三国志 こ 2


胡伉


未作成



胡康  失脚した神童


胡康(ここう)字は不明
豫州譙郡の人(??~??)

魏の臣。

毌丘倹(かんきゅうけん)が杜摯(とし)に送った答詩に「胡康は田畑より現れた」と記される。

「廬江何氏伝」に曰く。
曹叡の代に胡康は15歳にして才能を見込まれ都へ送られた。
政治の利害を説き、問題の多い県を治めさせて欲しいと要請した。人々は感心し彼を神童と称えた。
曹叡は秘書に任命し広く典籍を読ませた。
だが彼について尋ねられた何禎(かてい)は「才能はあるが性質がまっすぐではない。失敗するに違いない」と言った。
はたして後に過失を犯し咎められた。

裴松之は「調べたが魏に貧しい身分から出世した胡康という人物はいない。孟康(もうこう)のことではないか」と推測するが、孟康は出身地も違えば皇后の親族で貧しい身分とも言えず、失脚してもおらず、ちょっと何言ってるかわからない。(『杜摯伝』)



胡才  どっちみち死ぬ


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胡簒  胡昭の子


胡簒(こさん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
隠者の胡昭(こしょう)の子。

250年、父が没すると郎中に任じられた。(『管寧伝』)



胡氏  劉琰に草履で殴られた妻


胡氏(こし)名は不明
出身地不明(??~??)

劉琰(りゅうえん)の妻。

223年、劉琰は魏延に暴言を吐き失脚し、希望を失いぼんやりと日々を送っていた。

234年正月、妻の胡氏が年賀の挨拶に出向くと、穆太后(ぼくたいこう)は彼女を宮中に1ヶ月留め置いた。
胡氏は美人だったため、劉琰は彼女が劉禅と密通したとあらぬ疑いを掛け、吏卒に命じて鞭打たせた。さらに自ら草履で顔を殴って離縁を言い渡した。
胡氏が事細かに告訴したため、劉琰は投獄された。司直は「吏卒は主君の妻を鞭打つべきではないし、顔は草履を受ける場所ではない」ともっともな意見を具申し、劉琰は公開処刑された。
その後、(誤解を避けるため)大官の妻や母が参内する風習は絶えた。(『劉琰伝』)

「演義」では挨拶した相手は張皇后(ちょうこうごう)に変更。夫の部下500人に履き物で殴られた。よく生きてるな。



胡質  名探偵コブン


胡質(こしつ)字は文徳(ぶんとく)
揚州九江郡寿春県の人(??~250)

魏の臣。
胡敏(こびん)の子。

冷静沈着で反省を怠らず、他者に考えを押し付けなかったため誰からも慕われた。
若い頃から蔣済(しょうせい)・朱績(しゅせき)と並び称され、州郡に出仕した。(※著名な呉の朱績は二人とは年齢が少々離れており、同姓同名の別人の可能性もある)

蔣済が使者として曹操のもとを訪ねた際に、胡敏に子はいるかと聞かれ「品行と智謀では及ばないが、父よりも精密忠実に事を処理できる息子がいます」と紹介し、即座に胡質は頓丘県令に命じられた。
当地では殺人事件が起こり、拷問に耐えかね偽の自白をした男が処罰されていたが、胡質は関係者の態度から真相を見抜いた。(『胡質伝』)

「傅子」に曰く。
曹操は劉曄(りゅうよう)・胡質・蔣済ら揚州の名士5人を集め議論したが、いつも劉曄だけは参加しなかった。他の4人はあざ笑ったが、劉曄が口を開くたびに曹操は心を動かされた。やがて劉曄は深遠な言葉は二人きりで交わすべきだと言いたいのだと悟り、他の4人は県令として赴任させたが、劉曄だけは腹心に任じられた。(『劉曄伝』)

やがて都に上り丞相東曹議令史に任じられたが、揚州からの要請で治中に赴任した。
張遼は刺史の温恢(おんかい)に胡質を部下にもらいたいと願い出たが、胡質は病気を理由に断った。張遼が自ら訪れなぜ断るのか問い詰めると、武周(ぶしゅう)と彼が険悪なのを挙げ「以前あなたは武周を称賛していたのにわずかな恨みから険悪となっている。武周に劣る私ではなおさらあなたとは上手く付き合えないでしょう」と言い、張遼は反省し武周との関係を修復した。

再び都に上り丞相属となり、黄初年間(220~226)に吏部郎に移り、常山・東莞太守に赴任した。当地でも殺人事件が起こり、被害者に恨まれる理由はなかったが、若い妻が原因だと見抜き、尋問で動揺を見せた、妻に懸想していた男を逮捕した。
9年に渡り勤め上げ、恩賞は全て人に分け与えたため将兵は命令に従った。(『胡質伝』)

228年、石亭の戦いでは賈逵(かき)の指揮下で呉と戦ったが、曹休(そうきゅう)が偽装投降の罠にかかり敗走した。(『賈逵伝』)

荊州刺史・振威将軍に上り、関内侯に封じられた。

この頃、子の胡威(こい)が父を訪ねた。清貧を重んじたため家に蓄えはなく、胡威は一人でロバを連れてやって来た。
帰り際、胡質が路銀として絹を渡そうとすると「清廉な父上がどこでこれを手に入れたのですか」と不思議がったが、胡質は「俸禄の余りだ」と言い、納得し受け取った。
胡質の部下は休暇を取り、胡威を追うと旅人のふりをして数百里も同行し助けてやった。胡威は親切過ぎる彼を不審に思い、誘導尋問して父の部下だと白状させた。そこで父からもらった絹を謝礼に渡して別れた。
胡威から報告を受けた胡質は怒り、部下を百叩きさせ罷免した。(『胡質伝』)

