた。
孫綝は手紙を無視し滕胤の城を包囲させた。滕胤は今度は孫綝討伐を命じる詔勅を偽造させようとしたが、華融らは従わなかったため殺してしまった。

長男の華諝は黄門侍郎を務めていたが、父とともに殺された。
次男の華譚(かたん)は無事で、呉の滅亡後は晋に仕えた。(『孫綝伝』)



華佗  神医


個別ページへ



華澹  華歆の最も有名な(?)孫


華澹(かたん)字は玄駿(げんしゅん)
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

晋の臣。
華表(かひょう)の五男。
華歆(かきん)の孫。

「晋諸公賛」に曰く。
兄弟で最も有名で河南尹に上った。(『華歆伝』)

「最も有名」と記されるが兄の華廙(かよく)・華嶠(かきょう)が「晋書 華表伝」に附伝される一方で華澹の記述は格段に少ない。
子の華軼(かいつ)も晋書に列伝される。



華譚  華融の次男


華譚(かたん)字は不明
徐州広陵郡江都の人(??~??)

呉・晋の臣。
華融(かゆう)の子。

弁論に巧みで名声があった。

257年、呉の実権を握った孫綝(そんちん)は、意に沿わない呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)を除くため、呂拠へ討伐軍を出し、滕胤には華融と丁晏(ていあん)を送り、武昌に駐屯するよう命じた。
滕胤は陰謀を察知し、華融と丁晏を捕らえ、孫綝を批判する手紙を書かせた。
孫綝は手紙を無視し滕胤の城を包囲させた。滕胤は今度は孫綝討伐を命じる詔勅を偽造させようとしたが、華融らは従わなかったため殺してしまった。
長男の華諝(かしょ)も父とともに殺された。

次男の華譚は無事で、呉の滅亡後は晋に仕え秘書監となった。(『孫綝伝』)



華当


未作成



華博  華歆の次男


華博(かはく)字は不明
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

魏の臣。
華歆(かきん)の次男。

甥の華嶠(かきょう)の「譜叙」に曰く。
3県の内史を歴任し優れた治績を上げた。(『華歆伝』)



華表  華歆の清廉な後継ぎ


華表(かひょう)字は偉容(いよう)
冀州平原郡高唐県の人(204~275)

魏・晋の臣。
華歆(かきん)の長子。

20歳で散騎郎、次いで黄門郎となり昇進を重ね侍中に上った。(『晋書 華表伝』)

子の華嶠(かきょう)の「譜叙」に曰く。
20余歳で散騎常侍となった。尚書の事務を担当し、同僚は若く名声栄誉を求め、文書に誤りを見つけてもわざと見過ごし、後からそれをつついたが、華表だけは見過ごさずにすぐさま議論した。相手が話を聞かないと共同で意見を具申し、その姿勢を陳羣(ちんぐん)らは称えた。

231年、父が没すると後を継いだ。(『華歆伝』)

清河太守の時、高名な占術師の管輅(かんろ)を文学掾に招いた。
「管輅別伝」に曰く。
趙孔曜(ちょうこうよう)は「あなたは古の賢者にも並ぶ才能を持つのに、どうして郡で留まっているのか。冀州刺史の裴徽(はいき)殿は聡明で、老荘にも詳しい。私も目を掛けられているから、あなたを推挙しよう」と申し出て、管輅は裴徽に招聘された。(『管輅伝』)

「王沈魏書」に曰く。
254年、曹芳の廃位を求める上奏に博平侯として連名した。
廃位されると侍中の華表らが使者となり、曹髦を帝位に迎え入れた。(『斉王紀』)

正元年間(254~256)のはじめ、石苞(せきほう)が曹髦を「曹操の生まれ変わり」と称えるのを聞き、災禍を察知して汗をかいた。病と称して官を辞したため、曹髦殺害の難を逃れた。
後に列曹尚書となり、五等爵が設立されると観陽伯に封じられた。皇帝の葬儀で不手際があり罷免された。

泰始年間(265~275)、太子少傅、光禄勲、太常を歴任した。数年後に高齢と病を理由に引退を申し出ると、司馬炎は「清廉貞節、純真で老成である。長く職務に怠ることなく励み、上奏文はこの上なく心がこもっている」と称え、太中大夫に任じ引退を認めた。
節操を曲げないことで名声を得た。(『晋書 華表伝』)

「譜叙」に曰く。
清潔淡泊で名声を求めず、常に身の引き際を考え、李胤(りいん)・王弘(おうこう)らは「華表のような人物は貴い身分にも卑しい身分にもできない。親しくも疎遠にもなれない」と称賛した。(『華歆伝』)

275年に没した。享年72。
康と諡された。

華表の病が篤くなると長男の華廙(かよく)は無断で家に帰って看病し、没すると埋葬が終われば職務復帰する規定を無視して慣例通りに服喪を行った。
華表は生前、華廙や鬲県令の袁毅(えんき)と結託し、鬲県に住まわせた賓客の登録違反を犯した。袁毅は後に贈賄で逮捕されたが盧毓(ろいく)の縁戚だったため(※華廙の妻は盧毓の娘)、この件については自分の独断だと主張した。
しかし荀勗(じゅんきょく)はかつて華廙の娘をめとろうとしたのを断られた恨みから、服喪違反と登録違反を合わせて問題とし、「袁毅の贈賄を受けた者は数多く全員を処罰できないから、最も親しかった華廙のみを見せしめで処罰すべきだ」と提言した。
かくて華廙は罷免され封邑も削られた。
さらに爵位も奪われたが後に大赦で元に戻された。(『晋書 華表伝』)

「譜叙」に曰く。
華廙・華嶠・華澹(かたん)ら3人の子はいずれも高名だった。(『華歆伝』)

6人の子がおり華廙・華嶠は「華表伝」に附伝される。(『晋書 華表伝』)



華雄  ザコ武将は俺に任せろ


個別ページへ



華融  滕胤に従わず殺される


華融(かゆう)字は徳蕤(とくずい)
徐州広陵郡江都の人(??~257)

呉の臣。

祖父の代に戦乱を避けて江南に移住し山の麓に居を構えた。
当時、皇象(こうしょう)も同地に住んでおり、張温(ちょうおん)は皇象のもとで学問するにあたり、住まいを探し、「立派な志を持つ若者がいる」と華融を紹介された。
張温は華融の家に間借りし、朝夕にわたり論談を交わした。

その後、孫権に招聘された張温は選部尚書になり、華融を太子庶子に抜擢し、これにより華融の名は知られるようになった。(『孫綝伝』)

241年、太子の孫登(そんとう)は遺言で「范慎(はんしん)・華融は勇敢で断固とした節操を持ち国士の風がある」と評した。(『孫登伝』)

257年、呉の実権を握った孫綝(そんちん)は、意に沿わない呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)を除くため、呂拠へ討伐軍を出し、滕胤には侍中・左将軍を務める華融と、丁晏(ていあん)を送り、武昌に駐屯するよう命じた。
滕胤は陰謀を察知し、華融と丁晏を捕らえ、孫綝を批判する手紙を書かせた。
孫綝は手紙を無視し滕胤の城を包囲させた。滕胤は今度は孫綝討伐を命じる詔勅を偽造させようとしたが、華融らは従わなかったため殺してしまった。

