三国志 か 1


何晏  私腹を肥やした清談の始祖


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何惲


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何龕


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何姫  孫皓の母


何姫(かき)名は不明
揚州丹陽郡句陽の人(??~??)

孫和(そんか)の側室。
何遂(かすい)の娘。

孫権が軍営の視察をした時、それを見物していた何姫を遠くから見ただけで並の人物ではないと見抜き、後宮に入れさせ、息子の孫和に与えた。
後に4代皇帝となる孫皓が生まれると、孫権は喜び彭祖(ほうそ)と名付けた。

250年、二宮の変の末に孫和は太子から廃され、何姫ともども長沙に移住させられた。
253年、孫和の母の王夫人(おうふじん)と険悪だった孫魯班(そんろはん)は、呉の実権を握る孫峻(そんしゅん)をそそのかし、孫和と正室の張氏(ちょうし)に自害を命じさせた。
何姫は「全員が殉死したら誰が孤児を育てれば良いのでしょう」と助命嘆願し、孫皓ら4人の子を育てた。

264年、孫皓は4代皇帝に即位すると、亡父の孫和に昭献皇帝を追贈し、母の何姫を昭献皇后、次いで皇太后に立てた。
何姫の三人の弟も列侯され、何氏は権勢をほしいままにした。
そのため人々は呉末期に「孫皓は死んでおり何氏の子弟が皇帝に成り代わっている」というデマまで流した。(『孫和何姫伝』)

孫皓の暴虐が募ると、朝臣たちは滕皇后(とうこうごう)の父である滕牧(とうぼく)を押し立てて諫言したが、滕皇后への寵愛が冷めかけており、孫皓は不快に思った。
何姫が滕皇后を弁護してやり、孫皓の寵愛する巫女たちも廃后は不吉だと反対したため廃后や死罪は免れたが、滕牧は爵位はそのままで交州蒼梧郡へと強制移住させられ、その途上で心労から没した。
そうしたことから滕皇后は義母の何姫のご機嫌伺いを欠かさなかった。だが皇后付きの官吏は名目上のみ揃えられ、形式だけの朝賀などが続けられ、孫皓は後宮のお気に入りに皇后の印綬を次々と与えたという。(『孫皓滕夫人伝』)

271年、孫皓は「呉の天子が都に上る」という予言を信じ、何姫や妻妾を連れて洛陽に向かったが、重臣らに引き止められた。(『孫皓伝』)
何姫の記録はこれを最後に途絶え、呉の滅亡前に没したと思われる。



何儀  黄巾の灯は消えず


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何夔  殴られたら服毒死


何夔(かき)字は叔龍(しゅくりゅう)
豫州陳郡陽夏の人(??~??)

魏の臣。

8尺3寸の長身で、慎み深く威厳のある容貌だった。
早くに父を亡くしたが母・兄と仲睦まじさを称賛された。

曽祖父は名臣だったが、従父の何衡(かこう)が宦官に陥れられて官を失い、何夔は慨嘆し首長の任命に応じなかった。
戦乱を避けて淮南に移住すると、袁術に招聘されたが断った。しかし袁術は何夔を引き止め、陳郡蘄陽を攻めると、同郡出身の何夔を脅して降伏勧告させようとした。
何夔は謀臣の李業(りぎょう)へ故事を引いて皮肉を吐くと逃亡した。
袁術は何夔が縁戚にあたるため(※何夔の叔母が袁術と同族の袁遺(えんい)の母)恨みはしたが危害は加えず、計画を取りやめた。

197年、何夔は袁術の追跡を恐れて慎重に帰郷し、曹操に招かれて司空掾となった。
その頃、袁術軍が混乱に陥っているという情報が届き、曹操に意見を求められると「天が助ける者は順、人が助ける者は信です。袁術は順も信も無いのに天と人の助けを望んでいます。道義に背いた主君は親戚にも見捨てられます。ましてや臣下はなおさらです。混乱するのは必定です」と答えた。
曹操も「賢者を逃せば国は滅びる。袁術は君を用いられなかったのだから当然だ」と同意した。

司空掾は職務でミスを犯すと曹操に杖で殴られることがたびたびあった。何夔は恥辱を受けまいと、殴られたら服毒死しようと常に毒薬を携帯していたため殴られなかった。
(※後世の孫盛は臣下に礼を持たずに殴る曹操と、小さな恥辱を恐れて毒薬で牽制する何夔をともに非難している)

当時、劉備に連動して東南の諸県が不穏な動きを見せたため、曹操は名家の出の何夔や陳羣(ちんぐん)を県令に任じて鎮撫した。
何夔は城父県令から長広太守に上った。
長広郡は豪族の力が強く、袁譚(えんたん)は彼らに官位を与えて援助していた。
管承(かんしょう)は3千軒を率いて暴れまわり、誰もが討伐を願い出たが何夔は「彼らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、道徳を知らないから善に戻れないだけだ。討伐すれば全滅を恐れて激しく抵抗し、勝っても大きな被害を受ける。恩愛道徳を教えて自ら反省させれば、兵を用いる必要はない」と言い、黄珍(こうちん)を派遣し利害を説かせると、管承は降伏した。
また成弘(せいこう)を校尉に任じて彼らを率いさせると、反抗していた県丞らも降った。
何夔はなおも従わず数千人を率いる従銭(じゅうせん)を張遼とともに討伐し、3千軒を上げて反乱した王営(おうえい)には、王欽(おうきん)に計略を授けて対処させ、わずか10ヶ月で全てを平定した。

その頃、曹操は新たに条例を制定し州郡を取り締まろうとした。何夔は平定したばかりで飢饉もあったため、急に法で縛れば反乱されると考え、3年ほどの猶予を見るよう訴え、認められた。
中央へ召し返され丞相府で軍事に参与したが、海賊の郭祖(かくそ)が楽安郡へ侵攻すると、曹操は何夔が長広郡を治めた手腕を思い出し、楽安太守に赴任させた。数ヶ月で平定された。

何夔は都に戻り丞相東曹掾になると、公正な人事登用法を考案し認められた。(『何夔伝』)
213年、曹操が魏公になると尚書に上った。(『武帝紀』)
216年、魏が建国されると尚書僕射になった。(『何夔伝』)
大司農の袁覇(えんは)は同郷の何夔とともに評判高かった。(『袁渙伝』)

当時、丁儀(ていぎ)が曹植(そうしょく)を担ぎ後継者争いを繰り広げていた。
何夔は丁儀と不仲だったため、傅巽(ふそん)は「あなたの友人の毛玠(もうかい)も既に陥れられました。丁儀を少し立ててやりなさい」と忠告したが「道義に外れた行いをすれば我が身を損なうだけで、他人を損なうことはできない。そのうえ邪な心を抱いて高位にいれば長くはない」と何夔は聞き入れなかった。

217年、曹操は涼茂(りょうぼう)を太傅、何夔を少傅に任じ、太子に立てられた曹丕や諸侯の属官を選ばせた。涼茂が没すると何夔が後任となった。
太傅として毎月一日に参内すると、曹丕は正装に着替えて出迎え礼を尽くした。
何夔が太僕に昇進すると、曹丕は送別会に招いたが法を盾に固辞した。
何夔の正道を歩む様はこのようだったが、一方で節倹の世の中で最も贅沢を好んでいたという。

220年、曹丕は帝位につくと何夔を成陽亭侯に封じ、300戸を与えた。
何夔は重病にかかると辞職を願い出たが、曹丕は「君には勲功も美徳もあり、神は必ず助けるだろう」と慰留した。
しかし逝去し、靖侯と諡された。

子の何曾(かそう)が後を継ぎ、晋の司徒にまで上った。(『何夔伝』)
また何曾は同郷で父とともに評判を取った袁覇の子の袁亮(えんりょう)と並び称され、親友でもあった。(『袁渙伝』)

陳寿は徐奕(じょえき)・邢顒(けいぎょう)とともに「厳格さを尊重し、その時代の名士となった」と評した。

「演義」には登場しない。



何休


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何顒  義に厚い英傑


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何勗


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何洪  何姫の弟


何洪(かこう)字は不明
揚州丹陽郡句陽の人(??~??)

呉の臣。
何遂(かすい)の子。
孫和(そんか)の側室の何姫(かき)の弟。

264年、孫皓は4代皇帝に即位すると、亡父の孫和に帝位を追贈し、母の何姫を皇太后に立てた。
叔父の何洪は永平侯に、その弟の何蒋(かしょう)・何植(かしょく)らも列侯された。

何洪が没すると、子の何邈(かばく)が後を継いだ。(『孫和何姫伝』)



何皇后  欲深すぎた霊帝の皇后


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何衡  何夔の従父


何衡(かこう)字は不明
豫州陳郡陽夏の人(??~??)

後漢の臣。
何夔(かき)の従父。

尚書を務め率直な発言をした。
そのため宦官に恨まれ、党錮の禁で官位を奪われた。
それを聞いた何夔は故事を引き「天地は閉ざされ、賢人は隠れた」と嘆き、首長の任命を断った。(『何夔伝』)



何氏


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何氏  李密の母


何氏(かし)名・字は不明
出身地不明(??~??)

