三国志 か 3


郭嘉  曹操に最も愛された鬼才


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郭嘏


未作成



郭凱  曹操が匹敵した名棋士C


郭凱(かくがい)字は不明
司隸馮翊郡の人?(??~??)

棋士?

「博物志」に曰く。
山子道(さんしどう)、王九真(おうきゅうしん)、郭凱は囲碁の名手だが曹操の腕前は彼らに匹敵した。(『武帝紀』)



郭懐  曹芳に仕えた役者A


郭懐(かくかい)字は不明
出身地不明(??~??)

曹芳に仕えた役者。

「王沈魏書」に曰く。
司馬師らは曹芳の廃位を求める上奏の中で「郭懐・袁信(えんしん)らつまらぬ役者を宮殿に引き入れ、全裸で女官の女尚(じょしょう)らと乱交させた。妖婦の恰好をさせて悪ふざけさせたり、親族の女性と酒席で乱交させた。
女官の李華(りか)・劉勲(りゅうくん)ともいちゃつき、清商令(※女官長)の令狐景(れいこけい)が叱りつけると、李華・劉勲は曹芳に言いつけ、曹芳はハジキ(※弾棊に使うスティック?)で令狐景の頭や目を殴り、なおもひるまず諫言されると鉄を熱して全身を焼いた」と弾劾した。(『斉王紀』)



郭昕  謀叛の意志が無いことを伝えた公孫淵の重臣A


郭昕(かくきん)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫淵(こうそんえん)の臣。

「王沈魏書」に曰く。
237年、毌丘倹(かんきゅうけん)が遼東の討伐に向かうと、公孫淵は大司馬長史の郭昕と参軍の柳浦(りゅうほ)を筆頭にした連名で、謀叛の意志が無いことを伝えた。(『公孫度伝』)



郭訓  郭表の次男


郭訓(かくくん)字は不明
冀州安平郡広宗県の人?(??~??)

魏の臣。
郭表(かくひょう)の次男。

父の郭表は魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の従兄にあたり、郭皇后の三人の兄弟はいずれも早逝していたため、郭表が家督を継いでいた。

230年、郭訓は騎都尉に任命された。
父の郭表が没すると長男の郭詳(かくしょう)が後を継ぎ、郭表の爵位と領地は下の弟の郭述(かくじゅつ)に分け与えられたとあり、郭訓はすでに没していた可能性がある。(『文徳郭皇后伝』)



郭玄信  鄧艾と石苞の出世を予見する


郭玄信(かくげんしん)字が玄信か
豫州潁川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭誕(かくたん)の子。

「世語」に曰く。
謁者の郭玄信は218年、吉本(きつほん)の反乱に連座し罷免された。
後に使者を命じられると、典農司馬に御者が欲しいと願い出て、平民だった鄧艾と石苞(せきほう)をもらい受けた。道中で語り合い、二人とも大臣まで出世するに違いないと判断した。(『鄧艾伝』)

余談だが本文では鄧艾と石苞が12~13歳の頃とも読めるが、石苞は195年生まれなので218年の出来事としても既に24歳である。



郭建  甄悳の弟


郭建(かくけん)字は叔始(しゅくし)
荊州西平郡の人(??~??)

魏・晋の臣。
郭立(かくりつ)の次男。
二代皇帝・曹叡の皇后の郭皇后(かくこうごう)は従姉にあたる。

239年、曹芳が三代皇帝に即位すると、郭皇后の亡父の郭満(かくまん)に西都定侯が追贈され、郭建がその爵位を継いだ。

司馬師は実権を握ると、郭建の兄で甄氏の養子になっていた甄悳(しんとく)に娘を嫁がせ、甄悳・郭建は揃って鎮護将軍となり列侯された。(『明元郭皇后伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に、歩兵校尉・臨晋侯として連名した。(『斉王紀』)

「晋諸公賛」に曰く。
器量があって博学だった。
264年、臨渭県公となり1800戸に加増された。
265年、晋の代になると郭建・甄悳と一族の甄温(しんおん)は特進となり、甄悳が司馬炎の姉婿にあたるため、以後も一族は厚遇された。(『甄皇后伝』)

泰始年間(265~275)に病没し、子の郭嘏(かくか)が後を継ぎ給事中となった。(『明元郭皇后伝』)



郭憲  韓遂を匿った義人


郭憲(かくけん)字は幼簡(ようかん)
涼州西平郡の人(??~220)

魏の臣。

郡の名家の出で、建安年間(196~220)に功曹となり州に招聘されたが辞退した。
仁愛と誠実さによって誰からも心を寄せられた。

212年、韓遂(かんすい)は曹操に敗れて兵を失い、郭憲を頼った。
人々は韓遂を殺して手柄にしようとしたが、郭憲は「追い詰められ私を頼ってきた人を、どうして危険に陥れようとするのだ」と怒った。
手厚くもてなしたが、やがて韓遂は病没した。
田楽(でんがく)・陽逵(ようき)は韓遂の首を斬り、曹操のもとへ送って手柄にしようとした。彼らは郭憲も功績者の中に入れようとしたが、「生きている時も手を下せなかったのに、死人を捕まえて功績とすることなどできない」と断られた。

215年、韓遂の首と功績者の名簿が届けられると、曹操は以前から郭憲を知っていたため、名前が無いのを不思議に思い、陽逵らに事情を尋ね、その節義に感服した。
そして上奏の際に郭憲の名を加えさせ、陽逵らとともに関内侯に封じた。
郭憲の名声は響き渡った。