長男の華諝(かしょ)も父とともに殺されたが、次男の華譚(かたん)は無事で、呉の滅亡後は晋に仕えた。(『孫綝伝』)



華廙  華歆の政争に巻き込まれた孫


華廙(かよく)字は長駿(ちょうしゅん)
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

晋の臣。
華表(かひょう)の長子。
華歆(かきん)の孫。
「晋書 華表伝」に附伝される。

「晋諸公賛」に曰く。
文筆の才能があり、尚書令・太子少傅を歴任した。(『華歆伝』)

温厚かつ鋭敏で学問と道徳を具えていた。岳父の盧毓(ろいく)が人事を担当していたため縁戚の華廙は35歳になっても登用されず、さらに歳を重ねようやく(盧毓が没した257年を過ぎ?)中書通事郎になった。(『晋書 華廙伝』)

「管輅別伝」に曰く。
占術師の管輅(かんろ)とは年若く同郷でもあり親密で、華廙は陳承祐(ちんしょうゆう)に「管輅の占術の一例を弟の管辰(かんしん)が列伝に著したが、重要なものだけでもその3倍はある。管辰は文才がなく、若いし田舎にずっと住んでいたからよく知らないのだ」と語った。
また「管輅の占いは百発百中ではなく当たるのは7~8割だった。その理由を問うと、道理としては間違わないが、依頼者が事実を全て伝えないから外れるのだと言っていた」と伝えた。
さらに華廙の妻(盧毓の娘)が病に何年も倒れた時、管輅は「東方から医者がやって来る。治療ができると言うから任せなさい」と占った。間もなく家の近くにある厩舎に役人が赴任し、盧毓を訪ね「お嬢様を治せます」と言った。彼は医術の心得があり妻を治したという体験談や、他の逸話を教えた。(『管輅伝』)

泰始年間(265~275)のはじめ、冗従僕射に移った。若い頃から司馬炎に礼遇され、黄門侍郎、散騎常侍、前軍将軍、侍中、南中郎将、都督河北諸軍事を歴任した。

父の華表の病が篤くなると無断で家に帰って看病し、275年に没すると埋葬が終われば職務復帰する規定を無視して慣例通りに服喪を行った。
華表は生前、華廙や鬲県令の袁毅(えんき)と結託し、鬲県に住まわせた賓客の登録違反を犯した。袁毅は後に贈賄で逮捕されたが同じ盧毓の縁戚だったため、この件については自分の独断だと主張した。
しかし荀勗(じゅんきょく)はかつて華廙の娘をめとろうとしたのを断られた恨みから、服喪違反と登録違反を合わせて問題とし、「袁毅の贈賄を受けた者は数多く全員を処罰できないから、最も親しかった華廙のみを見せしめで処罰すべきだ」と提言した。
かくて華廙は罷免され封邑も削られた。

何遵(かじゅん)は爵位も奪い、華廙の子の華混(かこん)に後を継がせるべきだと訴えたが、封邑を削った上にさらに奪えば二重処罰に当たると反論された。
司馬炎は「華廙はまだ(服喪中で)爵位を継いでおらず二重処罰には当たらない。私は汚職を罰しただけなのに諸君は意図を理解できず無駄に議論している」と言い、華廙の廃嫡を裁定した。爵位継承を支持した者は罷免は逃れたが罰金刑となった。
華混は狂い、口が利けなくなったふりをして爵位を受け継がず、人々に称えられた。

華廙は隠棲し、10年に渡り子や孫を教育した。経書を講義し「善文」を著し広く世に伝わった。
陳勰(ちんきょう)とともに豚を育てているのを偶然見かけた司馬炎はひどく哀れみ、華廙が丁寧に手入れした田畑を見ると、現役時の手腕を思い出した。

太康年間(280~289)のはじめ、大赦により爵位を継いだ。
城門校尉、左衛将軍を歴任し数年後に中書監となった。(『晋書 華廙伝』)

任愷(じんがい)は賈充の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
任愷には庾純(ゆうじゅん)・張華(ちょうか)・温顒(おんぎょう)・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)が味方し、賈充には楊珧(ようちょう)・王恂(おうじゅん)・華廙が肩入れし派閥争いが起こった。

政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)

290年、司馬炎は危篤に陥ると、楊駿(ようしゅん)と司馬亮(しばりょう)に後事を託そうとした。だが楊駿は中書監の華廙を通じて詔勅を手に入れると、それを秘匿した。
華廙は恐れおののき返還を要求したが、楊駿は拒絶し、娘で皇后の楊芷(ようし)に、楊駿へ後事を託すよう司馬炎へ勧めさせた。
そして華廙・何劭(かしょう)に遺詔を作らせ、一人で実権を握った。(『晋書 司馬亮伝』・『晋書 楊駿伝』)

同年、司馬衷が帝位につくと侍中・光禄大夫を加えられ、尚書令となり爵位が公に進んだ。
楊駿に招聘されたが時間内に戻れず罷免された。
太子少傅に移り、散騎常侍を加えられた。常に礼典を遵守し人々を教導した。高齢で病が重くなると医者を遣わされ、光禄大夫・開府・儀同三司に上った。
韓寿(かんじゅ)が義姉の賈南風(かなんぷう)皇后に仲介を頼み、華廙の孫の華陶(かとう)に娘を嫁がせようとしたが断ったため、賈南風に恨まれ三公には上れなかった。

75歳で没し元公と諡された。(『晋書 華廙伝』)



賀恵  奚熙に讒言され死にかける


賀恵(がけい)字は不明
揚州会稽郡山陰の人(??~??)

呉の臣。
賀景(がけい)の子で、賀邵(がしょう)の弟。
賀斉(がせい)の孫にあたる。

奚熙(けいき)は宛陵県令の賀恵を讒言した。徐粲(じょさん)が事実か調査すると、奚熙は「徐粲は賀恵の肩を持ち裁断を引き伸ばしている」とさらに讒言した。
孫晧は激怒し徐粲を処刑させ、賀恵を投獄した。たまたま恩赦があり賀恵は解放された。(『孫晧伝』)



賀景  賀邵の父


賀景(がけい)字は不明
揚州会稽郡山陰の人(??~??)

呉の臣。
賀斉(がせい)の子。

兄の賀達(がたつ)とともに優れた将として評判を取った。
滅賊校尉に任じられ、配下を厳格かつ思いやりある統率をした。部隊の兵器は完全に整備され、並ぶ者がないほどだった。
若くして没した。(『賀斉伝』)

子の賀邵(がしょう)は「呉書」に列伝されるほどの名臣だが、孫晧に恨まれ殺された。(『賀邵伝』)



賀質  賀達の子


賀質(がしつ)字は不明
揚州会稽郡山陰の人(??~??)

