胡質 名探偵コブン
胡質(こしつ)字は文徳(ぶんとく)
揚州九江郡寿春県の人(??~250)
魏の臣。
胡敏(こびん)の子。
冷静沈着で反省を怠らず、他者に考えを押し付けなかったため誰からも慕われた。
若い頃から蔣済(しょうせい)・朱績(しゅせき)と並び称され、州郡に出仕した。(※著名な呉の朱績は二人とは年齢が少々離れており、同姓同名の別人の可能性もある)
蔣済が使者として曹操のもとを訪ねた際に、胡敏に子はいるかと聞かれ「品行と智謀では及ばないが、父よりも精密忠実に事を処理できる息子がいます」と紹介し、即座に胡質は頓丘県令に命じられた。
当地では殺人事件が起こり、拷問に耐えかね偽の自白をした男が処罰されていたが、胡質は関係者の態度から真相を見抜いた。(『胡質伝』)
「傅子」に曰く。
曹操は劉曄(りゅうよう)・胡質・蔣済ら揚州の名士5人を集め議論したが、いつも劉曄だけは参加しなかった。他の4人はあざ笑ったが、劉曄が口を開くたびに曹操は心を動かされた。やがて劉曄は深遠な言葉は二人きりで交わすべきだと言いたいのだと悟り、他の4人は県令として赴任させたが、劉曄だけは腹心に任じられた。(『劉曄伝』)
やがて都に上り丞相東曹議令史に任じられたが、揚州からの要請で治中に赴任した。
張遼は刺史の温恢(おんかい)に胡質を部下にもらいたいと願い出たが、胡質は病気を理由に断った。張遼が自ら訪れなぜ断るのか問い詰めると、武周(ぶしゅう)と彼が険悪なのを挙げ「以前あなたは武周を称賛していたのにわずかな恨みから険悪となっている。武周に劣る私ではなおさらあなたとは上手く付き合えないでしょう」と言い、張遼は反省し武周との関係を修復した。
再び都に上り丞相属となり、黄初年間(220~226)に吏部郎に移り、常山・東莞太守に赴任した。当地でも殺人事件が起こり、被害者に恨まれる理由はなかったが、若い妻が原因だと見抜き、尋問で動揺を見せた、妻に懸想していた男を逮捕した。
9年に渡り勤め上げ、恩賞は全て人に分け与えたため将兵は命令に従った。(『胡質伝』)
228年、石亭の戦いでは賈逵(かき)の指揮下で呉と戦ったが、曹休(そうきゅう)が偽装投降の罠にかかり敗走した。(『賈逵伝』)
荊州刺史・振威将軍に上り、関内侯に封じられた。
この頃、子の胡威(こい)が父を訪ねた。清貧を重んじたため家に蓄えはなく、胡威は一人でロバを連れてやって来た。
帰り際、胡質が路銀として絹を渡そうとすると「清廉な父上がどこでこれを手に入れたのですか」と不思議がったが、胡質は「俸禄の余りだ」と言い、納得し受け取った。
胡質の部下は休暇を取り、胡威を追うと旅人のふりをして数百里も同行し助けてやった。胡威は親切過ぎる彼を不審に思い、誘導尋問して父の部下だと白状させた。そこで父からもらった絹を謝礼に渡して別れた。
胡威から報告を受けた胡質は怒り、部下を百叩きさせ罷免した。(『胡質伝』)
237年、呉の朱然(しゅぜん)が江夏を包囲したが、撃退した。(『明帝紀』)
朱然が兵を進めると胡質は蒲忠(ほちゅう)に退路を断たせようとした。この時、朱然のもとには手勢800人しかいなかったが、果敢に攻撃し、不利を悟った胡質・蒲忠は撤退した。
「呉書」ではこれを242年の出来事と記すが、裴松之は237年の誤記だろうと指摘する。(『朱然伝』)
241年、朱然が樊城を囲むと、胡質は軽装備の軍で救援に向かおうとした。人々は危ぶんだが「樊城は攻めやすく兵も少ない。急ぎ駆けつけなければ間に合わない」と言い、救援に成功した。
征東将軍・仮節都督青徐軍事に昇進し、東方の軍権を任された。
農業を拡大し兵糧を2年分蓄え、東征台を設置し屯田に励んだ。水路を整備し敵に備えたため、海辺の地域では犯罪が絶えた。
250年に没した時、家には下賜された衣服と書物の箱があるだけだった。
部下がそれを上聞し、陽陵亭侯を追贈され、貞侯と諡され領邑100戸を与えられた。
子の胡威が後を継いだ。(『胡質伝』)
254年、亡き徐邈(じょばく)・田豫(でんよ)とともに改めて清貧さを採り上げられ、遺族に穀物2千石と銭30万が下賜された。(『徐邈伝』)
ある時、司馬炎は胡威に父子のどちらが清廉さでは勝るかと尋ねた。胡威は「父には及びません。父の清廉さは他人に知られることを恐れていましたが、私の清廉さは他人が知らないことを恐れています」と答えた。
胡威は徐州刺史まで上り「晋書」に列伝された。
弟の胡羆(こひ)や子の胡奕(こえき)も清廉さで知られた。(『胡質伝』)
陳寿は「平素の行いが貞正・純粋」と讃え、徐邈・王昶(おうちょう)・王基(おうき)とともに列伝し「いずれも地方の長官として称賛名誉を残し、功績を表した。国家の良臣、当代の優れた人物である」と評した。
「演義」では石亭の戦いにほぼ名前のみ登場する。
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