220年に病没した。
正始年間(240~249)のはじめに改めて名誉を採り上げられ、郭憲の子が関内侯に封じられた。

「魏略」では脂習(ししゅう)、龐淯(ほういく)、文聘(ぶんぺい)、王脩(おうしゅう)、成公英(せいこうえい)、単固(ぜんこ)らとともに「純固伝」に列伝された。(『王脩伝』)

一方、「武帝紀」には215年、韓遂を麴演(きくえん)・蔣石(しょうせき)が協力して殺し、首級を曹操へ送ったと記され、矛盾が見える。(『武帝紀』)



郭皇后  曹丕の皇后にして懐刀


郭皇后(かくこうごう)字は女王(じょおう)
冀州安平郡広宗県の人(184~235)

魏の初代皇帝・曹丕の皇后。
郭永(かくえい)と董氏(とうし)の娘。

5人兄妹で彼女の名のみ不明。
義娘(曹叡の妻)も同姓で二代続けて郭皇后のためややこしく、諡号の文徳皇后(ぶんとく)で呼ばれることが多い。

幼い頃から聡明で、父には「娘の中の王」と可愛がられ字にもされた。
両親が亡くなると家は没落し、召使いとして働いていたが、213年に30歳で曹操に見出され、曹丕の侍女となった。
聡明な彼女は曹丕の参謀として後継者争いに数々の献策をし、やがて側室となった。

222年、即位した曹丕が彼女を皇后に立てようとすると、桟潜(さんせん)ら群臣は側室で身分も低いと反対したが押し切った。

「王沈魏書」に曰く。
慎み深く、義母(卞氏)に孝行し、曹丕の側室たちを教育し、ミスを犯した者はかばって弁護し、曹丕へ頭を下げて許しを請うことさえしたため、後宮に彼女を恨む者はいなかった。
一族の男子には、驕って身を滅ぼすことのないよう戒めた。

彼らには同郷で家格の近い嫁を選ぶよう命じた。姉が亡くなった時も、盛大に弔いたいと言う甥を止めたと伝わる。

224年、曹丕の遠征中に長雨が続き、城壁や楼閣が壊れたため、居を移すよう勧められた。だが郭皇后は「春秋時代に貞姜は川の水が押し寄せて来た時、迎えの使者が割符(使者の証)を忘れたため、それを断り溺死しました。私にはまだそこまでの心配はありません」と断った。

225年、また曹丕が遠征中に従兄で郭一族の後継ぎの郭表(かくひょう)は川をせき止め魚を獲ろうとした。郭皇后は「川は物資輸送の道で、勝手にせき止めてはいけません。工事のための材木も無く、宮廷の竹や木を勝手に刈るつもりですか。あなたに不足しているのは本当に魚なのですか」とたしなめた。(『文徳郭皇后伝』)

曹洪(そうこう)は吝嗇で、曹丕は若い頃に借金を断られたことを根に持っていた。曹洪の食客が罪を犯すと、曹丕は処刑を命じ、群臣の反対も聞かなかった。卞太后が郭皇后を「曹洪を今日死なせたら、明日は曹丕に命じてあなたを退位させます」と脅し、郭皇后が曹丕に泣きついたため曹洪は罪を減じられた。(『曹洪伝』)

「呉質別伝」に曰く。
曹丕が従弟の曹休(そうきゅう)と腹心の呉質(ごしつ)を招いて宴会を催した時、郭皇后を呼び出して挨拶させた。二人は平伏しようとしたが、曹丕は呉質にはその必要はないと命じた。(『呉質伝』)

226年に3歳若い曹丕に先立たれた。
子供には恵まれず、養育していた曹叡が帝位を継ぎ、皇太后となり永安宮と呼ばれた。(『文徳郭皇后伝』)

「魏略」に曰く。
曹叡は実母の甄姫を曹丕に殺されており、内心では穏やかではないが、養母に敬意を払い、郭皇后も我が子のようにかわいがった。(『明帝紀』)

235年に52歳で没した。

以下の俗説がある。
「魏略」に曰く。
母を殺された曹叡が即位したことを憂慮し、郭太后は急逝した。甄姫に後を託された李夫人(りふじん)は郭太后が没すると口を開き、郭太后の讒言によって甄姫は殺され、遺体は棺に収められず髪も振り乱していたと語った。曹叡は嘆き悲しみ、郭太后の遺体も同様に扱うよう命じた。

「漢晋春秋」に曰く。
郭太后が寵愛されたため甄姫は殺され、遺体の髪は振り乱し口にはぬかが詰め込まれていた。曹叡はたびたび郭太后に母が死んだ時の様子を尋ね、彼女は「先帝(曹丕)が殺されたのになぜ私を詰問するのか。お前は子でありながら父を仇とし、義母を殺そうとするのか」と責めた。曹叡は立腹し、郭太后を殺すと甄姫の遺体と同様に扱うよう命じた。

しかし「王沈魏書」には郭太后へ曹叡の哀悼文が記され、彼女を曹丕の陵墓の西(高位を表す)に葬っており、俗説に過ぎないだろう。(『文徳郭皇后伝』)

「啓蒙注」に曰く。
周王の墓を暴いたところ、殉死者の20歳くらいの女が息を吹き返し、郭太后に気に入られ養育された。10年あまりし郭太后が没すると女は悲嘆に暮れて慟哭し、1年ほどで亡くなった。(『明帝紀』)

ちなみに「演義」では立后前の郭貴妃(かくきひ)の名で登場し、俗説通りに甄姫を陥れる。



郭皇后  曹叡の皇后(二代目)


郭皇后(かくこうごう)名は不明
荊州西平郡の人(??~263)

魏の二代皇帝・曹叡の2人目の皇后。
郭満(かくまん)と杜氏(とし)の娘。
義母(曹丕の妻)も同姓で二代続けて郭皇后のためややこしく、諡号の明元皇后(めいげんこうごう)で呼ばれることが多い。