237年、呉の朱然(しゅぜん)が江夏を包囲したが、撃退した。(『明帝紀』)

朱然が兵を進めると胡質は蒲忠(ほちゅう)に退路を断たせようとした。この時、朱然のもとには手勢800人しかいなかったが、果敢に攻撃し、不利を悟った胡質・蒲忠は撤退した。
「呉書」ではこれを242年の出来事と記すが、裴松之は237年の誤記だろうと指摘する。(『朱然伝』)

241年、朱然が樊城を囲むと、胡質は軽装備の軍で救援に向かおうとした。人々は危ぶんだが「樊城は攻めやすく兵も少ない。急ぎ駆けつけなければ間に合わない」と言い、救援に成功した。

征東将軍・仮節都督青徐軍事に昇進し、東方の軍権を任された。
農業を拡大し兵糧を2年分蓄え、東征台を設置し屯田に励んだ。水路を整備し敵に備えたため、海辺の地域では犯罪が絶えた。

250年に没した時、家には下賜された衣服と書物の箱があるだけだった。
部下がそれを上聞し、陽陵亭侯を追贈され、貞侯と諡され領邑100戸を与えられた。
子の胡威が後を継いだ。(『胡質伝』)

254年、亡き徐邈(じょばく)・田豫(でんよ)とともに改めて清貧さを採り上げられ、遺族に穀物2千石と銭30万が下賜された。(『徐邈伝』)

ある時、司馬炎は胡威に父子のどちらが清廉さでは勝るかと尋ねた。胡威は「父には及びません。父の清廉さは他人に知られることを恐れていましたが、私の清廉さは他人が知らないことを恐れています」と答えた。

胡威は徐州刺史まで上り「晋書」に列伝された。
弟の胡羆(こひ)や子の胡奕(こえき)も清廉さで知られた。(『胡質伝』)

陳寿は「平素の行いが貞正・純粋」と讃え、徐邈・王昶(おうちょう)・王基(おうき)とともに列伝し「いずれも地方の長官として称賛名誉を残し、功績を表した。国家の良臣、当代の優れた人物である」と評した。

「演義」では石亭の戦いにほぼ名前のみ登場する。



胡車児  三国夢想は彼から始まった


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胡脩  関羽に揃って降伏


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胡遵  胡奮・胡烈らの勇猛な父


胡遵(こじゅん)字は不明
涼州安定郡の人(??~256)

魏の臣。
胡奮(こふん)・胡広(ここう)・胡烈(これつ)・胡岐(こき)の父。

「晋諸公賛」に曰く。
文武両道に優れ、要地を抑える将軍を歴任し、車騎将軍まで上った。(『鍾会伝』)

張既(ちょうき)は雍州・涼州刺史として十数年にわたり統治し、胡遵ら多くの人材を見出した。(『張既伝』)

233年、涼州安定郡で反乱した匈奴の大人(王)の胡薄居姿職(こばくきょししょく)を撃破し降伏させた。(『明帝紀』)

238年、幽州遼東郡で反乱した公孫淵(こうそんえん)の討伐に従軍し、卑衍(ひえん)を撃破した。(『公孫度伝』)

「戦略」に曰く、252年、孫権の死に乗じ胡遵・王昶(おうちょう)・毌丘倹(かんきゅうけん)らが呉へ侵攻するよう上奏した。傅嘏(ふか)は反対したが聞き入れられなかった。(『傅嘏伝』)

252年、征東将軍の胡遵らが三方から呉へ侵攻したが、諸葛誕・胡遵が諸葛恪(しょかつかく)・丁奉・朱異(しゅい)に東興の戦いで大敗したため撤退した。(『斉王紀』・『孫亮伝』・『丁奉伝』・『朱桓伝』)

255年、毌丘倹・文欽(ぶんきん)が反乱すると司馬師は討伐に赴き、胡遵に青州・徐州の軍を指揮させ、譙・宋に進出させ敵の退路を断った。(『毌丘倹伝』)

255年、征東大将軍の胡遵は衛将軍に上った。

256年、没した。(『高貴郷公紀』)

子の胡奮らも父譲りの武勇で活躍した。(『鍾会伝』)

「演義」でも史実通りに遼東征伐・東興の戦い・毌丘倹討伐に従軍する。



胡昭  周辺の争いを無くす


胡昭(こしょう)字は孔明(こうめい)
豫州潁川郡の人(162~250)

隠者。
「管寧伝」に附伝される。

はじめ(戦乱を避けて?)冀州へ避難したが、袁紹に招聘されたため、辞退して郷里に戻った。
208年、丞相に任じられた曹操に招聘されると、胡昭は出向いて「私は一介の野人で軍事・国家の役には立ちません。忠誠を示すだけにさせていただきたい」と辞退した。
曹操は「人にはそれぞれ志があり、出処進退の方向は異なる。最後まで高尚な志を通しなさい。あなたの意志を曲げさせはしない」とそれを認めた。
胡昭は司隸河南郡の陸渾山に隠棲し、自給自足を始め、書に親しみ、周辺の人々に敬愛された。

「高士伝」に曰く。
出仕前の司馬懿は胡昭と親しくしていた。ある時、周生(しゅうせい)が司馬懿の殺害を企てたと聞き、胡昭は遠路はるばると出向き制止した。周生ははじめ耳を貸さなかったが、涙ながらに説得されると心を動かされ取り止めた。
胡昭はこれを口外しなかったが、彼の誠実さは有名だった。
211年、馬超の反乱により多くの流民が避難してきて、食料をめぐって争った。胡昭はそのたびに彼らを和解させた結果、ついに周辺の三百里から争いは絶えて無くなった。