呉の臣。
賀達(がたつ)の子。賀斉(がせい)の孫。

虎牙将軍に上った。(『賀斉伝』)



賀邵  孫晧に殺された賀斉の孫


賀邵(がしょう)字は興伯(こうはく)
揚州会稽郡山陰県の人(227~275)

呉の臣。
賀景(がけい)の子で、賀斉(がせい)の孫にあたる。

孫休の代に散騎中常侍となり、呉郡太守を務めた。(『賀邵伝』)また駙馬都尉に任じられた。(『王蕃伝』)

孫晧の代になると、左典軍・中書令に昇進し太子太傅を兼ねた。
暴虐な孫晧を諫言し、重税や徴兵で疲弊した民が反乱しており、過去に学び徳を積み、行いを正さなければ国は滅亡すると上奏した。(※賀邵伝はほぼこの上奏だけで占められている)
暴君の孫晧には届かず、かねてから直言をはばからない賀邵や楼玄(ろうげん)を佞臣たちは煙たがっていたため、讒言し楼玄を流刑に、賀邵を免職に追いやった。

賀邵は後に復職したが、中風にかかり話せなくなったため辞職した。孫晧は仮病と思い、拷問に掛けさせたが、賀邵は話せず弁解できないまま275年、49歳で獄死した。

遺族は臨海郡に流され、先に没していた楼玄の遺族は殺された。
280年、呉が滅亡すると遺族は帰郷を許された。

子の賀循(がじゅん)は学問に長じ、東晋の建国に尽力し祭祀の制定を一手に引き受けたという。(『賀邵伝』)

269年、陸凱(りくがい)は遺言で「楼玄・賀邵らは国家の良き補佐となる者たち」と推薦した。(『陸凱伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で呉末期のまだ健全だった時代の政治を担った一人と記した。(『孫晧伝』)

薛瑩(せつえい)は「常に志高く、重要な職務を果たした」と言い、胡沖(こちゅう)は楼玄・王蕃(おうはん)と並べ、甲乙つけ難いがあえて言えば楼玄が最も優れ、賀邵が次ぐと評した。
陳寿は以上の評を踏まえ「政治の乱れた時代に高位にあれば、非業の死を遂げたのは不思議ではない」と述べている。(『賀邵伝』)



賀循


未作成



賀斉  反乱軍を瞬殺してまわる


個別ページへ



賀達  公孫淵への使者を護衛


賀達(がたつ)字は不明
揚州会稽郡山陰の人(??~??)

呉の臣。
賀斉(がせい)の子。

弟の賀景(がけい)とともに優れた将として評判を取った。
賀達は我が強く、しばしば掟に背いたため、軍功を上げながらついに爵位は与えられなかった。
しかし物惜しみせず意気に感じて行動し、果敢で決断力を備えた様は、抜きん出たものだった。(『賀斉伝』)

232年、呉は海路から遼東の公孫淵(こうそんえん)のもとへ張弥(ちょうび)、許晏(きょあん)、賀達ら1万の兵を送り、燕王の位を授けようとした。(『呉主伝』)

一方で公孫淵は魏とも通じており、遠方の呉は当てにならないと考え、233年、呉の使者の張弥、許晏らを殺し、魏へ首を送り恭順の意を示した。

賀達は虞咨(ぐし)とともに船を守っていたため無事だった。
公孫淵は伏兵を潜ませ、柳遠(りゅうえん)に出迎えさせ、交易をしようと持ちかけた。賀達らは異変を察知し、商人だけを船から下ろそうとしたが、伏兵の韓起(かんき)に襲われ、被害を受けた。(『公孫淵伝』)

戦死したとは記されず、無事に帰国したようで、子の賀質(がしつ)も将軍位に上った。(『賀斉伝』)



賀輔


未作成



軻比能  鮮卑の大人


個別ページへ



蛾遮塞  羌族の皇帝戦士


個別ページへ



賈逵  不朽の名臣


個別ページへ



賈栩  賈詡と間違われがち


賈栩(かく)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「漢晋春秋」に曰く。
231年、司馬懿は諸葛亮の北伐軍と対峙したが戦おうとしなかった。賈栩・魏平(ぎへい)らは「あなたは蜀を虎のように恐れているが世間の笑いものになったらどうするのか」と開戦を迫った。
司馬懿は難儀した末に、張郃に攻撃させ大勝した。(『諸葛亮伝』)

「吉川三国志」では賈翔(かしょう)と誤記か改名させられた。
「横山三国志」では賈詡と誤記される。なお有名な賈詡は223年に没している。
他の創作でも賈詡本人と誤認されたり、某乙女ゲーに至っては賈詡が賈栩と書かれてしまっている。



賈詡  曹操を最も苦しめた策士


個別ページへ



賈原


未作成



賈洪  馬超に人生を狂わされる


賈洪(かこう)字は叔業(しゅくぎょう)
司隷京兆郡新豊県の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
学問好きで才能があり特に「春秋左氏伝」に詳しかった。
建安年間(196~220)のはじめ、郡に計掾に取り立てられ、州に招聘された。州には100余人の顧問がいたが、賈洪と厳苞(げんほう)だけが高い才能学識を持っていた。
3つの県令を歴任し、いずれも厩舎を改築して学舎とし自ら教鞭を執った。

211年、反乱した馬超は賈洪を脅し檄文を書かせた。鍾繇(しょうよう)はそれを読み賈洪が作ったと見抜いたという。
馬超が討伐されると曹操に軍謀掾に招かれたが、反乱者に加担し檄文を書いたために官位には就けなかった。

晩年にようやく陰泉県長に任命され、220年、曹彪(そうひょう)の白馬国相となった。
曹彪は学問好きだったため賈洪を師と仰ぎ、三卿(国の三大臣)より厚遇した。
数年で病没した。50余歳だった。人々は官位が2千石(太守クラス)に上らなかったことを惜しんだ。
「魏略」は賈洪ら7人を儒学の宗家とし、当代稀な真に学問を修めた人々と称賛している。(『王朗伝』)

なお曹彪が白馬王になったのは226年のことであり矛盾している。(『楚王彪伝』)



賈氏  鍾繇の後妻


賈氏(かし)名は不明
出身地不明(??~??)