もともと豪族の娘だったが黄初年間(220~226)に西平郡で反乱が起こり、連座して身分を奪われ後宮に召し上げられた。だがそれで曹叡に見初められ、たちまち夫人(序列2位)に上った。(『明元郭皇后伝』)
237年、曹叡は寵愛の薄れた毛皇后(もうこうごう)を自害させ、翌年に重病に倒れると郭皇后を立てた。(『明悼毛皇后伝』・『明元郭皇后伝』)
239年正月に曹叡は没し、皇太后となり永寧宮と呼ばれた。(『明元郭皇后伝』)

曹叡には男子が無く、一族の曹芳が即位したが8歳と幼く、表向きは郭太后が政策について諮問されたが、実際には曹爽(そうそう)らが実権を握っていた。その後の二代も皇帝が若かったため、郭太后にまず伺いを立てられた。(『明元郭皇后伝』・『曹真伝』)

「魏略」に曰く、曹爽の腹心の丁謐(ていひつ)の画策により郭太后は宮殿を追い出され別殿に住まわされた。(『曹真伝』)
249年、司馬懿は隙をつき挙兵し、郭太后の許可を得る形で曹爽一派を粛清した。(『明元郭皇后伝』・『曹真伝』)

254年、曹芳の廃位が決まり、郭太后の従父の郭芝(かくし)が参内し、曹芳と郭太后に廃位と、司馬師が曹據(そうきょ)の即位を考えていることを伝えた。曹芳は部屋を出て行き、郭太后は不機嫌さをあらわにした。
郭芝は「太后は教育に失敗なさった。司馬師は異変に備え兵を集めています。あなたにできることは何もありません」と言い、彼女が司馬師と直接話したいという意見も退け、皇帝の印綬を曹芳から没収させ、司馬師を喜ばせた。
その後、曹芳は廃位されたが、郭太后は「曹據は私の叔父で、彼が即位したら私の立場がありません。それに曹叡の血筋を絶ってしまってよいのでしょうか。礼の建前からも分家が本家の後を継ぐべきで、曹叡の甥の曹髦の即位が相応しいでしょう」と主張し了承させた。
また曹芳廃位の上奏には「郭太后が曹芳の寵愛する側室を2人殺した」と記されるが詳細は不明である。(『斉王紀』)

260年、曹髦は司馬昭を討つため自ら挙兵し、返り討ちとなった。
司馬昭は「曹髦は錯乱し郭太后を殺そうとした」と偽りの詔勅を出させた。そして庶民の格式で葬ろうとしたが、叔父の司馬孚(しばふ)は郭太后に掛け合い、王の格式で葬らせた。(『高貴郷公紀』)
毌丘倹(かんきゅうけん)、鍾会らは郭太后の意志を受けたと大義名分を掲げて反乱するなど、敵味方問わず名を利用された。

263年に没し、明元皇后と諡され、翌年に曹叡と同じ陵墓へ葬られた。(『明元郭皇后伝』)
翌265年、魏は司馬炎に禅譲し滅亡を迎える。

「演義」では紛らわしいため義母は郭貴妃と記され、彼女だけが郭皇后と書かれる。事績は史実と同じで、時の権力者の傀儡にされる。



郭貢  荀彧に恐れをなして反乱をやめる


郭貢(かくこう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

194年、曹操が徐州の陶謙(とうけん)征伐に向かうと、張邈(ちょうばく)は陳宮(ちんきゅう)と共謀して呂布を迎え入れ反乱した。
豫州刺史の郭貢が数万の兵を率いて救援に駆けつけたが、呂布と共謀しているのではと諸将は疑った。
留守を預かる荀彧が会見に応じようとすると夏侯惇は「君は州全体の抑えだ。行けば危険に決まっている」と反対したが「郭貢・張邈は立場から結託していたはずがない。いち早くやって来たのはまだ判断を決めかねているからでしょう。説得すれば味方にならなくても中立にはできます。はじめから共謀しているのではと疑ってかかったら怒って反乱を決意させてしまいます」と言い、会見した。
郭貢は荀彧が堂々としていたため、反乱しても容易には勝てないと考え撤退した。(『荀彧伝』)



郭子瑜  許劭に推挙された6人の賢者D


郭子瑜(かくしゆ)字が子瑜か
豫州汝南郡の人?(??~??)

素性不明。

「汝南先賢伝」に曰く。
馬を世話する役人をしていた。
許劭(きょしょう)は樊子昭(はんししょう)・虞永賢(ぐえいけん)・李淑才(りしゅくさい)・郭子瑜・楊孝祖(ようこうそ)・和洽(かこう)ら6人の賢者を推挙した。6人には及ばないが、伸び悩んでいたり子供の頃に許劭に評価されて名を上げた者は数え切れないほど多かった。
見せかけの品行を暴き、虚偽の名声を抑えつけたのは周の単襄公さえ問題にならないほどだった。(『和洽伝』)



郭汜  妻の嫉妬にご用心


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郭芝  郭皇后(曹叡)の従父


郭芝(かくし)字は不明
荊州西平郡の人?(??~??)

