郭皇后 曹丕の皇后にして懐刀
郭皇后(かくこうごう)字は女王(じょおう)
冀州安平郡広宗県の人(184~235)
魏の初代皇帝・曹丕の皇后。
郭永(かくえい)と董氏(とうし)の娘。
5人兄妹で彼女の名のみ不明。
義娘(曹叡の妻)も同姓で二代続けて郭皇后のためややこしく、諡号の文徳皇后(ぶんとく)で呼ばれることが多い。
幼い頃から聡明で、父には「娘の中の王」と可愛がられ字にもされた。
両親が亡くなると家は没落し、召使いとして働いていたが、213年に30歳で曹操に見出され、曹丕の侍女となった。
聡明な彼女は曹丕の参謀として後継者争いに数々の献策をし、やがて側室となった。
222年、即位した曹丕が彼女を皇后に立てようとすると、桟潜(さんせん)ら群臣は側室で身分も低いと反対したが押し切った。
「王沈魏書」に曰く。
慎み深く、義母(卞氏)に孝行し、曹丕の側室たちを教育し、ミスを犯した者はかばって弁護し、曹丕へ頭を下げて許しを請うことさえしたため、後宮に彼女を恨む者はいなかった。
一族の男子には、驕って身を滅ぼすことのないよう戒めた。
彼らには同郷で家格の近い嫁を選ぶよう命じた。姉が亡くなった時も、盛大に弔いたいと言う甥を止めたと伝わる。
224年、曹丕の遠征中に長雨が続き、城壁や楼閣が壊れたため、居を移すよう勧められた。だが郭皇后は「春秋時代に貞姜は川の水が押し寄せて来た時、迎えの使者が割符(使者の証)を忘れたため、それを断り溺死しました。私にはまだそこまでの心配はありません」と断った。
225年、また曹丕が遠征中に従兄で郭一族の後継ぎの郭表(かくひょう)は川をせき止め魚を獲ろうとした。郭皇后は「川は物資輸送の道で、勝手にせき止めてはいけません。工事のための材木も無く、宮廷の竹や木を勝手に刈るつもりですか。あなたに不足しているのは本当に魚なのですか」とたしなめた。(『文徳郭皇后伝』)
曹洪(そうこう)は吝嗇で、曹丕は若い頃に借金を断られたことを根に持っていた。曹洪の食客が罪を犯すと、曹丕は処刑を命じ、群臣の反対も聞かなかった。卞太后が郭皇后を「曹洪を今日死なせたら、明日は曹丕に命じてあなたを退位させます」と脅し、郭皇后が曹丕に泣きついたため曹洪は罪を減じられた。(『曹洪伝』)
「呉質別伝」に曰く。
曹丕が従弟の曹休(そうきゅう)と腹心の呉質(ごしつ)を招いて宴会を催した時、郭皇后を呼び出して挨拶させた。二人は平伏しようとしたが、曹丕は呉質にはその必要はないと命じた。(『呉質伝』)
226年に3歳若い曹丕に先立たれた。
子供には恵まれず、養育していた曹叡が帝位を継ぎ、皇太后となり永安宮と呼ばれた。(『文徳郭皇后伝』)
「魏略」に曰く。
曹叡は実母の甄姫を曹丕に殺されており、内心では穏やかではないが、養母に敬意を払い、郭皇后も我が子のようにかわいがった。(『明帝紀』)
235年に52歳で没した。
以下の俗説がある。
「魏略」に曰く。
母を殺された曹叡が即位したことを憂慮し、郭太后は急逝した。甄姫に後を託された李夫人(りふじん)は郭太后が没すると口を開き、郭太后の讒言によって甄姫は殺され、遺体は棺に収められず髪も振り乱していたと語った。曹叡は嘆き悲しみ、郭太后の遺体も同様に扱うよう命じた。
「漢晋春秋」に曰く。
郭太后が寵愛されたため甄姫は殺され、遺体の髪は振り乱し口にはぬかが詰め込まれていた。曹叡はたびたび郭太后に母が死んだ時の様子を尋ね、彼女は「先帝(曹丕)が殺されたのになぜ私を詰問するのか。お前は子でありながら父を仇とし、義母を殺そうとするのか」と責めた。曹叡は立腹し、郭太后を殺すと甄姫の遺体と同様に扱うよう命じた。
しかし「王沈魏書」には郭太后へ曹叡の哀悼文が記され、彼女を曹丕の陵墓の西(高位を表す)に葬っており、俗説に過ぎないだろう。(『文徳郭皇后伝』)
「啓蒙注」に曰く。
周王の墓を暴いたところ、殉死者の20歳くらいの女が息を吹き返し、郭太后に気に入られ養育された。10年あまりし郭太后が没すると女は悲嘆に暮れて慟哭し、1年ほどで亡くなった。(『明帝紀』)
ちなみに「演義」では立后前の郭貴妃(かくきひ)の名で登場し、俗説通りに甄姫を陥れる。
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