218年、陸渾県長の張固(ちょうこ)は、命令を受けて徴兵し漢中へ送ろうとしたが、遠隔地への赴任を嫌がる人々を扇動し、孫狼(そんろう)が反乱した。
張固は十余人の部下を連れて胡昭を頼り抵抗した。孫狼は関羽に服属し、なおも戦いを続けたが反乱軍は「胡先生の地域は侵犯するな」と誓い合ったため、一帯は被害を免れた。
戦乱が治まると司隸弘農郡宜陽に移り住んだ。

正始年間(240~249)に魏の多くの重臣が胡昭を推挙した。
「高士伝」に曰く。
幽州刺史の杜恕(とじょ)は自ら草庵を訪ね、胡昭の道理を論ずる言葉に謙虚さと敬意を感じ、大いに尊敬した。

「高士伝」に曰く。
当時は戦が続き、実務にそぐわない胡昭らの招聘は後回しにされていたが、ある時、荀顗(じゅんぎ)らが揃って胡昭を推挙した。まず人物評価に掛けられようとしたが、韋誕(いたん)は「荀顗ら忠臣の進言を疑う理由はない。特例で招聘すべきだ」と意見したため、評価を省略して250年、特例で召し出そうとした。

しかしちょうどその時に亡くなった。享年89。
子の胡簒(こさん)が郎中に任じられた。

胡昭は隷書にも巧みで、鍾繇(しょうよう)、韋誕ら名手と並び称され、その筆跡はよく手本にされたという。(『胡昭伝』)

陳寿は「張臶(ちょうせん)・胡昭は門を閉ざして閑静を保持し、現世の栄利にあくせくしなかった」と評した。

「演義」には登場しない。



胡軫  演義でもヘタレ 正史でもヘタレ


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胡済


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胡済  迷子将軍


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胡潜  古代の祭祀に詳しい頑固爺


胡潜(こせん)字は公興(こうこう)
冀州魏郡の人(??~??)

蜀の臣。

幅広い学識は無かったがずば抜けた記憶力を持ち、古代の祭祀の儀式次第や葬儀の規則、喪服の階級などを熟知し、手のひらに書き示したり、地面に描いてみせたりでき、まるで手を上げて物を取るように知識を取り出せた。

経緯は不明だが益州へ移住し、214年、劉備が益州を制圧すると麾下に入り、許慈(きょじ)とともに学士に任命され、孟光(もうこう)・来敏(らいびん)らとともに古代の慣例制度の復興を担当した。(『許慈伝』)
宮中制度の制定にもあたった。(『孟光伝』)

しかし許慈とはきわめて仲が悪く、書物の貸し借りはせず(職務に支障をきたし)、感情をむき出しにして罵り合い、鞭で脅しつけるほどだった。
見かねた劉備は宴席で、役者たちに許慈と胡潜の争いをオーバーに再現させ、彼らを反省させた。(『許慈伝』)

ちなみに孟光と来敏も同じく険悪でいつも大声で言い合いをしたという。(『孟光伝』)

許慈よりも先に没した。

後世の孫盛は「蜀は人材が乏しかったので史書に許慈と胡潜が記された」と述べている。(『許慈伝』)



胡綜  呉の文書を司る


胡綜(こそう)字は偉則(いそく)
豫州汝南郡固始の人(183~243)

呉の臣。
「呉書」に列伝される。

幼くして父を失い、母に連れられ江東に移った。196年、会稽太守の孫策に14歳で取り立てられ、孫権とともに学問を修めた。

200年、孫策が没すると孫権の側近として、江夏討伐で武功があり、孫権が車騎将軍に任じられると、是儀(しぎ)や徐詳(じょしょう)とともに政治の中枢を担った。
文章に優れた胡綜は呉の行政・外交文書のほとんど全てを起草した。
220年、孫権が呉王に任ぜられると三人は列侯された。

222年、劉備が兵を挙げると、兵が不足していたため孫権は胡綜に命じて徴兵させた。6千の兵が集まり「解煩」と名付け、左部を徐詳、右部を胡綜が指揮した。

223年、晋宗(しんそう)が魏へ寝返り、国境を荒らした。胡綜は賀斉(がせい)とともに小勢で奇襲を掛け、晋宗を生け捕りにした。この功により建武中郎将に任じられた。(『胡綜伝』)

227年、鄱陽で反乱した彭綺(ほうき)を、太守に任じられた周魴(しゅうほう)は胡綜と協力して討伐し、生け捕りにした。(『呉主伝』・『周魴伝』)

229年、孫権は帝位につくと黄龍と改元し、黄龍を描かせた旗を作らせ、それで全軍の指揮を執ることとし、胡綜にこの旗を歌う賦を作らせた。
蜀は即位を祝うとともに条約を確認し、その条文を胡綜が書き上げ、内容も表現も見事と評判を取った。(『胡綜伝』)

同年、皇太子になった孫登(そんとう)は胡綜に命じて「賓友目」を作らせ、側近を称賛した。(『孫登伝』)

建業に遷都すると徐詳とともに侍中となり、郷侯として左右領軍を兼務した。
この頃、魏の呉質(ごしつ)が不興を買っていると聞き、彼が呉に内通しているとする文書を胡綜が偽作した。
だが流布された時には呉質は都に戻っており、不発に終わった。

230年、魏の隠蕃(いんばん)が投降し、巧みな弁舌ですぐに孫権に気に入られた。
人物評を聞かれた胡綜は「誇大な構想は東方朔に、巧妙な詭弁は禰衡(でいこう)に似ていますが、才能はどちらにも及びません。ひとまずは膝下で小さな官職に就け様子を見ましょう」と答えた。
隠蕃はすぐに声望を集め、全琮(ぜんそう)ら重臣はこぞって交際を求めたが、後に魏の間者と発覚し誅殺された。