李密(りみつ)の母。

「華陽国志」に曰く。
李密の祖父の李光(りこう)は益州朱提太守を務めた。父は若くして没し、母の何氏が再嫁したため、李密は祖母の劉氏(りゅうし)に育てられた。
後に李密はいわゆる「陳情事表」の中で「母は私が4歳の時に(※227年)おじに無理強いされて再婚した」と述べている。(『楊戯伝』)



何祇  蜀のいいかげん男B


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何遵  何曾の庶長子


何遵(かじゅん)字は思祖(しそ)
豫州陳国陽夏県の人(??~??)

晋の臣。
何曾(かそう)の庶長子。
「晋書 何曾伝」に附伝される。

才幹があり、若い頃から出世コースに乗り太僕まで上った。(『何夔伝』)

咸寧年間(275~280)のはじめ、弟の何劭(かしょう)とともに、袁毅(えんき)から賄賂を受けたとして弾劾された。司馬炎は「袁毅とは長年の付き合いがあり賄賂には当たらない」と弁護した。

278年に父が没すると、何遵は庶子だったため何劭が後を継いだ。(『晋書 何曾伝』)

散騎黄門郎・散騎常侍・侍中・大鴻臚を歴任した。
父・弟と同じく贅沢を好み、天子の倉で器物を作らせ売買したため、劉毅(りゅうき)に弾劾され、罷免された。
太康年間(280~289)のはじめに魏郡太守に招聘され復帰し、太僕に上ったが、また罷免され無官のまま没した。(『晋書 何遵伝』)

次男の何綏(かすい)もやはり贅沢を好み、驕慢だった。
讒言され司馬越(しばえつ)に永嘉年間(307~313)に誅殺された。(『晋書 何遵伝』・『何夔伝』)

かつて祖父の何曾は司馬炎の開いた宴に出た後、何遵ら子へ「国家は天命を受けて成立し、国政を後世へ伝えるものだ。だが私は宴席でただの一度も国家統治の目標を聞いたことがない。未来ではなく現在の話をするだけだ。これは子孫に残すものが無いという滅亡の兆しだ。お前達は没落し、孫らは滅ぶだろう」と言い残していた。
何綏が殺されると、兄の何嵩(かすう)はそれを思い出し「祖父は最高の聖人だった」と泣いた。(『晋書 何遵伝』)

永嘉年間(307~313)の末に何氏は滅亡し一人も残らなかった。(『晋書 何曾伝』)



何劭  父と同じく司徒・太宰に上る


何劭(かしょう)字は敬祖(けいそ)
豫州陳国陽夏県の人(??~301)

晋の臣。
何曾(かそう)の子。何夔(かき)の孫。
「晋書 何曾伝」に附伝される。

才能見識が深遠広大で、国を治める基本をわきまえていた。(『何夔伝』)

博学で文章に優れ、近代の知識は掌を指すように豊富だった。
司馬炎と同い年の竹馬の友で、太子に立てられると中庶子を務めた。(『晋書 何劭伝』)

正元年間(254~256)に父の何曾が駐屯地へ向かう時、司馬昭は子の司馬炎・司馬攸(しばゆう)に見送らせた。何曾は時に主人に、時に客となって一同をもてなし、馬の手綱を引く者まで全員が満足した。
司馬炎が帰る時、何劭の前を通った。何曾はあらかじめ客人が前を通るから威儀を正しておくよう言い含めていたが、何劭は衣冠を忘れており、しかもそのまま司馬炎を引き止めたため、何曾は叱責した。(『晋書 何曾伝』)

265年、司馬炎が即位すると散騎常侍に上り、大変厚遇された。
常に側に侍り、賓客が遠方から来ると必ず宿直した。朝貢があるたびにそれを何劭に与え、文書ではなく口上で礼を述べた。

咸寧年間(275~280)のはじめ、兄の何遵(かじゅん)とともに、袁毅(えんき)から賄賂を受けたとして弾劾された。司馬炎は「袁毅とは長年の付き合いがあり賄賂には当たらない」と弁護し、侍中尚書に転任させた。(『晋書 何劭伝』)

278年に父が没すると長男の何遵は庶子だったため次男の何劭が後を継いだ。何劭は太康年間(280~289)の末に上奏し、父の諡号を元へ改めさせた。(『晋書 何曾伝』)

賈充との政争に敗れた任愷(じんがい)は自暴自棄となり、酒に溺れて歓楽にふけった。特に美食にこだわり、何劭も美食家で知られ一食で国内の珍味を食べ尽くしたが、任愷はこれをも超え、食卓には箸の置き場も無かった。(『晋書 任愷伝』)

290年、司馬炎は危篤に陥ると、楊駿(ようしゅん)と司馬亮(しばりょう)に後事を託そうとした。だが楊駿は華廙(かよく)を通じて詔勅を手に入れると、それを秘匿した。
華廙は恐れおののき返還を要求したが、楊駿は拒絶し、娘で皇后の楊芷(ようし)に、楊駿へ後事を託すよう司馬炎へ勧めさせた。
そして華廙・何劭に遺詔を作らせ、一人で実権を握った。(『晋書 司馬亮伝』・『晋書 楊駿伝』)

290年、即位した司馬衷は、太子に幼い頃から帝王学を教育しようと、何劭を太子太師・通省尚書事に任命した。
後に特進に転じ、尚書左僕射に上った。

永康年間(300~301)のはじめ司徒に上り、301年に司馬倫(しばりん)が帝位を簒奪すると、太宰に任じられた。(※父も司徒・太宰に上っている)
三人の王が権力を争ったが、その間を平等に行き来したため誰からも恨まれなかった。

父に似て横暴で驕り高ぶり、豪勢を尽くした。衣服や身の回りの品は山と積まれ、食事は四海の珍味を集め、一日に2万銭まで使った。人々は何劭の食卓に加えるものは何もないと噂した。
だが権力には興味がなく、政争に巻き込まれずのんびり過ごしていた。
同郷の王詮(おうせん)には「私の名誉や地位は不相応に高いが、若い頃に記録に残るようなことは何もなかった。夏侯駿(かこうしゅん)とともに博士をやり込めた(?)くらいだ」と語った。
荀粲(じゅんさん)や王弼(おうひつ)の伝記を作り、諸々の奏議や文章を編集し世に広めた。

301年に没し、司徒を追贈され、康と諡された。
子の何岐(かき)が後を継いだ。(『晋書 何劭伝』)

「正史」には何蕤(かずい)が後を継いだと記されるが、誤りと指摘されている。(『何夔伝』)

袁粲(えんさん)が弔問に訪れたが、何岐は病気を理由に断った。
中正を務める袁粲は恨み、品(評定)を下げてやると言ったが、王詮が「何岐は以前から過失が多いのに、何劭が亡くなってから格下げしたのでは、あなたは強きを恐れ弱きを侮る者だと言われるでしょう」と諌められ、取りやめた。

永嘉年間(307~313)の末に何氏は滅亡し一人も残らなかった。(『晋書 何劭伝』)



何蔣  何姫の弟(2)


何蔣(かしょう)字は不明
揚州丹陽郡句陽の人(??~??)

呉の臣。
何遂(かすい)の子。
孫和(そんか)の側室の何姫(かき)の弟。

264年、孫皓は4代皇帝に即位すると、亡父の孫和に帝位を追贈し、母の何姫を皇太后に立てた。
叔父の何蔣も溧陽侯に封じられるなど一族の多くが列侯された。

何氏は権勢をほしいままにし、そのため人々は呉末期に「孫皓は死んでおり何氏の子弟が皇帝に成り代わっている」というデマまで流した。(『孫和何姫伝』)



何植  何姫の弟の司徒


何植(かしょく)字は不明
揚州丹陽郡句陽の人(??~??)

呉の臣。
何遂(かすい)の子。
孫和(そんか)の側室の何姫(かき)の弟。
字は元幹(げんかん)とwiki等に記されるが出典がわからない。

264年、孫皓は4代皇帝に即位すると、亡父の孫和に帝位を追贈し、母の何姫を皇太后に立てた。
叔父の何植も宣城侯に封じられるなど一族の多くが列侯された。(『孫和何姫伝』)

274年、孫奮(そんふん)が帝位につくという噂が流れた。
臨海太守の奚熙(けいき)はこれを受け国政を非難したため、三郡督の何植が逮捕に向かった。奚熙は兵を集め海路を遮断し抵抗したが、部下に裏切られ殺された。(『孫皓伝』)

「江表伝」には別の経緯が記される。
孫皓は寵愛する張氏(ちょうし)が没すると豪奢な葬儀を行い、喪に服し半年も姿を見せなかった。そのため人々は孫皓の葬儀だったと思い、顔の似た甥の何都(かと)が(影武者として)即位したと噂した。
奚熙はこの噂を真に受けて挙兵した。備海督の何植が討伐し、一族皆殺しにし、デマは下火になったが払拭までは行かず、人々は心中に疑いの念を残した。

陳寿も「何氏は権勢をほしいままにし、そのため人々は呉末期に「孫皓は死んでおり何氏の子弟が皇帝に成り代わっている」というデマまで流した」と記しており、この件のことだろう。(『孫和何姫伝』)

278年8月、牛渚都督から司徒に上った。(※『孫和何姫伝』には大司徒と記される。)

280年、晋の討伐軍が都に迫ると、孫皓は弱気にかられ何植に手紙を送った。「孫権様は3千の兵から国家の基礎を築かれた。(※孫策では?)しかし不徳の私は過ちを重ね、今や晋の大軍が迫っています。陶濬(とうしゅん)からの報告では、武昌より西ではもう戦う者もいない。それは物資の不足でも、城の守りが弱いからでもなく、将兵が戦いを放棄してしまったからです。これは私の罪です。天が呉を滅ぼすのではなく私が自ら招いたことです。4人の先帝に合わせる顔もありません。どうかあなたは素晴らしい謀略をめぐらされ、私に教えてください」(『孫皓伝』)

「演義」にも司徒として登場。晋の大軍が迫ると孫皓に善後策を問われたが、丞相の張悌(ちょうてい)だけが答え、一言のセリフも与えられなかった。



何真


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何進  肉屋、天下に号令す


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何遂  何姫の父


何遂(かすい)字は不明
揚州丹陽郡句陽の人(??~??)