魏の臣。
二代皇帝の曹叡の二人目の皇后である郭皇后(かくこうごう)の従父。

「魏略」に曰く。
郭皇后が寵愛されるにつれ、一族も恩恵にあずかったが、郭芝は一族の中で最も勇敢かつ率直で、自らの功績により列侯された。

曹叡が即位すると虎賁中郎将に任じられ、三代皇帝・曹芳の代には散騎常侍・長水校尉に上った。(『明元郭皇后伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に、関内侯として連名した。
「魏略」に曰く。
郭芝が参内し、曹芳と郭太后に廃位と、司馬師が曹拠(そうきょ)の即位を考えていることを伝えた。曹芳は部屋を出て行き、郭太后は不機嫌さをあらわにした。
郭芝は「太后は教育に失敗なさった。司馬師は異変に備え兵を集めています。あなたにできることは何もありません」と言い、彼女が司馬師と直接話したいという意見も退け、皇帝の印綬を曹芳から没収させ、司馬師を喜ばせた。
その後、曹芳は廃位されたが、郭太后は曹據ではなく曹髦の即位を主張し了承させた。(『斉王紀』)



郭述  郭表の三男か


郭述(かくじゅつ)字は不明
冀州安平郡広宗県の人?(??~??)

魏の臣。
郭表(かくひょう)の三男か。

父の郭表は魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の従兄にあたり、郭皇后の三人の兄弟はいずれも早逝していたため、郭表が家督を継いでいた。

父の郭表が没すると長男の郭詳(かくしょう)が後を継ぎ、郭表の爵位と領地は下の弟の郭述に分け与えられ、さらに列侯に封じられた。(『文徳郭皇后伝』)



郭純


未作成



郭循  費禕を暗殺した降将


郭循(かくじゅん)字は孝先(こうせん)
涼州西平郡の人(??~253)

魏の臣。
名は郭脩(かくしゅう)ともいう。

253年正月、宴会の席で酔い潰れていた大将軍の費禕(ひい)を殺した。(※郭循もその場で殺された)(『費禕伝』)

張嶷(ちょうぎょく)は費禕が大将軍に上っても以前と変わらず博愛主義で、降伏者をあまりにも信用しすぎるため、故事を引き暗殺を警戒するよう戒めていた。(『張嶷伝』)

「魏氏春秋」に曰く。
平素より品行に優れ西方で評判を取った。姜維に敗れて降伏し、左将軍に任じられた後も屈服せず劉禅の暗殺を狙ったが、機会がなかったため代わりに費禕を殺した。

同年、曹芳は「亡き中郎の郭脩は節操を磨き品行を高め正しい心の持ち主だった。姜維に西平郡を攻撃され捕虜となった後も密かに復讐を狙い、宴会の席で費禕を殺した。勇敢さと功績は聶政や傅介子(※暗殺で歴史に名を残した古人)を凌駕し、我が身を犠牲にして仁を成し遂げ、命を捨てて信義を選び取った」と激賞し、長楽郷公を追贈し領邑1千戸を与え成侯と諡した。
子が爵位を継ぎ、奉車都尉に任じられ、銀と絹を贈られた。

裴松之は「蜀は魏にとって仇敵ではなく、滅亡を危惧するような大敵でもない。劉禅は凡庸暗愚で費禕は中くらいの才能しかなく、この二人が生きようが死のうが魏の興亡には影響しない。郭脩ももともと魏にとって重要な存在ではなく、節操を守れず蜀へ降伏し、魏から俸禄をもらっているわけでもないのに勝手にもっともらしい態度でとんでもない無駄死にをした。なんの信義も功績もなく聶政や傅介子とは比較にもならない。(それを激賞するのは)全くの無茶である」と非難した。(『斉王紀』)

虞喜(ぐき)の「志林」に曰く。
「費禕は総司令官でありながら来敏(らいびん)と悠然と碁に興じ、余裕と準備万端さを称えられたが、長寧(ちょうねい)は彼を「君子たるもの事に臨んでは心に恐れを抱き、十分に計略を練って成し遂げねばならない」と非難した。そもそも小国の蜀にそんな余裕は無い。費禕が大まかな性格で細かなことに気を配らないことを示している逸話で、郭脩に殺される前兆だった。
長寧の費禕への諫言と、呂岱(りょたい)の諸葛恪(しょかつかく)への諫言は根本において同じであり、ここに併記して後世への戒めとする」(『諸葛恪伝』)

「演義」には登場しないが「横山三国志」では1コマだけながら暗殺シーンが描かれた。



郭釗  郭詳の子


郭釗(かくしょう)字は不明
冀州安平郡広宗県の人?(??~??)

魏の臣。
郭詳(かくしょう)の子。

祖父の郭表(かくひょう)は魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の従兄にあたり、郭皇后の三人の兄弟はいずれも早逝していたため、郭表が家督を継いでいた。

郭表が没すると父の郭詳が後を継ぎ、郭詳も没すると子の郭釗が後を継いだ。(『文徳郭皇后伝』)



郭敞  郭嘉の出世した孫


郭敞(かくしょう)字は泰中(たいちゅう)
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭嘉の孫。

「世語」に曰く。
才能・見識があり散騎常侍まで上った。(『郭嘉伝』)

書きぶりから見て郭奕(かくえき)の子ではないと思われる。



郭詳  郭表の長男


郭詳(かくしょう)字は不明
冀州安平郡広宗県の人?(??~??)