胡綜は偏将軍、左執法を兼任し訴訟を担当した。
233年、公孫淵(こうそんえん)への対処をめぐり孫権と張昭(ちょうしょう)が対立した際に仲裁した。感情的な争いにまで発展した両者が決裂しなかったのは胡綜の働きによるものである。(『孫登伝』・『胡綜伝』)

237年、呉では長官職にある者は父の喪に服すことを禁じられていたが、名目だけで守られず、しばしば職務に支障をきたした。孫権が対策を群臣に諮ると、胡綜は死罪と明記し、見せしめに誰か処刑すればいいと言った。その通りにすると禁令を破る者は途絶えた。(『呉主伝』・『胡綜伝』)

当時は全琮が都督を務めたが、偏将軍の胡綜も詔勅を受け作戦立案に参画した。全琮は奇襲を考えたが、気位の高い朱桓(しゅかん)は指図を受けるのを嫌い、言い争いになった。
全琮は「陛下が胡綜に指揮を命じ、彼が考えたのだ」と弁解し、朱桓の怒りの矛先は胡綜に向いた。
朱桓は胡綜を殺そうとして呼び出したが、側近が事態を知らせて帰らせた。朱桓は激怒して側近と副官を殺し、気が狂ったと称して都に帰った。
孫権はこれまでの功績に免じて罪に問わなかった。(『朱桓伝』)

ちなみに胡綜も酒癖が悪く、酔うと杯で周囲の者を殴ったが、孫権は責めなかったという。

243年、61歳で没し、子の胡沖(こちゅう)が爵位を継いだ。(『胡綜伝』)

陸凱(りくがい)は遺言で「孫権の代には胡綜・薛綜(せっそう)が行政を担当し信任された」と評した。(『陸凱伝』)

陳寿は「是儀・徐詳・胡綜は国家経営に大きな業績を残し、家に例えるなら垂木である。胡綜は文才と実務の才を兼ね備えた」と評した。(『胡綜伝』)

なお「演義」には三人とも登場しない。



胡沖  胡綜の文才ある子


胡沖(こちゅう)字は不明
豫州汝南郡固始の人(??~??)

呉の臣。
胡綜(こそう)の子。

公正で穏やかな人物で文才があった。
243年、父が没すると爵位を継いだ。
天紀年間(277~280)に中書令を務めた。(『胡綜伝』)

280年、晋の大軍が都に迫ると、薛瑩(せつえい)・胡沖の進言により孫皓は降伏を決めた。(『孫皓伝』)

呉の滅亡後は晋に仕え、尚書令・呉郡太守に上った。(『胡綜伝』)

胡沖は「問答」を著し、その中に屈晃(くつこう)の記録が見える。(『孫和伝』)

人物評価にも長け、胡沖の「楼玄(ろうげん)・王蕃(おうばん)・賀邵(がしょう)は当時(呉末期)の最も優れた人物たちで、ほとんど優劣を付け難いが、あえて付けるなら楼玄が最も上で、次に賀邵。華覈(かかく)は文才では韋曜(いよう)をしのぐが、公文書では及ばない」との評を、陳寿は採録している。(『王楼賀韋華伝』)

一方で胡沖の著した「呉録」に記された「劉備は曹操の下にいた時、動向を疑われ、私は野菜を育てるような人物ではないと出奔した」という逸話を、裴松之は「曹操は疑っておらず事実と甚だしく食い違っている」と非難している。(『先主伝』)



胡博  胡済の弟


胡博(こはく)字は不明
荊州義陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
胡済(こせい)の弟。

長水校尉、尚書を歴任した。(『董和伝』)



胡薄居姿職  安定郡で一瞬反乱した匈奴の大人


胡薄居姿職(こばくきょししょく)
匈奴の人(??~??)

匈奴の大人(王)。

魏へ帰順し涼州安定郡で国境を守っていたが、233年に反乱した。
司馬懿は胡遵(こじゅん)に討伐させ、撃破され降伏した。(『明帝紀』)



胡邈  李傕の肩を持った後漢の侍中


胡邈(こばく)字は敬才(けいさい)
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「献帝起居注」に曰く。
献帝は皇甫酈(こうほり)が(李傕(りかく)・郭汜(かくし)出身の)涼州の名門で弁舌に長けたため、李傕・郭汜を和睦させようとした。郭汜は承諾したが、李傕は拒絶し皇甫酈を脅して味方に引き込もうとし、皇甫酈は脅し返し、李傕は怒鳴りつけて退出させた。
侍中の胡邈は李傕に目を掛けられていたため、皇甫酈の報告を粉飾し、「李傕将軍はあなたを粗末に扱わないし、あなたのおじの皇甫嵩(こうほすう)が太尉に取り立てられたのも李傕のおかげです」と脅した。
皇甫酈は「あなたは国家の重臣で天子をおそばで補佐する身なのに、そんなことを言って何の役に立つのか」と言い返し、胡邈がなおも「李傕に危害を加えられないかと心配して忠告したのに」と言うと「私は代々、天子の御恩をこうむり側近く仕えてきた。主君が恥辱を受ければ家臣は命を投げ出すものだ。李傕に殺されても天命だ」と言い切った。
献帝はただちに皇甫酈を外へ逃がした。李傕は王昌(おうしょう)に追撃させたが、王昌は皇甫酈が忠義で正しい人物だと知っていたためわざと見逃し、追いつけなかったと報告した。
献帝は李傕を三公の上の大司馬に任命して機嫌を取り、李傕は信仰する鬼神のおかげと喜び巫女に褒美をやった。(『董卓伝』)

「演義」にも登場するが李傕に目を掛けられているとは記されない。皇甫酈に「言葉を慎まないと身の破滅を招くぞ」と忠告してやったが「逆賊の肩を持つのか」とブチギレられており、むしろ気の毒である。



胡羆  胡威の弟


胡羆(こひ)字は季象(きしょう)
揚州九江郡寿春県の人(??~??)