呉の臣。
孫和(そんか)の側室の何姫(かき)の父。

騎兵を務めた。
孫権が軍営の視察をした時、それを見物していた何姫を遠くから見ただけで並の人物ではないと見抜き、後宮に入れさせ、息子の孫和に与えた。
後に4代皇帝となる孫皓が生まれ、即位すると何一族は栄華を極めた。(『孫和何姫伝』)



何双  何宗の早逝した子


何双(かそう)字は漢偶(かんぐう)
益州蜀郡郫県の人(??~??)

蜀の臣。
何宗(かそう)の子。

機知に富んだユーモアを飛ばしながら談笑する様は、淳于髠や東方朔ら古の名臣の面影があった。

双柏県長を務めたが早逝した。(『楊戯伝』)



何宗  図讖で劉備に皇帝即位を勧める


何宗(かそう)字は彦英(げんえい)
益州蜀郡郫県の人(??~??)

蜀の臣。

任安(じんあん)に図讖(予言)を学び、名声では同門の杜瓊(とけい)に勝った。

益州牧の劉璋(りゅうしょう)に仕え犍為太守となり、214年に劉備が益州を制圧すると従事祭酒に任じられた。
220年、図讖を用い劉備に皇帝即位を勧めた。(『楊戯伝』)
劉備を皇帝に推挙する上奏に従事祭酒として連名した。(『先主伝』)
帝位につくと大鴻臚に昇進した。

建興年間(223~237)に没した。
子の何双(かそう)は将来を見込まれたが早逝した。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「明晰かつ誠実で、陰陽の変化を広く指し示した」と評した。

陳寿は事績が残っていないため伝を立てなかったと「季漢輔臣賛」の注に記した。(『楊戯伝』)



何曾  魏の最後の丞相・晋の初代太尉


何曾(かそう)字は潁考(えいこう)
豫州陳国陽夏県の人(199~278)

魏・晋の臣。
何夔(かき)の子。

若くして父の爵位を継ぎ、学問を好み知識は豊富で、同郷の袁侃(えんかん)と並ぶ名声を博し、親友だった。(『袁渙伝』・『晋書 何曾伝』)

222年、曹叡が平原王になるとその文学(官位)を務め、226年に即位すると散騎侍郎、河内郡汲県の典農中郎将、給事黄門侍郎と次第に昇進した。
「郡の太守にこそ優れた人材を起用すべきである」と上奏し、後に散騎常侍に転任した。
238年、司馬懿が反乱した公孫淵(こうそんえん)の討伐を命じられると、司馬懿の官位(太尉)が高すぎて、もし反乱が起きた時に他に抑え込める者がいないことを憂慮し、副官を付けるよう上奏したが、曹叡は却下した。(『晋書 何曾伝』)

「志記」によると毌丘倹(かんきゅうけん)が副官に付けられた。(『明帝紀』)

河内太守を補佐して威厳があり、都に召され侍中となったが、母の喪に服すため官を辞した。

嘉平年間(249~254)の中頃に司隷校尉となった。
尹模(いんぼ)が曹芳の寵愛を笠に着てほしいままにしていたが、これを弾劾し称賛された。
曹爽(そうそう)が専横を極めると司馬懿とともに病と称して隠退し、249年に誅殺されると復帰した。
254年、曹芳を退位させる謀略に参画した。(『晋書 何曾伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に司隷校尉・潁昌侯として連名した。(『斉王紀』)

阮籍(げんせき)は歩兵校尉を務めていたが、服喪の礼にも従わず酒や肉を食い勝手気ままにしていたため、何曾は司馬昭の前で「君は礼に従わず風紀を乱す。忠義に篤く賢明な者が政治を行い、名実ともに揃っているか検討している。君は長くその官職にいるべきではない」と非難し、司馬昭にも追放するよう促した。
だが司馬昭は「彼は病気でやむを得ず飲食しているのだ。我が事と思い我慢できないか」と聞き入れなかった。
何曾はその後も故事を引き丁寧に反論した。司馬昭は却下したが、世人は何曾に畏敬の念を覚えた。(『晋書 何曾伝』)

「魏氏春秋」に曰く、阮籍は礼儀作法にやかましい何曾らに徹底的に目の敵にされたが、司馬昭が常にかばい続けたため天寿を全うできた。(王粲伝』)

「傅子」に曰く、傅嘏(ふか)は鎮北将軍の何曾・陳泰(ちんたい)・荀顗(じゅんぎ)・鍾毓(しょういく)とも親しく、いずれも朝政に携わる名臣だった。(『傅嘏伝』)

255年、反乱した毌丘倹が討伐されると、その息子の嫁の荀氏(じゅんし)も連座させられた。族兄の荀顗ら一族が助命嘆願したため釈放されたが、その娘の毌丘芝(かんきゅうし)も、既に他家へ嫁いでいたが逮捕されていた。
荀氏は何曾へ、自分が代わりに奴婢になるから娘を助けて欲しいと願い出て、同情した何曾は程咸(ていかん)に命じて審議書を作らせた。その中で「既に嫁いだ娘も連座させるのは、悪人の一族を殲滅したいからです。しかし男は他家の罪に問われないのに、女だけが嫁いだ後も実家の罪に問われるのは公平ではありません」と述べ、夫の家の罪にだけ連座するよう法改正させ毌丘芝を助けた。(『何夔伝』・『晋書 何曾伝』)

司隷校尉を長く務め、尚書に転任した。正元年間(254~256)に鎮北将軍・都督河北諸軍事・仮節になった。
駐屯地へ向かう時、司馬昭は子の司馬炎・司馬攸(しばゆう)に見送らせた。何曾は時に主人に、時に客となって一同をもてなし、馬の手綱を引く者まで全員が満足した。
司馬炎が帰る時、子の何劭(かしょう)の前を通った。何曾はあらかじめ客人が前を通るから威儀を正しておくよう言い含めていたが、何劭は衣冠を忘れており、しかもそのまま司馬炎を引き止めたため、何曾は叱責した。
(※何劭は司馬炎と同い年の竹馬の友であり、それに甘え礼を忘れたことを怒ったのだろう)

征北将軍に転任し、潁昌郷侯に封じられた。
咸熙年間(264~265)のはじめに司徒に上り、改めて朗陵侯に封じられた。(『晋書 何曾伝』)

264年、征北将軍から司徒に昇進した。

王に封じられた司馬昭を三公の王祥(おうしょう)、何曾、荀顗は祝福に訪れた。荀顗が拝礼しようと言うと、王祥は「王と三公の位階は一つしか変わらず、簡単に拝礼すべきではない。朝廷の名誉を損ない、王の人徳を傷つける行為だ。私はやらない」と断った。
結局、荀顗は拝礼したが王祥は丁寧に会釈しただけだった。司馬昭は「今日はじめてあなたの大きな愛顧がわかった」と王祥を称賛した。(『陳留王紀』)

一方で「晋書 何曾伝」では何曾のみ拝礼したと記されている。ただ他の二人は鄭沖(ていちゅう)と既に没している高柔(こうじゅう)と誤記され、いいかげんである。

265年、司馬炎が王位につくと丞相・侍中となり、帝位につくと太尉に転じ、朗陵公に進み領邑1800戸を与えられた。
泰始年間(265~275)のはじめ、司馬炎は何曾の功績を絶賛し、太保・侍中に任じ、後には司徒を兼任させた。何曾は固く辞退したが説得され、さらに太傅に上った。(『晋書 何曾伝』)

老齢のため王祥・鄭沖とともに引退を願い出ると、司馬炎は認めず、李憙(りき)と侯史光(こうしこう)は鄭沖・何曾・荀顗らは老齢で重病であるとして罷免を上奏したがそれも却下した。
だが何度も願い出るとついに折れ、何曾は太宰・侍中に昇進させた上で様々な特権を付け、引退を認めた。勅命で招く時には自ら食事でもてなし、二人の子に付き従わせた。(『晋書 何曾伝』・『晋書 鄭沖伝』・『晋書 王祥伝』)