鍾繇(しょうよう)の正室。

鍾会の記した母の伝記に曰く。
側室の孫氏(そんし ※実際には正室)は身分高く正室に代わって家事を取り仕切り、鍾会の母で賢明な張氏(ちょうし)を嫌い遠慮なく悪口を言った。孫氏は口が達者で濡れ衣を着せるのが得意だったが、張氏は陥れられなかった。
張氏が身ごもるといよいよ嫉妬し、食事に毒を混ぜた。誰の仕業か気付いたがなぜ黙っているのか聞かれた張氏は「正室と側室が傷つけ合うのは古来より戒められています。公(鍾繇)に訴えてたとえ信じてもらえても、証拠はありません。しかし孫氏は私が訴えると考え、先手を打って公に話すでしょう。自ら罪を暴くとは痛快ではないですか」と答えた。
はたして孫氏は「張氏が男子を欲しがっていたので、男子をもうける薬を飲ませただけです」と弁解したが、鍾繇は「こっそり食事に混ぜるのは人情から外れている」と言い、協力者を尋問し白状させ、孫氏を離縁した。鍾繇もなぜ訴えなかったのかいぶかり、先の張氏の言葉を聞くと驚き、ますます賢明だと思った。
225年に鍾会が生まれ、いよいよ寵愛は増した。
賈氏を正室としてめとった。(『鍾会伝』)

裴松之は「鍾繇は年老いていたが正室をめとった。「礼記」に本家の嫡男は70歳になっても正妻がいなければならないと記されているから建前のためだろう」と推測する。

「ちくま版」の訳者は、正室の孫氏が側室と記されるなど、張氏を美化するためかなりいいかげんなことが書かれていると指摘する。



賈充  司馬一族の懐刀


個別ページへ



賈習


未作成



賈信  曹操に留守を任される


賈信(かしん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

203年、曹操は袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)を破って黎陽を占拠し、許昌へ帰還する際に留守を賈信を任せた。(『武帝紀』)

「王沈の魏書」に曰く。
曹操が馬超を討伐した時、曹丕が留守をあずかり、程昱(ていいく)がそれを補佐した。
河間郡で田銀(でんぎん)・蘇伯(そはく)が反乱すると、将軍の賈信が討伐し、賊徒1千人が降伏した。
誰もが旧法に照らして処刑すべきだと言ったが、程昱は「乱世ならば包囲後に降伏した者は許さず、包囲前に降伏すべきだと外敵を脅すことは重要だが、今は治世であり、しかも領内で反乱した者を脅してもしかたない」と反対し、処刑するにしても曹操の指示を仰ぐべきだと述べた。
軍事では専断が許されるとなおも反論されたが、程昱は「賊徒は賈信の手中にあり、専断で決定するほどの緊急事態ではない」と言い、曹丕も同意して曹操の判断を仰いだが、やはり処刑しなかった。
曹操は帰還すると「君は軍事に明るいだけではなく、私と曹丕の父子の仲も上手くさばいてくれる」と程昱を褒めた。(『程昱伝』)



賈琮  交州と冀州を治めた清廉な能吏


賈琮(かそう)字は孟堅(もうけん)
兗州東郡聊城県の人(??~??)

後漢の臣。

孝廉に挙げられ、昇進して京県令となり治績を上げた。(『後漢書 賈琮伝』)

古くから交趾(交州)は多くの宝石や美木を産出する肥沃な土地で、歴代の交趾刺史は私腹を肥やし、誰もが赴任したがり民には恨まれた。
184年、反乱により交趾刺史と合浦太守の来達(らいたつ)が捕らえられ、首謀者は柱天将軍と自称した。霊帝は対処できる能吏を選抜させ、賈琮が後任の交趾刺史となった。(『後漢書 賈琮伝』・『後漢書 霊帝紀』)

赴任した賈琮は反乱軍の主張を聞き、彼らは徴税が重すぎて民は困窮し、しかし都から遠く窮状を訴えることもできないから仕方なく盗賊になったと話した。
賈琮は資産を奪うことのないよう告示させ、土地を耕し、労役を減らし、悪党を退治し、良吏に諸県を守らせた。1年ですっかり平定すると人々は「賈父が遅れてやって来て、我らを以前とは反対にしてやろうと言う。清く平和になったのを見て官吏は誰も貪らない」と歌った。
3年の統治で交趾は13州のうちで最良とうたわれるようになり、議郎として都に呼び戻された。

当時、黄巾の乱が治まったばかりで兵乱により郡県は重税にあえぎ、不正がはびこっていた。詔勅により改めて能吏を選抜し、賈琮は冀州刺史に赴任した。(『後漢書 賈琮伝』)

「続漢書」に曰く。
同時に劉虞(りゅうぐ)・劉焉(りゅうえん)・劉表(りゅうひょう)が州牧に任命された。
いずれも清廉と天下に評判を取った人物で、元の位階のまま就任した。(『劉焉伝』)

旧例では刺史は馬車に赤い布(カーテン)を垂らすことになっていたが、賈琮は「刺史は遠くを見て、広く聞き、善悪を判断するものなのになぜカーテンでそれを塞ぐのか」と言い、御者にそれをまくらせた。
噂を聞いた悪党は震え上がり、汚職官吏は自ら官を辞して逃げた。(清廉な)県長の董昭(とうしょう)と黄就(こうしゅう)だけが辞任せず出迎え、冀州は自然にまとまった。

189年、霊帝が崩ずると大将軍の何進(かしん)は上表して賈琮を度遼将軍とした。在官中に卒した。(『後漢書 賈琮伝』)



賈南風  最もやりたい放題した女


個別ページへ



賈範  諫言した地味な方


個別ページへ



賈彪


未作成



賈輔  鍾会の反乱に加担しなかった中領軍司馬


賈輔(かほ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

264年、蜀を滅亡させた鍾会は成都で反乱し討伐された。
その時、相国左司馬の夏侯和(かこうか)と騎士曹属の朱撫(しゅぶ)は相国(司馬昭)の使者として成都に滞在していた。鍾会は夏侯和・朱撫や、配下で中領軍司馬の賈輔・郎中の羊琇(ようしゅう)に反乱に加担するよう迫ったが、4人は危険を顧みず拒絶した。
賈輔は王起(おうき)に「鍾会は凶暴で将兵をことごとく殺そうとしているが、司馬昭が30万の兵を率い既に討伐に向かっている」と誇張して話し、人々を奮い立たせようとした。王起から将兵にこの言葉が伝わったため士気が上がり鍾会は速やかに討伐された。
曹奐は詔勅を下して称え、夏侯和・賈輔を郷侯に、朱撫・羊琇を関内侯に封じた。王起も部曲の将に昇進した。(『陳留王紀』)



賈訪


未作成



賈穆  賈詡の長男


賈穆(かぼく)字は不明
涼州武威郡姑臧県の人(??~??)

魏の臣。
賈詡の長男。

賈詡はかつて曹操と敵対し、策略にも長じていたため警戒されるのを恐れ、私的な交際を持たず、子らの結婚相手には貴族の家柄を選ばなかった。

220年、曹丕が即位すると賈詡は太尉に任じられ、子の賈訪(かほう)が列侯され、賈穆は駙馬都尉に任じられた。
223年、父が没すると賈穆が後を継ぎ、各地の太守を歴任した。(『賈詡伝』)

嘉平年間(249~254)に河東太守に赴任した賈穆は、隠者の焦先(しょうせん)を訪ね、食事を出したが彼は話しも食べもしなかった。
賈穆が「国家は私をあなたの主君として遣わしたのに、あなたは話しも食べもしない。主君として不適当だから辞任しなくてはなるまい」と言うと焦先は「いやその理屈はおかしい」とだけ言った。(『管寧伝』)

没すると子の賈模(かぼ)が後を継ぎ、その子や一族は晋の高官に上った。(『賈詡伝』)



賈龍  劉焉を助け劉焉に殺される


賈龍(かりゅう)字は不明
益州蜀郡の人(??~191)