晋の臣。
胡質(こしつ)の子。胡威(こい)の弟。
「正史」には名を胡熊(こゆう)と書かれる。

250年に父が没した時、家には下賜された衣服と書物の箱があるだけだった。
部下がそれを上聞し、陽陵亭侯を追贈され、貞侯と諡され領邑100戸を与えられた。
兄の胡威が後を継いだ。(『胡質伝』)

胡羆は才幹があり益州刺史・安東将軍まで上った。(『晋書 胡威伝』)

「華陽国志」に曰く。
李密(りみつ)の著書の「述理論」10篇は安東将軍の胡熊や皇甫謐(こうほひつ)に称賛された。(『楊戯伝』)

「魏書」には征南将軍まで上ったと記される。
父・祖父・兄・甥の胡奕(こえき)らとともに清廉さで名声を得た。(『胡質伝』)



胡敏  胡質の父


胡敏(こびん)字は通達(つうたつ)
揚州九江郡寿春県の人(??~??)

後漢の臣?
胡質(こしつ)の父。

「胡子譜」に曰く、賢良方正として召し出された。

胡質は若い頃から蔣済(しょうせい)と並び称された。
蔣済が使者として曹操のもとを訪ねた際、曹操に「胡敏は長者だったが子はいるか」と尋ねられ、「品行と智謀では及ばないが、父よりも精密忠実に事を処理できる息子がいます」と紹介し、即座に胡質は頓丘県令に任じられた。(『胡質伝』)



胡奮  胡遵の勇猛な長男


胡奮(こふん)字は玄威(げんい)
涼州安定郡の人(??~??)

魏・晋の臣。
胡遵(こじゅん)の子。

6人兄弟で兄の胡広(ここう)、弟の胡烈(これつ)も名将として知られた。
おおらかで明るく、謀略に長じ若い頃から軍事を好んだ。

238年、司馬懿の遼東征伐に無官ながら側近として従い重用された。帰還すると校尉に任じられ、やがて徐州刺史に上り夏陽子に封じられた。(『晋書 胡奮伝』)

255年(『高貴郷公紀』)、雍州刺史の王経(おうけい)は姜維に大敗し、狄道に逃げ込み包囲された。

陳泰(ちんたい)が救援に赴き、合流した鄧艾・胡奮・王秘(おうひ)らは「蜀軍は士気高く、(狄道を捨てて)いったん兵を引き態勢を立て直すべきだ」と主張したが、陳泰は「雍州の兵は心を一つにし、容易に城は落ちない。蜀軍は城を囲んで停滞し、むしろ士気は落ちている。兵糧も尽きかけており今こそ攻め時だ」と攻撃を命じた。
陳泰は姜維の伏兵も看破し、蜀軍を撤退させた。王経は「あと10日で城の兵糧は尽き、狄道はおろか雍州も落ちたでしょう」と嘆息し、陳泰の判断を称えた。(『陳羣伝』)

257年、諸葛誕は反乱したが城を包囲され、翌258年に追い詰められた末に出撃し、大将軍司馬の胡奮に討ち取られた。(『諸葛誕伝』)

272年、匈奴の劉猛(りゅうもう)が反乱を起こすと、路蕃(ろばん)が討伐し胡奮は監軍・仮節として後詰めを務めた。胡奮に撃破されると、劉猛配下の李恪(りかく)が首を斬って投降した。
次第に昇進し征南将軍・仮節・都督荊州諸軍事となり、護軍に移り、散騎常侍を加えられた。
一族は代々、将軍を輩出したが胡奮は老いてから学問に目覚め、優れた文章を書いた。至るところで名声と功績があり、特に辺境では威厳と恩恵で知られた。

泰始年間(265~275)の末、司馬炎は女色にふけり、後宮を高官の子女で満たした。
胡奮の娘も選ばれ胡貴賓(こきひん)となったが胡奮には一男一女がいるだけで、息子には先立たれており「老いぼれは死なず、子供は二人だけなのに息子は地下(墓)に、娘は天(宮中)に行った」と嘆いた。
胡奮は古参の名臣かつ側室の父として大いに重用され、尚書左僕射に上り鎮軍大将軍・開府・儀同三司を加えられた。
当時、楊駿(ようしゅん)は皇后の父親となり驕り高ぶっていた。胡奮は「娘が皇后になりますます驕り高ぶるのか。前代を見れば皇后を輩出し滅亡しなかった一族はない。あなたの振る舞いはまさに災いを招くものだ」と諌めた。
楊駿が「あなたの娘も宮中にいるだろう」と返すと「私の娘はあなたの娘の召使いに過ぎず、何も左右できる立場ではない」と言った。人々は胡奮か害されることを恐れ、楊駿も恨みに思ったが危害は加えなかった。(『晋書 胡奮伝』)

279年、平東将軍の胡奮が夏口を攻めるなど晋は各方面から呉へ侵攻し、翌280年に降伏させた。(『孫晧伝』)

「晋諸公賛」に曰く。
父と同じく地方の軍政官を歴任した。
娘が司馬炎の貴人(側室)となり寵愛を受けたため、その恩恵により太康年間(280~289)に尚書僕射に取り立てられ、鎮東大将軍・開府を加えられた。

弟の胡広・胡烈・胡岐(こき)らも高位に上った。(『鍾会伝』)

在官中に没し車騎将軍を追贈され「壮」と諡された。(『晋書 胡奮伝』)

「演義」でも諸葛誕を討ち取った。また呉征伐で杜預(とよ)を諌め「破竹の勢い」で論破されたのは胡奮に設定されている。(※晋書では名は不明)



胡芳  司馬炎の武門の側室


胡芳(こほう)字は不明
涼州安定郡の人(??~??)