性格は孝にして厳格で、妾を取らず妻を敬った。客人に対するように衣冠を正し、何曾は南に向き、妻は北面し、二度お辞儀をして酒を奉って杯を交わしてから出掛けるほどで、一年中このように儀式を行い、ほとんど誤らなかった。
傅玄(ふげん)は「周の文王のように孝行な者は何曾か、荀顗か。昔は曾参・閔子騫を称え、今は何曾・荀顗を称える。内は心を尽くして親に仕え、外は礼儀謙譲を尊重して天下に接する。孝子は百代に渡る大本で、仁者は天下の統率者である。よく仁と孝を実行する者は天下の模範である」と称えた。

一方で贅沢を好み、陣幕や車、服に至るまで豪奢を極め、食事は王よりも豪勢だった。司馬炎から命令を受けなければ官用の食事は口にせず、蒸し餅を作らせれば綺麗な十字型の裂け目ができなければ決して食べなかった。
日に1万銭を掛けて一日中食べ続け、劉毅(りゅうき)らは度を越していると弾劾したが、司馬炎は功績に免じて見逃した。

劉享(りゅうきょう)も贅沢を非難したが、何曾は彼を招聘した。劉享ははじめ断ったが、公平に私怨を抱かないべきだと考え直し応じたものの、何曾は彼を些細なことで殴った。外には寛大で内には厳しかった。
賈充が実権を握ると彼におもねり、庾純(ゆじゅん)と酒の飲み比べをする時でさえ周囲を扇動して賈充を助けた。

278年に没した。享年80。
秦秀(しんしゅう)はへつらう者を嫌悪したため「何曾は二世代に渡り恩寵を受け、一族を上げても重責に報えないのに、度を越した贅沢をし、義にのっとらず宰相のあるべき姿を見失っていた」とし諡号を「繆醜」としたが、司馬炎は却下し「孝」と諡し手厚く葬った。
長男の何遵(かじゅん)は庶子だったため(※妾を取らなかったはずでは?)次男の何劭が後を継いだ。何劭は太康年間(280~289)の末に上奏し、父の諡号を元へ改めさせた。(『晋書 何曾伝』・『晋書 秦秀伝』)

何劭も父に似て横暴で驕り高ぶり、豪勢を尽くした。衣服や身の回りの品は山と積まれ、食事は四海の珍味を集め、一日に2万銭まで使った。人々は何劭の食卓に加えるものは何もないと噂した。
だが権力には興味がなく、政争に巻き込まれずのんびり過ごしていた。
官位は父と同じ司徒・太宰に上った。

何曾は司馬炎の開いた宴に出た後、子へ「国家は天命を受けて成立し、国政を後世へ伝えるものだ。だが私は宴席でただの一度も国家統治の目標を聞いたことがない。未来ではなく現在の話をするだけだ。これは子孫に残すものが無いという滅亡の兆しだ。お前達は没落し、孫らは滅ぶだろう」と言い残していた。
孫の何綏(かすい)が殺されると、その兄の何嵩(かすう)はそれを思い出し「祖父は最高の聖人だった」と泣いた。

永嘉年間(307~313)の末に何氏は滅亡し一人も残らなかった。(『晋書 何曾伝』)



何定  犬好きの犬


何定(かてい)字は不明
豫州汝南郡の人(??~272)

呉の臣。

もともと孫権の側近だったが、宮中の仕事を辞めて小役人になった。おべんちゃらを使って上の者に取り入るのが上手く、自分は孫権の側近だったと上表し、また宮中に戻ることを希望し、孫晧は彼を気に入り楼下都尉に任じ、酒や穀物の買い入れを司った。
権力を笠に着て人事を壟断したが、孫晧は彼を寵愛し多くの事柄をその裁量に任せた。

愛犬家で国中の犬を買い集めさせたため価格が急騰し、犬一匹で絹数千匹に相当した。つなぐための紐も高騰して1万銭に上り、犬一匹に兵士一人をつけて守らせ、餌の兎が狩り尽くされた。人々は恨んだが孫晧は忠義者だとして列侯した。(『孫晧伝』)

皇帝のお気に入りとあって逆らえる者は少なかったが、孫晧にも諫言できた陸凱(りくがい)は面と向かって何定を「主君に忠を尽くさず、国政を傾け乱した者が、天寿を全うできた例があるか。なぜへつらいと悪事ばかりをして天子(孫晧)の耳を汚すのか。自らを行いを改めて善行に励まなければ、遠からず災いに遭うだろう」と非難した。
何定は酷く恨み中傷したが、陸凱は意に介さなかった。
269年、重病にかかった陸凱は遺言でも「何定を任用してはいけません。地方官として外に出し、国家の大事を委ねないでください」と孫晧に諫言した。
孫晧はかねてから陸凱の諫言をうるさく思い、何定も彼を何度も讒言していたため処罰したかったが、高位にあり、一族の陸抗(りくこう)が晋との国境を守っていたため手出しできなかった。後に陸抗も没すると、ついに陸凱の遺族を配流した。(『陸凱伝』)

賀邵(がしょう)も「何定はもともと召使いより下の身分で、一厘一毛の善行をしたわけでもなく、猟犬や鷹よりも役に立たないのに、陛下(孫晧)は彼が媚びへつらうのを喜ばれ、権力を与えました。その結果、何定は勝手気ままに振る舞い、賞罰をほしいままにし、口では国家の大事を正すのだと言いながら、手では国家の機密を弄んでいます。必要もないのに多数の兵で巻狩りをし、民衆を疲弊させ恨みを買いました」と激しく非難した。(『賀邵伝』)

269年、呉は虞汜(ぐし)や薛珝(せつく)、陶璜(とうこう)に荊州から、監軍の李勗(りきょく)、督軍の徐存(じょそん)に海路から交阯を攻めさせた。
翌270年、李勗は進軍に難渋し、案内役の馮斐(ふうひ)を殺すと撤退した。

何定は以前、李勗の娘を、息子の嫁に迎えたいと申し出たが断られ、恨んでいた。そこで「李勗はみだりに馮斐を殺し、勝手に撤退した」と讒言し、李勗と徐存の一家眷属を誅殺させた。幼い子供も殺され、死体は焼かれた。(『孫晧伝』)

孫晧は孫秀(そんしゅう)が皇族の中でも血の繋がりが濃く(孫権の弟の孫にあたる)兵権も持っているため反乱を危惧していた。
270年、孫晧は何定に5千の兵を預け、夏口で巻狩りをさせた。孫秀は以前から自分が陥れられるだろうという噂を耳にしており、ただの巻狩りではないと疑心暗鬼を生じ、妻子や子飼いの兵ら数百人を引き連れ晋へ亡命した。(『孫匡伝』)

271年、運河を築くよう建言し1万人が動員されたが、大岩が多く難儀し失敗に終わった。(『薛綜伝』)

翌272年、工事の失敗が原因か寵愛が薄れ、ついに自身が誅殺された。
死後には孫晧が憎む張布(ちょうふ)と悪事が似ていたという理由で何布(かふ)と改名させられた。(『孫晧伝』)

「演義」には登場しない。



何楨  寒門から大出世


何楨(かてい)字は元幹(げんかん)
揚州廬江郡の人(??~??)

魏・晋の臣。

文章と政治の才能を持ち、大変立派な容貌だった。(『管寧伝』)

「廬江何氏伝」に曰く。
神童と称えられた胡康(ここう)を、曹叡は秘書に任命し広く典籍を読ませた。
だが彼について尋ねられた秘書丞の何禎(かてい)は「才能はあるが性質がまっすぐではない。失敗するに違いない」と言った。
はたして後に過失を犯し咎められた。
(※何禎は何楨の別名か誤記だろう)(『劉劭伝』)

正始年間(240~249)に弘農太守の何楨ら魏の多くの重臣が胡昭(こしょう)を推挙した。(『管寧伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に永寧衛尉として連名した。(『斉王紀』)

魏で幽州刺史・廷尉を歴任し、晋でも尚書・光禄大夫を務めた。(『管寧伝』)

266年、呉の張儼(ちょうげん)は友好の使者として晋を訪れ、敵ながら羊祜(ようこ)や尚書の何楨と厚い友情を結んだが、帰路に病没してしまった。(『孫晧伝』)

272年、監軍の何楨が匈奴の劉猛(りゅうもう)を討伐し何度も撃破すると、李恪(りかく)が劉猛を殺して降伏した。(『晋書 武帝紀』)

陸機(りくき)・陸雲(りくうん)兄弟は、以前に父の陸抗(りくこう)を吾彦(ごげん)に「従兄弟の陸喜(りくき)に及ばない」と評されたのを恨み、「吾彦は極めて貧しい身分の出で交際する必要はない」と非難した。
尹虞(いんぐ)が「何楨・侯史光(こうしこう)・唐彬(とうひん)・張義允(ちょうぎいん)も低い身分から身を起こした」とたしなめ、兄弟は非難をやめた。(『晋書 吾彦伝』)

子らもそれぞれ何龕(かがん)は後将軍、何勗(かきょく)は車騎将軍、何惲(かうん)は豫州刺史に上り、多数(の一族?)が高官に上った。
子孫は宋代でも貴族として栄えた。(『管寧伝』)



何典  郭馬の乱に加担し蒼梧郡を攻める


何典(かてん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

279年、合浦太守の脩允(しゅういん)は桂林太守に転任となったが、病気のため広州に留まり、先に私兵隊長の郭馬(かくば)に500の兵を預けて桂林郡へ行かせ、異民族の慰撫に当たらせた。
ところが脩允はそのまま没し、兵は分割され各地へ転属させられることになった。郭馬らは父祖の代から同じ軍団に属しており、分かれることを望まなかった。
折しも孫晧は課税のため広州の戸籍を正確に調べようとしており、民衆は不安を抱いていた。郭馬は軍団の将の何典、王族(おうぞく)、呉述(ごじゅつ)、殷興(いんこう)らと共謀し、兵や民衆を扇動して蜂起した。

広州督の虞授(ぐじゅ)を殺し、郭馬が都督交広二州諸軍事・安南将軍を名乗るなど官位を僭称し、反乱軍は何典が蒼梧郡へ、王族が始興郡へ侵攻した。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始し、内外から攻められた呉は翌年に滅亡した。
その影響か郭馬の反乱の顛末は不明である。(『孫晧伝』)



何都  孫皓そっくりの甥


何都(かと)字は不明
揚州丹陽郡句陽の人(??~??)