劉焉(りゅうえん)の臣。

益州刺史を務める郤倹(げきけん)は、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれていた。
188年、賊徒の馬相(ばしょう)と趙祇(ちょうし)は黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。
郤倹を殺害し、1ヶ月のうちに三郡を制圧した。馬相は天子を僭称し、勢力は十万を超えた。(※「蜀書」には5桁、「後漢書」には十余万とある)

益州従事の賈龍は犍為郡の東に駐屯し、数百人の私兵を持っていた。官民を集めて1千余りの兵を得ると、数日のうちに馬相・趙祇を撃破し、平定した。
賈龍は赴任できずにいた益州牧の劉焉を迎え入れた。(『劉焉伝』)
賈龍は校尉に任じられた。(『後漢書 劉焉伝』)

劉焉は益州で独立する野望を抱いており、張魯(ちょうろ)と結託して漢中への交通路を遮断した。さらに州内の豪族を殺して権威を高めた。(『劉焉伝』)
191年(『後漢書 劉焉伝』)、賈龍はこれに反発し、任岐(じんき)とともに劉焉を攻めたが、返り討ちに遭いともに戦死した。

「英雄記」には別の経緯が記される。
犍為太守の任岐は勝手に将軍を自称し、劉焉を攻めたが返り討ちにされた。
都の実権を握る董卓は、趙謙(ちょうけん)に軍勢を与え益州に向かわせ、賈龍を説得し劉焉を討伐させた。
だが劉焉は勇猛な青羌族に迎撃させ、賈龍を討ち取った。(『劉焉伝』)



俄何  羌族の氷帝


個別ページへ



介象


未作成



海陽哀侯  曹操の名も不明な弟


海陽哀侯(かいようあいこう)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操の弟。
名は不明。

娘が夏侯淵の長男の夏侯衡(かこうこう)に嫁いだ。(『夏侯淵伝』)

実績はこれだけで、爵位が明かされていない曹操の三弟か末弟(五男)と思われる。
「哀」と諡されていることから若くして不業の死を遂げたと思われ、父の曹嵩(そうすう)とともに殺された五男の曹徳(そうとく)だろうか。



解系  晋書に列伝されない方


解系(かいけい)字は不明
出身地不明(??~269?)

晋の臣。
解象(かいしょう)の兄。
「晋書」に列伝される解系とは別人。

269年、呉は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
陶璜(とうこう)は晋軍の董元(とうげん)配下の勇将の解系に手を焼いた。
そこで解系の弟の解象を調略し、兄へ説得の手紙を送らせるとともに、解象を自分の車に乗せ、軍楽隊を率い行進した。それを見た董元は「解象でさえこれだけ厚遇されるなら解系は必ず裏切る」と考え、殺してしまった。(『晋書 陶璜伝』)



解弘  高柔に助けられた孝行息子


解弘(かいこう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

曹叡の代の頃、親が死去した下役人は100日で服喪から復帰する規定になっていた。解弘は重病を理由に延長を願い出たが「古の孝子でもないのに毀(服喪により痩せ衰えること)などと言うのか」と曹叡は怒り、逮捕させた。
高柔は引見すると本当に痩せ衰えていたため寛大な処置を取るよう具申し、曹叡も孝行を認めた。(『高柔伝』)



解儁  田豫・牽招とともに鮮卑を監督


解儁(かいしゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

黄初年間(220~226)のはじめ、田豫(でんよ)が持節護烏丸校尉となり、牽招(けんしょう)・解儁とともに鮮卑を監督した。(『田豫伝』)



解象  晋書に列伝されない方の解系の弟


解象(かいしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。
解系(かいけい)の弟。
「晋書」に列伝される解系とは別人。

269年、呉は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
陶璜(とうこう)は晋軍の董元(とうげん)配下の勇将の解系に手を焼いた。
そこで解系の弟の解象を調略し、兄へ説得の手紙を送らせるとともに、解象を自分の車に乗せ、軍楽隊を率い行進した。それを見た董元は「解象でさえこれだけ厚遇されるなら解系は必ず裏切る」と考え、殺してしまった。(『晋書 陶璜伝』)



解𢢼  漢中征伐でラッキーパンチを喰らわせた(?)将A


解𢢼(かいひょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

215年、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)の征伐に乗り出すと、張魯の弟の張衛(ちょうえい)らは陽平関に籠城した。十余里に渡る山城が築かれており、攻略できず曹操は兵を引いた。
それを見た張衛が警戒を解くと、曹操は解𢢼・高祚(こうそ)に山越えをさせ、夜襲を仕掛けさんざんに打ち破った。(『武帝紀』)

次の異説がある。

「世語」に曰く。
兵糧が尽きたため曹操は撤退しようとし、郭諶(かくしん)が「張魯は(内心では)降伏しており、魏の使者を引き止めています。張衛だけが抵抗し孤立しており、このまま戦いを続ければ必ず勝てますが、敵中深くから撤退すれば絶対に敗北します」と反対したが、なおもためらっていた。
夜、野生の鹿が数千頭、たまたま張衛の陣地に侵入し、さらに高祚の軍が誤って張衛軍に出くわした。高祚が軍鼓を鳴らして味方を呼ぶと、張衛は大軍に急襲されたと思い込み、降伏した。

「魏臣名奏」の董昭(とうしょう)の上表に曰く。
「武帝(曹操)は撤退しようとし、夏侯惇・許褚に命じて山上の部隊を収容させようとしました。ところが兵は道に迷い、誤って張魯の陣営に入り込み、急襲されたと思い込んだ張魯軍は撤退しました。報告を受けた夏侯惇・許褚は信じられなかったが、自分の目で確かめ、制圧しました」

「魏臣名奏」の楊曁(ようき)の上表に曰く。
「武帝(曹操)は自ら十万の軍勢を率い、張衛の守備など問題にならないと考えていた。ところが漢中は天然の要害で、いくら精鋭や勇猛な将がいても手の打ちようがなかった。対峙すること3日間、ついに「挙兵して30年になるが、初めて人に(勝利を)くれてやるのはどうかな」と弱音を吐き撤退を決めたが、天運が味方し、張魯が自壊した隙をつき漢中を平定しました」(『張魯伝』)



隗禧  左氏伝に価値無し


隗禧(かいき)字は子牙(しが)
司隸京兆郡の人(??~??)