魏の臣。
郭表(かくひょう)の長男。

父の郭表は魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の従兄にあたり、郭皇后の三人の兄弟はいずれも早逝していたため、郭表が家督を継いでいた。

230年、郭表は安陽亭侯、次いで安陽郷侯に封じられ、中塁将軍に昇進し、長男の郭詳も騎都尉に任命された。
235年、郭詳は駙馬都尉に昇進した。
父の郭表が没すると郭詳が後を継ぎ、郭表の爵位と領地は下の弟の郭述(かくじゅつ)に分け与えられた。

郭詳が没すると子の郭釗(かくしょう)が後を継いだ。(『文徳郭皇后伝』)



郭深  郭嘉の孫


郭深(かくしん)字は不明
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭奕(かくえき)の子。郭嘉の孫。

父が早逝すると後を継いだ。
その後は子の郭猟(かくりょう)が後を継いだ。(『郭嘉伝』)



郭諶  漢中征伐で撤退しようとした曹操を諌める


郭諶(かくしん)字は不明
兗州東郡の人(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
215年、曹操は漢中の張魯(ちょうろ)の征伐に乗り出したが、張魯の弟の張衛(ちょうえい)の抵抗に遭い、兵糧も尽きたため撤退しようとした。
西曹掾の郭諶が「張魯は(内心では)降伏しており、魏の使者を引き止めています。張衛だけが抵抗し孤立しており、このまま戦いを続ければ必ず勝てますが、敵中深くから撤退すれば絶対に敗北します」と反対したが、曹操はなおもためらっていた。
夜、野生の鹿が数千頭、たまたま張衛の陣地に侵入し、さらに高祚(こうそ)の軍が誤って張衛軍に出くわした。高祚が軍鼓を鳴らして味方を呼ぶと、張衛は大軍に急襲されたと思い込み、降伏した。(『張魯伝』)



郭正  郭淮の孫


郭正(かくせい)字は不明
并州太原郡陽曲県の人(??~??)

晋の臣。
郭統(かくとう)の子。郭淮の孫。

父が没すると後を継いだ。
咸熙年間(264~265)、五等級の爵位制度が作られると郭淮の勲功を改めて採り上げ、郭正は汾陽子に封じられた。(『郭淮伝』)



郭正  法真の友人


郭正(かくせい)字は不明
出身地不明(??~??)

素性不明。

「三輔決録注」に曰く。
法真(ほうしん)は名声高くたびたび招聘されたが仕官することはなく友人の郭正らに「玄徳先生」と呼ばれた。(『法正伝』)



郭成  郭皇后(曹丕)の兄弟達


郭成(かくせい)字は不明
冀州安平郡広宗県の人(??~??)

魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の弟。
両親は郭永(かくえい)と董氏(とうし)。

「王沈魏書」に曰く。
5人兄妹で、以下に事績を列記する。
長男の郭孚(かくふ)は高唐の令となった。
長女の郭昱(かくいく)は嫁ぎ孟武(もうぶ)を生んだ。
次女の郭皇后は184年に生まれ、彼女の名だけが不明。
次男の郭都(かくと)、三男の郭成は特に事績がなく、兄弟いずれも早逝したため従兄の郭表(かくひょう)が家督を継いだ。

長女の郭昱は230~235年頃に没し、子の孟武は手厚く弔おうとしたが、質素を重んじた郭皇后に止められた。
235年に郭皇后も没し、翌年に郭孚へ梁里亭戴侯、郭都へ武城亭孝侯、郭成へ新楽亭定侯がそれぞれ追贈された。(『文徳郭皇后伝』)

郭皇后がまだ曹丕の側室だった頃、弟(※名は不祥)は曲周県の小役人をしており、官用の布を盗んだ罪で死刑を命じられた。曹丕は直筆の手紙を鮑勛(ほうくん)に送り減刑を頼んだが、厳格な鮑勛は聞き入れず、事の次第を詳しく曹操へ報告したため、曹丕は恨んだ。
この弟が郭成か郭都と思われ、早逝した理由は処刑かも知れない。(『鮑勛伝』)



郭政  胡質の事件簿1の犯人


郭政(かくせい)字は不明
冀州陽平郡頓丘県の人(??~??)

平民。

従妹と密通し、その夫の程他(ていた)を殺害した。
郡吏の馮諒(ふうりょう)が疑われ、郭政・従妹・馮諒らは投獄されて鞭打ちの拷問を受け、郭政と従妹は耐えたが馮諒は偽りの自白をした。
頓丘県令に着任した胡質(こしつ)は彼らの態度から真相を見抜き、詳しく取り調べ罪を暴いた。(『胡質伝』)



郭石  区星に呼応した賊徒B


郭石(かくせき)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

長沙郡で反乱した区星(おうせい)は1万人を集め周辺を攻撃したが、長沙太守に赴任した孫堅に1月も経たずに撃破された。
周朝(しゅうちょう)・郭石も区星に呼応し零陵・桂陽郡で民衆を率い反乱していたが、孫堅は郡境を越えて討伐し全て平定した。

「呉録」に曰く。
豫章郡宜春県からも救援要請を受けた。任地外への討伐は本来は違法のためやめるよう進言されたが、孫堅は「私には文徳もなくただ征伐によって功績を立ててきた。郡境を越えて討伐し人々を救えるなら、罪を得たとしても天下の人々になんら恥じることはない」と構わず出撃した。(『孫堅伝』)

188年、長沙・零陵・桂陽郡で反乱した不服住民の周朝・蘇馬(そば)らの討伐で朱治(しゅち)は手柄を立てた。(『朱治伝』)



郭全  郭淮の祖父


郭全(かくぜん)字は不明
并州太原郡陽曲県の人(??~??)