呉の臣。
何洪(かこう)か何蔣(かしょう)の子?

孫皓は寵愛する張氏(ちょうし)が没すると豪奢な葬儀を行い、喪に服し半年も姿を見せなかった。そのため人々は孫皓の葬儀だったと思い、顔の似た甥の何都が(影武者として)即位したと噂した。
奚熙はこの噂を真に受けて何都を討とうと挙兵した。何植(かしょく)が討伐し、奚熙を一族皆殺しにし、デマは下火になったが払拭までは行かず、人々は心中に疑いの念を残した。

陳寿も「何氏は権勢をほしいままにし、そのため人々は呉末期に「孫皓は死んでおり何氏の子弟が皇帝に成り代わっている」というデマまで流した」と記しており、この件のことだろう。(『孫和何姫伝』)



何邈  何洪の子


何邈(かばく)字は不明
揚州丹陽郡句陽の人(??~??)

呉の臣。
何洪(かこう)の子。

264年、孫皓は4代皇帝に即位すると、亡父の孫和(そんか)に帝位を追贈し、母の何姫(かき)を皇太后に立てた。
叔父の何洪も永平侯に封じられるなど一族の多くが列侯された。

何洪が没すると、子の何邈が後を継ぎ武陵の監軍となったが、晋と戦い討ち死にした。(『孫和何姫伝』)



何攀  益州生まれの名軍師


何攀(かはん)字は恵興(けいよ)
益州蜀郡郫県の人(244~301)

晋の臣。

益州府に仕えて主簿に任じられた。
益州刺史の皇甫晏(こうほあん)が張弘(ちょうこう)に殺害され、張弘が皇甫晏は反逆したと誣告すると、母の喪に服していた何攀は梁州刺史のもとへ赴き弁護してやり、冤罪を晴らした。

後任の益州刺史に就いた王濬(おうしゅん)に別駕従事に招かれた。王濬は呉征伐を目論み、何攀を朝廷に送ると、司馬炎は張華(ちょうか)とともに策略を練らせた。
何攀はさらに呉方面の指揮官の羊祜(ようこ)のもとにも送られ計画を伝えた。司馬炎は何攀の意志伝達能力を高評価し、王濬の参軍事に任じた。

280年、呉征伐が成功し孫晧は王濬に降伏した。王渾(おうこん)が抜け駆けだと抗議すると、何攀は孫晧の身柄を王渾に移すよう助言し、争いを収めた。王濬の輔国大将軍府の司馬に任じられ、関内侯に封じられた。

滎陽県令に転任し10の施策を上表し非常に名声を得た。廷尉平に任命されると、廷尉卿の諸葛沖(しょかつちゅう)は何攀が益州出身であるため侮っていたが、ともに裁決を担当すると一転して賛嘆し感服するようになった。宣城太守に上ったが赴任前に散騎常侍に任命された。
楊駿(ようしゅん)が実権を握り、一族にばかり重職や報奨を与えたため、石崇(せきすう)とともにそれに抗議したが、司馬衷は受け入れなかった。
291年、楊駿が誅殺されると功績あり、西城侯に進み1万戸と絹1万匹を賜り、弟の何逢(かほう)と甥(兄の子)の何逵が列侯された。だが何攀は1万戸と絹5千匹を辞退し、残り5千匹も親族に分け与え、ほとんど手元に残さなかった。

公平で妥当であることを心掛け、職務においては静粛で、儒学を尊重し才徳ある人物を貴んだ。梁州・益州の中正を務めた時には陳寿・閻乂(えんがい)・費立(ひりつ)ら10年以上も誹謗中傷されていた人々の名誉を回復し招致した。
高位にありながら家は貧しく、妾や侍女・歌妓もおらず、窮乏した人々を救うことだけを考えていた。

翊軍校尉、東羌校尉と昇進し、揚州刺史を3年務め、大司農、兗州刺史と転任した。鷹揚将軍も加えられたが固辞して赴任せず、成粲(せいさん)・卞粋(べんすい)は中詔(役所ではなく宮中から直接出される詔勅)を下して赴任するよう厳しく命じたが、何攀は病と称して床から起き上がらなくなった。
301年、帝位を簒奪した司馬倫(しばりん)は詔勅を断られると激怒して処刑をちらつかせたため、やむなく参内したが、そのまま洛陽で病没した。享年58。
子の何璋(かしょう)が後を継ぎ、父の風格があった。(『晋書 何攀伝』)



何苗  何進と敵対した弟


何苗(かびょう)字は叔達(しゅくたつ)
荊州南陽郡宛県の人(??~189)

後漢の臣。

「英雄記」によると何太后(かたいこう)の同母兄で、朱氏(しゅし)と舞陽君(ぶようくん)の子。(『董卓伝』)
「後漢書」には何太后の父は何真(かしん)、何苗は異父弟と記される。
いずれにしろ何苗と兄の何進(かしん)とは血が繋がらない。

三兄妹は荊州南陽郡で屠殺業を営んでいたが、妹が霊帝に見初められ何皇后となったため何進はやがて大将軍へ上った。(『後漢書 后紀』)

187年、滎陽で賊徒が蜂起すると、河南尹の何苗が詔勅を受けて平定した。この功により車騎将軍に上り、済陽侯に封じられた。(『後漢書 何進伝』)

衛茲(えいじ)は車騎将軍の何苗、司徒の楊彪(ようひょう)に招聘されたが応じなかった。(『衛臻伝』)

189年、霊帝が没し何皇后の子の少帝が即位すると、何進は実権を握る十常侍ら宦官の排除に動いた。だが何苗と舞陽君は宦官と親密で賄賂を受け取っていたため、何太后へ何進が少帝を差し置き実権を握ろうとしていると吹き込んだ。
何進は宦官に対抗するため各地から兵を集め、火を放って脅した。何苗は兄へ「我々は貧しく卑賤の身から、宮中に取り立てられて富貴を得たのです。どうか和解してください」となだめ、決心を鈍らせた。
結局、何進は宦官によって暗殺された。部下の袁紹、呉匡(ごきょう)は異変を悟ると宮中に突入して宦官を殺し、何苗もそれに加わった。
だが呉匡はかねてから何苗が何進に逆らうのを恨み、宦官と結託しているのではと疑っていた。
そこで何進暗殺の黒幕であると糾弾し、董卓の弟の董旻(とうびん)とともに彼を殺した。(『後漢書 何進伝』)

車騎将軍長史に招聘されていた楽隠(がくいん)もともに殺害された。弟子の牽招(けんしょう)は遺体を守って帰郷した。(『牽招伝』)

その後、混乱に乗じて実権を握った董卓は何太后・少帝・舞陽君を殺し、何苗の墓を暴き遺体をバラバラにして道端に捨てさせた。(『董卓伝』)

「演義」でも母とともに宦官と結託し、何進暗殺の黒幕と糾弾され呉匡に殺された。



何茂  官渡の戦いで于禁に降伏した将A


何茂(かぼう)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

200年、官渡の戦いで于禁(うきん)は楽進(がくしん)とともに5千の兵で西南へ向かい、30以上の陣営を焼き払い、数千の首級と数千の捕虜を得て、何茂・王摩(おうま)ら20人以上の将を降伏させた。(『于禁伝』)



何某  張当から曹爽に贈られた女官B


何某(かぼう)名は不明
出身地不明(??~??)

魏の才人(女官)。
某は名ではなく不明の意味。

宦官の張当(ちょうとう)に選ばれ、張某(ちょうぼう ※同じく名は不明)とともに曹爽(そうそう)に贈られた。

249年、朝廷はそこに何か不正があるのでは疑い取り調べると、曹爽・何晏(かあん)と結託して謀叛を企んでいたと判明し、曹爽・何晏・張当らは処刑された。(『曹真伝』)

たまたま別件で逮捕された張当が謀叛を白状したという、どう見ても司馬懿の策略にしか思えない経緯であり、後に謀叛を企んだ李豊(りほう)も張当は陰謀に利用されたと述べている。(『夏侯尚伝』)

姓からして張某は張当の、何某は何晏の一族だろうか。ちなみに二人とも「ちくま版」の索引に載っていない。

「演義」では女官は亡き曹叡の妾に変更され、曹爽一派の非道さと傲慢さが強調された。また張当は本当に謀叛に関与している。



何曼  屮゜Д゜)屮 カマン!