魏の臣。

出自は貧しかったが若い頃から学問を好んだ。
初平年間(190~193)に董卓の台頭を避けて荊州へ移住し、生活のため稲を育てる時以外は勉学に勤しんだ。

208年、曹操が荊州を制圧すると招聘され軍謀掾に任じられた。

黄初年間(220~226)に曹操の子の曹林(そうりん)の郎中となった。
すでに高名な儒学者として名を馳せていた隗禧に曹林は師事し、隗禧も誠意をもって教え、多くの褒美を下賜された。

隗禧は病気のため都に帰り、80歳を過ぎると引退したが、彼に教えを乞う者はその後も多かった。
経書だけではなく占星術にも明るく、ある時に天文を見て、弟子の魚豢(ぎょかん)へ「戦乱はまだまだやまない。どうすればよいのか」と嘆いた。

またある時、魚豢が春秋左氏伝について質問すると、「玄妙なことを知りたければ「易」に、人倫の掟は「礼」に、山川草木の知識は「詩経」に勝るものはない。だが「左氏伝」はただの切り貼りの書物だ。真面目に勉強する必要はない」と隗禧は一蹴した。
魚豢が「詩経」について問うと、隗禧は四家の説をほとんど暗誦してみせた。

経書の解釈を数十万字にわたり著述したが、まとめる前に耳が聞こえなくなってしまい、数年後に病没した。

「魏略」では隗禧を儒学の宗家7人の一人に挙げている。(『王朗伝』)



隗渠  冬逢の弟


隗渠(かいきょ)
蘇祁族の人(??~??)

蘇祁族の族長の冬逢(とうほう)の弟。

冬逢は蜀に降伏していたが弟の隗渠とともに再び反乱した。
張嶷(ちょうぎょく)は冬逢を誅殺したが、その妻は旄牛族の王女だったため、処罰しなかった。
隗渠は西方の国境地帯へ逃げた。剛毅かつ精悍で諸部族から恐れられており、張嶷に側近2人を偽って降伏させ情報を得てもいた。
張嶷はそれを見抜くと側近を買収して寝返らせ、彼らに隗渠を殺させた。諸部族も帰順した。(『張嶷伝』)



蒯越  荊州にその人あり


個別ページへ



蒯祺


未作成



蒯氏  孫秀の妻


蒯氏(かいし)名は不明
荊州南郡中廬侯国の人(??~??)

孫秀(そんしゅう)の妻。
祖父は劉表(りゅうひょう)に仕えた蒯良(かいりょう)。姉は司馬炎の側室。

270年、呉の孫秀は孫晧に疎まれ、晋へと亡命した。
呉の宗室に連なる有力者の寝返りとあり、司馬炎は大喜びし、義妹(妻の妹)の蒯氏を孫秀に娶らせた。
ある時、蒯氏は口喧嘩の際に夫を狢(南方の獣の意)と罵った。孫秀は激怒し口を利かなくなった。
司馬炎が「三国統一し大赦を行った。君も赦してくれないか」と仲裁し、孫秀は機嫌を直し夫婦仲は睦まじくなった。(『世説新語』)



蒯良  川の流れのように


蒯良(かいりょう)字は子柔(しじゅう)
荊州南郡中廬の人(??~??)

劉表(りゅうひょう)の臣。

劉表が荊州牧に赴任した時、周囲は敵に囲まれ、蘇代(そだい)、貝羽(ばいう)ら太守や県長も兵を頼みに命令に服さなかった。劉表は単身で宜城へ乗り込み蒯良・蒯越(かいえつ)・蔡瑁(さいぼう)らを招き対策を協議した。

劉表が「災難は今にも降りかかろうとしているが軍勢が集まらない」と悩むと、蒯良は「民が従わないのは仁愛が不足し、従っても治まらないのは信義が不足しているからです。仁義が揃えば民は水が下へ流れるように身を寄せてくるでしょう。なぜ仁義を揃える前に兵と策を尋ねるのですか?」と言った。
一方で蒯越は「治世では蒯良の言うように仁義を第一としますが、乱世では策謀を第一とします。戦の趨勢は兵力ではなく人物の優劣にかかっています。袁術(えんじゅつ)、蘇代ら周辺の勢力は取るに足らない人物です。私が世話した者も多いから利益を与えれば寝返ります。そして風紀を正せば民も兵も集まり、誰にも手出しできません」と言った。

劉表は蒯越の策に従い荊州を平定するが「蒯良の言葉は仁義を尊んだ雍季の議論で、蒯越の言葉は策謀を使った臼犯の計略だ」と双方の意見を古の名臣に例えて称賛した。(『劉表伝』)

その後、曹操に仕え(?)吏部尚書にまで上った。
また二人の孫娘は司馬炎と、呉から晋へ亡命した孫秀(そんしゅう)にそれぞれ嫁いだ。(『世説新語』)

「演義」では蒯越の兄に設定され、出身地はなぜか揚州建安郡延平に変更。孫堅を討ち取る策を立てたり、敗戦を予期したりと常に正しい戦略眼を見せた。ただ孫策から人質と孫堅の遺体の交換を持ちかけられた時「見殺しにして一気に滅ぼしましょう」と仁義の欠片も無い策を立てている。



槐頭


未作成



魁頭  歩度根の兄


魁頭(かいとう)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の大人(王)。

「王沈魏書」に曰く。
189年頃、叔父で大人の和連(かれん)が討ち死にすると、後継ぎの騫曼(けんまん)がまだ幼かったため、和連の甥(兄の子)にあたる魁頭が代わって大人の座を継いだ。
だが騫曼が成長すると魁頭との間で後継者争いが起こり、鮮卑の勢力は著しく衰えた。
魁頭が没すると弟の歩度根(ほどこん)が後を継いだが、鮮卑は衰退する一方だった。(『鮮卑伝』)



懐叙


未作成



蓋勲  董卓を最も恐れさせた男


個別ページへ



蓋順  蓋勲の子


蓋順(がいじゅん)字は不明
涼州敦煌郡文広至県の人(??~??)

後漢の臣?
蓋勲(がいくん)の子。

蓋勲は董卓に敬して遠ざけられ思い通りにできず、背中に腫瘍ができて病没した。
董卓から何も受け取らないよう遺言したが、董卓は寛容な様を示そうと宮廷の秘宝を供物として贈らせた。

蓋順は永陽太守に上った。(『後漢書 蓋勲伝』)



郝温  代郡の汚職官吏


郝温(かくおん)字は不明
幽州代郡の人?(??~??)

魏の臣。

代郡で郭端(かくたん)とともに上級官吏を務め、烏丸と結託し私腹を肥やしていた。
だが代郡太守として裴潜(はいせん)が赴任すると、兵を連れず一台の車で現れた彼の態度に感激した烏丸は服従し、勢いを得た裴潜は郝温・郭端ら十余人の汚職官吏を処刑し、民衆から熱烈な支持を受けた。(『裴潜伝』)



郝凱  郝昭の子


郝凱(かくがい)字は不明
涼州太原郡の人(??~??)