司馬炎の側室。
胡奮(こふん)の娘。

273年、司馬炎は後宮を良家の子女で満たすと、特に美しい娘の腕に赤い絹を巻き、目印とした。胡芳は選ばれると泣き崩れ、側の者が「陛下に聞かれます」と注意すると「死をも恐れぬのになぜ陛下を恐れましょう」と言った。
司馬肇(しばちょう)が使者となり、貴嬪に任命された。

司馬炎に何か聞かれると、言葉を飾らず即座に答え、風雅な趣があった。
280年、三国統一すると呉の後宮から3千人を迎え入れ、1万人に届きそうになった。司馬炎は誰のもとで夜を過ごすか決めず、羊に車を牽かせ止まった所にいた宮女を選んだ。宮女たちは竹の葉を戸に挿し、塩水を地面に垂らし、羊に舐めさせて止めようとした。(※盛り塩の起源とされる)
しかし胡芳が特に寵愛を受け、結局はほとんど彼女のもとへ通った。侍女や衣装の数は皇后に次いだ。(『晋書 胡貴嬪伝』)

父の胡奮もその恩恵により太康年間(280~289)に尚書僕射に取り立てられ、鎮東大将軍・開府を加えられた。胡奮の兄弟も高位に上った。(『鍾会伝』)

ある時、すごろくに熱中して矢を取り合い、司馬炎の手を傷つけてしまった。司馬炎は怒り「さすが将軍の娘だ」と皮肉ると、胡芳は「公孫淵(こうそんえん)を討ち、諸葛亮を防いだ(司馬懿の)血は将軍ではないのですか」と返し、司馬炎は恥じ入った。
武安公主(ぶあんこうしゅ)を生んだ。(『晋書 胡貴嬪伝』)



胡母班  王匡に殺された妹婿


胡母班(こぼはん)字は季皮(きひ)
兗州泰山郡の人(??~190)

後漢の臣。

「漢末名士録」に曰く。
若い頃は財産に執着せず、仁義を重んじ人々を救済したため、胡母班・張邈(ちょうばく)、度尚(どしょう)ら8人は「八廚」と並び称された。

190年、袁紹・王匡(おうきょう)らが董卓討伐のため挙兵すると、董卓は執金吾の胡母班と将作大匠の呉脩(ごしゅう)に詔勅を持たせ、袁紹に服従を命じたが、袁紹は王匡に命じて彼らを殺させた。

「謝承の後漢書」に詳細が記される。
胡母班は王匡の妹婿だったため、王匡に袁紹を説得させようとしたが、捕らえられ投獄された。
胡母班は「董卓は天子の陰に隠れ討伐できません。私は董卓とは親族でもなく悪事に加担するはずもないのに、実の親族のあなたは董卓への怒りを私に向け殺そうとしています。結婚は幸福と災難の始まりだとはっきりしました」と王匡に手紙を送り、獄死した。王匡は胡母班の2人の子を抱きしめて泣いた。(『袁紹伝』)

「英雄記」に曰く。
胡母班の遺族は憤激を抑え切れず、後に王匡が敗走すると、曹操とともに彼を殺害した。(『武帝紀』)

「捜神記」に曰く、胡母班はかつて太山府君(冥王)と河伯(黄河の神)に会ったことがあるという。(『袁紹伝』)



胡母彪  王匡を叱責する


胡母彪(こぼひょう)字は不明
兗州泰山郡の人(??~??)

素性不明。

河内太守の王匡(おうきょう)は属県へ配下を送って官民の罪を探らせ、金銭や穀物を没収して処罰し、従わないと一族皆殺しにし威厳を高めていた。
常林(じょうりん)の叔父が食客を鞭打ちした罪で逮捕され、一族が恐慌をきたすと、常林は王匡と同郷の胡母彪を訪ね「河内郡は人材豊富で、もし勇武の才を持つ者が賊徒を討伐しようとすればそれに応じますが、恩徳がなければ滅亡が訪れるでしょう」と言い、叔父が拘留されていることを伝えた。胡母彪は王匡を叱責し、叔父は解放された。
常林は報復を恐れて上党郡へ逃げ、山奥で耕作して暮らした。(『常林伝』)

「謝承後漢書」に曰く。
王匡の妹は同郷の胡母班(こぼはん)に嫁いだ。(『袁紹伝』)

胡母彪と胡母班は間違いなく同族だろう。王匡を叱責できる立場ならあるいは胡母班の父か。



胡封  絞殺魔


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胡熊


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胡烈  勇猛一族の雄


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扈質  徐宣に策を授けられる


扈質(こしつ)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

海西県で反乱が起こった時、曹操は督軍の扈質に討伐を命じたが、兵が少なく進めなかった。徐宣(じょせん)は密かに扈質に会い、それを咎めるとともに対策を授け、反乱軍を打ち破らせた。
これが曹操の耳に入り徐宣は司空掾に招かれた。(『徐宣伝』)



扈瑁  劉璋への対抗の益州刺史


扈瑁(こぼう)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

後漢の臣。

194年、劉璋(りゅうしょう)が益州刺史を継ぐと、朝廷(を牛耳る李傕(りかく)ら)は扈瑁を益州刺史に任じ、漢中に入らせた。
荊州別駕の劉闔(りゅうこう)や、益州の甘寧ら不穏分子はそれに呼応し劉璋を攻撃したが、敗北し荊州へ逃げた。劉璋は趙韙(ちょうい)に追撃させた。(『劉焉伝』)

扈瑁の消息は不明である。



扈累  青牛先生の弟子


扈累(こるい)字は伯重(はくちょう)
司隸京兆郡の人(??~??)