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何雄


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和郁


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和嶠  銭癖


和嶠(かきょう)字は長輿(ちょうよ)
豫州汝南郡西平県の人(??~292)

晋の臣。
和逌(かゆう)の子。和洽(かこう)の孫。

若くして名を知られ、典雅な重々しさがあり、舅の夏侯玄(かこうげん)を模範とし自らを持して、世俗から抜きん出ていた。(『和洽伝』・『晋書 和嶠伝』)

名声高く、朝廷も在野の人々も誰もが風俗を整え人倫を治められる人物だと認めていた。(父が没すると)上蔡伯の爵位を継ぎ、起家し太子舎人となった。昇進を重ね潁川太守となり、清廉かつ簡素な統治を称えられた。
庾顗(ゆぎ)は面会すると「高くそびえ立つ千丈の松のようだ。ごつごつした節のように頑固ではあるが、家を建てるのに用いれば立派な棟や梁になる」と嘆息した。(『晋書 和嶠伝』)

ただし「庾峻伝」にも同じ逸話がありそこでは温嶠(おんきょう)に対して言われており、年齢からいって温嶠が正しいと思われる。(『晋書 庾峻伝』)

賈充(かじゅう)にも重んじられたため都に上り、給事黄門侍郎を経て中書令に上り司馬炎に厚遇された。
もともと中書監・中書令は同じ車に乗って入朝していたが、和嶠は中書監の荀勗(じゅんきょく)の人となりを嫌っており、剛毅な態度で席を独り占めしたため、同乗する制度は取りやめられた。(『晋書 和嶠伝』)

278年、杜預(とよ)が出征する際に、皇后の一族で権勢を振るう楊済(ようせい)だけが見送りの席を離れ、和嶠に無理やり席に戻された。(『世説新語』)

280年、呉が制圧されると謀議に携わった功績により弟の和郁(かいく)が汝南亭侯に封じられた。和嶠も侍中に上り、任愷(じんがい)・張華(ちょうか)と親しくした。(『晋書 和嶠伝』)

王渾(おうこん)の娘を妻に迎え、妻の弟の王済(おうせい)と並び称された。
和嶠の庭に立派なスモモの樹があり、それを司馬炎に所望されたが、ケチな和嶠は数十個を献上しただけだった。
王済は彼の留守を見計らい、少年たちをけしかけてスモモを食い尽くさせ、挙げ句に樹を根こそぎ盗ませた。

後に失職した王済をそろそろ復職させようと司馬炎は考え、その際にどう言って反省させたものか和嶠に相談した。和嶠は「彼は才能高く豪放で(自尊心が高いからどうせ)屈服しないでしょう」と言った。
司馬炎は「恥を知ったか」と厳しく問責したが、王済は司馬炎を皮肉りつつ口だけの反省をし、彼を黙らせた。(『晋書 王済伝』)

家は王のように裕福だったが和嶠は極めて吝嗇で世間に非難され、杜預は春秋左氏伝を愛読する自身を「左伝癖」、和嶠を「銭癖」、馬を愛好する王済を「馬癖」と呼んだ。(『晋書 和嶠伝』・『晋書 杜預伝』)

極めて吝嗇で、さらに弟の和郁を名声が無いと軽蔑したため、和嶠の評判も落ちていった。(『和洽伝』)

陳寿は荀勗と和嶠の上奏により、諸葛亮の事績をまとめ「諸葛亮集」を著した。(『諸葛亮伝』)

司馬衷が太子に立てられると暗愚さを見抜き「太子は古風で純朴な人柄ですが、それゆえに教化の衰退したこの末世で家業を全うすることはできないでしょう」と暗に廃位を迫ったが司馬炎は黙ったまま答えなかった。
ある時、司馬炎は和嶠・荀勗・荀顗(じゅんぎ)に「太子が進歩した」と面会させた。荀勗・荀顗は「おっしゃる通りです」と褒め称えたが和嶠は「元のままです」と歯に衣着せず、司馬炎は不快そうに席を立った。(『晋書 和嶠伝』)

裴松之は官位の矛盾から創作と断じ、そもそも荀顗は既に没しているため荀愷(じゅんがい)の誤りだと指摘する。(『荀彧伝』)

和嶠は(司馬衷の暗愚さから)常に慨嘆を抱くようになり、意見が用いられないとわかっていながら反対し、国家のことを論じるといつも司馬衷への懸念を伝えた。司馬炎はそれを忠言だと理解していたが、はっきりした返答はせず、やがて和嶠とは将来の話をしなくなった。司馬衷の妻の賈南風(かなんぷう)にも和嶠の言葉は伝えられ、激しく恨まれた。
太康年間(280~289)の末に尚書になったが、母が没したため官を辞した。
290年、司馬衷が即位すると太子大傅を拝命し、散騎常侍・光禄大夫となった。(『晋書 和嶠伝』)

司馬遹(しばいつ)が太子に立てられると少保に任じられ、散騎常侍を加官された。(※太子大傅は王戎(おうじゅう)が務めており、魏書はじめ多くが少保と記しており太子大傅ではなく太子少保の誤りと思われる)(『和洽伝』)

皇后となった賈南風は司馬衷を焚き付け「かつて私が家業を全うできないと言ったそうだが、今はどう思う」と聞かせた。和嶠は「確かに先帝(司馬炎)へそう申し上げました。それが外れたなら国にとって福で、私は罪から逃れるつもりはありません」と答えた。

292年に没し、金紫光禄大夫を追贈され、金章・紫綬を加えられ、官位も元のままとされた。
永康年間(300~301)のはじめ(※原文は永平。291年であり死去の前年になってしまい誤記だろう)に「簡伯」と諡された。

甥(和郁の子)の和済(かせい)が爵位を継ぎ、中書郎まで上った。
和郁も才能こそ兄に及ばなかったが清廉で才幹があり尚書令に上った。(『晋書 和嶠伝』)



和洽  確かな判断力


和洽(かこう)字は陽士(ようし)
豫州汝南郡西平県の人(??~??)

魏の臣。

孝廉に推挙され大将軍の何進(かしん)に招聘されたが応じなかった。袁紹が汝南の士大夫を招くと、冀州の地形や周辺の情勢から危険を感じ、一族を連れ荊州へ移り住んだ。荊州牧の劉表(りゅうひょう)は厚遇したが、彼を暗愚だと見立て、和洽は南に下り武陵に落ち着いた。

208年、荊州を制圧した曹操に招かれ丞相掾となった。
当時、崔琰(さいえん)と毛玠(もうかい)が人事を掌握し、節倹さに重きを置きすぎていることを批判した。

215年、漢中を制圧すると、和洽は放棄して住民だけを移すよう進言したが、曹操は却下した。
しかし219年、劉備の侵攻に耐えきれず漢中は放棄され、結局は和洽の言う通りになった。(『和洽伝』)

216年、魏が建国されると侍中となった。
同時に杜襲(としゅう)、王粲(おうさん)も侍中となった。王粲は記憶力に優れ見聞が広かったため、曹操はたびたび車に同乗させるほど厚遇したが、和洽・杜襲のほうが尊敬されていた。
ある時、杜襲だけが曹操に招かれ夜半まで語り合った。競争心の強い王粲が落ち着かず「いったい何を話しているのだ」と言うと、和洽はにやにやしながら「天下のことだから話せば切りがない。あなたは昼間に公(曹操)にお供すればいいのに、ここでいらいらしているのは、夜もお供したいからか?」と皮肉った。(『杜襲伝』)

同年、崔琰が曹操の怒りを買い処刑され、毛玠も誹謗の罪で投獄された。
和洽は「毛玠は剛直にして忠義公正で、とても信じられない」と再三にわたり調査を訴えた。曹操は聞き入れなかったが、毛玠は処刑されず免職に留められた。

郎中令を経て220年、曹丕が帝位につくと光禄勲となり、安城亭侯に封じられた。
226年、曹叡が即位すると西陵郷侯に上り200戸の領邑を得た。
太和年間(227~233)、高堂隆(こうどうりゅう)が異常気象は役人の職務怠慢が原因だと訴えると、和洽も同意し節倹を勧め、曹叡が血道を上げていた宮殿造営も遠回しに批判した。(『和洽伝』)

234年、先の献帝が没すると、曹叡は葬儀を催し、和洽にその霊を祀らせた。(『明帝紀』)

官位は太常に上ったが清貧を重んじたため、田畑や宅地を売って生計を立てるほどで、それを聞いた曹叡は余分に恩賞を与えた。(『和洽伝』)

官位は尚書令まで上った。(『晋書 和嶠伝』)

没年は不明だが逝去すると簡侯と諡され、子の和离(かり)が後を継いだ。

下の子の和逌(かゆう)が有能で廷尉に上り、その子の和嶠(かきょう)は「晋書」に列伝される名臣となった。(『和洽伝』)

陳寿は「清廉と和合を旨として仕事に当たった」と評したがひょっとしてダジャレだろうか。



和逌  和洽の詩は苦手な子


和逌(かゆう)字は不明
豫州汝南郡西平の人(??~??)