魏の臣。
郝昭(かくしょう)の子。

「魏略」に曰く。
郝昭は遺言で郝凱へ「私は将軍になり、将軍など大したものではないと知った。たびたび墓を暴いて木材を調達したから、手厚い埋葬など死者の役に立たないことも知っている。
生きている人間にだけ居場所があり、死者に居場所は無い。ここは先祖の墓から遠く離れた地だが、私が死んだら仕事着のままで、お前の好きな所に埋めるがいい」と命じた。(『明帝紀』)



郝光  司馬芝に協力した済南太守


郝光(かくこう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
荊州済南の郡太守。

当地では郡主簿の劉節(りゅうせつ)が古い家柄で役所を私物化し、千余家の子分を持ち、郡の外では強盗を働かせていた。
曹操が荊州を制圧すると司馬芝(しばし)は済南郡菅の県長として登用された。
司馬芝は劉節の配下の王同を徴兵しようとしたが、劉節を恐れて県の役人は反対した。
劉節は王同をかくまい、逆に司馬芝を徴兵失敗のかどで訴えた。県の役人は自分が王同の代わりに徴兵されようと言ったが、司馬芝は郡太守の郝光に事情を訴えると、かねてから司馬芝を信頼していた郝光は、即座に劉節を徴発した。
「司馬芝は郡主簿を兵卒にした」と州にまでその名は轟いた。(『司馬芝伝』)

 


郝氏  鍾夫人の礼、郝夫人の法


郝氏(かくし)名は不明
荊州義陽郡の人(??~??)

王湛(おうたん)の妻。

蜀から呉へ降った郝普(かくふ)の娘である。(『世説新語』)

230年、魏の隠蕃(いんばん)は呉へ投降し重用されたが、後に魏の間者と発覚し処刑された。
郝普は盛んに隠蕃を称賛し、不当に冷遇されていると朝廷に恨み言まで言っていたため孫権に自害を命じられた。(『胡綜伝』)

王湛の兄の王渾(おうこん)の妻である鍾琰(しょうえん)は鍾繇(しょうよう)の曾孫で貴族だったが、郝氏とは親しみ尊重し合った。
郝氏はへりくだらず、鍾琰も上に出ず、人々は「鍾夫人の礼、郝夫人の法」と称えた。(『晋書 王渾妻鍾氏伝』)



郝昭  その剛直さ、まさに鉄壁


個別ページへ



郝普  騙されやすい男


郝普(かくふ)字は子太(したい)
荊州義陽郡の人(??~??)

蜀、後に呉の臣。

214年、劉備が益州を制圧すると、呂蒙は手薄になった荊州へ出兵し、長沙・桂陽の二郡を降伏させたが、零陵太守の郝普は降伏勧告に応じず籠城した。
劉備と関羽の援軍が迫ると、孫権は撤退を命じたが、呂蒙はそれを秘匿すると、同行していた鄧玄之(とうげんし)に「我々は優勢で、あなたの友人の郝普は風前の灯だ。城が落ちたら彼も、百歳近い彼の母も殺される。どうか郝普に戦況を伝えて降伏させて欲しい」と頼んだ。
鄧玄之に説得され郝普は零陵の城を出た。呂蒙は潜ませていた兵にすぐさま城を確保させ、郝普を迎えると、孫権からの撤退命令を見せ大笑いした。郝普は敵軍が優勢どころか撤退寸前だったと知り、床に突っ伏して後悔した。
間もなく劉備と孫権は和睦し、郝普と零陵は返還された。(『呂蒙伝』)

その後、郝普はいつの間にか呉の臣になっている。
「季漢輔臣賛」に、荊州陥落時に呉へ降伏した糜芳(びほう)・傅士仁(ふしじん)・潘濬(はんしゅん)と列記されており、郝普も同じ経緯で呉へ降ったと考えられる。(『楊戯伝』)

230年、魏の隠蕃(いんばん)は呉に投降し、巧みな弁舌ですぐに孫権に気に入られた。
重臣の朱拠(しゅきょ)や、廷尉の郝普が隠蕃を「王者を補佐する才」と称賛したため声望を集め、人々はこぞって交際を求めた。

ところが隠蕃は魏の間者と発覚し処刑された。
彼を特に支持した朱拠と郝普は罪に問われ、朱拠は長らく禁固刑を受けた。
孫権は郝普を「あなたは盛んに隠蕃を称賛し、不当に冷遇されていると朝廷に恨み言まで言った。隠蕃の罪はあなたに責任がある」と問責し、自害を命じた。(『胡綜伝』)

娘の郝氏(かくし)は王渾(おうこん)の弟に嫁いだ。(『世説新語』)

王渾の妻の鍾琰(しょうえん)は鍾繇(しょうよう)の曾孫で貴族だったが、郝氏とは親しみ尊重し合った。
郝氏はへりくだらず、鍾琰も上に出ず、人々は「鍾夫人の礼、郝夫人の法」と称えた。(『晋書 王渾妻鍾氏伝』)



郝萌  頭隠してなまり隠さず


個別ページへ



郭彝  胡昭を推挙した尚書B


郭彝(かくい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

正始年間(240~249)、尚書の黄休(こうきゅう)・郭彝、荀顗(じゅんぎ)や庾嶷(ゆぎ)ら多くの重臣が隠者の胡昭(こしょう)を推挙した。

「高士伝」によると後に荀顗・黄休・庾嶷が再び推挙したが、ちょうど胡昭は亡くなった。(『管寧伝』)



郭昱  郭皇后(曹丕)の兄弟達


郭昱(かくいく)字は不明
冀州安平郡広宗県の人(??~??)

魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の姉。
両親は郭永(かくえい)と董氏(とうし)。

「王沈魏書」に曰く。
5人兄妹で、以下に事績を列記する。
長男の郭孚(かくふ)は高唐の令となった。
長女の郭昱は嫁ぎ孟武(もうぶ)を生んだ。
次女の郭皇后は184年に生まれ、彼女の名だけが不明。
次男の郭都(かくと)、三男の郭成(かくせい)は特に事績がなく、兄弟いずれも早逝したため従兄の郭表(かくひょう)が家督を継いだ。

長女の郭昱は230~235年頃に没し、子の孟武は手厚く弔おうとしたが、質素を重んじた郭皇后に止められた。
235年に郭皇后も没し、翌年に郭孚へ梁里亭戴侯、郭都へ武城亭孝侯、郭成へ新楽亭定侯がそれぞれ追贈された。(『文徳郭皇后伝』)



郭縕  郭淮の父


郭縕(かくうん)字は不明
并州太原郡陽曲県の人(??~??)

後漢の臣。
郭淮の父。

「郭氏譜」に曰く、郭淮の祖父の郭全(かくぜん)は大司農を、父の郭縕は雁門太守を務めた。(『郭淮伝』)



郭永  郭皇后(曹丕)の父


郭永(かくえい)字は不明
冀州安平郡広宗の人(??~??)

魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の父。

「王沈魏書」に曰く。
南郡太守に上った。

郭皇后は幼い頃から聡明で、父には「娘の中の王」と可愛がられ字を女王(じょおう)と名付けられた。
郭永は妻の董氏(とうし)ともども早くに亡くなり、家は没落し、郭皇后は召使いにまで身をやつした。
だが213年に30歳で曹操に見出され、曹丕の侍女となり、彼の後継者争いを助けたため、皇后へと上り詰めた。

230年、二代皇帝の曹叡(そうえい)は郭永に安陽郷敬侯、董氏に都郷君の諡を追贈し、郭一族もそれぞれ昇進させた。
235年に郭皇后も没すると、翌年には一族の家督を継いでいた郭表(かくひょう)が観津侯に封じられたのに合わせ、郭永は観津敬侯、董氏は堂陽君に国替えされた。(『文徳郭皇后伝』)



郭奕  徳を貫徹し怠らない


郭奕(かくえき)字は大業(たいぎょう)
并州太原郡陽曲県の人(??~287)

魏・晋の臣。

「晋諸公賛」に曰く、郭鎮(かくちん)の子。郭淮の甥(弟の子)である。そこでは字を「泰業」と書かれている。(『郭淮伝』)

若い頃から盛大な名声があり、山濤(さんとう)に高潔かつ簡素で広大な度量があると称えられた。
野王県令の時、まだ無名だった羊祜(ようこ)が通り掛かるとたちまち才を見抜き「羊祜はどうして私に劣ることがあろうか」と賛嘆し、帰る時には「常人とはかけ離れた人物である」と惚れ込み、県境を数百里も超えて見送ってしまい、そのために罷免された。(※県令は理由なく県外へ出てはいけない)

264年、司馬昭の相国府の主簿となった。同年に蜀を滅ぼした鍾会が反乱すると、相国府の掾の荀勗(じゅんきょく)はその従甥にあたり、幼い頃は鍾会の家で育てられたため連座で罷免を訴えた。司馬昭はそれを退けたが、郭奕の方正さを認めた。
265年、司馬炎が帝位につき司馬衷を太子に立てると、郭奕・鄭黙(ていもく)を太子中庶子に任じた。太子右衛率、驍騎将軍と昇進し平陵男に封じられた。咸寧年間(275~280)のはじめに雍州刺史・鷹揚将軍となった。
任地には未亡人の姉もついていったが、その僮僕(少年の召使い)がたびたび法を犯し糾弾された。郭奕は自ら取り調べると「大丈夫たる者が老いた姉を利用して名誉を求めるものではない」と言い、処罰せずに釈放した。
身分の低い李含(りがん)を抜擢して別駕従事に任じ、後に大いに名声を博したため人物鑑定眼を称えられた。

太康年間(280~289)に尚書となり、朝臣は名声ある彼にへりくだった。実権を握る楊駿(ようしゅん)は器が小さく国政を任せられないと上表し退けられたが、郭奕・司馬炎の死後に楊駿は失脚することになる。
重病に倒れると司馬炎は20万銭を下賜し、酒と米を毎日届けた。
287年に没し、担当官は「景」と諡するよう上表したが、司馬師(景帝)と同じであるため「穆」にするべきだと反論され、司馬炎は「徳を貫徹し怠らないことを「簡」という。郭奕は忠実かつ剛毅、清廉かつ正直で、終始変わらず徳を立てていた」と言い「簡」と諡させた。(『晋書 郭奕伝』)



郭奕  王昶に非難された郭嘉の子


郭奕(かくえき)字は伯益(はくえき)
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭嘉の子。

207年、父が没すると後を継いだ。
「王沈魏書」に曰く、物の道理に通暁していた。(『郭嘉伝』)

王昶(おうちょう)の「家誠」に曰く。
洒脱で理解が早く物知りだった。しかし度量は狭く、他者を軽蔑したり尊敬する様が極端で、気に入れば山のように重んじ、気に入らなければ草のように軽んじた。私(王昶)は親しく付き合ったが、子らが郭奕のようになって欲しいとは思わない。
(※裴松之は「郭奕らは既に評価の定まった過去の人物だが、友人をけなし、ましてやそれを家訓として長く後世に伝えるのは、私なら絶対にしない」と非難する)(『王昶伝』)

太子文学となったが早逝した。
子の郭深(かくしん)が後を継いだ。(『郭嘉伝』)

「演義」では郭嘉の死後、幼かったため曹操の家に引き取られた。曹操の郭嘉への格別な思いが垣間見られる好アレンジである。
またSLGでは郭嘉の子というだけで知力が高めに設定されがちである。



郭援  隠れた猛将


個別ページへ



郭恩  実は管輅の旧師


郭恩(かくおん)字は義博(ぎはく)
利漕の人(??~??)

庶民。
利漕の人と記されるが利漕県が他に見当たらないため出身地がわからない。

管輅(かんろ)の父が利漕を治めていた時、住民の郭恩が三兄弟揃って足の病にかかった。管輅は「飢饉の時におばを井戸に突き落とし、石で頭を割り米を奪った祟りだ」と占い、郭恩は泣いて悪事を認めた。

「管輅別伝」に詳細が記される。
郭恩は才能と学問があり「易」と「春秋」に詳しく天文を占うのも巧みだった。
管輅は郭恩に「易」を学んだが数十日もすると議論で師をしのいだ。筮竹を使って占えば学生らの病気や死、貧富や不運を百発百中で当てて神人と呼ばれた。
天文も学ぶと30日に渡り眠りもせず、郭恩に「あなたは村里の場所しか教えられない(※表面的なことしか教えられないという意味か)。大きな時運の流れや災異について論じるには天性の資質が必要だ」と言い、1年も経つと管輅のほうが易や天文について教えるようになり、郭恩は言葉を聞くたびに床几を叩いて「あなたの議論を聞くと自分の病気も忘れてしまう。賢と愚の隔たりはなんとはるかに大きいことか」と讃嘆した。
その後、兄弟らの足の病を告白し、対処法を尋ねた。管輅は占ったがはじめ意味がわからず、一昼夜考えた末に(おばを殺した)悪事を遠回しに暴いた。
郭恩は涙を流し「漢の末年(220年)に実際にあったことだ。あなたは犯人の名を言わないでくれたが、私も礼を守るため口に出せない(※「管輅別伝」では犯人は郭恩兄弟ではないようだ)。病にかかってから30年経ち、足はいばらのようになりもう治らない。病が子孫に受け継がれないことだけを祈っている」と告白した。
管輅は「火で燃やされた物はその跡を残すが、水に流された物は残りません。同様に病が子孫に及ぶことはないでしょう」と慰めた。
また郭恩の家を訪ねた時、鳩が飛んできてひどく悲しげに鳴いた。「老人が東から豚と酒を手にやってくるがちょっとした事故が起こる」と占った。はたして客人が現れ、郭恩は火事に気をつけるよう注意したが、鶏をしめようとして矢を放つと、外れて少女の手に当たってしまった。

「管輅別伝」に曰く。
郭恩は鳥の鳴き声による占いを管輅に学んだ。しかし「あなたはこうした占いを好むが才能が少ない上に音律も怪しい。おそらく十分には身に着けられません」と言い、8つの風向きと5つの音階で鳴き声の高さを定めるなど(技術的な面から?)繰り返し様々な説明をした。
郭恩は熱心に学んだが数日に渡り占っても何も得られず、「日常の務めしかできない無能な人間にはこうしたことを探求するのは困難なのだ」と言い、学ぶのを辞めてしまった。(『管輅伝』)

「演義」では管輅の旧師の側面は記されず、正史に載った2つの占いだけが描かれた。また出身地は徐州琅邪郡になっている。

か1  か2  か3  か4  か5  か6  き1  き2
  け1  け2  こ1  こ2  こ3  こ4  こ5

57