隠者。

「魏略」に曰く。
40余歳の時、青牛先生(せいぎゅうせんせい)に師事し天文・暦・占術を習得した。妻はいたが子は無かった。
211年、三輔が動乱に巻き込まれたため青牛先生とともに漢中へ移った。
215年、曹操が漢中を制圧すると青牛先生は益州へ移ったが、扈累ははぐれ、流民とともに鄴へ行き、疫病で妻を失った。
220年、洛陽へ移った。
生涯再婚せず、ひとり道端に敷瓦で塀を作り、台所と寝所兼用の床を設えた。日中は潜んで思索し、夜は星を見ながら内書(方術の書)を吟誦した。何か聞かれても口を閉ざし答えなかった。
嘉平年間(249~254)、80~90歳になったが青牛先生と同じく若々しく40~50歳のようだった。
身寄りがないため国から日に5升の米を支給されたが、不足すると日雇い労働で日銭を稼ぎ、ひとに恵まれた物は受け取らなかった。
食事は質素で破れた綿入りを着込み、1~2年して病没した。(『管寧伝』)



壺寿  正式な冀州牧


壺寿(こじゅ)字は不明
出身地不明(??~193)

董卓の臣?

「英雄記」に曰く。
193年(『後漢書 袁紹伝』)、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を破り祝勝会を開いていたが、魏郡で反乱が起き、黒山賊の于毒(うどく)らによって太守の栗成(りつせい)が殺され鄴が陥落したという急報が届き、鄴に家族がいる人々は動揺したが、袁紹は泰然自若としていた。
賊の陶升はもともと魏郡内黄県の下役人を務めていた善良な人物で、城壁を乗り越えて役所に入り込み、袁紹らの家族や官吏を保護して逃走した。袁紹は陶升と合流し、于毒と董卓が任命した冀州牧の壺寿を討ち取った。(『袁紹伝』)

冀州牧は191年に袁紹が韓馥(かんふく)から奪っており、それに対抗して壺寿が任命されたのだろう。
朝廷は董卓が牛耳っており、正式な冀州牧は袁紹ではなく壺寿になる。



護留  魏へ帰順した烏丸都督・率衆王


護留(ごりゅう)
烏丸の人(??~??)

烏丸の王。

「魏略」には名を護葉(ごよう)とも書かれる。(『烏丸伝』)

237年、幽州刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)は鮮卑・烏丸の兵を集め、遼東郡で不穏な気配を見せる公孫淵(こうそんえん)を召し寄せた。はたして公孫淵は反旗を翻し、毌丘倹は討伐しようとしたが長雨が続き河が氾濫したため撤退した。
遼東郡に居住していた烏丸の単于(王)の寇婁敦(こうろうとん)と遼西の烏丸都督・率衆王の護留や、かつて袁尚(えんしょう)とともに遼東郡へ逃げた者ら5千人が公孫淵に与せず魏へ帰順した。(『明帝紀』・『毌丘倹伝』)



顧栄


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顧徽


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顧禺


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顧彦


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顧謙


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顧向


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顧承  政争に二度巻き込まれる


顧承(こしょう)字は子直(しちょく)
揚州呉郡呉県の人(??~??)

呉の臣。
顧邵(こしょう)の次男。顧雍(こよう)の孫。
「顧雍伝」に附伝される。

兄の顧譚(こたん)は早くから太子の孫登(そんとう)を補佐し「四友」に数えられた。(『顧雍伝』)

当時の名声では顧譚・顧承が双璧をなし、並ぶ者がいないと言われていた。諸葛恪(しょかつかく)は聶友(じょうゆう)に目をかけ、二人にも匹敵すると喧伝したため広く名を知られた。(『諸葛恪伝』)

だが顧承は妻の兄の張温(ちょうおん)が孫権の逆鱗に触れ一族もろとも罷免され、顧承も妻と離縁させられた。(妻はその後、別家に再嫁を許されたが自害を選んだ)(『張温伝』)

(その影響か出世は遅く)嘉禾年間(232~238)におじの陸瑁(りくぼう)とともに招聘された。孫権は祖父の顧雍へ「お孫さんは立派な名声を得ているが、会ってみたら聞きしに勝る様子だった。お喜びを申し上げたい」と手紙を送った。
騎都尉に任じられ、羽林兵(近衛兵)の指揮にあたった。
後に呉郡西部都尉となり、諸葛恪(しょかつかく)とともに山越を討伐し、8千の兵を得た。この功により昭義中郎将となり、後に都に上り侍中を授かった。(『顧承伝』)

赤烏年間(238~251)に陳表(ちんひょう)とともに数万人を動員し屯田を行った。(『諸葛瑾伝』)

(241年、)芍陂の戦いでは劣勢に陥るも、顧承・張休(ちょうきゅう)が奮戦して敵を食い止め、全琮(ぜんそう)の子の全緒(ぜんしょ)・全端(ぜんたん)が反撃してなんとか勝利した。論功行賞では顧承・張休の働きのほうが高評価されたことを全琮父子は恨んだ。(『顧雍伝』)
奮威将軍となり、都を出て京下督となった。(『顧承伝』)