後漢の臣。
郭淮の祖父。

「郭氏譜」に曰く、郭淮の祖父の郭全は大司農を、父の郭縕(かくうん)は雁門太守を務めた。(『郭淮伝』)



郭祖  呂虔・何夔に討伐された海賊


郭祖(かくそ)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

200年頃、曹操は呂虔(りょけん)に泰山太守を兼任させた。泰山郡は山海に接し、各地からの流民が隠れ住んでいた。袁紹は郭祖・公孫犢(こうそんとく)らを中郎将に任じ、山に潜み暗躍させていたが、呂虔の恩愛と信義ある統治により郭祖らは降伏し、流民たちも山を降りた。
呂虔は彼らから屈強の者を徴兵し、泰山郡は兗州の筆頭格の精鋭となった。(『呂虔伝』)

(208年より後)海賊の郭祖が楽安・済南郡へ侵攻すると、曹操は何夔(かき)が長広郡を治めた手腕を思い出し、楽安太守に赴任させた。数ヶ月で平定された。(『何夔伝』)



郭大賢  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


郭大賢(かくたいけん)字が大賢か
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、黄龍(こうりゅう)、左校(さこう)、張牛角(ちょうぎゅうかく)、于氐根(うていこん)、劉石(りゅうせき)、平漢(へいかん)、張燕(ちょうえん)、于毒(うどく)ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。

「漢紀」に曰く。
左校、郭大賢、左髭丈八(さしじょうはち)ら3人が他に大きな徒党を率いていた。(『張燕伝』)

「英雄記」に曰く。
193年(『後漢書 袁紹伝』)、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を破り祝勝会を開いていたが、魏郡で反乱が起き、黒山賊の于毒らによって太守の栗成(りつせい)が殺され鄴が陥落したという急報が届き、鄴に家族がいる人々は動揺したが、袁紹は泰然自若としていた。
賊の陶升(とうしょう)はもともと魏郡内黄県の下役人を務めていた善良な人物で、城壁を乗り越えて役所に入り込み、袁紹らの家族や官吏を保護して逃走した。袁紹は陶升と合流し、于毒を討ち取った。
さらに左髭丈八も殺し、劉石・張牛角・黄龍・左校・郭大賢・李大目(りたいもく)・于氐根らの砦を破壊し、頭目の彼らは逃走したが数万の首級を上げた。(『袁紹伝』)

陶升は平漢将軍を自称しており(『後漢書 袁紹伝』)、「ちくま版」は平漢と陶升を同一人物としている。

「典略」に曰く、頭目らは髭が豊かだから于氐根、目が大きいから李大目のように異名を名乗る者もいた。(『張燕伝』)
郭大賢も智力を売りにした異名かもしれない。



郭泰


未作成



郭逴


未作成



郭端  代郡の汚職官吏


郭端(かくたん)字は不明
幽州代郡の人?(??~??)

魏の臣。

代郡で郝温(かくおん)とともに上級官吏を務め、烏丸と結託し私腹を肥やしていた。
だが代郡太守として裴潜(はいせん)が赴任すると、兵を連れず一台の車で現れた彼の態度に感激した烏丸は服従し、勢いを得た裴潜は郝温・郭端ら十余人の汚職官吏を処刑し、民衆から熱烈な支持を受けた。(『裴潜伝』)



郭誕  邵疇に救われる


郭誕(かくたん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

274年、会稽郡で孫奮(そんふん)が帝位につくという噂が流れた。
奚熙(けいき)はこれを受け会稽太守の郭誕に手紙を送り国政を非難した。
郭誕はこの手紙を孫晧へ報告したが、流言は報告しなかったため逮捕された。

郭誕は動揺のあまり弁解できず、彼の功曹を務める邵疇(しょうちゅう)は、自分に責任があると偽って出頭した。しかし孫晧の怒りは解けず、このままでは共倒れになると思い、自害し遺言で無実を訴えた。
孫晧は遺言を読み、郭誕の罪を減じ、建安で造船の労役に就かせた。そして邵疇の節義を讃え、全国の郡や県の役所へ、彼の肖像を廟堂に描くよう命じた。

一方、奚熙は兵を集め海路を遮断し抵抗したが、部下に裏切られ殺された。首は都に送られ、一族皆殺しにされた。(『孫晧伝』)



郭誕  郭玄信の父


郭誕(かくたん)字は玄奕(げんえき)
豫州潁川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭玄信(かくげんしん)の父。

「世語」に曰く。
曹操の監軍を務めた。
子の郭玄信はまだ平民の頃の鄧艾と石苞(せきほう)の出世を予見した。(『鄧艾伝』)



郭智  杜畿に息子を褒められる


郭智(かくち)字は君謀(くんぼう)
涼州金城郡の人?(??~??)

魏の臣。

東安太守を務めた。
ある時、親しく付き合っていた杜畿(とき)に、李義(りぎ)とともに息子を紹介した。
すると杜畿は「李義には子が無い。いずれ家も無くすだろう。郭智の子は父の後を継ぎ、郭智が死なないのと同じことだ」と言った。
李義の子の李豊(りほう)はすでに名声高く、郭智の子の郭沖(かくちゅう)は風采が上がらず評価されていなかったため人々は誤りだと考えた。
だが後に李豊は反乱を企てて一家を滅ぼし、郭沖は代郡太守として名を上げ、杜畿の見立ては的中した。(『杜畿伝』)



郭沖  裴松之にブチギレされる


郭沖(かくちゅう)字は君謀(くんぼう)
涼州金城郡の人(??~??)