魏の臣。
和洽(かこう)の子。

父が没すると兄の和离(かり)が後を継いだ。

弟の和逌は抜きん出た才能を持ち、君主を助け人民を救済する功業を立て、廷尉・吏部尚書にまで上った。(『和洽伝』)

257年5月、曹髦は群臣に詩を作るよう命じたが、侍中の和逌や陳騫(ちんけん)は不得手でなかなか出来上がらず、担当官吏は罷免するよう上奏した。
しかし曹髦は「私は文学を愛し、詩賦で政治の得失を認識している。このような揉め事は意図していない。係官は群臣が昔の正しい道理を深く味わい学び、経典を習得できるようせよ」と詔勅を下し、二人を許した。(『高貴郷公紀』)

子の和嶠(かきょう)は「晋書」に列伝される名臣となった。
下の子の和郁(かいく)は名声で劣り兄の和嶠からも軽蔑されたが、公正・剛毅で知られ尚書令まで上った。(『和洽伝』)



和鸞  顔俊を殺し王秘に殺された賊徒


和鸞(からん)字は不明
涼州張掖郡の人(??~??)

賊徒。

張既(ちょうき)が雍州刺史を務めた頃(219年頃)、涼州では武威郡の顔俊(がんしゅん)、張掖郡の和鸞、酒泉郡の黄華(こうか)、西平郡の麴演(きくえん)らが反乱し、勝手に将軍を名乗って争いあった。
顔俊が母と子を人質に出して魏に援軍を求めると、張既は「顔俊は不遜と逆心を抱いており、(力を貸して)勢いを得れば即座に背きます。我々は蜀との戦いに集中すべき時ですから、介入せず共倒れを待つべきです」と言い、曹操も同意した。
1年余り経ち、顔俊は和鸞に殺され、和鸞も武威郡の王秘(おうひ)に殺された。(『張既伝』)



和离  和洽の子


和离(かり)字は不明
豫州汝南郡西平の人(??~??)

魏の臣。
和洽(かこう)の子。

父が没すると後を継いだ。

弟の和逌(かゆう)が有能で廷尉に上り、その子の和嶠(かきょう)は「晋書」に列伝される名臣となった。(『和洽伝』)



和連  檀石槐の後継ぎ


和連(かれん)
鮮卑の人(??~189)

鮮卑の大人(王)。
檀石槐(だんせきかい)の子。

「王沈魏書」に曰く。
光和年間(178~184)に檀石槐が没すると後を継いだ。
しかし和連は貪欲かつ淫乱かつ不公平で、部下の半数が離反していった。
しばしば国境を侵し漢を攻めたが、189年、北地郡の庶民によって弩で射殺された。
子の騫曼(けんまん)がまだ幼かったため、和連の甥(兄の子)にあたる魁頭(かいとう)が代わって大人の座を継いだ。
檀石槐の代までは選挙で大人が決められていたが、以降は世襲制となった。

騫曼が成長すると魁頭との間で後継者争いが起こり、以降、鮮卑の勢力は著しく衰えていく。(『東夷伝』)



柯吾  徐邈に討伐された羌族


柯吾(かご)
羌族の人(??~??)

羌族の有力者?

曹叡の代、涼州刺史の徐邈(じょばく)は柯吾を討伐して都亭侯に上り、領邑300戸と建威将軍を加えられた。(『徐邈伝』)



柯最


未作成



夏育  異民族と戦った後漢の校尉


夏育(かいく)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

177年、護烏丸校尉の夏育や田晏(でんあん)、臧旻(ぞうびん)らが鮮卑を攻めたが、檀石槐(だんせきかい)に大敗し無事に帰還できた兵馬は十分の一に過ぎなかった。(『鮮卑伝』)

184年頃、羌族が反乱し護羌校尉の夏育を攻撃すると、蓋勲(がいくん)や涼州の兵が救援したが、敗走し蓋勲も包囲された。
3つの傷を受けたがひるまず、近くの木を指差し「屍はここに葬れ」と命じた。羌族の滇吾(てんご)は彼に厚遇されていたため「蓋勲は賢人だ。殺したら天に背くことになる」と言い武器を振るって味方したが、蓋勲は「お前ら叛徒は死すべきだとなぜわからない。すぐに私を殺せ」と罵ったため、敵も味方も思わず顔を見合わせた。
滇吾は自分の馬を与えたがそれも拒否し、とうとう捕らえられたが、羌族は手出しせず(任地の)漢陽郡へ送り返した。
涼州刺史の楊雍(ようよう)は上表して蓋勲を漢陽太守とした。(『後漢書 蓋勲伝』)



夏逸  張登に助けられた守長


夏逸(かいつ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「王朗集」に曰く。
張登(ちょうとう)が県主簿の時、黒山賊に郡を襲われた。張登は県長の王雋(おうしゅん)とともに72人を引き連れて救援したが、敗れて散り散りになり、王雋もほとんど殺されるところだったが、張登が自ら一人の賊と格闘して助けた。
その後、守長の夏逸が冤罪になった時に張登は自ら拷問を担当して事実を暴き、助けてやった。
大理の王朗(おうろう)はこの2人の上官を助けた功績を上奏したが、多忙にかまけて顕彰されなかった。
220年、曹丕の代に鍾繇(しょうよう)とともに改めて上奏すると「忠義は顕著であり職務に功労がある」として張登は太官令(食膳長)に任命された。(『王朗伝』)



夏栄  王和平は尸解したと主張する弟子


夏栄(かえい)字は不明
出身地不明(??~??)

素性不明。

曹丕の「典論」に曰く。
光和年間(178~183)、王和平(おうかへい)は道術を好み仙人になろうと志した。
弟子の孫邕(そんよう)とともに都に赴いたが当地で没してしまい、孫邕は百冊の著書や数袋の仙薬とともに棺に収め葬った。
その後、別の弟子の夏栄が王和平は尸解(※死して仙人になること)したのだと言い、孫邕は貴重な本や仙薬を自分のものにしなかったことを長く悔やんだ。
曹丕は「(仙人などいないのに)古代から間違ったことを信じて馬鹿なことをしでかすのは一人だけではない」と皮肉った。(『華佗伝』)



夏氏  毛皇后の母


夏氏(かし)名は不明
出身地不明(??~??)

毛皇后(もうこうごう)と毛曾(もうそう)の母。毛嘉(もうか)の妻。

227年に娘が二代皇帝・曹叡の皇后に立てられ、毛一族は恩恵にあずかり、夫や息子はにわかに高位に上った。
だが夫の毛嘉は粗野な振る舞いを笑われ(『明悼毛皇后伝』)、息子の毛曾は名家の出の夏侯玄(かこうげん)に同席を恥と思われた。(『夏侯尚伝』)
やがて寵愛は郭氏(かくし)に移り、毛皇后は顧みられなくなった。

235年、夫の毛嘉が没した。
236年、夏氏が追贈され野王君となっており、それ以前に亡くなっていたことがわかる。

そして237年、曹叡は毛皇后へついに自害を命じ、毛一族の短い春は終わった。(『明悼毛皇后伝』)



夏舎  田豫の通訳


夏舎(かしゃ)字は不明
出身地不明(??~228)

魏の臣。

228年、護鮮卑校尉の田豫(でんよ)は、鮮卑の大人(王)の軻比能(かひのう)の娘婿である鬱築鞬(うつちくけん)に通訳の夏舎を殺されたため、軻比能と敵対する泄帰泥(せつきでい)と西部鮮卑の蒲頭(ほとう)とともに報復の兵を挙げ、鬱築鞬を撃破した。(『鮮卑伝』)



夏昭  壺口関を守った高幹配下A


夏昭(かしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

高幹(こうかん)の臣。

206年、曹操に攻められた高幹は壺口関の守りを夏昭・鄧升(とうしょう)に任せ、自身は匈奴へ救援を求めに向かった。
しかし失敗し、数人の従者とともに荊州へ亡命を図ったが途上で捕らえられ殺された。(『袁紹伝』)

夏昭・鄧升のその後は不明である。



夏大夫  管輅のおじ


夏大夫(かたいふ)名は不明
出身地不明(??~??)

管輅(かんろ)のおじ(母の兄弟)。
大夫は官位か。

248年12月28日、管輅は魏の実権を握る何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)に招かれ、夢占いをし、謙虚に努めるよう言った。鄧颺は「年寄りの言い草と同じだ」と文句を付け、管輅は「年寄りは生を超えた物を見られ、言い草の中には言葉を超えた深い意味が表れます」と答えた。何晏は「年が明けたらまた会おう」と言いお開きになった。
管輅が帰ってこのことを話すと、おじは言葉があけすけに過ぎると怒ったが、管輅は「死人と話しているのに何を恐れることがありましょうか」と言った。
10日余り経ち、年明けに何晏ら曹爽(そうそう)一派は粛清された。激怒していたおじは管輅に敬服した。

「管輅別伝」におじの名は夏大夫と記される。(『管輅伝』)

「演義」でもこの逸話は描かれるが名は記されない。



夏牟  西園八校尉・左校尉


夏牟(かぼう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「山陽公載記」に曰く。
188年、霊帝は西園八校尉を設置し、諫議大夫の夏牟を左校尉に任命した。(『後漢書 霊帝紀』)



華覈  孫皓と上手く付き合うも


華覈(かかく)字は永先(えいせん)
揚州呉郡武進県の人(??~??)