二宮の変で全琮の一族は孫覇(そんは)を後見したが、兄の顧譚は太子の孫和(そんか)を推したため、顧譚を激しく恨んだ。
全琮父子は、顧承・張休が陳恂(ちんしゅん)とグルになって戦功を過大評価したと讒言した。
張休は投獄されたが、孫権は兄の顧譚に免じて、顧譚が謝罪すれば顧承は釈放しようと持ちかけた。だが顧譚は「讒言がますます盛んになるでしょう」と諫言した。顧承兄弟は死罪に相当したが、祖父の顧雍に免じて配流に留められた。(『顧雍伝』)

顧承・顧譚・張休は交州へ流された。2年後に顧譚が41歳で没し、顧承も37歳で死んだ。(『顧雍伝』・『顧承伝』)
張休はさらに讒言を受けて自害させられた。(『張昭伝』)

おじの陸遜も冷遇され、憤りの余り病を発し死去した。(※ちくま版では配流されたと誤訳されている)(『陸遜伝』)

陸凱(りくがい)は「先帝(孫権)は大きな政治方針を立てるに当たっては顧承・陸遜・歩隲(ほしつ)・張昭(ちょうしょう)の力を借りた」と述べている。(※ただ顧承は武将としての働きが多く、顧雍の誤記のようにも思える)(『陸凱伝』)

陳寿は「張休・顧承は志を修め正して立派な仕事をなしたいと願ったが、怨みを受けて南の果てに配流されたのは哀しいことである」と評した。

「演義」には登場しない。



顧邵  顧雍の惜しくも早逝した長男


顧邵(こしょう)字は孝則(こうそく)
揚州呉郡呉県の人(??~??)

呉の臣。
顧雍(こよう)の長男。
「顧雍伝」に附伝される。

広く経書やその注釈を読み、人物評論を好んだ。若くしておじの陸績(りくせき)と並び称され、陸遜・張敦(ちょうとん)・卜静(ぼくせい)に名声で勝った。
郷里の志ある者や、各地のひとかどの人物はこぞって彼を訪ねたため、遠方まで名声は響き、それを聞いた孫権は姪(孫策の娘)の婿に迎え入れた。

丁諝(ていしょ)・張秉(ちょうへい)・吾粲(ごさん)・殷礼(いんれい)はいずれも卑賤な生まれだったが、彼らを友人として遇し、評判を呼ぶように計らった。張秉の父が亡くなった時には自ら喪服を作ってやり、衣装を整えた。4人は後にいずれも高位に上り、人々は顧邵の眼の確かさを讃えた。(『顧邵伝』)

(210年、)周瑜が病没し、龐統が遺体を届けた。陸績・顧邵らが帰ろうとする彼を見送り、その際に龐統は二人を評し「陸績は駑馬だが足が速い。顧邵は鈍牛だが重荷を背負い遠くまで行ける」と言った。
二人は「天下太平が訪れたら、ともに四海の人物を評価しましょう」と約束して別れた。

後にある人が「陸績の方が優れていることか」と尋ねると、龐統は「駑馬は優秀でも一人しか運べない。鈍牛は日に三百里しか進めないが、運べるのは一人どころではない」と答えた。
また以前、顧邵は自分と龐統のどちらが人物鑑定に優れているか尋ねていた。龐統は「世俗を教化し、人物の優劣を判断するのはあなたが上だが、帝王の採るべき秘策を考え、人間の変転する運命の要を把握しているのは私の方だ」と答え、納得した顧邵は親しく付き合うようになったという。(『龐統伝』)

27歳で初めて出仕し豫章太守となった。
出立の日、張秉が病に倒れたという知らせが届いた。顧邵は見送りに集まった数百人の賓客へ「彼に会わずに出立するのは心残りだから、少しお待ちいただきたい」と断りを入れ、見舞いに行った。彼が人物の長所だけを見て、身分を気にしなかった好例である。

赴任するとまず当地の先賢の墓に詣で、その子孫を手厚く保護し、淫祠邪教を禁じた。素質があれば身分が低くても学問をさせ、秀でれば抜擢し重職を任せた。善行を奨励し政治教化は広く浸透した。

だが赴任から5年後に在官のまま没した。(『顧邵伝』)

孫権は豫章太守の後任を誰にすればよいか呂蒙に相談すると、彼と遺恨のある蔡遺(さいい)を推薦された。孫権は「あなたは祁奚(※春秋時代に仇敵を推薦した人物)の真似をしたいのか」と笑って認めた。(『呂蒙伝』)

さらに後に豫章太守となった謝景(しゃけい)は治績を上げ、顧邵に次ぐと讃えられた。(孫登伝』)

子の顧譚(こたん)・顧承(こしょう)も優秀で、並ぶ者がないほどの名声を博したが、二宮の変に巻き込まれ、讒言により交州へ配流され、若くして没した。(『顧雍伝』)

周昭(しゅうしょう)は「優れた人物は4つのことを避ける。意見を頑固に主張すること、名誉権勢を争うこと、党派を重視すること、性急に事を運ぶことの4つだ。現代でそれを実践しずば抜けているのは顧邵・諸葛瑾(しょかつきん)・歩隲(ほしつ)・厳畯(げんしゅん)・張承(ちょうしょう)である」と述べ「顧邵は丁諝・吾粲を名家の陸氏・全氏と同列に待遇した。立派な才能が日の目を見ずに終わることはなくなり、民の気風も心の籠もったものとなった」と評した。(『歩隲伝』)

陳寿は「張承・顧邵はおのれを虚しくできる人格者で、有為の人物を見出すことに心を注いだ。周昭の論はこうした人々を見事に称賛しているから、詳しく載せた」と評した。

「演義」には登場しない。



顧済


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顧譚  謝罪を拒み死す


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顧悌


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顧秘


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顧奉


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顧裕


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顧裕


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顧雍  呉を支えた月見草


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顧礼


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