魏の臣。
東安太守を務めた郭智(かくち)の子。

ある時、父の郭智は親しく付き合っていた杜畿(とき)に、李義(りぎ)とともに息子を紹介した。
すると杜畿は「李義には子が無い。いずれ家も無くすだろう。郭智の子は父の後を継ぎ、郭智が死なないのと同じことだ」と言った。
李義の子の李豊(りほう)はすでに名声高く、郭智の子の郭沖(かくちゅう)は風采が上がらず評価されていなかったため人々は誤りだと考えた。
だが後に李豊は反乱を企てて一家を滅ぼし、郭沖は代郡太守として名を上げ、杜畿の見立ては的中した。(『杜畿伝』)

晋代に司馬駿(しばしゅん)のもとで諸葛亮の人物評をした際に、多くの者が非難した。だが郭沖は「知略は管仲・晏嬰にも勝るが、北伐が成功しなかったため非難されているだけだ」と言い、世に知られていない五箇条の業績を列挙し、人々を論破した。

しかし裴松之は(よほど腹が立ったのか)五箇条全てに事細かに反論し与太話だと一蹴している。(『諸葛亮伝』)

ちなみに五箇条の業績のうち「厳しい法律に反対した法正を論破」、「空城の計で司馬懿を騙す」、「劣勢でも兵に予定通り休暇を取らせようとして奮起させる」は「演義」で採用されている。



郭鎮  郭奕の父


郭鎮(かくちん)字は季南(きなん)
并州太原郡陽曲県の人(??~??)

魏の臣。
郭淮の四弟。

「晋諸公賛」に曰く。
謁者僕射まで上った。
姉妹は「晋書」に列伝される裴秀(はいしゅう)・賈充(かじゅう)に嫁ぎ、子の郭奕(かくえき)も伯父の郭淮と同じ雍州刺史となり「晋書」に列伝された。(『郭淮伝』)



郭展  郭配の長子


郭展(かくてん)字は泰舒(たいじょ)
并州太原郡陽曲県の人(??~??)

晋の臣。
郭配(かくはい)の長子。郭淮の甥。

「晋諸公賛」に曰く。
器量と才幹があり、重職を歴任して実績を上げ、太僕まで上った。
姉妹は「晋書」に列伝される裴秀(はいしゅう)・賈充(かじゅう)に嫁いだ。(『郭淮伝』)



郭図  策士策に溺れる


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郭都  郭皇后(曹丕)の兄弟達


郭都(かくと)字は不明
冀州安平郡広宗県の人(??~??)

魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の弟。
両親は郭永(かくえい)と董氏(とうし)。

5人兄妹で、以下に事績を列記する。
長男の郭孚(かくふ)は高唐の令となった。
長女の郭昱(かくいく)は嫁ぎ孟武(もうぶ)を生んだ。
次女の郭皇后は184年に生まれ、彼女の名だけが不明。
次男の郭都、三男の郭成(かくせい)は特に事績がなく、兄弟いずれも早逝したため従兄の郭表(かくひょう)が家督を継いだ。

長女の郭昱は230~235年頃に没し、子の孟武は手厚く弔おうとしたが、質素を重んじた郭皇后に止められた。
235年に郭皇后も没し、翌年に郭孚へ梁里亭戴侯、郭都へ武城亭孝侯、郭成へ新楽亭定侯がそれぞれ追贈された。(『文徳郭皇后伝』)

郭皇后がまだ曹丕の側室だった頃、弟(※名は不祥)は曲周県の小役人をしており、官用の布を盗んだ罪で死刑を命じられた。曹丕は直筆の手紙を鮑勛(ほうくん)に送り減刑を頼んだが、厳格な鮑勛は聞き入れず、事の次第を詳しく曹操へ報告したため、曹丕は恨んだ。
この弟が郭都か郭成と思われ、早逝した理由は処刑かも知れない。(『鮑勛伝』)



郭統  郭淮の子


郭統(かくとう)字は不明
并州太原郡陽曲県の人(??~??)

魏の臣。
郭淮の子。

「世語」に曰く。
251年、王淩(おうりょう)が反乱未遂により処刑された。郭淮の妻は王淩の妹で、連座して妻も逮捕されると、配下や羌族、民衆は数千人がこぞって助命嘆願したが、郭淮は認めなかった。
しかし5人の子が揃って叩頭し血を流しながら訴えると、ようやく奪還を命じた。数千人が追い掛けて連れ戻し、郭淮は「妻を失えば5人の子も後を追います。そうなれば私も死にます。罪に問われるならば服します」と司馬懿へ申し出たが、赦免された。(『郭淮伝』)

255年、父が没すると後を継いだ。
荊州刺史まで上り、没すると子の郭正(かくせい)が後を継いだ。(『郭淮伝』)



郭徳


未作成



郭馬  呉を滅ぼした大反乱


郭馬(かくば)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

279年、合浦太守の脩允(しゅういん)は桂林太守に転任となったが、病気のため広州に留まり、先に私兵隊長の郭馬に500の兵を預けて桂林郡へ行かせ、異民族の慰撫に当たらせた。
ところが脩允はそのまま没し、兵は分割され各地へ転属させられることになった。郭馬らは父祖の代から同じ軍団に属しており、分かれることを望まなかった。
折しも孫晧は課税のため広州の戸籍を正確に調べようとしており、民衆は不安を抱いていた。郭馬は軍団の将の何典(かてん)、王族(おうぞく)、呉述(ごじゅつ)、殷興(いんこう)らと共謀し、兵や民衆を扇動して蜂起した。(『孫晧伝』)

王蕃(おうばん)は孫晧の逆鱗に触れ266年に殺され、弟の王著(おうちょ)と王延(おうえん)は広州に強制移住させられていた。
二人は郭馬に従わなかったため殺された。(『王蕃伝』)

広州督の虞授(ぐじゅ)を殺し、郭馬が都督交広二州諸軍事・安南将軍を名乗るなど官位を僭称し、反乱軍は何典が蒼梧郡へ、王族が始興郡へ侵攻した。

「漢晋春秋」に曰く。
以前に予言者が「呉は南の辺境から公孫に滅ぼされる」と言ったため、孫晧は公孫姓の者を官吏から兵卒まで全て広州へ強制移住させた。郭馬の反乱を聞き「天が呉を滅ぼそうとしている」と酷く怯えた。

