和嶠 銭癖
和嶠(かきょう)字は長輿(ちょうよ)
豫州汝南郡西平県の人(??~292)
晋の臣。
和逌(かゆう)の子。和洽(かこう)の孫。
若くして名を知られ、典雅な重々しさがあり、舅の夏侯玄(かこうげん)を模範とし自らを持して、世俗から抜きん出ていた。(『和洽伝』・『晋書 和嶠伝』)
名声高く、朝廷も在野の人々も誰もが風俗を整え人倫を治められる人物だと認めていた。(父が没すると)上蔡伯の爵位を継ぎ、起家し太子舎人となった。昇進を重ね潁川太守となり、清廉かつ簡素な統治を称えられた。
庾顗(ゆぎ)は面会すると「高くそびえ立つ千丈の松のようだ。ごつごつした節のように頑固ではあるが、家を建てるのに用いれば立派な棟や梁になる」と嘆息した。(『晋書
和嶠伝』)
ただし「庾峻伝」にも同じ逸話がありそこでは温嶠(おんきょう)に対して言われており、年齢からいって温嶠が正しいと思われる。(『晋書 庾峻伝』)
賈充(かじゅう)にも重んじられたため都に上り、給事黄門侍郎を経て中書令に上り司馬炎に厚遇された。
もともと中書監・中書令は同じ車に乗って入朝していたが、和嶠は中書監の荀勗(じゅんきょく)の人となりを嫌っており、剛毅な態度で席を独り占めしたため、同乗する制度は取りやめられた。(『晋書
和嶠伝』)
278年、杜預(とよ)が出征する際に、皇后の一族で権勢を振るう楊済(ようせい)だけが見送りの席を離れ、和嶠に無理やり席に戻された。(『世説新語』)
280年、呉が制圧されると謀議に携わった功績により弟の和郁(かいく)が汝南亭侯に封じられた。和嶠も侍中に上り、任愷(じんがい)・張華(ちょうか)と親しくした。(『晋書
和嶠伝』)
王渾(おうこん)の娘を妻に迎え、妻の弟の王済(おうせい)と並び称された。
和嶠の庭に立派なスモモの樹があり、それを司馬炎に所望されたが、ケチな和嶠は数十個を献上しただけだった。
王済は彼の留守を見計らい、少年たちをけしかけてスモモを食い尽くさせ、挙げ句に樹を根こそぎ盗ませた。
後に失職した王済をそろそろ復職させようと司馬炎は考え、その際にどう言って反省させたものか和嶠に相談した。和嶠は「彼は才能高く豪放で(自尊心が高いからどうせ)屈服しないでしょう」と言った。
司馬炎は「恥を知ったか」と厳しく問責したが、王済は司馬炎を皮肉りつつ口だけの反省をし、彼を黙らせた。(『晋書 王済伝』)
家は王のように裕福だったが和嶠は極めて吝嗇で世間に非難され、杜預は春秋左氏伝を愛読する自身を「左伝癖」、和嶠を「銭癖」、馬を愛好する王済を「馬癖」と呼んだ。(『晋書
和嶠伝』・『晋書 杜預伝』)
極めて吝嗇で、さらに弟の和郁を名声が無いと軽蔑したため、和嶠の評判も落ちていった。(『和洽伝』)
陳寿は荀勗と和嶠の上奏により、諸葛亮の事績をまとめ「諸葛亮集」を著した。(『諸葛亮伝』)
司馬衷が太子に立てられると暗愚さを見抜き「太子は古風で純朴な人柄ですが、それゆえに教化の衰退したこの末世で家業を全うすることはできないでしょう」と暗に廃位を迫ったが司馬炎は黙ったまま答えなかった。
ある時、司馬炎は和嶠・荀勗・荀顗(じゅんぎ)に「太子が進歩した」と面会させた。荀勗・荀顗は「おっしゃる通りです」と褒め称えたが和嶠は「元のままです」と歯に衣着せず、司馬炎は不快そうに席を立った。(『晋書
和嶠伝』)
裴松之は官位の矛盾から創作と断じ、そもそも荀顗は既に没しているため荀愷(じゅんがい)の誤りだと指摘する。(『荀彧伝』)
和嶠は(司馬衷の暗愚さから)常に慨嘆を抱くようになり、意見が用いられないとわかっていながら反対し、国家のことを論じるといつも司馬衷への懸念を伝えた。司馬炎はそれを忠言だと理解していたが、はっきりした返答はせず、やがて和嶠とは将来の話をしなくなった。司馬衷の妻の賈南風(かなんぷう)にも和嶠の言葉は伝えられ、激しく恨まれた。
太康年間(280~289)の末に尚書になったが、母が没したため官を辞した。
290年、司馬衷が即位すると太子大傅を拝命し、散騎常侍・光禄大夫となった。(『晋書 和嶠伝』)
司馬遹(しばいつ)が太子に立てられると少保に任じられ、散騎常侍を加官された。(※太子大傅は王戎(おうじゅう)が務めており、魏書はじめ多くが少保と記しており太子大傅ではなく太子少保の誤りと思われる)(『和洽伝』)
皇后となった賈南風は司馬衷を焚き付け「かつて私が家業を全うできないと言ったそうだが、今はどう思う」と聞かせた。和嶠は「確かに先帝(司馬炎)へそう申し上げました。それが外れたなら国にとって福で、私は罪から逃れるつもりはありません」と答えた。
292年に没し、金紫光禄大夫を追贈され、金章・紫綬を加えられ、官位も元のままとされた。
永康年間(300~301)のはじめ(※原文は永平。291年であり死去の前年になってしまい誤記だろう)に「簡伯」と諡された。
甥(和郁の子)の和済(かせい)が爵位を継ぎ、中書郎まで上った。
和郁も才能こそ兄に及ばなかったが清廉で才幹があり尚書令に上った。(『晋書 和嶠伝』)
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