呉の臣。

はじめ上虞県尉となり、典農都尉を経て文章や学術の才を買われて都に上り、秘府郎、中書丞と昇進していった。(『華覈伝』)

孫亮の代に華覈・韋曜(いよう)・周昭(しゅうしょう)・薛瑩(せつえい)・梁広(りょうこう)が「呉書」の編纂を命じられた。(『薛綜伝』)

258年、陸胤(りくいん)は西陵の督へ転任し都亭侯に封じられ、後に虎林の守備に当たった。
華覈は「陸胤は天与の資質は聡明で万事に通じた才能を持ち、行いは清らかです。選曹としても刺史としても活躍し、人々や神々も感動し任地の異常気象も収まりました。任地を離れる際には多くの人々が彼を慕い移住しました。武力で脅すのではなく、恩徳と信義で人を集めた例は他にありません。交州を治め10年以上が経っても私腹を肥やすこともない得難い人物です。虎林の守備では役不足です。王室の股肱の臣に迎えるべきでしょう」と上奏した。(『陸胤伝』)

263年、蜀が滅亡すると孫休を慰撫した。(『華覈伝』)

ともに「呉書」を編纂していた周昭が処刑を命じられると弁護したが、聞き入れられず孫休は処刑させた。(『歩隲伝』)

翌264年、孫晧が即位すると除陵亭侯に封じられた。
267年、孫晧が宮殿の造営を始めると、民を苦しめるものとして批判したが、聞き入れられなかった。
後に東観令に上り、右国史を兼任するよう命じられると、それを辞退したが孫晧に慰留された。(『華覈伝』)

楼玄(ろうげん)が配流を命じられると上疏して弁護したが聞き入れられなかった。(『楼玄伝』)

269年、陸凱(りくがい)が没すると、子の陸禕(りくい)を「天与の剛直な資質を持ち、くじけることのない実行力を備え、人々を率いる才は魯粛(ろしゅく)にも勝ります。中央に召還された時も兵器や兵糧を損なわず迅速に戻りました。戦陣では果敢で、財貨に節度を持つ彼こそ、最前線の夏口を任せる適任者です」と推薦した。(『陸凱伝』)

271年、孫晧は予言を信じて母や妻を引き連れ洛陽へ向かった。東観令の華覈らが必死に引き止め、ようやく都に戻した。(『孫晧伝』)

同271年、何定(かてい)が建言した運河の工事が失敗し、監督した薛瑩(せつえい)は左遷された。
翌272年に何定が処刑されると改めて罪に問われ、薛瑩は配流された。だが右国史の華覈が「我々は呉書の編纂を命じられましたが、周昭・梁広は早くに亡くなり、韋曜は罪を犯し、薛瑩も失い進捗していません。私は彼らの下働きに過ぎず、このままでは完成しません。薛瑩ほど文才を持った者は無く、国家のためにも赦してください。呉書が完成した後ならばどこで野垂れ死にしても、心残りはありません」と上奏したため、孫晧は薛瑩を呼び戻し、左国史に任じた。(『薛綜伝』)

273年、韋曜が処刑を命じられた際も上疏して弁護したが聞き入れられなかった。(『韋曜伝』)

当時、世風が奢侈に流れていたためこれを正すよう上疏したり、人材の推挙や処罰の減免など、上奏は百通を越えたが、いずれも優れたものだった。
孫晧は彼が老齢であることから、上表を清書せずに出すことを許可したが、華覈は決して草稿のまま出しはしなかった。孫晧はそこで臣下を遣わせ、草稿が出来上がり次第、取り上げるように命じた。華覈は「凡庸な私のために申し訳なく、御命令にも背き難く誅伐も恐れますが、従おうとすると魂が消し飛び身体はもぬけの殻になってしまいます」と恐縮した。

だが275年、些細なことから譴責され、免職となり数年後に没した。
華覈と韋曜の上奏は広く世間に伝わった。(『華覈伝』)

陳寿は胡沖(こちゅう)の「華覈の文学的才能は韋曜をしのぐが、公式文書では及ばない」という評を紹介し「しばしば優れた建議をなし、自分の能力いっぱいに仕事をしようと心掛け、忠臣と呼ぶに相応しい」と評した。
また正史の最後に華覈の伝を置いたのは、「呉書」の編纂をした彼への敬意だろうと考えられる。

「演義」では魏を征伐しようとする孫晧に反対して免職され「この美しい国土が他人の物になるとは」と嘆息し隠遁した。

wikiに生没年は219~278年と記されるが出典は不明である。



華錡  孫奮に捕縛される


華錡(かき)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

252年、孫亮が2代皇帝に即位し、幼い彼に代わり諸葛恪(しょかつかく)が実権を握った。
諸葛恪は各地の要害に皇族が配置されているのを厭い、孫奮(そんふん)を武昌から豫章に移そうと考えた。
諸葛恪は手紙を送り、「華錡は先帝(孫権)の側近を務めた、真心があり正しい人物だが、あなたは彼の進言を聞き入れず、捕縛しさえした」等の悪事を、いつでも罪に問えると脅しを掛けた。(『孫亮伝』・『孫奮伝』)



華嶠  後漢書(漢書)の著者


華嶠(かきょう)字は叔駿(しゅくしゅん)
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

晋の臣。
華表(かひょう)の三男。
華歆(かきん)の孫。
「晋書 華表伝」に附伝される。

才気と学問に秀で若くして名声があった。
司馬昭の大将軍掾に招かれ、尚書郎、車騎将軍府の従事中郎を歴任した。
泰始年間(265~275)のはじめ、関内侯に封じられた。太子中庶子に移り、安平太守に任じられたが親の高齢を理由に赴任せず、散騎常侍に任じられ、領国子博士となり、侍中に移った。

かねてから「東観漢記」が煩雑だと考えており、折よく尚書郎に任じられ宮廷の蔵書を全て閲覧できるようになったため後漢王朝の史書の編纂に着手した。
光武帝から献帝まで195年の歴史を「後漢書」97巻で著した。(※原文は「漢後書」。経籍志や裴松之の注ではいずれも「後漢書」と記す。ただし裴松之は謝承の後漢書と区別し「漢書」とも記す)
華嶠は皇帝と皇后は並び立つ存在なのに、前身の「漢書」では「外戚伝」で一まとめにされているのを疑問に思い、「帝紀」の次に「后紀」を並べた。(※陳寿も同様にした)
荀勗(じゅんきょく)、和嶠(かきょう)、張華(ちょうか)、王済(おうせい)らは「文章は質朴で事実に忠実であり、司馬遷や班固のようで風格がある」と称え、宮廷に所蔵するよう提言した。すぐに採択されなかったが、司馬亮(しばりょう)・衛瓘(えいかん)らも支持したため所蔵された。
著作は数十万言あり、上奏した政策も多く採用された。

289年、司馬炎は病気がちだったが頻繁に宴会を開いたため、華嶠が少し諫言をすると手ずから詔勅を与え感謝された。
元康年間(291~299)のはじめ、宣昌亭侯に進んだ。
291年、専権を振るう楊駿(ようしゅん)が誅殺されると楽郷侯に改封され、列曹尚書に移った。
後に博学多識で著書も称えられ秘書監に転任し、散騎常侍を加えられた。中書監と同等の待遇を受け、様々な書類を担当した。

293年に没した。
少府を追贈され、簡と諡された。

大の酒好きでしょっちゅう泥酔し(それが祟り?)編纂中の十典が完成しないまま没した。何劭(かしょう)は次男の華徹(かてつ)に引き継がせたが、またも完成前に没した。
繆徴(きゅうちょう)が再び上奏し末子の華暢(かちょう)に引き継がせようやく完成した。華暢は文才あり数万言の文章を残し、魏・晋の史書の草稿も著した。
だが永嘉の乱により多くの蔵書が失われ、華嶠の「後漢書」も30余篇しか残らなかった。(※後にさらに失われ現存しない)(『晋書 華嶠伝』)



華歆  創作でおとしめられた男


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華彦  袁譚の佞臣A


華彦(かげん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

「袁紹伝」の注に引く「九州春秋」にのみ登場。
「袁譚は華彦、孔順(こうじゅん)ら邪悪な小人を信頼して腹心とし、王脩(おうしゅう)らは顧みられずただ官位についているだけだった」と記される。(『袁紹伝』)

ただ「王脩伝」を見る限りそこまで冷遇されてはいない。



華周  華歆の三男


華周(かしゅう)字は不明
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

魏の臣。
華歆(かきん)の三男。

甥の華嶠(かきょう)の「譜叙」に曰く。
黄門侍郎、常山太守を務めた。
博学で文学的なひらめきがあったが、中年で病にかかり、官を辞して家で没した。(『華歆伝』)

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