呉は滕脩(とうしゅう ※本文では別名の滕循(とうじゅん)と記される)の討伐軍を派遣したが、始興郡で王族軍に足止めされるうちに、郭馬は南海太守の劉略(りゅうりゃく)を殺し、広州刺史の徐旗(じょき)を追放した。
そこで孫晧は徐陵督の陶濬(とうしゅん)に西から攻めさせ、交州牧の陶璜(とうこう)に滕脩・陶濬を援護させようとした。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始した。陶濬は武昌まで進んだところでその急報を聞き、晋軍に備えるため広州へは向かわなかった。

呉は晋軍に大敗し翌年に滅亡した。
その影響か郭馬の反乱の顛末は不明である。(『孫晧伝』)

陸機は「弁亡論」の中で「273年に反乱した歩闡(ほせん)は陸抗に撃退された。だが陸抗も没すると(279年からの)晋の侵攻は曹操の侵攻よりも盛大ではなく、郭馬が起こした反乱は歩闡よりも劣ったがそれによって呉は滅びた」と末期の呉の脆弱さの例えに上げている。(『孫晧伝』)



郭配  郭淮の次弟


郭配(かくはい)字は仲南(ちゅうなん)
并州太原郡陽曲県の人(??~??)

魏の臣。
郭淮の次弟。

「晋諸公賛」に曰く。
高い名声があり城陽太守まで上った。
「晋書」に列伝される裴秀(はいしゅう)・賈充(かじゅう)はどちらも娘婿である。
子の郭展(かくてん)も才覚あり太僕まで上った。(『郭淮伝』)



郭頒


未作成



郭表  郭皇后(曹丕)の従兄


郭表(かくひょう)字は不明
冀州安平郡広宗県の人?(??~??)

魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の従兄。

郭皇后の三人の兄弟はいずれも早逝していたため、父の郭永(かくえい)の後を、従兄の郭表が継ぎ奉車都尉となった。

「王沈魏書」に曰く。
郭皇后は郭表や甥の孟武(もうぶ)に、驕って身を滅ぼすことのないよう常々戒めた。

225年、曹丕の遠征中に、郭表は川をせき止め魚を獲ろうとした。郭皇后は「川は物資輸送の道で、勝手にせき止めてはいけません。工事のための材木も無く、宮廷の竹や木を勝手に刈るつもりですか。あなたに不足しているのは本当に魚なのですか」とたしなめた。

230年、郭表は安陽亭侯、次いで安陽郷侯に封じられ、中塁将軍に昇進し、長男の郭詳(かくしょう)も騎都尉に任命された。
同年には昭徳将軍、光禄大夫、特進に上り、次男の郭訓(かくくん)も騎都尉に任じられた。
235年、郭皇后が没すると郭表は観津侯となり領地を1千戸に倍増された。
郭表が没すると長男の郭詳が後を継ぎ、郭表の爵位と領地は下の弟の郭述(かくじゅつ)に分け与えられた。(『文徳郭皇后伝』)



郭孚  郭皇后(曹丕)の兄弟達


(かくふ)字は不明
冀州安平郡広宗県の人(??~??)

魏の初代皇帝・曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の兄。
両親は郭永(かくえい)と董氏(とうし)。

「王沈魏書」に曰く。
5人兄妹で、以下に事績を列記する。
長男の郭孚は高唐の令となった。
長女の郭昱(かくいく)は嫁ぎ孟武(もうぶ)を生んだ。
次女の郭皇后は184年に生まれ、彼女の名だけが不明。
次男の郭都(かくと)、三男の郭成(かくせい)は特に事績がなく、兄弟いずれも早逝したため従兄の郭表(かくひょう)が家督を継いだ。

長女の郭昱は230~235年頃に没し、子の孟武は手厚く弔おうとしたが、質素を重んじた郭皇后に止められた。
235年に郭皇后も没し、翌年に郭孚へ梁里亭戴侯、郭都へ武城亭孝侯、郭成へ新楽亭定侯がそれぞれ追贈された。(『文徳郭皇后伝』)



郭謀  満寵の罷免を阻止する


郭謀(かくぼう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
王淩(おうりょう)は満寵(まんちょう)と険悪で、老齢で酒におぼれているから地方に赴任しているのはよろしくないと上奏した。
曹叡が罷免しようとすると給事中の郭謀は「満寵は汝南太守・豫州刺史を務め20年に渡り功績を上げました。淮南を守ってからは呉にもはばかられています。もし上奏が嘘ならば呉に付け入る隙を与えます。まず都に召還し様子を見ましょう」と提案した。
召還された満寵は酒を1石飲んでも酔わなかったため、曹叡は慰労して任地へ帰した。(『満寵伝』)



郭睦


未作成



郭満  郭皇后(曹叡)の父


郭満(かくまん)字は不明
荊州西平郡の人(??~??)

魏の臣。
曹叡の皇后の郭皇后(かくこうごう)の父。

239年、曹叡が没し三代皇帝の曹芳が即位すると、郭太后となり、すでに亡くなっていた郭満には西都定侯が追贈された。
郭満の妻の杜氏(とし)には領地が与えられており、存命とわかる。(『明元郭皇后伝』)



郭攸之  目立たない男


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郭豫  郭配の次子


郭豫(かくよ)字は泰寧(たいねい)
并州太原郡陽曲県の人(??~??)

晋の臣。
郭配(かくはい)の次子。郭淮の甥。

「晋諸公賛」に曰く。
相国参軍となり名を知られたが早逝した。
姉妹は「晋書」に列伝される裴秀(はいしゅう)・賈充(かじゅう)に嫁ぎ、娘は王衍(おうえん)に嫁いだ。(『郭淮伝』)

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